『妖刀夜話~飛刃~』・3
「御初にお目に掛かります。この屋敷の主、畠山泰秀と申します」
畠山家の座敷。
豪社に飾り立てず、質実剛健といった部屋の雰囲気は、なんとも武士らしいと思える。
目の前には六尺を越え七尺に届こうという大男、土浦。
そして彼の主であろう細目の男が正座していた。
「は、わたくしは三浦直次。幕府より祐筆の役を承っております」
同じく正座した状態で男と正対している直次は恭しく一礼をする。
流石に登城を許された武士、彼の振る舞いは典礼に則った、実に秀麗な所作だ。
案内された座敷で二人を迎え入れたのは畠山泰秀と名乗る男だった。
杉野又六の失踪を聞き早々に屋敷を離れようとしたのだが、土浦に「泰秀様がお前達に会いたいと仰っている」と言われ、半ば強制的に奥の座敷まで連れてこられた。
そうして面会した泰秀は三十代後半といったところか、家督を譲り隠居したとは思えぬ程に若かった。
畠山家は会津藩の旧臣と聞いたが、体格は然程良い訳ではないし、柔和そうな表情は武家の人間らしからぬものである。
「私は」
「甚夜殿、ですね」
次いで名乗ろうとした甚夜だったが、細目の男が先回りして名を呼んだ。
眉を顰め、不快げに泰秀を睨むが、相手は飄々とそれを受け流す。
「噂は聞き及んでおります。江戸には鬼を斬る夜叉が出る……なんでも刀一本で鬼を討つ怪異の請負人だとか」
視線が鋭さを増した。
甚夜が江戸で退魔を生業としてから長い年月が経った。人の噂に戸口は立てられない、その存在を知っているものも少なからずいるだろう。
とは言え泰秀のような立ち位置の人間の耳に入るような話だとも思えない。
それでも知っているのは態々調べたのか、他に理由があるのか。どちらにしろ胡散臭いことこの上なかった。
「随分と目端が利く」
自然態度は荒くなる。
乱雑な甚夜の言葉に反応したのは、護衛として控えていた土浦だ。殺気立つ大男、しかし腰が上がるより早く「構わん」と泰秀は手で制した。
「甚殿、もう少し態度を。畠山殿、御無礼をお許しください」
友人のあんまりな態度に直次も軽く叱責し頭を下げる。
泰秀の方は武家の当主に相応しい貫禄のある態度で、些末なことだとでも言うように、ゆったりと首を横に振った。
「いえいえ三浦殿、お気になさらず。喋り易い口調で結構。なにより私は既に隠居の身。そう畏まらないでいただきたい」
柔和そうな笑みはそのままに、穏やかに言い聞かせる。
懐が深い、ように見える。だがその張り付いた笑みは、どこか得体のしれない印象を抱かせた。
「甚夜殿もそう警戒しないでほしい。此処に呼んだのは他意があった訳ではなく、ただ音に聞こえた剣豪を一目見てみたいと思っただけなのです」
「見ても面白いものではないと思うが」
「いやはや、御謙遜を。いとも容易く鬼を討つ、人の枠に収まらぬ<力>の持ち主。私でなくとも興味を抱くというものでしょう」
ぴくり、と眉が動いた。
含みを持たせた物言い。笑顔を張り付かせたままうっすらと開けられた双眸は、値踏みでもするようにこちらを眺めいていた。
この男は、間違いなくこちらの正体に気付いている。
本当に目端が利くらしい。何処から情報を仕入れてきたか知らないが、泰秀は甚夜が鬼であるという事実を正確に掴んでいた。
「畠山殿は」
「当方の屋敷には、杉野を訪ねてきたのでしたな」
語気も強く問い質そうと思えば、被せるように話題を変えられた。
僅かに甚夜の眉が吊り上がり、それを確認した上で、尚も泰秀は平然としている。
「あれはよく働いてくれる男でした。しかし今朝ですが、妻を斬り殺し、この屋敷から姿を消したのです。いや、彼は私が引き立てたのですが、こんなことになるとは。他の御坊主の話を聞けば、なんでも杉野は妖刀を手に入れたとのこと。ああ、御二方の目的はそれですかな?」
