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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
葛野編
2/216

『鬼と人と』・1

 風の薫る夜のことだった。



 春の終わり。

 舞い散る花弁で季節を彩ったかと思えば、若葉を芽吹かせ街道を翠で染め上げる。初夏の葉桜は時に神秘ささえ醸し出す景物である。

 新緑が薄紅の花にとって代わり、仄かに夏の気配を漂わせる夜。

 近付く季節に空は僅かながら重くなった。だというのに青葉の隙間を抜けて流れる風は春の名残かいやに冷たい。

 訪れた筈の初夏、梢の緑香を纏った風、見上げれば星の天幕。

 心地好い筈の夜に寒気を感じたのは、風の冷たさのせいばかりではないだろう。

 今宵は何処か金属質で、触れる感触が硬く冷え切っている。

 

 そんな鉄製の夜に青年は佇む。

 江戸から続く街道の一里塚、植えられた桜の木にもたれ掛かった青年は鋭い目付きで宵闇を睨み付けていた。

 青年の名は甚太という。

 齢十八にして六尺近い巨躯。浅葱の着物の下には練磨を重ねた体が隠されている。

 腰には鉄造りの鞘に収められた二尺六寸の刀を携えていた。 


「もし」


 不意に声を掛けられた。

 横目でちらりと見れば、其処には妙齢の女が。


「貴方様は葛野(かどの)をご存知でしょうか」


 女はゆるりと笑う。

 年若い娘には似合わぬ風情。妖艶な、見る者を惑わす笑みだった。


「其処は私の住む集落だ」


 返すのは感情の乗らない、硬く冷たい金属の声音。

 しかし女は安堵したように表情を緩める。


「ああ、やはり。もしよろしければ案内を頼みたいのですが」

「ほう。何か用向きでも?」


 問い掛けながら一歩前に出る。

 気付かれぬほどに緩慢な所作で、僅かに腰を落とし半身。左手は既に腰のものへと添えられている。


「ええ。葛野には嫁に出た妹がおりまして。挨拶に行こうと思っていたところなのです」

「……そうか」


 その言葉を皮切りに甚太は動いた。

 右足で大きく踏み込む。女との距離が詰まる。両の足が地を噛む。流れるように鯉口を切り抜刀、逆袈裟、躊躇うことなく女の体を斬り裂く。


「か……」


 女の口から空気が漏れ、中空に鮮血が舞う。

 白刃が女の肢体を切り裂いたのだ。傍目には凶行に映るであろう一連の動作を終え、一切の動揺なく金属質の声のまま甚太は言う。


「人に化けるのはいい。だが肝心の瞳が赤いままだ……鬼よ」


 鬼と人を見分ける手段としてもっとも単純なものが瞳の色である。

 鬼の瞳は総じて赤い。怪異としての格が高いものは人に化ければ瞳の色も隠せる。

 しかし力を持たぬ鬼にとって瞳の色を隠すことは存外難しいらしく、人に化けても瞳だけが赤いまま残っていることが多い。

 つまり女は、人ならざるあやかしであった。 


『き、さま』


 最早その表情は女のそれではなかった。

 憎しみの籠った赤い目が甚太を捉える。

 女の体は隆起し、筋肉が異常に発達し、肌の色も浅黒く変化していく。鬼は元の姿に戻ろうとしているのだろう。

 それも遅い。

 残した左足を一気に引きつけ、更に地を蹴る。天を指していた刀を返し、絶殺の意を込め鬼の首へ。

 今度は、呻きすら上がらなかった。

 鬼は元の姿に戻ることが出来ないまま、女と異形の間の状態で地に伏せる。

 死骸からは白い煙が立ち上る。いや、煙よりも蒸気の方が正しいか。消え往く鬼の体躯は溶ける氷だった。

 その光景に何かを感じることはない。ただ平静に鬼の最後を見届け、血払いに刀を振るい、ゆっくりと鞘に納める。

 ちんっ、とはばきの止まる軽い音が響く頃、鬼の死骸は完全に消え失せた。

 やはり何の感慨もないままに街道を歩き始める。

 葛野の集落まではまだ少し距離があった。






 ────時は天保十一年。




 洪水や冷害が相次ぎ、陸奥国や出羽国を中心として始まった大飢饉は、多数の死者を出すも冷害が治まったことにより取りあえずの終焉を迎えた。

 しかしながら日の本の民を長らく苦しめた年月、その間に荒んだ人心を癒すには少しばかり時が足らなかった。

 人心が乱れれば魔は跋扈するもの。


 鬼は時折人里へ姿を現し、戯れに人を誑かすようになっていた。






 鬼人幻燈抄 葛野編 『鬼と人と』






 江戸から百三十里ばかり離れた山間にある集落『葛野(かどの)』。

 近隣を流れる戻川(もどりがわ)からは良質の砂鉄が取れるため、此処は古来よりタタラ場として栄えていた。

