1、人間の降る国
何をしようとしていたのか覚えていない。
どこに行こうとしていたのか覚えていない。
土砂降りの雨の中、亜佐は傘もささずに水たまりを踏まないよう俯いて歩いている。もうパンプスの中はぐっしょり濡れていて、その行為はあまりにも無意味だ。
ただ誰かが名前を呼んでいて、それをずっと探していた。なのに赤い雨は視界を遮って、ここがどこなのかも分からなくしてしまう。
両手を差し出すと、少し粘つく赤い雨粒がいくつも手のひらを赤く汚した。その液体が滴り落ちる水たまりを見下ろす。その中には、同じように赤く染まった自分の姿。にっこり笑って手招きをしている。
こんな所から呼んでいたのか。誘われるがまま、足を血溜まりに踏み入れた。
波紋が広がる。ゆっくりとゆっくりと、足が地面に沈み込むのを感じた。
不思議と恐怖はなかった。頭まで埋まって、見えない空を見上げる。土の中はとても温かくて、落ち葉のいい匂いがした。
ゆっくりと落ちていって、突然地面から空へと放り出された。空に地面があった。足元には空だ。落ちているのか昇っているのかも分からない状況に身を任せる。どうせこれは夢だ。死ぬことはない。
青い空からくすんだ雲の中へ。水滴がぶつかって、雨の中を落ちているのだと知る。
森が見えた。緑の葉の間を、スローモーションのように通り過ぎ。雨に濡れた葉に手を伸ばした瞬間、全身に衝撃が走って亜佐は息を詰まらせた。
手足が痺れている。指を動かすと、雨に濡れた冷たい落ち葉に触れた。
夢から覚めたようだ。
上半身を起き上がらせる。体中がズキズキと痛む。それに落ち葉と土の上に寝転がっていたせいで、ワンピースもタイツも泥だらけだった。
亜佐は座り込んだまま途方に暮れた。ここは一体どこなのか。見たことがないくらい背の高い木々が鬱蒼と茂る森だ。どうやら人の手は入っていないようだった。
ここに来る前の記憶も曖昧だった。朝起きて大学に向かうために家を出て、大学には着いたのかどうかすら覚えていない。うんうんと唸り声を上げる。なぜ、こんな所で眠っていたのか。
ふと規則正しい何かの音が聞こえて耳をそばだてる。それはどんどん亜佐に近付いてきていた。
泥だらけの格好を見られるのは恥ずかしいが、このままでは遭難してしまうだろう。とにかく、誰にでもいいから森の外に連れて行ってもらわなければならない。
考えを巡らせているうちに規則正しい音はすぐそばまで来ていて、慌てて立ち上がって音の主を探す。それが馬の蹄の音だと気付いた時には、視界の端から黒い大きな馬が亜佐の真正面に飛び出していた。
悲鳴を上げて後ろにひっくり返る。馬は十歩ほど進んでいなないて止まった。
馬の背から男が飛び降りる。黒いレインコートのフードで顔が隠れているのに男だと分かったのは、見上げるほどの長身のおかげだ。
亜佐に近付いてフードを取った男を見て、思わず息を呑んだ。
西洋人だ。
映画の一場面を切り取ったような風景だった。黒い馬、黒いマントのように見えるレインコート、そして金の髪の男。
まるで俳優のようだと思った。男前というよりは、きれいな人だ。そう思った後で、どうしてこんな所で会うのがよりによって馬なんかに乗っている外国人なのかと絶望した。会話は通じるだろうか。英語はびっくりするほど苦手だ。
そんな亜佐の心配をよそに、男は一定の距離を取ったまま、それはそれは流暢に聞き慣れた言葉を発した。
「人間だな?」
言葉が分かると喜んだ後に、自分の体を見下ろし、彼を見る。どこからどう見ても人間だが、彼には小熊にでも見えたのだろうか?
