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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
明治編
72/216

『徒花』・2




 昨夜、野茉莉と散歩に行くと約束した。

 その為に店は昼の客を捌き終えてから閉める。店と娘との約束、当然優先すべきは後者だ。


『うん、君おかしいやろ?』


 いい加減付き合いの長くなった友人はそう言ったが、そもそも蕎麦屋は副業。何が何でも続けねばらないという訳ではない。それよりも不甲斐ない父を慮ってくれた娘の気持ちに報いてやりたかった。

 野茉莉はもう準備を終えている。

 あまり待たせても悪い。早く着替えようと作務衣を脱ぎ、まずは肌襦袢を着る。

 次に長着を纏い、腰紐と帯を結ぶ。

 袴を穿いて、腰に刀を……差すことなく、身支度を終える。

 普段より少しだけ軽くなった装いが、どうにも落ち着かない。仕方がないと分かっていても違和感は拭い去れなかった。

 無論、甚夜とて刀を捨てようなどとは思っていない。鬼を討つにはやはり刀が必要だ。

 とはいえ昼間から帯刀して警察の厄介になる訳にもいかない。以前ならばそんなことは思わなかっただろう。しかし今は野茉莉がいる。娘に心配をかけてまで我を通すことは出来なかった。


「……濁っているな」


 いつか誰かが言っていた言葉を思い出す。

 全ては無駄。志したものを濁らせる余分に過ぎぬ。十分に理解しながらも斬り捨てられない自分に辟易とし、同時に悪くないと思う。

 それでも今まで共に歩んできた夜来が腰にないことは物足りなくも感じてしまう。

 どう表現すればいいのか分からない、ひどく奇妙な心持のまま襟を直し、取り敢えず準備は整った。


「野茉莉、行くか」

「うんっ」


 軽さにはまだ慣れない。

 けれど玄関で待っていてくれる娘に声を掛ければ、返ってくる無邪気な笑顔。

 それが刀を差さぬことで得られたものならば、ほんの少しだけ救われたように思えた。




 ◆




 元より目的はない。

 ただ道を歩くだけ、それでも野茉莉は楽しそうに笑う。しかし態々甚夜の左側から手を繋いでくる辺り、無邪気なだけではなかった。

 以前は左側に刀を差していた。だから足りなくなった重さを補うように野茉莉は左側に立つ。その気遣い自体もだが、さりげない気遣いの出来る優しい娘に育ってくれたことが甚夜には嬉しかった。

