『終の巫女』・2
大正時代、娯楽の王様として持て囃された活動写真。
その前身の一つは、“見世物小屋”だった。
時代とともに廃れていった古い時代の娯楽である。
◆
はにわり(両性具有・ふたなり)は、かつて神に近しきものと崇められた。
男でもあり女でもある。男でもなく女でもない。
実存の性から逸脱した特質は、古来日本では尊きものだと信じられたからだ。
またその特性から、神降ろしを行う巫覡に最も相応しいとされる。
はにわりはあらゆる神性をその身に降ろせる器であり、取りも直さず現世に神仏の加護を伝える使者であった。
『ボクは嫌いなんだ。人が死んだり、誰かを憎んだりとか、そういうの』
どれくらい昔のことだったか、もはや本人にさえ分からない。
吉隠もまた、かつては神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝える、古き時代のシャーマンだった。
地方の農村に生まれた吉隠は、はにわりであった為、否応なく神和となる。
与えられた使命に疑いはない。
彼の者は村の繁栄のために、祀られた竜神へ祈りを捧げる。
日本における竜神信仰は、中国に伝わる想像上の霊獣である龍とは関連性が薄い。
信仰の要たる竜神はいわゆる龍やドラゴンではなく『ミヅチ』、つまりは蛇の神格化である。
ミズチは水の主。
故に日本の竜神は水神としての性格を持ち、水を司ることから農耕生産と強く結びつく。
かつて河川の氾濫は神の怒りであり、雨は天の恵みとされた。
大地を押し流す水の暴威も作物を育てる水の慈悲も、共に神意の賜物。
洪水や雨は、取りも直さず竜神の御業。
ならばこそ巫覡は竜神と通じ、荒れ狂う河川を鎮め、作物を育てる雨を祈る。
即ち吉隠は、治水と滋雨を司るミヅチの巫女であった。
『……ボクには祈ることしか出来ないけれど。だからこそ、少しでもみんなが幸せであれるように祈れる自分で在りたいと思うよ』
人々は優しく美しい巫覡を敬い、もたらされる神意に感謝し、日々を懸命に働く。
吉隠もまた人々を愛し、彼等の為に祈りを捧げる。
絢爛とは程遠いが、村は穏やかに栄えていく。
そこには、完成された小さな世界が確かに存在していた。
しかし完成された世界は小さいが故に、大きな流れに呑み込まれる。
明治に至り地租改正が行われ、地券制度(土地の所有者を明確にする制度)が導入された。
土地の所有者が確定することで、地価という概念も生まれる。
所有物となった土地は売買が自由となり、貧乏な農民の多くは土地を手放し、それを買いあさるだけの財力を持った一部の地主が絶対的な権力を得た。
今迄の農村の在り方そのものが変化し、近代化に伴い様々な技術・知識が流入する。
新しきが増えれば、古きの中には不要なものも出てくる。
在り方の変わった小さな世界。
一部の地主は権力を得て、近代化とともに欧米諸国の知識を吸収し。
結果、この農村において必要なしと切り捨てられたものは。
祈りで雨を降らせるなどという馬鹿げた存在だった。
『神に祈った所で雨など降る訳がない』
『何故あのようなものを祀り上げていたのか』
科学技術の発達は、神への畏敬を薄れさせる。
神が価値を失くせば添う者もまた然り。人々の為に祈りを捧げた巫覡は、新しい時代に切り捨てられ、その立場を追われることとなる。
大多数の意見は関係ない。例え擁護する意見を持つ者がいたとしても、地主がそう言った以上、その農村において蛇の巫覡は信じるに足らぬ。
結果として吉隠は、生まれ育ち、心から愛した故郷の民にいとも容易く捨てられた。
『……あはは。住むとこなくなっちゃったや』
それを責めはしないし、庇ってくれなかった民を憎むこともない。
信じて貰えなかったのは寂しいけれど、仕方がないとも思う。
最後の温情だったのか、吉隠は危害を加えられることもなく放逐された。
或いは、関わり合いになりたくなかったのか。
何十年と巫覡として在った。にも拘らず、吉隠の容姿はいささかも衰えていない。
父も母も只の人間だった。しかし、遠い祖先にあやかしでもいたのだろう。吉隠は生まれながらに人より優れた身体を持ち、歳を殆ど取らなかった。