「……はい」
「怪我はないか?」
亜佐は頷いた。体中がぎしぎしと痛むが、怪我はないはずだ。差し出された手を遠慮がちに握って立ち上がった。
「あの、ここはどこですか? 迷子になってしまって……」
とにかく居場所が知りたかった。直ぐに家に帰れる場所なのかどうか。
そう言えば鞄も何も持っていない。強盗にあって山の中に捨てられたのかもしれない。それなら早く警察に知らせなければ。
「ここは、君がさっきまでいた世界とは違う」
男はレインコートのボタンを外しながら、目を細めて言った。
「君達が吸血鬼と呼ぶ人類が治めている世界だ」
男にレインコートを頭から被せられる。
何を言っているのか理解できなくて、亜佐はぽかんと口を開けて彼を見上げた。
コートを脱いだ彼は、警察の制服にも軍服にも見える服を着ていた。少なくとも日本のものではない。そして腰に長い剣を下げている。
「……何ていう番組ですか?」
ようやく絞り出した言葉に、彼は眉毛ひとつ動かさない。
バレてしまったらもうネタばらしをしないといけないのではないか。人を騙して隠し撮って皆で嘲笑う、あの趣味の悪い番組のどれかなのではないか。そんなもの、一般人に仕掛けて何が楽しいんだ。
彼の手が伸びてきて、体を一歩後ろへ引く。しかし腕のほうが長かった。彼は着せてくれたレインコートのボタンをいくつかはめると、そばで草を食べていた馬を呼んだ。
「話は後だ。とにかく森を出よう。この辺りは治安が悪い。獣も出る」
「ま、待って! わけが、分からないんですけど……!」
違う世界? 吸血鬼? 一体何だと言うんだ。頼むから悪い冗談であってくれと亜佐は男を見つめたが、男は視線を亜佐の後ろへ向け眉間にしわを寄せた。
「こちらに来い」
差し出された手に首を振る。こんな得体の知れない男に近付くのなんて嫌だった。
一歩下がった亜佐の背後から、ガサガサと木を揺らす音が聞こえた。驚いて振り返る。右から左から、複数音がする。
「噂をすればだな」
男が呟いて、亜佐の肩を引いて庇うように前に出た。
「下がっていろ。離れすぎるなよ」
茂みの向こうを睨み付けながら、男は鞘から剣を引き抜いた。引きつった悲鳴を上げて、よろよろと三歩後ろへ下がる。
興奮した犬のような荒い息遣いが聞こえた。野犬かと身震いをした時、葉の隙間から、三頭の獣が頭を覗かせた。
「……な、に?」
犬ではなかった。狼、とも違う。ハイエナのような顔付きに見えるが、その毛は銀色に光っている。そして立派なたてがみと数え切れない尻尾、一番目を引いたのは、額に生えた短い2本の角だった。
こんな生き物見たことがない。
じりじりと近付く獣。先に動いたのは男だった。
長身に似合わない軽やかな動きで間合いを詰めると、剣が横に一閃を描く。血飛沫と獣の首がふたつ飛んだ。
振り向きざまに、背後に回り込んでいた獣に剣を振り下ろす。斬るというよりは殴る動きだ。短い断末魔を上げて獣が地面に突っ伏して動かなくなった。あっという間の出来事だった。
地面に尻餅をついて、口と鼻を手で覆って込み上げるものを我慢する。男は剣についた血を拭って鞘に収めると、亜佐を振り返った。
「早く森を出たほうがいいというのは分かってもらえたか?」
ゆっくりと頷いた。
見たことのない神話の生物のような獣、それをやすやすと仕留めた外国人の男。彼が話すたびに唇の隙間からちらちらと長く尖った犬歯が見える。その目は明るい茶色だと思っていたが、違う。赤だ。毒々しい赤だった。
違う世界だなんてまだ信じ切れていなかったが、とにかく今はこの男に従う事が一番安全だと亜佐は判断した。従わなければどうなるかも分からない。体を震わせながら立ち上がる。
彼は亜佐の後ろで怯えて竦んでいた馬を呼んでその手綱を掴んだ。
「乗れるか?」
俯いたまま首を横に振ると、男はひょいと馬に飛び乗り、そのまま亜佐を自分の前に引きずり上げた。悲鳴を上げた口に人差し指が押し当てられる。強い煙草の匂いがした。
「静かにしてろ、寄ってくるぞ」
「な、何、何が寄ってくるんですか? さっきのやつですか? 吸血鬼がいるのなら狼男とかゾンビとかですか?」
「ここを持って俺にもたれてろ。後ろから支えるから」
返事も聞かずに彼は馬の腹を蹴ったようだった。黒い馬は前足を蹴り上げ、想像していた数倍の速さで走り出す。
「汽車は……さすがに君を連れて乗るのは危ないか。隣街に車を置いている。それまで辛抱してくれ」
