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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
明治編

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『二人静』・4(了)




 マガツメの娘を名乗る鬼女、向日葵は欄干から飛び降りて地縛の傍らまで歩み寄る。

 見た目は年端もいかぬ女童だが、身のこなしは実に軽やか。彼女が人でないのは明白だ。


「大丈夫ですか?」

「……ええ、姉さん」


 先程までの動揺から立ち直った地縛は、端正な顔を能面のように変え、虹彩のない瞳でこちらを見た。

 腕にかすり傷を負った程度で動揺する。地縛は<力>こそ厄介だが本人はその程度でしかない。

 恐れるに足らぬ相手。しかし仄暗い瞳にぞくりと寒気が走った。


「だから言ったでしょう? おじさまは強いんです」

「本当、姉さんの言う通り……正直、あの男を捕えられる気がしないわ」

「それなら……」


 地縛に身を屈めさせ、向日葵はなにやら耳打ちをする。

 その仕種は戦いの場だというのにどこかのんびりしていて、傍目から見れば妹が姉に内緒話を聞かせているようだ。

 もっとも、真実妹なのは地縛の方。それは事実らしく、抵抗せず向日葵に従っている。


「そう……いいわね、それ」


 聞き終え、納得したように頷き、鬼女はにたりと嫌な笑みを浮かべた。

 兼臣と同じ顔立ちをしていても受ける印象はまるで違う。美しいと呼べるだけの容貌でありながら、だからこそ彼女の笑みは気味が悪い。

 今度は向日葵が甚夜を見詰め、こちらは相も変わらず夏の花のように鮮やかな笑みを咲かせる。

 それと同時に六本の鎖が再度動き出す。金属のこすれ合う音を響かせ、鎌首を擡げこちらを狙っていた。


「おじさま。ここからは姉妹で行かせて頂きますが、よろしいでしょうか?」

「好きにしろ」


 兼臣に目配せをすれば黙って頷く。

 仕切り直しだ。息を吸う。肺を冷たい空気で満たし、心を鎮める。相手が誰であろうと為すべきを為す。向日葵を、敵として認めよう。

 