 子供は気付かぬうちに大きくなるものだ。それがやはり嬉しく、けれど何処か寂しいような。父親とは難儀なものだと甚夜は表情には出さず自嘲した。


「葛野様?」


 三条通に沿って歩いていると、ちょうど鬼そばへ帰る途中の兼臣と出くわした。

 その出で立ちはいつもとなんら変わらない。長い黒髪も、渡世人のような恰好も、腰に差した刀も。兼臣はいつも通りの装いだった。


「兼臣、帰りか」

「ええ、店の方はどうなされたのですか?」

「ちと用があって閉めた」


 流石に野茉莉と散歩に行きたかったから、とは言わなかった。

 ふむ、と一言漏らし、兼臣は甚夜の装いを眺めながら弱々しく微笑んで見せた。


「……意外ですね。葛野様が、刀を持たずに出歩くとは」


 意外に思っているのは甚夜も同じだった。

 それだけ人の親が身についてしまったのだろう。わだかまりがあったとしても、当たり前のように野茉莉を優先するのだから。


「余計な厄介事を背負うのも、な」


 ちらりと野茉莉の方に視線を送れば、納得したように兼臣は小さく頷いた。

 もはや帯刀は立派な犯罪だ。野茉莉の親として、我を通して捕まるような真似はしたくなかった。


「娘子の為ならば、ですか。貴方らしいと言えばそうなのでしょうね」

「お前は、曲げられなかったか」

「ええ、これは私自身。手放すことは出来ません故」


 そう言って優しく夜刀守兼臣に触れる。

 なにが悪いという話ではなく、言うべきことは何もない。譲れないものの在処が違っただけで、甚夜と兼臣は何も変わらない。


「葛野様も、今は帯刀をしていないだけ。結局は、捨てることなど出来ないのでしょう?」


 彼女の言葉は正鵠を射ていた。

 娘と共に歩くから帯刀しなかっただけ。刀を身に着けないことは、目的を捨てること同義ではない。復讐を禁じられ、帯刀を禁じられたとしも、憎しみを消せる訳ではないのだ。

 新しい時代は少しばかり流れが早い。色々なものが変わっていくのに、心だけ置き去りにされているような気がした。


「……では先に戻っています」

「ああ」


 急に話を切り上げ、兼臣はすぐさま早足で場を離れた。

 次第に小走りになり、背中はあっという間に見えなくなる。


「忙しないことだ」

「父様、あれ」


 野茉莉の指さす方には警官隊の姿がある。

 どうやら帯刀を見咎められないよう逃げたらしい。刀は捨てられないが、流石に警官に喧嘩を売るような真似はしたくないらしい。


「成程。しかし、今日は妙に警官が多いな」

「うん、何かあったのかなぁ?」


 きょろきょろと野茉莉が辺りを見回す。

 道行く人々に紛れて物々しい様子で警邏をしている男達が数人。傍目に見ても分かるほど慌てた様子だ。

 それを尻目に通りを歩く。自然と騒がしい方に足が向いてしまうのは、長年怪異を相手取ってきたが故の癖だろう。

 京都は三条通から少し離れると知恩院があり、その参道を下って白川にぶつかる手前には古門と呼ばれる瓦葺の門がある。どうやら騒ぎは古門の方のようだ。


「野茉莉、離れるなよ」

「う、うん……?」


 父の空気が変わったのを察し、すっと体を寄せる。

 視線の先には人だかりがある。周囲に注意を払いながら進めば、人混みの中から声が掛かった。


「おーす、葛野さん」


 そこにいたのは見知った顔だ。

 鬼そばの隣にある菓子屋『三橋屋』の店主、三橋みはし豊繁とよしげである。


「おお、娘さんもこんちわ」

「はい、こんにちは」


 野茉莉が丁寧にお辞儀をすると豊繁は手をひらひらとさせて挨拶を返し、再び人混みを横目で見た。

 彼も野次馬の一人のようで、騒ぎを見ながら難しそうな顔をしている。


「三橋殿。これは何の騒ぎで?」

「あー、娘さんがいる時に話すよなことじゃないんだがなぁ」


 がしがしと頭を掻きながら、豊繁は相変わらず面倒くさそうにぼやく。

 ただ彼にしては珍しく、えらく真剣な顔付きになっていた。


「人死にがあったらしい」


 野茉莉に聞こえぬよう、耳元でぼそりと呟く。

 確かにこれは娘がいる時に話すような内容ではない。返す甚夜も自然と小声になった。


「何か事件でも?」

「辻斬り、って話だぁな。江戸の世じゃあるまいに」


 肩を竦めておどけて見せても顔には嫌悪が滲んでいる。

 人死にを話題にして朗らかになる筈もない、豊繁は居心地の悪さに小さく身じろいだ。


「どうせ新しい時代に馴染めない浪人崩れが馬鹿をやったんだろうよ。みっともないねぇ、時流に乗り遅れた輩ってのは」


 何も答えられなかったのは、甚夜こそが彼のいう“時流に乗り遅れた輩”だから。

 固くなった態度を気遣ってか、「ま、流行らない菓子屋やってる俺も、十分時流に乗り遅れてるんだが」などと豊繁は冗談めかして肩を竦める。

 返礼代わりに小さく笑みを落とした。多分、笑えていたと思う。頬の筋肉は少し強張っていた。


「じゃあな、葛野さん。あんたも早めに帰った方がいい。娘さんもいるんだしよ」

「三橋殿は?」

「もーちょい、ぶらぶらしてくる。新商品考えろって嫁さんに言われてんだが、何も思い浮かばんのだわ。あー、面倒くさ」


 言葉の通りぶらぶらと、頼りない足取りで人混みから離れていく。

 残された親娘はもう一度騒動に目を向けた。人だかりが壁になって、惨劇の現場を除くことはできない。そのため詳しい状況は分からないが、おかげで野茉莉に嫌なものを見せなくて済んだのだから、そういう意味では幸いだったかもしれない。