耳元で言われたがそれどころではない。馬だと思っていたこの黒い生き物の額に角が三本縦に並んで生えていて、驚いている最中だったからだ。
もういっそ気を失ってしまいたかった。
少し走って、男が低く呟く。
「……気付かれたか」
何にだ。何に気付かれたんだ。さっきの獣か狼男かゾンビかそれともフランケンシュタインか。
「落ちてくるのを見られたようだな」
「落ちる……?」
確かに、落ちてきた。しかしそれは夢だと思い込んでいた。雲よりも上から落ちてきたのに、地面に叩きつけられて無事なはずがないからだ。
「こんな雨の日に、君達人間が落ちてくることがある。雨の日、ということ以外時間も場所も法則性はない。俺も、落ちてくるのを実際に見たのは初めてだよ」
馬がぐんとスピードを上げる。雨粒が目に入って前が見えない。男の不思議な話に耳を集中させる。
「君は運が良かったな。俺より先に盗賊に見つかっていたら、もうまともな人生は送れなかったぞ」
盗賊。聞き慣れない言葉だが、悪い事をする集団だということは分かる。
――なら、この男は。
亜佐を馬に乗せ、どこかへ連れて行こうとしているこの男は一体何なのか。
亜佐が何を考えているのか分かったのか偶然か、男が声を上げた。
「そう言えば自己紹介をしていなかったな。ロイリ・クラウゼという。王国軍に所属している」
どうやら警察ではなく軍人のようだった。
「王都には落ちてきた人間を保護するための軍の施設がある。君もそこに連れて行く」
「保護……施設」
即座に頭に浮かんだのは刑務所のような施設だった。震える唇を開く。
「元の世界に戻る方法は」
「……残念だが、今のところない」
頭が真っ白になった。呼吸が乱れ、胸を押さえる。
戻れないなら、じゃあどうするんだ。あちらの世界では行方不明扱いになるのだろうか。ずっとずっと頑張って積み上げてきたものは、一体どうなるんだ。
「そんな……!」
「研究者はいる。研究は進んでいる。明日、明後日、帰る方法が解明される可能性だってある。希望は捨てるな」
子供にするような優しい声色で、ロイリは亜佐に言い聞かせる。そのおかげで、大声で叫びながら馬から飛び降りるという愚行を踏みとどまる事が出来た。
雨が顔にぶつかって、涙と混じってもうどろどろだ。嗚咽さえ漏らさなければ泣いていることは気付かれないだろう。
何度も大きく深呼吸をして、ようやく落ち着いて顔を上げる。それを見計らっていたかのように、ロイリが亜佐に尋ねた。
「君の名前を聞いてもいいか?」
「……林堂亜佐です」
「リンド? どっちが名前?」
「亜佐です」
「アサ・リンド……この国でもよくある名前だな」
まるでこちらの世界でも暮らしていけるように名付けられたようだなと、亜佐はぼんやり思った。
涙を拭って鼻をすすって、混乱した頭をなんとか整理して口を開く。
「落ちてきた人間以外はいないんですか?」
「絶滅した」
予想していなかった言葉に体を強張らせる。知性を持った人間が、そんなにあっさりと絶滅してしまうものなのか。
「俺たち吸血人にとって、人間の血は麻薬であり万能薬でもある。昔話を聞く余裕はあるか?」
「た、多分……」
聞くことはできるが、そんな話をしている余裕はあるのだろうかと思う。さっきの獣かフランケンシュタインか盗賊が、何かに気付かれたと言っていたというのに。ロイリは構わず話し出した。
「昔、船が発達して海の向こう、遠くまで行けるようになった頃だ。動物の血を好んで飲んでいた俺達の祖先は、海の向こうの大陸に、自分達とは少し違う人類が住んでいる事を知った。彼らは動物とは比べ物にならないほど美味い血を持っていた。祖先は彼らを人間と呼び、区別するために自分達の事を吸血人と呼んだ」
馬の速度が少し落ちる。ロイリは顔を上げて辺りを警戒すると、また亜佐の耳元に口を近付けた。
「人間の血は美味いだけじゃない。傷や病気をあっという間に治す魔法のような効果があった。しかし強い依存性もあった。一度摂取するとその人間の血しか受け入れられなくなる。耐性をつけることはできるが、長い時間がかかる。血を摂取することができないと、理性がなくなり、凶暴性が増して、最終的には廃人になるか死ぬ」
ぞぞと背筋が凍った。まだ全てを信じているわけではないが、それでも気持ちの悪い話だった。
「時の指導者がむやみに人間の血を摂取することを禁じる法を作ったが、もう後の祭りだ。あっという間に人間は狩られ、数を減らし……絶滅した。七百年前の話だ」
