ブルーに傾ぐレールの向こうに
I
木々の頭を越え、急斜面を昇ってきたゴンドラの扉が開いた。
中から膨張した空気のかたまりと一緒に、乗客の笑顔も弾き出されてくる。歓声を上げながら真っ先に飛び出してきたのは、小さな男の子だった。その男の子を、「お兄ちゃん待って!」と言いながら、更にもう一回り小さな体の女の子が続く。
子供達の母親なのだろう。慌てた様子で周りの乗客に頭を下げながらゴンドラから一人だけ先に出してもらい、三人分のチケットを女性係員に渡すと、大きな声で「二人とも待ちなさい」と言ってゴンドラから続く昇り階段を駆け上げていく。
子供達は彼女の制止を聞くどころか、笑いながらどこかを目指している。笑い声は直ぐに遠のいていった。
突発的な騒ぎが去った後で、次の乗客達がチケットを渡す。
笑顔を保ったままの一群は、揃い合わせたかのようにバックパックやショルダーバックを担ぎ、まるで帰省本能に導かれた魚かなにかのように親子が通り過ぎて行った階段を昇っている。そして中に残っていた最後の乗客が、背中をかがめながらゴンドラの中から出てきた。出てきた男は右足を少し引きずっている。
息苦しいゴンドラの中でその男は、外の景色を見ることはなかった。ゴンドラに添乗するガイドの案内も、客同士の会話も耳にしていなかった。他の客よりも頭一つ分背の高い男は、ゴンドラの天井に顔を近づけ、心のどこかにある遠い時空間を見つめていた。そして今回の小旅行と、失くしてしまったもののことを漠然と考えていた。窮屈さから解放された男は、少し背を伸ばしながらチケットを渡す。渡された係員はちらっと男の足元に目を落とした後で、「お気をつけて」と笑顔で対応した。
彼女は若くて男好きする顔立ちだったが、男の興味を引くことはなかった。男は彼女を一瞥することなくゆっくりとゴンドラから離れていった。そして階段を一段ずつ昇る。
昇り切ると右にしか行けない。右に進む。しかしそれもすぐに行き止まりになり、今度は左に折れる。左に折れたところで、前方にステンレス製の背の低いゲートに目が止まり、そこで歩を止めた。
視線の先を足元から遠目に移すと、観光地の華やいだ空気感が伝わってくる。見た瞬間、懐かしさが体を包み込んだ。
初めて来たというのに、これは一体どういうことだろう。
訝しく思うがじっとしている訳にもいかない。男は右足をかばいながらステンレス製のゲートをすり抜けた。
ゲートを抜け先へ進むと、辺りは薄紅色の花びらを付けた桜の木々で囲まれている。男の目に映るのは、尾道千光寺公園の佇まいだった。満開の桜は今にも枝から零れんばかりに咲き誇り、まさに絶頂の様相を呈している。公園全体が放つ圧倒的な存在感と、透き通るような花びらの美しさに、男は思わず息を飲んだ。
言葉も忘れ、ただただ見入っていると、男の脳に一つの閃きが浮かんでくる。反射的に男は自分の足元を確認していた。
更に視線を周囲にも広げ、遠くの地面も確認する。
花びらはまだ、一片たりとも落ちていなかった。
男が感じた閃きとは、「もしかして」という出だしで、内容は、「ここの桜たちは、自分が来るまで散るのを待っていてくれたのではないか」というたわいもない妄想だった。
しかし微かな風が吹くと、辺りの木々を大きく揺する。
全体を動かすには余りにも微風すぎる。
「まさか…。ほんとに?」と考え出すと、急に正面に見える木が気になり始め、まるで自分を見ているような錯覚まで起こさせる。
その木から目が離せなかった。何が始まるのかと緊張すれば、男の視線を見つめ返すかのように、その木の枝から最初の花びらが離れていくのが見えた。無常が舞い落ちてゆく瞬間だった。
男は胸が熱くなった。心臓が拍動する。
大きく胸で息を吸い込めば、男の呼吸に呼応したかのように、目に映る木々から一斉に花びらが舞い始めた。そして花びらの飛散は強い風を誘い、男は一気に花吹雪の中に吸い込まれていった。
目の前が花びらでかすむ。思わず目を細める。男の体に桜の花びらが当たる。男はこのまま花びらに埋もれてしまえばいいのにと思った。自然と一つになりたい。そうなれば、過去の記憶もみんなこの風景の中に埋没してゆくに違いない。何もない幸せ。痛みも苦しみも孤独もない。悔むことも、自分を傷つけることもない。
男は匿名的な世界の一部分になることを夢見て目を閉じた。
しかし風が止むと、一気に現実世界に連れ戻される。
花びらは静止画像のようになり、しかも自分は風景と同化してない。はしごを外された男は、子供じみた発想を自嘲した。
男にとって記憶の消去とは、心に安寧をもたらし、同時に存在の否定を意味する。幾度か試したが徒労に終わった。男の望みは叶わなかった。そして自虐の間に男は知った。自己否定など出来るわけがないということを。いくら自分を否定したところで、記憶の絶対消去など到底出来はしない。腑抜け状態でも記憶は残るし、たとえ医学的に死亡と認められてもおかしくないような状態に陥ったとしても、記憶は失われない。そのことを、男は熟知していた。
☆
浅木はるかは待っていた。自分の咲く時期と、男の帰りを。
はるかを待たせている男は、企画・開発の仕事をしていた。
企画・開発と言えば聞こえはいいが、実態は出店会場に即席の売り場を作り、そこに自社商品を並べて販売する。会社説明会ではなかった内容の仕事だ。男が勤務する会社は、彼の将来にも、またはるかの未来にも、希望をもたらすものではなかった。
はるかは幼児教育を専攻し、念願だった保育士になっている。
彼女は一人子で、はるかの両親は浅木の家を継いでもらえる相手をはるかに求めていた。はるかが男と知り合ったのは、男が通う大学のバザー会場だった。そこで偶然にも共通の知人がいて、その知人の紹介で交際が始まった。その時すでに、男は東京に行くことが決まっていた。男の名前は中山真輔。お互いに卒業して、もう幾年もが経つが、男は相変わらず都内の売り場を点々と回り、生活の基盤が盤石になることもなく、ただ会社の一つの駒としての役割を果たす日々を送っている。そして保育園でのはるかは、名字の一字を取って、『あさ』先生と子供達から呼ばれるようになっていた。
二人は何処にでもいる遠距離恋愛の恋人たちのように、その日あった出来事や悩みをメールでやり取りする。メールをしている間は楽しいが、不安はぬぐい切れない。二人の将来を疑問視していた。
いつまでこの状態を続けられるのか。真輔は地元に戻ってくるのか、それともこられないのか。もし戻ってこられないなら、自分は彼を追って東京へ出て行くことになるのだろうかと…。
考えれば考えるほど、何もかもが未知の事柄で、不安にならざるを得なかった。何も知らないはるかの両親は、はるかに見合い話を薦めてくる。はるかの焦る気持ちは、男にも伝わっていた。
しかし男にはどうすることも出来なかった。出来ることと言えば、目の前の仕事を卒なくこなすこと。そして出来るだけ売上ノルマをクリアーして行くこと。それ以外に考えられなかった。追いまわされる業務に、心の余裕は生まれなかった。そのことは、はるかも感じ取っていた。理解できる。彼の立場は理解できる。
しかしそれでは、わたしの立場が苦しくなる。そのことが、彼にはどのくらい分かっているのだろうか。
ふと疑問に思う。このままの状態で、二人はいいのだろうか。
大丈夫なのだろうかと自問する。はるかは保育園の同僚としばし
ば出かけた。何かを忘れようと。何かを考えまいと。時間をやり過ごそうと。しかし一体いつまでやり過ごせばいいのだろうか。
一体いつまで、そんなことが可能なのだろうか。
いずれダメになる。問題を先送りにすることが出来ない日が、きっとやってくる。それは明白な事実だ。それでも…と、思う。そして真輔について考える。
どうしてわたしはこの男のことに執着しているのかと。
他に探せばいくらでも男はいるではないか。ただバスケットをしていて、人よりちょっとばかり背が高いだけの男。わたしを不安にしておいて、東京で自転車操業のような人生を送る男。何の保証もない。何のねぎらいや先の展望も認められないような会社に縛られている男。そんな男を、何故わたしは待っているのだろう。
別れられない理由が何処にあるのだろうかと。突き詰めれば突き詰めるほど、分からなくなる。もやもや感が疲れを運び、適齢期という言葉が追い打ちをかけ、更に焦りを加速させる。
そう。絶対に三十歳までには結婚して、子供を産んで、イヌかネコかを飼って、おしゃれなカブリオレの車に乗って、大学の友人を家に呼んで、彼を自慢しながら手料理を振る舞う。