「では、始めましょう」


 向日葵の一言に鎖が蠢いた。甚夜と兼臣に二本ずつ、計四本の鎖が飛来する。

 地縛本人は兎も角、奴の<力>はやはり脅威。躱し弾くが、鎖は軌道を変えてすぐさま襲い掛かってくる。

 ちらりと横目で見れば兼臣も苦戦しているようだ。

 甚夜の剣は我流。幼い頃に学んだ剣術が下地になってはいるものの、そのほとんどが実践によって磨かれた剣だ。

 対して兼臣の剣は足捌き、打突共に基本に忠実。正当な剣術といった印象である。しかし応用にかけるという訳でもなく、道場剣術を実戦向きに扱っている。

 人に出来る範囲内の動きで、鬼をも凌駕し得る体技。それはある意味で剣の理想形というべきものである。


「くっ……」


 だからこそ地縛とは相性が悪い。

 剣術とはあくまで対人の技巧。四肢をもって戦う鬼ならばまだしも、縦横無尽に襲い来る鎖はやりにくいのだろう。

 それは甚夜も同じ。流石にこんな相手との戦いは初めてだ。

 後ろには向日葵も控えている。地縛の姉というならば、あの娘もまた<力>を得た高位の鬼である可能性が高い。


 ならば、地縛に手間取っていれば状況は不利へ傾く。

 多少の無茶は承知で現状打破に動くべきだろう。


 傷は覚悟の上、無理矢理に突っ込んででも距離を詰める。

 甚夜は腰を落し、鎖を弾き、次撃が来るまでの僅かな合間を縫って駈け出した。まずは地縛を斬り伏せる。

 一気に踏み込み、しかし鬼女は余裕さえ持った態度でそれを眺めている。

 何故か、彼女達は笑っていた。


「今です」


 無邪気な声に呼応して、地縛は左手を空に翳す。

 すると先程まで甚夜を狙っていた鎖が手元に戻った。

 何故、と疑問に思う暇さえなかった。

 次の瞬間には唸りを上げ、風を切り、猛り狂う。

 鞭のように、蛇のように、鎖が振るわれた。




 ただし、六本全てが兼臣を狙って。




 一瞬、思考が真っ白になった。

 六本の鎖は兼臣に向かっている。

 まずい。

 幾らなんでもあの全てを捌くなど彼女には出来ない。


「おじさまは、目の前で傷付こうとしている誰かを見捨てるような人ではありません。ですから、捕えようと狙う必要はないんです」


 ああ、お前の言う通りだ。

 以前ならばまだしも、江戸での生活で大切なものを得てしまった今では、目的の為に全てを切り捨てられる程強くはなれない。

  

「あの女性を狙えば、自分から当たりに来てくれます」


 だから向日葵の言葉は、掛け値のない真実だった。

 甚夜はほとんど無意識のうちに兼臣の元へと向かっていた。

<疾駆>。瞬きの間に少女の前へ。かばうように立ち、襲い掛かる鎖と真っ向から対峙する。それ以外の選択を選べる訳もなく、相手の策略と理解しながら、猛撃の前に身を晒すしかない。


