『マガツメ』・3
Lily of the valley /鈴蘭
北海道や本州、九州の涼しい高原に自生する多年草。
花名の鈴蘭は、その花姿が鈴のように見えることにちなむ。
可憐な佇まいだが鈴蘭は有毒植物で、致死量は耳かき一杯程度と非常に毒性が強い。
反面古くから幸運を齎す花と信じられており、フランスでは5月1日に鈴蘭を大切な人へ贈り、その幸せを祈る風習がある。
大切な人を幸せにする毒の花。
花言葉は「再び幸せが訪れる」。
◆
正体を見破る、というのは普遍的な怪異への対処法である。
それを証明するかのように桃恵萌、そう見えた誰かはにたりと嗤う。
遊んでいそうな外見で真面目とも言い難いが、一途で優しく愛嬌がある。そういう少女が浮かべる笑みとは似ても似つかない。
「なに言ってんの? ……ってぇ!?」
それこそが最後の後押しとなった。
疑惑は既に確信、甚夜は瞬時に踏み込み血の刀を振るう。
しかし遅い。首を狙った一刀は視認どころか避けるも防ぐも容易い、ひどく緩慢なものだ。
普段の彼の太刀より遥かに遅いのは、瞬時に幾つかの可能性を想像したから。
目の前にいる少女が桃恵萌でないことは明らか。ならば問題は如何なる方法で違えたか。
単純に偽者。それとも洗脳等で萌自身を操っている?
脳を弄るなど器質的な手段で傀儡と化した場合。または“取り込んで”容姿と記憶を獲得した。
複数の仮説を取捨選択し、残ったのは二つ。
取り込んで容姿を獲得できる何者かの存在と、そうでなかった場合だ。
「ちょ、あぶなっ!?」
女は身を屈めてやり過ごす。咄嗟に漏れた声は正に萌そのもの。
躱されたこと自体は織り込み済み、振るう太刀は斬る為でなく見極める為のものである。
避けたはいいがそれだけ。彼女は付喪神を使おうとはせず、甚夜に対する警戒や動揺も見せなかった。
「っ!」
彼女は一切の迷いなく、速やかに逃げの一手を選んだ。
向かう先は扉ではない。コンクリートの地面を蹴り、屋上の柵を飛び越えようと躍り出る。
飛び降りて逃げる気だろう。しかしこちらに逃がす気はない。
「当然だが」
甚夜は大して慌てもせず、左腕をすっと小さく翳した。
ただそれだけで動きが止まる。跳躍したまま空中で固定され、女は苦悶に表情を歪める。
「仕込みは済ませてある。逃げるには少しばかり判断が遅いな」
疑惑の対象と会うのに、どうして何の準備もしていないと考えるのか。
<地縛>、<隠行>同時行使。
透明な鎖を張り巡らせ、端から逃げ道は塞いである。
鎖が少女の体を縛り上げる。結構な力が込めてあるにも拘わらず、ぎしりと骨が鳴ることはない。
行使した<地縛>から伝わる、軟体生物を締め付けるような奇妙な感覚。
だからあれが萌どころかそもそも人ですらないと気付く。
「さて、いくつかお前には聞きたいことがある」
ならば遠慮も加減も必要ない。
名も知らぬ誰かに甚夜は切り刻むような冷たい視線を向ける。
どうやら思っていた以上に苛立ちを感じていたらしい。
酷薄な声音に隠し切れない殺気。
返答如何によっては少しばかり対処が無惨なものになる。
それを彼女も悟ったのか、初めからそうなるように決められていたのか。張り詰められた空気の中、変化は突如訪れた。
「あ、ああ……」
少女の口からか細い呻きが漏れる。
どろり。
同時に白く滑らかな肌が溶け始めた。
空中で鎖に縛られたまま逃げられなかった少女の体は溶けて、見る見るうちにコンクリートの床へ零れ落ちる。
その勢いはとどまることを知らない。瞬く間に少女はどろどろの粘液と化し、地に落ちれば気化し、三十秒も経たぬうちに跡形もなく消え去る。
「これは……」
目の前で起こった奇怪な現象に、甚夜は僅かながら眉を顰めた。
