『マガツメ』・5
『マガツメは……鈴音はまだ、私の幸せが遠い葛野にあると信じているんだ』
そう言った時の彼の表情が忘れられない。
怒りや憎しみに似た何かを滲ませながら、憐れむように悔やむように歯を食い縛る。
奥底にある感情は何だったろう。
憎悪? 愛慕? おそらくそれは本人にも分かっていない。
マガツメは現世を滅ぼす災厄と聞いた。だから、倒せばそれでいいのだと思っていた。
けれど甚夜にとっては違う。何度殺しても飽き足らない敵で、それでも心から愛した妹で、良くも悪くもかけがえのない存在で。
彼が常ならぬ様子だったのは、結局迷っていたのかもしれない。
何を斬るべきか。
多分彼はずっと迷っていた。
「でーとについてー」
「ついてー!」
とまあ真剣に悩んでみても女三人寄れば姦しい。思春期の少女であれば騒がしさは相当のものである。
休み明けての月曜日、昼休みの教室でわやわやと燥いでいる女の子三人。
もっともそのうちの一人、姫川みやかは詰め寄られているだけ。にまにまと悪戯っぽく口元を緩める萌と薫に、為す術もなく押されていた。
「ねね、どうだった。デート!」
いったいどんな手を使ったのか、薫は先週の土曜日の情報を既に掴んでいた。
もう好奇心いっぱいといった風に目をキラキラと輝かせている。
「あ、情報はねー、溜那ちゃんから聞いたんだー」
本当に、この子のコミュニケーション能力は侮れない。
いつの間にか人造の鬼神と密に連絡を取り合っていたらしい。というか甚夜、溜那にデート行くこと普通に漏らしてた? いや、やめてよ。お願いだから。
今ここにいない彼へ軽い恨み言を送りつつ、すっと目を逸らせば邪悪な、というかからかう気満々の笑みとかち合う。
「いやー、抜け駆けかぁー」
「そういうのじゃなくて、ね?」
「照れない照れない。ささ、お姉ちゃんに話を聞かせなさい?」
「ごめん萌、そのノリ分からない」
誰がお姉さんか。
本気なのか冗談なのか微妙に判別の付きにくい態度で萌がじりじりと距離を詰める。
どうにもこの子の胸中は把握し辛い。恋愛的な意味で甚夜に興味があるようでも、言葉通り単に親友、或いは秋津染吾郎としての信頼を向けているだけにも思える。
ただ良い友人であるのには間違いなく、こちらがどういう返答をしても険悪にはならない、とは思う。
同時に下手なこと言うとそりゃあもう思いっきり弄られるんだろうなぁ、という確信もあった。
「本当に、そういうのじゃないよ。私ただ攫われただけだし」
「へ?」
いつまでもはぐらかしていても仕方ない。土曜日のことを端的に言えば、先程までの雰囲気は吹き飛び、薫達は目を点にしている。
だけど紛れもない真実だ。
みやかは向日葵に攫われたこと、甚夜に助けてもらったこと。マガツメの思惑、それらを何一つ隠さず語って伝えた。
躊躇いはなかった。多分向日葵は、そうさせる為にみやかへちょっかいを出した。大事な“おじさま”が周囲の理解を得やすいように、彼女は態々分かりやすい敵役をやっているのだ。
上手く使われているようで少しだけ釈然としないが利害は一致している。みやかは向日葵の思惑通りに、攫われたのは甚夜が悪い訳ではないとところどころフォローを入れつつ説明する。
「そっか。向日葵が、ね」
「うん。マガツメは現世を滅ぼす、“その時”までもう殆ど時間はないって甚夜が言ってた」
二人の友人の表情が目に見えて変わった。
薫は心配そうに、萌は秋津染吾郎としての鋭い顔つきになる。マガツメなる鬼の存在は秋津にとっても仇敵、思うところはあって当然だ。
それをちょっとだけ羨ましいとも思ってしまうのは不謹慎だろうか。