「葛野様っ」


 何か言いたいようだが今は構っている暇はない。

 襲い来る鎖を夜来で薙ぐも、一つ防いだところで次から次へと鎖が降り注ぐ。

 状況に合わせた最適な<力>を行使すれば、地縛はこの上ない脅威となる。

 想像は現実のものとなった。

 地縛の<力>を有用に動かす頭が付いた。それだけで一気に劣勢へと追い遣られる。

 退くことも避けることも出来ない。それをすれば兼臣が討たれる。親しくもない相手だが、見捨てることは出来そうにない。我ながら難儀な男だと甚夜は舌を鳴らした。 

 一本、二本、三本、近付く鉄球を斬り付けても鎖の部分たわむだけ、直ぐに元へ戻り再度攻撃を仕掛けてくる。

 多角的に放たれる猛攻を一つ一つ叩き落としていく。

 だが手数が足りない。


「捕まえた……」


 地縛が嘲笑う。

 只管に弾いて、尚も防ぎきれず。何時の間に忍び寄った鎖に、左足を絡め取られていた。


「づっ……!?」


 鎖が急激に熱を帯び、肌を焼いたかと思えば足に巻きついていた筈の鎖は消えていた。

 猛攻が止んだ。地縛は先程の動揺など無かったことにして悠然と構える。


「……何をした」

「さぁ?」


 睨み付けるも鬼女はにたにたと余裕の笑みを見せるだけ。動きを止めた甚夜に対して追撃もしかけてこない。

 よく理解は出来ないが、地縛に“何か”をされた。

 それが余裕の正体。手傷を負わせた訳でもなく、尚も自身の優位を確信するだけの“何か”。地縛にはそれがあるのだ。

 そこまで考え、余分な思考を斬って捨てる。

 いくら考えた所で推測は推測に過ぎず、為すべきは変わらない。

 ならば、やることなぞ端から一つ。

 あの鬼女を取り押さえる。

 何をされたかは後で考えればいい。

<疾駆>。一気に距離を詰め、袈裟掛け。刃を返し、峰で地縛を打ち据える。


「あら、残念」


 打ち据える、つもりだった。

 なのに足が動かなかった。違う。<疾駆>が発動しなかったのだ。

 いったい何故。一瞬の驚愕、それがまずかった。


「ちぃっ」


 鳩尾を狙う。

 迂闊。戦いの最中に呆けるなど、己の愚かさに嫌気がさす。

 寸での所で鎖を弾き、地縛に目を向ける。


「不意を打っても当たらない、ほんと厄介。でも、<地縛>……ようやく貴方を捕まえたわ」


 女は勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 やられた。

 絶対の自信が込められた言葉に理解する。

 これが“何か”。地縛の<力>なのだと。

<地縛>は鎖を操る<力>などではない。鎖の具現・操作はあくまで余技に過ぎず、その本質は『縛る』こと。


「貴方の速さを縛った」


<疾駆>を『縛られた』。甚夜は感覚でそれを理解した。

 動揺する暇もなく、再度鎖が振るわれた。背には変わらず兼臣がいる。これでは先程の繰り返しだ。


「悪い、兼臣殿。退ってくれ」


 小刻みに刀を振るい、鎖を逸らしながら、出来るだけ平静に言い聞かせる。


「……すみません、無理ですっ。足が、動かないのです」


 返ってきたのは歯噛みするような嘆きだった。

 悲嘆の表情。打ち砕くように鉄球が飛来する。兼臣に意識を割いた分、一瞬反応が遅れた。右腕を精一杯伸ばし払うも、たわみ、巻きつく鎖。またも熱が肌を焼く。


「飛ぶ斬撃も厄介ね。縛っておくわ」


 飛ぶ斬撃。今度は<飛刃>を封じられた。

