『マガツメ』・4
Sunflower/向日葵
原産地は北アメリカ、キク科の一年草。
日本へは江戸時代に持ちこまれた。当時は「丈菊」と呼ばれていたが、元禄の頃には向日葵という名前で定着した。
ギリシア神話では、太陽神アポロンを慕う水の精クリュティエが恋に破れ、悲しみから向日葵になったとされる。
また古代インカ帝国では太陽の花と尊ばれ、司祭や太陽神に仕える聖女は、金細工の向日葵を身に着けたという。
これらの由来から向日葵を花束にして贈る時は『熱愛』『愛慕』、神殿に飾る時は『崇拝』『信仰』を意味する。
愛する人と崇めるべきモノの為に咲く太陽の花。
花言葉は「私は貴方だけを見詰める」。
◆
服は夜のうちにちゃんと用意してある。
今日はタートルネックにデニム、色は白で統一する。上に羽織るのは黒のチェスターコートだ。
シャワーも浴びておく。出かける前に制汗スプレーはしておかないと。寝臭いとか言われたら軽く死ねる。
髪はしっかり乾かし櫛で梳く。確認したところ枝毛はない。
お昼ごはんをちょっと控えたのは、まあそんな気分だったからで他意はなかった。
時計に目をやれば時刻は12時27分。約束は2時だからちょっと準備するのが早かったかもしれない。
まあ遅刻するよりはいいか。
そう思いつつ自室のベッドに腰を下ろし、緩やかに息を吐きつつ、少女はがっくりと肩を落とす。
「私の馬鹿……」
姫川みやかは思い切り昨夜の発言を後悔していた。
「なによデートって…普通に話聞かせてでよかったじゃない。それで確実に納得してくれるのに……」
少女は暗い表情でぶつぶつと呟く。ただ頬を若干赤く染め、羞恥に身をよじりつつなので傍目からは大層珍妙ではあった。
マガツメ。鈴蘭。何か隠し事をしている風の彼が気になって、今度はちゃんと踏み込もうと決めた。
だから電話をかけて、その機会を設けようと思った。
が、テンパりにテンパった結果、選んだ誘い文句は「デートしない?」。我ながら馬鹿じゃなかろうか。
ない。これはない。
中学生の頃は男子と交流がなかったので、誘うのに慣れていなかったという面もある。にしてもひどい。せめて薫の十分の一、二十分の一でいいからコミュニケーション能力があったなら。
「……別に嫌いじゃないけど。いつも助けてもらってるし。見た目厳ついけど優しいし。でも……あぁ、もう」
惚れた腫れたは別にして、好意をもっているのは間違いないのだ。
だとしても勢い任せのデートのお誘いとか恥ずかし過ぎる。
せっかく準備を整えたのに、服とか髪の毛とかお構いなしにみやかはベッドの上でのた打ち回る。そんなことをしているうちに無情にも時間は過ぎ、ちらりと時計を見れば既に時間は一時を回っていた。
「……待たせちゃ、駄目だしね。で、でーとだしね」
若干どもりながらのっそりと起き上がる、
自分から誘ったデート。その響きは恥ずかしいし抵抗もあるが、待たせていい理由にはならない。
右手と右足が同時に出るぎこちない歩き方ではあったが、みやかはどうにか部屋を出た。
「まずは、もう一回髪整えないと」
行き先は洗面所だった。
◆
土曜日の午後。
このように多大なる葛藤はあったものの、みやかは自らを奮い立たせ甚夜に会う為駅前へと向かった。
聞きたいことは幾つもある。今迄それを避けてきたのはたぶん怖かったから。不用意に踏み込んで傷つけるのも、その結果傷つくのも、どちらも同じくらい怖かった。
でも向き合うと決めたのだ。
ならば尻込みしていてはいけない……目下の問題は距離感からの恐れよりもデートに対する照れではあるが。
ともかく甚夜の様子がおかしいのは明らかだ。