そんな自分の夢が遠のいてゆこうとしている焦り。
その焦りを少しでも払拭するためにも、また、付き合いが悪い人と思われないためにも、浅木はるかは同僚の誘いを断らない。
それでも会えない淋しさ、会いたい切なさを消すことは出来なかった。メールの着信を気にする。入るはずのない昼間の時間帯。
子供達のお昼寝の時間に、そっとバックの中の携帯を覗く。そして「やっぱりね」と溜息をつく。
そんな時だった。カルチャーセンターのチラシを見つけたのは。
そこにはいくつかのコースがあり、その中に、『初級者からの写真』というのがあった。はるかはすぐに閃いた。
真輔の古い一眼レフが自分の部屋にある。学生の時に貸してもらってから、ずっと返さないでいたもの。返すと、何かよくないこと、悲しくなるようなことが起こりそうな気がして、わざと返さなかったカメラ。このカメラで写真を撮ろう。真輔のカメラで写真を撮れば、いつも一緒にいるような気分になれるかもしれない。
そう思ったのだ。
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最悪の日々がフラッシュ・バックして、自己嫌悪に陥った男は暫らくその場から動けなくなってしまった。しかし春の陽光が男のかたくなな心を解きほぐしたのか、男はまたゆっくりと歩き出した。
なるべく桜の花びらを踏まないようにする。右足がもどかしい。
前進すると二十段ほどの階段があり、そこを昇ったところに宇宙船のようなフォルムをした建物が見える。昇りを慎重にクリアーして近づくと、建物は展望台になっていた。人々が集っている。
一階部分は入口のみで、二階は全面ガラスに覆われ、柵しかないように見える屋上部分に人が立っている。宇宙船の周りも桜の木が植えられ、花びらで建物全体のフォルムは見え隠れしていた。
宇宙船の手前にはモニュメントがある。金色の裸婦像が右肩に子供を乗せ、その裸婦像の左側には、裸婦像と同じ金色のイヌがじゃれていた。台座に乗せられたそのモニュメントは、周りを杭とチェーンで囲まれている。像の前に立ち見上げると、肩に乗せられた子供は細長い管のような笛を持ち、楽しそうな表情をしている。
母親の方は確りと目を開き、何処かの方向を見ていた。
確信に満ちた目だと、男は思った。
少し風が吹く。また桜の花びらが舞う。地面に落ちている花びらを撒き上げ、そして新たに散った花びらと一緒になり、風に寄り添いながら流れてゆく。むせ返るような春の息吹が息苦しい。
太陽の周りには雲ひとつない。思わず上着を脱ぎたくなる。
絶好の行楽日和だが、男は自分には場違いだと思った。行楽地にはそぐわない。何処に飛ばされるか分からない桜の花びらの方がお似合いだ。しかし現実は違う。桜の花びらのようにはなれない。
悲しいことに、どんなに自暴自棄になってみたところで、目の前を流れ去る花びらのようには、人間は美しく散れないのだ。
もちろん、望み通りの結果を得ることもあるだろう。しかし自分はそうではなかった。虚ろな空気が充満する世界で、生息してゆくしかなかった。そこでは美徳を見つけられない。大切な何かを持たない時間の消費は、無以下だった。それでも次の日の朝がやってくる。思い出すとまた溜息がでる。
男はうつむき、モニュメントの前から離れた。
モニュメントの先には展望台からの続きで、平屋の建物がある。その建物の前には緋毛せんが敷かれた長椅子が設置され、人々が
くつろいでいた。誰も男を気にしない。男も目線を向けることなく、先へと進んだ。平屋の建物を過ぎると、なだらかな下り斜面が見える。道幅二メートルほどの斜面は、小さな石のブロックで覆われていた。下りは膝への負担が大きい。思わず気合いが入る。
慎重に降りなくてはならない。スロープはゆっくりとした左カーブを描いていた。カーブに沿ってツツジと桜の木が交互に植えられ、遠目に尾道水道が見える。桜の薄紅色と海のブルーが目に鮮やかだ。「本来なら…」と思うと、辛くなる。
即座に男は首を振り、考えまいと思った。
何も考えないで、このスロープを降りる。
そのことだけに集中しよう。感情の解放は、探し物が見つかってからでいい。手掛かりはある。このまま下って行けばいいはずだ。
それまで一切の感情を停止させる。いつか聞いたことがある。
人間の体は、三次元を探査するための乗り物だと。誰でも決められた運命があって、人間の体を離れる日がやってくる。そして人間の体を離れると、今度は霊体という体に乗って、霊界を探査するのだと…。だから今は、今回の探査が終わるまで、この体を維持しなくてはならない。途中で挫折したくない。再び右膝を壊したくない。
折角ここまで回復したのだからと思う。
長く苦しいリハビリだった。
長引いたのは、もうどうなっても構わないという自分自身に対するカタストロフィー願望もあったが、それと同時に、再起するのに、うんざりする程の損傷だったということも事実だった。
それでも男はここまでやってきた。やるせない思いの全てを払拭するために。しかし下り三十メートル程のスロープを目の前にすると足がすくむ。後戻りはできない。行くしかない。覚悟を決め左端に寄る。そして呼吸を整え、口を真一文字にしてココア色に塗られた手すりを左手で掴んだ。
男の背格好からして、手すりの位置が低過ぎて、バランスを取るのが難しい。慎重に足場を固める。そっと体を左側に傾斜させ、右足への負担を軽減させながら、ゆっくりと進み出た。時折、空と海を眺める。尾道の地形は山が海側に迫り、平野部が狭い。何もかもがタイトに感じる。眼下には国道も見える。
国道を挟んで立ち並ぶ小さな家並みが、まるでデジタルカメラに搭載されたトイモード機能で撮られた画像のように映る。
☆
カルチャーセンターの写真教室は隔週の日曜日で、午後からのスタートだった。何度か通う。いつも始まる少し前には着いていた。
講師は中年の男で、自分の父親とほぼ同年代か、あるいは少し上のようにも見える。テクニック的な話はあまりなく、とにかくシャッターを切ること。それも数多く。テクニックは後から付いてくるとの言い分だった。講師の言いたいことは大体分かる。頭より、実地体験だということ。はるかは、その通りだと思った。
明日のことは分からない。明日にならないと分からない。しかし明日になれば、それは分かるということだ。だから真輔との仲だって、そういうことだろう。言いたいことは山ほどある。
しかし言ったところで、何の解決にもならないし、ただの愚痴にしかならない。生産性もなく、活路にもならない。
そんな女にはなりたくなかった。あてのない未来にしがみつくのは不毛だという同僚がいる。その同僚は、はるかより一つ年下で、すでに結婚して子供も一人いる。週末には国産のワンボックスカーに家族と乗り込み、県北のキャンプ場へと向かう。
彼女は、はるかのオフの使い方を「ツマラナイ」とつぶやいた。休日はゆっくり起きて部屋の掃除をし、遅いブランチを取りなが
ら図書館から借りてきた本を読む。それが一番好きな時間の使い方だと話した、はるかに対する一言だった。
メールで真輔に文句を言う。真輔がいれば、そんな言われ方をしないでもすんだのに、とは書かない。そうではなくて、ひどい言われ方についてどう思うかと問いただす。そして、自分の時間の使い方について、「人には人の楽しみがあり、それをつまらないと言う権利は誰にもない」という内容の返事をもらい、少し溜飲を下げる。
真輔だって、戦っているのだ。ある意味、不毛と戦っている。
見えない明日と戦っていると言ってもいいだろう。いつまで続くのか。どこまで行けば、またいつまで待てば、二人の理想は現れるのか。現実が見えているあの子はいい。週末になれば車に乗り、何処かに行けばいい。そして想い出を作り、アルバムの写真を見て納得すればいい。その人生に。その結婚生活に。自分とは違う「ツマラナクナイ」時間を消費すればいい。
しかしわたしにも、わたしなりの矜持がある。
そう。自分にしか見えないものだってあるはずだ。
教室を離れ、近くにある畑に行く。そこで自分にしかヒットしないアングルを探すのだ。たとえそれが、無駄なシャッター音にしかならないとしても構わない。自分の父親の年齢に近い講師の言う通り、感じたものを感じたように写すだけ。構図なりテクニックなりは後からついてくる。今は畑のエンドウ豆を撮る。ピントをエンドウ豆に合わす。次にピントを背景に合わせ、エンドウ豆をぼかす。