 まずい、このままではやられる。足が動かないという兼臣を左腕で脇に抱え、無理矢理に後ろへ飛ぶ。

 十分に距離を取って腕の中にいる少女に目をやれば、彼女は悔しそうに顔を歪めている。


「すみません……足手まといに」


 怪我をしたのかと思ったが違うらしい。

 兼臣には傷一つない。ただ着流しから覗く彼女のすらりとした足、その白い肌には鎖の模様をした刺青があった。

 思わず自身の右腕を見れば、其処にも鎖の刺青。見てはいないが左足にもあるのだろう。


「<地縛>……」


 咀嚼するように呟く。

 宵闇に沈む京の町。五条大橋に佇む鬼女は、不遜な態度でこちらを眺めている。その周りには三本の鎖がゆらゆらと揺れていた。

<疾駆>、<飛刃>を封じられた。兼臣は足が動かなくなった。消えた三本の鎖。肌に浮かび上がる鎖の刺青。

 どうやら鎖は<力>を封じるだけではないらしい。


「鎖一本につき、何か一つを制限する<力>か」


 おそらく<地縛>は『縛る』という言葉の範囲内ならば、如何なるものでも縛り付けることが出来る。

<力>であっても、行動であっても。


「はあい、正解。これで貴方の勝ち目はないわよ」


 せせら笑う鬼女。傷を負った程度で動揺していた割に、随分と上から見てくれるものだ。

 ふう、と一度溜息を吐いて肩を竦める。


「お前は阿呆だな」

「……なんですって」


 顔付きが変わる。挑発にも乗りやすい。

 よかった、と思う。<力>に反して本人は与しやすい。これならまだ付け入る隙は在りそうだ。

 ゆっくりと歩く。地縛の存在など意にも介さぬ、まるで散歩でもするかのような気楽さである。

 それが気に障ったのか、激昂と共に三本の鎖が放たれた。


「っ!? 駄目です!」


 向日葵が叫ぶ。しかし止まらない。まったく、有難い。こうも簡単に動いてくれるとは。

 兼臣は既に間合いの外、鎖は全てこちらに向かってくる。理想的な状況だ。

 甚夜は平静のまま夜来を振るい、近付く鉄球を薙ぎ払う。

<力>を封じられても鎖の数が減ったのだから、防ぐのは寧ろ楽になった。

 そして鎖の数が減ったのならば地縛は自身の防御に鎖を回す余裕もない。

 向日葵が止めたように、三本の鎖で受けに回っていれば攻めあぐねただろう。

 だが攻撃に全ての鎖を使った今。

 追い詰められたのは地縛、お前の方だ。


<隠行>。


 風景へ溶け込むように甚夜の姿が消える。


「え?」


 ぽかんとした、少女らしい声だった。

 突然姿が消えたことに頭が追い付いていないようだ。動きを止めたまま辺りに視線をさ迷わせている。

 地縛は<力>が使える以外は本当にただの少女。正直に言えば、刀を振るう相手としては心情的にやりにくい。

 だが、悪いな。

 為すべきを為す。男だろうが女だろうが関係ない。一瞬顔を見せた惰弱な思考を捻じ伏せ、間合いを詰める。


「目の前にいます!」


 向日葵が叫ぶ。何故分かった。疑問に思ったが動きは止めない。

 弾いた鎖がもう一度振るわれる、しかしこちらの方が速い。先程の交錯で地縛自身の技量が低いのは立証済み、今更回避も防御も不可能だ。


「いっ、あぅ……!?」


 腹部に一閃。峰打ちとはいえ、渾身の横薙ぎが突き刺さった。

 体は「く」の字に曲がり、膝が折れる。遅れて届いた鎖を防ぎ、首を垂れる地縛に切っ先を突き付けようとして。


 宵闇に蛇が二匹。


