『残雪酔夢』・1
今も、雪が、止むことはなく。
◆
安政三年(1856年)・冬
一片、一片、音もなく降る雪。
緩やかに咲く雪花の夜。
しかし飛び散った血は妙に赤々としていた。
此処は埃臭い屋敷の一室。
巣食っていた最後の鬼を葬り、血払い、ゆるりと刀を鞘に納める。
既に鬼は蒸気となり掻き消え、甚夜は斬り伏せた鬼の死骸があった場所を無言で見つめていた。
金の為、同胞を当たり前のように斬り捨てる。思えば随分と慣れたものだ。
躊躇いも後悔もありはしない。昔は鬼を斬る度に何か感じていたような気もするが、今となっては思い出すことさえ儘ならず、ただ結果だけがそこに転がっている。
変わらないものなんてない、随分と昔に誰かが言った。
強くなりたかった。斬ることに疑いを持たない己で在りたかった。
なのにこうやって鬼を斬り捨てる度、刃が血で曇るように、心の何処かが淀んでいく。
或いは、捨て切れなかった心まで鬼に近付いているのかもしれない。
迷いなく振るえる刀を欲したくせに、いざそうなれば戸惑う自身が無様に思えて、甚夜は小さく溜息を吐いた。
だとしても生き方は曲げられぬ。
過る感情を押し殺すように、彼は部屋を後にした。
振り返ることは、しなかった。
夜半、雪は強くなった。
「ありがとうございます……これは、少ないですが」
降りしきる雪の中、寒さに体を震わせることさえなく門の所で待っていたのは、白髪交じりの髪に皺の目立つ顔をした初老の男だった。
この屋敷に仕えていたという男は綺麗に折り畳まれた布を手渡す。
じゃり、と言う音が聞こえた。おそらく僅かながらに銭が入っているのだろう。中身を確認せず懐に仕舞いこむ。然程重くなかったからだ。
江戸城の西側に位置するこの武家屋敷の主は、数日前突如として失踪したらしい。
主も他の住民も姿を消し、入れ替わるように現れた十を超える鬼。
初老の男は命からがら逃げ出し、鬼を狩る男がいるという噂を頼りに甚夜の元へと辿り着いた。
“主を殺した鬼を討ってくれ”
それだけが男の願いだった。
「主様は雪月花を肴に酒を呑むお方でした。墓を造り、好きだった酒でも墓前に供えれば、喜んでくださるでしょう」
今は亡き主を思い出したのだろう。寂しげな語り口が冬の空気を震わせる。
ひゅぅ、と拭いた風が頬に痛い。男は肩に積もる雪を軽く落とし、ぎこちなく頭を下げた。
「では、失礼します。本当にお世話になりました」
曇天の下、ゆっくりとした足取りで去っていく。
貴方はこれからどうされるのですか。
背中に問い掛けようと思い、途中で止めた。全てを失った初老の男。その道行きがどうなるのかなど誰にも、本人にさえ分からない。だから問う意味はない。
誰もいなくなった屋敷を眺める。
最早朽ち果てていくだけの場所は、だからだろう、寂寥の佇まいをしていた。
そうして男の影は見えなくなり、夜には灰色の雪だけが残された。
雪夜は続く。
しんしんと、音も匂いも静かに消して。
鬼人幻燈抄『残雪酔夢』
昨夜の立ち回りで疲れていたのだろう。目が覚めた時には、部屋に差し込む光は昼のそれとなっていた。
甚夜が住まうのは深川の外れにある貧乏長屋で、壁も薄く生活の音は筒抜け、お世辞にも立派とは言えない。もっとも殆ど寝に帰るだけ、屋根があって風が吹き込まなければ十分だった。
老いぬ容姿に違和を持たれぬ為、江戸に来てから既に住居を三度ほど変えている。この長屋もそれなりに長くなった、そろそろ新しい所を探しておかなくてはいけないだろう。
「おとっつぁん、お酒は控えないと」
「まあいいじゃねぇか、偶の休みなんだ。お前も呑めよ」
こじんまりとした部屋を出て喜兵衛へ向かおうとすれば、豪快な笑い声が聞こえてくる。
隣に住む親子の会話、どうやら父親は昼間から酒を呑んでいるらしい。
娘は窘めるようなことを言っているがその口調は優しく、声だけで仲のいい親子だと分かる。
他人事でもそれは心地好く、冬の寒さも僅かながらに和らいだような気がした。
「随分と寒くなりましたねぇ」
昨夜の雪は積もることなく溶けて消えた。
