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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
江戸編

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32/216

余談『雨夜鷹』・3(了)



 人の知ることの出来る範囲には限りがある。



 どれだけ聡明な人間でも、どんなに努力しても、人は自分の見ているものしか見えていない。

 例えば、先に店を出た生真面目な武士は、ここ数日雨など降っていなかったという事実に最後まで気付くことはない。

 同じように鬼を討つ男も、夜鷹が雨の中に何を見たのかなぞ分かる筈もない。

 そもそも蚊帳の外にいる店主らは、何があったのかさえ知り得ない。

 それぞれが“自分”を生きる以上、そこから食み出たものは所詮余所事。

 今を生きる者は自分の物語しか見ることは出来ず、『雨夜鷹』はどこまでいっても夜鷹と武士の恋の話でしかない。


 

 けれど忘れてはいけない。

『見えない』と『無い』は同義ではない。



 誰に見えなくとも、それは確かに在って。

 

 だからいつかは───




 ◆





 激しい雨音が耳を劈いて、吐く息の白さに、春の宵の寒さを実感する。

 ぼろぼろの傘では雨はしのげず肩口は濡れてしまっていた。不意に映った軒先、立ち寄って雨宿り。そこが昨日と同じ場所だったことに他意はない。少なくとも夜鷹には、そのつもりはなかった。


「流石に、今日はいないか」


 やまない雨に零した言葉。何故か、少しだけ落胆した自分には気付かないふりをした。

 昨日と同じ軒先。もしかしたらあの奇妙な武士が訪れるかもしれない。

 もともとその程度の想像、なにか用があった訳でもない。件の彼が来なかったところで別にどうでもいいだろう。

 

 春とはいえまだ少しだけ寒い。冷えた体を小さく震わせ、夜鷹はふと空を見上げる。

 広がる黒。天の底が抜けたように降り止まぬ雨。星のない夜空。冷たい春の宵。

 身を震わせる冷たさがいつかを思い起こさせるのだろう、雨の夜には遠い記憶が浮かんで、しかしそのまま流されて消える。

 大した話ではない。裕福な家に生まれ、落ちぶれた女が娼婦に身を窶しただけのこと。

 何処にでもある、ありきたりな不幸だ。元より過去は縋る程の幸福でもなかった。

 もしも未練があるとすれば、ちゃんと私を“私”として扱ってくれた兄くらいだ。

 貧乏な武家に生まれ余裕もないだろうに、時折無理をして装飾の類を買ってくれた。

 高級そうな、ほととぎすの簪。そう言えば、あの簪は一体何処へいってしまったのだろう。

 

『…き………』

 

 思い出したことがいけなかったのか。

 激しい雨音に紛れて、か細く、今にも消え入りそうな声が聞こえてくる。

 心が冷えた。緩慢な所作で視線を声の方に映せば、雨の中に黒い影が。


「あぁ……」


 捨ててきたもの、いる筈のない人が、雨の中でこちらを見ている。

 まやかしだ。そう思いながらも体は震える。

 寒さのせいではない。恐怖など微塵もない。この震えは一体どこから来るのだろう。

 