マガツメなる鬼は現世を滅ぼす鬼神とまで謳われる存在。そんな危険極まりない怪異の暗躍を知りながら、今回に限って彼は静観を貫いていた。
みやか達に危害が及ぼうものならば、いつも過保護なくらいの対応を取る。取り越し苦労に終わっても「無駄になるならばその方がいい」と語るのが葛野甚夜という男だ。
だというのに鈴蘭や付随するドッペルゲンガーなどの噂も「大丈夫だ」と言って殆ど放置状態。それでいて時折遠い目をする。
その内心を測るのはただの少女であるみやかには難しいが、何かを抱えているのは間違いない。
「たぶんあいつは、私達には言えないようなことを隠している……」
意識せずに漏れた呟きは、だからこそみやかの掛値のない本心である。
そこに不満はない。訳アリも訳アリの男の子、元より話せる事情なんて少ないと分かっている。
だから不満はなく、隠し事をされても信頼し、心配するくらいには日々を重ねてきた。
つまるところデートというのは艶っぽい感情よりも純粋な気遣い。
聞くこと自体が甚夜の負担にはならないか、という心配はある。
けれど胸を張って友達だと言いたいから、もっともらしい言い訳で、彼の憂慮を見て見ぬふりするような真似はしたくはなかった。
「よし、行こう……頑張れ私」
助けにはなれなくても、支えてあげられなくても、味方でいてあげるくらいなら私にもできる。
そう思うから、みやかは歩みを進める。
改めて自身の心を明確にし、うんと一つ頷き静かに決意する。
例え彼が何を隠していたとして、聞かされてもらえなかったとしても。ただのクラスメイトとして、味方で友達で在りたいと願った。
その想いが少女の足取りを力強いものに変える。恥ずかしさ故の躊躇いはもはや微塵もない。
みやかは約束の時間に遅れないよう心なし早足になり、十字路を右に曲がって。
「こんにちは、今代のいつきひめ」
待ち構えてい栗色の髪の童女───向日葵に遭遇する。
後ろに控えるは目も鼻も口もないのっぺらぼう。
ぬるりと白い肌、奇妙なくらい長い手足がゆらゆらと揺れている。
醜悪でも見るからに恐ろしい訳でもない。寧ろシンプル過ぎて逆に気味が悪い。
無貌の鬼が、ない筈の目で睨み付けていた。
「あ……」
夏の花を思わせる鮮やかな微笑み。
虚を突かれたみやかは逃げるどころか一歩後ろに退くことさえできなかった。
立ち尽くし、悲鳴にも満たぬか細い声を漏らし、ただそれだけ。
無貌の鬼、鈴蘭は固まったままの少女へその白い腕を伸ばし。
一瞬で意識が刈り取られた。
◆
まず感じたのは微かに鼻を突く埃っぽさ。
次いで瞼の向こうの光に少しずつ意識が覚醒する。
ゆっくりと目を開く。気付けば姫川みやかは板張りの床に転がされていた。
ワックスのしっかりかかった妙に光沢が目立つ床は独特の冷たさを持っている。
見回すと立ち並ぶレーン、無造作に放置されたピンやボウル。連れ去られた場所は、多少乱雑ではあるが真新しいボウリング場だ。
体を起こそうとすれば首の辺りに痛み。なんでだろう、そもそも私はどうしてこんなところにいるのか。
「目を覚まされましたか?」
纏まらない思考は鈴の音のような、よく通る声を聞き明瞭になる。
声の主、おそらくみやかを此処まで攫ってきたであろう向日葵は、悪びれるどころか親しみさえ感じさせる微笑みを浮かべていた。
「貴女は……」
「向日葵と申します。おじさま……葛野甚夜さまの姪にあたります。あとは、マガツメの娘、藤堂夏樹くんのひいおばあさんの知己。どれでも理解しやすいように受け止めてください」
マガツメ、鬼神の娘。なのに甚夜の姪で、クラスメイトの男子とも少なからず縁がある?
