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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
江戸編

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『花宵簪』・4(了)

 月夜の立ち合いを経て、深川の喜兵衛に戻る。

 夜は深く辺りは寝静まり、虫の音だけを聞きながら辿る道。

 付喪神使いを名乗る男、三代目秋津染吾郎も同道していたが、つい先程一方的に言葉を残し消えた。


『そしたら手筈通りに頼むな』


 道すがら告げられたのは、怪異を終わらせる方法。

 その通りに行えば奈津を救うことが出来ると染吾郎は語る。

 伝えられた方法は実に単純なもので、本当にそれだけで解決するのか疑問に思ってしまう。

 とはいえ取れる手がない以上、あの男を信じる他あるまい。

 もしも謀ろうというならば首を落せばいいだけのこと。多少の不安はあるが、取り敢えずは黙って従う。

 喜兵衛に戻ってきたが、流石に暖簾は片付けられている。

 店の灯は既に落ち、しかしその軒先にはほととぎすの簪を髪に差した女が。


「奈津」

「お兄様、お帰りなさいませ」


 じっとりと暑い夏の夜で良かった。

 もしも季節がずれていれば彼女に凍えさせてしまうところだった。


「待っていたのか」

「はい、お兄様が待っていてくれと」


 ああ、そういえば、そんなことを口にしたか。

 出かける前に確かに言った。落ち着かせる為の言葉だ。本当に待っていてほしかった訳ではない。

 だというのに、彼女は文句も言わず幸せそうな笑みで、町並みが暗がりに沈み込む時間まで待っていてくれた。


「済まない、遅くなった」


 謝ったのは待たせたことか、それとも安易な約束をしてしまった為か。

 理由は分からないがごく自然に謝罪していた。


「いいえ、お兄様は帰ってきてくれると知っていましたから」


 彼女はそう言ってくれる。


 ──だから願った。この娘が何者だとしても、最後まで兄でありたいと。


 だけど遠い雨の夜の誓いはいとも簡単に壊れてしまって。

 純粋な信頼の言葉が、純粋だからこそ耳に胸に痛い。

 それでも表情は変わらない。

 子供の頃は転んで膝を擦りむいて泣いていた。

 けれど今では腹を裂かれても涙なんぞ零れない。

 強くなったのではない。ただ痛みに鈍くなっただけ。 

 長く生きれば痛みには鈍くなる。その是非を問うことは、今の自分には出来ないけれど。


「少し、出かけようか」と誤魔化すように呟いた。

「え?」

「こんな時間からで悪いが」

「……いいえ、お兄様となら何処へでも」


 どちらからともなく手は伸ばされ、夏の夜に体を寄せ合って、二人月夜を歩く。

 まるで読本に描かれる恋仲の男女。

 奈津は随分と嬉しそうだ。組んだ腕から彼女の暖かさが伝わってくる。

 そう、こんなにも暖かい。

 なのに、どうしてこうも心が冷えるのだろうか。




 ◆




 青白い月の光に染まる深川の町並み。

 じー、じー、と虫の音。

 整然と整備された神田川の近く、ちょうど草が押し茂り、柳の立ち並ぶ場所に辿り着く。


「雪柳だ。春には雪のような花を咲かせる」


 近付き、雪柳にそっと触れる。

 何かを話すならこの場所がいい。

 雪柳のおかげで少しだけゆっくり歩けるようになった。

 だから、此処でなら少しは穏やかに話が出来ると思った。


「お兄様?」

「正直に言えば」


 奈津の疑問を遮るように、俯きながら甚夜は言葉を被せた。

 普段の硬さは鳴りを潜めている。ゆっくりと落ち着いた、けれどどこか頼りない声だった。


「兄と呼ばれるのは苦手なんだ」

「え?」

「私は最後まで兄でいてやることが出来なかった。だから苦手……ああ、違うな。多分、自分の弱さを見つけられたようで、嫌な気分になるんだ」


 妹を憎悪する男が兄と呼ばれる。

 なんと滑稽で無様なことか。

 惰弱な己を否応なく理解させられるから、奈津が「お兄様」という度に、古い記憶を思い出す。

 原初の記憶。愛していた筈のもの。でも何一つ守れなかった。

 だから強くなりたかった。

 それだけを願って生きてきた。


「私はもう甚太ではない。結局のところ、奈津とも……鈴音とも。兄妹ではないのだろう」

「いいえ」

 