それでも肌が突っ張る程に冬の空気は冷たく、ほう、と吐いたおふうの息は白い。
かじかんだ手を擦り合わせる仕種に、今更ではあるが冬の訪れを強く感じた。
「すみません、手伝ってもらってしまって」
おふうと甚夜は買い出しを終え帰路に就いたところだった。
甚夜の手には二本の酒瓶、右腕には白菜などの野菜。それぞれ風呂敷に包んだものを抱えている。荷物は全て彼が持ってしまい、手ぶらで歩くおふうは申し訳なさそうに頭を小さく下げた。
「いや、構わん」
別段気にしてはいない。元々今日はおふうの手伝いをする為に喜兵衛を訪れた。
というのも、今晩はちょっとした祝い事があり、彼女は準備に忙しい。ならば男手が必要だろうと甚夜の方から申し出たのだ。
「重くありませんか?」
「まさかだろう」
「それはそうなんですが」
人の姿をしていようと彼の正体は鬼、この程度の荷物を重いなどと思う筈がない。
分かっているだろうに、聞いてしまう辺りが彼女らしい。けれど重くはないし、面倒だとも感じない。
「あまり気にするな。私とて祝ってやりたい気持ちはあるんだ」
「あ……」
大したことはできないが、祝い事の準備を多少なりとも手伝えるのは、正直なところ悪い気分ではない。
その言葉が意外で、おふうは呆けたように口を開いて驚く。けれど視線を逸らす彼の仕草に、それが単なる誤魔化しではないと知って、彼女はたおやかに微笑んだ。
「はい、そうですね」
深く追及はせず、ただ静かに頷いて応える。
何気なく零れたからこそ、それは紛れもなく彼の本心なのだろう。
いつか“それしかない”と語った彼が、祝ってやりたいと素直に言えるようになった。巣立つ雛鳥を見るような、得も言われぬくすぐったさがそこにはあった。
「で、他にもあるのか」
「いいえ、食材もお酒も買いましたし、もう大丈夫です」
「なら帰るか」
「ええ」
おふうと二人で歩く時は、自然と少しだけゆっくりになる。
目の端に映った花に足を止め、これは何の花だとかこんな説話があるだのと話すのが常だった。
今は冬、花はほとんど見当たらず、しかしいつもの癖かのんびりと二人は歩く。それが心地よい。心地好いと思える程度には、彼にも余裕が出来ていた。
「あれ、あそこ」
帰路の途中、通りに人だかりを見つけ、おふうは不思議そうに声を上げた。
「随分にぎわっているみたいですけど」
ざっと見ただけでも町人と武士、男と女、様々な人が集まっていた。
彼らは酒屋の前に列を為し、店が開くのを今か今かと待ち望んでいる様子。この酒屋の前を通るのは初めてではないが、こんな騒ぎは今まで見たことが無い。
奇妙に思い眺めていると、ちょうどその時がらりと引き戸の開く音が響き、中から痩せた小男が出てきた。
おそらくは酒屋の店主なのだろう。彼が姿を現したことで、人々は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「さあさあ、皆々様お待たせいたしました! “ゆきのなごり”再入荷致しました!」
それも一瞬、小男が貧相な外見とは裏腹によく通る声で叫べば、ざわめきは更に大きくなる。
余程の銘酒なのか、沸く歓声は尋常ではない。反応に気を良くした男の語り口は自負心で満ち満ちていた。
「一口呑めば心を奪われ、一合呑めば天にも昇り、一升呑めば戻ってこらず……なんてことは御座いませんが、銘酒“ゆきのなごり”。どうぞこの機会にご賞味あれ!」
それを皮切りに、雪崩れ込むような勢いで酒屋に人が詰め寄せた。
あまりの興奮に誰も彼も周りが見えておらず、男も女もなく乱闘のような形で件の酒を求める。
「三本だ! 三本くれ!」
「こっちもだ!」
銭を握り締め、我先にと押し合いへし合い。酒を手にいれようと躍起になっている。
混雑に土煙が巻き上がり、響く怒号は喧嘩と聞き紛うほどの勢い。熱狂する人の群れに、おふうは唖然としていた。
「すごい盛況ですねぇ」
“ゆきのなごり”
聞いたことのない酒だが、あの様子を見るに、随分以上に人気の品のようだ。