踏み込んだはいいが見事に間合いを狂わされ、体勢を立て直す暇も与えない。
刀を持てば違うだろうか、こと弁舌においては相手が巧者。
のらりくらりと話の主導権を奪われている。隠居の身とはいえ相手は会津藩に古くから仕える武家の当主、流石に食えない男だ。
「……ああ」
「噂に違わぬお方のようだ。怪異に囚われ身を滅ぼす者は多い。人心惑わす悪鬼羅刹を討つ貴方は、まさしく正義の剣士ですな」
「世辞は結構だ」
静かで重い声には若干の苛立ちが混じっていた。
甚夜が鬼を討つのは醜い感情から生まれた目的の為。とても正義と呼べるような代物ではない。
今回も妖刀に鬼の<力>が込められているのならば己が内に取り込めるのでは、そう考えたから首を突っ込んだに過ぎなかった。
泰秀は此方の事情を知らないのだ。決して悪気があった訳ではないだろう。けれど彼の物言いに、己の在り方を揶揄されたような気がした。
「ですが、貴方は怪異の犠牲になる者を見捨てられぬのでしょう」
「そう、だろうな」
それは正義だからではなく、巫女守として在った為に。
人に仇なす怪異を討つのは己の役目。守るべき巫女がこの世を去った今でも、その在り方は変えられなかった。
「で、畠山殿の用向きは?」
「はて、それはどう意味ですかな」
「まさか雑談をするために呼んだ訳ではあるまい」
いい加減、この問答も面倒になってきた。
相変わらずの仏頂面のまま、早く本題に入れと視線で促す。
「はは。個人的にはそれでよかったのですが。確かに呼び立てたのには理由があります」
まともな職にも在りつけぬ浪人の無礼な態度を咎めない辺り、懐は広いのだろう。
軽く笑い、すぐさま泰秀は表情を引き締める。
其処には先程の柔和な印象とは打って変わり、一個の武士としての畠山泰秀の姿があった。
「甚夜殿は浪人だとお聞きしましたが」
「ああ」
「ならばどうでしょう、もしよろしければ当家にて身を置いてみては。仕えろ、という訳ではありません。ただ力を貸してほしいのです」
「な」
声が漏れた。
驚愕は誰のものか、泰秀の突飛な提案に場の空気が固まった。
「私は幕府より帯刀こそ許されているが身分で言えば町人と変わらない。武家に出仕するのは不可能だと思うが」
「なに、正式な藩士になる訳ではなく、あくまで私個人が雇うだけ。問題はありません。事実、土浦も貴方と似たような身の上ですし」
その言葉に控えている巨漢へ目を向ける。確かにその風体はおよそ武家の出とは思えない。
伸ばし放題の髪といい、そこいらの浪人と同じく粗雑な格好である。彼もまた武士ではなく、泰秀が引き立てた町人なのだろう。
だが彼が言ったのはそういう意味ではない。
同じような身の上。
それは甚夜と同じく町人である、ということではなく。
「成程、“似たような”、か」
視線を向けた時、僅かに瞬いた瞳は鉄錆のような赤色をしていた。
もう一度瞬きをした後は黒の眼に戻っていたが、あの赤は決して見間違いではない。
彼奴もまた鬼。纏う空気は強者のそれ、おそらくは歳月を積み重ねた高位の鬼だ。
「今、この国は岐路に立たされております」
つまり畠山泰秀は、人の身でありながら鬼を使役する、凡そ真っ当とは言い難い男である。
けれど彼の目には一片の曇りもなく、己が正しさを証明するかのような語り口は、自信と気迫に満ち満ちている。
「嘉永の黒船来航より始まった諸外国との外交。今や幕府では開国派が主流となっています。
その権力は大老であった伊井殿、その後継たる老中の安藤殿により盤石となりました。倣うように多くの武士が佐幕開国思想に併合し、だが彼らは勘違いをしている。
開国などと耳触りのいい言葉を使ってはいますが、欧米諸国が我が国に強いてきた条約はあまりにも横暴。それは外交ではなく侵略だ。