 零れ落ちる弱音を、柔らかく、けれどきっぱりと否定する。

 その響きにふと顔を上げれば、熱っぽく溶けた瞳はいつの間にか消え、寧ろ涼やかな立ち振る舞いの彼女がいる。


「鳥が花に寄り添うのに、何の理由がいりましょう。兄妹だって同じではないですか。たとえ何があったとしても、繋がりとは断たれぬものです」


 月夜に揺れる淡い微笑み。

 兄妹はどこまでいっても兄妹なのだと彼女は言う。


 ───だけど、この憎しみだけが、今も消えてくれなくて。


 まっすぐなものをまっすぐに見つめることが出来ないのは、自分が歪んでしまったからだろう。

 彼女の笑顔が素直であればある程、余計に辛くて。

 けれど甚夜は目を逸らすことも、耳を塞ぐこともできないでいる。


「私は、幾星霜を巡りお兄様の元へと辿り着きました。だからきっと、貴方も同じように帰ることが出来ると思います」

「帰る……?」

「ええ。きっと私達は、想いの帰るべき場所を探して、長い長い時を旅するのです」


 脈略もなく繋がりもない。

 彼女が何を言っているのか分からない。

 でも本当に、出口のない憎しみにも帰る場所があるのなら。

 それを見てみたいと思えた。


「見つかるだろうか」

「見つけるのです。きっと、その為の命なのでしょう」


 或いは、鬼の命が人よりも長いのは。

 昏い心に迷い込んだ想いが、いつかは帰り道を探せるように。

 その為に千年という時間は与えられたのかもしれない。


「奈津……いや、違うのか」


 奈津でないことは初めから分かっていた。

 それでも彼女の容貌は見慣れたものだから、甚夜にとっては奈津の延長線上にある存在でしかなかった。

 けれど今は違う。

 彼女は奈津ではなく、妹ではなく、名も知らぬ誰かになった。


「名を呼べなくてすまない」


 今なら教えてもらえるかもしれない。そう思いながらも問う気にはなれなかった。

 甚夜にとって名を聞くことは斬り殺す為の作法だ。

 だから聞かない。彼女は月夜に擦れ違ったただの女。それでよかった。


「愚痴を聞いてくれたんだ。謝礼が必要だな」


 懐に手を伸ばす。

 彼女が誰なのかは分からないが、何よりも求めていたものなら知っている。

 染吾郎がちゃんと教えてくれた。


「……返そう、お前の半身だ」


 取り出したのは、藤の装飾が施されたこうがい

 以前喜兵衛の店主から貰ったものだった。


「ああ……」


 蕩けるような、熱っぽい瞳。

 甚夜にではなく、笄に向けて名も知らぬ誰かは語り掛ける。

 お兄様、と。

 そっと指先で触れる。装飾を撫ぜるように指を動かす。


「ようやく貴方に触れられた」


 鳥の声が聞こえる。

 囁くように、歌い上げるように、甲高い音色が夜に響く。


 てっぺんかけたか。てっぺんかけたか。

 

 鳴き声は耳を擽って、風にのって通り抜ける。

 

「これは」

 

 古今要覧稿という類書がある。

 この類書は文政から天保に掛けて編纂されたもので、日本の故事の起源や沿革についての考証を分類し記されている。


 書に曰く、「籠の内に有て天辺かけたかと名のる声の殊に高く、清亮なるは空飛びながら鳴にも勝れり」


 それは正しく鈍ることのない透明な音色だ。


「ほととぎすの声……」


 月夜にほととぎすが鳴いている。

 ああ、そういえば。

 彼女の簪の意匠は、ほととぎすだった。


「ありがとうございます。ようやっと、私も……」


 簪を外し、笄を受け取り、二つを包み込むような優しさで握り締める。

ほっそりとした指から漏れる光。女の手の中で簪と笄は、月の光にも負けてしまいそうなくらい淡い光を発していた。


「お兄様……共にまいりましょう」

 