因縁というならいつきひめにもある。けれど今回は吉隠の時と違い、みやかの入り込む余地はない。話してくれたのはあくまで彼の厚意であり、そこにメリットは発生しないのだ。
だが付喪神使いたる萌なら彼の隣で戦える。
感じるのは嫉妬より忸怩たる想い。結局みやかは何処まで行ってもただのクラスメイト。いざという時何もできない自分が情けなく、力になってやれないことがたまらなく悔しい。
「そゆことかー。なんか、やりにくい。マガツメも悪いやつじゃなくって、ただ一途で。もしかしたら、もうちょっとどうにかなったじゃないかなって思っちゃうねソレ」
「そう、だね」
それに、マガツメが単なる敵の親玉でないことも、陰鬱な気分に拍車をかける。
誰が悪かった訳でもない。強いて言うなら巡り合わせが悪かった。
もしかしたら本当に、もう少しどうにかなったのかもしれない。
甚夜は甚太のまま白雪と結ばれ、義理の姉妹として白雪と鈴音は仲良く。そういう結末があってもおかしくはなかった。
しかし現実として鈴音はマガツメとして顕現し、甚太は甚夜として対峙する。
衝突は避けられず、その先がどう転がるかも分からない。
みやかと萌はそろって溜息を吐いた。当たり前のことだが、折角の昼休みだというのにあまりにはなれなかった。
「そーかなー? 私マガツメさん嫌い」
同情的になっている二人に対して、薫は頬を膨らませて不満そうにしている。
「だって、“好き”はなにやってもいいってことじゃないよ。そんなの好きじゃない」
「それは、そうだけど。でもマガツメの、好きはそれだけ重くて。だから止まれなかったんじゃないかな」
「じゃあ十分悪い人! ……悪い鬼? とにかくそんな感じ!」
窘めようとするも腕を組んでご立腹、聞く耳はもたない様子だ。
薫の言いたいことも分かる。けれどマガツメの、そして甚夜の心情を考えるとみやかはそこまで敵視もできない。
ただまあ、本当はこの子の意見の方が正しくはある。好きだからで世界を滅ぼされては堪ったものではない。
「なんかさぁ、薫みたいな子だったらよかっただろーね、きっと」
馬鹿にした訳ではなく、萌は心から感心して微笑んだ。
できるなら好きな相手の心を汲んであげて、傷ついてほしくないのが当たり前で。マガツメがそういう素直な女の子であれば、最悪の状況にはならなかった筈だ。
「うん。本当にね」
でも、そう在るには彼女の世界は狭すぎた。
“にいちゃん”だけで完結してしまえるから、“にいちゃん”がなくなっただけで壊れてしまった。
多分それは、彼女が悪いのではなく
少しだけ悲しかったのだろうと、みやかはそう思った。
◆
江戸時代に編纂された『大和流魂記』。
その後記では、姫と青鬼は編者が実際に見聞きした物語であるとされている。
“姫と青鬼。先に語る話は、わたくしの初恋を基にしたり”
編者が実際に遭遇した怪異を、多少の脚色を加えて説話としたのだという。
それが事実かどうかは分からないけれど、個人的には信じたいと吉岡麻衣は思う。
だっていつかの恋が現代まで伝わるなんてすごくロマンがある。もっとも、うちのクラスには青鬼さんがいるのだから、その手の話には事欠かないのだけど。
そういえば、大和流魂記の編者の姓は件の青鬼さんと同じ。気になって聞いてみれば「縁とは不思議なものだ」と返ってきた。
よく分からなかったが、彼の表情は優しかったから、多分悪いことではないのだろう。
「“ただ願ふ。おのづから遠きにてこの書を手に取るがありせば……”」
おなじく昼休み。図書室は暖房が聞いているものの、やはり窓際の席は少しだけ空気が冷たい。けれど寒さが頭をすっきりさせてくれるから、冬の読書は心地良かった。
