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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
幕末編

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『妖刀夜話~飛刃~』・5(了)



 薄月の夜。

 映し出された二つの影。

 それ以外に人はいない。

 静けさが染み渡る川縁。

 深川に掛かる橋の前、二人の男が視線を交える。

 切っ先を突き付けた鉄面皮の偉丈夫、甚夜は橋を背に悠々と構えている。

 対する男、会津藩士・杉野又六は忌々しげに睨み付けていた。

 目指す料理茶屋『富善』へ向かうためにはこの橋を渡らねばならず。しかし目の前の大男は譲る気はないと無言で語っている。

 その時点で杉野の取るべき行動は決まっており、初めから甚夜の行動も決まっている。

 

 甚夜は突き付けた切っ先を相手の視線から隠すように後ろへ回す。

 脇構え。

 半身となり右脇に刃が見えないように太刀を構える。間合いを隠すと同時に相手を監視し、出方によって臨機応変な対応をとる為の構えである。

 対する杉野は正眼。

 中段の構えは全ての基礎となる構えであり、攻防に最も適していると言えるだろう。


 互いに為すべきは決まっている。

 故に言葉は必要とせず、対峙は瞬きの間に終わる。


 先に動いたのは杉野である。

 身を屈め、一直線に距離を詰める。同時に高々と刀を掲げ、一足一刀の間合いを無警戒に侵し、速度に任せ振り下ろす。

 

 ……遅い。

 今まで鬼を相手取ってきた甚夜にとって、杉野の一刀は然して脅威とは映らなかった。

 だが油断はしない。例え相手に膂力や速度で劣ったとしても討ち倒す手段がない訳ではないのだ。

 甚夜はそうやって自身よりも遥かに強大な体躯を持つ鬼を滅ぼしてきた。だからこそ警戒は怠らない。


 放たれた一刀を右に半歩進んで躱し、脇構えから腕をたたみ小さく振るう。

 相手はどうだか分らないが、甚夜に殺すつもりはない。刀を奪えばそれでいい。

 両の手を回し狙うは“はばき”、鍔の上に在る刀身の手元。そこを打ち据え叩き落とす。

 それを読んだのか、咄嗟の反応か。相手は手首を返すことで打点をずらし、鍔と“はばき”の間で甚夜の一刀を受けた。

 そのまま刀身をずらし、鍔迫り合いの形まで持っていく。二人は硬直状態に陥った。


 鬼の膂力ならば力任せに押し切って相手を退かせることも出来る。しかし甚夜は敢えて鍔迫り合いを維持し、相対する敵の姿を見た。

 ただの御坊主と思ったがそれなりに剣術を修めているらしい。とはいっても道場剣術を一通り学んだ、程度のものだ。

 だからこそ違和感があった。

 正直な所、甚夜と杉野又六の間には歴然とした実力差がある。

 それは杉野自身も感じているだろう。だというのに相手の表情には何処か余裕めいたものを感じる。いや、余裕というよりも見下すような絶対の自信だ。

 この状況で何故?

 脳裏を掠める疑念。

 それを振り払うように二人は動いた。

 一瞬の硬直の後、杉野はほんの少しだけ力を抜き半歩下がり、僅かにできた隙間から縫うように刀身を滑らせ、脇腹を狙って横凪に一閃。

 狙いは良い、だがやはり遅い。

 杉野の一撃はどこかぎこちなく、その動作を見てからでも十分対応が取れる。

 甲高い音が響く。 

 鉄と鉄がぶつかり合う。脇腹への剣撃を悠々と防いでみせるが、相手も止まる気はないらしい。振り被り、更に追撃を加えようとする。

 挙動が大きすぎる。隙だらけの上に何処を斬ろうとしているかも容易に見て取れた。

 此処に来て、下手を打ったとしか思えない行動である。

 好機。

 紙一重で躱し相手の腕を抑え、刀を奪い無傷のまま制圧する。思い至ってからの行動は速かった。振り下ろされる太刀。間近に迫る白刃。

 それに合わせ右足を残し、左足を大きく引く。刃は体を触れるか触れないかの距離で空振り、甚夜は手首を極めるために左腕を伸ばし、

 


 にたり、と男が笑った。



 まずい。

 その笑みに嫌な予感を覚え、伸ばした腕を引っ込め大きく後ろへ下がるが、今度はこちらが遅かった。

 端から紙一重で避けられるだけの距離は空けていた。更に後ろへ下がった。普通に考えれば刀が触れる訳はない。事実杉野の放った一撃は切っ先を掠らせることさえ出来ずに終わった。