 悶えながらも鎖を振るう。頭部に目掛け放たれたそれを後退し躱す。

 その隙に体を無理矢理起こし、地縛はこちらを睨みつけた。だがその視線に力はない。


「退きましょう」

「でもっ」

「貴女はまだお母様の命を果たしていない。此処で散ることは許されません」

「うぅ、わ、分かってるわよ……」


 最早これまでと悟ったのか、向日葵は冷静に地縛へと言いつけた。

 傍へ寄りそう姉の言葉に悔しさを浮かべながらも頷く。ここからの逆転はない、彼女自身分かっているのだ。


「ではおじさま、申し訳ありませんが此処で失礼致します」

「向日葵よ。悪いが逃がさんぞ」


 後を追おうと一歩踏み込む。

 邪魔をするように、鎖は不規則な動きでこちらへ襲い掛かってくる。

 正面。体を捌き更に進む。

 袈裟掛け。身を屈め掻い潜る。

 地を這い、顔を目掛けて跳ね上がる。立ち止まり夜来を振り下す。

 三本全てを躱し、防ぎ切った。最早相手に攻撃の手段はない。<疾駆>は使えないが今の地縛や向日葵よりも甚夜の方が速い。

 全速で走り、逃げる二体の鬼へ追い縋る。


「後ろっ」


 しかし追跡は中断される。

 兼臣の声に振り返るよりも早く、鉄球が背中を殴り付けた。


「がっ……!?」


 走る衝撃。体勢を崩しそうになるもどうにか耐え、背後から再度襲い掛かる鎖を叩き落とす。

 向き直り地縛を追おうとした時、


「逃げられた、か……」


 既に彼女達の姿はなかった。

 五条大橋から眺める京の町は川の流れが聞こえる程に静まり返っている。

足音はない。今からでは追いつけないだろう。


「葛野様」


 先程まで動けなかった兼臣が近付いてくる。

 見れば足から鎖の刺青が消えていた。どうやら四本目の鎖は彼女を縛っていたものらしい。


「すみません……」

「いや、気にするな。これは私の失態だ」


 足を引っ張ってしまったと思っているのか、兼臣はひどく沈んでいる。

 甚夜の表情は険しい。彼女を責めるつもりはない。沸き上がる怒りは自身へ向けられたものだ。

 地縛の立ち振る舞いを思い返す。

 強さで言えば土浦や岡田貴一の方が遥かに上。脅威と感じるような相手ではない。

 しかし地縛は<力>一つで身体能力の低さ、体術の未熟、経験差を引っくり返してみせた。

 勝利の目は幾つもあった。

 それを拾い切れなかったのは己の未熟。

 慢心していた。

 あの程度鬼に遅れは取らぬという自負が、増長がこの敗北を生んだのだ。


「マガツメ、か……」


 敗北を噛み締め、あの鬼女の後ろにいるであろう存在を思う。


 ───マガツメ様の命に従い、人を狩っております。


 地縛はそう言っていた。マガツメと呼ばれる存在が人に仇なすならば、いずれ相見えることもあるだろう。

 その娘を名乗る地縛とも……そして、向日葵とも。

 柄を握る手に力が籠る。 

 これ以上の無様は晒さん。

 宵闇に沈む京の町、五条大橋の上。

 次は負けぬと固く誓い、しかし何故か、胸に一抹の寂しさが過った。




 ◆




「ありがとうございました」


 暖簾を潜った客に一礼。愛想笑いさえしない店主だが、常連にとっては慣れたもので特に気にした風もなく店を出ていく。

 昼食時は賑わいを見せた店内もそろそろ落ち着きを見せ始め、客足もまばらになってきた。

 最後の客を送り出し、ようやく夕方まで一心地、といったところである。

 