諳んじるのは大和流魂記の後記の一節。中でも麻衣が最も気に入っているフレーズだ。
今迄はそこまで感じ入ることもなかったが、いつきひめや秋津染吾郎、長い長い歳月を越えてきた想いがあると知っている。
何気ない一文を暖かく感じるのはきっとそのせい。加えてちょっとだけ面白くなってくすくす笑ってしまうのは、目の前の席で本を読んでいるクラスメイトのお爺ちゃんのせいだ。
「どうした、吉岡?」
「ううん、なんでも、ないよ?」
いつも富島柳と一緒に居る麻衣だが、図書室で甚夜と顔を合わせる機会も多い。
相応に歳を重ねているからか、どちらかといえば強面な彼は意外にも読書家でジャンルを問わず何でも読む。同じく読書家の麻衣にとっては、これまた意外ではあるが、甚夜は結構話の合う友達だった。
「葛野君は、いろんな本を読むから。好きなジャンルとかあるのかな、って」
「私の場合は雑食だからな。小説、学術書に与太本。特にこだわりはない。一応、漫画も読むぞ? 朝顔が色々と勧めてくれる」
それは意外というか、なんだかんだと薫に甘い彼のこと、ごく自然な流れのような気もする。
反応に困っている麻衣を見て、甚夜は小さく笑みを落とす。
「いや、付き合いばかりでもない。それなりに楽しませてもらっているよ」
「そうなんだ。でも薫ちゃんが勧めるのなら……少女漫画、とか?」
「いくらか見せてもらった。ああいった恋愛ものは、この歳になると多少照れが入るな」
近頃の少女漫画は中々に過激なものが多いし、高校生になっても彼氏のいない身。明け透けな恋愛描写をちょっと照れてしまうのは麻衣も同じだったりする。
ただ色々と昔話を聞かせてもらっているので、彼の方はそこまで初心でもないと知っている。それでもやっぱり男の子には、こてこての恋愛ものというのは恥ずかしいものなのかもしれない。男の子、というような年齢かどうかは置いておくにしても。
「おー、ごめん。遅くなった。甚夜も悪いな」
軽い雑談を交わしていると、柳が図書室に戻ってきた。
元々彼らがこうして読書していたのは、職員室に用があるという柳を待ってのこと。より正確に言えば麻衣を待たせている間、他の男子に言い寄られるのを嫌った柳が、甚夜に見張りを頼んだのである。
お昼休みの短い時間でさえそうやって心配する辺り、「やなぎくんも過保護だな」と麻衣は微笑む。
もっとも彼女の考える心配と思春期な彼の考える心配は微妙にずれているのだが、そこを指摘するのは野暮もいいところだ。
「で、随分楽しそうだったけど、何の話してたんだ?」
「えとね、少女漫画について」
「まさかの話題なんだけど」
稽古をつけてもらっている柳からすれば、甚夜は甘いお爺ちゃんより歴戦の戦士。少女漫画について語り合うなど想像もつかない。
実はあのキャラが可愛くてとかだったらどうしよう。聞きたいような聞きたくないような、なんか微妙な気分である。
「そんなに意外か?」
「そりゃ、まあ。俺にはお師匠みたいなものだし」
「お師匠ときたか。また随分とくすぐったくなる表現をしてくれるじゃないか」
かつて鬼に親を殺された少年は、助けてくれた付喪神使いをそう呼んで慕っていた。
それを思い出したから自然と口元は緩む。何気ない日々は積み重なる。ならばその先で触れたなんてことのない懐かしさに、優しくなれる時だってあるだろう。
「だが私とてそこまで堅苦しくやっている訳でもないよ。酒も娯楽も適度に楽しむ」
「あー、考えたら結構一緒に遊びに行ってるし、漫画くらいは不思議じゃないか」