 夜鷹の夜鷹。

 名前もなく、ただ春を売る女。

 それでよかった。

 よかった、筈、なのに。

 今も過去が私を見詰めている。


『こっちへ……』


 あの人が、私を誘っている。

 馬鹿な。ある訳がない。だって、あのひとはもう。

 なのに、足は勝手に動く。

 力が入らないのに、前へと進む。

 影は動かない。

 ただ待っている。

 きっと、私を


「お兄、様……」


 幽鬼のような足取りで影の元へと歩み往く。

 雨は、まだ止みそうもない。




 ◆




 浅草の大通り。

 立ち並ぶ商家も夜になり閉まっており、普段の喧騒はなく、ただ叩き付けるような雨音だけが辺りに響いている。

 傘も差さず、雨に打たれ、それでも身動ぎさえせずに佇む男が一人。


「雨は、まだ止みそうもないな」


 男──甚夜はゆっくりと刀を抜いた。

 見据える先には黒い影。沈み込むような、浮かび上がるような。雨の中にあって影は異様な存在感を醸し出している。

 影に敵意はない。だからこそ甚夜には噛み締めるような苦渋があった。






 善二や直次と酒を呑んだ晩、奇妙な噂を耳にした。

 曰く、雨の夜にのみ現れる奇怪な黒い影。

 目撃談は多くあったが正確なことは分からない。

 屈強な男、或いは細身の小男。ある人は見目麗しい娘と言い、またある人はみすぼらしい老女だと言う。

 実態の定かではない黒い影。成程、これは面白い話を聞いた。

 訪れた浅草の大通り。初日は空振りに終わったが、二日目の夜は件の影と出会うことが出来た。

 その正体を見極めようと対峙するも、甚夜は驚愕に身を震わせる。

 斬り伏せようと立ち向かうも剣に普段の冴えはない。凡庸な太刀捌きでは影を捉えることなど出来ず、結局は逃がしてしまった。

 それを不覚と思う余裕なぞ甚夜にはない。

 消えた影の行方を追うように雨を睨み付ける。




 ───影は、随分と懐かしい姿をしていた。




 今宵再び影との邂逅を果たし、心は僅かに波立っている。

 今も思い出す。

 故郷を離れ、流れ着いた先で触れた得難き暖かさ。

 幸福に満ちた水泡の日々。

 目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に消え去る。

 かつて当たり前に在った筈の日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。

 背は高くなり、声は低くなり、背負ったものが増えた分無邪気に駆け回ることも出来なくなって。

 いつまでも子供のままではいられないと、いつしか『俺』は『私』になった。

 それでも、今も時折、昔のことを思い出す。


「昨夜は後れを取った」


 目の前の黒い影に、ではない。

 黒い影の姿は、あまりにも懐かしかった。雨の中、輪郭さえ不確かだというのに、あの頃のままの気配が其処には在った。

 だから刃が鈍った。弾けて消えた水泡の日々に、無様にも縋ってしまったのだ。

 昨夜は確かに遅れを取った。

 しかしそれは『黒い影』にではなく、幸福を当たり前のものと甘受していた『かつての自分』にだろう。


「だが今度は逃がさん」


 迷いはない。

 強くなりたかった。あの娘を止めると誓った。ならば他事は所詮余分、斬り捨てることに何の躊躇いがある。

 雨が強くなった。 

 幸いだ。視界が邪魔されて黒い影の姿は良く見えない。少しだけ斬りやすくなった。

 四肢に力を込める。躍動する体躯。弾かれたように影へと肉薄する。

 踏み込み、いつかのように、上段、唐竹。叩き割るように振るう一刀。

 近付いた黒い影の姿に息を呑む。





 其処には、懐かしい人が確かにいて。




 ◆




 夜半、雨は強くなった。

 叩き付ける雨音を静かに感じるのは、穏やかな心持のせいだろう。

 馴染みの店主から貰った助言を胸に夜鷹の元へと、正確に言えば昨夜の軒先へと向かう。会えるかどうかは分からない。けれどそれでもよかった。まずは少しずつ積み重ね彼女のことを知り、そして自分のことを知ってもらおう。