今迄は、神に仕えるが故。竜神の加護だと持て囃された。
神が信じられなくなった新しい時代では、男でも女でもなく、老いもしない吉隠は気色の悪い化け物でしかなかった。
村を追いだされ、けれど行く当てはない。
祈る以外のことをしてこなかった。生きていく術など何も知らない。
けれど強盗や略奪を是とするには良識が在り過ぎて。
どうしようもなくなった吉隠は、道行きの途中で倒れた。
『このまま、死んじゃうのかな……』
やだな、死ぬのはやっぱり怖いや。
あったかいごはん、食べたいな。
そういえばしばらく誰とも喋ってない。
ボク、なにか悪いことしたのかなぁ。
朦朧とした意識、とりとめのない考えばかりが浮かぶ。
はにわりとして生まれ、人々の為に巫覡となった。
神に近しい存在と崇められてきたから、人のする仕事に携わったことはなかった。
こうなるのも当然だと力なく笑い、次第に意識は薄れ。
そうして、全ては終わってしまった。
僅かに残る意識の中、倒れた体を担ぎ上げる誰かの存在に気付く。
誰だろう。助けてくれたのかな。
顔を見ようにもそれだけの力は残っておらず、吉隠はそのままそいつに連れ去られた。
ここで話は始めに戻る。
大正時代、娯楽の王様として持て囃された活動写真。
その前身の一つは、“見世物小屋”だった。
ヘビ女やタコ女といった奇妙なもの、動物の曲芸などの珍しいもの、鬼やカッパのミイラなど。普段は見られないものを見せてくれる、歴史の古い娯楽だ。
見せる演目は数多い。近代化を経て、舶来の文化を紹介したり、海外の珍獣を見せたりといったことも増えて行った。
その中には、欧米諸国からもたらされた、初期の活動写真も含まれている。
中でも密かに人気を博したのが、“まっとうではない”演目だ。
例えば奇形(障害者)や性行為、動物の殺戮。
趣味の悪い見世物は、下卑た好奇心を満たしてくれる。
近代化が進む日本。時代が変われば人の感性も変わり、けれど変わらないものもある。
不変の真理。
普通ではない誰かを大勢で見下し馬鹿にするのは、とても楽しいことなのだ。
『え。ここ、どこ……?』
昏い部屋に閉じ込められた吉隠は現状を理解できず、おろおろと視線をさ迷わせる。
薄暗くてよく周りが見えない。それに、変な匂いがする。後は、ざわめくような声が周りから聞こえて。
それを疑問に思う間もなく、ゆらりと人影が三つ。
無言で近付く男達に、思わず後ずさり。しかしその歩みは止まらず、男達は吉隠に手を伸ばした。
『やめ、やめて……近寄らないで』
……見世物小屋は、珍しいものを見せてくれる娯楽。
何度も言うように、奇形や性行為さえも演目となる。
はにわりは男としての性と、女としての性と兼ね備えた特別な存在。
その上、鬼の血を持つが故に、中性的で美しい容姿が衰えることはなく。
『やだ、いやだよぉ…………!』
つまり吉隠は、極上の見世物であった。
『いやだ、触るな。やめろ、やめてくださいぃ』
人の為に祈りを捧げた巫覡は、人を楽しませる為の玩具へと変じた。
小屋にはいくつも覗き穴が開いている。毎日毎日、繰り広げられる饗宴を見に名も顔も知らぬ誰がやってきた。
『お願いです。もういやなんです。やだ、気持ち悪い。やめて。触らないで。痛いよ、そんなの無理。そっちは違う。ごめんなさい許して下さいぃ、おねがいです。見てるなら、お願いだから助けてよぉ……!』
男に犯された。女ともまぐわった。
はにわりだ。男だろうと女だろうと、どちらでも“いける”。小屋の方からすれば有難い演目、客にとってもたまらなく面白い見世物だ。
体にまとわりつく気色の悪い感触。
すえた臭いは汗と、他の液体。
続けばどうしても反応は鈍くなる。
叫び疲れて、声も掠れて。
『だれか、たすけて……』
絞り出した願い。
だけど覗き穴から注がれる視線は、吉隠の苦悶を心底楽しんでいて。
その眼が怖い。
人を愛して、人の為に祈って。なのに人は苦しむボクを見て喜んでいる。
勿論、彼等があの農村の人々ではないのだと知っていた。