アングルを変えてみる。背景を変えてみる。マクロで迫ってみる。
講師に借りた魚眼レンズで撮ってみる。虫はいないものかと探してみる。気がつくと、夢中になっている自分が、畑の中を這いつくばっていた。真輔がそばにいなくても、時間を燃焼している。
マイナスの思いが支配する海に沈まないで、快活に泳ぐ魚のように、楽しむことができている。
真輔という存在に、頼り過ぎていたのかもしれないと思う。
しかし反射的に、「異議有り」と動議をかける。頼るといっても頼りようがない。だっていつもそばにいないのだから。
故に自分はただの弱い子ではない。それが証拠に今、能動的かつ自発的な行為に夢中になっているではないか。
二次元的ではあるが、奥行きを感じさせる、その時その時の趣を、自分は切り取っているではないか。
まさに一期一会を楽しんでいる。これこそが自立したわたしを証明する、なによりの根拠だと…。
しかしたいしたことはしていない。それは理解している。
焦点を合わせ、シャッターを押す。それだけ。露出もシャッタースピードも考えていない。カメラの軍艦部についたダイヤルをオートにして、後はカメラにお任せ。いわば誰にでも出来ること。それでもはるかは満足だった。一眼レフカメラのシャッター音が耳に心地よさを与え、モータードライブの巻き上げ音が、どこか優越感を誘う。しかもデジタルではない、フィルムの写真機だということが、更に愛おしい時間を際立たせる。そして最も大切なこと。それは、手にするこのカメラは、真輔のものだということ。
そう。このカメラは、真輔のものなのだ。
わたしも…、と思ってしまう。このカメラのように、認知される存在になりたいと、つい思ってしまう。
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少しずつだが確実にバランスを保てるようになってきた。スロー
プの先には建物が見える。まずはそこまで行こう。
汗の量と共に高度も下がる。手の甲で額を拭いながら建物の前に
立つと、建物の左脇に合成樹脂で出来た小さな男の子と女の子の人形が待ち構え、それぞれの腕に巨大なソフトクリームを抱きかかえている。建物の外壁はベージュ色で、建物からは黒塗りの梁のような木枠が伸びていた。木枠は日除け用の白いテントを抱え、その木枠を支えるために二本の柱が建っている。
柱の足元にはレンガで仕切られた花壇と、メニューボードもあつらえてあった。黒い梁の上の部分には、『Petit anon』と店の名前が書かれてある。おそらく店内からは、美しい眺望を楽しむことができるのだろう。しかし休んではいられない。休むと、歩けなくなってしまう。立っていて平らな部分は、その欧風料理店の前だけで、また下りの傾斜が左側へと伸びている。男は『おのみち文学の館』という石碑を見つけ、その石碑の下の方に刻まれていた矢印の通りに進む。傾斜はさきほどよりは楽だった。
手すりを必要としないでも進める。案内を告げる沢山の標識が立ち、今度は『千光寺』と書かれた矢印に従った。
ゆるい傾斜の両脇には桜並木が続き、花びらの向こうには春の海が光っている。小さく深呼吸する。思わず顔がほころぶ。そして心から久しぶりだと思う。以前の自分と比べ素直になっている。
ずっと見えない相手と格闘してきた。答えを求めてもがくが疲れ
てしまい、濁った時間の中でヘトヘトになる。それでいて僅かでも気を許すと、匿名的な空間から男を押しつぶしてしまいそうな勢いで感情の束が襲いかかってくる。まるで制御が利かない。そんな日々の連続だった。いきなり突っ伏して泣く。心がヒリヒリする。心は見えないから傷の深さは認知されない。男が声を上げなければ、誰も分からない。助けを呼べばいいのに、悲鳴を上げればいいのに、男は声を上げない。痛みを堪える。呼吸するのさえ辛くなる。それでも被虐性は続き、痛みなどないのだと、自分に言い聞かせていた。
思い出すと見えない傷口が熱くなる。
心の痛みを癒そうとして、男は海に目を転じた。
海を滑るフェリーが見える。フェリーは短い海峡を渡り、向かいの島へと進んでいる。人や車を乗せ、毎日決められたルートを往復し、地域の日常を支えているのだろう。見ている風景は、最もこの地方を代表するシンボリティックなものに違いない。きっとこの風景は昔からずっとこのままなのだ。自分の境遇と照らし合わせると、余りにも穏やか過ぎて辛くなる。男は小さく首を振り、また歩き出した。行く手にベンチが見えた。海を見下ろすように二つ並んでいる。しかし座る者はいない。代わりにベンチの前には、空中にせり出すような様子をした巨石があり、その上で何人かが騒いでいた。
近づくと声が聞こえる。巨岩の名前を『ポンポン岩』だと誰かが誰かに教えていた。男ははしゃぐ人の群れを横目に先へと進んだ。
進むと文人たちの石碑がいたる所にあり、お堂も見えてきた。
お堂の前には階段がある。また右足をかばいながら昇る。
昇ると、『中国観音霊場第十番千光寺』と書かれた大きな木の立て札が人目を引き、お堂は巨木の枠組みで支えられ、空に浮いたように見える。そしてお堂の下が通り抜け出来る造りになっていた。
そこを通路として人々が行き交っている。男も不思議な造りのトンネルを抜ける。抜けるとまたすぐに昇りの階段がある。男は「またかよ」と思いながらその階段を昇る。昇ったところで初めて千光寺に来たのだなという実感が湧いてきた。
境内の中は迷路のような細い路地が入り組み、奇岩の数々が目を引く。土産物を売る台に人が群がり、鐘を突く『驚音楼』にも人が並んでいる。楼の右手をロープウエイのワイヤーが走り、背後の本堂からは読経が響く。観光客は眼下に広がる町並や尾道水道の美しさに顔をほころばせ、被写体はそれらを背景にポーズを作る。
男は千光寺からの眺望に目頭が熱くなった。
何度も頷きながら、「確かにそうだね」と虚空に向かって独り言を放てば、感情の高ぶりが抑えられない。男はうつむくしか手立てがなくなってしまった。しかしこのままではいられない。男は気持を切り替え、驚音楼から離れ、元きた道を引き返すことにした。
注意しながら階段を降り、お堂の下のトンネルを抜け、少し戻った辺りで町の方向へと下る道を見つけ、そこで立ち止まった。
あらましは聞いていた。この別れ道で合っていると思う。しかしそこからは先は、下りの階段が続いているのが見て取れる。
どうする。下手をすれば、途中で動けなくなるかもしれない。
男は大きく息を吐き、覚悟を決めた。階段を一段ずつ降り始めた。
降りる度にこのルートでいいと思う。そして同じ光景を見ているのだと思うと、心が高鳴った。
☆
見慣れた日常が過ぎて行く。孤独を意識しない限り、また独身を意識させられない限りにおいては、はるかの苦痛は軽かった。
むしろ気になるのは両親の方だった。
いつものように子供達のお昼寝の時間にメールのチェックをして、「やっぱりね」と思いながらも嫌気もささず、夜に出すメールの内容をあれこれと考える。自分としては、このままでもいいかもしれないとさえ考え始めていたからだ。
しかし運命みたいなものが自分にも用意されていて、それで真輔が地元に戻ってくれば、わたしを迎えにくるかもしれない。またもしかしたら勢い余ったわたしが、親に落胆を与えながらも東京に出て行くかもしれない。自分としてはどちらになっても構わない。
問題はいつ、そのような事態になるのかということだ。それまで、今の心の状態がキープできるのか、それが心配だ。
見合い話は適当に言い訳をして断り続けている。それでもかわしきれない時だけ、渋々会ってはみるが、やはり決断できずに、見合いの相手側に迷惑をかけることになる。両親は溜息をつきながらも娘を見守り、娘は確証のない運命の日を待ち侘びていた。
ちぐはぐな思いが空回りする。
はるかは自分でも不思議に思っていた。何故他の選択肢を思い浮かべることが出来ないのかと。
見合いでは、自分を断ってくる相手は一人もいなかった。少なくともそれは、自分は嫌われる存在ではないということだ。選ぼうと思えば、選べる状況にある。
確実な存在が目の前にあり、しかも両親が望むように浅木の名字を継いでもいいと言う相手さえいる。タンポポの綿毛のような真輔とは違う。これから先どこに落ち着くのか分からないような人間は、少なくとも見合い相手の中には一人もいないのだ。
