『過ぎ去りし日々に咲く花の』・1
花には咲く季節がある。
春は桜、夏は向日葵、秋は菊、冬は椿。
四季折々趣違えど、いつもどこかで花は咲き。
色鮮やかに季節を巡る。
鬼人幻燈抄『過ぎ去りし日々に咲く花の』
2009年 7月
『……これで、お昼の放送を終わります。ありがとうございました』
昼休み恒例の放送は少女の可愛らしい声で締め括られ、一部の男子が感嘆の息を漏らす。
麻衣の放送は相変わらず妙な人気を誇っているが、未だに謎の少女扱いのようだ。
昼休みも半ば以上過ぎ、殆どの者が食事を終え、各々騒がしく雑談を交わしている。
茹だるような暑さの中で、しかし教室の生徒達はどこか浮ついた雰囲気を醸し出していた。
それもその筈、一学期の授業も一段落がつき、夏休みまで後一週間となった。
高校に入ってから初めての長期休暇だ。どこかへ遊びに行こう、バイトもしたい。夏休みへの期待に飛び交う声は弾んでいた。
「やっぱり海がいい!」
髪をリボンで一纏めにした幼げな印象の少女、梓屋薫もまたその一人だ。
来るべき夏休みに向けて、皆でどこへ行くか、遊びの予定を立てるのに余念がない。もっとも、細かな計画は彼女の親友である姫川みやかの担当なのだが。
「あー、でもキャンプもいいなぁ。花火大会とか、あとお祭りも。そういえば、みやかちゃんのおうちって今年も?」
「うん、八月十五日に縁日があるよ。私は手伝う側だけどね」
甚太神社では毎年八月十五日に縁日が開かれ、様々な屋台が立ち並び、随分とにぎやかなになる。
みやかも中学二年の頃から、縁日の当日になると社務所でお札やお守りの販売を手伝っていた。
正確には「売る」のではなく「授ける」というのだが、基本的にはただの売り子と変わらないのでやることは多くない。寧ろ前日までのお札やお守りの準備の方が大変だ。
「そっか、大変だねー」
「仕事はそんなでもないよ。でも去年は“中学生巫女だぁ”とか言って写真を撮ろうとする男の人が結構……」
「……それは、ホントに大変だね」
肩を落とすみやかに、薫は微妙な表情をしていた。
高校生になったのだから、そういう参拝客が少しでも減ってくれるのを祈るばかりである。
しかし女子高生巫女にもちゃんと需要はあるため、彼女達の願いが叶うことはおそらくないだろう。
「でもそれじゃ、今年も一緒にお祭りは無理かぁ」
「ごめんね」
「いいよいいよ、代わりに他の日に一杯あそぼ!」
「そうだね。あ……でも私、夏休みバイト始めるつもりだから、都合の合わない日多いかも」
「えっ、そうなの?」
「バスケ辞めたから夏合宿もないし、空いた時間でちょっと。あと一週間だけど夏期講習も入れてるし」
「えー、せっかく受験終わったのにまたお勉強?」
「うん、大学のこと視野に入れておきたいから」
勉強が苦手な薫だ、自分から夏期講習なんて申し込んでいる親友を、信じられないといった面持ちで見る。
みやかは思わず苦笑い。しかし薫の気持ちも分かる。そもそも彼女自身入学当初は夏休みまで勉強をしようとは思っていなかった。
心変わりの理由は間違いなく甚太神社の、いつきひめのことを詳しく知ったからだろう。
「もしかして、みやかちゃん将来夢っていうか、なりたい職業みたいなのがあるの?」
「そこまではっきりした考えじゃないけどね。ほら、うちは神社でしょ? 一応管理費は自治会から出てるし寄付でまかなえてるけど、先のことは分からないし。いずれのことを考えると神社のお仕事と兼業できるような資格が欲しいな、と思って」
「えーと、つまり?」
「いつきひめとして甚太神社を守っていきたいって思えたから、その為に出来ることを今は少しずつ頑張りたい……かな」
将来的な職業を見据えて動ける程、みやかもまだ大人ではない。
けれど、できれば甚太神社を守っていきたい。