柳の意外そうな視線を受けても当の本人はいたって普通。なかなか面白かったぞ、と幾つかタイトルを上げられる程だ。
最初の頃はもっとストイックに鍛えていると思っていたが、今は案外付き合いもノリもいいと知っている。そこを踏まえれば驚くようなことでもないのだが、甚夜は結構な強面で、どうしても少女漫画とは結びつかない。
「もしかして恋愛もの好き?」
「というよりも、その手の話は読本の定番だからな。江戸の頃にも三角関係や不倫浮気、駆け落ちをテーマにした作品は多かった。そういう意味では少女漫画にあまり忌避感はないんだ」
「なるほど、どろどろの恋愛って鉄板ネタだもんな。年季入った読書家だとそういうもんなのか」
そういうことなら多少は納得もできるか。
それでも剣士としての印象が強すぎて、違和感は完全には拭い切れなかった。
「実は最初の頃、甚夜って“漫画なんか読むか、そんな暇があったら剣を振るう!” みたいなタイプだと思ってた。真面目一徹、剣に生きるみたいな」
「それは過大評価というものだ。そもそも私が刀を握ったのは、幼馴染にいいところを見せたかったからだしな」
「……嘘だろ?」
やっぱり腑に落ちない。
柳は思わず大きく目を見開く。明らかに信じていないといった顔だ。
反面以前から色々と話を聞かせてもらっている麻衣は、何か面白そうだと興味深げ。わくわくと期待を込めて見詰める少女に、甚夜は穏やかに肩を竦める。
「大真面目だよ。私には幼馴染の少女がいてな。なんだ、いざという時に彼女を守ってやれるような男でいたくて、一心に剣を磨いた」
「好きな子の為に強くなりたい、ってことか? 正直意外過ぎる」
「そんなものだよ。男の子は、惚れた女の前では格好を付けたいんだ」
その一言は柳にもしっくりときたようで、感心したように何度も頷いている。
時計を見れば既に休憩も終わり近く。くい、と顎で合図を送ると、柳も了承の意を示す。
「麻衣、そろそろ教室に戻るか?」
「あ、うん。ちょっと待ってて、この本、借りてくるね」
麻衣はぱたぱたと貸出カウンターの方へ駆けていく。
残された男子二人。柳は先程の話題が少しだけ気になって、麻衣が離れたことを確認してから甚夜へ問いかけた。
「なあ?」
「ん?」
「さっきの話。幼馴染って、可愛かった?」
麻衣の前では聞き辛かったが、内容は普通の男子同士の色めいた話。
別段意味はない、純粋な興味である。
「ああ。長い黒髪の、綺麗な人だ」
「へぇ、甚夜からそういう話聞けるなんてなぁ」
「私とて生まれた時から爺ではないさ。……今思えば、私の刀は初めから純粋ではなかったな」
本当に馬鹿な子供だった。
強くなればなんだって守れると思い、それが間違いと気付いた時には全てを失っていた。
何も考えずに振るってきた刀だ。行き着く先としては似合いだったのかもしれない。
「意外と、気にしてたりする?」
「多少はな。だが歳月を経て刀は私の一部となり、馬鹿な子供の振るった剣が守ったものもある。積み上げたものに意味はなくとも、積み上げたことには価値がある。今ではそう思えるようになったよ」
掛値のない本音だ。
長い長い道の途中、多くを失い、けれど大切な欠片は確かに残って。
笑い話のような動機だったが、手にした刀が斬ったから守れたもの、斬れなかったからこそ繋げた縁もあった。
故に、悪くはないと素直に思う。
「だからこそ決着はつけねばならないのだろう」
甚夜は誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。
手にした刀と、歩いてきた道程。
今を悪くないと思えるのならば、始まりの景色と彼は決着を付けねばならない。