それなのに…何故、と思う。
一体何が真輔との縁を繋いでいるのだろう。どれほどの力で結ばれているのだろう。疑問を明らかにしたいという思いから、手当たり次第に当たってみる。評判の占い師を訪ね、手相を見てもらう。生年月日で占う易者にも見てもらう。ネットでも調べる。しかし自分が納得するような答えは、なに一つとして見つけ出すことが出来なかった。過去の因縁因果や縁などというものは、誰にも見通せない。想像の域を脱することが出来ないのだ。
それが現実ならば、諦めて流れに身をまかすしか手立てはないのかと肩を落としてしまう。ふと出会った頃を思い出す。
真輔はぶっきらぼうなたちで、バスケット以外の話はあまり社交的ではなかった。人と交わるのは苦手なのだろうと思った。それでもはるかの話を真剣に聞いてくれた。
自分の置かれた環境が一人娘ということもあってだろうが、息苦しく感じながら生きてきたことを。いつか一人暮らしをしてみたいということを。子供が好きだから、保育園の先生になって、子供達の笑顔の中で暮らしてみたいということを、真剣に頷いてくれた。
両親は少し違う。両親は、自分と浅木家全体の将来を見ている。結果をだけを求め、プロセスはあまり重要視していない。
過程があって、結果がある。結果は先にこない。なのに、結果に
こだわる。わたしが苦労しないように、少しでも楽なようにと、確実なものだけを選ぶ。確かにそれはそれで一理も二理もある。
しかしわたしはペットではない。家のために生まれたとは思ってないし、思いたくもない。生まれた以上は、この一度きりの人生を、自分のものだと思いたい。大事なことは自分で決めたい。
人からコントロールされたくないのだ。それを我儘だといえば、そうなるのかもしれない。しかしそれでも、自分に忠実に生きてゆきたい。もしかしたら真輔に執着するのは、真輔が必要だからではなくて、自分の自由意思で決定できる部分としての真輔に執着しているのかもしれない。だとすれば、わたしにとって真輔は、リトマス試験紙のような役割を担う存在ということになってしまう。それが正解なら、彼に申し訳ないことをしているのだろうか? いや、違う。地元で辛抱強く待っている自分の努力と、相殺することは乱暴な発想ではない。いずれにしても今は動く時ではない。根拠はないが、そう思う。いつかどこかで、なにかが起きるような気がする。
その時まで待てばいい。その時がくれば、きっと自分自身にも確信が持てるような閃きがやってくる。動くのはそれからだ。
自分が納得できる状況になれば、たとえそれが見合いの延長線上に起きる出来事であっても構わない。
またそれが、両親を悲しませるような形になっても覚悟はできている。どちらにしても、今はじっとしている時だとはるかは思った。
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高鳴る気持ちと右足をかばいながら下ってきた。ふと息が切れ、幾つ目かの踊り場で歩を止めた。右膝に痛みが広がる。休息なしの下降に無理があったのか。立ち止っている踊り場を過ぎると、道は左に曲がり、またそこから先に下りの階段が見える。男の立ち位置からはそれ以上の確認は出来ないが、間違いなく下りは続く。
痛みを意識すると気が引けてくるが、このままではいられない。
考えまい。今は何も考えないで、ただひたすら降りてゆくことだけに集中しよう。男はそう自分に言い聞かせた。考えてはいけないのだ。そう。あの時も考えていなかった…。
何も考えないで、ただぼんやりとした空気感に浸りながら、滑るように車を走らせていた。不注意だと言われればそれまでだ。
車の運転も久しぶりだったし、スピードも出過ぎていた。周りの状況を確かめることもなく、しかも信号機はほぼ赤だった。それなのに交差点に突っ込んだのだから。
『類は友を呼ぶ』。よく似た人間は何処にでもいるもので、事故した相手もまさかと思っただろう。まさかこのタイミングで交差点に入ってくる車がいるとはと。信号待ちしていた車の中の一台が一気に飛び出す。男が乗る車の左フェンダー付近に激しく激突した。
男が覚えている映像は相手の車が迫ってくる瞬間と、大きな衝突音。次の瞬間男の乗る車が横倒しになり、方向感覚が分からなくなってしまったこと。そして衝突後に発するエンジンからの絶叫にも似た高回転の音だった。後のことは覚えていない。
その次に覚えているのは、聞き覚えのない誰かの声。その声が自分の名前を呼んでいる。必死で相手を見ようとするが、まぶしくて目が開けられなかったこと。
「中山さん! 中山真輔さん! 聞こえますか? 中山さんねー、車で事故されて、いま、集中治療室です。分かりますか?」
何度かうなずくが、そこでまた記憶が途絶えてしまった。
気がつくと、白い壁にクリーム色のカーテンが見える。
見た瞬間、以前男が見舞ったことのある病院だと直ぐに気がついた。思わず叫びそうになった。嗚咽しそうになるのを堪えると、頭の中がぐらぐらする。自責の念と口惜しさが何度も心に押し寄せてきた。何故生きているのだろう。何故死ねなかったのだろかと。
「もしかしてこれは罰なのだろうか」と自問する。「そうかもしれない」と自答すれば、あまりにも出来過ぎた演出に言葉も出ない。
そしてこの状況は、罰ではなく拷問に近いと思った。
男は事故の直前まで迷っていた。ラボ出しに行こうか、行くまいかと。散々迷った挙句、重い腰を上げたのだ。しかもその決断に至るまでに、二年近い日々が過ぎていた。それまで男は、カメラから抜き取ったフィルムを机の引出しの奥にしまい込み、腫れ物に触るような思いで月日を眺め生きてきた。都会を離れ地元に戻るが、働く場所と気概を見つけられなかった。やがて生活が乱れ始めた。
眠れなくなり、睡眠薬を飲む。睡眠薬が手に入らない時には酒を飲む。最初男の家族は男を心配したが、すぐにそれも変化する。男が暴れるのを恐れたからだ。家族の心配は諦めへと変わり、男は錨をなくした船のように、ゆらゆらと漂いながら自分の座標を更に見失っていった。酒と睡眠薬の量が増え、病院に担ぎ込まれる。時々聞こえない声が聞こえだす。その頃から男は、その声の主と直接会って話をしたと願うようになり、集めた睡眠薬を一気に飲んだ。
しかし会うことは出来なかった。何処からともなく男の願いを打ち砕く力が働き、男の願いを阻む。二度三度とトライしたが、結局会えなかった。男は天をなじる。しかしいくら不条理を嘆いて涙を流してみても、男は生きている。悶えるような日々が続いたある日、ふと気がついた。泣きたいのは相手の方だと…。
そのことに気づいてからは、もう泣けなかった。そして今度は自分が耐える番だと悟った。それから薬や酒の量が減り、家族の視線が和らいでいった。自分でも回復の兆しを感じる。しかし机の奥にしまったままのフィルムには触れることができなかった。何が写っているのか。おおよそ想像できる。風景が写っているのだ。
ただの風景だ。怯えるような内容ではない。それでも見るのが怖かった。見ると大切な何かが消えてしまうような気がして、現像に出せないでいたのだ。迷いと決断が交差する。やがて少しだけ勇気が勝った後で、男はフィルムを引出しから取り出した。
☆
真輔に長文のメールを送る。
写真が面白くなってきたことを。ファインダーを覗くと自分の世界が見えてくるような気がすることを。アングルを考え、焦点を合わせ、雲の動きを待ち、呼吸を整えることを。風にそよぐ被写体を探す。地面に影を落としながら移動する空中の生き物を探す。
シンメトリーな構造物を見つけ出し、それを何かの顔に見せる工夫をする。そしてなによりも、快活な自分を演出してみせる。自分は一人でも、強いのだということを意識してメールを打つ。
真輔も安心してくれる。自分が元気でいることを。
しかし手放しで真輔の安堵に同調できない。
はるかの心に、なにか特異な感覚が忍び込んで離れない。
もしかしたらこの恋は、このまま自然消滅する運命なのかもしれないと不安に思っているのだろうか。枯葉が枝から離れるように、季節が移ろうように、そして人の心が定かでないように、真輔が心変わりするかもしれないと思っているのだろうか。逆にわたしの心が折れるかもしれないと案じているのだろうか。
それならそれで仕方のないことだが、いやそれとは違う。そうではない。この言葉に出来ないざわつき感は感情のそれではない。
何だろう。正体が分からない。いわゆるストレスなのか?