 同時に葛野は高い鋳造技術を誇り、また刀鍛冶においても「葛野の太刀は鬼をも断つ」と讃えられた、日の本有数の鉄師の集落である。


 集落の北側は高台になっており、川が氾濫しても被害が少ないことから、他の民家とは明らかに手の違う朱塗りの社が建てられている。

 社には『いつきひめ』───葛野で信仰されている土着神に祈りを捧げる巫女が常在していた。


 葛野は産鉄によって成り立つ土地。

 鉄を打つに火は不可欠であり、自然と信仰の対象は火の神になる。

 この火を司る女神は『マヒルさま』と呼ばれ、火処(製鉄の炉)に消えることのない火を灯し、葛野に繁栄を齎すと信じられていた。

 いつきひめはマヒルさまに祈りを捧げ、鉄を生み出す火を崇める巫女。

 即ち葛野において姫とは火女であった。

 火の神に畏敬を抱くのは産鉄民として至極当然の成り行きであり、日々の生活を支える鉄、その母たる火と通じ合う巫女の存在は、古い時代には神と同一視された。

 江戸に入った今ではそこまでの信仰はないが、それでもいつきひめは社に住み、俗人に姿を晒すことはない。

 火女は社から一歩も出ず、御簾の向こうに姿を隠し、ただ神聖なるものとして集落の中心に在り続けるのだ。


「甚太……鬼切役、大義でした」


 初夏だというのに、どこか寒々しく感じられる板張りの社殿。 

 いつきひめは社殿の奥に掛けられた御簾の向こうに座している。

 板張りの間には集落の長、長の隣には若い男、そして鍛冶師の頭や鉄師の代表など集落の中でも権威を持つ数人の男が集まっていた。

 御簾越しに柔らかな声を発したのは当代のいつきひめ、白夜(びゃくや)である。御簾に隠れその顔を見ることはできないが、影は満足そうに頷いていた。


「は」


 鬼を斬り、その足で訪れた社。

 いつきひめや集落の長に結果を報告し、座して次の言葉を待つ。


「如何な鬼を前にしても決して退かぬ。貴方の献身、嬉しく思います」

「いえ、巫女守として成すべきを成したまでにございます」


 いつも通りの答えだ。如何な鬼を葬ったとしても甚太は同じ言葉を返す。謙遜とは違う。彼は心底、大したことではないと思っていた。

 甚太は産鉄の集落に住みながら製鉄に関わらない。彼はこの村で二人しかいない巫女守だった。

 巫女守とは文字通りいつきひめの守役──護衛である。

 本来苗字帯刀は武士のみの特権だが、御料ある葛野では巫女守に選ばれた者は帯刀が許され、いつきひめと御簾越しでなくとも話すことを認められた。


 また巫女守には護衛以外に『鬼切役』が与えられる。

 古い時代、星の光だけが夜を照らしていた頃、怪異は現実的な脅威として存在していた。

 故に病気には医師がいるように、火事には火消しがいるように、怪異にもまた対処役というものが設けられた。

 鬼切役とは文字通り鬼を切る、つまり集落に仇成す怪異を払い除ける役割である。

 いつきひめは葛野の繁栄のために祈りを捧げる巫女。

 それを守り集落に仇なす怪異を討つ巫女守は、取りも直さず葛野の守人だった。 


「まったく、我らが巫女守は謙虚でいかん。江戸にもぬし程の剣の使い手はおるまい、もっと誇ればいいじゃろうに」


 鍛冶師の頭は豪快に笑い声を上げた。

 巫女守の腕前を褒め称え、しかし返す甚太の言葉は暗い。


「……私には葛野の民としての才がありませんので」


 巫女守であるが故に集落の主産業である産鉄や鍛冶には携わらない彼だが、そもそも甚太には元々職人としての才があまりにもなかった。

 幸いにして剣の腕が立ち、白夜の鶴の一声もあって巫女守についた。

 しかし、もしも巫女守になれなかったならば、恐らく集落のお荷物として生きることになっただろう。その様が簡単に想像できるからこそ、剣の腕を褒められても、どれだけ鬼を斬ろうとも、そこに価値を見出せないでいた。


 己に成せるはただ斬ることのみ。葛野の同朋のように生み出す業を持たぬ。


 巫女守という役には無論誇りを持っている。だが鍛冶や製鉄の業に憧れもあった。

 そのせいか、殺すことしかできず何も生み出せない自分をどうしても低く見てしまう。それが甚太の根底にある劣等感だった。


「なぁに甚太の使う刀はこっちで造ってやる」

「そうだ。儂らには鬼を斬る技はないが鬼を斬る刀ならば打てる。お主には鬼を斬る刀は打てんが鬼を斬る技がある。それでよかろうて」


 頭達の気遣いに甚太は素直な礼を述べ、深く頭を下げる。

 彼の深い感謝に嘘はなく、それが集落の男達の自尊心をくすぐった。

 巫女守は栄誉な役である。甚太自身が嫌うため集落の代表達が敬語で話すことはないが、本来葛野における巫女守の権威は長やいつきひめに次いで高い。だから多くの者は巫女守である甚太に敬意をもって接し、様付けで呼ぶ者も多い。