 だというのに、鮮血が舞った。

 届かない筈の刀が、事実届かなかった刃が甚夜の身を裂いたのだ。


 胸元に熱を感じる。

 焼けた鉄柱を抱かされたような痛み。顔には出さず距離を取る。

 杉野もこれ以上は追撃できなかったのか、一、二歩下がってこちらの様子を眺めていた。


「ふむ。妖刀、か」


 傷口に触れる。今も血が流れ続ける、鋭利な刃物で切られたような綺麗な傷口。

 いや、ようなも何もこの傷口は正しく刀傷だった。

 刀には触れていないにも拘らず刀に斬られていた。通常ではあり得ない創傷が、かの刀が理の外に在るのだと教えてくれる。

 つまり夜刀守兼臣という刀は。


「斬撃を飛ばす<力>……面白い大道芸だ」


 妖刀の名に相応しく、高位の鬼が持つ<力>を宿しているのだ。

 実に単純な<力>だが、その効果の程はたった今実証された。

 杉野の使い方も悪くない。飛ぶ斬撃を飛び道具として使わず、紙一重で躱そうとした瞬間に放つ。躱したと思った刃が寸での所で伸びてくる。

 理外の一手。大抵の相手は一刀の下に斬り伏せることが出来るだろう。


「なんだ、てめえ。なんで、生きている」


 だというのに、血を流しながらも甚夜は平然と立っている。

 杉野にとっては必殺の一撃だったのだろう、あからさまに動揺していた。


「生憎と人よりは丈夫でな」


 吐き捨てるように言った。

 人の姿をしてはいるがこの身は鬼。膂力や頑強さは人のそれを遥かに凌駕している。この程度の傷では死ぬことが出来ないのだ。……その可否は、今の己には分からないが。


「なら斬る。何度でも斬る。斬らないと、斬らないと俺は……」


 距離を空けたまま妖刀、夜刀守兼臣を振り抜く。

 瞬間風を裂く音と共に、周囲の空気とは密度の違う、透明な斬撃が飛来した。互いの距離は約三間弱。今度は純粋な飛び道具として<力>を使ってきた。

 空けられた距離を潰す為に一歩を進みながら体を躱す。しかし踏み込みに合わせて杉野は更に剣撃を放っていた。

 回避は間に合わない。ほとんど反射的に飛来する斬撃を薙ぐ。


 甲高い鉄の音。


 腕には微かな痺れがある。

 そして今尚血は流れ続けている。

 其処から想像するに、原理は分からないがあの透明な刃はかまいたちのようなものではなく斬撃“そのもの”を飛ばしているらしい。

 しかも一度放ってから二撃目を繰り出すまでの時間が短い。

 それはある意味当然か。どうやら妖刀を振り抜けばそれだけで斬撃を飛ばせるようだ。

 だとすれば相手にとっては素振り程度の負担でしかない。連続で使っても何ら問題ないのだろう。

 反面こちらは斬撃を避ける、或いは防ぐためにそれなりの負担を強いられる。速さ、というよりも攻撃の回転率では杉野に分があった。

 観察しながらも体は動く。距離を詰めようと試みるも、一歩進もうとすればそれに合わせて斬撃を繰り出してくる。自然甚夜は躱すか防ぐかを選ばねばならず、未だ間合いは三間以上空いたままだった。

 膂力、速度、剣技、戦闘経験。

 全てにおいて甚夜が勝っている。

 それでも杉野は妖刀の<力>という一点によって優位な戦況を創り出していた。


 だがそれでも自身の勝利は疑いようがないと甚夜は考える。

 故に然程焦燥を感じることもなく、作業のように飛来する斬撃を処理する。

 飛ぶ斬撃は確かに厄介だが、対抗策がない訳ではない。そもそも現状を打開する手ならば幾らでもあるのだ。

 例えば<隠行>により姿を消し、気付かれぬうちに斬り伏せればいい。

 例えば<犬神>を放つだけで、三匹の黒い犬が勝手に勝負を終わらせる。

例えば<疾駆>をもって一気に距離を詰めることだってできる。

 例えば<剛力>ならばあのような軟弱な斬撃、涼風の如く薙ぎ払えるだろう。

 いや、態々<力>を行使せずとも、鬼と化すだけで十分に終わらせることが可能だ。

 