はるかは体調を崩すことが多くなったように感じていた。
そのことは真輔には伝えていない。自分一人のことだった。
もちろん親にも伝えていない。心配するに決まっている。
保育園の仕事を辞めて、楽になればいいと父親が言うだろう。
すかさず母親が新しい縁談を薦めてくるに違いない。
その手に乗るわけにはいかない。気弱な態度はできないのだ。
いつも自信に溢れたはるかでいなくてはならない。保育園でもそうだ。特に一つ下のあの子だけには。自分は常に明るく元気で、楽しくあらねばならない。ストレスなど感じている場合ではない。
ましてや「ツマラナイ」存在であっては、断じてならないのだ。はるかは判別の出来ないざわつきを押し退け、子供達の世話に没
頭する。変化が起きたのは、それから暫くしてからのことだった。
左ふくらはぎに痛みを覚える。元々丈夫という程の体ではなかった。仕事上、子供を抱き上げることが多い職場だ。当然腰への負担が大きくなる。ヘルニアを患う先輩もよく見てきた。腰をかばい過ぎてしまい、それがいつの間にか膝や足首にもダメージを与えることがある。疲労が溜まって不調を訴えているのだと、はるかは判断した。念のため整形外科に行ってみる。
医者はほとんど触ることもなく、肉離れだと診断した。
診断結果に少し違和感もあったが、医者の明快な態度がはるかに安心感を与えた。しかし体全体の疲労感が長すぎる。休日明けでも疲れが抜けていない。それにちょっと無理をすると歩行困難に陥りそうになる。本当に肉離れなのだろうか。毎日シップして、負担を軽減するように努めているというのに、一体どういうことだろう。
訝る気持ちが増大する。違う病気を想像して、また打ち消す。
それでも人に話すことはしなかった。
言えば親だって本気で心配するだろうし、そのことで自分が休むことにでもなれば、保育園にも迷惑をかける。真輔も心配するだろう。そして何より、あの子だけには弱い自分を見せたくなかった。
それは自分なりの矜持の表れなのかもしれない。負けたくない。侮られたくない。見下されたくない。そんな思いの集合がはるかを無言のままでいさせた。それでも痛みは現実のものだった。
確実にその存在が大きくなり、はるかは苦痛に顔を歪めることが多くなっていた。そんな矢先、いきなり脇から背中にかけて、息が出来ないくらいの激痛が走った。それは突然だった。真夜中の出来事に対処をあぐねる。明確なのは、一刻も早く病院に行くこと。しかも町医者ではなく、できるだけ大きな病院に行って調べてもらい、この突然の痛みの原因を究明すること。
はるかは朝を待った。暗闇の中で不安と痛みが襲う。原因が分かれば、少しは安心するだろう。それまで耐えるのだと必死に言い聞かす。忍耐力には自信がある。それでも言いようのない恐怖が押し寄せ、真輔の顔が頭に浮かぶ。会いたいと強く思った。
今すぐ、会いたいと…。
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男は右膝に広がった痛みを癒すために立ち止まった踊り場で、突
然蘇った憂鬱な日々の思い出に浸食されていた。思い出すと疲労感が加速する。しかしこのままではいられない。
「下りはこれからだ」と自分に喝を入れ直し、一歩を踏み出そうとした時、今度は下から甲高い子供達の声がする。
男は再度立ち止った。直ぐに声が大きくなり、階段を昇ってくる親子連れが姿を現した。先頭を二人の男の子がゆく。競っているのだろう、争うように石段を駆け上がってくる。立ち止っている男を一瞥したかと思うと、一気に抜き去っていった。後を子供らの両親が続く。暑いのだろう、母親はペットボトルを口に当てていた。
隣にいる父親は、赤ん坊を乗せたままのベビーカーを両腕で抱え、力強い足取りで黙々と階段を昇っている。男のおぼつかないそれとは明らかに違う。確かな生活がそこに見て取れる。
父親はまだ若そうに見える。本当にこの男は、三人の子供の父親なのだろうか。自分とそう大差のない年格好に見える。しかし彼には守るべき対象物が厳然と存在し、そして守るべくして、守っているのだろう。自分とは違う。自分は守れなかった。見舞うことしかできなかった。もっと他にできることがあったのではないかと思うと、またもや憂鬱を反芻しそうになる。
男は胸に溜まりかけた苦い記憶を振り払おうと、肩で息を吐いた。
小さく頷いて、止まっていた足を無理やり動かす。そして下りの階段を一段一段クリアーしてゆく。足運びに集中すれば、いつの間にか無意識が脳に広がり、再び過去へとタイムスリップしていた…。
その日男は新宿にいた。小雨降る夕方に近い午後だった。
突然マナーモードの振動が皮膚に伝わり、妙な違和感を覚えた男は急いで中を確かめた。メールの相手は遠くに住む恋人だった。
恋人とはいっても、その関係はメールでのやり取りが殆どで、いつ「終わりにしましょう」と言われても、文句の一つも言えないような、そんな遠距離恋愛特有の危うさを含んだ間柄だった。
ただ好きだということ以外には、明確なものは何もない。
先が見えない恋だった。このまま東京にいていいのか。もしそうなら、彼女を東京に呼び寄せることになるのだろうか。彼女はそのことに同意するのだろうか。きっと彼女の両親は反対するだろう。
反対されるのは嫌だが、理解は出来る。そして当然だとも思う。ならばいっそ彼女の両親が望むように養子に入るか。それはそれ
でもいいかもしれないが、地元に戻った自分に仕事はあるのだろうか。彼女を養っていけるのだろうか。
整理のつかない漠然とした日々が続いていた。
メールの内容は、恋人が入院したことを告げるものだった。その中に『肺炎みたい…』という文章があった。男は、『みたい』という表現が気になった。それは医者にも特定出来ないということなのだろうか? 一刻も早く会って病状を確かめたい。男は親戚に不幸があったと偽り、一日だけの有給を会社に申し出た。
次の日、朝一番の新幹線で帰郷した男は急いで病院へと向かった。駅の近くにある総合病院は、新館もでき、以前見た時よりも綺麗
になっていた。彼女はその新館の十二階にいる。正面玄関を通り、エレベーターの場所を示す案内表示に従って歩くと、待合ロビーで呼び出しを待つ人、受付カウンターで何かを尋ねる人、泣き出す子供をあやす若い母親、点滴のチューブをぶら下げた年寄りやらが徘徊し、男は一気に疲れを覚えた。エレベーターに乗り、上に行く。
最初は人が一杯だったが、十二階に着いた時には、男は一人になっていた。一階ではあれほど賑やかだったのにと思うと、妙な気分がまとわりつく。部屋の番号は、1208号室。
部屋の入口に設置された入院者のネームプレートを確認する。
間違いない。メールの通りだ。恋人の名前がある。入院していることを深く実感させられると、急に怖くなった。
病室のドアは引き戸になっていた。軽くノックして、静かに引き
戸を開け病室に入ると、室内は左右に分かれていた。それぞれにベッドが三つずつ置かれている。そして各ベッドには、天井から吊る
された薄いクリーム色のカーテンが垂れ下がっていた。男は巨大な繭のようだと思った。ベッドは窓際の右側。そうメールにあった。
本人を確認するまでは緊張が解けない。男は窓際までいってカーテンの外からそっと名前を呼んでみた。弾んだ声がする。
「真輔?」
男が「そうだよ」と言ってカーテンの裾を恐る恐る引っ張ると、そこに遠距離恋愛の恋人が横たわっていた。
「大丈夫?」と尋ねる。
恋人は遠くを見つめるような目で「うん!」と頷いた。
微笑む彼女を見た時、男は決心した。
☆
それは秒針の音だけが、世界の全てになってしまったかのような長い夜だった。闇の中をはるかは一人でじっと痛みに耐えていた。
それでも一瞬痛みが引くことがある。すると即座に、眠気がはるかを包み込み、このまま朝まで過ごせるかもしれないと思わせる。
はるかは気を失うように眠りにつく。そして安堵感に沈み込めると思った瞬間、再び背中に激痛が走り、強制的に起こされる。
何度繰り返したか分からない。時間の経過を知りたくても、机の上の携帯電話を取りに行くのも辛い。何処かの郵便受けに新聞が配られる音がする。しかし遮光カーテンの隙間からは、一向に明るさが見受けられない。やがて痛みと眠気と疲労がバランスを取り始める。はるかはまどろみの中で、もしかしたら自分はダメかもしれない。このまま耐え続けていて、死んでしまったらどうしよう。誰が真輔に連絡を取ってくれるのだろう。両親にはできない。
そうなれば、真輔はわたしが死んだことも知らないで、わたしからの連絡をずっと待つことになる。それは辛過ぎる。しかしわたしは生きている。何故なら嫌というほど痛みを感じているからだ。
大丈夫だ! まだ生きている! まだ連絡はとれる!
