『願い』・3
鬼子。
幼い頃から異常なまでに体格の良かった土浦は、周りの者にそう呼ばれ育った。
彼を鬼子と呼ばなかったのは幼馴染の少女だけ。他の者は挙って土浦を責め立てた。
それを辛いと思ったことはない。
同年代の子供達は鬼子だ鬼子だと土浦をからかってきたが、腕力に優れた土浦が暴れれば一溜まりもないと知っていた。
だから彼等に出来るのは、せいぜい遠くから負け犬のように吠えるくらい。そんなくだらない連中の声に心を動かされる訳がない。
時折手を出してくる奴もいたが大抵の場合一発殴れば泣いて逃げる。
そういった毎日を続けていたがために孤独な幼少時代を過ごした土浦だったが、辛いとは思わなかった。
人は僅かな差異をさも大事であるかのように取り上げ、他者を差別するもの。
土浦は自身の経験によりそれを理解した。
幼い頃から鬼子と呼ばれ続けた彼は周りの人間になど端から期待していない。
だから鬼子と蔑まれても、大人達から邪魔にされ時には蹴飛ばされもしたが「やはり」と思う程度。失望も痛苦もある筈がなかった。
長らく人に虐げられた彼は当然のように答えを得る。
人は信じるに足らない。
僅か七歳の時に至った現世の真理である。
二十を超える頃、七尺の巨躯を誇った土浦はやはり周りから鬼子……いや、この時には既に鬼と呼ばれるようになっていた。
断っておくが、彼の両目は黒である。
容姿から鬼と呼ばれただけであって、彼は紛れもなく人。しかし周りの者には理外の存在と思えたらしく、ある集落に身を置いていた土浦は、村八分同然の扱いを受けていた。
父も母も既に亡くなった。
幼い頃から鬼子と呼ばれた彼に友などいない。
だがそれでも辛いとは思わなかった。
その理由は、幼い頃とは少しだけ変わり始めていた。
「おお、土浦。来たか」
鍛冶場で鎚を振るっていた男は一段落ついたところで振り返り、子供っぽい無邪気な笑顔で土浦を迎え入れた。
土浦は集落の鍛冶師の徒弟として腕を磨き、自身が鋳造した包丁などの鉄製品を売って生計を立てていた。
鍛冶師になりたかったのではない。村八分にあっていた彼を唯一受け入れた働き口が鍛冶の道だったというだけだ。
「見てくれ、二本目だ。今度のは少し波紋に拘ってみてな。のたれ刃に葉の組み合わせ。まるで少女のように涼やかな刀身じゃねえか」
自身が打った刀を見せつけながら満足そうに師は頷く。
彼の師匠は稀代の名工だが、同時に奇怪な変人でもあった。
古くから続く産鉄の集落、その中でも随一の鍛冶の腕を持ちながら、その時の気分でしか仕事をしない。
水へし小割り。積沸かし。鍛錬に皮鉄・心鉄造り。素延べ火造り土置き焼き入れ。拵えを作る以外の全ての工程を自分一人で行う頑固者。
土浦が出入りしているせいで「あの男の鍛冶場には鬼が出入りしている」と陰口を叩かれても、どこ吹く風で平然と笑っている。
『兼臣、それ以上はやめておけ。弟子が困惑している』
そして、何よりも奇怪だったのは、妻の存在だ。
土浦の件はただの誤解だが、師の鍛冶場には本当に鬼が出入りしていた。それどころかこの男は鬼女を娶り、人外の存在と夫婦になったのだ。
「いや、でもよ夜刀。お前も見てくれ。こいつは我ながら美少女になった」
『……そんなだから、お前は変人だと言われるんだ』
「何故呆れたような目で俺を見る。って我が弟子よ、お前までっ!?」
「ああ、いや。つい」
三十を超える男と見た目十四、五と言った少女の遣り取りに土浦は苦笑いを浮かべ、今日も鍛冶を始める。
鬼子と呼ばれ虐げられるだけだった日々。
しかしこの場所には今までにない充足感があった。
鬼と集落の者から呼ばれても辛いとは思わない。
人は信じるに足らない。それをすでに知っているから。
だが今の土浦には僅かながら信じられる者達がいた。
己に生きる術を与えてくれた師匠。
鬼でありながら人に嫁いだ師の妻。
そして、最後は。
「お、嬢ちゃんが来たぜ。ったく、毎度毎度見せつけてくれんなぁ」
誰かが鍛冶場を外から覗いている。目敏く見付け師は、完全にからかう調子でいやらしく笑った。