「……そろそろ、帰るか」

「そう、だね」


 野茉莉が微妙な顔で同意する。

 折角の散歩は嫌な後味を残して終わることになった。













 そうして去っていく親娘を、人混みの中から見つめる影が在った。


「おじさま、相変わらず野茉莉ちゃんと仲がいいです」


 どこか不満げに頬を膨らませる女童。

 柔らかく波打った栗色の髪。年齢は見た所八つか九つといったところだろうか。

 大きな瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。

 金糸をあしらった着物は薄い青に紋様は宝相華。豪奢ではないが品の良い出で立ちは、一見すればどこぞの令嬢にも思える。

 しかし彼女の瞳は紅玉。

 名を向日葵。

 その正体は鬼、そして“マガツメ”が長女である。


「なにか癪ですね。……ともかく、今回もありがとうございました」

『いえ』


 深く、沈み込むような声だった。

 問いに返したのは向日葵の傍らにいる男。彼の目もまた赤い。堂に入った人としての姿を見るに、おそらくは高位の鬼なのだろう。


「本当は、嫌だったんじゃありません?」

『まさか。安寧をむさぼる豚を一匹屠っただけのこと。感慨などありません』


 男が殺したのは、元々は武士だった男だ。幕末の世に在っては大した働きもせず、新政府軍にいたというだけ。しかし上手く取り入って明治政府の末端に名を連ねた、胸糞の悪くなる愚昧だった。斬り殺したところでなんだというのか。


「なら、いいのですけど。おかげで沢山の死体が手に入りましたし。本当に、ご苦労様でした。……でも、そろそろ邪魔が入りそうな気もしますね」


 無論それは“おじさま”────甚夜を指しての言葉だ。

 怪異に好んで首を突っ込んでくる彼のことだ。死体集めが長く続けば当然介入してくるだろう。


「潮時でしょうか」

『では終わりに?』

「はい。あんまり無茶をして、おじさまに嫌われるのも嫌ですし」

『そうですか……ならば、これからは己が目的を果たさせていただきましょう』


 丁寧な、しかし感情の乗らない言葉。人の姿をした鬼は、ただ去りゆく甚夜の姿をじっと見つめている。

 

「本当に、挑むのですか?」

『無論。寧ろこのような機会を与えてくれたこと、感謝いたします』

「でも、おじさま、強いですよ?」

『知っています。だからこそ挑む価値がある』


 言いながら、男は向日葵の傍を離れた。

 すぅ、と人混みに紛れ、別れの言葉もなく消えていく。


「……立ち去るなら挨拶くらいしてくれてもいいと思います」


 僅かに眉を顰めるものの、零れた文句は冗談のようなもの。怒りなど微塵もない。

 元々あの鬼の目的は一つ、甚夜と戦うことのみ。初めから他事に興味などなかった。それを「命を救ってくれた礼だ」と言って望まぬ殺人を繰り返し、自分の目的を後回しにしてくれたのだ。感謝こそすれ怒るなどお門違いもいいところだ。


「彼は……徒花、ですね」


 去りゆく一匹の鬼に想いを馳せる。

 咲いても実を結ばずに散る花ように、何一つ残せず消えていく。

 胸に過った微かな寂しさは、気のせいだと思うことにした。




 ◆




「ただの辻斬り、って訳やないと思うけどね」


 その夜、仕事が終わってから甚夜は染吾郎を店へ呼んだ。

 二人で顔を突き合わせ、杯を傾けながら話すのは辻斬り事件のことだ。


「というと?」

「そもそも、今回の辻斬り事件。表になるまでに時間がかかったんは、死体が上がらんかったから、って話や」

 

 酒を呑みながらも甚夜の目付きは鋭い。

 染吾郎も普段の笑みは鳴りを潜め、鬼を討つ者としての顔が覗いている。


「辛うじて残ってるんも頭だけとか、腕だけとか。尋常じゃない量の血があんのに、死体は見つからん。扱いとしては事件よりも怪奇譚やね」

「それは聞き及んでいる。死体は見つからない。……辻斬りが死体を隠したと思うか?」

「隠すったって無理があるやろ。殺したことばれるんやったら隠す意味もあんまないしな。どっちかゆうと殺すことやなくて、目的自体が“死体を集める”って方がしっくりくる」