そんなまぼろしを見ていたら、小鳥の鳴き声に気がついた。
朝がきたのだ。ベッドから半身を起こす。壁を伝いドアを開ける。
廊下に出て両親の寝室のドアを叩いた。激痛を両親に訴える。
慌てて飛び起きた父親が急いで服を着替え、車庫から車を回す。母親は以前世話になった病院の名を二人に告げ、そこへ向かうよ
うにと促した。はるかは母親に支えられながら車に乗り込むと、バックシートに身をかがめた。そして振動で痛みが走るのを緩和させようと、運転席のヘッドレストを掴んだ。
父親の運転する車が走り出す。やっと病院へ行ける。
はるかは普段から親を頼りにするのは好きではなかった。なるべく自立していたかった。しかし今回のことは仕方ない。救急車も考えたが、呼びたくなかった。近所迷惑になる。ならば朝を待つしかない。そう考えて苦痛を耐えたのだ。
それにしても、一体この痛みは何なのだろう。
相変わらず激痛が潮の満ち引きのようにやってくる。
普通ではない。痛みを堪えていると、冷気の中でも汗が出る。
とにかくこの痛みをなんとかして欲しい…。
病院が見えてきた。病院の周りの朝も動き始めたばかりだった。
自転車に乗った学生達がちらほら見える。吐く息が白い。肩からビニール製のバックをかつぎ、見るからに野球部の生徒が風を切って通り過ぎて行く。道も込み合ってない。車はストレスなく流れている。きっと職場へと向かっているのだろう。歩道橋の上には、犬に引っ張られるようにしながら散歩する人が見える。いつもとは違う光景だ。馴染みのない町並み。普段ならまだ支度もしていない時間。もちろん早出の日は別だが…。
しかしルートが違う。自分が通う保育園とは全く別のエリア。
ここにも人々の営みがある。普段意識することのない場所にも、
個々の日々がある。当たり前のことだが、その当たり前のことが、妙に心を刺激する。不思議だと思う。そしてどうしてこんな場所に自分がいるのだろう。いるはずのない場所なのに。知らない人がわたしを見れば、自分もこのエリアの住人だと思われるのだろうか。
しかしわたしは異邦人なのだ。ここは異国なのだ。わたしには縁のないところなのに、何故わたしがと思ってしまう…。
二人は救急と書かれた入口から入った。
外来患者の姿は見えない。父親が心配そうにはるかを気遣う。
対応してくれた看護師に症状を訴え、何かの用紙に書き込みをする。暫く間が空き、検査が始まった。その頃には、少し痛みが収まっていた。血液検査に尿検査。血圧を計り、最近の状況を聞かれる。肺のレントゲンを撮る。何かの注射をする。更に痛みが収まってゆく。担当医に肺炎だろうと言われた。検査結果はすぐには出ない。
時間がかかるのは当然だ。今度はいつその結果を聞きにきたらいいのだろうかと思っていたら、いきなり入院することを勧められ、病室をあてがわれてしまった。はるかは戸惑った。確かに患部は肺なのだろう。脇から背中にかけての痛みが激しい。だから肺炎という診断で正解なのだろうが、肺炎にかかる理由が見当たらなかった。
風邪はずっと引いていない。確かに疲労が取れにくい状態が続いてはいたが、肺炎だと言われても納得がいかなかった。まるで体力が衰えた老人のようだ。それよりもなによりも、本当に入院するほどのことなのだろうか。全くもって納得がいかない。痛みが引けば引くほど理解に苦しみ、すぐにでも帰りたくなる。
ただいい休養になるのは、間違いないなとは思った。
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心が決まると、今まで雑然としたものが一瞬にして明確になる。
細部に至るまで確定したわけではないが、それでも大方の方向性は計れたように思った。ベッドに横たわる恋人を見た時、一体何が大切なのか。また何が必要なのか。そしてどのように行動して行けばいいのか。自分なりの答えを見つけられたように思った。
もちろん結果は分からない。結果は後からついてくる。いつだってそう。シュートしてみなくては分からない。でもシュートしないことには、何も始まらない。
シュートすれば奇跡だって起こり得るのだ…。
地区大会の決勝。同点で迎えた第4クォーター。残り2秒だった。
相手陣地深くから乾坤一擲、勝負のロング・シュート。
誰も入るとは思わなかっただろう。打った本人さえもが半信半疑だった。ただ無我夢中で入れとは念じた。ボールがスローモーションのように空中を流れて行く。アドレナリンが爆発し、会場にこだます歓声さえも聞こえなくなっていた。放たれたボールはバックボードを直撃。リバウンドボールはバスケットの淵に当たり、今度は真上に大きく跳ね上がった。思わず「入れ!」と男は大声で叫んでいた。ボールが落ちてくる。落ちてきたボールは微妙にコースを変え、バスケットの内側に当たり、淵の周りを回転したかと思うといきなり動きを止め、ネットの中をすり抜けていた。その瞬間、男の所属するチームが優勝することとなった。
優勝の記憶は男の勲章だった。諦めない気持ちが勝利を導き、そして諦めない気持ちを頼りに、男はなんとかなるという思いでそれまで東京で働いてきた。しかし根性だけでどうこうなるような世界ではなかった。地方出身の甘さを思い知らされる。
人としての美徳は通用しなかった。結果が全ての社会。いい人間では生きて行けない。売り上げを作れる人間がいい人間だった。次第に考え方が歪む。それと同時に、現実的な発想ばかりが頭を占拠してしまい、裏付けのないことには臆病になっていた。いつの間にか純粋さを子供的だと笑い、シニカルでいることが大人的だと思い込むようになっていた。
しかし横たわる彼女が男の心を変えた。
男の出した答えは、地元に戻って彼女の両親に会い、そして娘さんを下さいと言おう。当然今の仕事は気にかかる。地元での就活も気になる。それでもいい。二人でいられたらそれでいい。それが男の答えだった。もちろんプロポーズはしていない。どう切り出そうかと悩んでいると、カーテンの向こうから看護師の声がする。
「浅木さん? お熱計らせてもらってもいいですかぁ?」
男は急いで席を空けた。検診を済ませ看護師が立ち去ると、男は立ったままで話を続けた。取り留めもない世間話が続き、帰りの新幹線の時間が気になり始めた頃、意を決した。
「ずっと側にいるから…。いても、いい?」
恋人は男の意図が汲み取れず、怪訝そうな顔をする。
「大丈夫だよ! 月が変わったら、またくるから…」
男はそう言って笑った。そしてこれが怪我の功名というものだと思った。そのことを伝えると、彼女も小さくうなずく。男もうなずき返し、「じゃ、またね!」と言って男は病室を出ていった。
来た通りのルートを辿り、男は病院を後にした。
出ると、周りは春まだ遠い冬の夕暮れになっていた。
男は実家に電話もすることなく足早に駅を目指す。歩きながらこれからの段取りを思案する。急に冷たい風が吹き始め、思わずコートの襟を立てる。風に抵抗するようにすこし前かがみになりながら進むと、ふと右頬にまぶしさを感じる。立ち止ると、低い建物と建物の間に大きな西日が浮かんでいた。今まで見たこともないような大きな夕日だった。夕日の周りが滲んでいる。東京ではあまり夕日を見ることもない。いつも箱の中で過ごしている。それにしても大き過ぎる。見ていると何か不安なものに取り込まれそうで、男は足早にそこを通り過ぎて行った。
☆
真輔が会いにきてくれた。しかも久しぶりに会えた気がする。
正月には帰省してこなかった。仕事の段取りが悪く、短い休日に帰省して疲労することをためらったからだ。もしかしたら金銭的なこともあったのかもしれない。それでもわたしに会いたくはないのだろうか。わたしのことを、どう思っているのだろう。真輔の心の内を覗きたくなる。自分の存在意義を確かめたくなる。
もちろん、「大丈夫! そんなこともあるさ」と思い直す。
それでも不憫な気持が消せない年明けだった。それがメールした二日後に会いにきてくれた。日帰りだが、有給を取って会いにきてくれた。真輔が怪我の功名だと言った。その通りだと思う。
それにまた来月会えると言う。はるかは嬉しかった。
真輔の言葉が。そしてなによりも、ずっとそばにいると言ってくれた言葉が。この言葉はある意味、わたしに対するプロポーズの言葉と受け取ってもいいのではないか。結婚という単語はなかった。
それでもはるかは間違いないと感じていた。これで自分の気持ちも固めることができる。たとえどんなことになっても、不安な時間の連続よりは、明確な一瞬のほうが精神衛生上優れている。
痛いのは辛いが、それでも回復してしまえば過去の話になる。
新しい展開に胸が高鳴った。今回のことは、神様が与えてくれたチャンスなのではないかとさえ思えた。そう感じると急に楽しくなる。今まで封印してきた夢の数々が蘇り、はるかは一人、ベッドの中ではしゃぎたくなる気持ちを抑えていた。
その夜に担当医がくる。詳しい話はなかった。しかしはるかに焦りはなく、来月真輔がやってくることで頭が一杯だった。そして一日の終わりに、節分を迎えるころには、きっと自分の病気も治っている。「今日はありがとう…」とメールを打った。
入院の知らせを聞き、慌ただしく人が出入りする。
保育園の園長がやってくる。先輩もやってくる。一つ年下の、あの子もやってくる。それぞれにことの経過を報告し、見舞いの礼を言い、園を休むことでシフトに負担をかけることを詫びる。そしてすぐにでも復帰して、穴埋めするつもりでいることも告げる。