 そうだ。現状を打破しようとするならば直ぐにでもできる。

 にも拘らず甚夜は未だ有効な手段を取らない。飛来する斬撃を捌きながら少しずつ距離を詰めようとしていた。

 どうしても、先程挙げた手段を取る気にはなれなかった。

 

 不意に相手の目を見れば、杉野は相変わらずにたにたと笑みを浮かべている。

 気に食わない。

 あれは自分の優位を確信している顔だ。口には出さずともあの目が語っている。

 

 ───お前の持つ刀では、この妖刀には敵わない。


 その見下した視線が決定的に気に食わない

 柄を握る手に力が籠った。

 妖刀を得たことがご自慢らしく、杉野は自分の刀こそが最も優れているとでも言いたげだ。

 それがどうしようもなく神経を逆撫でする。


「許せる、ものか」


 自然、呟いていた。

 甚夜は己が太刀に想いを馳せる。

 その銘を『夜来』。

 産鉄の集落葛野において、社に安置され、火の神の偶像と崇められた御神刀である。

 曰く千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀。

 葛野の業、その粋を集めて鍛え上げられた太刀。

 二十年以上前、旅立つ彼に集落の長が託してくれた、長い時を連れ添った愛刀。

 そして何より。


 ───甚太。


 夜来はいつきひめが代々受け継いできた葛野の宝。

 懐かしい笑顔を思い出す。集落の為に身を捧げた巫女。

 誰かへの想いより自身の生き方を選んでしまった女。

 夜来の所有者として『夜』の名を冠した彼女は、幼かった自分を捨て、ただ葛野の民の幸福を願った。


 遠い昔。

 その愚かさをこそ美しいと感じた。

 だから守りたいと、そう願った


 全てを失い今尚忘れることのない原初の想い。

 あの男の視線はそれに泥を塗るかのようだ。

 気に食わない。

 高々妖刀風情に夜来を愚弄される謂れはない。

 胸には懐かしい、まだ若人と呼べる齢だった頃の青い激情が灯っていた。 

 

「そんな、なまくらでよく防ぐ。だけど斬る、斬らなきゃあいつを」

  

 悉く斬撃を叩き落とす甚夜に焦れたのか、小さく零した。

 忌々しいとでも言いたげな杉野の口調に胸が決まった。

 鬼にはならぬ。

 曲りなりにも己は『夜』の名を冠する者。

 あの男は夜来をもって叩き伏せる。


 三間。


 空気を裂く音と共に飛来する斬撃。

 躱しながら重心を敢えて前に崩し、倒れ込みながら一歩を進み、地を這うように駈け出す。

 

 二間。


 己が領域を犯そうと進む甚夜へ杉野は更に斬撃を放つ。

 今更その程度で躊躇する訳もない。

 夜来は左手、逆手に握る。そのまま薙ぎ払い、眼前の敵へ肉薄する。


 一間。

 

 杉野は刀を再度振り上げた。対してこちらは斬撃を防ぐために全力で刀を振るった後だ。

 夜来をもう一度構え直し防ぐよりも杉野がこの身を斬り捨てる方が早い。

 それを確信しているのだろう、嫌な笑みを浮かべている。夜来で防ぐことは叶わず、この距離では避けることも出来ない。

 空気を裂く音。

 刀が振り下される。

 この身に迫る白刃。

 それは脳天を確実に捉えており。



 ───零。




「な……っ!?」


 伸びきった筋肉は一度収縮するまで動かすことは出来ない。だから構え直すには一拍子以上の時間が必要だ。

 だから間に合わない筈だった。

 なのに、驚愕に動きが止まった。

 脳天を叩き割る筈だった妖刀は届かなかった。


「振り抜けば斬撃を飛ばせる。逆に言えば振り抜かねばただの刀だ」

 

 振るった刀を構え直す必要はない。

 柄頭に右の掌底を叩き込み、動かない左腕で無理矢理突きを放つ。当然狙いは付けられないが、正確さはいらない。ただ相手の意表を突ければいい。

 次の手はないと思い込んでいた。だというのに、意識の外から突きを放たれ杉野は一瞬動揺し、その一瞬で十分。

 勢いを殺さず突きから払いに変化、妖刀の腹を打ち据える。


「ぎぃ……!?」

 