 同時に、それは妬心を掻きたてることにも繋がる。

 特に年齢が高くなればより顕著である。自分よりも年若い、何処の馬の骨とも分からぬ小僧が集落の守り人として持て囃される。集落の権威達にとって、権威というものを持つからこそ、その事実は受け入れ難いものだった。


 しかしながら当の小僧は剣の腕が立ち、数多くの鬼を葬りながらも自分達の持つ鋳造や鍛冶の技術に羨望を抱き、礼節をもって接している。

 甚太の態度は集落の男達を満足させ、故に彼は巫女守として疎まれることなく在り続けている。奇妙なことに劣等感こそが甚太を守っていた。


「此度の鬼は如何なものでしたか?」


 彼の胸中を察したのだろう、白夜が話を進める。

 その意を汲んだ甚太は、沈む心を無理矢理に引き上げ、堂々と問いに答えた。


「人に化けて葛野に侵入しようとしておりました」


 鬼、山姥、天狗、狒々。

 山間の民族にとって怪異は実存の脅威。皆一様に表情を引き締め、真剣に耳を傾けている。

 一瞬の間を置いて、今まで一言も発さなかった集落の長が呻いた。


「ふぅむ……。葛野に侵入、か。おそらく狙いは姫様であろうな」


 息を呑む音。場に嫌な空気が流れた。

 鬼は元より千年を超える寿命を持つが、巫女の生き胆を喰えば不老が得られるという。

 説話や伝承ではよく見られる記述だ。真実か否かは知る由もないが、中にはそれを信じ実行する鬼もいるだろう。

 事実、先代のいつきひめ『夜風(よかぜ)』は数年前鬼に食われ命を落としたという。

 当時の巫女守であった元治もその鬼との戦いに殉じた。かつての惨劇が想起されたらしく、男達は動揺しざわめき始める。


「姫様が……」

「やはり鬼は……」


 口々に不安の声が上がる。

 いつきひめはマヒルさまと繋がる巫女。葛野の民にとって火女は信仰の要、精神的な支柱だ。それが脅かされるという事実に男達の心中は穏やかではない。


「いえ、或いは『夜来やらい』かもしれません」


 ざわめく本殿に平静な白夜の声が通った。


「いつきひめが代々受け継いできた宝刀。鬼にとっても価値があるものでしょうから」

「成程……」


 怪訝そうに長が眉を顰める。

『夜来』とは社に納められている御神刀である。

 戦国の頃から伝わるこの太刀は火の神の偶像であり、管理者に選ばれた者、即ちいつきひめは『夜』の文字の含んだ名に改名するのが習わしとなっている。故に当代の所有者である彼女も、本名とは別に『白夜』と名乗っていた。


「鬼が御神刀を……夜来は葛野の技術の粋を持って造られた太刀。千年の時を経て尚も朽ち果てぬ霊刀だという。鬼もその力を欲するかもしれぬ、ということですかな」

「ええ、可能性はあると思いますが」


 厳めしい顔が歪み、長の目がいやに鋭く変わった。

 そうして左手で顎を弄りながら「ふむ」と一つ頷く。


「確かに。ですが、姫様自身が狙われる理由となることも事実。それはお忘れなきよう」

「そう、ですね」


 声は僅かに強張っていた。

 襲撃への恐怖ではない。躊躇い、いや戸惑いか。僅かな動揺から、甚太には白夜の硬さが感じ取れた。

 長は然して気にも留めず言葉を続ける。彼の態度を見るに、気取られなかったのではなく、知りつつも見ぬふりをしたのだろう。


「御理解いただけて幸いです。姫様は葛野になくてはならぬお方、我らの支柱。そしていつきひめを、葛野の未来を慮るのは集落の長たる私の義務。ならばこそ、時には諫言を口にせねばならぬ場合も御座います。何卒ご容赦を」

「……ええ、分かっています」


 長は恭しく傅く。

 慇懃無礼に見えるが、彼の葛野への忠心に疑いはない。長は本心から葛野の安寧と繁栄を望んでいる。それはこの場にいる誰もが知るところ。だからこそ白夜も長の態度を諌めることはしなかった。

 きっぱりと言い切り、一呼吸を置いてから、長は頭を上げて甚太を見据えた。


「甚太よ。以後も葛野の宝、姫様と夜来を狙う鬼は出てくるだろう。巫女守としての責、身命を賭し果たすように」

「御意」


 白夜を責めるような物言いに反感はあったが、彼女自身が認めた以上、此処で食って掛かっても仕方がない。

 無表情を作り答えれば、従順な態度に満足したのか、長は首を縦に振った。

 発言する者は誰もいなくなり、これで終わりかと思われた時、張り詰めた空気の中で声が上がる。


「そうだよな、お前にはそれしかできねぇからな?」


 言ったのは長の隣に座っていた若い男だった。

 細面で顔立ちは良いが、にやついた笑みを浮かべているせいで凛々しさはあまりない。甚太よりも一回り小さい背格好の男、名を清正(きよまさ)といった。

 清正は甚太にとって同僚に当たる、この集落に二人しかいない巫女守の片割れだ。といっても白夜が選んだ訳ではなく、半年程前に長が無理矢理捩じ込んだ人物である。


 清正は長の一人息子だった。

 長の息子として教養は身につけてはいるが、剣の腕は然程でもない。その為彼は巫女守でありながらも鬼切役は受けない。主に甚太が鬼切役で葛野を離れる時、または何らかの理由で護衛に付けない場合、代わりに社の守を務めるのがせいぜいである。