それでも好奇に満ちた目で見据えられると心が軋む。
今迄の在り方を否定されたような気がして、いつしか助けを求めることもなくなった。
祈り続けた毎日は嬲られる日々にすり替わる。
けれどそれも慣れた。
歳月が過ぎれば大抵は日常の範疇に納まるものだ。
巫覡であった過去も、見世物となった今も然程変わらない。
実際どれほどの違いがあるというのか。
はにわりであったが故に巫覡となった。
はにわりであったが故に見世物となった。
どちらも自身の意思ではなく周囲から与えられた役割。ならば何も違いはないだろう。そんな風に思ってしまう。
或いは、そう思わなければ自分を保つことさえ出来なかったのか。それは吉隠自身にも分からない。
ただ、こうして見世物小屋で飼われている間は餓えないでいられる。
ならば以前と何も変わらない。祈りと凌辱に差異は感じられなかった。
その生活さえも、長くは続かなかったけれど。
明治中期になると「観物場取締規則」により、東京の見世物小屋は浅草にまとめられた。
同時に法整備が進み、非人道的な興業は数を減らしていく。
勿論、全てが消える訳ではない。地方においては、この手の悪趣味な見世物小屋も巡業の形態で残っていた。性行為はやはり人気の演目で、実に昭和50年代まで続いて行く。
しかし吉隠を飼っていた者達は、ある意味で先見があったというべきか。早々に足を洗い、近代的な娯楽の方へ流れていった。
そうなれば古いものはいらなくなる。
吉隠は、またも時代の流れに切り捨てられたのだ。
『あ、はは……』
見世物小屋を追い出され、一人佇む。
自由になりました。これからは酷いことをされないで済みます。どこにだっていけるのです。
けれど乾いた笑みが零れる。
もう弄ばれない。嬲られなくて済む。
嬉しい。嫌な思いしなくていいんだ、ボクは助かったんだ。
嬉しいだろ、喜べよ。
自分に何度も言い聞かせて、けれど心が沸き立つことはない。
何故だろう。見世物としての日々はとても辛かったのに、いざ終わるとけれど胸にはぽっかりと穴が開いたようだ。
農村を追い出された時と同じ。やっぱり、どうすればいいの分からないままで。
『……あ、あああぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁ!』
村を出てから初めて、見世物にされていた時でさえ流さなかったのに、吉隠は声を上げて泣いた。
情けなくて、やるせなくて、涙が後から後から涙が零れる。
二度も放り出されて、ようやく理解した。
『ボク、もう、いらないんだ……』
もう誰にも必要としてもらえない。
はにわりの価値とは、あらゆる神性をその身に宿し、神意を人々に伝えること。
けれど信仰は時代に奪われた。
残ったのは、男女の性を備え合わせるという稀有な体。
多くの人を楽しませる見世物であり。
しかし、それさえも、時代に奪われ。
ここには何者でもない、何の価値もない。
なにもしてこなかった、流されるだけの愚かな誰かだけが取り残された。
『ちくしょう、なんだよ。なんで、こんなことに』
なんでこんなことになったんだろう。
ボクはただ、皆の幸せを祈っていられればそれでよかったのに。
巫覡として在った。
人を愛し、人の為に祈り、皆が幸福であれるよう願っていた。
玩具として在った。
人に哂われ、人の目を楽しませ、皆の下卑た欲望を満たした。
でも人に捨てられた。
なのに憎いとさえ思えない。
理由なんて分かり切っている。
ただ流されるままに生きてきた結果だと、自分で知っているからだ。
楽だった。ミヅチの巫女も、見世物も、何も考えず与えられた役割さえ果たしていればそれでよかった。
その心地良さに甘えて、何一つ為してこなかった。
本当は、全てを失ったのではない。
吉隠は初めから何も持っていなかった、それを思い知らされたのだ。
だから妖刀使いの南雲と手を組んでいた時でさえ、吉隠は激しい憎しみなど持ち合わせていなかった。
吉隠の目的を言葉にするのならば、復讐よりも『八つ当たり』が適当だろう。
