表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼人幻燈抄  作者: モトオ
江戸編
19/216

『貪り喰うもの』・5(了)




 ずっと探していた。




 誰かを。誰を? 分からない。でもずっと探していた。

 探す途中で男を見つけた。殺した。男は男というだけで殺さなくてはいけないのだと思う。だから見つける度に殺してきた。

 理由は分からないけど、殺さない理由もない。

 それに殺すと気分がすっとするから私のやっていることは間違いではないんだろう。

 きっと私はあいつ等を殺すために生まれてきたんだ。訳もなくそう思った。


 でも、昨日だけは違った。

 男を殺したのにすっとしなかった。

 もやもやする。いらいらする。


 だから私はまた町に出かけた。

 そして、ずっと探してる。

 誰かを。誰を? 私は、誰かをずっと探している。早く行かなきゃ。帰らなきゃ。

 帰る? 何処に? 何も分からない。


 でも一つだけ分かった。

 私はこのままじゃ帰れない。だから今夜も女を攫った。女は生かしたままねぐらに連れていく。食べるためだ。

 おいしいとは思わない。けど女は食べないといけない。だって私には“これ”が足りない。

 いっぱい集めていっぱい食べて、早く帰らなきゃ。


 攫った女を連れて廃寺まで戻ってきた。広い本堂に攫った女を落とす。遊女なのだろうか。

 随分と派手な着物を着ている。確か、夕凪とか呼ばれていた。

 まあ名前なんてどうでもいい。早く食べよう。いっぱい食べて、帰るんだ。何処に?

 それはやっぱり分からないけど。私は帰りたい。男を殺すのも女を食べるのもそのため。はやく。私は帰るんだ。


 早く、速く、ハヤく、卂く、はやく。誰よりも何よりも疾く、あの人の下に帰らなきゃ。 

 そのために。

 今はまず攫ってきた女を早く食べないと……





「既に見つかった塒に戻る。獣の姿をしていると思えば頭の方も獣並みか」





 鉄のように冷たい声が響いた。

 虚を突かれ、目を見開いて振り返るがそこには誰もいない。

 気のせい? まさか。確かに声が聞こえた。今この本堂には私以外の誰かがいる。

 

 ひゅっ。


 音が鳴ったその時には、腕が落とされていた。


『あ…おぉ……』


 いきなり腕が落ちた。なんで?分からない。痛い。痛い。痛い。何が起こっている?

 

 待て、これは。


 ああ、そうだ。私は知っている。

 姿を消す<力>。それは昨日襲いかかってきた鬼が持っていたものだ。

 殺したつもりだったが生きていたのか。

 何故か心が浮き立つ。よく分からないが、多分殺し損ねた男をもう一度殺す機会が巡ってきたからだろう。


『ああああああああああああああああっ!』


 四肢に力が満ちて弾けるように私は走る。

<疾駆>───誰よりも疾く駆け出すための、私の<力>。

 相手が何処にいるかは分からない。でも、いるのは分かっているのだから爪を振り回していればいつかは当たる筈だ。

 だから私は駆ける。床を壁を天井を、何もない空中すら蹴って縦横無尽に本堂を駆け回りながら爪を振るう。

 

「やはり速い。宙さえ足場にできる<力>……なかなかに厄介だな」


 すぐさま声の方に突進する。だが空振りに終わった。

 でもいい。いつかは当たる。あの男では私を捉える事は出来ない。この勝負、最初から男には勝ち目がないのだ。

 走り、ただ爪を振るう。当たらない。何故? 狭い本堂。逃げる場所は何処にもないはずなのに。


「だが今度は二人掛かりだ」


 今度は本堂の奥で声が聞こえた。睨みつければ、そこには一人の男が。

 しかし姿を現したのは昨日の鬼とは違っていた。


 六尺ほどの体躯。

 肩まであるだろう髪を大雑把に縛っただけの髪型。

 その手には太刀、藍の小袖を纏った姿は乱雑な髪型も相まってただの浪人にしか見えなかった。

 だが、その男もまた人ではない。

 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。

 そして白目まで赤く染まった異形の右目をもった鬼だった。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面のようなもので覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。