このまま進めば日ノ本は諸外国の植民地となる。幕藩体制は崩壊し、徳川が長らく保ってきた治世は失われるでしょう」
在り得ない話ではない、直次は泰秀の弁舌に聞き入っている。
事実、現時点で既に幕府は諸外国のいいなり。このままいけば幕府という政体が保てなくなるのは目に見えている。
その危惧は、彼のものでもあった。
「そして、その時には我ら武士もまた幕府と命運を共にする定め。幕藩体制の崩壊は即ち武士が支配者として相応しくないという証明。ならば幕府が終焉を迎えた後に生まれるであろう政治機構には……新しい時代には武士は必要とされず、いずれ武士という存在は消えてなくなるでしょう。武士は時代に取り残されようとしているのです」
そんなことは。
否定したかった。だが声を出すことも出来ない。
熱に浮かされたようにまくしたてる泰秀の放つ独特の空気に、直次は呑まれている。
「それを開国派の連中は理解していない。徳川が没しても尚己が特権階級でいられると考えています。そんな愚鈍なぞどうでもいい。ですが私には、我ら会津藩士には自負があります。戦国の世を乗り越え、太平の世を築いた誇り高き英傑の系譜たる自負が。我らはこの国を。今まで続いてきた徳川の治世を。武士の誇りを守らねばならない。そのためには、我ら武士が生き残る道は、夷敵を討ち払う他にないのです。………たとえ、どんな手段を用いたとしても」
力強く言い切った泰秀の目は真剣で、其処に虚偽など欠片もないと感じられた。
詰まる所、彼は典型的な佐幕派────江戸幕府存続を根幹に据えた、攘夷論を掲げる古い武士である。
幕藩体制を保ちながら夷敵を討ち、古くから続いた“日の本の国”を守り通したいと願っているのだろう。
それ自体はごく有り触れた発想。武士として誰に憚ることのない、一つの在り方だ。
「私は既に隠居の身。ですがこの国の未来を憂う一人でもあります。何人をも打倒し得る貴方の<力>、徳川の治世を守るために使って頂きたいのです」
ただし鬼を利用しようなどと考えなければ、の話ではあるが。
佐幕攘夷派は決して少なくない。今まであった幕府を守ろうとするのも、現体制を崩壊させかねない諸外国に対する忌避も、至極真っ当なものだ。
だがその思想は致命的な弱点、根本的な欠陥を抱えている。
そもそも開国派が増えた理由は、嘉永に来訪した黒船を、また諸外国の持つ力を実際に見た上で、現在の国力では直接的な侵略に出られた場合抗いきれぬと判断したからである。
だからこそ幕府は開国し、欧米列強の技術を得て幕藩体制を立て直そうとした。
そう、それこそが佐幕攘夷思想の根本的な欠陥。
この思想は欧米諸国の駆逐を掲げてはいるが、現実問題として、それを討ち払うだけの武力が今の幕府にはないのだ。
故に攘夷派の多くは尊王を掲げ、幕府は開国に傾倒していく。
それはある意味で当然の帰結。佐幕攘夷が遠からず時代に淘汰されていくのは自明の理である。
「甚夜殿。貴方はこの国の未来をどう思われますか」
それをこの男は。
畠山泰秀は鬼という理外の存在、盤外の一手をもってひっくり返そうとしている
倒幕派や諸外国を殲滅するために鬼を欲する。はっきりいって、真面ではない発想だ。
「折角の御高説だが生憎と浅学でな。開国だ攘夷だと言われても然程興味がない」
「ほう。では貴方はこの国がどうなってもよいと?」
声には少なからず侮蔑が含まれていた。
仕方のないことかもしれない。泰秀はこの国の未来を憂い、現状を変えようと───その是非は置いておくにしても───邁進している。
そんな彼にとって無関心としか思えない彼の物言いは許せるものではない。
しかし甚夜は軽く目を伏せ、平然とした様子で言葉を続ける。