復讐などという強い感情は持ち合わせていない。そんなものを抱けるほど大切なものなんてなかった。
だいたいネチネチしたのは嫌いだし、それなら愉しく生きた方がいい。
でも、からっぽの自分を気付かせた新時代に、ちょっと思うところがある。胸中などその程度のものだ。
そういう性格だ、鬼喰らいに対しても恨みつらみは殆どない。
それでもコドクノカゴは甚夜によって奪取され、南雲叡善は死に、吉隠もまた斬り伏せられたのだ。なんだかむかつくなぁ、くらいの気持ちはある。
ならば屈辱は返す。そうしないと、愉しくない。
吉隠はその為に、愉しむ為に捏造された都市伝説の怪人を生み出し続けてきた。
「ねえ、ママさん。赤ちゃんちょうだい?」
これも、その一環。
吉隠はいつものように、八千枝へ気安く声をかけた。
赤ちゃんをちょうだい。表情はあまりに軽く、いかにも本気ではないといた語調である。
「いや、だからね。あげられないって。冗談も繰り返すと面白くないよ?」
八千枝はちょっとだけきつめに窘める。
愛息子の翔を可愛いと思ってくれるのは嬉しい。赤ちゃんいいなぁ、と羨ましがられるのも嫌じゃない。
それでも、何度も何度も「子供をくれ」なんて言い続けられたら、少しくらいは機嫌も悪くなる。
自然と眉間に皺はより、けれど吉隠はそんな彼女の苛立ちなど気にもしない。
「もう七人集めたからチッポウならできるんだ。でもやっぱり、どうせなら一番強いの作りたいしね。ハッカイには赤ちゃんが足りないし、どうしよっかなぁってところでママさんと会えてホントよかったよ……だってさ、ママさん、いつきひめの先生だったんでしょ?」
「……え?」
それは、どういう。
問いは返せなかった。
吉隠はにっこりと笑い、それが、彼女が最後に見たものとなる。
白峰八千枝の頭にそっと手は伸びて、触れたかと思った瞬間、ぐしゃりと嫌な音が響く。
抵抗するどころか断末魔の叫びさえ上げられない。吉隠は八千枝の頭蓋を容易く握り潰し、血や脳漿で汚れた手をぺろりと舐める。
「可能な限り殺したくないとは思うけど、今回は必要なことだからさ。まあ恨むなら鬼喰らいを恨んでね。大体彼のせいみたいなものだし」
そもそも今回は、鬼喰らいから受けた屈辱を返す為に動いている。
態々八千枝に目を付けたのも、彼女が鬼喰らいの友人の恩師だと知ったから。
つまり大体彼のせい。だったら恨み言はそちらに向けるのが筋だと吉隠は思う。
「よし、じゃあいこっか、翔くん」
それよりも大事なのは赤ん坊だ。
転がる死骸から赤子を取り上げれば、火のつくような泣き声。どうせすぐに泣かなくなるのだ、それも特に問題はない。
友人の恩師が死んだと知ったら、彼はどんな顔をするだろう。考えるだけで愉しくなる。
こうして吉隠は赤ちゃんを手に入れた。
これで、八人目。
「ありがとーね、ママさん。翔くんのおかげでコトリバコが……“ハッカイ”がつくれるよ」
ああ、本当に愉しい。
甚夜が無様に這いつくばり泣き叫ぶ姿を想像する。沸き上がる喜びに、吉隠はにっこりと笑っていた。
有体に言えば、吉隠に憎悪はなく。
けれどとっくの昔に壊れていた。
* * *
《コトリバコ》
数多い呪詛の中でも最上位に数えられる、極めて危険な呪具の都市伝説。
明治元年(1868年)、江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった、松江藩と隠岐島住民の一連の騒動。
通称『隠岐騒動』。
それ自体は一年ほどで平定されたが、反乱を起こした側の一人は、追手から逃れとある集落へ辿り着く。
しかしそこは松江藩の支配する集落の中でも最下層に位置し、常日頃から非人道的な差別を受け、住民は虐げられていた。
流れ着いた男は松江藩に弓引いた“島帰り”。
匿えば更なる酷遇が待っているのは容易に想像がついた。
住民は男を捕えようとするが、当の本人は平然としている。
そして彼は言った。
『俺の命を助けてくれるのなら、お前達に復讐する力をくれてやる』
差別され虐げられる住民は、半信半疑ながらも、復讐という言葉に心惹かれ男を助けた。