ご先祖様は途方もない歳月をかけて、かつての想いを現代にまで紡いできた。ならばそれを次代へと繋げるのは、今代のいつきひめである自身の役目だろう。
古臭い考えかもしれないけど、そう在りたいと素直に思えたから、その為の努力を少しずつ重ねていこうと決めた。
アルバイトや夏期講習、いい大学を目指すのもその一環。両親から甚太神社を任された時、出来ることを増やしておきたかった。
……まあ神社を守る一番の手段は、神職資格取得課程を有する大学に入り、神主希望の男性を捕まえ婿養子に、という流れだろう。
流石に思春期の少女、それを受け入れたくはないので、その辺りは見ないふりをすることにした。
「……みやかちゃん、色々考えてるんだぁ」
「一応、いつきひめとして、それなりに。でも、時間ある時は一緒に遊びに行こう? 皆での遠出もちゃんと計画立てるから」
「うん、そうだね! あ、葛野君、お帰りー!」
昼休みの開始と共にどこかへ姿を消していた甚夜が戻ってくると、薫はにっこりと無邪気な笑顔で彼を迎える。
先程はほんの少しぎこちなかったが、今は普段の調子を取り戻したようだ。
ちょっと心配だったけど、大丈夫、かな?
その様子に安堵し、みやかも彼に「お疲れ」と簡素な挨拶。向こうも同じように短く「ああ」とだけ答える。そういう気軽な遣り取りが少し擽ったかった。
「電話終わった?」
「一応な。これで里香の頼みもようやく片が付いたよ」
「藤堂君の妹……だった?」
「そうだな、妹だ」
「取り敢えず、大事にならなくてよかったね」
「まったくだ。夏樹も心配していたからな」
やけに妹というところを強調して、しっかりと頷く。
なんでも今回は藤堂夏樹の妹、里香からの頼みで動いていたらしい。詳しい内容は聞いていないが、都市伝説以外が相手だったという話だ。件の怪異は既に昨日討ち果たしており、今は里香の様子を電話で確認していたところである。
結果は特に問題なし、ここ数日かかりきりになっていたがやっと一安心、甚夜も肩の力が抜けた様子だ。
「ねえねえ、葛野君は夏休みどうするの? アルバイト? 夏期講習とか?」
「ん? アルバイト……という訳でもないが、“おしごと”関係はいつでも受けている。講習は、拘束時間が長いのはな」
「あ、そっか。葛野君のメインはそっちだもんね」
元々甚夜は捏造された都市伝説の元凶を追って葛野へ訪れた。勉強に時間を取られては困る、というのはもっともな話である。
とはいえ、彼はそもそも見た目通りの年齢ではない。拘束されるのが嫌なら高校に入学する必要もなかった筈だ。
その辺りがよく分からず、「でも、それを言うなら学校自体相当じゃない?」とみやかは思わず零してしまう。
「確かに。だが、元々この高校への入学を決めたのは、ちと厄介な怪異が現れると聞いたからだ。そいつが現れるまでは、ここの生徒として行動するのが無難だと思ってな」
「でも、それくらいなら入学までする必要はないし。あ、えと。勿論、こうやって同じクラスになれたことは、その。不満は、ないけど」
「そう気を遣わなくても構わない。他意がないことはちゃんと分かっているよ」
まるで「入学しなければよかったのに」とでも言いたげな表現だと後から気付き、みやかは慌てて弁明する。
しかし甚夜の方は勘違いせず素直に受け止めてくれたようで、ほっと安堵の息を吐く。
質問の方も「まあ君の言う通りではあるんだが」と前置きしてから、至極真面目に答えた。
「生徒でもないのに敷地内に入れば、下手すると警察のご厄介になってしまうじゃないか」
「え、そんな理由?」
「ああ。都市伝説や怪異の類は怖いが、警察も案外怖いぞ? ついでに言えば世間様の目はもっと怖い」
「わー、せちがらーい……」
棒読みになってしまったのは仕方がないと思ってほしい。
今の世の中、怪異を討つ剣士も結構現実的な問題を抱えているようで、人目を気にして動かないといけないらしかった。