「昔、似たようなことを言う鬼がいたよ。この国はいずれ外からの文明を受け入れ発達していく。だが早すぎる時代の流れに鬼は淘汰され、我らはいつか昔話の中だけで語られる存在になるのだと」
「面白いことを言う鬼もいるものですね。それは我らにも言えたこと。武士も同じく、時代に淘汰されようとしている。ならばこそ」
力を貸せ。
鬼も武士も、時代に取り残されようとしている。
お前も同じく淘汰され往く存在だろう。
声ならぬ声で泰秀はそう語っていた。
「悪いが、力を貸すことは出来そうもない」
それを受け止めた上で、はっきりと甚夜は言い切る。
「……私の考えを間違いだと思いますか」
鬼を手駒に反抗勢力を潰す。およそ真っ当とは言えない手段。成程、人によっては卑怯、汚い、お前の行いは悪だと騒ぎ立てる者もいるだろう。
しかし緩慢な動作で首を横へ振り、泰秀の問いを否定する。
「甚夜殿は人に仇なす鬼のみを討つと聞きました。貴方は、力無き人を守るためにしか<力>を使わないと?」
「まさか」
馬鹿なことを。
彼には既に誰かを守る資格などない。
何一つ守れなかった。
大切だと心から想った筈の妹を鬼へと変えた。
母を、父をこの手で殺した。
憎悪をもって全てを切り捨て、今尚多くのものを踏み躙り続けている。
そんな男が『守る』などと、どの面下げて言うつもりなのか。
「言いたいことは分かった。いかなる手を使おうが、悪辣とも卑怯とも思わん。だが貴殿に目指すものがあるように、私にもまた目的がある。鬼を討つのもその為。貴殿の志に比べれば薄汚い私怨でしかないが、私にはそれが全てだ。幾ら望まれようとも、今更生き方は曲げられん」
「目的とやらが何かは分かりませんが、生き方を曲げさせる気も、邪魔をするつもりもありません。ただ貴方が生きる長い時間、ほんの一瞬の間だけの助力が欲しい。それでも」
「ああ、出来んな」
まるで茶飲み話のような軽さで紡がれる頑とした拒否。
その答えに何を思ったのかは分からない。ただ泰秀は真剣に、真正面から甚夜と向き合っている。
選んだ手段は兎も角、最低限の礼節は弁えた男だ。
礼には礼を以って応じる。ならばこそ誤魔化しや虚言は用いずに、彼の問いに応じる。
「そも目的を別にしても、貴殿の下で刀を振るう己を肯定できん」
「それは何故。貴方は私が間違いではないと仰ったでしょうに」
「栄枯盛衰は世の常だ。貴殿の言う通り、いつかこの国は諸外国に踏み荒らされ、滅び往くのかもしれない。時流に抗い剣を取ることが尊いというのも理解できる。ならばこそ私が関わるのは間違っている。隆盛も衰退も須らく“あなたたち”の手で行われるべきだろう」
あなたたち、という言葉が何を意味するのか泰秀はちゃんと悟ってくれた。
いくら取り繕ったとてこの身は鬼。
既に人の理から外れてしまった己が、人の行く末を決める動乱に手を出すなどあってはならない。
泰秀の遣り様を間違いだとは思わない。
鬼を利用しようが、外道に染まろうが、本当に何かを為したいと願うのならば否定する気は微塵もなかった。
それでも己が開国だ攘夷だと謳いながら刀を振るうのは間違っている。
時代の変革は須らく人の手で。人外たる彼が踏み入ってはいけない領域だろう。
たとえこの国が滅びゆくとしても、それが人の選んだ道行きならば、受け入れねばならぬ事だ。
「だから力は貸せぬ、と?」
「ああ。何より私は何の為に刀を振るうかさえ見つけられていない。そのような男が、未来を切り開く戦に携わっていい筈があるまい」
それは真にこの国を想い、刀を振るう者達への冒涜だ。
だから開国にも攘夷にも与することはできない。
未だ刀に意味を見出せぬ半端な男の、せめてもの意地だった。
「曲げられませんか」
「曲げられたなら、此処にはいなかったろうよ」
下らない意地だ、我が事ながら呆れてしまう。
だが今更生き方は変えられないし、変えようとも思わない。