 響く甲高い鉄の音。

 そもそも膂力が違う。杉野ではその衝撃に耐えきれず、振り下す筈だった刀が流れる。

 この距離で、決定的な隙。先程までの余裕の面に戦慄が走る。

 互いに無防備、同じように体勢を崩してしまっている。状況は対等。


「がっ……」


 ならば当然、自力で上回る方が勝つ。

 杉野が構え直すよりも甚夜の一刀が早かった。刹那の瞬間に、横凪の一閃を腹に叩き込む。

 確かな手応え刀越しに伝わる。杉野は膝から砕け、崩れ落ちるようにその場へ倒れ込んだ。

 峰打ちだ。骨くらいは折れたかもしれないが、死には至らないだろう。地に伏した杉野を見下ろす。完全に意識を失っているようだ。

 それを確認して構えを解き、ふう、とようやく一息を吐く。


「まだまだ、青い」


 それは杉野に向けた言葉か、それとも年甲斐もなく激情に身を任せてしまった己への戒めか、自分でもよく分からなかった。

 妙に気恥ずかしい心地になって、それを誤魔化すように先程まで杉野が使っていた刀を左手で拾い上げる。

 夜刀守兼臣。

 これには鬼の<力>が込められていた。ならば案外、“喰う”ことが出来るかもしれない。


<同化>


 意識を刀に繋げる。

 目の前が白く染まった。






 ◆ 






『兼臣、それが』


「ああ、お前の血を練り込んで打った太刀だ」


『ふむ。流石にいい出来だ。だが本当に“鬼”の“力”を持った刀になるのか?』


「さあ?“鬼”が百年を経て“力”を得るんなら、この“鬼”の血の流れた刀が百年後“力”を持ってもおかしかないと思うが……実際のところどうなるかは分かんねえな」


『……適当だな』


「だがよ、出来たら面白いと思わねぇか?“鬼”と“人”。異なるものが混じり合って新しいものが生まれる。俺はな、それが見たいんだ」


「お前はいつだったか聞いたな。“鬼”と“人”は互いに疑い、憎しみ合うことしか出来ぬのか、と」


「なあ、夜刀よ。俺は刀を打つしか能のない馬鹿な男だから、お前の疑問に答えることは出来ん。だが俺とお前は夫婦になれた。ならばきっと、いつかは“鬼”と“人”が共に生きることのできる日が来るんじゃねぇかって思ってる」


『本当に、そう思うか?』


「ああ、勿論。だから俺はこの刀を打った。これは“鬼”と“人”が共に在って初めて造ることが出来た。もしこの刀が百年後“力”を得ることが出来たなら、それは俺の考えが間違いじゃなかった証明だ。……残念ながら俺にゃあ、それを見ることは叶わんが」


「悪い、夜刀。代わりにお前が見てきてくれねえか?俺の刀が果たして“鬼”の“力”を得ることが出来たのかを。そして、もし得ることが出来たなら疑わないで欲しい。“人”は馬鹿で、時々間違いを犯すが。“鬼”は自分を曲げられず、ぶつかり合うこともあるが。それでも俺達は共に生きられるのだと」


『……兼臣』


「お前の血を練り込んだ刀。そうだな……後三口程打ってみるか。四口の刀に刻む銘は全て大銘を夜刀守、小銘を兼臣としよう。夜刀守兼臣……俺とお前の名を持つ刀が、“鬼”と“人”が百年後どうなるのか。お前に、確かめてほしい」