 果たしてそれで巫女守と言えるのかと疑問の声も上がったが、表だって長に反抗出来る訳もなく現状は続いている。


「何が言いたい」


 抑揚のない声。射るような視線を向けても清正は変わらず軽薄な笑みを浮かべている。

 同じ役に就く二人だが、お世辞にも仲が良いとは言えない。巫女守に就いた当初から清正は棘のある態度をとっており、甚太も明らかに長の権力を持って巫女守となったこの男には含むところがあった。


「言葉のまんま、お前は刀を振るうしか能がないって話だよ」


 厭味ったらしい物言い。

 しかし否定する気にはなれないし、できなかった。

 その言葉は中傷ではあったが、同時に自己評価でもあった。

 どれだけ取り繕おうと所詮は斬るしか能のない男、指摘されたとて今更だろう。

 甚太は眼を瞑り、こくりと首を縦に振った。


「成程、確かにその通りだ。ならばこそ、それをもって姫様に尽くそう」

「……ちっ、つまんねぇ奴だな」


 挑発に対して平坦な言葉を返され、清正は不快という感情を隠そうともしなかった。

 顔色は変えないが、甚太もまたこの男の態度を不愉快に思っている。険悪な雰囲気は続き、誰も声を発せずにいた。


「神前での諍いは褒められたものではありません」


 それを打ち破ったのは、平静な語り口の白夜だった。


「甚太、そして清正。巫女守はいつきひめの、延いては集落の守り人。貴方方が争っていては集落の民も不安を抱くでしょう」

「……は、申し訳ありません」


 いつきひめに窘められては反論もない。

 甚太は傅いて頭を下げる。素直な応対を快く思ったのか、御簾の向こうの影がゆっくりと頷いた。


「貴方もです、清正」

「俺もかよ」

「当然です。貴方も巫女守でしょう」 

「巫女守っつっても俺はお前の護衛くらいしかしねぇだけどな」


 不満げな態度を崩さずに、清正はいつきひめに対しても悪態をつく。

 あまりにも乱雑な物言いに、白夜は小さく溜息を洩らした。


「相変わらずですね」

「今更喋り方を変えろって言われても無理だぜ?」

「ええ、期待はしていません。ただ今回の諍いは貴方の不要な発言が招いたこと。以後は」

「へいへい、分かってますよ」


 清正は面倒くさそうに言い捨て無理矢理話を切り上げる。長の息子だからか、清正のあんまりな態度を嗜める者は誰もいない。

 白夜自身も不快には感じていないようで、それどころか寧ろ楽しげでさえある。強張っていた彼女の声はいつの間にか柔らかさを取り戻していた。

 二人の遣り取りに甚太は微かな痛みを覚える。

 白夜と清正の間に、少なからず親しみというものが感じられたからだ。清正も巫女守、いつきひめと親しくなって当然だ。十分に理解しながらも痛みは消せなかった。


「清正の態度には罰を与えるべきですが、姫様が認められたならば私からは言うことは在りませんな」


 杓子定規な考え方をする長も息子には甘いらしく、どこか満足そうな様子だ。

一転表情を引き締め、周りの男達に視線を送る。


「では、今回の所はこれで終わりとする。甚太、お前はそのまま姫様の護衛を。他の者は各々の持ち場へ戻るように」


 それに従い殆どの者は白夜へ一礼をした後、本殿から出て行く。

 清正も一瞬睨むように目を細め、何も言わず長と共にこの場を後にした。

 そうして本殿には甚太だけが残される。


「今この場にいるのは貴方だけですか」

「は。皆、本殿から離れました」


 人がいなくなり静けさを取り戻した社殿では白夜の声がよく響く。

 甚太が答えると何やら御簾の向こうで音がした。影を見るにどうやら立ち上がったらしい。

 一度二度と辺りを見回すように首を振り、確認し終えれば御簾がはらりと揺れる。


「なら、もう大丈夫ですね」


 言いながら一人の少女が姿を見せた。

 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。社で長く生活をしているせいだろう、日に当たらない肌は白く、細身の体は触れれば壊れる白磁を思わせた。

 緋袴に白の羽織、所謂巫女服にあしらい程度の金細工を身に付けた少女はゆっくりと歩き始めた。


「姫様?」


 こちらの声には反応せず白夜は近付いてくる。

 いったいどうしたのだろうか。疑問に思ったが足取りは止まらず、もう一度声をかけようとするより早く目の前で立ち止まった。そして体を屈め、彼の両の頬を抓る。


「ふぃめはま?」


 数多の鬼を葬ってきた剣士とは思えぬ間抜けな対応だった。

 とはいえ護衛対象であるいつきひめに逆らうことは出来ず、されるがままになっている。しばらく白夜は甚太の頬をおもちゃのように弄り、最後にぐっと引っ張ってようやく手を離した。