 年甲斐もなく胸が高鳴る。一向に雨足は弱まらず、それさえも心地好い。

 あの軒先まであと少し、僅かながらに頬が緩む。

 けれど目的の場所に辿り着いた瞬間、直次の体は固まった。



 ふらふらと、幽鬼のような足取りで雨中を往く夜鷹。



 一気に、心が冷えた。

 彼女の向かう先には黒い人影が。

 駄目だ、そっちに行ってはいけない。

 思わず傘を捨て駆け寄り、ぐっと肩を掴む。なのに彼女は歩みを止めず、一歩二歩と足を前に出し、それ以上進めなくなって、ようやく直次の方に目を向けた。


「あれ、お武家様、かい?」


 虚ろな目だった。

 視線は向いていても直次の姿を映していない。


「どうしたのですか、一体」

「呼んで、るんだ、あの人が」

「何を言っているのですか貴女は」


 感情の乗らない声。夜鷹は惰性で喋っている。

 両肩を掴んで揺さ振れば、どうにか視点が定まる。呆けたような表情が少しずつ強張り、声にも力が戻ってきた。


「あ、あぁ、そうだね。あの人がいる訳ないんだ。こんなところに、だけど」

「そうではない! あれが」


 直次には夜鷹が正気を失っているようにしか思えなかった。

 彼女はまた黒い影に向き直った。大切な物を壊してしまった子供のような、悲しさとも寂しさともつかぬ曖昧な表情を浮かべていた。

 あの人。昔の男と言いながら、本当は今でも大切に想っている相手なのだろう。それくらいは直次にも理解できた。

 だとしても夜鷹を影の元に行かせる訳にはいかない。 

 影は動かずこちらをじっと見ている。見ているように感じられた。特に何かをするつもりはないらしい。それが直次には恐ろしい。

 遠くから見た人影は兄に似ていると思った。

 雨に遮られ、輪郭さえ覚束なかったが、纏う空気は確かに兄のそれだと思えた。

 しかし夜鷹を止める為に近付いた今、あの影を兄と思うことはもうできない。


「あれが、人の訳ないでしょう!」


 夜鷹の求める影は、本当にそうとしか表現できない。

 昨夜は人影だと思ったが、違った。

 距離は二間まで詰まり、尚も黒い影は黒い影のままだったのだ。


「なに、を」


 困惑する夜鷹にこそ直次は困惑していた。

 四肢はある。おぼろげな輪郭は確かに人の形をしている。けれど顔がない。皮膚が無い。

 遠目だから黒い塊に見えた訳ではなく、この影は本当に黒い塊だ。


「何を言っているんだい? あの人は」


 だというのに夜鷹は、まだこれを“あの人”だと言う。

 正直に言えば気が触れたようにしか見えない。

 だが直次は知っている。在り得ないことを当たり前のように起こす存在が現世にはいるのだと、身を持って経験していた。


「鬼……」


 高位の鬼は一様に人知を超えた特異な<力>を身に着けているという。

 つまりおかしいのは夜鷹ではなく、あの黒い影。

 直次は夜鷹を離し、庇うように前へと出た。黒い影を睨み付け、腰に差した打刀を抜き、正眼に構える。


「お武家様、一体何を……!」

「夜鷹殿、落ち着いてください」


 背から着物を引っ張られても振り返ることはしない。

 直次は祐筆、武士とはいえその仕事は書類の整理が主。思えば誰かに刃を向けるのはこれが初めてだ。

 一通り道場剣術を学んでいても実戦となれば話は別。木刀にはない重さに手が震える。

 それでも逃げることはしない。したくない。

 たとえ相手が高位の鬼であれ、戦うことなく背を見せるなど武士のすることではない。


 義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。

 徳川に忠を尽くし、有事の際には将軍の意をもって敵を斬る“刀”とならん。

 ただ忠を誓ったもののために在り続けるが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である。


 表祐筆として代々幕府の事務に携わってきた三浦家。

 然して裕福ではなく、家柄も低かった。それでも三浦家が武家であるならば、忘れてはならぬ武士の在り方だと母は厳しく教えてきた。

  

「私は武士だ。そして武士が徳川に仕えるのは、泰平の世を守り力なき人々を守る為」


 ならばこそ、この刀には意味がある。


「刀にかけて言います。あれは、貴女の大切な人ではない」


 生真面目そうな、ちょっと変な武士。

 夜鷹が直次に抱いていた印象はその程度のものだった。

 しかし刀を構える彼は、小刻みに震えているというのに、今まで閨を共にしたどんな男よりも強く見えた。


「どうか、私を信じてください」


 着物を掴んでいた手が離れ、直次は全速で突進する。

 斬り合ったことなど一度もない。“戦い”になれば自分は勝てないだろう。それを理解しているからこそ直次は躊躇わなかった。

 裂帛の気合。振り上げた刀。眼前の敵。相手に抵抗はない

 一刀。ただ一刀をもって戦いが始まる前に斬り伏せる。

 

「お、おおおおおおお!」


 直次は腕に力を籠め、しかし振り下すはずだった刀は途中で止まる。

 黒い影が、“直次の刀が触れるよりも先に”唐竹に斬られていくからだ。

 刃は触れてもいない。なのに何故?