あれが桃恵萌ではないと判断し、複数の仮説を取捨選択し、残ったのは二つ。
取り込んで容姿を獲得できる何者かの存在と、そうでなかった場合を考えた。
前者はつまり、萌がマガツメの娘に“喰われた”のではないかということ。
可能性としては一番有り得そうな話だ。
だが違った。
今のを見るに、真実は───
「ああ、そうか。七緒……お前の言う通りだったよ」
驚きがなかったのは、既に聞かされていたから。
甚夜は少しだけやるせない心持で呟いた。
屋上に吹き抜けた風は随分と冷たい。
身に染みたのは、冬の寒さばかりではないだろう。
ことを終えた甚夜は一応教室へ戻ろうと廊下を歩いていた。
既に二限目は始まっている。大幅に遅刻だ、何か言い訳を考えなければならない。
億劫な気分でいるところに激しい足音が聞こえてきた。
見れば廊下を物凄い勢いで走る女生徒。「ちこくちこく!」とベタなことを口走りながら、大慌てといった様子で駆けてくる。
その途中、女生徒の方も甚夜を見つけたようで今度は一気に急ブレーキ。甚夜の前で立ち止まり、呼吸を整えてから彼女は快活に笑ってみせた。
「おはよ、甚! そっちも遅刻?」
桃恵萌はいつものように、いつもと同じ笑顔でそう言った。
思わず目を丸くしてしまったのは仕方のないことだろう。
甚夜は若干戸惑いつつも彼女の爪先から頭のてっぺんまでをじっくりと観察する。
視線に気付いた萌は何となく照れた様子。戸惑いながらもぎこちなくにへらと笑う。
遅刻だと慌てていた割にナチュラルメイクはばっちり決まっており、ふわりと柑橘系のトワレが鼻腔を擽った。
最後、甚夜は確認するように人差し指でつんと萌の頬を突く。
「わっ、わわ!? なになに、どしたの!?」
いきなりの接触に照れて顔を赤くしてわたわたおろおろ。遊んでいそうな外見だが実に初心な反応だ。
触った感触は、軟体生物ではなくちゃんと人のものだった。
「本物か……」
「え、なにが!? ってほんとなに!?」
どうやら今度は本当に本物らしい。
安堵に甚夜は笑みを落とし、しかし状況の分からない萌はただ照れて慌てて。
そうこうしているうちに、二限目終了のチャイムが鳴った。
◆
『ではお望み通り、<鈴蘭>を披露してあげましょう』
ぐにゃり、無貌の鬼は蠢く。
向日葵の言葉に呼応し、鈴蘭は白い腕を伸ばした。
昨夜のことである。桃恵萌は廃棄されたボウリング場でマガツメの娘、その長女と末の妹に遭遇した。
彼女が秋津染吾郎である以上、見逃すなど有り得ない。
だが萌とてそれなりに場数を踏んできた。二匹の鬼、しかも能力も未知数。そういう鬼になんの警戒もなく突っ込むほど自惚れてはいなかった。
『ねこがみさま』
携帯のストラップを揺らせば、顕れるのはファンシーな猫の付喪神。
同時に距離を取る。最大戦力の鍾馗は射程距離が短い。<力>を把握できていない高位の鬼相手では博打が過ぎる。
数多の都市伝説や高位の鬼、なにより“かんかんだら”。
この一年はあまりにも濃密であり、それが功を奏した。自身よりも遥かに強い怪異との戦闘経験が、優れた能力任せの未熟な退魔に慎重さと思考することの大切さを教えたのだ。
(腕……ていうか鞭? 距離が掴みにくい。まずは、どこまで届くか。どんだけの威力があるか。ちょっとずつ計る)
間合いや力量、どの程度動けるか。後は、如何なる<力>を持つのか。
できるなら向日葵の狙いも知りたいが、それは流石に高望みだろう。
相手はマガツメの娘、おそらくは格上だ。先日の高位の鬼のように容易くはいかない。
ならばまずは情報を。
逃げ腰になっているのでも恐れている訳でもないが、果敢に攻めて気付けば相手の<力>で嵌められていました、なんて状況は避けたい。