向日葵、可憐な容姿を持った彼女の言は突飛に思えて、意識は明瞭になっても今一つ理解が追い付かない。
ただ向日葵という名に覚えはあった。確か吉隠に襲われた時、助けに来た溜那は「ひまわりに頼まれた」と言っていた。
「甚夜の姪。なら、溜那さんの……いもうと?」
「むぅ、違います。いいですか、あの子は便宜上姪っ子になっているだけであって私が真の姪です。嫌いじゃないですしメル友ですけどそこは譲れません」
納得いかないと頬を膨らませる向日葵は、普通の幼い女の子に見えた。
けれど後ろに控える無貌の鬼の気配が、そうではないのだと知らしめる。
目も鼻も口もないのっぺらぼう。都市伝説の怪人ではなく、その容姿こそかけ離れてはいるが、あれは甚夜と同じ類のあやかしだ。
「この子は末の妹の鈴蘭。母の産んだ最後の娘です」
みやかの視線に気付いた向日葵は先回りして答える。
声の調子も浮かべる表情も人懐っこく、とてもではないが「現世を滅ぼす鬼神」の娘とは思えない。
それでもこの夏の花に似た鮮やかな微笑みの少女こそがみやかを攫った張本人、決して見た目通りの存在ではないのだ。
「私を、どうするつもり……?」
甚夜に対する人質? 或いは、萌にしたような偽者の製造。それとももっとおぞましい実験でもするつもりなのか。
幸か不幸か怪異の引き起こす事件には随分と慣れ、胸中は予想以上に平静だ。
縄や鎖など拘束の類はない。しかし腰が抜けてしまったのか、体に力が入らず立てそうもなかった。
それでもせめて心では負けぬよう、ぐっと正面から向日葵を見据える。
「特に用はありませんね。傷付けるつもりはないですから、時間が来るまで一緒に居ていただければ」
けれど肝心の鬼女は、あっけらかんとそう答える。
実際鈴蘭も大した動きは見せず、ただみやかを監視ているだけ。こちらに危害を加える素振りはない。
色々と嫌な想像をしていた分、朗らかな態度に毒気を抜かれた。
にこにこしている、同性の目から見ても綺麗な女の子は、やはり世界を滅ぼすなんて物騒な真似ができるようには思えなかった。
「安心してください。おじさまの大切な人に手出しするような真似はしません。母の思惑はともかく、私個人としては」
「え、と。それはどういう……もしかして、向日葵、さんは。マガツメ……さんの命令に従っていない? 甚夜の味方で、スパイ的な?」
「いいえ? 私と母の願うところは完全に一致していますよ。でも私は長女、母から与えられた“特別な役割”があります。ですので、ちょっとだけ立ち位置が特殊なんです」
だから別段何かするつもりはない。
特別な役割がある、向日葵の言うことが本当なら差し当たっての危険はなく、だとすると余計に行動の意味が分からなくなる。
萌の偽者を学校に向かわせ、こうやってみやかを攫い。彼女は一体何を目論んでいるというのか。
「じゃあ、なんで」
「勿論、貴女を攫った理由はあります。だって、その方がお話しやすいでしょう?」
攫っておいてお話? そこに違和感を覚えつつも、それ自体が勘違いなのだとみやかは気付く。
その方がお話しやすいと言う少女の視線は明後日の方向。薄暗い室内に揺れた人影へと注がれていた。
「男女の逢瀬に横槍は無粋だな」
投げ掛けた言葉はその人影へ向けてのもの。
かつん、かつん、音のないボウリング場では靴音もやけに甲高く聞こえる。