 染吾郎は頭が回るし勘もいい。その彼の発言ならば一考以上の価値がある。

辻斬りの目的は怨恨や金目当てではなく、死体が欲しいから。

 事後処理の手際の良さも考えれば、成程、確かにこれは事件よりも怪異の範疇かもしれない。


「死体を使って何をする気か知らんけど、嫌な感じやな。……うん、僕の方でも調べてみるわ」

「頼む」


 そしてもしも厄介な怪異の存在が裏にあるのならば、斬らねばならぬだろう。

 刀を必要としない時代になっても、甚夜の生き方が変わることはない。

 鬼は鬼であることから逃げられない。結局、どんなに取り繕ったとしても、自分には刀を振るうことしか出来ないのだと思い知らされる。

 ぐい、と杯を煽った。

 喉を通る熱さ、しかし旨いとは思えなかった。



 ◆




 染吾郎に情報収集を依頼してから数日後、甚夜は早朝に再び古門へ訪れた。

 警官がいた為近寄ることが出来ず数日経ち、入れるようになってから来てみたものの、今更辻斬りの痕跡が残されているはずもない。しかし情報が殆どない以上、まずは足を動かすしか方法はなかった。


「名残すらないか」


 とはいえ既に警官隊が去った後だ。死体どころか血の跡さえ綺麗さっぱりなくなっている。半ば分かっていたことではあるが、やはり無駄足になってしまったようだ。 

 甚夜が再び古門へ訪れたのには勿論理由がある。

 ここ数日、辻斬りについて調べていたのだが、どうやら昨日の一件だけではないらしい。

 聞き及んでいるだけで既に八件。うち二件は死体に刀傷があり、それが辻斬り事件だと言われる理由だった。

 ただ、この一連の騒動は、“真っ当な”辻斬りにしてはおかしなところがあった。 

 先の二件は分かり易く惨殺されていたが、残る六件には刀傷が見当たらなかった。というよりも、殺害現場には死体すらなかったのだ。

 辺りに残されたおびただしい血液と肉片から、誰かが殺傷されたのは間違いない。しかし死体が無い以上身元の確認も出来ず、結果としてこの事件は表になるのが遅くなったらしい。

 普通ならば奇怪な事件、と考える。だが甚夜は鬼の討伐を生業としている。これは怪異によるものだと考え事件を探っていた。

 だが情報など殆どなく手詰まりの状態だ。後手に回らざるを得ない状況に、小さく溜息を吐いた。

 



 そして、ふわりと漂った慣れ親しんだ匂いに、甚夜は身構えた。




 つい先日人死にがあったばかりの場所だ。

 警官隊が去った後、好んで近付く者はおらず、此処には彼しかいない。


 人目はない───成程、“おあつらえ向き”だ。

 

 甚夜は違和感に気付いた。違う、気付いたのではなく、相手が隠そうともしていないだけだ。

 気配を殺すことも、物音を隠すこともせず、濃密な香りを振りまいて何者かが古門の屋根から跳躍する。


『あああああああああああああああっ!!』


 不意を打つ気すらないらしい。

 突如現れた、咆哮を上げながら襲い掛かる異形。まるで血のように赤黒い皮膚をした、身の丈を超える大太刀を振り上げた鬼は、真っ向から両断しようと甚夜へ唐竹の一刀を放つ。

 自由落下しながらの大振り、あまりにも雑だ。後ろに飛んで斬撃をやり過ごせば、空ぶった大太刀が大地を叩き付け砂埃が舞った。

 鼻腔が擽られる。

 鉄錆のような、硫黄のような、どろりとべたつくような手触り。

 慣れ親しんだ、甚夜にとって身近な匂い。



 ───これは、血の匂いだ。

 