『意外と冷静ですね?』
『そりゃね。命の賭けどころくらいは弁えてるってのっ!』
声にならない呻き、鞭のようにしなる白く長い腕。届く距離は鍾馗より2~3メートルは長い。
躱した一撃が叩きつけられれば真新しい床はいとも簡単に砕けた。
射程はそれなり、威力は高い。だが別段やりにくいということもない。しなる鞭は予測し難いが、繰り出す鈴蘭の動き自体は単調だ。
戦闘経験を積んできたとはいえ萌はまだ十六の少女、甚夜ら歴戦の者達と比肩すればその読みは浅い。鈴蘭の攻勢はそういう少女でも冷静に対応できるレベルでしかなかった。
だからこそ怪しいとも思う。
自意識のない鬼だ、拙い攻めも演技ではないと思う。
マガツメの末の娘がその程度? まさか。緑色の量産型より足なんて飾りのやつが弱いなんて笑い話にもならない。
最後に生まれたからには相応のものを持っていて然るべき。例えは微妙に間違っているものの少なくとも萌はそう考える。
つまり鈴蘭にはまだ何かあるのだ。おそらく今の状況を一発で覆すだけの<力>が。
『犬神、ねこがみさま。頑張れ!』
それをやらせるわけにはいかない。
次々と繰り出す付喪神、しかし届かない。攻めは拙いが反応は並ではない。間合いに攻め入る犬や猫をしなる鞭は軽々と吹き飛ばす。
身体能力では明らかに鈴蘭が優る。ただし一撃の威力ならば鍾馗を持つ萌が上回る。
であれば要点は「どうやってデカいのをぶち込むか」。
ベタな手はジャブで体勢を崩して渾身のストレート、或いはかく乱して不意を打つか。
手数の多い萌ならばどちらも選べるが、果たして上手くいくかどうか。
『……でも、やるっきゃないか』
不安はあるが躊躇いはない。
今この場で勝つことだけが意味を持つような状況ならば多少の無茶は当たり前、命だって賭けよう。
だが此処は死地でなくこれは単なる遭遇戦。
ある程度能力を把握したならば、最悪逃げて態勢を整えてもいい。危険を冒すよりも寧ろそちらの方が甚夜は喜ぶだろう。
しかし後のことを考えればマガツメの眷属は此処で討ち取っておきたいのが萌の本音。
故に彼女の選択は決定し、覚悟と共に一歩目を踏み込む。
ぎらりと、鬼の眼光が少女を貫いた。
びくりと体が震える。
目がない。なのに、睨みつけられたと思った。
萌は足を止められた。<力>による拘束の類ではない。単純に射竦められた、それだけの気配を鈴蘭は発していた。
けれど隙は見せない。両の足で踏ん張りすぐにでも動けるよう態勢を整え、懐から取り出したのは鍾馗の短剣。
如何な<力>であっても叩き潰す。そういう気概で萌は鬼女を睨み返す。
『ア、アァ……』
のっぺりとした鬼女の体躯が揺らめく。
目は逸らさなかった、にも拘らず霞んで映る。人では追い縋れぬ高速の挙動だ。
萌は警戒に全身を強張らせた。
四肢に力が籠る。次いで、がしゃんとガラスの割れる音。
『…………ええー』
鈴蘭は有り余る身体能力を費やし、尋常ではない速度で、窓ガラスを突き破った。
なにをするかと思えば全力で逃げやがったのである。
しかも気付けば向日葵の姿もない。ボウリング場には力強く構えた萌だけが取り残されたのだった。
◆
「ってことでマガツメの娘に会ったはいいけど逃げられたってオチ。とりあえず赤ちゃん放っておけないし色々してたらなんだかんだ日付変わって、普通に寝過ごして遅刻しちゃった」
てへ、とおどける萌に甚夜は小さく安堵の息を吐く。
鈴蘭なる鬼は殆ど何もしないまま逃げていった。
残された萌は放置された赤ん坊を見捨てられず警察に連絡、時間はかかったがとりあえず事なきを得た。