立てないで伏したままのみやかや向日葵、異形である鈴蘭を視界に留めながらも、歩みには一切ぶれがない。
鉄を思わせる硬質な空気。ああ、そうか。約束の時間は随分前に過ぎてしまった。
ならば彼は、葛野甚夜は当たり前のように動く。
「おかげで約束の時間を随分回ってしまった」
「そこは、ちょっとした嫉妬だと思ってもらえると嬉しいです。こんにちは、おじさま」
「ああ。……で、申し開きは聞かせてもらえるのだろう?」
手には半生を共にした愛刀、夜来。年端もいかぬ少女にしか見えぬ向日葵へ向ける視線は激情こそ感じられないものの酷薄で、けれどその鋭さが逆にみやかを安堵させる。
けれど何故だろう、何か違和感が。奇妙な心地で甚夜を見詰めていると、すぐに違和感の正体を知る。
彼は向日葵を、彼女が従える異形を前にしながら無造作に立っている。
構えず、刀を抜かず、腰を落とし咄嗟に動けるような態勢にもならない。
敵と正対しているのに、無警戒に体の力を抜いていた。
「はい、その方が楽と思って。巻き込まれた後の方が、説明はしやすいでしょう?」
親愛を感じさせる明るく柔らかい声に反応し鈴蘭が蠢く。
身震いした無貌の鬼は体表から粘度の高い水のようなものを吐き出した。
「成程、そいつが“鈴蘭”か」
「はい。母の最後の娘。この子だけは私と同じ、何も取り込まず完成した、特別な存在です」
姉妹の中で向日葵だけは誰も取り込まずその自我を確立している。
鈴蘭もそれと同じ、誰かを喰らう必要はない。マガツメの末妹は、自我を持たない状態で既に完成しているのだという。
対峙する二人を余所に、粘液は次第に盛り上がり形を作っていく。
ぐちゃり、ぎしり。気色の悪い音にうすら寒いものが背筋を走る。
「<力>の名も<鈴蘭>。目がないのでこう表現していいのかは分かりませんが、その本質は“母の知る、或いは視認した対象の、記憶も思考も完全に同一の複製体を造る”こと。造れる対象の記録はストックでき、鈴蘭自身が変身するわけではないので制限もありません」
その説明に嘘はない。
体外に排出された粘液は、此処に完全な人型となった。
うっすらと茶色がかった長い髪。高めの身長。
女性らしい起伏はあまりないが、すらりとした手足に余分な肉のない細身。
切れ長の目に通った鼻筋、かわいいよりも綺麗がしっくりくる顔立ち。
姫川みやかと寸分違わぬ少女が、一糸纏わぬ姿で其処にいる。
「え、えと? ……なに、これ?」
頬を染め、叫び声をあげるでもなく、戸惑いながらも咄嗟に体を隠すその反応もまるでみやかそのもの。
自分が目の前にいる、その奇妙さに吐き気がする。
甚夜もまた不快感を露わにし、普段みやかには見せないであろう、刃物に似た眼光になる。それを見て悲しそうに怯える様さえ、少女は姫川みやかだった。
「すごいと思いませんか?」
「確かに。だが笑えないな、消えろ偽者」
投げ付けた暴言が急所を貫いたのだろう。
寂しそうに微笑んだ姫川みやかの体表はどろどろと溶け、人間の形はいとも容易く崩れる。か細い呻きを上げたそれは、僅か数十秒で元の粘液に戻ってしまった。
薄暗い室内の温度が一段低くなったように感じられる。
「これで十代目の秋津、今代のいつきひめ、共に巻き込まれました。おじさまは喜ばないかもしれませんが、説明する理由は十分でしょう?」