もっとも、嘘は言っていないが、隠し事は当然ある。
甚夜が言う「厄介な怪異」とは、百七十年後現れるという鬼神を指す。
マガツメが再び現れるのは、間違いなくかつていつきひめの社が在った場所。即ち戻川高校である。
ならば先んじてこの高校に慣れておきたい、というのが彼の本音だった。
「まあ、それはそれとして休みにまで勉強はしたくないな」
「だよね!」
なんだかんだ理由は言ったが、夏休みに講習なんぞ御免だというのも彼の偽らざる本音。お仲間を見つけた薫は非常に嬉しそうだ。
甚夜は授業こそ真面目に受けているが、成績は平均を維持する程度で決して優秀な生徒ではない。古典やら理数系は強いが、現国や歴史はそこそこ、英語は壊滅的である。
英語に関しては期末テストで赤点を取ってしまう程。都市伝説と対峙している時さえ見せない苦悶の表情で呻いていたのは記憶に新しい。
追試は吉岡麻衣先生の特別授業で何とか乗り切ったが、やはり英語の勉強は苦手なようだ。
「味方ならこっちにもいるよ、梓屋」
「アキちゃん!」
そう言いながらひょっこり顔を出したのは、最近行動を共にする機会が増えた桃恵萌だ。
見た目遊んでいる白ギャルといった感じの彼女は、クラスでも派手な女子グループに所属しているが、なんだかんだこちらにも顔を出す。彼女のお目当ては分かり切っているので、少しだけ引っ掛かるところもあったが今ではいい友人だった。
「もーさー、夏休みだよ? やること一杯だよ? 勉強ってか、宿題やってる暇もないっての」
「だよねー、学生の本分は遊ぶことなのに」
「微妙に同意しかねるが、英語の宿題はやはり辛いな」
似た者同士三人は徒党を組んで愚痴っている。
ちなみにいつものメンバーの学力を比べると、柳>麻衣>みやか>久美子>夏樹≧甚夜>薫>萌である。
甚夜に関していえば江戸時代生まれ、しかも初めて学校に通うという点を加味すれば十分な成績だと言える。
逆に薫と萌は少しばかりいただけない。百八十七歳のお爺ちゃんに負ける現役高校生ってどうなんだろう。
「ていうかさー、何気に甚は無難な成績じゃん。学校通うのこれが初めてじゃなかったっけ?」
「東京にいた頃は、夏樹や彼の父親の宿題をよく手伝っていたからな」
「あー、子供にいいとこ見せたい的な?」
「そんなところだ」
子供達に「宿題を見て」とせがまれた時、答えに窮するようなことが無いようそれなりに勉強はしていた。なんとも彼らしい理由で、容易に納得できてしまう。
みやかにしてみれば、料理をそつなくこなし趣味は生け花という、ことごとく外見からの印象を裏切り続けてきた萌の学力の低さの方が不思議と感じられる。
「でも、ちょっと意外かな。桃恵さん要領よさそうだし、成績いいと思ってたから」
「あたしの場合、秋津の修行に料理に生け花。当然遊びたいしで、そもそも勉強なんてしてないかんね。てか、頑なにアキって呼ばないね、姫川は」
「あ……つい」
別に他意がある訳ではない。
しかしアキという呼び名はなじみがないというか、何となく呼びにくかった。
「しゃーない。なら、萌でいいよ。代わりにあたしもみやかって呼ぶから」
「いいの?」
「うん。あたし、けっこーみやかのこと好きだしね」
「え、と。ありがと……でいいのかな? 萌」
まっすぐに好きといわれるのはちょっと照れるが、萌の方は呼び捨てに満足がいったらしく、うんうんとにこやかに頷いていた。
そしてみやかの傍まで寄り、周囲には聞こえないようにそっと耳打ちをする。
「ま、お互い古い名前を背負う者同士。なかよくやろーよ」
「それって」
「今代のいつきひめなんでしょ? みやかって」
彼女は十代目秋津染吾郎、今代の付喪神使いである。
その関係か、容姿こそ今風の遊んでいる女子高生そのものだが、そこいらの事情には造詣が深いようだ。