 疑問に答える者などなく、ただ切り裂かれる黒い影を眺める。次第にあやふやな輪郭が更に不鮮明となり、夜の闇に霧散していく。


「これは」


 影の崩壊は止まらない。影は霧に、霧は霞に、霞は程無くして空気に変わる。直次が手を下すまでもなく、黒い影は雨に流され消えてしまった。

 一瞬の安堵。しかしすぐに緊張が走る。

 黒い影の向こうに、もう一つの人影を見たからだ。


「っ!」


 構え直し影に正対する。

 今度は黒い塊などではなく、細身ではあるが鍛え上げられた体躯を持った大男だ。手にした刀は実に見事なもの。これ程の業物はなかなかお目に掛かれない。

 前傾姿勢のまま微動だにしなかった男は、ゆっくりと体を起こしていく。

 雨に打たれながらも冷や汗が流れる。

 逃げる気など毛頭ない。

 大男は顔を上げ、その鋭い眼光で直次を見据えた。


「む、直次……か?」


 一気に脱力感が襲ってくる。

 雨に濡れた総髪の大男、それは見慣れた友人だった。




 ◆



 

 あの影が消えたせいなのだろうか、雨足は少しずつ弱まってきた。

 三人はずぶ濡れになりながらも軒先へと戻り、ただ空を見上げていた。雲は流れ段々と薄くなってきている。もうしばらくすれば雨は上がるだろう。


「お武家様、案外と強かったんだね」


 夜鷹は心底意外とでも言いたげな声音だった。


「え? いや、それは」


 位置的に夜鷹にはよく見えていなかったらしい。

 本当はあの影を斬ったのは直次ではなく甚夜だ。訂正しようと思ったがそれよりも速く甚夜が口を開いた。


「確かに。あれに斬り掛かるほどの気概を見せるとは」


 無表情で、しかし声にはどこか嬉しそうな響きがある。

 あの影を誰が斬ったかなど彼自身が一番理解しているだろうに、本気で感心しているような口振りだ。


「いえ、ですから」


 声を掛けると甚夜は首を横に振る。

 直次が影を斬った、そういうことにしておけ。大方そんな意味なのだろう。

更に反論をしようとするも、被せるように夜鷹が言葉を発する。


「ねえ浪人」


 夜鷹は当たり前のように甚夜へと声を掛けた。

 その呼び方にこの二人が既知の間柄なのだと知る。直次にはそれが意外だった。

 知り合ってからそれなりに時間は立つが、この友人は案外と固い性格をしており、夜鷹を買うような男には思えない。どのような経緯で知り合ったのか、直次には想像もつかなかった。


「結局、あの黒い影は鬼、だったのかい?」


 二人の関係は確かに疑問だが、あの影の方が今は気になる。

 あれが何者だったのか、何が起こったのか。直次もまた黙って甚夜の返答を待った。


「あれは鬼になりきれなかった未練だ」


 相変わらずの仏頂面、けれどほんの僅か目は細められる。

 それを痛ましいと感じられたのは夜鷹だけ。指摘しなかったのは、彼への心遣いだ。


「だから定型を持たず、傍から見ればどんな姿にも成り得る。元が元だ、他者の未練とも相性が良かったのだろう」


 無から生ずる鬼とは、肉を持った想念。

 しかしあの影は、鬼になるほどの密度はなく、けれど霧散していくには濃すぎた負の感情だ。

 憎しみや悪意ではない。

 強いて言うならば誰かの、おそらくは死者の未練。

 それがどういう訳か寄り集まり、一つの怪異となってしまった。


「かつて失ったものか、今も尚拘るものか。見る者が未練を残した誰かに姿を変える、それだけの存在だ。<力>も持たず、鬼にさえなることなく怪異を引き起こす想いなぞ流石に初めてだな」


 まるで鏡のように、その者の未練を映し出す怪異。

 直次にはあの影が兄に見えた。其処に捨てきれぬ未練があったから。

 それでも、いなくなった兄に未練はあれど、既に決着はついている。だからだろう、近付けばただの影に変わった。


「未練、ねぇ」


 夜鷹には“あの人”に見えた。

 其処には捨てきれぬ未練があったのだろう。

 それがどのようなものかを知る術はないのだけれど。


「全部捨ててきたつもりだったんだけどね」

 