動物のようだと思ったが、そのものではないかと顔をしかめる。人間は乱獲され数を減らし、保護の対象となっている天然記念物と一緒だ。
ロイリが一瞬体を離し、懐から何かを取り出した。銃だった。喉の奥で悲鳴を上げるが、彼は気にした様子はない。
「銃を撃ったことは?」
「ありませんよ! 私は世界一平和な国で生まれ育ったんだから!」
悲鳴のような亜佐の声に合わせて、乾いた音が辺りに響く。
馬が驚いてたたらを踏んで、鋭いいななきを上げた。
「クソッ、この馬は……でかいのは図体だけか!」
ロイリはすぐに馬の体勢を立て直し、スピードを上げる。
「いたぞ! 人間だ!」
「お前ら撃つな! 人間に傷をつけるな! 価値が下がるぞ!」
後ろから怒鳴り声が複数聞こえ、振り返ろうとするがロイリに止められる。
「前を見てろ」
「な、なな、何……?」
やはり彼は答えてくれず、銃を持った右手を後方へ上げた。先ほどと同じ轟音が四度響く。あれは銃声だったのかと考える余裕もない。
「多いな」
キィンと耳鳴りの残る耳にロイリの声がかろうじて聞こえ、劣勢を知る。
突然進行方向に茶色い馬が飛び出してきた。馬に乗っている汚い身なりの男は、腕の長さほどの刃物を持っている。
殺されると思った時には、男の手から刃物がこぼれ落ち、その額に赤い穴が空いていた。後ろに血飛沫と何かが飛び散る。ぐらりと馬から滑り落ちた盗賊のそばを通り過ぎて、ようやくこれは現実なんだと気付いた。
ここは吸血鬼や盗賊がいて銃や刃物が飛び交う世界で、今は相手を殺さないと自分が命を落としてもおかしくない状況なんだと。
「……っ!」
掠れて悲鳴すら出なかった。ガタガタと震えだした体を、ロイリが手綱を持った手で抱き直す。
「アサ、落ち着け」
「いやっ、いや、怖い……!」
「大丈夫だ。俺が守ってやる」
その言葉は頼もしく、しかし完全に信じ切れるほど亜佐は子供ではなかった。
撃ち尽くしたらしい銃を懐にしまって、ロイリは腰に下げていた剣を抜いた。磨かれた刀身に一瞬だけ、真っ青な顔の自分が映ったのが見えた。
今出来ることは体を縮めて鞍を持ち、ロイリの邪魔にならない事だけだ。
「目を閉じてろ」
首を横に振る。目を閉じている間に、何をされたのかも分からずに死ぬのだけは嫌だ。
ぼろぼろと涙を落としながら前を見据える。
手首が飛ぶ、首が飛ぶ。視界に膜が張り始め、どこか画面越しに映画を見ているような気になる。脳が精神を守ろうとしているのかもしれない。
間合いを詰められ、至近距離で盗賊と目が合った。ギラギラと光る赤い目だ。
「若い女だ! こいつは高く売れ」
盗賊の言葉はそこで途切れた。喋るための首がもうついていなかったからだ。
素人目にもロイリが盗賊達を圧倒しているのは分かった。しかし、やはり数が多い。
じりじりと後退し、追いつめられた先は切り立った斜面だ。目の前の盗賊はまだ十人以上いる。皆、短いものから長いものまで剣を持っていた。
統率の取れていない乱雑な動きで盗賊達が押し寄せる。ロイリはひとりずつ確実に斬り伏せていったが、一番初めに怯えたのはロイリの馬だった。
大きく後ろへ下がった馬が、足を滑らせる。バランスが崩れ思わず馬の首に抱きついた。
盗賊に手を、ロイリに首根っこを掴まれる。力はロイリが上で、息をつまらせながら再び彼の胸の中へ引き込まれたが、盗賊の手は離れていない。そのせいでロイリの動きが制限される。
死にもの狂いで盗賊の手を引き剥がそうと爪を立てると、盗賊の敵意がロイリから亜佐へ移ったのが分かった。
「この、女ぁ!」
「アサ!」
頭上で刃が二本煌めく。ひとつはロイリのもの、ひとつは盗賊のナイフだ。
先に刺さったのはロイリの剣だ。深々と心臓に突き刺さった剣は一瞬にして盗賊の命を奪ったが、振り下ろされたナイフの勢いは止まらない。
頭を手で庇う。右腕に何か冷たいものが突き刺さった。その一瞬後には腕に火を押し付けられたような激しい痛みが走り、ロイリの叫ぶ声は空気を切り裂くような亜佐の悲鳴にかき消された。
痛みに前屈みになりながら腕を見る。
右腕を深々と、ナイフが貫いていた。
想像していたより酷い見た目に、血が一気に足へ流れ落ちる。貧血を起こした脳が、耳鳴りとともに暗転した。
「アサ!!」
ロイリの叫ぶ声に一瞬だけ意識が戻ったが、馬から身を乗り出す彼の手には、触れることは出来なかった。