 眼前の赤鬼からは、やけに濃密な血の匂いが漂ってくる。

 目立った傷はなく、刃が血に濡れているでもない。なのに咽かえる程だ。


『お相手、願いましょう』

「問答無用で襲い掛かっておいて“お相手願う”とは恐れ入る」

『これは失礼。貴殿との死合いこそ私の望み。逸る気持ちを抑えられませんでした』


 鬼は意外にも丁寧な語り口だ。

 慇懃無礼という訳でもない。鬼の口調や態度には一定の敬意が宿っている。それだけに侮って仕損じるような真似はしないだろう。

 腰に夜来はない。廃刀令が施行され昼間の帯刀は難しくなったが、これは少しばかり迂闊だった。


『ですが、まさか帯刀していないとは……正直に言えば、落胆。いえ、失望さえ感じています』


 真紅の刀身、規格外の大太刀を甚夜へ突き付けた鬼の声は、心底苛立ちに満ちている。

 それ以上に引っかかったのは奇妙な言い回し。この鬼は、まるで以前からこちらのことを知っていたかような口ぶりだ。

 しかしこのような鬼は記憶にない。不可解な言動に甚夜は警戒を強める。


『貴方は、刀を捨てたのですか』

「捨てたつもりはない。ただ、大切にしたいものが増えただけだ」

『そうですか……』


 平然とそう言えたのは、寂しさは感じてもそれが偽りない本心だから。

 その態度こそが癪に障ったのか、鬼は敵愾心を隠そうともしない。


『残念だ。刀も持たぬ腑抜けた貴方を斬り捨てることになろうとは』


 視線は鋭くなり、最早我慢ならぬとばかりに鬼は駈け出す。

 綺麗な足捌き。それは身体能力に飽かせた疾走ではなく、剣術を学んだものの動きだ。

 左足で地面を蹴って敵の間合いへ飛び込む。お手本通りの所作で鬼は間合いを侵す。振り上げる刀、それもまた剣術の基本を押さえている。

 対して甚夜に刀はいない。

 迫り来る大太刀、回避は間に合わない。

 赤い刃は甚夜を切り裂かんと袈裟掛けに振るわれ、身に食い込み。


 響く、甲高い鉄の音。


 鬼の一刀は甚夜の着物を裂いたのみ。斬り伏せることは叶わず、皮膚の上でぴたりと刃は止まっていた。

 鬼は驚愕の様相を呈し、しかし甚夜は変わらず平静なまま鬼を見据える。


「刀がなければ斬れるとでも? そう舐めてくれるな」


<不抜>。

 一人の男が願った『壊れない体』、その体現だ。易々と砕けはせぬ。

 それに刀が無いからといって戦えない訳でもない。


「来い、<犬神>」


 翳した左腕から零れ出る黒い靄は次第に凝固し三匹の黒い犬へと変化する。

 至近距離から放たれた<犬神>はそれぞれ喉、腕、足を狙い襲い掛かった。

 だが近寄らせない、鬼は大太刀でそれを薙ぎ払い、


『がっ……!?』


<犬神>は囮、懐に入り込み左肩で鳩尾を穿つ全霊の当身。鬼は対応しきれず、見事に吹き飛ばされる。

 素手で鬼を退けながら、やはり甚夜は平然とした態度を崩さない。不敵であったが鬼に今迄の敵意はなく、寧ろ嬉しそうでさえあった。


『確かに、舐めていたようです。やはり、貴方は強い』


 しかし、と重々しく言葉を続ける。


『それでも、刀を振るわぬ貴方など見たくはなかった』


 吐き捨てるようにそう言って、鬼は大きく後ろへ跳躍し、迷いなく去っていく。

 襲い掛かるのも突然ならば逃げるのも突然。鬼はすぐさま見えなくなり、古門には甚夜だけが残された。

 追うことはしなかった。強がってはみたものの刀が無いのは痛い。ここで無理をして反撃に合うのは避けたかった。

 しかし追わなかった一番の理由は、鬼の力量を警戒してではなく、一瞬の邂逅に違和感を覚えたからだろう。

 あの鬼は何故かこちらのことを知っている様子だった。

 おそらくは以前斬り結んだことがあるのだろう。それ故に失望などという言い回しをした。

 あの鬼は一体何者なのか。

 思索に耽り記憶を探るも、あのような鬼を相手取った覚えは欠片も出てこない。

 だが同時に覚えがあるような気もしている。

 どれだけ考えても答えは出ず、甚夜は一度溜息を吐いて思考を中断する。



 ────それでも、刀を振るわぬ貴方など見たくはなかった。



 鬼の捨て台詞が、何故か耳にこびりついていた。





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