男が教えた復讐の秘術こそが“コトリバコ”。
子供を殺し、死骸の一部を箱に封じ込めることで作り上げる、確殺の呪詛である。
さっそくコトリバコを造り上げた住民は、上納という名目で自分達を虐げる者達へそれを贈った。
結果は、あまりにも無惨。
贈られた者は一日もたず血反吐を吐き、苦しみながら死んでいった。
コトリバコに近づいた者は、数時間ほどで精神に変調を来し、徐々に内臓が千切れ、最後には死に至る。
呪詛の強さは『材料』となる子供の死骸の数に比例する。
一人から順に「イッポウ」「ニホウ」「サンポウ」「シホウ」「ゴホウ」「ロッポウ」「チッポウ(シッポウ)」「ハッカイ」。死骸が増えれば増えるほど強力になる。
中でも八人の子供を使う「ハッカイ」はその殺傷力及び感染性の高さから、コトリバコの製造方法を伝えた男でさえ『二度と作ってはならない』と念を押したほど。
呪術師的な素養がなくとも作成でき、にも拘らず異常なほど高レベルの呪詛を成就させるコトリバコは、こと呪殺というカテゴリーにおいて究極の一つとされる。
またこの呪詛は、子供と女性を殺すことに特化している。
コトリバコは「子取り箱」、子を以って子を取る。
復讐の念から生まれたコトリバコは、一族を根絶やしにする為、子供と子を産める女の命を奪うのだという。
つまり子供であり、同時に女でもある年齢。
例えば女子高生くらいの年代を容易に殺す都市伝説である。
* * *
簡素な木棺には、白峰八千枝は眠っていない。
ドラマとかでは最後に顔を見せてもらったけれど、木棺は既に閉じられている。
遺体の損傷が激しくて、とても見せられない。それどころ此処に運び込むことさえできない状態だと聞いた。
だから棺の中は空っぽ。もう彼女の遺体は弔われており、これは形だけのものらしい。
告別式は決して大きなものではなく、自宅で行われる。香典は入らないと前もって伝えられた。
八千枝は教師であり、弔問客の中には学生の姿も多いからだろう。それだけ彼女は生徒達に慕われていたのだ。
姫川みやかや梓屋薫もそういう生徒の一人。
中学一年の頃に一年間だけ受け持ってもらった。付き合いは短いけれど、今でも恩師は問われれば八千枝の名前を挙げる。
気風が良くて、男前で、でもいつも気遣ってくれて。
そういう優しい先生は、二十八歳という若さでこの世を去った。
「みや、か、ちゃぁん……」
最後の挨拶をさせてほしくて参加した葬式。薫はずっと泣き続けている。
みやかはぼんやりと木棺を眺めていた。
死んだのだ。分かっている。なのに現実感が追い付いて来ない。
「薫……」
「せん、せえが」
「うん、うん……」
そういえば、お葬式に出たの初めてだな。
泣き崩れる薫の頭を撫でながら、みやかはぼんやりとそんなことを考えていた。
悲しくない訳じゃないけれど涙は流れない。自分は、思っていたよりも冷たい人間なのだろうか。
恩師だと思っていた。お世話になって、多分一番好きだった先生で。
なのに、泣いてあげられない。
周りの音がやけに遠く感じられる。それが、ひどく辛かった。
◆
恩師の死から更に一か月が経ち、十月も半ばを過ぎた頃。
毎日は忙しい。いつまでも悲しんではいられず、時間が経てば自然と日常の生活にも慣れた。
なのに、ふとした瞬間もう先生はいないんだと考え、俯いてしまう。
それは薫も同じようだ。いつものようにクラスでは明るい女の子で、けれど時折泣きそうになるのを何度か見た。
「甚くん?」
「そろそろ食事にしよう」
「あ、うん。そだね」
そういうタイミングで、甚夜が薫の頭にぽんと優しく手を置いているところも、同じように何度か見ている。
例えば萌は殊更燥いで「おすすめスイーツ買ってきた!」なんてお菓子類を教室に持ってきたり、柳や麻衣もそれぞれ気遣ってくれている。
迷惑をかけていると思う。けれどもう一か月、まだ一か月。以前と同じようにはいかない。
「さ、みやかも」
「うん、ありがと」
それでも彼らの優しさに感謝し、教室の一角を陣取って昼食。
安易な慰めは誰も言わない。ただいつものように皆で騒いでご飯を食べるだけ。