そういう時がついにやってきてしまったのだ。
◆
そして少しずつ最後へ向かう。
放課後のこと、梓屋薫は珍しく怒っていた。
理由は当然ながら昼休みに聞いた話のせいだ。
みやかや萌は何故か同情的だったが、マガツメは相当ひどいと思う。
にいちゃんが好きだから、にいちゃんが幸せだった昔に戻る? あんまりに身勝手だ。
友人二人と違いここまで薫が怒るのは、多分明治にタイムスリップした経験故。彼女だけが唯一迷い足踏みしていた頃の甚夜を知っているからだろう。
いつか幸せだと素直に言えなかった甚夜は、百年以上の歳月を踏み越えて、あんなにも優しく笑えるようになった。
野茉莉ちゃんや秋津さん、平吉くんに兼臣さん。楽しかった蕎麦屋での日々。それを失っても必死に頑張って、強く優しくなった。
マガツメの願う幸せは、彼が乗り越えてきたものに価値なんかないと決めつけるに等しい。
そんな相手をどうして憐れむことができるのか。薫からすればマガツメは極悪人、いや極悪鬼だ。
しかもそれを“好き”だなんて理由で覆い隠そうとするのだから、性質が悪いにも程がある。
「甚くん、頑張ってね!」
「……ああ、ありが、とう?」
勿論、それを直接ぶつける程彼女も無神経ではない。詳しい話はせずに、マガツメに負けないでと精一杯のエールを贈る。
甚夜の視点からすると、鼻息の荒い薫にいきなり頑張ってと言われた。いくらなんでも状況が理解できず、戸惑ったように礼を言うのが限界だった。
「朝顔、そら」
「むぐっ……甘い」
取り敢えず薫を落ち着けようと、彼女の口の中に飴玉を放り込む。
ゴージャスミルクキャンディ。一袋680円と中々高かったが効果はあったようで、先程まで怒っていた彼女も満足そうに甘いキャンディをころころと転がしながら味わっている。
「ゴージャスミルクキャンディ、美味しいよねー」
「そいつはよかった。で、何をそんなに怒っていたんだ?」
「……みやかちゃんから聞いたの。マガツメって鬼のこと」
不満げな色はやはり残っている。それ以上言わないのは彼女なりの配慮だろう。
こんな子供にまで気を遣わせるとはまだまだ未熟。甚夜は自身の至らなさを恥じ、薫の優しさに感謝しぽんぽんと二度三度頭を撫でる。
「私は恵まれているな」
「本当に、そう思う?」
「勿論だ」
「へへ、そっか。ならよかった」
多くを失くしてきた彼だから。
今を恵まれていると、そう感じていると知れて嬉しい。その一端を自分が担えているというのは、多分もっと嬉しかった。
それを考えれば子供扱いもそんなに悪くないかもしれない。
だって彼はこういう触れ合いも幸せなのだと思ってくれているのだから。
「甚くん甚くん。私、応援してるからね」
「ん?」
「絶対正しいのは甚くんの方。だからね、思いっきりやっちゃって大丈夫! 誰がなんて言おうと、私は甚くんの味方だし全力で応援するよ!」
薫は決して頭がよくない。
この言葉にも、私は全力で応援するという以上の意味はない。
だから彼女には分からない。甚夜が何に悩み、何を選んだか。そこに思い至ることはなく、細かな心の機微に気付けるほど大人でもない。
「ありがとう、朝顔。これは負けていられないな」
だから彼女には分からない。
彼が無邪気な言葉にどれだけ勇気づけられたかなんて、きっと。
なんでもない触れ合いである。特別なことなんて何一つない。だけど彼が喜んでいると感じ取れたから薫は笑った。
分からなくても、伝わるものもある。多分そういうものの方が大切なのだと、そのくらいは彼女にも分かった。
「さて。帰ろうか」
「うんっ。あ、みやかちゃーん」
元気良く頷き、みやかにも声をかけた。