その際『キミの子供じゃないの? いるんだよねぇ、産むだけ産んで簡単に捨てる若い母親』『こんだけの赤ちゃん産めるかぁ!?』などという遣り取りがあったのは彼女の名誉の為にも伏せておく。
ともかく向日葵の狙いは分からず、鈴蘭の<力>も不明。かの鬼神が何を企んでいたかは知りようもない。
とはいえ桃恵萌はマガツメの娘に取り込まれることなく、それどころか全くの無傷で昨夜を越えたのである。
「ごめんねー、もうちょっとマガツメのこと聞き出せたらよかったんだけどさぁ」
昼休み、食堂の喧噪に紛れて萌は溜息を吐く。
折角の弁当にも箸はなかなか伸びない。十代目秋津染吾郎としての矜持か、手玉に取られたのが相当悔しいらしかった。
不機嫌ではないがいじけた様子で弁当のおかずを箸で弄っている。
「いや、君の無事に勝るものはない。よくぞ帰ってきてくれた」
「ありがと。でも、あたしの偽者かぁ。いったいなんだったんだろ?」
慰めの言葉に笑顔を返した萌は気を引き締め直して考え込む。
普通に考えればマガツメの娘、昨夜会った鈴蘭の仕業なのだろうが、どうもよく分からない。
思考することの大切さを学んだが、根本的に彼女は頭を使うのが苦手なのだ。
なのでそういう仕事はできそうな友達にお願いする。
「ね、そこんとこどう思う、みやか?」
「……さあ。というか、なんで私もここにいるの?」
話を振られたみやかは如何にも戸惑っていますといった感じで曖昧に返した。
普段こういう場合はまず甚夜と萌で話し合ってから、危険度を考慮して他のメンバーにも伝えるというのが定番だった。
しかし今回はみやかを含めた三人での話し合い。誘ったのは萌だが甚夜もそれを受け入れ、本人もよく分からないうちに連れて来られたのだ。
「え? ちゃんと説明したじゃん。マガツメっていう人を滅ぼす鬼が現れる、甚やあたしはそいつを倒す為に頑張ってきた。んで、マガツメには娘がいて、今回あたしの偽者作ったのはそいつ。どういうつもりでそんなことしたのか、実際接したみやかからも聞きたいのよ」
まあそれだけではないのだが。
彼女はいつきひめ、いずれ甚夜もマガツメとの因縁を明かすかもしれない。
その前にちょっとずつ話を伝えておいた方がショックは少ないかもしれない、というのが萌の目論見。頭を使うのは苦手でも、基本的に彼女は気遣いの人である。
「接したって言っても……普通に萌だと思って挨拶しただけだし。でも少し疲れてるというか、なんかいつもと違うなとは思ったかな」
「おおー、そういうのちょっと嬉しかったり。てかさ、あたしに化けてこっちのこと調べたりとかじゃなかったの?」
「うん。いつもの女の子達の方でメイクとか服の話してたりで、そういうのは全然」
普通に女子高生していただけ、特に怪しい動きは見せなかった。
あれが偽物だったなんて教えられた今でも信じられないくらい彼女は桃恵萌をしていたのである。
「そもそも私達から情報を聞き出す意味ってあんまりないと思う」
「ふふーん、みやかも甘いね。何気ない情報も結構重要なんだなーこれが。親しい奴らに聞きまわるのはかなりアリっしょ?」
「そうじゃなくて。甚夜の話ではその偽物って萌しか知らない話を知ってたんでしょ? 一晩でそういうのが準備できるくらいなら、聞き出すより私達の偽者作った方が早くない?」
「……あ、そっか」
萌の話では「<力>の正体は不明」「睨みつけられただけで触られてもいない」「ちょっと戦ったらすぐ逃げていった」。
甚夜の話では「あれは萌の記憶を持っていたが付喪神は使わなかった」「挙動は人のものではなかった」「縛り上げたら溶けて消えた」。
素人考えではあるが、そこから素直に導き出される鈴蘭の<力>は「視認した誰かのコピーを作る」こと。