「ねぇ、甚太。何回も言ってるけど、なんでそんな喋り方なの?」


 先程までの清廉とした巫女の姿は何処にもない。

 江戸に住まう町娘となんら変わらぬ女がそこにはいた。


「あ、いや、ですが。やはり立場というものが……あと姫様、今のは流石によろしくないかと。その、巫女としてというより、淑女として」

「また姫様って言った。誰もいない時は昔みたいに呼んでって言ったよね?」

「ですが」


 いつきひめは現在でこそその神性も薄れてきたが、古くは神と同一視された存在。

 巫女守とはいえ決して気安く接していい相手ではない。しかしそれこそが不満だと白夜は言う。


「……そりゃあ、抵抗があるのは分かるけど。せめて二人の時くらいは名前を呼んでほしいな。今はもう、そう呼んでくれるのは甚太だけなんだから」


 反論の言葉を口にしようとして、白夜の笑顔に止められた。

 笑顔のままだというのに隠した寂寞を抑えきれず瞳が揺らぐ。以前も見た表情だった。 

 だから声を掛けるのならば巫女守のままではいけないと思った。


「白雪」


 そうして口にする、使われなくなって久しい幼馴染の名。

 一瞬呆けたような顔になった白夜は、しかしすぐに柔らかな笑顔を落した。 


「済まなかった、白雪。もう少し気遣うべきだった」

「ううん。私こそごめんね? 我儘言って」


 抑揚のない、淡々とした甚太の喋り方。素っ気ないと聞こえる筈なのに、白夜は満足気に頷いた。

 巫女守となって『俺』から『私』に変わり、口調も今のように堅苦しくなった。

 しかし言葉遣いは変わっても、昔と変わらず自分の我儘を当たり前のように受け入れてくれる。

 彼はいつもそうだった。白夜には、久しぶりに感じる幼馴染の『らしさ』が嬉しかった。


「もう一回、呼んで?」

「白雪」

「……うん」


 意味のない遣り取りに、白夜は表情を綻ばせる。

 先程のような寂寞の色はない。思わず零れてしまった、素直な笑みだった。





 今から十三年前のことである。

 当時五歳であった甚太は、ある事情で妹と家を出て江戸から離れた後、先代の巫女守である元治に拾われ葛野へ移り住んだ。

 行く当てのなかった兄妹はそのまま元治の家で暮らすこととなり、そうして出会ったのが彼の娘、白雪だった。

 幼い頃の二人は何処へ行くのも一緒で、その上住む場所も同じだから、離れていることの方が珍しかった。

 しかし八年前、先代の巫女・夜風が命を落としたことによりその娘である白雪はいつきひめを継ぎ、同時に宝刀『夜来』の管理者となった彼女は習わしによりかつての名を捨てた。

 無邪気に笑っていた幼馴染の白雪は、葛野の繁栄を祈るいつきひめとして、『白夜』として生きる道を選んだのだ。


「駄目だね。いつきひめになるって決めたくせに、いつまでも甚太に頼って」

「何を。私は巫女守だ。巫女守はいつきひめを守るものだろう」

「……うん、ありがと」


 はにかんだような笑みは、見慣れた、昔からの彼女のものだ。

 白雪はいつきひめとなった。

 それでも幼かった日々は、白雪であった頃は彼女にとって捨てきれるものではなかったらしい。

 だからだろう、白夜は甚太と二人きりの時だけは『いつきひめ』ではなく『甚太の幼馴染』であろうとした。

 俗世から切り離されてしまった彼女にとって、かつての自分を知る者との会話は数少ない慰めだった。


「今回もご苦労様。いつも無理をさせちゃうね」

「あの程度の鬼ならば無理の内には入らない。元より私は」

「私は?」

「いや、なんでもない」


 言いかけた科白を途中で止める。つい口走ってしまったが、流石に「私は“白夜”を守るため巫女守になったのだ」などとは恥ずかし過ぎて口には出せない。


「もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから」


 だが口には出さずとも想いは伝わるらしい。白夜は溢れんばかりの笑顔を浮かべてぐしゃぐしゃと甚太の頭を撫でる。


「誰が姉だ。お前の方が年下だろう。あと撫ですぎだ」

「一つしか違わないでしょ。それに私の方がしっかりしてるからお姉ちゃんなの」

「しっかり、している? 自分も巫女守になると言って親を困らせ、魚を捕まえようと川に入り溺れ、ああ、そう言えば鈴音と一緒になって『いらずの森』へ探索に行き、迷子になって泣いていたこともあったな。しっかりしている、か」