 淡い光はほととぎすの形になって、羽ばたきを始める。

 奈津は、奈津の口を借りた誰かは幸福に満ちた溜息を零した。

 そうして優しく、ただ優しく。

 満ち満ちた微笑みを残して、ほととぎすは宵の空に消えて行った。



 ◆



 ───たぶん君、なんか懐に入れてるやろ? 僕の想像があってるんなら、櫛か笄。

   あー、笄のほうかな? それをあの娘に上げれば終いや。



 染吾郎が語った怪異を解き明かす手段はそれだけ。

 半信半疑だったが、実際に終わりを見せつけられては信じるより他にない。

 意識を失い、崩れ落ちた奈津を腕に抱く。

 しかし目は何時までも飛び去ったほととぎすの行方を追っていた。


「お疲れさん」


 見計らったように現れた染吾郎は、気楽な調子で声を掛けた。

 飄々とした態度、それでいてどことなく勝ち誇ったような顔をしていると思ったのは、多分気のせいではないだろう。


「秋津染吾郎」

「かったい呼び方やなぁ。まあええけど。それより、上手くいったやろ?」


 ああ、と甚夜が小さく頷けば、当然とでも言わんばかりに口の端を釣り上げる。

 成功は初めから確信していたらしく、安堵も喜びも感じさせない。

 こちらからしてみれば何故上手くいったのかも今一つ理解できておらず、この結果には正直戸惑いもあった。


こうがいは“髪掻き”が転訛した名前でなぁ」


 それを悟ったのか染吾郎は滔々と語り始めた。


「そもそもは髪を結わう時に使うもんやし、頭が痒い時に髪型を崩さん掻いたり、まあ娘さんの身だしなみの為の道具やね。同じ職人が作ったんなら、簪と笄はある意味兄弟かもなぁ。ああ、簪は女もんで、笄は男の刀装具でもあるからどっちかゆうと“兄と妹”やね」

「つまり」

「その藤の笄も染吾郎の作なんやろ。そやから簪は自分の兄貴をもっとる君をお兄様って呼んだんちゃうかな」


 まるで兄妹のように想い合う簪と笄。

 なんとも不可思議な話だが、思い当たる節もある。

 そう言えば事あるごとに奈津は、奈津の中にいた誰かは胸元にしな垂れかかってきた。

 あれは甚夜に触れようとしていたのではなく、懐にある笄を求めていたからなのかもしれない。


「しかし簪が兄を探す、か」

「納得いかんか?」

「いや、ただ予想外でな。……あの簪には、死んだかつての持ち主の想いが宿っている。だから、奈津はそれに取り憑かれ兄を探しているのだと思っていた」

「んで君は兄貴によく似とる、とか? あはは、講談なんかやとよくあるヤツやね」

 