 それは確かに、あの時の鬼が持っていた特徴で。


『お前モ…喰ッた……?』


 そうか。こいつは昨日の鬼を喰って自分の<力>に変えたんだ。

 それを理解し、私は何故か激昂する。絶対に、こいつは殺さないといけない。目には際限ない憎悪。ただ殺す。今はそれだけ考えていればいい。

 全速で駈け出す。だけどまた鬼の姿が消えた。


 今度は何処に? 関係ない。このまま一直線にあの男を殺す。

 空振り。逃げられたのか。いや、あの男よりも私の方が速いのだから逃げられる訳がない。

 何処に消えた。振り返ってもう一度走り出そうとして。


 なのに、動けない。


 急に足が動かなくなった。

 走る激痛。違う。足が動かなくなったんじゃない。動くも何も、私の足はなかった。

 床にある。駆け出すために必要な足が無造作に転がっている。なんで? 


「<隠行>……それがお前を討つ<力>の名だ。憎しみに囚われなければ、茂助の刃はお前に届いていたのだろう」


 耳元で声が聞こえた。

 そして気付く。

 この男は逃げたんじゃなく、ほんの少し体をずらしただけ。ほとんど動いていなかった。

 昨日の鬼と違い、私の攻撃をちゃんと避けていたんだ。

 それに気付かず、私はまんまと相手の間合いに飛び込んでしまった。

 私は振り向きざまで体を崩してしまっている。

 対して男は私の事を待ち構えていた。

 つまり逃げられないのは────




「これで終いだ」


 熱い。刃が体を引き裂く感触。






 ───私の、方だ。




 ◆




 袈裟懸けに鬼の体躯を斬り裂き、<隠行>を解く。

 甚夜はもともと人でありながら、鬼を幾体も葬ってきている。

 脆弱な人の身では鬼の攻撃を一度でも受ければ致命傷となるため、全ての攻撃を避けねばならない。

 そんな綱渡りの戦いを経てきた彼であっても此度の鬼は厄介だった。もしも真正面から尋常の勝負を挑んでいたら、後れを取ったかもしれない。

 しかし今の甚夜には姿を消し気配を隠す<力>がある。

 厄介ではあるが相手はただ速いだけ。戦いに慣れている訳でもなく、こちらの位置が分からなければ打つ手立てはない。この結果は至極当然だと言える。

 

 先程までの戦いで寺の本堂は埃が舞い上がり床や壁、天井までも踏み抜かれ見るも無残な状態だった。

 血払いをして、愛刀である夜来を鞘に納める。そうして白い蒸気を発しなら伏す鬼を見下ろし甚夜は問うた。


「もし私の言葉が分かるなら、一つ教えてくれ」


 息も絶え絶えという状態で鬼は体を起こす。

 赤い瞳が己に向けられる。そこに憎しみはなく、虚ろで焦点が定まっていない。抗おうという気概は感じられなかった。


「私は初めに聞いた。此度の辻斬りでは『死体の数が合わない』と」


 辻斬りに殺された者は引き裂かれたように無残な死体で発見される。

 だが死体の数が合わない。

 死体の数と行方不明者の数が一致しないため、いなくなったものは攫われたのか、神隠しにあったのか分からなかった。

 だから死体の傷のこともあり、犯人は鬼ではないのかという噂が流れた。


「だが茂助は言った。『妻の死体が発見された』と」


 それはおかしい。

 たとえ攫われたとしても、後に発見されるのであれば『死体の数は合っている』。

 店主と茂助の言は矛盾していた。だがどちらかが嘘をついたということもない筈だ。店主が嘘を吐いても利はないし、鬼は嘘を吐かない。

 ならばこれはどういうことだろう。


「茂助が言うには、お前は此処で女を喰っていた。ならばお前が辻斬りであることは間違いない。間違いないが……」


 そもそも、この鬼は女を喰っている。

 ならば女の死体が残る筈はない。だが現実として茂助の妻は性的暴行を受け死体として発見された。

 つまり、誰も嘘を吐いていないと仮定して、矛盾なく解を導くならば。


「辻斬りと茂助の探していた仇は別の存在と考えるのが自然。さて、お前は何者だ?」


 この鬼は茂助の妻を殺していない。

 茂助の妻が攫われたのは一月前、発見されたのはその十日後。

 しかし辻斬りの噂が流れたのはごく最近だ。とすれば、最初にいた『男を殺し女を攫い犯す』辻斬りはいつの間にか消え、『男を殺し女を攫い喰らう』辻斬り、即ちこの鬼が犯行を引き継いだ、という事になる。