「お前は」
「言った筈です、私と母の願いは一致している。過程は違っても、最後に行きつく場所は同じなんです」
なのに向日葵の笑顔は、相変わらず夏を思わせる鮮やかさだ。
敵対しているのは事実。少なくとも断片的な情報から想像すれば、あれが現世を滅ぼす鬼神の同類であることは間違いない。
けれどやはり少女は無邪気で、表情こそ険しいが甚夜もまた決して敵意を見せなかった。
「ではおじさま、私達はこれで。取り敢えずの目的は果たせましたので」
「そうか。……世話になった、と言うべきかな」
「ふふ、お気になさらず。大切な殿方の支えになれるのは、女冥利に尽きるというものですから」
ね? と向日葵は可愛らしくみやかへ目配せする。
その意味を、たぶん少女は分かっていない。けれど問うことはできず、向日葵と鈴蘭は暗がりの中に消えていく。
甚夜はそれを黙って見過ごした。追う素振りさえ見せなかった。
「みやか、怪我はないか?」
「う、うん、ありがとう」
しばらく薄暗い室内を眺めていた甚夜は、伏したままのみやかへ向き直る。
表情は殆ど動かない。それでもちゃんと心配してくれていると分かるのは、曲がりなりにも長くなった付き合いのおかげだ。
ちゃんと、心配してくれている。そこに疑いはない。
でも先程の彼はまるで。
浮かんだ疑惑をみやかは飲み込もうとして、しかし思い直し首を横に振った。
今迄はそれで良かった。傷付かず傷付けない、そういう距離感を保ち彼の善意に甘えて。ずっとそんなことばかりをしてきた。
「いつも、助けてもらってごめんね」
「いや、本当に気にしないでくれ」
「それで、さ。助けてもらっといてなんだけど、聞きたいことがあるの。いいかな?」
だけど向き合うと決めた。だったら言葉を飲み込んではいけない。
みやかは僅かに残る戸惑いを無理矢理抑え込み、多分ずっと感じていた違和感を吐き出す。
「ずっと、ね。疑問に思ってたんだ。吉隠の時は、すぐに動いた。私達を守ろうと色々してくれた。……でも、今は違うよね?」
「みやか?」
「責めてるんじゃないよ。私達のことちゃんと心配してくれてるって分かってるから。だけど、たぶんきっと。甚夜は、マガツメのことに関しては、後手になってるっていうか。ううん、違う」
上手く言葉にはならなくて、でもずっと考えていた。
彼はいつだってみやか達を慮り、守るために様々な手を打ってきた。その信頼は多少の違和感では揺らがない。
だから今も当たり前のように彼を信じている。
その上でマガツメの暗躍には後手に回っていた理由を想像すれば、行き着く答えはたった一つ。
「もしかしたら甚夜は、最初からマガツメが私達に手を出さないって知ってた、んじゃないかな?」
そうでなければ辻褄が合わない。
甚夜は後手に回っていたのではなく、そもそも何もせずとも向日葵がみやか達に危害を加えることはないと初めから知っていた。
もっと言えば鈴蘭の<力>も、向日葵の目論見も。全部知っていたのではないだろうか。
「……驚いたな」
その呟きが、仮定が正しいのだと雄弁に語っている。
みやかの顔が若干ながら翳った。
向日葵との親しげな態度、それにマガツメの企みを知りながら放置していたというのならば、彼は敵方と繋がっていたのでは?
同じ鬼だ。現世を滅ぼすあやかしは、彼にとっては人よりも近しい存在だった?