薫達には秋津やいつきひめのことはある程度知られている。今更声を潜める必要もないが、一応相手に合わせて、みやかもこっそり「こちらこそよろしく」と返す。
やはり萌は愛嬌のある付き合いやすい女の子。少しだけもやもやとする瞬間はあるけれど、彼女のことは好きだし、これからも仲良くやっていけると思う。
「あ、いいなー。アキちゃんアキちゃん、私も薫って呼んでー」
「はいはい、よろしくねー、薫」
女三人寄れば姦しいとは言うけれど、実際三人も集まれば結構騒がしい。
朝からじゃれ合う少女達。しまった、男子にはこのノリは居心地悪いかもしれない。
そう思ってみやかは甚夜の方をちらりと覗き見る。気まずい様子というか、寧ろ微笑ましそうに三人の遣り取りを見守っている。完全に保護者目線だった。
「お、なんか楽しそうだなー」
「た、ただいま、です」
お昼の放送を終えた富島柳と吉岡麻衣は、相変わらず仲良さげに並んで教室へ戻ってくる。
もはやからかいの声も上がらない程に二人はいつも一緒だ。けれど柳に頼りきりではなく、過去の悲しい出来事を乗り越えて、麻衣も随分クラスに馴染んできた。
きっと今年の夏休みは、彼にとっても彼女にとっても、楽しいものになるだろう。
「あ、お帰りー。麻衣ちゃん、富島君も」
「うっす梓屋さん」
「そうだ、二人とも、海と山どっちがいい?」
「あー、夏休みの話? そうだなぁ、麻衣はどこ行きたい?」
「え? あ、あの。私は……」
数を増やして騒ぎは更に大きくなる。
夏休みは目前。燥がない方がどうかしていると、薫はにこにこと笑っている。
成程、これは彼が微笑ましい気持ちになるというのも分かる。
みやかも楽しそうな親友を眺めながら、くすりと小さな笑みを漏らした。
◆
幼げに見えたとしても、いつまでも子供ではない。
薫もちょっとしたことに悩むくらいはある。
中学生の頃、親友のことをすごいと思った。
女子バスケの試合で格好良くシュートを決めて、成績だってよくて。
高校生になって、親友のことをやっぱりすごいと思った。
まだ一年生の一学期なのに、もう先のことを考えて。
でもなんでか、中学の頃とは違って、素直に「すごい」と言えなかった。
まるで置いてけぼりにされてしまったような、そんな不安。
多分、そのせいだ。
放課後、「今日は用事があるから、ごめんね」と伝えて、みやかと一緒に帰ることはしなかった。
「どうした、今日は随分暗いな」
帰り際、一人で下駄箱にいると、甚夜がそう声をかけてくれた。
様子がおかしいのを察したのだろう。もしかしたら、悩みもある程度把握しているのかもしれない。
だから「ありがとう」と小さく返し、彼に聞いてみた。
「葛野君て、将来の夢とか、やりたいこととかってある?」
返答は「ない」とのこと。
彼が高校に入学したのは、暦座の皆の勧めと、この場所にマガツメが現れると思ったから。それ以外に目的と呼べるものはなく、卒業後の進路など考えている訳もない。
そもそも、彼は既に生活基盤を得ているのだから、将来付きたい職業というのも妙な話だろう。
飯が食えて酒が呑めて、大切な人が無事に過ごせればそれでよし。
その上で薫の問いに答えるのならば、以前のように蕎麦屋をやってみるのもいいと思う。
あれはあれで中々楽しかった。マガツメの件が片付けば、そういう生き方も悪くないかもしれない。
しかし今は優先すべきがある。だから「ない」と返した。
「今は為さねばならないことがある。将来だのなんだのは、それが終わってからだな」
「そっかぁ……」
それで憂いが晴れることはない。
葛野君は、やることがちゃんと決まってるんだ。
飲み込んだ言葉はそんなところだろう。
普通の学生とは違うが、彼も先を見ている。普段なら素直にすごいと思える。けれど今は、ちょっとだけ複雑だった。