 一夜明けて、甚夜は蕎麦屋の店主としていつも通り店を開けた。

 しかし働きながらも頭にあるのは昨日の出来事。屈辱の敗戦が脳裏を過る。

 五条大橋に出る鬼。

 その討伐は結果として失敗に終わった。

 地縛を捕えることは叶わなかった。向日葵の言う『お母様の命』とやらが何だったのかも分からず仕舞い。

 何一つ得る物はなく、それどころか<疾駆>と<飛刃>は封じられたまま。頭が痛くなる程の失態だ。


 そして、“マガツメ”なる存在。

 あれ程の<力>を持つ鬼の母、おそらく並みの相手ではない。

 向日葵の言から想像するに何やら目的を持って動いているようだ。

 嫌な気分になる。地縛はマガツメの命で人を狩っていると語った。狙いは分からないが、およそ真っ当なものではないだろう。


「まったく、儘ならぬな」

「ただいまー」


 暗い気持ちで溜息を吐くと、見計らったように出かけていた野茉莉が学校から帰ってきた。

 店に入ると真っ直ぐ父の下へ駆け寄り、様子がおかしいと察して心配そうに声を掛けた。


「父様、どうかした?」

「いや。なんでもない。お帰り、野茉莉。どうだった?」

「うん、今日は算術と国語をやったよ。早く覚えてお店を手伝うね」


 嬉しいことを言ってくれる。

 沈んだ心地も自然と薄れ、甚夜は軽く愛娘の頭を撫でた。


「疲れただろう」

「へへ、これくらい大丈夫だよー」

「ならいいが。一段落ついたし、一緒に茶でも飲むか?」

「え、いいの?」


 嬉しそうに顔を綻ばせ、しかしすぐに戸惑ったような表情へと変わる。

 視線は店内に一人だけ残っていた、客と思しき女性へ向けられていた。


「どうかしたか?」

「でも、まだお客さんが」


 女は綺麗な所作で箸を動かしている。

 まだお客さんがいるのにいいのだろうかと、野茉莉は遠慮がちに目配せをする。

 だが気にするようなことではない。上目遣いで見てくる愛娘の頭を優しく撫で、甚夜は「別にかまわない」と穏やかに言ってのけた。

 そも最後の客は既に送り出した。彼女は客ではないのだ。

 暗にそう言っても女はどこ吹く風。蕎麦を食べ終えると、一度茶を啜り、空になった丼を甚夜へ差し出した。


「次はかき揚げ蕎麦をお願いします」

「……おい、三杯目はそっと出せ」

「ですが前金で六十円、お金は十分払っていますよ?」

「だとしても食い過ぎだ。というか何故まだうちにいる」


 女は昨夜の依頼人、兼臣だった。

 何故か彼女はまだ鬼そばにいる。その上既に二杯の蕎麦を食べ終え、更に追加注文しようというのだから、文句の一つも言いたくなるのは仕方のないことだろう。


「葛野様は鬼の討伐を生業としている。ならば、いずれマガツメと見えることもあるでしょう。それに今や貴方様にも地縛を追う理由があるのでは?」


 それは事実だ。<疾駆>と<飛刃>は地縛によって封じられた。

 ならば地縛を討てば戻るだろう。最早地縛の討伐は依頼だけが理由ではなくなっていた。


「確かに。だが、お前が此処にいる理由にはならん」

「貴方様が地縛を追うのでしたら、私も此処に住まわせて貰おうかと。そうすれば地縛の情報を得られますし」


 案外、向こうの方から襲ってきてくれるかもしれません。

 冗談にもならないことを綺麗な笑顔で言う。昨夜のしおらしい態度は何処へ行ったのか。口調とは裏腹に随分と押しが強い娘だ。

 繊細な少女、という感想は覆さなくてはいけないかもしれない。


「父様、どういうこと?」


 若干不機嫌な顔でこちらを睨む野茉莉。どういうことなのかは甚夜の方が聞きたかった。


「同じ目的を持っているのですから、私がいても問題はないでしょう。足手まといにならぬよう腕を磨きますし、お店の方も手伝わせていただきます」

「年頃の娘が男の家に転がり込むなど認められる訳がなかろう」

「ですが葛野様は私の依頼を受けてくださいました。前金も払っている以上、私は依頼人。従え、とまでは言えませんが、多少の無理は受け入れて貰えませんか?」


 思わず言葉に詰まった。

 そう、彼女は既に六十円という大金を払っている。ついでに言えば甚夜は地縛の討伐を失敗しているのだ。立場が弱いのはこちらの方である。

 兼臣は、おそらく昨夜の戦いから甚夜ならば地縛を討てると判断した。

 であれば依頼を取り下げるような真似をする筈がない。今更金を返すと言っても兼臣は受け取らないだろう。


「いかかでしょう」


 優しげな表情を見せながら小首を傾げる。

 詰み、だ。

 押し黙り、厨房で淡々と作業を始める。

 そうして出来上がった一杯の丼を兼臣の前に置く。

 

「……かき揚げ蕎麦、おまち」

「つまり、認めてくださるということですね」


 してやったりとでも言わんばかりの満面の笑顔、反面野茉莉は完全にふくれっ面だ。後で機嫌取りの一つでもせねばなるまい。

 そんな甚夜の内心など知らぬ兼臣はかき揚げ蕎麦を旨そうに啜っている。

 考えてみれば、分からないと言えばマガツメだけでなくこの兼臣もそうである。

 この少女が何者なのか、そもそも何故地縛と同じ顔をしているのかも分からない。


「これも美味しいです」


 じっと見つめていると、甚夜の視線に気付いたようで兼臣は少しだけ口元を緩めた。

 分からないことは在る。しかし悪い人間ではなさそうだ。地縛を捕えるまで宿を貸すくらいは良いだろう。

 軽く溜息を吐きながら、甚夜は自分を納得させることにした。





 葛野甚夜は新時代を蕎麦屋の店主として、娘と二人穏やかに暮らしていた。

 しかし鬼の跋扈、マガツメと呼ばれる存在。

 歴史に名高い魔都、京都。宵闇の中で何やら得体の知れないものが蠢き始めていた。

 それはそれとして、甚夜の暮らしは変わらない。普段は蕎麦屋の店主、裏では鬼を討ちながら、毎日を過ごしていく。

 彼はやはり何時まで経っても生き方を変えられない。

 ただ、それでも変わるものもある。


「ごちそうさまでした」


 ようやく満足がいったのか、兼臣は実にいい笑顔で両手を合わせる。

 邪気のないその仕草に、毒気を抜かれたような気がした。 




 こうして、二人静かに暮らしていた『鬼そば』には。


「では、これからもよろしくお願いします」


 よく分からない居候が増えた。




『二人静』了



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