『分かった……任せるがいい。お前の想いの行く先は私が見届ける』


「済まんな、面倒を押し付けるようで」


『なに、夫の願いを叶える……これも妻の務めだよ』


 その時鬼女が浮かべた笑顔には。

 何故か、見覚えがあって────






 ◆






 がちゃん。

 陶器が割れるような音を響かせて、意識が現実へと呼び戻された。


「今のは……」


 何処かで語り合う男女。夜刀と呼ばれた鬼。彼女を妻と呼んだ人。あれはこの刀の記憶、なのだろうか。それとも刀工……兼臣の記憶が刀に残っていたのか。

 兼臣は鬼の力を借り人為的に妖刀を造り上げようとした。

 直次からはそう聞いたが、今の記憶を見るに夜刀守兼臣とはそんな禍々しいものではないように思える。

 どう足掻いても先立つことになる夫が、妻の為に何かを遺したかった。

 彼が妖刀を造ろうとした理由はただそれだけだったのではないだろうか。


「だが皮肉なものだ」


 鬼と人が共に在れるようにと願いを込めた刀は、鬼を利用する畠山泰秀の手によってくだらない謀略に巻き込まれた。

 嫌な気分だ。戦いには勝利した。だがどうにもすっきりとしない。


 すっきりしない本当の理由は、妖刀に残された、杉野又六の記憶にあったのかもしれない。

 兼臣の記憶と共に流れ込んできた、妻を殺した時の映像。思い出すだけで嫌な気分になる。

 それを振り払うように甚夜は夜刀守兼臣を眺める。

 懐かしい、鈍い色。葛野で作られた太刀の持つ無骨な輝きが、少しだけ心を落ち着けてくれた。


「残りは三振りか……」


 夜刀守兼臣はまだ三口残っている。

 胸に刻み、転がった鞘を拾い上げ兼臣を収める。鞘の分しか重量は増えていない。それなのに何故か、この刀が酷く重く感じられた。

 静寂が響き渡る夜。

 今頃富善では土佐藩士達が大騒ぎをしているのだろう。

 だが詮無きことだ。

 一度だけ橋の向こうに視線をやり、甚夜はその場を後にした。




 文久二年・一月二十七日。

『深川会談』当夜。

 後の史書に記される出来事の裏で行われた、然して意味のない一幕である。




 ◆




「そうですか、やはり」

「ああ杉野は富善に向かおうとしていた」


 蕎麦屋『喜兵衛』。

 昼の食事を取り終え、食後の茶などを啜りながら甚夜は粗方の流れを直次に伝えた。

 複雑そうな表情で聞き入っている。徳川に仕える身として、暗殺という手段を取った者に思うところがあるのかもしれない。


「そう言えば件の刀は何処へ?」

「刀剣商に売った。確か玉川とか言ったか……中々の高値で売れた」


 その言葉に直次はぎょっと眼を見開いた。


「甚殿、それはっ!」

「安心しろ。兼臣にはもう<力>残っていない。今の兼臣は妖刀ではなくただの刀だ。それに玉川の主人はもう売る気はないそうだ。しばらく店に飾った後、適当な神社に奉納すると言っていた」

「そうなの、ですか?」

「ああ。玉川があの妖刀を売ったのだろう? 私から買い取ったのは、どうやら詫びのつもりらしい。あれで一本芯の通った男のようだ」


 商人の一分とでもいうのか、分かりにくいが、仁義めいたものはあるのだろう。

 安心したのか一つ息を吐き、しかし今度は暗い顔になった。


「しかし、妖刀……人の心を惑わす刀。世の中には恐ろしいものがあるのですね」


 その言葉を聞いて、甚夜の片眉が小さく上がった。


「何を言っている?」

「え? ですから、杉野殿は妖刀に囚われ妻を斬り殺してしまったのでしょう? それは恐ろしいことだと思っただけですが」


 不思議そうな表情を浮かべる直次に対し、ゆっくりと首を振ってみせる。



「それは違う。杉野は妖刀に囚われ凶行へ走った訳ではない」



 直次にとっては予想外の言葉だった。

 今回の件は妖刀が中心となっていると思っていただけに理解が追い付かない。

 だが夜刀守兼臣を食らった甚夜は、今回の件の真実を知ってしまった。だからこそ、すっきりとしない気分は今も続いていた。


「夜刀守兼臣は真実妖刀だった。だがあの刀が有していた<力>は<飛刃>。斬撃を飛ばす、ただそれだけの<力>だ。人を操る、持つだけで誰かを斬りたくなる、そういった妖刀“らしい”ものではない」

「で、ですが実際、杉野殿は妻を」


 そう、杉野又六は妻を殺した。それは間違いない。

 夜刀守兼臣を喰らった時、その情景もまた流れ込んできたのだ。






『あんた、なんで……』


『え、あ』


 手に入れた刀に浮かれ、その切れ味を試したいと思っていた。

 ただそれだけ、それだけだった筈なのに。

 なんで、あいつが血に塗れている?


『あん、た』


『違、血が、違う! 俺は、違う!』


 何が違う? お前が斬り殺した。

 お前は、再び手に入れることが出来た刀を振るいたかったのだろう?