すると見舞ったくれた全員から、焦らずゆっくり治すようにと言われ、申し訳なく思う。訪問者が少なくなった頃から、本格的な検査が始まり、婦人科にも行く。
行っていきなり子宮筋腫のこぶを指摘された。かなりの数だという。疑問と動揺が走った。最初、肺炎と診断されたのに…。
脇の痛みは筋腫と関係するものなのだろうか。関係するとしたら、足の痛みは何だろう。痛みのメカニズムが分からない。独立しているのか、リンクしているのか。まるで分からない。分からないが、はるかの不安は幾何級数的に広がっていった。
『子宮筋腫…』。もしかして、子供は望めないのかもしれない。
担当医は、二月に入ってから筋腫の手術をすると言った。節分には退院出来ない…。出来ないどころか、長期戦になる。変化の過程をその都度真輔にメールする。
ところが今日から二月になるというその日に、医者から子宮線ガ
ンだと告げられた。子宮ガンという病名は知っている。しかし子宮腺ガンというのは聞いたことがなかった。夜に真輔から電話がかかる。はるかは涙声で病名を告げ、子宮腺ガンについてネットで調べて欲しいと頼んだ。しかしはっきりしたことが分からず、もどかしい時間だけが流れていった。
やがてはるかは婦人科病棟に移された。八階の803号室。
急いで真輔にメールする。そしてちゃんとわたしのところへ来られるように、「病室を間違わないでね」と添える。
もうすぐ会えるのは嬉しいが、顔を見たら不安な気持ちが爆発するかもしれない。どんな顔して会ったらいいのだろう。何を話せばいいのだろう。なるべく心配はかけたくない。だけど大丈夫だと言って欲しい。自分は死ぬのだろうか。こんな形で終わるのだろうか。
まだ何もしていないのに。結婚もしていないし、子供もいない。
カブリオレの車にも乗っていないし、お友達を呼んで彼を自慢しながら手料理も振る舞っていない。それなのに検査は進み、今度は肺に問題を見つける。肺から水を400㏄抜く。
骨の異常を調べる。骨にも異常を見つける。今度は頭部のCTを撮る。腰のMRIも撮る。検査をしている間に、自分の体がどんどん衰えてゆく。変化のスピードが怖い。両親の顔色が気になる。彼らは主治医から、何か聞かされているのだろうか。無理に明るく努めているような気がして、はるかは母親の顔を覗き込んだ。
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東京に戻った男は、上司に体の不調を訴え出た。そして急に自分が働けなくなると会社に迷惑をかけてしまう。そうなっては申し訳ないので、取り急ぎ引き継ぐ人間を探して欲しい。引き継ぎ業務をこなした上で帰郷し、静養したいと付け加えた。
嘘でも一応筋の通る話だ。急に倒れられても困る。会社側は男の要求を受け入れた。男は体の不調を装いながら営業に出る。
移動中にメールをチェックし、返事を返す。その間にも病状が刻々と変化していたが、男は完治することを疑わなかった。たとえどのような状況になっても必ず良くなる。必ず助かると信じ切っていた。
それでもなにかにすがりたくなる。男は仕事中に神社仏閣を探しては、その都度お参りをする。しかし決して、「治りますように」とは祈らない。すでに完治していて、完治したことに対するお礼の言葉だけを唱える。治して欲しいと願うのは、治っていないということを認めていることになる。認めたことが、認めたようにやってくる。故に治して欲しいとは祈らなかった。
その考え方は大学生の時に教わったものだ。アドバイスしてくれたのは、通っていた鍼灸院の院長だった。試合で腰を痛め、リーグ戦の真っ只中で焦る男に対する戒めにも近い助言だった。
それ以来男は、願い事はしない。叶ったことだけをイメージする。
マイナスを認めない。プラスだけを認める。地元で病と闘う彼女の完治した姿しか認めない。後ろ向きのメールなどは決して送らない。そしてなにより自分自身が、楽しい未来しか見ていなかった。
少しでも気を許すと、弱気な感情が入り込んでくる。絶対に強気でなくてはいけないのだ。やっと決断できたのだ。
彼女との生活を! 彼女との人生を! もちろん担保などは何処にもない。保証もない。ないないずくめだ。それでも自分には強い意思がある。一緒に居たいという強い思いがある。その思いは誰にも侵食できない。自分が諦めない限り、必要なものは必ず与えられると信じていた。しかし、「それにしても…」と思ってしまう。
予期せぬ事態が連続しすぎる。一体どうしたのだろう。姿が見えない分、余計に焦る。一刻も早く引き継ぎの人間を探してもらい、東京を離れたい。彼女の側にいたい。大丈夫だからと声をかけてあげたい。それ以外のことは、考えられなかった。
二月に入り、最初の連休に男は帰省した。急いで803号室を訪ねる。すでに彼女はベッドの背にもたれ、男を待っていた。思ったよりも元気な姿に、男の口元が少し緩んだ。
彼女は開口一番、「見て」とおどけるように肩をゆすった。男はその仕草の意味が分からない。「ええー? 分かんないの? 髪、切ったの! どう? 似合うでしょう!」と、はしゃいでみせた。
見ると腰まで伸ばしていた自慢のストレートの髪が、肩の線で切れていた。ひどく驚く男に、「お風呂に入るのも大変だし、手入れも簡単だから…」と説明する。
男は「そうだよね…」と言うのが精一杯で、そこから先の言葉が見つからなかった。一瞬空気が淀む。何と言っていいのか分からない。努めて快活にしようとしているはるかの姿が余計に辛い。
言ってあげたいことがあれ程あったのに、どこから何をどうしゃべっていいのか分からない。もどかしい気持ちが充満する。
急にその場から逃げ出したくなるような衝動に駆られた時、ぽつり彼女がつぶやいた。
「むずかしいかも…」
男は即座に否定した。まだ何も明確に聞いていないのに、「そんなことはない!」と否定した。まるで相手の口を塞ぐように。
聞きたくないと言わんばかりに。そしていま東京で画策している作戦を話しだす。早急に会社を辞めて帰郷する。そしていつも君の側にいて、君を守る。退院したら時期を見計らい君をもらいに浅木の家に行く。一緒になったら頑張って働いて、欲しがっていたおしゃれなカブリオレに乗って、海辺の町をドライブする。君はいつまでも僕の側にいて、僕はいつまでも君の側にいる。そう決めているんだと話した。はるかはもう、何も言わなかった。
「分かった」と頷いた。
☆
はるかは真輔の背中を見送った。そして「なるべく早く帰る」と言った真輔の言葉を反芻する。わたしの側にいると言った。その言葉に濁りはなく、自分も素直に従う姿勢を示している。これでいい。
これで自分も戦うことができる。死ねない。死ぬことはできない。何があっても生き抜く。どんなに辛い治療でも耐え抜く。
たとえ母親になるための器官を全部摘出することになったとして
も、わたしは真輔の帰りを待ち、そして一緒に生きて行く。
はるかも、そう決めた。
検査結果が上がってくる。結果を見て、治療方法をめぐり医者同士の意見が分かれていると聞かされる。急いで摘出手術をするべきだと主張する医者と、手術は危険で、体がもたないと主張する医者とに別れた。どちらにしても低い生存率だと告知され、血の気が引く。しかし先に進むしかない。怖がって立ち止まっていても、改善することはないのだから。いやむしろ、悪くなる一方だ。
『低い生存率』。その言葉が頭の中を駆け巡る。しっかりしなさいと自分自身に言い聞かせる。それでも一人になると、いつの間にか不安な気持ちが忍び寄り、心に不吉な未来を予感させる。
病室の夜は暗く長い。隣のベッドから寝返りを打つ音が聞こえてくる。何処の病室で咳き込む声も聞こえる。かすかな泣き声のようなものさえ聞こえてくる。夜のしじまは、絶望という名の檻を運び、自分を永遠に真輔の手の届かない場所に閉じ込めてしまうのではないかと思わせる。思わず我慢ができなくなる。涙が頬を伝う。
それでも声はあげない。黙って涙を流す。耐えなくてはならないと思うからだ。声をあげれば、全てに負けてしまうような気がして、歯を食いしばる。
そして心の中で叫ぶ。どうして…? どうして自分なの…? 何がいけなかったの…? どんな悪いことをしたというの…?
自問しても、答えが見つかることはなかった。
やっと方針が決まり、急いで真輔にメールする。
肺にあった胸水からも、脊髄からも、決定的なガン細胞は見つからなかったこと。しかし疑いは否定できず、まず脊髄にニ週間放射線を浴びせ、それと並行して、抗ガン剤を投与すること。その様子を見ながら子宮の摘出手術をすること。それと、足の付け根に血栓ブロックフィルターを入れること…。
真輔から返信が届く。
引き継ぎが見つかり、仕事内容を教えているとのこと。早急に段取りをつけて帰郷する。最後に、絶対治るから心配するなとあった。
読んでいると、泣きたくなる。不安が覆いかぶさってくる。
その度にはるかは負けるものかと首を振り、勇気を奮い起して目の前の空間を睨みつけた。腰への放射線治療が始まる。
三日後から髪が抜け始めた。抗ガン剤の影響も出始める。吐き気がはるかを襲う。苦しくて真輔にメールする。
真輔から返事がくる。
春になったら写真を撮りに行こう。はるかが大好きな尾道に。きっと桜の花が咲く頃には退院出来ているから、二人で行こうと…。
涙が止まらない!