今はそれが有難い。みやかも薫も、一か月が経ち自然と笑みが戻ってきた。
「今日はねー、菜の花のお浸しと大根のきんぴらがめっちゃ上手くいったんだー」
「ほう、旨そうだな。酒が呑みたくなる」
「いや、流石に教室ではやめてよ? あ、みやか食べる?」
促されて摘まんだ大根のきんぴらは、少し辛めでお米が欲しくなる味だ。
甚夜にすればこういうのは酒の肴なのだろう。一口食べて物足りなさそうな顔をしていた。
「やっぱり、お酒呑みたい?」
「まあ、な」
その気持ちはみやかには分からない。
二十歳になって呑むようになればもう少し共感できるだろうか。とはいえ、コンビニのバックヤードで延々酒盛りを続ける彼ほど好きにはならないような気もする。
ただ「二十歳になったら、祝い酒でも用意しようか」と甚夜が言ってくれたから、なんだか頬が緩む。
「……でさ、その女の幽霊が出るって話だよ」
「嘘くせー」
けれど教室の男子生徒の話していた内容が聞こえてきてしまったから、みやかの表情は強張った。
白峰八千枝の死から一か月が過ぎた。
みやかや薫の心境も徐々にだが落ち着き、同時に巷ではある噂が流れていた。
曰く、子供を探す幽霊がいる。
男子生徒の雑談は、偶然聞いたその怪談だったらしい。
非業の死を遂げた女が幽霊となって子供を探している。
学校の近所で噂になっている。
その女の正体は、最近死んだある女教師で……。
男子が致命的な言葉を発しそうになり、みやかは強く箸を握りしめた。
無責任に騒ぐ彼等への怒りから、乱暴に立ち上がり睨み付ける。
そして衝動に任せ怒鳴りつけようとしたその瞬間。
「うごぉ、躓いたぁ!?」
「あちゃ、熱っ!?」
……教室で勢いよくすっ転んだ藤堂夏樹に、思い切り気勢を削がれた。
しかも彼の手には「寒くなってきたから蕎麦が食べたい」と言い出し、給湯室で湯を貰ってきて作ったカップ蕎麦があった。
持ったまま歩いて、転ぶ。当然ながらカップ蕎麦は勢いよく放り出され、くだらない噂を垂れ流していた男子生徒に見事ぶち当たった。
「熱っ、藤堂お前なにしてんだよ!?」
「ああ、すまん俺のてんぷら蕎麦! 食べてやれなくて!」
「謝んのこっち!?」
もっとも彼の足元には何もない。
躓くようなものはなく、濡れて滑りやすくなっている訳でもない。本当に、何もないところで夏樹は転んだ。
久美子などはそれを見て「流石なっき!」と満面の笑み。まあつまりそういうことなのだろう。
夏樹は訳アリの女の子にモテる。以前甚夜がそう言っていた。その理由を垣間見たように思う。
「やるぅ、藤堂」
「本当にな。あいつ凄いわ」
ただ夏樹の行動はみやからを慮ってのものだが、本当に助かったのは男子達かもしれない。
萌は明らかに不機嫌な顔をしており、柳に至っては端正な顔立ちを怒りに歪めている。
普段のイケメンは何処にもいない。流石ひきこさん。夜叉などの能面を思わせる、恐ろしい形相だった。
夏樹のおかげで二人とも随分穏やかになったが、もしも男子達が最後まで言い切っていたなら、おそらく火傷ではすまなかった筈だ。
「夏樹はいい男だろう?」
「……うん」
何故か自慢げな甚夜に、みやかは素直に頷いた。
決して格好良くはない。教室の真ん中で思い切り転ぶ姿は正直情けなかった。
しかし彼が「いい男」というのは納得できるし、みやかの気分も随分とよくなっていた。
『その女の幽霊が出るって……』
なのに、彼らの話していたことがどうしても気になって。
翌日、姫川みやかは学校を休んだ。
◆
「最近、空気重いなぁ」
放課後、富島柳は麻衣と二人で通学路を歩きながら、陰鬱な面持ちで嘆く。
白峰八千枝が亡くなってから早一か月。直接の面識がない柳と麻衣は然程ダメージもないが、やはりみやか達は沈んでいる。
薫などは元気に振る舞おうとしつつも空回りして、見ている方が痛々しくなるほどだ。
柳らも最大限気を使ってはいるが、やはりまだ高校生。大切な人を失くした友人に上手い言葉はかけてやれない。
「やなぎくん……」