複製された人物は寸分違わぬ容姿と記憶を有し、思考能力もそれに沿う。
ただし本人のコピーを作るだけで持ち物は複製できない、というのがみやかとしては一番しっくりくる。
であればそもそも“情報を聞き出す”意味がない。知りたければみやか達を、もっと言えば甚夜をコピーしてしまった方が遥かに早い。
「ほんとだ、物陰から覗いて甚をコピった方が早いじゃん。なんでしなかったのん?」
「さあ、そこまでは……」
「えー、みやかぁ知恵貸してよー」
と言われても専門家でないみやかではちゃんとした答えは返してあげられない。
しかし萌は結構本気で縋りついてきているため、これも友達の為と必死に頭を働かせ、思い付くままにあげていく。
「え、と。マガツメの“娘”だから男の人はコピーできないとか、人間じゃないとムリとか?」
「なーる。“やらない”んじゃなくて“やれない”。イイ感じじゃん!」
「そう? でもそうやって色々考えていくと、最後には“なんで来たの?”って話になるんだけど」
ただどれだけ考えても、結局はそこに行き着く。
情報を聞き出す意味はなく、付喪神もコピーできず、萌を殺して“成り代わる”でもない。こうなると偽物の必要性自体が殆どなくなってしまう。
みやかも萌も袋小路に入り込み首を傾げ、分からないなりに議論を交わしていると、気付けば昼休みも終わりに差し掛かっていた。
「やばっ、さっさと食べちゃわないと」
「そうだね」
二人は大慌てで残った食事を片付け始める。といっても大口を開けないのは思春期の少女の羞恥心である。
結局どれだけ話し合っても本当のところは分からず仕舞い。大した実りはなく、食事中の雑談として終わった。
ただみやかは少しだけ気になっていた。
会話の途中、甚夜が口を挟むことはただの一度もなかった。
それは彼も状況を把握できていないからではなく。
戸惑い、何かを躊躇って───
◆
その日を境に葛野市では一つの都市伝説が語られるようになった。
<ドッペルゲンガー>。
自分とそっくりの姿をした分身が現れるというものである。
勿論捏造された都市伝説ではなく、本来のそれとも趣きが異なる。
大筋は“同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す”や“町で歩いているともう一人の自分に出会うことがある”など普通のドッペルゲンガーと変わらない。
しかし噂では“もう一人の自分に出会っても死ぬことはない”らしく、また“偽物であると指摘すれば溶けて消える”という。
桃恵萌の遭遇した鈴蘭なる鬼の仕業だと容易に想像がついた。
ただやはりマガツメの狙いは分からず、甚夜もなにも動きを見せない。
『今回の件は、君達に被害がいくようなことはないだろう』
いつもならば過保護なくらい警戒する彼は、そう言って穏やかな笑みを落とした。
それは事実だったようで、主だった被害は今のところ出ていない。みやか達は勿論、一般の犠牲者も全くなかった。
ただ甚夜は時折、本当時折だが、ふとした瞬間遠くを眺めるようになった。
そういう時、彼は決まって懐かしむような寂寥に沈むような、得も言われぬ横顔をしていた。
「薫はそう思わない?」
「えー、そうかな? いつも通りだと思うけど」
とはいえそう感じていているのはみやかだけで、薫からはいつも通りの「孫に甘いお爺ちゃん」に見えているようだ。
実際彼は殆ど変わっていない。男子達と適当に雑談を交わし、いつものメンバーとも仲良くやっている。萌や柳の話によれば“おしごと”関係もきっちりとこなしているらしい。
勘違いなのかも、と思わないではなかった。
だけど気になってしまうのは多分怖かったからだ。
