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10、ひどいこと




 ガチャリという鍵の閉まる音に、亜佐は体を震わせる。亜佐の部屋には鍵はついていなかったが、ここにはあるらしい。

 いざとなればベルタが助けに入ってくれるだろうという考えは捨てざるを得ない状況になった。

 無意味だと分かっていても、どうにかならないかと部屋を見渡す。

 足元まで本が山積みになっているデスクに、応接間のようなソファとテーブルのセット、クローゼット、そしてロイリが三人ほど余裕で寝転ぶことができそうな大きなベッド。そのベッドに、ロイリは担ぎ上げていた亜佐をそっと下ろした。

 優しい手つきにまだ理性は充分残っているのではないかと期待したが、見上げた彼の顔、その赤い目が星のようにキラキラとしていて。

 伸びてきた手が頬に触れ、顔が近付いて、彼はまるで愛を囁くような甘い声で亜佐の考えを否定した。

「酷い事をすると思う」

「……はい」

 震える声で頷いて彼を見ると、腕が伸びてきて肩を捕まれベッドに押し付けられる。

 のし掛かったロイリが軍服のジャケットの内ポケットに手を入れた。そして、取り出したものを亜佐の手に握らせた。

「だから、お前に傷をつけようとしたら、刺してくれ」

 そう言った彼の顔には汗が浮いている。手の中のものを見る。折り畳みのナイフだった。首を激しく横に振る。そんな事、できるわけがない。

「何も心臓を刺せとは言ってない。腕とか足とか、死なない程度に刺してくれ。痛みで目が覚めるだろうから」

「できません……!」

「お前がいればすぐに傷は治る。できるな?」

 問いかけの返事を聞く前に、ロイリは微かに残っていただけの理性を手放したようだった。

 噛み付くようにキスをされる。熱い舌がぬるりと侵入してきて、亜佐はナイフを握り締める右手以外の力を抜いた。

 血の味が滲む。どちらかの口の中が切れたのかもしれない。時々唇が離れ、熱い吐息とともに「アサ」と名前が吐き出される。その声にとろけそうになっていた脳みそが、胸元を探る手によって現実に引き戻された。

 ロイリの長い指が器用にブラウスのボタンを外している。どうすればいいのか分からず空いている手で彼のシャツを掴んだ。今度はその手が背中に回り、撫でるように背筋を伝った後、ハイウエストのスカートに触れた。亜佐ですら仕組みがよくわかっていない背中の編上げを慣れた手つきで解いて、彼はそのまま亜佐の腰を持ち上げスカートを脱がせた。レースのついたスリップのようなものを着せられていたので、下着はまだ見えていない、はずだ。

「ロイリ……」

 泣きそうな声を出すと、彼は亜佐を見て額に触れ、キスを再開した。

 大丈夫、大丈夫と亜佐は自分に言い聞かせる。伊達に婚前交渉がそれなりに当たり前の国で生まれ育ったわけではない。死ぬわけでもないし、見ず知らずの男なわけでもない。カッコいいし優しいし命の恩人だし、何より初めてのキスも彼に奪われたのだ。大丈夫だ。初めては痛いらしいが、腕を刺された時の痛みに比べたら何ということはないだろう。

 するすると衣擦れの音が聞こえて、いつの間にかぎゅっとつむっていた目を開く。彼が片手でベルトを外し軍服のジャケットを脱いでいるところだった。唇が離れ、上半身を起こしてそれらをベッドの下に落とす。ネクタイを外してシャツのボタンも外して、その隙間から見えた大きな傷に亜佐は体を強張らせた。

 亜佐を庇った時にできた傷だ。赤く引きつっていて、顔をそらしたくなるくらい痛々しい。他にもいくつか切り傷が塞がったような痕はあるが、これが一番大きな傷だった。

 ロイリの手が亜佐の太ももに触れる。傷に釘付けになっている亜佐は抵抗する事ができない。手は撫でるように這い上がって、次は腰に。腹、胸と這って、最後に首筋に触れた。指が何度も首筋を撫でる。くすぐったいという表現しか、この感覚を言い表す言葉を亜佐は持っていなかった。