甚夜もそれなりに酒を嗜む。ああまでの人を狂わせる銘酒に、興味が無いと言えば嘘になる。
「折角ですし、私達も行きます?」
「いや、興味はあるが……流石にこれではな」
とはいえ両手は荷物で塞がっており、酒を買ったところで持てそうにない。
これでも鬼の端くれ、米俵の一つや二つ片手で持ち上げる程度の膂力はあるが、態々人間離れした真似を披露するつもりはなかった。
「そうですね。お酒は買ってありますし、今回は止めにしましょうか」
「ああ」
興味を引かれるのは事実だが、あの騒ぎに首を突っ込むのは正直遠慮したい。
多少の好奇心を振り払い、二人は再び歩き始めた。
帰れば祝いの準備がある。
夜までは少しばかり忙しくなりそうだ。
◆
「ども、失礼しますよっと」
冬の日が落ちるのは早い。
僅か一刻で昼と夜が入れ替わる。辺りは暗がりに覆われており、空気は一段と冷えた。
夜の寒さに体を震わせながら、風呂敷に包まれた荷物を抱えた善二は喜兵衛の暖簾を潜った。
既に甚夜と奈津は店の中にいる。店主は奥の厨房で忙しなく手を動かしていた。
「遅かったじゃない」
「すいません、御嬢さん。なんせ仕事が忙しかったもんで」
善二はにまにまと口元を緩ませている。忙しいと言う割に随分と機嫌が良さそうだ。
その理由が分かっているから、奈津の態度も若干ながら柔らかい。なにせ今日のことを喜んでいるのは彼女も同じだった。
「まあ、今夜はあんたが主賓なんだから別にいいけど。後は、直次様だけね」
奈津が玄関の方を見れば、示し合わせたように暖簾がはためいた。
現れたのは糊のきいた着物を纏った生真面目そうな武士。喜兵衛の数少ない常連、三浦直次である。
「おう、直次」
「善二殿。遅くなって済みません」
「いやいや、今日は来てもらって悪いな」
武士と商人、身分の差こそあれ二人はいい友人関係を築いているようで、交し合う言葉は随分と気安い。
これでいつもの顔触れが全員揃い、店内の準備も粗方終わった。
善二は待ちきれないといった彼の様子で、うずうずと体を小刻みに振るわせている。
「これで揃いましたね。では、始めましょうか」
おふうが音頭を取れば、視線が一斉に善二の方へ向く。
昼間に酒だの食材だのを買い求めたのは、この祝いの席の為。
主賓は善二。今日は彼を祝おうと喜兵衛の常連達が集まったのだ。
「いやあ今日は俺の為に集まってくれてすまん。思えば俺が須賀屋に来たのは」
「そういうのいいから」
「御嬢さん冷たい……ま、俺も堅っ苦しいのは苦手だし、簡単にいくか」
こほん、と一度咳払い。
見慣れた顔ぶれでも流石に照れるのか、乱雑に頭をかいた善二は、一呼吸置いてから満面の笑みで言った。
「この度、わたくし善二は須賀屋番頭を務めることに相成りました! それに際しこのような祝いの席を設けて頂けたこと、心より感謝いたします!」
固い物言いとは裏腹に、彼の目は喜びに潤んでいる。
番頭とは商家において経営のみならず、その家政(家系において営まれる事業から家事全般)にもあたる役職を指す。とどのつまりが商家使用人における最高の地位だ。
彼は普段の働きを認められ、須賀屋店主・重蔵より番頭に任命されたのである。
「おめでとうございます、善二さん」
「いや、おふうさんありがとう」
須賀屋で働き始めて二十年近く、懸命の努力が結実した。
本人は勿論のこと、なんだかんだ言いつつ真面目に働いてきた善二を知っている周囲の喜びもひとしおだ。
微笑みながらおふうは祝いの言葉を口にし、甚夜もそれに続く。
「おめでとう。重蔵殿をしっかり支えてやってくれ」
「おう、任せとけ。俺がもっと須賀屋をでかくしてやらぁ」。
直次や奈津もそれぞれ声を掛け、ようやく店内が落ち着いた頃、店主が厨房から大きな土鍋を運んできた。
「っと、お待たせしました。どうぞ食って下せえ」
食卓の真中におかれた土鍋の中身はぐらぐらと煮立っている。
出汁と醤油で作った割り下に、白菜やネギなどの野菜類、そして一面には軍鶏の肉が陣取っていた。
「おお、軍鶏鍋!」