 しかし実際は簪“の”兄を探していた。

 器物自身がそこまで強い想いを抱く。付喪神となった犬神を見たのだ、納得できない訳ではないが、妙な心地であることは否定できない。

 はっきりしない様子の甚夜に、染吾郎は出来の悪い弟子を教え諭すような柔らかさで語る。


「物にだって心はあるし、肉を持って形になる。そんなら簪が兄貴と一緒にいたい考えたって、不思議やないやろ?」

「そういう、ものなのだろうか」

「好きな人の傍にいたいのは、人も動物も物も、みぃんなおんなじやと僕は思うな」


 ただ、好きな人の傍にいたかった。

 その想いだけを抱えて簪は流れ往く。

 様々な人の手に渡り、幾星霜を巡り。

 本当に帰るべき場所を探して、長い長い時を旅してきた。


「そもそも、これ対になるよう作られたみたいやし。“藤波の 咲きゆく見れば ほととぎす 鳴くべき時に 近づきにけり”……万葉集やね。初代も冗談が好きやな」


 染吾郎は苦笑しながら、奈津の手にある簪と笄をじっと眺めていた。

 藤の花が次々と咲いてゆくのを見ると、ほととぎすの鳴くべき時がとうとう近づいてきました。

 古い時代から、藤とほととぎすは多くの歌人に愛されてきた組み合わせだ。

 確かに店主から受け取った笄には藤の意匠が施されている。


 ────鳥が花に寄り添うのに、何の理由がいりましょう。


 奈津が、奈津の中にいた誰かが口にした言葉を思い出す。

 それは比喩ではなかった。ほととぎすの簪はずっと、藤の花を探していたのだ。


「現世には不思議なことがあるものだ」

「鬼の言葉ちゃうなぁ」

「違いない」


 確かに己も“不思議なこと”の筆頭だ。

 今更この程度のことを不思議と思うのも妙な話か。

 妙に納得させられ頷く甚夜に、染吾郎はおどけた調子で語り掛けた。


「そやけどまあ、君のゆう通り。兄を探していた持ち主ってのも、一人くらいはいたんかもしれんね」


 宵の空に飛び去ったほととぎす。

 その行方は彼等には分からず、どのような道筋を辿り此処に辿り着いたのかもまた知る術などない。

 けれど想像するくらいは自由だろうと、彼は好き勝手にほととぎすのかつてを作っていく。


「もしかしたらあの簪と笄は、昔どっか兄妹が互いに持ってたもんで、持ち主が死んだ後も一緒にいようとする想いは二つを引き合わせた……なぁんてのも、ありやな」


 染吾郎の語り口は真剣みが全くなく、完全に冗談といった雰囲気だ。

 実に楽しそうで、それでもふざけているのでも、馬鹿にしている訳でもないのだと分かる。

 ほととぎすの行方を語る彼の目は、ひどく優しげに細められていた。


「それか、どこぞの夫婦の思い出の品やったんかも。いやいや、遠く離れた恋人同士が、お互いにこれを見て、遠く離れても浮気なんかせずに愛し合いましょうね、なぁんて約束を交わしたり」


 適当だな、と甚夜は呆れたように溜息を吐く。

 彼の態度は変わらない。寧ろ何を言っているんだ、とおどけて肩を竦めて見せた。


「しかたないやん。あの簪がどんな旅をしてきたのか。どんな人が想いを込めてきたのか。そんなん誰にも分からへんよ。そやけど、分からんでもいいんちゃうかな?」


 分からなくてもいい。

 そう言った彼は夜空を見上げる。雲は風に流れ、いくつも星は瞬き。

 あの光のうちのどれかが、ほととぎすのものなのだろうか。甚夜も彼に倣い、広がる宵の空の向こうを眺める。


「清(中国)ではなぁ、ほととぎすはとある男の霊魂の化身らしい。在る国の王様になった男は、死んだ後もほととぎすになって自分の国に戻ってくる。そやけど長い長い時間が流れて男の国は他んとこに攻め滅ぼされて、帰る場所が無いって鳴きながら血を吐いたってお話や。“帰り去くに如かず”……そやから、不如帰ほととぎすなんやと」

 

 長くを生きれば、いつかは目にすることとなる

 横たわる歳月に姿を変え、面影さえ見出せなくなってしまった故郷。

 鳴きながら血を吐いたほととぎすの心は少しだけ身につまされて。

 けれど染吾郎は、ほんの少し過った陰りを払拭するように、万感の意を込めて言った。


「ほんでも、あのほととぎすは、自分の兄貴のところまで帰って来れた。そんでええやろ」


 ほととぎすは姿も形も見えない。

 鳴き声も遠く離れ、その行方を探ることは出来なかった。

 だけど不如帰はちゃんと兄と巡り合えた。

 確かに結末としては、それで充分なのかもしれない。

 

「あの不如帰は何処へ飛んで行ったのだろうな」

「そりゃあ、遠くちゃう?」

「遠く?」

「そ、遠く。空高く、広い海を越えて。遠く遠く、想いの還る場所へ。何処かはあのほととぎすに聞くしかない……そやけど想いって、最後には自分の望んだ場所に還るて僕は思うな」


 長い時を流れ、己が半身へと辿り着いた簪。

 ならば今度は自分が触れた想いを、他の誰かへ伝えるために飛んで行ったのだろう。

 きっと誰かが幸福に笑う傍らには。

 ほととぎすの鳴き声が優しく響いているに違いない。


「そうか。……そうだと、いいな」


 意識しての言葉ではなかった。

 だからこそ掛値のない本心だった。

 あのほととぎすが帰るべき場所に辿り着けるよう、小さく小さく祈りを掲げる。


「さってと、僕はもう行くわ」


 いったいどれくらいそうしていたか。

 長く短い時間が過ぎ去ると、染吾郎は両手を組んで、一仕事終えたと背筋を伸ばした。

 為すべきは為したと踵を返し、そのまま去っていこうとする。

 