 崩れ落ちそうな妻を抱きとめる。

 でも刀を投げ捨てることは出来なかった。


 ぬるり。


 不意に手を伸ばし触れた傷口。

 絡みつくような妖しげな手触りに酔いしれる。

 暖かく冷たい奇妙さが心地よい。

 皮膚の裂け目から覗く肉。


『おい、しっかり、しっかりしろよ! なんで、なんで俺……』


 この手には、一振りの、鈍い輝きが。


『あ…ああ……』


 女子の肌よりも艶かしい刃。

 鎬を伝い滴り落ちる血液。

 足元に転がるは妻の骸。


『俺が、殺した?』


 優美な夢想の中で握り締めた鮫肌の感触だけが現実だった。


『ち、違う! そ、そうだ、これは妖刀。斬ったのは、これが妖刀だったからだ。俺じゃない。俺じゃない! ……そうだ、俺は悪くない、この刀を持つと誰でも斬りたくなる! だから俺が悪いんじゃない!』


 今し方妻を斬ったばかりだというのに。

 宵闇に在りて尚も眩い白刃を見れば心が浮き立つ。

 にたりと、愉悦に表情が歪んだ。


 だから気付く。

 ああ、俺は。



『あいつを斬ったのは、この妖刀なんだっ!』



 ───妖刀に、心を奪われたのだ。





 それが、事の顛末。

 初めから妖刀の意思など介在してはいない。

 今回の件は、全て杉野又六自身の凶行でしかなかった。


「直次。お前は刀剣の類の好事家だと言っていたが、集めた刀は飾るだけか? 業物を手に入れれば一度くらい使ってみたいと思うだろう」


 確かにそう思うこともあるし、実際巻き藁で試し切りくらいはする。

 そう考えて、甚夜が何を言いたいのか理解してしまった。嫌な答え。想像するだけでおぞましい話だ。


「それは、つまり」


 杉野又六は夜刀守兼臣という刀を手に入れた。

 それは人為的に造り上げられた妖刀。

 だからこそ妖刀に魅入られた杉野は妻を殺してしまったのだと思っていた。

 だがもし本当に、兼臣に人を惑わす力がないとするのなら。

 当然、妻を殺した時、杉野は自分の意思を持っていた筈だ。

 だとすれば彼は自分の意思をもって、


「あの男は手近に妻がいたから斬った。それだけだ」


 自身の妻で試し斬りをしたのだ。

 

「そんな……」

「だがそれに耐え切れず、刀に操られて殺したのだと思い込んだ。案外そこに畠山は付け込んだのかもしれん」


 杉野又六は斬るべきものを求めた。妻を斬ったのは妖刀のせいだと証明する為に。

 畠山泰秀は武市端山という斬るべきもの、己にとって邪魔な存在を提示して見せた。

 杉野にとっては願ってもない話であり、畠山にとっても使い捨てに出来る手駒を手にすることが出来る。

 ある意味で二人の利害は一致していた。


「……杉野殿は、国のためを思って暗殺を企てたのではなく。斬る理由を欲して畠山殿に与した、ということですか」

「所詮想像だ。本当の所は分からん」

「いえ、正直納得できる話です。……認めたくはありませんが」

 

 もしこれが真実だとすれば皮肉な話だ。

 妖刀と呼ばれた太刀は夫が妻を想い鋳造した刀で。

 世の為にと語った男が人を血溜りへ駆り立てる。

 これではどちらが妖異なのか、分かったものではない。


「正邪に関わらず刀は刀。妖異は人心にこそ宿るものなのかもしれんな」


 ぼやくように甚夜が呟く。それを聞いてしばらくの間、直次は俯き肩を震わせていた。

 しかし顔を上げた時には、何かを決意したような精悍な表情をしていた。


「甚殿はよく生き方を曲げられないと仰っていましたね」


 そして力強く彼は言う。


「私もまた、生き方を決定しなければならないのかもしれません」


 甚夜はそれ以上何も聞かなかった

 直次はそれ以上何も言わなかった。

 だが言わなくとも分かる。彼の中に、一本の芯が通ったのだ。


 一月。

 未だ春の日差しは遠く、空には墨を流したような曇天が広がっていた。




 ◆




 数日後、一人の会津藩士が斬り合いの果てに命を落とした。

 その武士は土佐藩士に斬り掛かり返り討ちに在ったという話である。

 彼が何故いきなり斬り掛かったのか理由は分からない。

 ただ息絶える際、彼は泣き笑うような表情で言ったという。



 俺は。


 ───妖刀に心を奪われたのだ。




『妖刀夜話~飛刃~』・了



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