 やがて彼が何を撫でているのか気付く。頸動脈だ。

 ロイリの顔が首筋に埋まる。

「……っ、あ」

 何かが首に触れた。舌ではない。

 もっと固い、そう、牙だ。

 小さな痛みに体が跳ねる。皮膚を押すように牙が食い込む。

「ロイリ……」

 このまま食い破られるのだろうと痛みに耐えながら彼の名を呟いた瞬間、その動きがぴたりと止まった。

「アサ……」

 呻くような声だった。

「アサ……刺してくれ」

 ロイリが顔を上げる。苦痛に歪んだ顔が亜佐を見下ろしている。震えるように首を横に振った。

「アサ」

「嫌です!」

 悲鳴のような声を上げて、ナイフを持つ手を振り上げた。部屋の隅にナイフを放り投げようとした手を、ロイリが押さえ付ける。

 ナイフを奪い取って彼は刃を出した。

「やめてください! やめて!!」

 亜佐がロイリに飛びつくより一瞬早く、ナイフがロイリの腕に突き刺さった。そしてあろうことか、彼はそのナイフを腕から引き抜いた。

「ロイリ!!」

「……大丈夫、目が覚めたよ。最初からこうしておけば良かった」

 驚くほど冷静な声だった。一気に赤く染まったシャツに触れようとして動けなくなる。血がボタボタとシーツに落ちていった。

 二日前の光景がフラッシュバックする。薄暗い岩の隙間、土と落ち葉と鉄の臭い。そして血まみれで横たわるロイリ。

 頭を押さえる。死んでしまう、ロイリが死んでしまう。

 亜佐の掠れた悲鳴に、ドアに何かを叩き付ける轟音が重なった。ロイリがそちらを見る。亜佐にはそんな余裕はない。間髪入れずにもう一度。木のひしゃげる音に、さすがに亜佐も顔を向ける。

 扉の向こうには、女中の制服を太ももまでまくり上げ、扉を蹴破った足を振り上げたままのベルタがいた。その手には斧も握られている。

 鍵の辺りが斧で叩き壊されていた。辛うじて壁に引っ付いている扉を後ろ手で閉め、ベルタは斧を手にしたままふたりに駆け寄った。そして戸惑ったようにふたりの前で体の動きを止める。

 きっと亜佐の悲鳴を聞いて乗り込んできたのだろう。亜佐がロイリに襲われていると思いきや、血まみれになっているのはロイリだ。

「ロイリ、キスを……傷が……」

 彼の頬に触れようと伸ばした手を取られる。

「もう少し落ち着いてから。またお前に何をするか分からない」

「でも」

 ベルタは混乱している亜佐を上から下まで見て怪我がないことを確認し、斧を放ってポケットからハンカチを取り出してロイリの腕を取った。血の吹き出す腕に巻きつけ止血をしようとしたベルタを、ロイリは手で制す。

「いい」

「でしたらアサ様とキスを」

「……ベルタ」

「ご安心を、また暴走する事がありましたら、私がこれで脳天をかち割って差し上げます」

 ベルタはそう言って、足元の斧を拾い上げた。ロイリはその斧を奪い取り、ベッドの反対側へ放り投げる。

「お前は本当にやりかねん」

 ふたりの冗談なのか本気なのか分からないやり取りの間にも、ロイリの腕から血が流れ落ちていく。血の匂いに当てられて頭がくらくらとし始めた。ロイリのシャツにしがみついて、その顔を至近距離から見上げた。

「ロイリ、お願い……キスしてください……」

 彼の冷たい頬を両手で包む。唇を押し当てて、すぐに離した。彼が舌を入れてくれないとどうにもできない。懇願するように赤い目を見上げる。その目は大きく見開かれていた。

 大きな手がふらふらと亜佐の剥き出しの肩に触れ背中に触れ、引き寄せようと力がこもって、そして弾かれたように離れた。

 彼の視線は首筋だ。また指が伸びてくる。

「これは……俺が……」

 ロイリの指が首筋の牙の痕に触れたようで、ぴりりと痛みが走った。思わず首をすくめると、彼の手が引かれる。その指先には血は付いていない。

 白い顔をさらに青くし、ロイリはベッドから立ち上がった。

「……軍に戻る」

「駄目です! 血が!」

「さっきキスしたばかりだから、まだ体の中に残ってる。すぐに治る」

 ベルタの手からハンカチを奪い取って、ロイリは血まみれのシャツを脱いだ。手と口を使って傷口にハンカチをきつく巻き付けると、クローゼットから新しいシャツを出す。

 彼を追いかけようとベッドから足を下ろすが、腰に力が入らずに立ち上がることができない。

「ロイリ……!」

 それでも追いすがろうとしてベッドの下に落ちたアサに、ベルタがベッドから剥ぎ取ったシーツを巻き付けて抱き上げた。

「ベルタさん、ロイリを止めて……!」

「ベルタ。早めに戻るから、それまで頼んだ」

 ベルタはロイリを見て、それから亜佐を見る。そしてロイリに視線を戻した。

「かしこまりました、ロイリ様」

「フレデリカを寄越す」

「はい」

 絶望を浮かべながらベルタを見る。彼女は亜佐の方を見ないようにしているようだった。

 ロイリはあっという間に壊れたドアから出ていった。

 ベッドにゆっくりと降ろされた亜佐は、ロイリの匂いのするシーツを握りしめたまま、ただ泣くことしかできなかった。





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