「嫌なことばっかり覚えてるね……」

「この手の思い出は幾らでもあるからな」


 言いながらも自然口元は緩む。

 遠い昔、まだ立場に縛られることなく甚太と白雪でいられた頃、二人は確かに幸せだった。

 今を不幸と呼ぶつもりはない。だがそれでも時折、本当に時折ではあるが夢想する。


 あの幼い日のまま変わらずに在れたなら。

 今もまだ甚太と白雪であったとすれば、二人はどうなっていたのだろうかと。


 ふと思索に耽り、意味がないと気付き考えるのを止めた。

 白夜は己の意思でいつきひめとなった。甚太もまたそれを守ろうと巫女守になると決めた。

 ならば別の可能性を夢想するのは彼女の、そして自身の決意を汚すことだ。だからその答えは出ないままでいい。


「あ、そう言えば。今日はすずちゃんも来てるよ?」


 思考が現実に引き戻され、しかし一瞬何を言われたのか分からなかった。

 白夜は思い出したように後ろへ振り返り、御簾の方へ近付いていく。


「……ちょっと待て。社殿は立ち入りが禁ぜられている筈だろう」

「ほんと、どうやって入ったんだろうね? 表には人もいるのに」


 言いながら座敷へと戻り手招いている。

 誘われるがままに足を踏み入れれば、まず目に入ったのは小さな祭壇だった。左右に榊立てを配置し、灯明を配しただけの簡素な造り。

 その中心には一振りの刀が収められていた。

 御神刀。先程話題にも出た『夜来』である。

 鉄造りの鞘に収められた二尺八寸程の大刀。曰く千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀。

 信仰の対象という位置づけではあるが余計な装飾は一切なく、鉄鞘のせいか無骨な印象を受ける。

 だが葛野の太刀の特徴は肉厚の刀身とこの鉄鞘であり、夜来の無骨さはマヒルさまの偶像としては寧ろ相応しいのかもしれない。安置された刀には、そう思わせるだけの厳かさがあった。