 直次は夜鷹の過去を知らない。

 だから彼女が影に誰を重ね、何を見たのかなど分かる筈もない。

 当然だ。どれだけ聡明な人間であったとしても、物語の裏側で何が行われていたかを見ることは出来ない。

 彼女が澄ました顔の下でどんな思いを抱いているかは、彼女にしか理解できないことだ。


「それでも、捨てられぬものはあるさ」


 彼にもまた、そういうものがあったのだろう。

 表情は変わらず、声も平静。その全く感情の乗らない言葉が、逆に痛みを強く感じさせた。 


「なら、浪人。あんたは、雨の向こうに何を見たんだい?」


 消えた影が立っていた場所を尚も眺め続ける夜鷹は、投げ捨てるようにそう言った。

 甚夜は虚を突かれたように立ち尽くす。相変わらずの仏頂面で、内心を読み取ることは出来ない。


「昔は、一太刀も入れることが出来なかった」


 自嘲するような、落とすような、静かな笑みだった。


「毎日のように木刀を振り回して、簡単にあしらわれて。……なのに斬れてしまった。多分、それを寂しいと思っているんだろうな」


 夜鷹は甚夜の過去を知らない。

 だから彼が何を言っているのかは分からない。

 結局はそういうもの。

 人が知ることの出来る範囲には限りがある。

 それはどうしようもないことなのだ。


「へえ……。ま、詳しくは聞かないよ」

「助かる」

「だろう? あたしに下世話な趣味はないんだ」


 以前の意趣返しなのか、横目で直次のことを盗み見る。はは、と乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 そうしてまた空を見上げた。 

 雨はいつの間にか止んで、灰色の曇の切れ間から、青白い月が顔を覗かせる。静けさに染まる夜がようやく戻ってきた。


「さてと」


 雨上がりの夜空を眺めながら、夜鷹は軽やかな足取りで軒下から離れる。


「もう、行かれるのですか」

「ああ、今日は仕事をする気にはなれないからね。帰ってとっとと寝るよ」


 仕事。思わず眉を顰める。彼女は夜鷹。だから男と閨を共にしなければ生活さえままならぬと知っている。

 十分に理解しながら、それでも胸には言い様のない感覚が去来し、直次は口を噤んだ。

 それが面白かったのか。夜鷹は見透かしたように笑い、


「じゃあね浪人、それに……直次様」


 何処か弾んだ声を残して、夜に消えていった。






 

 直次と夜鷹の出会いには、偶然が重なり関わり合うこととなった。

 しかし其処から先の話を甚夜は知らない。

 二人がどうなるか、その結末は知っていても、彼等が一体どんな道筋を辿ったのかは分からない。

 それはあくまでも夜鷹と武士の恋の話であり、憎悪に駆られ鬼を討つ男の物語から見れば余談でしかないのだ。

 故に『雨夜鷹』は彼の知らぬところで始まり、知らぬ間に終わる。


 人の知ることの出来る範囲には限りがある。

 