不安が沸き上がり、縋りつくように甚夜の目を見る。すると彼は、仕方ないとでも言いたげに小さな笑みを落として、みやかの頭を優しく撫でた。
「こうなると、向日葵には感謝せねばならないな」
ここまで巻き込まれたのだ、みやかには聞く権利がある。
あの娘は態々説明しやすいように態々“前振り”をしておいてくれた。気遣いを有難く受け取り、甚夜はみやかの手を取って立たせる。
「では少し遅くなったが、約束の方を果たそうか」
本当に軽い調子で言うものだから、みやかはそれが何を意味しているのか一瞬理解できなかった。
きょとんとした目で甚夜を見詰めれば、彼は悪戯っぽく口の端を釣り上げる。
「だから、今日はデートなんだろう?」
たぶん、そうして呆気にとられる少女の顔こそが見物だった。
◆
ボウリング場を出ると既に日は傾きかけていた。
薄雲に橙色が塗られ、喧噪に満ちた駅前はそれなりの情感を帯びている。
夕暮れ時というのはどこか寂し気だ。折角の休みなのに何もしないで日が暮れようとしている。
勿体なかったと思いつつ、みやかは緊張に頬の筋肉を強張らせていた。
なにせ甚夜が言うにはこれからデート。何気に初デート。思春期の少女だ、緊張しない筈がなかった。
誘ったのはこちら。一応三時のお茶をする喫茶店とか、プレイスポットとか、彼が興味ありそうな博物館とかデパートの展示とかリストアップしてきた。
けれど今からでは時間が遅い。どうすればとみやかはわたわたしていたが、「行き先はこちらで決めて構わないか?」と甚夜の方から申し出てくれた。
正直助かったとそれを受け入れ、黙って後を付いていく。
そして目的の場所へ辿り着いた時、緊張は一気に吹き飛んだ。
「話すならば、やはりここがいいだろう」
てくてく歩き、二人は葛野市を流れる戻川の土手に。
“頑張ってね、女の子”。聞き覚えのない誰かの声が風に紛れて耳を擽る。
いつかの景色に重なる。そう思ったのは何故だろう。不思議な既視感、夕凪の空、差し込む光に目が眩む。
「まずは、何から話そうか……取り敢えず、君の考えは間違っていない。確かに私は、マガツメが君らに仇なすことはないと初めから知っていた」
けれどそれも一瞬、うっすらと瞼を開ければ、見慣れた彼の姿がある。
その目に浮ついたものはない。デートは方便。甚夜は今までになく、真剣に向き合おうとしてくれている。
であれば、少し残念ではあるが、こちらも浮ついてはいられない。
言葉にしない想いだって伝わるのだとこの一年で学んだ。みやかは彼の心に報いるような真っ直ぐさで見つめ返す。
「……うん」
「断っておくが、マガツメに与している訳ではない。あれは昭和の頃だったか。七緒、離反したマガツメの娘に彼奴の企みの全てを聞かされていたんだ」
だから最初から全て知っていた。
存在しない筈の鳩の町で出会った娼婦は、マガツメの企みや能力、娘達の意味。自身の知る限りの全てを伝え、最後には喰われることを願った。
その時点で甚夜の選択は決定していた。
今更慌てる筈もない。ここに至る向日葵の暗躍は、その殆どが想定の範囲内だ。
「向日葵の暗躍は、君にこの話をさせる為。巻き込まれた後の方が話しやすいだろうという、あの娘なりの気遣いだ。君には迷惑をかけたな」
「大丈夫。結果的にはよかったし。……ほんと、よかった」
「不安にさせたか?」
「そういう訳じゃないけど」
それでも彼がこちら側に立っていると知れて、暖かな息が漏れた。
疑っていなくても不安ではあった。そういう気持ちになってしまうのは、まだ子供だからだろうか。
彼の遠い目を見ていると、そんなことを考えてしまう。
「ここまで巻き込まれ、なにより君は今代のいつきひめ。出来れば知らせずに片を付けたかったが、そうもいかないらしい」