「一応聞いておくが、いいのか」

「何が?」

「私は人に化けた鬼だ」

「ああ……そゆこと。ま、別にええんちゃう」


 彼の平然とした態度に思わず呼び止めるも、返ってきたのはあまりにも気楽な声だ。

 退魔よりも職人こそが彼の本分なのだろうが、あまりにも適当過ぎる。訝しむ甚夜に「真面目やなぁ」などと苦笑が零れた。


「だって君、おふうちゃんの知り合いやろ? あの娘のこと見逃しとるんやから今更やし、君は危なそうに見えんからね」

「だが」

「僕はあくまで職人や。依頼があれば鬼を討つし、命狙われたら抵抗もするけど、害のない鬼まで叩こうとは思わんよ」


 その言葉を最後に、染吾郎は表情を変えた。

 昏く静かな、鬼を討つ者の顔だった。


「そやけど、忘れたらあかんよ。君らは鬼、どこまでいっても倒される側の存在や。どんなにおふうちゃんがええ娘で、君が人を救って、僕が君らを認めた所でそれは変わらん」

「……ああ、分かっている」

「それならええんやけど。ほな、さいなら」


 今度こそ歩き始める。

 夏の月夜に残された甚夜は、奈津を抱きかかえたまま、しばらくの間空を眺めていた。

 空では消えた筈の不如帰の羽ばたきが、甲高い鳴き声が、まだ聞こえてくるような気がした。



 ◆



「いやぁ元に戻ってよかったよかった! ……てのに御嬢さんはなんでへこんでるんですか?」


 翌日、蕎麦屋『喜兵衛』。

 散々気を揉んだ奈津の変化も収まり、ようやっと安心したといった様子で善二が息を漏らす。

 にも拘らず怪異から解き放たれたはずの当の本人は、何故か暗く沈み込んでいた。

 