 何処まで行っても、人は自分に見えるものしか見ることが出来ないのだろう。










 ◆







「みやかちゃん、みやかちゃんてば」


 ゆらゆらと揺れている。

 耳元で聞こえる優しい声。くすぐったくて、でも気持ち良くて、もう少しだけこのままでいたいと思ってしまう。私はしばらくまどろんでいて。


「もう、劇終わっちゃったよー」


 けれどひときわ大きく揺さ振られて、驚きに目を覚ました。


「あ、起きた?」

「……かお、る? あれ、私眠ってた?」

「うん、ぐっすり」


 にっこりと笑ってるけど、物凄い勢いで体を揺さぶっていたのは間違いなく薫だ。

 いくら起こす為とはいえ流石に乱暴じゃないだろうか。


「って、劇は?」

「もうとっくに終わったよ」

「あぁ……そう」


 やってしまった。

 周りを見れば生徒は席を立ちホールから出て行こうとしている。劇の終わりにも気付かないなんて、どうやら本当にぐっすり眠ってしまっていたようだ。


「どうしよ」


 言葉は軽いけど、結構真剣に悩んでしまう。

 というのもこの芸術鑑賞会の後には、劇の内容や感想をレポートにして提出しないといけないのだ。ほとんど見ていないのにどうやって書けばいいんだろう。


「大丈夫、いつも勉強見てもらってるし、今日は私がちょっと手伝うね」

「……ありがと、薫」


 幼い顔立ちの薫が救いの女神さまに見えた瞬間だった。






 学校に戻ってからは、感想を書くために自習の時間が与えられた。

 教室はざわざわと騒がしい。先生がいないから皆適当に書き終えてめいめい勝手に話をしている。

 私はというと薫の席まで行って、見てもいない劇の感想を書くために四苦八苦していた。


「こんな感じでいい?」

「うん、それくらいならいけると思うよ」


 何とか体裁を整え、ほっと一息。

 私も他のクラスメイトに倣い自習の終わりまで話をすることにした。


「でも勿体無かったね、みやかちゃん。劇、面白かったよ」


 無邪気に笑う親友。『雨夜鷹』は薫の趣味に合ったらしく、随分楽しそうだった。

 私は、そんなに興味がないので勿体ないとは思わない。けれど感想を言い合ったりできないのは、少しだけ残念だ。


「ね、結構面白かったよねー」


 言いながら隣の男子にも声を掛ける。

 中学時代は特に親しい男子はいなかったけれど、高校生になって、なんだかんだと喋れる相手はできた。

 その中でも一番親しくさせてもらっているのが彼。目つきが鋭く若干強面だけど案外穏やかで、まだ感想を書き終えてなかったようだが、薫に向き直りきちんと対応する。


「ああ、朝が……梓屋」

「そろそろちゃんと名前覚えてよ……」


 薫は不満そう、というか若干落ち込み気味になる。

 件の彼は薫に対して優しい、というか妙に甘いのだが、その理由は古い知人に似ているからだそうだ。

 そのせいか、未だに時折名前を呼び間違える。そんなに似ている相手というのは、若干興味を惹かれないでもなかった。


「いや、すまん。覚えていない訳ではないんだが。どうも、な」

「そんなに私と似てたの?」

「ああ、よく似ているよ。彼女は、まるで天女のようだった」

「もう、またそういうこと言うー」

 

 ただ、薫とよく似た女の人を天女と呼ぶ感性は今一つ分からない。

 人並み以上の容姿をしているとは思うが、薫は綺麗より可愛いタイプ。天女という表現は今一つしっくりこない。

 それはそれとして、この二人、席が隣同士のせいか結構仲が良い。意外と気安い調子で雑談を交わしていた。


「なんだかなぁ。でも、そんなに面白かったの?」


 聞いても答えてくれなそうだし、彼に劇の話を聞いてみた。

 最初は興味なかったけれど、そんなに面白い面白いと言われると流石に気になってくる。


「それなりに興味深くはあった。……直次の友人である浪人が悉く無能に描かれている点は解せんがな」


 そう言えば彼の名前は直次の友人と同じだった。

 自分と同じ名前を持つキャラの扱いが悪いのに文句があるのだろう。普段表情が変わらず冷静な彼の子供っぽいところは、やっぱり同年代なんだと思わされ、なんか妙に安心する。


「助けに来たのに結局鬼を倒したのは直次だったしねー」

「うむ。夜鷹の手記には悪意を感じる」

「あはは、言い過ぎだよー。それに夜鷹は直次のことが好きなんだから、どうしてもそうなっちゃうんじゃないかなぁ、きっと」


 無邪気な薫とは裏腹に、彼は腕を組んで憮然とした表情をしていた。

 やはり納得はいっていない様子。正直、珍しいと思う。劇にこれほどのめり込むようなタイプには見えなかったのだけど。


「あ、でもあそこは良かったと思うよ? 直次の家での稽古のシーン」


 両の手を胸の前で合わせ、薫はにっこりと満面の笑み。

 その時はちょっとだけ起きてたから分かる。

 確か、武士と浪人が庭で稽古をしていて、武士の妻となった夜鷹と浪人の娘がそれを眺めているシーン……だったと思う。

 寝ぼけていてあんまり見ていなかったから話に加われるほどじゃないけど。


「ああ……そう、だな」


 そこは、彼も同意見だったのだろう。

 そのシーンを思い出すように一瞬だけ目を伏せ、薫に軽く落とすような穏やかな笑みを返す。

 