「いや、悪いとか嫌って話じゃないからな? 元気づけてやりたいって話。まあ、でも。深く突っ込むと掘り起こさないでいい地雷にぶち当たりそうだし、難しいなぁ」
「え?」
富島柳は、成績も運動神経もいい。
それは学校の授業が得意というだけでなく、そもそも頭が回り、なにより要領がいいからだ。
要点を掴むのが人よりも上手い。だから専門家には敵わなくとも、なんでもそれなりにこなすことが出来る。
そういう彼だから、気付いてはいけないことに気付いてしまった。
麻衣は成績優秀だが人間関係が不慣れ。薫や萌はそもそもそこまで深く考えてはいなさそう。
夏樹と久美子、あの二人はどっちなのか。分かってふざけているようにも、本当に分かっていないようにも見える。
本来ならみやかも気付きそうだが、今はその余裕がない。
いつものメンバーで現状を明確に把握しているのはおそらく柳と、そして甚夜だけだろう。
「どういう、こと?」
「内緒。俺結構、今のクラス気に入ってるから」
先日知った吉隠とかいう鬼。タイミングよく増えた都市伝説の怪人。そして今回の白峰八千枝の死。
つまり、敵が八千枝を殺した理由は。
柳は要領がいい。少ない情報から、そこまで推測していた。
けれど言えない。口にすれば多分何かが壊れてしまう。
彼にとって一番は麻衣だが、いつものメンバーや、勿論甚夜も大切な友人だと思っている。
麻衣のいじめ。ひきこさんに成りかけた自分。それに<トンカラトン>との戦いに関しても、考えてみれば世話になってばかりだ。
だから敢えて不信を煽るようなことは言いたくなかった。
「麻衣はさ、葛野のことどう思ってる?」
「いい人だと、思うよ。色々昔のことお話してくれるの」
「そっか。……なんかあっても、責めないでやってくれよ?」
そう言いつつも、もし麻衣に何かあったら、彼を責めてしまうかもしれない。
柳は「絶対に味方でいる」と言い切れず、情けなさに自嘲の笑みを零す。
そして帰り道、街灯が壊れているのか、薄暗い通り差し掛かり。
───あ、あ……。
生暖かい風が吹いた
一緒になって聞こえてきた、女の声。泣いて、掠れて。それでも縋るような悲痛な響き。
あまりのか細さに、二人は足を止めた。
「やなぎくん、今の」
「……や、ばい」
麻衣は少しの怯え、しかし柳は脂汗を垂らし、微かに体を震わせていた。
富島柳は<ひきこさん>。
故に、いじめっこの位置は大体分かる。
『だ、れか……』
女の声は少しずつ近づいてきた。
哀れにさえ思える弱々しさ。けれど騙されてはいけない。柳は近づく声と共に、強大なまでの敵意がこちらへ向けられているのを鋭敏に察知していた。
『おね、がい。どう、か』
薄暗がりから女が姿を現す。
ひっ、と短く麻衣が悲鳴を上げた。
近頃流れている噂は柳達も聞き及んでいた。
曰く、非業の死を遂げた女が幽霊となって子供を探している。
その女の正体は、最近死んだある女教師。
噂は白峰八千枝の死から程なくして囁かれるようになった。
「あの、人」
「知ってるのか」
「前に、デパートで」
女の顔には見覚えがあった。
夏休み、女子四人で買い物をした。水着をみんなで選んでいる時、みやかと薫は大人の女の人と話をしていた。
後から聞くと、中学一年の頃の担任だという。
その教師の名前が白峰八千枝。
悲痛な訴えを繰り返す女は、確かにその時の人物だ。
けれど違う。肌の色に生気はなく、顔は血だらけ。皮膚はえぐれ、ところどころ骨や筋肉が露わになってしまっている。
そもそも彼女は墓の下に眠っている筈。
だから白峰八千枝である筈はなく、けれど、女は底冷えするような叫びを絞り出す。
『おねが、い。この、子を……』
* * *
《産女の幽霊》
一般に『赤子民話』と呼ばれるものの一つで、飴屋の幽霊、子育て幽霊とも。
怪談でも都市伝説でも共通する、母親の愛という普遍的なテーマを語る説話。
産女の幽霊は、長崎に伝わる赤子民話である。
ある夜のこと、閉店した飴屋の戸を誰かが叩いた。
店主が表に出ると、影の薄い女が一文を差し出し「飴をくれ」という。
不気味な女に気圧され店主は飴を売る。触れた女の手は氷のように冷たくかった。