いつもと変わらない筈なのに、今の彼には、ふらりと何処かへ消えて行ってしまいそうな雰囲気がある。
“瞬きをしたら、もうそこにはいなかった。”
それが最後の別れでもおかしくないような、そんな気がした。
そうして特に被害もないまま、更に一週間が過ぎた。
向日葵や鈴蘭はやはり動きを見せず、甚夜もまた状況を静観。表面上は平穏な日々が続いている。
「ふむ、みやか君は来月より時給を50円上げるとするかの」
一月も二十五日が過ぎ、事務所でバイト上がりのみやかに給料の入った封筒を渡しつつ岡田貴一はそう言った。
時代遅れの人斬りもコンビニ店長が随分板についた。アルバイトであってもよく働く者はちゃんと評価する。
来月の給料アップを告げられたのは、見た目に反して真面目に働き、尚且つ容姿から戻川高校の男子の集客に一役買っている彼女であった。
「え、いいんですか?」
「うむ、功労には報奨があって然るべき。みやか君はよく働いてくれておる」
みやかとしては普通に仕事をしているつもりだった為、そこまで評価してもらえているとは思ってもみなかった。
しかし貴一からすれば問題を起こす学生バイトも多い中「普通に働いてくれる」彼女は中々に貴重。吉隠の件でその気質を買っていることもあり、出来れば今後とも頑張ってほしいというのが偽らざる本音だ。
「ではこれで。この街は物騒、早々に帰るがよかろう」
「はい、ありがとうございます。お疲れ様でした……そうだ。店長、少し聞きたいことがあるんですけど」
意外ではあったが給料アップに文句なんてある筈もない。
お礼を言いそのまま帰ろうとしたが、そういえばこの店長も普通ではなかったと思い出した。
もしかしたら自分の知らないことを教えてくれるかもしれない、期待しながらみやかは問いかける。
「店長って、その。甚夜と知り合いなんですよね?」
「うむ、古い知人よ。かつては多少戯れたこともある」
「へぇ、そうだったんですか……」
その答えに彼女は少しだけ驚いた
前も一緒にお酒を呑んでいたし、戯れ(一緒に遊ぶ)なんて結構仲が良かったらしい。百年を生きる彼の交友関係は改めて聞くとなんだか不思議なものがある。
もっとも実際は戯れ(真剣での斬り合い)であり、友人と呼ぶには若干以上に血生臭い関係ではあるのだが、みやかがそれに気付くことはない。
「でしたら……マガツメって知ってます?」
「現世を滅ぼす鬼神とやらか」
「あ、はい。多分それです」
「聞き及んではおる。夜叉めの因縁に横槍を入れるつもりもないが、楽しげな輩ではあるな」
つまらなそうに貴一は吐き捨てる。
現世を滅ぼす鬼神。なんとも物々しい話であるが、そう言った本人は興味なさげだ。
因縁とやらが何かは分からない。ただ店長の態度を見るに、追及してもその辺りは真面に答えてもらえないだろう。
それでも少しは取っ掛かりを得られたらと思い、みやかは言葉を重ねる。
「最近の彼、そのマガツメについて悩んでるみたいで。店長なら何か知ってるかなと思って」
「なに、気にすることもない。あれは余計な荷を背負い思い悩むが趣味のようなものよ」
「えー……」
真剣な問いはいとも容易く切って捨てられた。
しかも甚夜の扱いはかなり悪い。旧知だからみやかの知らない彼も見てきたのだろうが、ひどい言われようだ。
それでいて悪びれる様子もなく、貴一の手は来月のシフト調整の為小忙しく動いている。みやかの懇願は片手間、完全に話半分だ。表情が曇ってしまうのも当然だろう。
「かっ、かかっ。よくよくあれは子供に慕われる」
空気が漏れるような不気味な笑いを零し、貴一は口の端を釣り上げる。
言い方だけを取れば馬鹿にしているとしか思えないのに、声の調子は心底楽しそうだ。