外にいたのは、同年代で唯一土浦を鬼子と呼ばなかった女。
彼の幼馴染の少女だった。
「そうだな……今日は一段落ついたら切り上げて行っていいぞ」
「ですが」
「いいから行け。師匠命令だ」
こういう時、大抵師匠は都合をつけてくれる。
長い黒髪の鬼女も優しく目を細め、土浦に微笑みかけた。
『折角だから行けばいい。偶にはそんな日もいいだろう』
「……わかりました。ではお言葉に甘えて」
「おう! ……それはそれとしてなんでこいつの言葉には素直に従うんだ? 俺、師匠じゃねえの?」
師の言葉は聞かなかったことにしてそそくさと片付け鍛冶場を離れる。
表情は変わらず、しかし心は浮き立つ。
その先では彼女が。
相変わらずの、柔らかい笑顔で───
◆
降りしきる雨の中、土浦は暗い夜道を歩く。
日本橋より京都・三条まで六十九宿、百三十里弱をつなぐ中山道。
江戸を起点とする五街道の一つで、東海道とともに日の本の主要な交通路として多くの人々が利用してきた道である。
雨の夜は視界が悪い。耳を突く雨音、遠くを見ても夜の闇があるばかり。歩いているのは彼だけ。長く続く道は開けているのに、先を見通すことが出来ない。
そのせいだろうか。
今日は随分昔のことが脳裏を過る。
土浦は少しだけ顔を顰めた。思い出したくもない過去だ。だというのに何故、忘れ去ることが出来ないのか。陰惨とした心持ち。足取り重く、しかし一歩ずつ前に進む。
土浦は数度首を横に振り、無理矢理に古い記憶を追い出し、行く先を睨む。
京には多くの志士がいるだろう。
倒幕を画策する者どもを皆殺しにする。
それが泰秀より与えられた命。ならば余計な考えは必要ない。俺は泰秀様を信じている。他の感情など余分だ。今はただ、主命を為すことにのみ専心する。
余計な思考を斬って捨て、ただ歩く。
流れる風景。
街道の脇には槐の木が立ち並び、その傍らには土盛りがされていた。
一里塚。
全国の街道には旅人の目印として一理毎に土盛りが設置されている。これを一里塚と呼び、多くの場合榎や槐の木が塚の近くに植えられている。
旅人はこの目印に沿って歩き、時には木陰で休息を取り、通り過ぎた一里塚を数え行く先を計り、長い長い旅路を越えていくのだ。
人は面白いことを考える。
土浦は元々人であったが負の感情をもって鬼へ転じた。しかし幼い頃から鬼子と呼ばれ育ってきた彼は、自分のことを人だと思えないでいる。それ故の感想だった。
更に歩き、幾つの塚を越えたか分からなくなり出した頃、一里塚の傍ら、槐の下に人影が見えた。
雨宿りしている旅人だろうか。
不審に思い目を凝らせば、その姿に驚愕する。木陰に佇んでいるのは人ではなかった。
雨の中傘も差さず佇む男。腕を組み、左目だけを瞑ったまま槐に背を預けている。
浅黒い、くすんだ鉄のような肌。
着物の袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。
白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。
肩口までかかった銀髪は雨に濡れ、そのせいか鈍い刃物のように見えた。
「随分と、遅かったな」
言いながら槐の木陰からゆっくりと離れ、街道の真中へ。
堂々とした振る舞いには、迷いなど欠片も見られない。
男の瞼が上がる。
其処には、赤の双眸が。
「貴様……」
男の名は甚夜。
先刻争ったばかりの鬼は悠々と、再び土浦の前に立ち塞がってみせた。
「お前を待っていた」
言葉と共に甚夜は腰のものを抜刀する。
構えずだらりと腕を放り出しているだけだが視線は鋭い。
「先刻、鬼の群れに話を聞いた。京へ向かうそうだな」
鬼の群れ、というのは泰秀が先に送ったという兵のことか。
土浦は微かに眉を顰めた。どうやらあちらの方が早く行動を始めていたらしい。その上で此処に立っているのならば、鬼達は既に斬り伏せられた後だろう。
「片付けたか」
「手間取ったが肩慣らしにはなった」