だけど甚夜はどこか空虚な雰囲気を払拭し、しっかりと、子供であっても真正面から応じてくれる。
「年寄の昔語りだ。退屈とは思うが聞いてくれるだろうか。……現世を滅ぼす災厄と、醜く無様な鬼人の話を」
そうして彼が語るのは、百七十年に渡る長い長い昔話。
かつて在り、今も尚続く、滅びに至る想いの物語である。
◆
今は昔。
江戸の裕福な商家に生まれた甚太は、五歳の時に家を出た。
父は妹を虐待していた。こんな家に居てはいけないと思った。
妹の名は鈴音。
兄をよく慕う、無邪気ないい子だった。
路頭に迷った兄妹は降りしきる雨の中、一人の男、元治に出会う。
産鉄の集落『葛野』においていつきひめの巫女守を勤める彼は、行く当てのない甚太らを助けた。
連れられた先で甚太は再び故郷を得る。
同時に、新しい家族も。
『私達、これから家族になるんだから』
白雪。
何よりも大切で、誰よりも守りたかった、初恋の人だ。
「母である夜風の死後、白雪はいつきひめになると決めた。父母を亡くし、自分であることさえできなくなって。それでも素直に誰かの幸せを祈れる。そんな彼女だから守りたいと願った……きっと、あんなに鮮やかな恋は二度とできない」
零れる声には隠し切れない親愛が滲んでいて、少しだけ胸を締め付けられる。
彼が遠い目で見ていたのは、たぶんいつかの記憶。百年を超えても忘れ得ぬ、愛しい原初の風景だった。
「私は、彼女が好きだった。それも容易く途切れてしまったけれど」
ある日集落を鬼が襲い、巫女の後継の問題から白雪には婚約者が宛がわれる。
選ばれたのは集落の長の息子、清正。集落の為ならばと白雪もそれに納得した。
戻川を一望できる小高い丘で甚夜達は別れを告げる。
想い合いながらも、自身の願い故に、共にあることはできない。そういう道を選んでしまった。
今思えば、それが全てのきっかけになった。
兄を慕う妹は、他の男になびく白雪を責めた。
何故と。兄を傷つけてまで守る価値がこんな集落にあるのかと。
けれど彼女には響かない。誰の言うことでも揺らがないくらいに白雪は悩み傷つき、その上で歩むべき道を選んだ。
想いに嘘はなかった。ただ大切にする方法が違っただけ。
それが幼い妹には───鈴音には理解できなかったのだろう。
出口のない感情に迷い込んだ鈴音は、憎しみか妬心か、抗えぬ昏い心のままに鬼へと堕ちた。
小さな集落で起こったいつきひめを巡る事件は、坂道を転がるように終わりへと向かう。
兄に愛されながら他の男に股を開く巫女が許せず、妹は自身にとっても幼馴染と呼べる“ひめさま”を殺し。
兄もまたそれを許せず、憎悪に追い立てられ心から愛した筈の妹に刃を向けた。
想い合う兄妹は些細なすれ違いから憎悪を突き付け合い、それが始まり。
<遠見>の鬼は謳う。
百七十年後兄妹は再び葛野で殺し合い、その果てに闇を統べる王が、あやかしを守り慈しむ鬼神が生まれると。
此処に現世を滅ぼす災厄、鬼神の種は蒔かれたのだ。
「じゃあ、マガツメって」
「私の妹だ。……今もそう呼んでいいのかは、分からないが」
途方もない時間を踏み越え、彼は平成へと至る。
力だけを求めて、それだけが全てで。
けれど失くしたもの、手に入れたもの。間違えた道行きの途中重ねてきた出会いと別れに心は変わる。
あの日抱いた憎しみは今も消せないが、迷っていた答えもどうにか選ぶことが出来た。
「マガツメは現世を滅ぼす鬼神、そこに間違いはない。だが同時に、君達に危害を加えることはないと知っていた。だから別段対策を打つ必要はなかったのだが、どうやら余計な不安を抱かせてしまったようだ」
「不安って、程じゃないけど。でも世界を滅ぼすのに危なくないって、どうして?」
聞かされた話にある程度は納得できたが、結局其処が分からない。