「そうも心配するならば濁った真似をせずともよかろう。儂はそれなりにみやか君を買っておる……おそらくは夜叉もな。下手を打ったとて大事にはなるまい」
一応、アドバイスだったのだと思う。
本当に心配しているなら回りくどいことはせず直接向き合え、というところか。
確かに正論だ。これ以上手を煩わせるのも申し訳ない。「ありがとうございます」とお礼だけ言ってみやかは事務所を後にする。
それを横目で見送り、貴一は小さく呟く。
「かくいう儂も、濁った真似は終わらせねばならぬか」
コンビニ店長も随分慣れ、中々楽しくは思っている。
レジ打ちしながらの客模様の観察も半ば娯楽のようなもの、今の生活は決して悪くない。
それでも剣に至ると誓った身ならば、刀を否定された平成の世であっても、その在り方は曲げられぬ。
ならば剣の意味を再び問わねばなるまい。
岡田貴一は、マメだらけのごつごつとした手をじっと眺めていた。
◆
バイトが終わると既に夜の九時を回っていた。
都市伝説関連の事件が起こっていた時に萌から貰った沢山の付喪神ストラップは今もちゃんと持っている。
とはいえ夜道が危ないのに変わりはない。怪異も怖いけど女子高生としては痴漢や変質者だって怖いのだ。
立ち並ぶ街灯を横目に歩けば近所のみさき公園へ差し掛かる。
正直この公園にはあんまりいい思い出はない。結構いろんな都市伝説に襲われた場所だ。
さっさと通り過ぎてしまおうと心持ち早足になり、視界の先、街灯の下に人影を見つけてみやかはぎくりとした。
こんな夜中に公園近くで佇む影。いかにも怪しげな雰囲気である。
嫌な想像に肩が震え、けれど照らし出された容貌に安堵の息を吐く。
「ん、こんばんは」
今は藤堂家に居候しているという、ワンサイドの三つ編みが可愛らしい少女。
溜那はどうやらみやかを待っていたらしく、こちらに気付くと小さく手を振っていた。
「こんばんは。……貴女は、溜那さんじゃない?」
「……ん?」
「あ、いえ。なんでもないです」
溜那じゃない、と言ったのはドッペルゲンガーの噂があったから。
曰く「偽者だと指摘するとドッペルゲンガーは消える」。一応確認したが、溜那は不思議そうにしている。つまり本物なのだろう。
気を取り直してどうしたのかと聞けば「ちょっとお話に来た。送ってあげる」とのこと。
急なので驚いたが夜道の護衛としてはこれ以上ないくらいに頼もしい。お願いします、とみやかは快く申し出を受け入れた。
「ところで、お話ってなんですか?」
しばらく帰り道を二人並んで歩く。
幾度か顔を合わせたことはあるし、それなりに交流も持ったが、みやかと溜那は特別仲がいいという訳ではない。
沈黙に耐えかねてみやかの方から話を切り出す。
外見は中学生くらいだが溜那の方が年上、自然と敬語になってしまう。傍目には奇妙だろうが今更だ、違和感はそれほどなかった。
「安心した」
返ってきたのはよく分からない呟きだ。
「え?」
「大丈夫そうだから」
確か、以前も彼女は同じようなことを言っていた。
もしかしたら“かんかんだら”の件で気に掛けてくれているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
意味を問い質そうとすれば、溜那の弾んだ声に言葉を奪われる。
「ほんとは、あなたはじいやを傷つけると思ってた。だからできれば傍にいてほしくなかった」
否定はできない。
みやかは白峰八千枝の死は彼のせいだと責めようとしてしまった。
口には出さなかったとしても、そう考えてしまった時点で彼女の指摘は正しい。
溜那はかつて甚夜に救われた。ならば彼を煩わせるみやかの存在など疎ましく思って当然だろう。