 ならば最初の辻斬りは何処に消え、そしてこの鬼は何処から現れたのか。

 しばらくの間、甚夜は鬼の返答を待った。沈黙は続き、どれくらい経っただろう。


『から……ダ…………』

 

 鬼はぽつりと呟いた。


『から…ダが……なイと』


 しかし出てきたのは意味の通じない言葉。知能が低いのか、要領を得ない呻きだけを上げている。

 そしてまた口を噤み再び沈黙の時間が訪れた。これ以上問い詰めても答えは返ってこないだろう。

 ふぅ、と一度溜息を吐く。


「最後に名を聞いておこう」


 答えるかどうかは分からないが今一度問う。

 かつて相手の名も聞かずに斬り殺し後悔したことがあった。以来甚夜は討つ相手には出来るだけ名を聞くよう心掛けている。

 奪うなら背負う。彼の流儀だ。


『は……つ………』

「はつ……。それがお前の名か」


 たどたどしく、それでもなんとか鬼は答えた。

 胸に刻み込む。

 己が踏み躙った命だ。抱えて往くのがせめてもの礼儀だろう。

 転がる鬼の首を左手で掴み、そのまま己の視線の高さまで片腕で持ち上げる。


『あ……』


 鬼は小さく声を上げた。無貌の瞳はただ甚夜を見詰めている。そこには憎しみも恐怖も見て取ることは出来ない。

 それが辛かった。これから行うのは辻斬りよりも遙かに下衆な所業だ。憎んでくれた方がよかった。


「先程お前は問うたな。喰ったのか、と」


 無表情。何も感じていない訳ではないがそれでも感情を外には出さない。

 これは己が成すと決めたこと。ならば苦渋の念を外に漏らすのは逃げだ。

 自分も苦しいのだから許してくれと言い訳をすることに他ならない。だから決して表情は変えなかった。


「その通りだ。お前が女を喰うように、私は鬼を貪り喰う」


 本当は途中から気付いていた。

 にも拘らず、茂助の仇ではないと分かっていながらお前を斬ったのは、この瞬間の為。


『がっ……!?』


 どくり、と。

 左腕がまるで心臓のように脈を打つ。白い蒸気を上げながら消え往く鬼は刀傷とは別の痛苦に悶えた。


「お前の<力>……私が喰らおう」


 元々甚夜の左腕はそういうもの。

 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。

 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>だ。


『あがっ……ぎゃ』


 喰われている。

 鬼はそれを理解した。自分の中の何かが流れだしている。

 あのよく分からない男は自分の肉をその左腕から取り込んでいるのだろう。理解し、しかし抗う術などある筈もない。


「<疾駆>……一時的な速力の向上。発動の瞬間は空中であっても“蹴って”走り出すことが出来る。成程、使い易そうだ」


 鬼の持つ知識が甚夜の中に入り込んでくる。

 異形の左腕が持つ<力>は<同化>。

 他の生物を己が内に取り込み、同一の存在へと化す<力>。それ故に、“繋がっている間”は喰らわれる者の記憶や知識に多少なりとも触れることが出来る。

 鬼の記憶が断片的にではあるが左腕から伝わってきた。

 