お互い其処に感情はない。
甚夜にしてみれば邪魔なものを斬り伏せただけ。土浦にとっても必要ない有象無象。特別な感情など生まれる訳もなかった。
「何故だ」
激しい雨の中、土浦は冷たく問いを突き付ける。
「貴様は、何故同胞を討ってまで泰秀様の邪魔をする」
三浦某を襲った際は、邪魔立ても想定の内だった。
しかし今回は違う。土浦が京で何をしようと、討幕の士でもないこの男が割って入る理由は薄い。
衆目に正体を晒した今、人の為に戦う義理もない。土浦には、甚夜の意図が読み取れなかった。
「お前は、何のために刀を振るう」
更に問い詰めれば、ほんの僅か表情が動く。
何か心に触れたのか、意外なものを見るように、怪訝な面持ちで土浦を覗き見る。
そして小さく息を吐き、ようやく甚夜は徐に口を開いた。
「以前も言ったが思想に興味などない。開国でも攘夷でも好きにやってくれ……そう、思っていたのだがな。どうやら私は、畠山泰秀のやりようが気に入らないらしい」
面と向かって泰秀を気に入らないと言う。
当然土浦は不快げに顔を顰めるが、一度敗北を喫しながらも、甚夜の態度には余裕さえ感じられる。
「栄枯盛衰は世の常だが、それは須らく人の手で行われるべきだろう」
今、京では開国派と攘夷派がお互いの我を張り合って戦い続けている。
思想こそ違えど彼等は共にこの国の未来を憂え立ち上がった者達だ。
短い命で、それでも何かを成し遂げようと彼等は刀を振るっている。
儚く咲いて散る命は長くを生きる鬼にはない美しさだ。
「この先にあるのは人の戦い、時代を決める闘争。……私達のような化け物は、関わるべきではない」
「だから、邪魔をすると?」
「いいや、流石にそこまで酔狂でもない。もっと、理由は単純だよ」
どこまでいっても鬼は鬼。
人同士の戦いに手を出してはならない。
その考えに嘘はなく、しかしそれを他人に強いる程傲慢ではない。
なにより甚夜が立ち塞がる理由はもっと単純で、ごく個人的なものだ。
「この先は友の戦場だ。……悪いが、通さん」
最後まで武士でありたいと願った直次。
最後まで友でありたいと言ってくれた彼の選んだ生き方を、妙な横槍で汚されたくは ない。
直次が人同士の争いの中で命を落とすのは仕方ない。武士としての生き方を貫いた果ての死ならば本望だろう。
それを邪魔する気はない。
だが鬼の手によるものなら別だ。
「お前は」
「私には資格がないと思っていた」
土浦の言葉を硬い鉄の如き声が遮る。
「憎悪に塗れ、妹を殺そうとする男にそれを為す資格などある筈がないと。口にするのもおこがましいと、躊躇ってきた。だが、間違えたままでも救えるものはあるのだと教えて貰った。だから……」
人よ、何故刀を振るう。
あの時の問いに、今答えを返す。
憎悪は消えない。
鈴音を止めると。
殺すか、救うか。
未だに選べぬこの手にもまだ守れるものがあるのなら。
「曲げられぬ生き方、そして譲ることの出来ぬ矮小な“意地”の為に」
正義ではなく、ただ己の願うままに。
例え、どれだけ醜い偽善だとしても。
「自身が守りたいと願うものの為に……今一度この刀を振るおう」
それでも、間違えたままの生き方にも、きっと救えるものはある筈だ。
突き付ける切っ先。
其処に迷いはなかった。
「そうか……」
納得したように頷き、瞬間土浦の体が膨張する。
服を破り肥大化する筋肉。浮かび上がる紋様。彼もまた鬼へと化した。
『貴様にも、信じるものがあるということか』
赤い瞳に憎悪や敵意はなく、寧ろ真摯でさえあった。何故そんな目で見るのか。甚夜には土浦が何を考えているかは分からない。
しかし感じ取れる。
この男もまた何か信じるものの為に、曲げられない己の生き方の為に戦っているのだと。
「ああ。私から譲る気はない」
『無論、俺もだ』
お互いに譲れない自分がある。
お互い生き方を変えることなど出来ない。
ならば、お互い選ぶ道は一つだけ。
『潰す』
「斬る」
降りしきる雨の中。
二匹の鬼は──以前と同じように──絶殺を宣言した。