なんだかんだ、やっぱり高校に上がったばかりの頃から一緒にいるこの三人がしっくりくる。
「一緒に帰ろ?」
「うん……甚夜も、いい?」
遠慮がちに確認したのは、土曜日の話が尾を引いているせいだろう。
勿論だ、穏やかに答えればみやかはほっと息を吐いた。
相手を気遣い一歩引いてしまう優しい子だ。話し過ぎたか、と甚夜は少しだけ反省もする。
「あのさ、ちょっと駅前まで寄り道しない?」
「え? みやかちゃんからそういうの珍しいね?」
「そう、かな。でも私だって偶にはそういう気分にもなるよ。ほら、最近は三人でって少なくなってきたし」
「確かにそれはそうかも」
けれどみやかの微笑みがとても柔らかかったから、後悔はしないで済んだ。
目はまっすぐに甚夜を見詰めている。向き合いたいと、以前彼女はそう言った。それは決して嘘ではなかった。
無様な鬼人の過去を、マガツメの正体を知り、みやかは尚もただのクラスメイトでいようとしている。
変わらずに、友達として向き合おうとしてくれているのだ。
「甚夜もどう? なんなら少しくらい私が奢るけど」
「折角の誘いだ、行かせてもらうよ。だが女に財布を出させるような見っとも無い真似はさせてくれるな」
「その考え方、ちょっと古いかな」
「そう、か?」
「うん。女は男の後ろに控えて、なんてもう流行りじゃないし」
くすりと小さく、けれど心から嬉しそうにみやかは笑う。
安心したせいか心なし足取りも軽くなった。
「みやかちゃん、ごちそうさまー!」
「……薫には奢らないよ?」
「え!? なんでっ!?」
「ごめん、冗談。実はファミレスのケーキ無料サービス券貰ったんだ。ちゃんと三枚あるから」
「なんだびっくりしたー。もう、驚かせないでよー」
珍しいみやかの悪戯に驚きつつも薫は笑顔。やはり若さか、少女二人は何気ない触れ合いでさえ楽しんでいる。
取り敢えず駅前に行くと決定し、久しぶりに三人だけでの下校。スキップするような調子で薫が先導し、その後をみやか、甚夜が付いていく。
「ね」
ふとみやかが振り返った。
平静を装ってみせてもそわそわと落ち着かない様子。何度か視線を泳がせて、けれど意を決して力強く頷く。
「二年生になったら、別のクラスになっちゃうかもしれないけど。時々でいいから、こうやってまた三人でどこかへ行けるといいね」
そこに籠められた意を間違えない。
彼女の内心に思い当って、だからそれを言葉にするのは止めた。みやかは何も言わなかった。ならばそれを指摘するのは無粋だろう。
「ああ、そうだな」
穏やかに甚夜は小さな笑みを落とした。
気の利いた返しならできたかもしれない。けれど守れないかもしれない約束を口にするのは寧ろ不誠実に思えた。
その内心は伝わったのか伝わらなかったのか、みやかは満足げに「うん」とだけ答えた。多分それで十分だった。
「どうしたの二人とも、はやくいこーよー!」
「ああ、済まない。みやか」
「うん、いこっか」
クラスメイトと仲良く下校。
見慣れ切った光景に心が弾むのは何故だろう。
もう何度も歩いた通学路を、三人は軽やかに進む。
なんでもない日常の出来事は、当たり前のように過ぎていく。
けれど、少しずつ。
確かに、最後の瞬間は近づいていた。
◆
かつてマガツメは兄を憎み、現世を滅ぼすと決めた。
けれど変わらないものもあった。
────にいちゃん、すずはね。ただにいちゃんに笑って欲しかっただけなんだよ。
去り際に呟いた想いは誰にも届かず、百七十年を経て尚も変わらず。
マガツメは願う。
貴方を憎むから、全てを壊し。
今度は憎まずに済む幸せな景色を作ろう。