マガツメが兄を憎んでいるのは明らか。にも拘らず危害を加えようとはしない。それにたくさんの赤ん坊や、向日葵に鈴蘭。
みやかは問いを重ねようとしたが、甚夜のどこか寂しげな笑みにそれを遮られる。
「先程言った通り、私はマガツメの目論見を知っている。それを考えれば、私が直接対峙し敗北しない限り、特に被害はないんだ。あれは良くも悪くも私にしか興味がない。心を造る、現世を滅ぼす。そんなもの目的を果たす為の過程に過ぎないのだから」
かつてマガツメは現世を滅ぼすと語った。
歳月を重ねて彼奴は死体を弄り、百鬼夜行を生み出した。
それは鬼を造ること自体が目的ではなく、突き詰めた先、心を造り出す技術こそを彼奴は求めた。
最後に会ったのはちょうどその頃か。以後もマガツメは表立っての動きは見せなかったが、数多の娘を産み落とし、ただ目的の為に在った。
その全てを鳩の町の娼婦、七緒は教えてくれた。
「娘を産む、心を造る、現世を滅ぼすことは、言ってみれば料理の前に食材を切るのと同じ。あれの願いに直接繋がるものではない」
ぎりと強く奥歯を噛み、苦渋に満ちた声を漏らす。
怒りではない。悔やむような、自身の無力を嘆くような、強い自責の念に満ちている。
「マガツメは心を造りたかった。散々切り捨てた娘の代わり。兄を憎んでしまうような欠陥品ではなく、完全な、傍にいても嫉妬せず傷つきもせず、ただ妹として在れる心が」
堰を切って流れる言葉は淡々としているのにどこか慟哭を思わせる。
年齢のせいか、彼は普段一歩引いて保護者のような立ち位置を取ってくれる。けれど今は違う。此処にいるのは孫に甘いお爺ちゃんのような彼ではなく、感情を剥き出しにした一個の男だ。
「娘達はいらないから捨てられた。けれど大切な想いだった。地縛は離れていく兄を縛り付けたいから、古椿はもう一度見てほしいから。七緒は向けられる憎しみさえ独り占めしたかったから。向日葵は何処にいても兄を見つける為。そして鈴蘭は、最後の最後。マガツメの望みの為に」
「望み……?」
「マガツメの長姉と末妹には特別な役目がある。その内容は七緒も知らなかったが、マガツメの願いを考えれば、鈴蘭のそれは容易に想像がつく」
俯き、拳を握り締め、甚夜は絞り出すように語る。
「あれは、確かに現世を滅ぼそうとしている。ただしそれ自体は目的でなく過程。態々葛野に戻ってくるのは、此処が起点だから。マガツメの願いはまず葛野を滅ぼし、そこに新しい場所を造り上げることだ」
もはや故郷は必要ない。
ここにはよくない思い出が多すぎる。
だから滅ぼし、リセットする。その果てにこそマガツメの願いはある。
出来上がった今を更地に変え、もう一度造り上げる。
その為の準備はしてある。
それこそが鈴蘭の役目。
あれは記録した人間の複製を造る。マガツメの心の一部ならば、おそらくはマガツメの知る誰かも造り出せる。
つまりあれは白雪を、元治を、夜風を、ちとせや他の者達も。容易に造り出せるのだ。
「全てはもう一度、原初の風景を再現する為」
もう一度失われた故郷を造り、失くしてしまった人々を再現し、今度は造り上げた完全な心を以って甚夜の……甚太の妹になる。
そうすればもう兄は傷つかない。
そうすれば兄は、幸せになれる。
あの楽しかった頃が帰ってくる。
憎しみを忘れ、もう一度、私達の日々を始められる。
「つまり、あれの目的は徹頭徹尾、“にいちゃんを幸せにすること”。散々心を切り捨て憎しみを募らせ、尚もそこだけは揺らげなかった」
その為に現世を滅ぼす。
間違った道行きの果てに辿り着いた、兄を苦しめるだけの今なんて壊れてしまえばいい。
「マガツメは……鈴音はまだ、私の幸せが遠い葛野にあると信じているんだ」