「こんな日まで蕎麦じゃ味気ないでしょう。ですから、ちっと奮発させてもらいやした。ま、素人芸ですがね」
「親父さん、いや、ありがてえ」
思わぬ御馳走に感激していると、今度はおふうがお銚子を幾つか持ってくる。
「こちらの方もありますよ、どうぞ」
猪口を善二に渡し、徳利から人肌に温められた酒を注ぐ。
そのあまりの透明さに善二は目を見開いた。
「下り酒じゃないか。こんないい酒、どうしたんだ?」
江戸近辺は醸造技術が発達しておらず、酒と言えばどぶろくのような濁り酒に近いものが主流だった。
その為、上方で洗練された澄んだ酒は『下り酒』と呼ばれ、江戸では大いに持て囃された。
反面値段も非常に高く、一般庶民にはなかなか手の出ない高級品。閑古鳥が鳴いている蕎麦屋に常備されているような酒ではなかった。
「甚夜君が用意してくださったんですよ」
「……まあ、折角の祝い酒だからな」
当然この下り酒も態々買って来たもの。祝いの席ならば相応の酒が必要だと、甚夜が昼間買ってきた品である。
ちらりと彼の表情を盗み見れば、いつも通りの仏頂面で杯を傾けている。
善二と目を合わせようとしないのは、おそらく照れ隠しなのだろう。そうと分かったから、店内には小さな笑いが湧き上がった。
「泣かせる真似してくれるなぁ。有難く頂くよ。さ、冷めないうちに皆も食おう」
そうして各々鍋をつつき、酒を煽り、小さな宴席を楽しんだ。
専門ではない軍鶏鍋だが味はなかなか、皆喜んで頬張っている。店主を除く男三人は食べるよりも呑む方がいいようで、結構な速度で酒を消費していった。
「っかあ、うめえ。流石にうわばみの甚夜が選んだ酒だな」
「一応、褒められていると思っておこう」
「一応も何も褒めてるんだよ」
とても褒め言葉とは思えないが、いい加減長い付き合いだ、彼の言葉選びの下手さは十二分に理解している。
さらりと受け流し甚夜もまた酒を煽る。
喉を通る熱が心地よい。久しぶりに旨いと感じる酒だった。
「御嬢さんらは呑まないんで?」
「私はいいわ」
「すみません、私もちょっと。ささ、善二さんもう一杯どうぞ」
女性陣は酒が苦手らしく、軍鶏鍋をつつきながら茶を啜っている。
主賓に手酌では格好がつかないと、断る代わりにおふうは次の一杯を注いだ。
「こいつはすいません。親父さんは?」
「俺ももう歳なもんで。昔ほどは呑めませんよ」
「何言ってんですか、まだまだ若いですって……おっと、そういや忘れてた」
宴もたけなわという所で、何かを思い出したのか、善二は自分が持ってきた手荷物の方に向かう。
風呂敷に包まれたそれをどんと卓の上に置けば、奈津が不思議そうにそれをじっと見る。
「善二、なにこれ?」
「ああいや、俺も酒を持ってきてたのを忘れてたんですよ」
風呂敷を取り去って、陶器の瓶を二つ取り出す。
五合程度の瓶は随分と立派なもの。これもまた結構な高級品なのだろう。
興味の視線が集まる中、善二は鼻歌混じりに酒の封を開ける。
「最近巷で話題の酒なんだが、旦那様が毎晩旨い旨いって呑んでるから気になって買ってみたんだ。今日はみんなで呑もうと思ってな」
「“ゆきのなごり”か」
「お、やっぱ甚夜は知ってたか」
知ったのは今日のことだが、あの熱狂ぶり、正直興味はあった。
それに裕福な商家の主が毎晩のように呑む酒だというのなら、味の方も期待ができる。
「こいつは冷やで呑むのが一番だって旦那様が言ってたからな。すんませんおふうさん、杯あります?」
「はーい」
ぱたぱたと奥へと向かい、先程の猪口よりも幅広の杯を三つばかり持って戻ってくる。
では早速味を確かめよう。善二は徐に酒瓶へ手を伸ばし、しかし触れることなく空を切った。
「お、御嬢さん?」
善二よりも早く酒瓶を手にした奈津は、ゆったりとした所作で彼に酌をする。
彼女は重蔵の一人娘。当然ながら今迄酌をしてもらったことなど一度もない。
あまりに意外でしばらく呆けていると、奈津はほんのりと頬を赤く染めた。
「祝いの席なんだし、偶にはね」
照れはある。けれどそっぽを向いたりはせず、小さく微笑む。