そうすればきっと、にいちゃんは笑ってくれるはずだから。
結局のところ彼女にとっては、どこまでいっても“にいちゃん”が全てだった、
ただし母と娘では、願いは同質でも、その思惑には多少の差異がある。
向日葵はマガツメの長女。取りも直さず、かの鬼女がまず初めに捨てなければならなかった想いの具象である。
ならばこそ彼女の願いはマガツメのそれと同質であり、産まれた瞬間から他の姉妹にはない特別な役割が与えられている。
だがその心は名の通り、愛する人と崇めるべきモノへ注がれる。
故に母娘の願いは「彼の幸福」であり、マガツメは兄の幸せをかつてに見出すが、向日葵はそうではない。
野茉莉、秋津染吾郎、宇津木平吉。藤堂芳彦に希美子、夫妻の子や孫達。溜那、井槌や岡田貴一。
そして姫川みやかに梓屋薫、桃恵萌。
“おじさま”だけをずっと見てきた。
失って手に入れて、歯を食い縛って歩いてきた。そういう彼を知っている向日葵にとって、幸せになってほしいという願いは同じでも、その思惑は全てを滅ぼすことに直結しない。
けれど、切り捨てられたとしても彼女はマガツメの一部。母を裏切るなどできはしない。
「だから私に出来るのは、場を整えるまでです」
薄暗い場所で向日葵は、誰に聞かせるでもなく呟く。
マガツメは大切な“にいちゃん”と敵対し、傷つけたとしても止まらない。
そも傷つけるという発想に至らない。彼女にとって幸福は、遠い葛野にしか存在していないのだ。
マガツメの思惑は“兄の幸福の為、全てを滅ぼし、懐かしい故郷を再現する”
在り方は変わらない。変えられない程に、壊れてしまっている。
向日葵が鈴音の心の一部ならば、どれだけ甚夜の幸せを願えど母の願いには背けず裏切れず。
結局兄妹は理解し合えないまま敵対し、向日葵もまた大好きな“おじさま”の敵にしかなれない。
だから彼女に出来るのは、精々場を整えるくらいのもの。
「私は母と同じものだから、貴方の味方はできません。でもその先にあなたの幸福がないと知っているから……敵として、出来る限りのことをします」
薄闇の中には蠢く影。
マガツメを救いと崇める古き鬼達、造られた下位の鬼、鈴蘭。戦力と呼べる全てを集めた。
それが向日葵に出来る精一杯。
マガツメの願いを叶えたいから、その思惑から外れることはしない。古き鬼をそそのかし、甚夜の邪魔をするように仕向けた。鈴蘭の、母の<力>の実験も終えた。母の為に向日葵は為すべきを為した。
ただし、全てを前倒しして、それとなく噂を流しながら。
七緒と交流があったのは把握している、その上で鈴蘭の存在も知った。彼ならばマガツメの思惑を完全に理解し、こちらの意図も察しただろう。
「鈴蘭、造られた鬼、母を奉る古き鬼達。全部ひっくるめて吐き出します。一夜で全てを終わらせ、母と貴方……勝った方が意を通す」
今を大切に想う貴方が正しいなら、過去に拘る母を退けてください。
それができないのなら正しいのは母です。
できたのなら、貴方の幸福を邪魔するものなどすべて道連れにして私達は消えます。
つまりマガツメと甚夜、どちらが勝とうとこれを最後にする。
余力は残さない。願いの為に全てを吐き出す……此処で失敗すれば、お互いもう取り返しは付かない。
勝った方が総取りの、一回の勝負で全てを決める。そういう状況にまでもっていくのが向日葵の思惑だ。
「ねえ、おじさま。決着を付けましょう?」
後は両者に全てを任せる。
その結果がどちらに転ぶとしても、最後の最後には。
与えられた役目を果たすとしよう───
その夜、町には古きあやかしが溢れる。
純粋な想いだけを胸に、向日葵は終わりの訪れを告げた。