けれどこの年下にしか見えない幼気な女性は、同じ女でも見惚れてしまうくらい綺麗に、ふうわりと優しく微笑む。
「でもちがった。じいや、言わないけど喜んでた」
だから安心した
他ならぬ貴女が───いつきひめが彼は間違っていないと肯定してくれた。
ならもう大丈夫と、そう思えたのだ。
「溜那さん……?」
「ありがと。それだけ言いたかった」
何を伝えたいのか、みやかにはよく分からない。
元々溜那は言葉数が少なく飛び飛びに話すし、甚夜の過去をあまり知らない少女では想像で補うのも難しい。
ただその短いお礼が心からのものだということくらいはちゃんと受け取れた。
「できたら、じいやのことよろしく。今はあなたが一番支えられると思う」
「そんなこと……」
みやかは寂しそうにそれを否定した。
萌や溜那のように戦えない。薫や麻衣のようにまっすぐに心配してあげられない。
おふうのようには、なれない。
そんな小娘に何ができるというのか。
そう思うのに、目の前の彼女はやはり優しくて。
「いつきひめは始まりだったから。最後の最後に背中を押してあげられるのは、きっとあなた」
背中を押したのは寧ろ溜那の方だ。
微笑みと共にみやかの心は軽くなり、言葉もなく歩き、気付けばもう自宅。
そうすればおしまい。じゃ、と短く挨拶、あまりにも軽い調子で去っていく。
ただ途中、思い出したように振り返って彼女は言う。
「べつにじいやをあげるわけじゃないから。勘違いはしちゃダメ」
にっと笑う溜那に、思わずみやかも笑顔になってしまった。
自宅に戻ったみやかは夕食を取り、お風呂に入り、寝る準備を整えてベッドに横たわった。
日付がそろそろ変わりそうな時間。手には携帯電話が握られている。
“いつきひめは始まりだったから。最後の最後に背中を押してあげられるのは、きっとあなた”
その意味を多分理解できていない。
いつきひめとはいえ何も知らない彼女ではそれも当然だ。
本当は劣等感を抱いていたのだと思う。
十代目秋津染吾郎や長くを生きる花屋の店主と違い、名前ばかり大仰で特別ではない自分を卑下していた。
けれど溜那は今の甚夜を支えられるのはみやかだと言ってくれた。
だから深呼吸。大きく吸って、吐いて。心を落ち着け気合を入れて、手にした携帯を操作する。
カ行。カチカチと電話帳を送り、お目当ての番号を選択。
かけるのは初めてでもないが、なんだかやけに緊張する。
三度四度、響くコールがそれを煽っているようだ。
更に二度鳴りようやく繋がった。
『みやか?』
葛野甚夜。
クラスメイトで、百歳を超える鬼で、いつも助けてくれて一番仲のいい男子で。
そういう彼は普段通りのトーンで電話に出た。
「あ、ごめん。もう寝てた?」
『いや大丈夫だ。それで、どうした?』
「え、と」
改めて聞かれるとちょっと困る。
どうした。そういえば、実際どうしたかったのだろうか。
取り敢えず話さなきゃとは思って電話を掛けたはいいが、それ以降のことは全くノープランだった。
『……なにかあったのか?』
「え、あ、違う。そうじゃない、んだけど」
甚夜の声が一段低くなった。確実にみやかの身を案じて、である。
やばい、本当にどうしよう。みやかは余計に慌ててしまい、目まぐるしく頭を回転させる。
どうしたい? それは勿論最近悩んでいるみたいだから力になりたい。
その為には、まず話を聞かないと。話を聞くには場を設けないと。
ならまずは会うところから?
幸い明日は土曜日で学校が休み。遊びにかこつけて誘って話し合いだ。
そうだ、それだ。
自身のひらめきにみやかは意気揚々と、しかし慌てているせいか熟考せずに。
「そ、そう! 明日デートしない!?」
気付けば、そんなことを口走っていた。