「ん……」


 しかし厳かな空気を纏う御神刀を前に、そんなものは知らぬとばかりに寝息も立てず熟睡している馬鹿が一人。

 赤茶がかった髪をした、右目を包帯で抑えた四、五歳ばかりの少女が実に気持ちよさそうな寝顔を見せている。

 鈴音。かつて一緒に江戸を出た、甚太の妹である。

 その寝顔はあまりにも穏やかで、思わず呆れの溜息が零れ落ちる。


「……こいつは」


 本来いつきひめに直接対面することが出来るのは集落の長と巫女守のみ。

 もしも誰かに見咎められれば「いつきひめに不敬を働いた」と言われ斬って捨てられても文句が言えない状況だ。妹の迂闊さに頭が痛くなってくる。


「そう言わないの。すずちゃん、甚太に会いに来たんだよ?」

「私に?」

「二日もいなかったから、早く会いたかったんじゃないかな」


 指摘され、少しだけ心を落ち着ける。

 此度の鬼切役で二日程葛野を離れていた。しかし彼等は元々捨て子で、自分たち以外に頼れる親兄弟はいない。

 つまりは甚太が集落を離れている間、当然ながら鈴音は一人で過ごすことになる。まだ幼いままの妹が、寂しいと思わない訳がなかった。


「すずちゃん、まだ小さいから。甚太が家に帰ってくるまで我慢しきれなかったんだと思う」

「しかし掟は守らねばならん」

「私としてはこうやって気軽に来てくれる方が嬉しいんだけどなぁ」


 無理と分かっていながら白夜はぼやくように言った。

 甚太と白雪と鈴音。幼い頃、三人はいつでも一緒だった。

しかし懐かしい日々はもはや記憶の中にしか存在せず、今では社の中で一人。

 自ら選んだ道だ。嘆くことはなく、やり直したいとも思わない。

 それでも不意に覗き見た白夜の瞳は、処理しきれない感情にほんの少しだけ揺れていた。


「なんてね、冗談」


 零れ落ちた小さな弱音すぐさま冗談に変え、ぺろりと舌を出し、はにかんだような笑みを見せる。

 聞かなかったことにしてほしいと、言葉にはせず白夜は願う。

 だから甚太は、彼誤魔化しきれなかった彼女の寂寞に気付かぬふりをした。


「そろそろ起こすか」

「うん、ありがとね」


 噛みあわないようでぴたりと嵌った遣り取り。心地好い距離感だった。

 話題を終わらせ、甚太は屈んで鈴音の肩を掴み揺り起こす。


「鈴音、起きろ」

「ん……」 


 眠りが浅かったのか、少し揺すると寝返りを打ちながら小さく呻きを洩らし、目をこすり、薄らと開けられた目で声の主に目を向ける。


「……ん。あっ、にいちゃんおはよ」


 鈴音はそれが誰かを確認するとふんわりとした笑みを咲かせた。

 甘えるように目を潤ませ、上目遣いのままのっそりと起き上がる。


「あと、おかえりなさい!」


 おかえりという言葉がすぐ出る辺りに、たった二日でも鈴音にとっては長かったのだろうと否応なく理解させられる。

 そんな態度で迎えられては怒ることなどできなかった。


「ああ、ただいま」

「うん。おかえり」


 そっと鈴音の頭をなでれば、くすぐったそうに身をよじる。

 無邪気な妹の態度に、此処が社であることも忘れ、普段ならば鉄のように固い表情も思わず和らいだ。


「ほんと、甚太はすずちゃんにだけは甘いよね」

「そんなつもりはないが」

「そう思ってるのは多分本人だけだと思うよ。甘いのは昔っからだし」


 からかうように白夜が横槍を入れる。

 否定の言葉を口にしながらも、しきれないところが辛い。お互い唯一の家族、自然と甘くなってしまう所はあると自覚していた。


「いいことだとは思うけどね。でも、もうちょっと私にも優しくしてくれるといいと思います」

「あー、なんだ。気を付けよう」

「それでよろしい」


 おどけた様子で満足気に頷く白夜が妙に幼く見えて、小さく笑みを零した。

 今度は鈴音に向き直り、真っ直ぐに見据える。怒る気は失せたが今後社に忍び込むことのないようにちゃんと教えておかなければならない。


「さて、鈴音。何度も言っているが、ここはみだりに近付いてはいけない禁域だ。基本的に立ち入りが許される場所ではない」

「えー、でもにいちゃんだってきてるのに」

「それは巫女守のお役目だからだ」

「またまたぁ、知ってるんだよ? にいちゃんがひめさ」


 瞬間、長年の鍛錬で磨き上げた反射神経を持って鈴音の口を塞ぐ。

 危なかった。もう少しで自分にとって致命的な言葉が放たれるところだった。


「ね、私がどうしたの?」


 しかし白夜は頬を染め、本当に嬉しそうな表情を浮かべながら甚太の隣に立っていた。

 言葉などなくても完全に筒抜けのようだ。だからと言って改めて口にするのは流石に気恥ずかしい。


「いや、なんでもない」


 自身の顔が熱くなっているのを感じている。なんでもないと言ったのはせめてもの強がりだった。

 それがおかしかったのか、白夜は明るい表情で口元を緩ませた。腕から逃れ白雪の元へ行った鈴音も嬉しそうに笑っている。


「もう、仕方無いなぁ甚太は」

「にいちゃんは照れ屋さんだね」

「ほんとだね」

「ねー」


 いつの間に結託したのか、白夜と鈴音は顔を合わせてくすくすと笑っている。

 叱ろうと思った筈が、何故かからかわれる立場になっていた。恥ずかしさに一度咳払いして言葉を続ける。


「ともかく! 以後は気を付けるように。これはお前の為でもあるんだ」

「はーい!」


 返事はいいのだが、果たしてどれだけ効果があったのかは分からない。多分、今はこうでもすぐに来てしまうのだろう。その様がありありと想像できる。

 内心が顔に出ていたのか、やはり白雪は面白そうにしていた。


「お兄ちゃんは大変だね」


 ああ、全く儘ならぬものだ。

 苦笑を浮かべ、しかしそれも悪くないと甚太は息を洩らした。





 社殿には、本来在るべきではない笑い声が響いていた。

 白雪と鈴音の遣り取りを眺め、甚太も自然と表情が柔らかくなる。まるで幼い頃に戻ったような暖かい景色だった。

 しかし不意に、言い様のない寂寞が胸を過る。

 今はこうやって笑っているが、いつきひめとなった今では白夜が外に出て年頃の娘のように振舞うことは許されない。

 神聖なものは神聖なものであらねばならず、社に閉じ込められ、無邪気に笑うことさえ出来なくなった少女。

 彼女の孤独は一体どれほどのものだろうか。想像しようとして、一太刀の下に思考を斬って捨てる。憐れむことはしない。してはいけない。

 白夜は、白雪は、葛野の民を守るために自らその道を選んだ。


 ───おかあさんの守った葛野が私は好きだから。

   私が礎になれるなら、それでいいって思ったんだ。


 遠い昔、儚げな笑みを浮かべながら白雪は言った。

 それを美しいと感じ、だからこそ守りたいと願った。ならば、彼女の決意が紡いだ今を憐れんでいい筈がない。安易な憐憫は彼女の決意を軽んずるに等しい。

 だが彼女には幸せであって欲しいとも思う。

 巫女守になった理由を今更ながらに思い返す。

 他が為に己が幸福を捨てた幼馴染。

 その幼くも美しい決意を守るために、彼女が描く景色を尊いと思ったからこそ、己は刀を振るうと決めたのだ。


「……にいちゃん、ひめさま。すず、そろそろ帰るね」


 甚太の横顔を見て、何故か少しだけ寂しそうな表情を浮かべ鈴音が言った。


「え、もう? 折角だからもう少しいればいいのに」

「ううん。見つかったら大変だし。にいちゃんにも会えたから」


 静かな笑みは、幼い外見とは裏腹に何処か大人びて見えた。

 かと思えば破顔一笑、無邪気な笑みを振りまく。


「じゃね、にいちゃん。早く帰ってきてね!」

「ん、ああ。見つかるなよ」

「分かってるって! ちゃんと抜け道を使ってきたから大丈夫。ひめさまもまたね!」


 一度右目の包帯を直し、鈴音は小走りで出口へと向かう。

 どうやらこの社にはこの娘しか知らない抜け道があるらしい。衛兵に見つからず座敷へ辿り着けた理由はそれか。甚太は少しばかり安心して、座敷から去る背中を見送る。

 そうして最後に一度だけ振り返り、大きく手を振って、鈴音は社殿から出て行った。


「気を使わせたか」


 小さく溜息を吐く。

 鈴音の態度はあからさまだった。大方白夜と二人きりになれるように、ということだろう。幼いままの妹にまで胸の内は筒抜け、その上気を使わせてしまうとは我ながら情けない。