 どうやら生まれてからまだ間もない。

 普通、鬼は百年を経ることで固有の<力>を得るが、稀に生まれながら<力>を備えたものも存在すると異形の左腕の持ち主が言っていたことを思い出す。

 記憶は更に入り込む。

 そして辿り着く。

 この鬼が何者かという答えに。



 まず飛び込んできたのは眩暈を起こす程の恐怖だった。



 二人の男に女が襲われている。


 服を破られ、口を押さえられ。


 為す術もなく犯された。


 肌に触れる手の感触。


 貫かれる痛み。


 聞こえる男の笑い声。


 人ではなく、女ではなく。


 欲望を満たすための道具として使われる。


 最後には命を奪われ川へ捨てられた。 

 そこで終わり。

 否、この鬼が人であった頃の記憶が終わった。

 去来する絶望。湧き上がる憎悪。

 死んだ体だけを残し、女の想いは鬼となった。


「そうか、お前は」


 元々は男に犯され殺された一人の女、正確に言うならば彼女の遺した恨み。

 死に往く女が残した絶望と憎悪が凝固し生じた鬼だ。


 彼女は『男』を殺す。

 憎しみに囚われ自我を失った彼女にとって、自分を犯した『男』も関係の無い他の男も同じに見えていたのだろう。

 彼女はいつまでも自分を犯し殺した『男』を探し、見つける度に殺してきた。

 探して見つけて殺してまた探す。

 そんな事をずっと繰り返してきた。


『探さなきゃ』


 そして彼女は『女』を喰らう。

 それは一種の帰巣本能だったのかもしれない。

 肉体を残し想いだけが鬼と化した。だが彼女は人に、打ち捨てられた自分に戻りたかった。

 しかし彼女に残されているのは想いだけ。肝心の体がない。それでは戻れない。

 彼女は考えた。

 体がない。なら、代わりを集めればいい。

 自分が失ってしまった『女』の体を彼女は求め続ける。

 年若い女を見つけて攫い、食べることでなくなった体を補おうと考えた。

 食べて食べて、食べ続けていればいつか、失った女の体をもう一度取り戻すことが出来ると。そんな事を想ってしまったのだ。


『帰らなきゃ』


 だから『男』は殺し『女』を攫って喰った。

 起因する感情。

 鬼の心は「帰りたい」という想いで満たされていた。

 何処に帰りたかったのかは分からない。だが鬼となった身では帰れないと知っていたのだろう。

 帰る為に、憎むべき『男』を殺し、『女』の姿を取り戻したかった。

 これが男を殺し女を喰らう辻斬りの正体。

 つまりこの鬼は。


「お前はただ、帰りたかっただけなのだな」



 かつて在った幸福に。

 いつかは、もう一度帰れると信じていた。



 そんなこと、出来る訳がないのに。

 失ったものは失ったもの。たとえどんなに願ったとしても戻ることはない。当たり前の摂理、しかしこの鬼はかつての幸福を求め続けた。

 それが悲しくもあり、同時に羨ましくもあった。

 

 いっそ、彼女くらい壊れてしまえた方が楽だったのかもしれない。


 同じく過去に引き摺られて生きる身だ。そう思わなくもない。

 胸に宿るのは憐憫か、それとも羨望か。自分でも把握しきれない感情が、甚夜の胸中で渦巻いている。


『……なンで?』


 気付けば、赤の瞳は揺れている。


『あナタハ……なンで? 鬼を食べテ、そレで……どウスル……の?』


 それは皮肉ではなく、純粋な疑問だった。

 自分は人に戻るために喰い続けた。ならばこの男は何故鬼を喰うのか。

 彼女には甚夜が理解できない化け物に映っているのだろう。眼には僅かな悲しみの色がある。


『あ…あぁ……』


 だがそれも長くは続かなかった。

 彼女の意識はすぐにでも消え去ろうとしている。苦悶の表情でそれでも譫言のように呟く。


『早く……ハヤく…探さナきャ……帰ラなきゃ……』



 あの人の、所へ。



 最後に、そんな言葉だけを残し。

 鬼は完全に消え去った。





 本堂に残されたのは甚夜一人。

 自分の右手を眺める。肌の色が浅黒い、鉄錆のような褐色に変化していた……恐らくは全身が。

 今の鬼を取り込んだ為だ。また一つ取り返しのつかないところへ踏み込んでしまった。

 寒々しいまでに静寂が横たわる本堂。それがいつかの情景と重なったせいだろう。古い記憶が蘇る。



『人よ、何故刀を振るう』



 遠い昔、鬼が投げ掛けた言葉。

 今も尚その問いに返す答えはなく。

 歳月を重ねる度に斬り捨てたものだけが増えた。


「どうするの、か」

 