「おふうさん、知ってます?」

「えーと、どうもあの時の記憶が残ってるみたいで」

「ああ、そりゃあ……」


 善二は納得してうんうんと頷いた。

 思い出すのは、甚夜に擦り寄り甘える奈津の姿。

 普段の彼女からは考えられない立ち振る舞い、元に戻った今思い返すと相当恥ずかしいのは間違いない。

 かといって奈津の性格では簡単に割り切ることもできず、甚夜に合わせる顔がないといったところだろう。


「お兄様ぁ~とかやっちゃってたしなぁ。確かにあれは恥ずかしい」

「善二、後で覚えてなさいよ」

「あ、いや、別に馬鹿にした訳じゃ」


 若干目を潤ませながら、奈津は憎々しげな視線を向ける。

 思っていたことをほとんどそのまま口に出してしまう。相も変わらず失言の多い男である。


「まま、お奈津ちゃんも落ち着いて。今日は好きなもん頼んで下せえ。奢りますから」

「親父さん……ありがと」

「しかし、旦那来ませんね」

「う」


 店主の気遣いに感謝し、しかしあの男のことを思い出し顔が赤くなる。

 それを目敏く見付けたおふうが、たおやかに笑いながら声を掛けた。


「ハマグリになりそうですか?」


 男どもはその言葉の意味が分からなかったらしい。「は? ハマグリ?」と顔を見合わせている。

 けれど奈津にはそれだけで十分通じる。通じるだけに、顔が熱くなった。


「……やっぱり、私はまだ雀で十分だわ」


 言いながら卓の上に置いた福良雀の根付をちょんと指先で突く。

 あの男にしな垂れかかったり、腕を組んだり。自分の意思ではなかったにしろ、あまりに恥ずかし過ぎる。

 決して嫌ではなかったし、寧ろ嬉しいと思わなくもなかったが、奈津には少しばかり早すぎたようだ。


「あらあら」

「……ああもう、どんな顔して会えばいいのよ」


 頭を抱え奈津はぐったりと卓に突っ伏した。

 どんな顔して会えばいい。そんなことを言いながらも彼の良く来る蕎麦屋に訪れる。

 その意味を、それがどんな感情に起因しているかを理解できていない奈津が面白くて、おふうはくすくすと笑っていた。




 ◆




 ところ変わって浅草。

 流石に翌日すぐに喜兵衛へ行く気にはなれなかった。もしも奈津と顔を合わせれば気まずいことこの上ない。数日は間を置こうと考えていた。

 ほおずき市が終わり、人の少なくなった大通りを仏頂面で歩く。すると昼間には珍しい人物の姿を見つける。


「おや、随分難しい顔をしているねぇ」

「……夜鷹か」


 辻遊女が通りに立つのはよると相場が決まっている。

 彼女は闇に紛れねばならぬ程ひどい容姿はしていないが、それでも昼間から顔を合わせるのは稀だった。


「男を誘うには少し時間が早いだろう」

「心配して声を掛けたっていうのに、随分と失礼な物言いじゃないか」


 失礼な発言を、夜鷹はしっとりと艶のある笑みで受け流す。

 奈津よりも年下に見える彼女だが、こういったところは流石と褒めるべきだろうか、

 妙な女という印象は拭えない。けれど彼女との会話は昼でも普段通りで、昨夜に少しばかり狂った調子が戻ったように感じられた。


「ま、折角だ。話でもしてかないかい?」

「ほう、それは」

「噂、幾つか仕入れといたよ」


 それは有難い。

 今は体を動かして頭をからっぽにしたかった。

 そう思った瞬間、どこかで聞いた覚えのある、甲高い鳴き声が耳に届いた。


「今のは……ほととぎす?」


 甚夜は驚きに多少表情を崩して呟く。

 てっぺんかけたか、てっぺんかけたか。

 夏空に響き渡るほととぎすの声。昨日のことだ、間違える筈がない。


「ああ、またかい」


 うんざりとした様子で夜鷹は溜息を零す。

 娼婦としてのものではなく、歳相応に隙のある横顔。

 その態度に軽く眉を顰めれば、疑問を察した彼女は憂鬱そうに吐き捨てる。


「いや、今日の朝なんだけどね。寝よう思ったら急にほととぎすが鳴いてねぇ。結局寝れないからこうやって出てきたのさ。それにさっきから妙にあたしの近くで鳴くんだ。なんだろうね、いったい」


 夜鷹の言葉に、甚夜は昨夜のことを思い出していた。




 ────そ、遠く。空高く、広い海を越えて。

     遠く遠く、想いの還る場所へ。

     何処かはあのほととぎすに聞くしかない……

     そやけど想いって、最後には自分の望んだ場所に還るて僕は思うな。




 染吾郎はそんなことを言っていた。

 だから、例えばの話である。

 例えばもしも、あの不如帰が選んだ“最後に帰りたい場所”が、かつての持ち主のところだとしたら。

 それが、妙齢の女性であったりしたのなら。

 ほととぎすは彼女の下へ辿り着き、美しい声で鳴くのではないだろうか。


「ん、なんだい?」


 そう考え、思わず夜鷹をじっと見つめてしまう。

 奈津と同じ年齢で体を売る女。

 甚夜は彼女の過去を知らない。それどころか名前さえ知らなかった。

 だから、もしかしたら。


「まさか、な」


 浮かんだ想像を一太刀の下に斬って捨てる。

 流石にそれは出来過ぎだ。そんな偶然ある訳がない。

 

「だから何が? ……ねえ、あれ鬼とかじゃないだろうね」


 要領を得ない甚夜の態度に嫌な予感でも過ったのか、夜鷹の表情には僅かな不安が見て取れた。

 相も変わらずほととぎすは綺麗な声で鳴いている。

 勿論鬼ではない。だが、普通のほととぎすでもない、とも思う。

 けれど彼女の過去も、あの簪のかつても知らない彼には、本当のところは何も分からず。

 もしも想像が事実だったとして、だからどうということもない。


「いいや」


 ならば甚夜に答えられるのは、精々この程度のもの。

 片目を瞑り、透明な音色に耳を傾けながら、彼は小さな笑みを落とす。


「宵を越えた不如帰が、花に留まっただけだろう」


 ただ、それだけの話だ。



  


 鬼人幻燈抄『花宵簪』・了


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