「はぁ……ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」


 しみじみと、感心したように白夜は息を漏らした。

 それについては同感だが、喜びきれないところもある。


「私としては、もう少し我儘になってくれた方が嬉しいんだが」

「いい子過ぎるのも心配?」

「あいつは自分を抑え過ぎるからな」


 その出自故か、鈴音は普段から周りに対して引け目のようなものを感じている。

 だからだろう。あの娘は甚太と白夜以外の人間とは上手く話せず、特別な用事がない限り殆どを家の中で過ごしていた。

 そういう現状が、甚太には気がかりでならない。


「掟だから叱りはしたが、本当は社に遊びに来ることくらい認めてやりたい。そちらの方が鈴音の為だ」


 甚太はいずれ鈴音よりも早く死ぬ。そうなればあの娘は一人になってしまう。

それを考えれば自ら外へ出てくることは寧ろ好ましく、しかし掟に背いている以上肯定はしてやれない。正直な所複雑な気分だった。


「結構考えてるんだね。なんていうか、ちょっと意外」

「私は兄だからな。妹の幸せを願うのは当たり前だろう」

「ふふっ、そっか。ほんと、お兄ちゃんは大変だ」


 白夜の慈しむような表情は、まるで本当の姉のようだ。

 なんとなく気恥ずかしくなり、ふいと中空に視線を逃がす。その照れ隠しが更に笑いを誘ったらしく、白夜は声を上げて笑っていた。

 ひとしきり笑い終えようやく落ち着いたらしい。白夜は若干目の端に涙を溜めている。

 和やかな空気が流れ、ちょうどその時、板張りの床が軋む音を聞いた。


「静かに。人が来た」


 鉄のように硬い声、先程の気安さは一瞬で消え去る。

 白夜は慌てた様子で御簾の向こうの座敷へ戻り、甚太も板張りの間に戻り正座し佇まいを整える。社殿に静寂が戻り、幼馴染だった二人はいつきひめと巫女守になった。

 しばらくすると本殿の外、高床の廊下から声がかけられる。


「姫様、少しよろしいですか」


 それは先程帰ったはずの長の声だった。

 助かった、もう少し鈴音を返すのが遅ければ鉢合わせになっていた。寸での所で最悪の事態は回避できたようだ。


「何かありましたか?」


 冷静で、威厳を感じさせる態度。

 先程まで戯れていた幼馴染は姿を消し、一個の火女が其処には在った。


「いえ、以前の件を少し煮詰めたいと思いましてな」

「……そう、ですか」


 御簾の向こうで白夜が固くなったのが分かる。

 以前の件が何かは分からないが、あまり楽しい話題ではないのだろう。


「失礼いたします」


 返答も聞かずに長は本殿へと踏み入ってくる。

 最低限の礼節を忘れる程に重要な話なのか、長にしては珍しい不作法だった。こちらに一瞥を向け、何処か重々しい様子で長は言う。


「甚太。すまんが少しの間、外へ出ていてくれんか」

「ですが私は巫女守。鬼切役を賜わっているなら兎も角、平時に離れることは」


 白夜の纏う雰囲気に傍を離れることが躊躇われる。

 自身の役職を使って精一杯の抵抗を試みるが、否定の言葉は予想外の所から出てきた。


「甚太、貴方は下がりなさい」


 声は冷たい。いや、冷たく聞こえるように紡いだ固い言葉だった。

 彼女との付き合いは長く、だから分かる。今から行われるのは彼女にとって聞かれたくない類のもの。白夜ではなく白雪にとって、である。


「……御意。ならば私は社の外で控えます」

「ええ」


 短い返答を受け一礼、背を向け本殿の外へと向かう。それを止めるものはこの場にはいない。

 白雪ならば「ごめんね」とでも付け加えただろう。

 しかし白夜は謝らない。神と繋がる火女が俗人に謝罪すれば、その神聖さを貶めることに繋がる。

 だから内心がどうであったとしても、白夜は甚太を自分よりも下位の存在として扱わねばならない。 

 彼女がいつきひめである以上、幼馴染であってはならないのだ。


「甚太」


 白夜に呼び止められ振り返る。

 御簾の向こうにいる少女がどのような顔をしているのかは分からない。声色も実に平静で、其処から感情を読み取ることは出来なかった。


「葛野を、これからも頼みます」


 零れ落ちた幼馴染の白雪ではなく、いつきひめたる白夜の言葉。

 同時に「頼む」という、彼女に許された精一杯の謝罪だった。


「は。巫女守として為すべきを為しましょう」


 ならば幼馴染ではなく巫女守として返さねばならない。

 御簾までは約三間。だというのに、たったそれだけの距離がやけに遠く感じられる。

 しかし表情を鉄のように固く、努めて平静を装い再び歩みを進める。踏み締めた床がぎしりと鳴った。

 その音に、冷たい社殿は更に冷え込んだような気がした。






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