 憎悪はまだこの胸に在る。

 それでも鈴音を許したかった。

 人として彼女を止めたい。

 だからこそ止めるだけの力を欲して。

 その為に他者の願いを踏み躙り、次第に身体は鬼へと変わっていく。

 刀を振り下ろす先は未だ見つからない。


「本当に、私は一体どうしたいのだろうな」


 自嘲の笑みが漏れた。


 白雪。

 こんなことばかり繰り返して、本当に私は答えを見つけられるのだろうか。


 答えるものは誰もいない。

 気付けばいつも一人だった。




 ◆




 数日の後、茂助が住んでいた裏長屋を訪ねた。

 いつものように人の姿へと戻れば右目や浅黒い皮膚は肌色に戻っていた。人の中で暮らしていくことには問題なさそうである。

 右手には酒瓶がある。手土産に買ってきた下りものだ。

 酒瓶を持ってきたことに別に意味が在った訳ではない。ただ何となく彼の住居を訪ねるならば必要だと思った。

 辿り着いた長屋の一室。

 引き戸を開ければ狭い室内は以前のままで放置されている。

 あまりに以前と同じせいで、少し経てば茂助が「おや、甚夜さん。いらっしゃい」と朴訥な笑みで現れるような気さえした。


「おや、お兄さん。茂助さんの知り合いかい?」


 驚愕に振り返る。

 まさか本当に、と思って見れば声をかけてきたのは茂助とは似ても似つかぬ女だった。

 年の頃は三十半ばか。でっぷりと肉のついた、恰幅のいいお母さんといった印象である。

 

「ああ、一応は」

「ここ数日帰ってきてないんだけど、どこに行ったか知らないかい?」


 真実を告げる訳にもいかず目を伏せる。

 それを「知らない」という返答だと取ったのか、女は唸って息を吐いた。


「そっか……お初さんが亡くなってから随分沈んでたからねぇ。変な事になってなきゃいいけど」

「はつ?」


 その名前に疑問を浮かべると、すぐに女は教えてくれた。


「え? ああ、知らなかったのかい。お初さんは茂助さんの奥さんの名前だよ。二人は長屋でも有名なおしどり夫婦だったんだ」


 そう言えば、妻の名前は聞いていなかった。

 しかし、“はつ”。どこかで聞いた覚えがある……などと、とぼけても誤魔化せない。その名はあの鬼と同じだった。


「お初さんはそりゃあもう茂助さんにべた惚れでねぇ。世間話をしてる途中でも『早く茂助の所に帰らなきゃいけないから』って切り上げて帰っちゃうような娘だったんだよ。それなのに、あんなことになっちまって……。あ、ごめんね。変な事を聞かせて」

「いや」


 あんなこと、というのは犯され殺された事実を指しているのだろう。

 はつ。犯され殺された女。嫌な符合だ。

 そして思い出す。

 探さなきゃ。帰らなきゃ。何度も鬼は呟いていた。

 甚夜は鬼が探していたのは、自分を犯し殺した男だと思っていた。

 しかし、もしかしたらそれは間違いなのかもしれない。

 本当は探していた者も帰らなくてはならない場所も同じだったのではないか。


 あの鬼が本当に探していたのは。

 自分を殺した男などではなく─────


 いや、詮無きことだ。どうせ分かったところで出来ることなど在りはしない。

 失われたものは失われたもの。過去に手を伸ばしたとて成せることなど何もない。


「ところで兄さん、それは?」と手にした酒瓶を指して、女は不思議そうに小首を傾げた。

「酒だ。本当は、茂助と呑みたかったのだが」


 誤魔化しでなく本心だった。

 結局、此処に訪れたのはそういう理由だ。

 自分で思っていた以上に茂助との関係が気に入っていたらしい。僅かな未練を満たすために態々こんな場所まで来る程度には、彼と呑む酒は旨かった。


「そうだな……初殿の墓前に添えてやって欲しい」


 だからだろう、気付けばそんなことを口走っていた。


「へ? 別に初さんはお酒が好きってこともなかった筈だけど」

「いいんだ」


 不思議そうな表情を浮かべる女。

 甚夜は首を横に振り、ほとんど無理矢理酒瓶を押しつける。

 自らがその身を喰らった。茂助が戻ってくることはもうないと知っている。

 誰も茂助の最後を知らない。墓を建てられることもないだろうから、せめて妻の墓に好物を預けておこう。

 己に喰うことが出来るのは体と<力>のみ。

 彼の想いはまだ現世に留まっている。

 だとすれば、いつかきっと彼は妻の下に辿り着く筈だ。


 帰らなきゃ、と。

 初がずっと思い続けていたように。

 茂助の想いもまた彼女の傍へ還ってくるだろう。

 