翌日も翌々日も女は同じ時刻に現れ、毎日、一文の飴を買っていく。
やがて七日目となり、この日にあらわれた女は、いっそう影を薄くして、悲しげに、「銭はないが飴をわけてくれ」と頼む。
店主が飴を恵むと、翌日からも女は現れ、同じように飴を乞う。
流石にこれはおかしいと、店主は帰る女の後をつけていった。
女はとある寺の山門をくぐり、墓地の方へ姿を消した。
驚いた店主は住職にことの次第を語る。住職と店主は、本堂裏の女が消えた辺りに行くと、墓から赤子の泣き声が聞こえてきた。
急いで掘り起こすと女の亡骸に抱かれた赤ん坊が出てきたという。
古い時代、死者が三途の川を渡り成仏するには六文の銭が必要だと信じられた。
けれど産女の幽霊は三途の川を渡る為の六文で赤子に飴を買い、銭がなくなり成仏できなくなっても飴を求め、ひたすらに子供を育て続けた。
自身の安寧よりも我が子のこれからを選んだ母の愛。
こういった「死後も子供を育てる母親」の説話を総称して「赤子民話」と呼ぶ。
母の愛を題材とした話は怪談だけではなく、『泣き別れ坂』や『過保護な親』など都市伝説としても有名なカテゴリーとなっている。
また『リゾートバイト』のように母が死んだ子を復活させようとする都市伝説も存在する。
いつの世も母の愛は強い。
死すらも乗り越える、愛情と妄執のお話。
* * *
産女とは妖怪の一種で、夜中に道で会った女が「この子を抱いてくれ」と渡してくるというもの。
受け取ると女は消えてしまう。産女は妊婦の妖怪で、愛しい子供を育ててくれそうな誰かを探し続ける存在なのである。
そもそも日本では、死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、産女と考えられていた。
その為、妊婦を埋葬する際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。
胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある。
「あはは、上手くいったや」
だから、彼女はそうやって生まれた。
態々死骸を奪ってまで作り上げた、渾身の『捏造された都市伝説』。
今の白峰八千枝は、産女とコトリバコを組み合わせた存在。
産女は腹に子供を抱えたまま土に埋められて生まれる。
コトリバコは箱に子供の死骸を封じ込めることで完成する。
つまり今の彼女は、『胎に八人の子供の死骸を埋め込み、そのまま埋葬する』ことで生まれた化け物である。
「うん、これなら甚太君も喜んでくれるよね」
産女という妖怪は、子供を誰かに渡す為毎夜さ迷う。
死んだ後も子供を思う母の愛こそが産女の正体だから。
けれど八千枝の息子である翔は、今やコトリバコとなった。
つまり彼女は母の愛を糧に動き、子供を託せる誰かに渡し、その結果呪い殺す。
だから再び死んだ自分の代わりに子供を育ててくれる人を探す。
母の愛が際限なく被害を広げる、白峰八千枝はそういう最悪の怪人となった。
ああ、なんて愉しい。
まるでお笑い芸人の繰り返しネタのようではないか
「さあ、頑張ってねママさん」
にっこり笑顔で吉隠はその場を後にする。
そうして白峰八千枝は──
◆
白峰八千枝は、手を伸ばす。
優しそうな男女。高校生、まだ年は若いけれど、この子達ならきっと翔を大切にしてくれる。
だから手を伸ばす。
コトリバコは子を以って子を取る。
女と子供を殺すことに特化した都市伝説。
いくら強力であっても、老齢且つ男である甚夜には効果が薄くなる。
代わりに、子供であり女でもある女子高生辺りは、最も殺しやすいのではないだろうか。
「あ、あ……」
白峰八千枝を、捏造された都市伝説を前に麻衣は竦み上がり動けないでいる。
産女の話もコトリバコについても富島柳は知らない。
けれど彼の推測は正しかった。
先日知った吉隠とかいう鬼。タイミングよく増えた都市伝説の怪人。そして今回の白峰八千枝の死。
つまり、敵が八千枝を殺した理由は。
吉隠の狙いは初めから、甚夜の周りにいる子供達にある。