髪が生えてくるのに一年以上もかかるというのに…。
毎日メールが届く。はるかへの励ましと、二人で遊びに行く話。ポジティブなことばかりを並べたメールが届く。それでも日増し
に体の動きが緩慢になってゆくのを止められない。吐き気と、体の節々の痛みが、猛烈な勢いで体力を奪ってゆく。寝返りをうつのも辛くなる。メールの返信もままならない。
苦痛は収まることを知らなかった。はるかはまた病室を変えられる。同じ階の27号室だった。今度は部屋の前にナースステーションがあり、ナースコールをすれば、すぐにでも駆けつけてくれる場所だった。しかしこれ以上の抗ガン剤治療には耐えられそうにないと思う。時々朦朧とする。ガンの進行は医者の予想を超え、突発的な呼吸停止のおそれが考えられた。予断を許さない状況が続く。
急に体が軽くなる。はるかは失っていた食欲が戻り、母親に食べたい物を告げる。携帯を取り出し、真輔にメールする。
「今日は久しぶりに気分がいい」と。そして、「お花見、一緒に行けたらいいねぇ…」と綴った。
二日後、はるかは呼び名に対してやっと開眼できる程度の、傾眠
傾向に入った。
はるかのベッドの周りには、はるかが受け持っていた『ひよこ組』の子供達が描いた励ましの絵が、沢山飾られていた。
その中に、はるかと子供たちが仲良く手をつなぎ、みんなで笑っている絵がある。余白のところには、『あさせんせい、はやくよくなってね』と書いてあった。
はるかは、うわごとで真輔の名を呼ぶようになり、やがて声もかすれ、子供たちの絵に囲まれながら眠るように逝った。
U
男は足元の石段を一段一段確かめながら、そして過ぎ去った三年余りの日々を噛み締めるような思いで降りてきた。
石段の両脇には、葉脈のように伸びる細い路地が幾つもある。
葉脈はすぐに折れ曲がり、知らない何処かに向かっている。
葉脈の一つをネコが行く。男が視線を送ると、敏感なネコは途中で立ち止まり、男の方を少し覗きこんだ後で、また動き出す。
男はネコの背中を見送り、また進む。左手に三重塔が見える。
右手の傾斜には、その傾斜に合わせるかのように建物が建つ。
小さな写真館。手作り風の喫茶店。そして個々の店の前や通りには、動物の形をしたオブジェが並べられている。はるかの撮った写真と同じだ。やはり彼女はここを通っている。間違いない。思わずホッとする。最初からルートをやり直すだけの体力はまだない。
当然だ。随分と壊したのだから。しかし壊すには、壊すだけの理由があった。男ははるかの死を知らなかった…。
メールに返信がない。電話にも応答がない。きっと抗ガン剤の影響がきつくて、それで連絡が取れないでいるのだ。負けるな、頑張れと思う。ここさえ乗り切れば、絶対助かる。もうすぐ帰郷する。
自分が帰れば、いつも側にいる。いつもベッドサイドにいて、不安を遠ざける。だからもう少しの辛抱だ。あと少しで帰れる…。
しかし会社に辞表を提出し、実家への引っ越しの用意を済ませ、不動産会社にアパートのカギを返し終えた時には、すでに葬儀は終わっていたのだ。葬儀の後、はるかの友人からの電話で、男は初めてはるかの死を知った。聞いた瞬間、何が起こったのか理解できなかった。冗談かと思う。しかし苦痛に満ちた電話口の声が、真実だということを物語っていた。呆然とする。お悔みを言われ、電話が切れてしまうと、目の前が真っ白になっていた。
悲痛な思いで浅木の家を訪ねる。初めての挨拶が弔慰なのかと思うと、言葉がくぐもっていた。仏間に通される。少しふっくらとした、はるかがそこに居た。髪を結いあげ、振り袖を着ている。
成人式の写真だとすぐに分かった。線香をたて、細長い煙が伸びてゆくのを見ると、感情を抑えることができなくなってしまう。
堪えても、堪えても、涙が止まらない。男は心拍数を押さえようと、必死に呼吸を整えた。やっとの思いで客間に戻り、何か会話するが、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、病院に入った時には、すでに末期ガンだったということ。そして藁にもすがる思いで、抗ガン剤治療を二度行ったということだった。最初、抗ガン剤治療の状況をはるかから聞かされた時、男は、これでははるかの体がもたないと直感した。
治療以前の問題だ。死んでしまう。苦痛に耐えられない。これ以上の抗ガン剤治療はしないで欲しいとメールで伝えていた。はるか本人もそのことには同意していたはずなのに、ニ度行ったとはるかの父親は言った。男は驚き、父親を見た。彼も何かを感じたのだろう。「それ以外に選択肢はなかった」と苦しげな表情をみせた。
その時、急に連絡が途絶えた訳が明らかになった。と同時に、「もしかしたら」という思いが駆けめぐる。ニ度目の抗ガン剤治療をしていなかったら、体力を温存していたら、手術という手立てにもってゆけたのではないか。何故、悪くなる方向へと急いだのだろう。
本当にそれほど切迫した状況だったのだろうか。そしてニ度目の治療を断っていれば、少なくとも自分は、はるかの側にいて、看取ることができたのではないかと思うと、腹立たしさが込み上げてきた。しかし全ては詮無きことだった…。
話が尽きて浅木の家を出る時、父親からカメラを渡された。
自分が使っていた古いカメラ。やっと帰ってきた。その時やっと、はるかの体のどこかに、触れることができたような気がした…。
帰郷後は惨たんたるものだった。不甲斐なさと無力感に苦しむ。
自分という人間の、存在の薄さにも悲しくなる。信じていた諸々の概念が崩れ、心のバランスを失った。悪循環の渦の中へと落ちて行く。誰も男を助けられない。男も助けを求めない。
男が望むものは死だった。はるかと同じ世界に行けば、はるかに会える。ただし自殺以外の方法で。与えられた人生の放棄には、ペナルティーが与えられるという。それは、はるかが住む世界には行けないということを意味している。それでは本末転倒だ。ならば自殺以外の方法でと思ったが、結局は睡眠薬を大量に飲んでしまう。
二度三度と…。しかしいつも誰かに助けれ、生きている。
結構な事故を起こしても、まだ生きている。
何とか歩けるようになり、思い切って電車に飛び乗った。
はるかが話してくれた千光寺からの眺めを見るために。そして、
お気に入りの一枚を、どのポジションから撮ったのかを確認するために。残してくれたネガだけが形見だ。それを頼りにはるかの足跡を辿ってきた。それもどうやら終わりのようだ。階段の先には山陽本線の線路が見えてきた。さっきまで見下ろしていたはずの尾道水道も、気が付けば随分と目線のレベルが低くなっている。
はるかの言葉が蘇る…。
「わたしね、なんか最近、ちょっとだけだけど、写真上手くなったような気がするの。このあいだ写真教室のみんなと尾道に行った時、千光寺から降りてきて、線路を渡ろうとした時にね、なんていうか、これっだっていうものがあって、急いでシャッター切ったんだけど、初めていいのが撮れたように思うの。出来上ったら見せてあげるからね。きっと気に入ってもらえると思う…」
電話で弾むように話していた。その線路がすぐ目の前にある。
きっとここだろう。ここに違いない。確かめたい。持ってきたマウントと照らし合わせれば明確になる。気持がはやる。足を出そうとしたその瞬間、反射的に体がこわばっていた。
渡るのが怖くなった。場所が特定されたら、その時点で彼女との縁が切れてしまいそうに感じたからだ。そんなことはないと分かってはいても、不安な気持ちが動きを奪っていた。
その時、遠くから遮断機の警報音が聞こえてきた。
何かが男の耳元でささやいた。すると行く手を阻んでいた縛りが外れ、固まっていた男の足が動き出していた。恐怖心はなかった。
線路内に入る。西の方向を見ると、直ぐに確認できた。
ここだ! ここに間違いない! この角度で写している!
西へと伸びるレールの先が右へとカーブしている!
ネガの通りだ。やっと出会えた。やっと出会えたんだ。
喜びで胸が一杯になる。見ていると、その曲がったレールの向こうに、はるかが待っていてくれるような気がする。
警報器の音が近づいてくる。
このままここに居よう。そうすれば、列車がはるかの元へと連れて行ってくれる。何もかもが終了する。
静かに目を閉じれば、またはるかの声が蘇る…。
「今度写真教室で使うネガってねぇ、仕上がりがブルーになるんだってぇー。ねー知ってる? そんなネガがあるの…」
マウントに加工されたネガに写る風景は、全てがブルーに覆われていた。そして、空も、雲も、電線も、民家も、レールも、何もかもが左に傾いでいる。ほとんど歩みを止めることなくシャッターを押したのだろう。男はもう一度目を開け、握り締めていたマウントを食い入るように確認した。
やはりここで間違いない。これでいい…。一瞬で終わる…。
全てを見渡すかのように息を吐く。足元に電車の振動が響く。
ふと風を感じる。心地よい風。
しかも風は上空から桜の花びらを運び、男の頬に当てる。
見ると線路の上にもひらひらと舞い踊らせている。
美しい。きっとはるかも一緒に見ているに違いない。
やっとこれで一緒になれる…。
男の口元に笑みがこぼれた時、急に風が態度を変えた。
それまで静かで穏やかだった風は、一気に海側から山側に向かって吹き上げる風になった。思わず男は大きくバランスを崩していた。
∞
男はまた右足を引きずりながら歩き出していた。
転んだ時にぶつけた肘の辺りが痛い。その痛みも加わり、男の歩く姿はぶざまだった。それでも海岸線まで辿りついた。
汗が出る。息を整えながら防波堤に体を預けると、波間を漂うカモメが見える。のどかな光景だった。
上下に揺れるカモメを見つめ、踏切内でのことを反芻する。
あの時、誰かに腕を掴まれたような気がする。
その感触がまだ残っている。
山側に転倒したのは、突然吹いた風のせいばかりではない。
真贋のほどは定かではないが、どちらにしても、まだ生きている。またしても生きている、というのが正しいのかもしれない。
今度はどっちだろう…。罰なのか? 拷問なのか?
またはどちらでもなく、それら以外のものなのだろうか?
考えても答えは出なかった。
それでも海を見ると心が休まる。
もうこれ以上は進めないからだ。
きっと諦めがつくからなのだろう。
そんな話を、はるかから聞いたことがある。
目の前をフェリーが滑って行く。人々の日常を運ぶあの船だ。
この国が壊れない限り、いつまでもこの光景はここに留まり続け
るだろう。そして自分も生きている限り、はるかの思い出だって消えることはない。それだけは確実だ。
淋しくて堪らなくなったら、またここにくればいい。
誰からも認知されず、埋没しそうな日々の中で、「ツマラナクナイ」
一瞬を、彼女のためにも見つけたらいい。
右へとカーブするレールの先まで生きてみたらいい。そしていつの日か、本当にレールの先まで行って、再会したらいい…。
その日までは、生きてみようと思った。