須賀屋の小僧に生意気だの口が悪いだの言われていた奈津が、随分と変わったものだ。
幼い頃から付き合いのある善二には、彼女の成長が殊更眩しく感じられ、思わず目が潤んだ。
「おおぉ、まさか御嬢さんの酌で酒を呑める日が来るなんざ。長生きはするもんだなぁ」
「あんたまだ二十六でしょ」
「気分ですって、気分。いや、あんな生意気だった御嬢さんが……なんか感慨深いんですよ」
「……今夜は聞き流しといてあげる」
「あ、はい。すいません」
少女は確かに成長したものの、何処まで行っても二人の力関係は変わらないようである。
それも悪くないと思うのはお互い同じ、遣り取りを終えれば自然と笑い合う。
なみなみと注がれた杯。善二は愛おしそうに、そっと口を付ける。
そして彼はそのまま一気に酒を煽り、
「ぶはぁっ!」
思い切り口から吐き出した。
「ちょ、汚いわね! 何してるのよ!」
自分が注いだ酒を吐き出され若干苛立ったのか、奈津はほとんど睨み付けるような表情だ。
けれど気にする余裕などない。善二はごほごほと苦しそうに咽こんでいる。
「な、んだこら。辛くてきつくて飲めたもんじゃねえよ」
巷で有名な酒、重蔵のお気に入り。味は期待できる筈だった。
しかし呑んでみると“ゆきのなごり”は決して旨い酒ではない。
舌を刺すほどに辛く、匂いは強い。口当たりが悪すぎて、飲み込むことさえできなかった。
「ぐっ、これは」
気になったのか、直次も手酌で酒を注ぎ少し口に含む。
抱いた感想は善二と似たり寄ったりらしく、目を細め、痛みに耐えるような顔をしている。
なんというか、強すぎる酒だ。ゆっくりと喉に流し込むがかなりきつい。
「確かにこれはきつい。吐くほどではありませんが、正直美味しいとも思えません」
直次は顔を顰め、乱暴に盃を卓へ置いた。初めの一杯はどうにか呑み切ったが、次には手が出ない。
彼にしては珍しく、口振りといい、表情といい、不満がありありと見て取れる。
「まったく、嫌な気分にさせてくれましたね」
「い、いや、それを俺に言われてもよ」
確かに持ってきたのは自分だが、こんな酒だとは知らなかった。
そう思いながらも反論はできない。普段温和な直次の辛辣な物言いに、善二はたじろいでしまっていた。
「甚夜も呑んでみろ」
やけになった善二は、殆ど無理矢理甚夜に盃を押し付ける。
評判は芳しくないが、昼間あれ程の熱狂を誇った酒だ。そこまで不味いとは思えず、確かめる意味でも杯に口を付ける。
「む……」
辛いということはない。寧ろ薄く、酒の香気も喉を通る熱さも全く感じられなかった。
以前友人が呑んでいた水で薄めた酒よりも更に薄い。ほんのりと酒の香りがするだけで、ほぼ水と言っていいくらいだ。
ただ風味自体は悪くない。どこか懐かしい、素朴な香りだった。
「不味くはない。が、薄いな」
「……これを薄いとか、このうわばみが」
返ってきた視線は実に冷たい。善二も直次も信じられないとでも言いたげである。
確かに二人よりは酒に強いが、味覚に大きな違いはない筈。
これほど薄い酒を辛くて呑めないなど、甚夜には二人の反応こそ信じられなかった。
「あー、おふうさんも呑んでみます?」
「え、ええと。私はお酒が苦手ですので」
「自分が吐きだしたようなもの勧めないでよ。というかそれ、ほんとに話題の酒なの?」
「間違いないですって。実際旦那様は旨い酒だって言って毎晩呑んでるし」
一応勧めてみる、当然ながらおふうも奈津も首を縦には振らなかった。
折角買ってきた高級酒は誰にも呑まれることなく、先程まで騒がしかった店内は静まり返ってしまい、居た堪れない心地で善二はぼやく。
「なんか、最後の最後にしらけちまったな」
「まったくです」
「直次、そう怒んなよ。あーあ、これ旦那様にでも差し上げるか。高かったのになぁ」
がっくりと肩を落し項垂れる。
楽しい筈の祝いの席は、暗い雰囲気のまま終わることになった。
無言で片付けが始まる中、甚夜は残された“ゆきのなごり”を一口だけ呑んだ。
「薄い……」
旨くはない。
けれど懐かしく、馴染むような味がした。