甚夜の厳格な姿勢にこれ以上は無駄と悟ったのか、泰秀は堪え切れず笑いを漏らす。
「くくっ、面白い方だ。倫理に悖るからでも思想が相容れぬからでもなく、己が美学に反するから刀は振るえないと?」
成程、泰秀の言は正鵠を射ていた。
倫理や人道の為に在った身ならば、多少の屈辱にも耐え、国を憂い戦うだろう。
攘夷思想が相容れぬならば、反目し開国を志すだけ。
しかし彼は今迄、ただ一つの為に刀を振るってきた。
余分を斬り捨て後悔し。それでも、ただ強くなりたくて。
だから他人の願い、理想の為に刀は振るえない。
「上手いことを言う……貴殿の言う通りだ。どれだけ正しかろうと、意思を曲げて何かを斬ることが、私には美しくないと思えるのだ」
難しい話ではない。
散々拘った道から外れ、お題目を口にして、自身の望みとはかけ離れた何かを斬る。
そのような無様は認められない、というだけ。
結局どうあっても生き方は曲げられなかった、それだけのことだ。
「成程。いや、実に残念。これ以上は何を言っても無駄のようですな」
「ああ。貴殿を否定するつもりはないが、私も頑迷でな」
「そう卑下されることもないでしょう。一度決めたならば、そこから揺らぐなぞ出来るものではありません」
見透かすような言い様だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
今のようなことを自然に言えるのだ、畠山泰秀にも譲れないものがあるのだろう。
彼もまた、曲げられない生き方に拘る一人の男。
だから甚夜の胸中を理解できてしまう。
そうと知れたから苛立ちは完全に消え、寧ろ二人は一種の共感さえ抱いていた。
「しかし、そうなると……次に会う時は、敵同士やも知れませんな」
それでも相容れぬと知っている。
泰秀は笑った。声に先程までの侮蔑はない。
代わりに、鋭くなった眦には、濁りのない苛烈なまでの意思が宿る。
「できれば、そうなりたくはないな」
「それは勿論。ですが私もまた、この生き方を曲げるつもりは御座いませんので」
それを平然と受け、甚夜も僅かに目を細めた。
泰秀は在り方を変えない。
時流に抗い、攘夷を為す。そこは決して揺らがず、手段を選ぶつもりもない。
例え民草が怪異の犠牲になろうとも泰秀は止まらず。
であれば鬼を使役する男と鬼を討つ夜叉が何処かで対峙することもあるだろう。
そして立ちはだかるのならば、開国や攘夷といった思想に関係なく、甚夜はそれを斬る。
お互いが自分の生き方を曲げられない以上、衝突すれば我を張り合う。
その結末が血生臭いものとなるのは、容易に想像がついた。
「お互い、難儀なことだ」
「いや、まったく。ですが己が在り方を貫くというのはそういうことでしょう」
「違いない」
とはいえ双方今すぐどうこうするつもりはなく、控えた土浦にも動きはない。
満足げに泰秀は息を吐き、そこで話は途切れる。
最後に両者は静かに視線を交わし、もはや話すこともなくなった。
「直次、そろそろ行くとしよう。妖刀を追わねば」
「あ、は、はい。では畠山殿、これにて失礼いたします」
そうですか。では土浦。
二人が立ち上がれば、泰秀は案内するように指示を出す。
主に無礼を働く輩。不満はあるだろうが、土浦はおくびにも出さずそれに従う。
人と鬼。奇妙な主従に違和を感じながらも甚夜達は座敷を離れる。
「ああ、そうだ。杉野ですが、どうやら『富善』に興味があったようですね」
背後から、とぼけたような呟きが聞こえた。
◆
「土浦殿と言ったか」
玄関に辿り着き、先に直次が正面門を潜ったところで、思い出したように甚夜は言った。
「畏まる必要はない」
「そうか。ならば土浦、何故畠山殿に仕える? お前も私と同じく開国だ攘夷だなどといったことに興味などないだろう」
彼は鬼。