「折角の下りもの、喜んでくれるといいのだが」


 くだらない感傷だ。

 そんな夢想で救われるのは茂助でも“はつ”でもなく己のみ。

 理解しながらも、甚夜はそれを止めなかった。

 夢想ではなく願いだったのかもしれない。

 せめてそうであってほしいと。想いくらいは最後まで妻の傍に在って欲しいと強く願った。


「悪いが頼んだ」

「え、ちょ」


 小さく落とすように笑い、甚夜は踵を返す。そうして振り返ることもせず裏長屋から離れた。

 歩き出せば春の陽気に目が眩む。

 暖かい日差し。冬の名残はいつの間に姿を消して、穏やかな春の日が江戸には横たわっていた。


「では、な。茂助」


 口ずさむように別れを告げる。

 短い期間の交友だったが悪くはなかった。

 月を肴に呑む時は思い出すこともあるだろう。


 かつて私には酒を旨くしてくれる、呑み友達がいたのだと。






 鬼人幻燈抄 江戸編『貪り喰うもの』・了








 宵闇に闊歩する二つの影があった。


「おい、もうそろそろほとぼり冷めたろうし、次はどうするよ?」

「ん、ああ、もっと若いのを狙ってみるか?」


 にやにやといやらしい笑みを浮かべながら二人の男は言葉を交わす。それはどれも不穏当なものばかりである。

 彼等は以前女を攫い無理矢理に犯したことがあった。

 だが岡っ引きに捕らえられることもなく、今も普通に生活を続けていた。


「しかし馬鹿が多いな。なんでも今回の件は鬼が犯人で女が消えるのは神隠しっていう噂が流れてるらしいぜ」

「そりゃあいい。つまり俺らが何をしてもそれは鬼のせいってことだろ? まったく鬼さまさまだな」

「ちげぇねぇ」


 下品な笑い声が上がる。

 悪辣な行いを顧みることもしない下種。

 いつの時代にも、こういった輩はいる。


「結局どうすんだ」

「俺は前の感じが良かったけどなぁ。やっぱ旦那もちが良いよ」

「けっ、趣味悪ぃなぁ」

「いいじゃねぇか。身持ちの堅い女を無理矢理ってのがいいんだよ。なんつーか征服感があるっての? その点、前の女は最高だった。最後まで旦那の名前を呼んで抵抗したからな。『茂助、もすけぇ』……って………」


 最後まで言い切ることは出来なかった。

 それよりも早く、彼の首が切り落とされ地に転がったからだ。


「………………え?」


 何が、起った?びゅうと風が通り抜けたかと思えば、隣を歩いていた男の首が落ちた。

 なんだ? なんなのだこれは?

 辺りを見回しても誰もいない。なのに首は鋭利な刃物で切り落とされている。

 恐怖。

 人は理解できないものを恐怖する。

 男もまた理解できない何かを前にして、恐れ戦いていた。


「う……うわぁっ……………あ?」


 そして叫び声を上げようとしたが、それも遅い。

 気付けば自分の体もいつの間にか切り裂かれている。

 痛い。焼ける。誰もいない。

 誰もいない筈なのに。なのになんで?



「茂助、お前の願いは確かに果たしたぞ」



 最後にそんな声を聞きながら、男は仰向けに倒れる。

 

 どすり。


 胸には短刀が墓標のように突き立てられた。






 


 江戸の町を騒がせた辻斬りは、この二名の被害者を最後にぴたりと止まった。

 結局犯人は分からず仕舞い。

 被害に遭い姿を消した者達も見つからず、何の解決も見せずに辻斬り騒動は幕を下ろした。

 この事件は鬼や神隠しの噂もあり、犯人が最後まで分からなかったため、一種の怪談として取り扱われた。

 江戸後期の書物、『大和流魂記』には今回の件が僅かながら記されている。

 姿の見えぬ辻斬りが人々を斬り落としていく『寺町の隠行鬼』という怪談は、後の世まで長く語り継がれていくことになる。

 その真実を、誰にも知られぬまま。



 

 そしてまた時は流れる。

 春は終わろうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