「ねえ、それってどんなの?」


 二人だけで仲良く話をされて、少しだけ疎外感。

 取り敢えず口を挟んでみると、薫はふんわりと柔らかく笑って答えてくれた。





「あのね、夜鷹が、浪人の正体が鬼だって気付いているのに、気付かないふりをして気遣うとこ」





 そう、人の知ることの出来る範囲には限りがある。


 どれだけ聡明な人間でも、どんなに努力しても、人は自分の見ているものしか見えていない。

 例えば、先に店を出た生真面目な武士はここ数日雨など降っていなかったという事実に最後まで気付くことはない。

 同じように鬼を討つ男も、夜鷹が雨の中に何を見たのかなぞ分かる筈もない。

 そもそも蚊帳の外にいる店主らは、何があったのかさえ知り得ない。

 それぞれが“自分”を生きる以上、そこから食み出たものは所詮余所事。

 今を生きる者は自分の物語しか見ることは出来ず、『雨夜鷹』はどこまでいっても夜鷹と武士の恋の話でしかない。


 

 けれど忘れてはいけない。

『見えない』と『無い』は同義ではない。



 誰に見えなくとも、それは確かに在って。

 だからいつかは気付くこともあるだろう。

 かつては見えなかったものに。

 其処に隠れた、小さな小さな優しさに。





「夜鷹にはやられたよ……そんな素振り見せもしなかった癖にな」


 感慨深げに溜息を吐く。

 そんなにいいシーンだったんだろうか、彼の反応になんだか興味が湧いてきてしまった。


「ほんと、あの女優さん演技上手かったねー」


 二人は演劇の話で盛り上がっている。

 居眠りしてしまった私が悪いのだけど、取り残されてしまって、なんかちょっとだけ寂しい。


「……DVDとかレンタルしてないかな」

「え? あ、そっか。みやかちゃん途中で寝ちゃったもんね」

「うん、ちょっと見直そうかなって」

「DVDは分からないけど、文庫本にはなってるみたいだよ」


 文庫本か。今度本屋でも探してみようかな。

 ああ、いや。うちの高校図書室広いし、もしかしたら置いてあるかもしれない。

 まずはそっちに行ってみようと、こくんと私は一人頷く。


「ふむ。なら私も探してみるか。本当は夜鷹の手記が読めればいいのだが」

「そっちの方が興味あるの?」

「ああ、特に浪人の扱いに関しては」


 薫の疑問に彼は重々しく頷いて見せる。 

 意外と大人げない……というか、なんか夜鷹に恨みでもあるんだろうか?

 でもあんまりにも真面目な顔で言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。つられたように薫もくすくすと笑っている。それでも憮然とした表情を崩さない彼がおかしくて、私達は更に笑った。

 教室の窓からは五月の風が流れてくる。緑の香りを纏った風が心地よい、抜けるような晴れの日のことだった。










 ◆




「じゃあね浪人。それに……直次様」


 虚を突かれた直次は、金縛りにでもあったように固まった。

 今まで頑なに名を呼ぼうとしなかった夜鷹が、最後に己の名を呼んでくれた。

 その意味を考える。もしかしたらという期待とただの気まぐれではという疑念。結局答えは出ず、隣にいる友人へ声をかけた。


「……あれは、どういう意図だったのでしょう」

「さて、な。少しは希望があるということじゃないか?」


 落とすような笑み、気楽な答え。

 珍しく友人はにやりと面白そうに口の端を釣り上げている。


「そ、そうでしょうか」

「多分だが。しかしまあ」


 やはり、いやまさか。

 二つの思考の間で行ったり来たりしている直次は放置し、夜鷹が去っていった方をちらりと見た甚夜は、呆れたように溜息を吐いて呟く。


「本当に、妙な女だ」


 人の知ることの出来る範囲には限りがある。

 いつかはその優しさに気付く日が来るとしても、しばらく夜鷹への印象は変わりそうもなかった。






 鬼人幻燈抄 余談『雨夜鷹』・了





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