そして甚夜と同じ身の上だとするならば、初めから畠山家に仕えていたのではなく、泰秀が引き立てたのだろう。
鬼でありながら人に仕える。その真意は分からず、ただ彼は会談の途中、甚夜の一挙一動に注意を払っていた。
泰秀に危害を加えようとすれば瞬時に動けるよう、腰を軽く浮かしやや前傾。その佇まいには義務以上の何かが感じられた。
何か企みがあって人に傅いている訳ではなさそうだ。
しかし何故この鬼は畠山泰秀に従うと決めたのか。
およそ関係のない人の主義主張に態々首を突っ込む理由が分からなかった。
「俺はかつて人に裏切られた……いや、信じることが出来なかったのか」
僅かな沈黙の後、土浦は感情の籠らない声で淡々と語り始めた。
沈鬱な面持ちで目を伏せる。脳裏に移る遠い景色を眺めるような、なのに痛ましいと思わせる、ひどく複雑な風情だ。
「随分昔の話だ。人に裏切られ、失意に塗れた俺を泰秀様が拾って下さった。その折に仰られた」
正直なところ素直に答えるとは思ってもいなかった。
表情は真剣であり、嘘を吐いているようには思えない。そもそも鬼は嘘を吐かないもの。ならば彼の言葉は掛け値のない真実なのだろう。
「鬼と武士は同じく時代に打ち捨てられようとしている旧世代の遺物、いわば同胞。ならば共に手を取り合うことが出来る筈だ、と。故に俺は泰秀様に仕えている。……俺は、あのお方を信じているのだ」
“信じている”とやけに強調する土浦の覚悟は本物。
彼の過去に何があったのかは知らないが、この男はただの酔狂ではなく、相応の忠節を抱き仕えている。
それは冷静な目の奥にある僅かな敵意からも窺い知れた。
「聞いたのは此方だが、何故話した?」
「何故、か。同胞への情けとでも思えばいい」
警戒と敵意はそのままに、けれどふと声音は弱まった。
甚夜を値踏みするように睨みを利かせる。なのに何処か憐れみを感じさせる視線もまた、間違いなく彼の本心だ。
「鬼は人と相容れぬ。人の中で生きるのならば、お前も分かるだろう」
───近…らな…で化け……!
脳裏に映し出される景色が心の奥の奥を締め付けた。
鬼と人は相容れぬ。同じく人の世で生きる鬼、土浦もその手の痛みには覚えがあるのだろう。一瞬だけ揺れた瞳に、彼の過去を僅かながら垣間見る。
「だが泰秀様は受け入れてくださる。その意味、忘れぬ事だ」
鬼ならばこそ、人に裏切られる痛みを、受け入れられる喜びも知っている。
彼が泰秀に仕えるのは、つまりそういうこと。だから語る言葉は確かに同胞への情けだ。
敵に容赦はかけないが、泰秀に仕える気があるのなら歓迎しよう。
口にはせず土浦はそう語り、しかし首を縦に振ることは出来ない。
「配慮は痛み入る。しかし畠山殿の下には付けん」
甚夜は表情を変えぬまま土浦の言を切って捨てる。
有難いとは思うが、今更生き方を変えるなど出来よう筈もない。
「言っただろう。開国に攘夷、どちらにも興味はない。だがお前達が鬼を使い無意味に人へ危害を加えるというのなら、私はおそらく刃を向けることとなるだろう」
そうか、と一度目を伏せ、しばしの間土浦は逡巡をする。
「主の意向だ、今は手を出さん」
僅かな憐憫は掻き消え、両者の立ち位置は明確となった。
眼前の鬼はもはや隠すこともせず、研ぎ澄ました敵意を甚夜へと向ける。
「貴様が静観を貫くのならばそれでいい。だがもし泰秀様の邪魔をするというのなら……」
餓えた獣を思わせる形相。赤い瞳、纏う殺気は本物。
肌が痛くなる程に空気は張り詰める。
「それは此方も同じ。お前達が私の道を塞ぐというならば」
甚夜はそれを真っ向から受け、左手は腰に携えた夜来へ掛かる。
触れた金属の冷たさが意識を透明に変えていく。
そして互いの視線が交錯し、
「潰す」
「斬る」
二人は同時に絶殺を宣言した。