「まあ、無理しない程度にしっかり悩むといい」
「わっ……!?」
少し沈んでいると、頭をぽんぽんと撫でられる。
驚きに目を見開けば、彼は普段とは違う、優しげな表情をしていた。
「うう……なんか子供扱いされてる」
「はは、どちらかといえば孫かな」
「むー、なんか他人事だなぁ。こういう時って相談に乗ってくれたりするものじゃないの?」
「そうは言うが、生活を背負わず悩める時期というのは存外短いぞ? 大人になれば中々できない経験だ」
そんなことを言う彼の横顔は、とてもではないが同年代には見えなかった。
悩んでいるのを察しているのに、相談には乗ってくれず、慰めの言葉もくれない。
それがちょっとだけ不満で薫は頬を膨らませる。本人は睨んでいるつもりだろうが、全く怖くない。寧ろ和やかな心地で甚夜は小さな笑みを落とした。
「人は、いつまでも立ち止まってはいられない。悩もうと、答えが出ないままであろうとも、前に進まなければいけない時がいつかは来てしまう」
「……葛野君も?」
「そうだな。何一つ分からないまま、追い立てられるように歩いてきた。そういうこともあるんだ。だから、気兼ねなく悩めるうちに悩んでおいた方がいい。きっとそれは、君のこれからの為になる」
今の彼女が抱える悩みは遠い昔、明治の頃に直接聞いたことがあった。
気の利いた言葉ならかけてあげられる。
そうしなかったのは知っているからだろう。
日常が息苦しいと言った林檎飴の天女は、ほんの僅かな休息をとり、自らの意思で天へと帰っていった。
梓屋薫は──朝顔はいつか、自分で納得して前を向けるようになる。
ならば此処で下手な手出しをするのは優しさではない。
その役目は、かつて幸せだと真っ直ぐ言えなかった頃の己に任せるとしよう。
「では、な。遅くならないうちに帰りなさい」
「ほんと、子供扱い……でも、うん。ありがとねー、ばいばい」
益体のない話だったが、それでも気分転換にはなったようだ。
薫の憂いも多少は薄まり、別れ際の笑顔は自然に零れる。
何かが解決したわけではない。
劣等感はまだ胸の内でくすぶっている。
それでも少しだけ足取りは軽くなる。
夕暮れ、放課後、一人の帰り道。何気ない日々のことだった。
翌日の目覚めは思っていたよりもすっきりしていた。
着替えて顔を洗って、お母さんが準備してくれた朝ごはんも美味しい。
ちょっと声をかけてもらって、お風呂に入ってぐっすり眠ればこうなのだから、我ながら簡単だと薫は笑う。
薫の家は普通の一軒家、父親は会社員で母親は専業主婦。兄が一人いるけれど、他県の大学へ行ったため今は一人暮らし。
つまりは古くから伝わる巫女の家系ではなく、特別な力を宿した職人の一派でもなく、平平凡凡な普通の家の生まれだった。
本人も別段特技はなく、趣味は漫画やらを嗜む程度、成績だってよろしくない。
だからといって自分を卑下はしない。大抵の人はそんなものだろうとちゃんと分かっている。
運動も勉強もできるみやかのことだって素直にすごいと思うし、やっぱり大事な親友だ。
毎日は楽しいし、学校も大好き。
高校生になって少し顔を出した劣等感も、一晩でなくなる程度のもの。
いってきますも元気よく言えて、薫はいつものように家を出た。
「あ、薫。おはよ」
「みやかちゃん、おはよー!」
通学路でみやかと合流し、一緒に登校。
それもいつも通り。ぎこちなさはなく、交わす言葉も心地良かった。
「ところで、それなに?」と薫の視線はみやかの手に握られたものへ注がれている。
「え、と。忘れるとこだった。はいこれ、プレゼントね」
指摘されて、思い出したようにみやかは薫へそれを差し出す。
彼女の手にあったのは、白い花。四弁の小花が集まり玉のように可愛らしい佇まい。慎ましく清楚ながら、甘酸っぱい芳香を漂わせている。
「わー、きれいな花。どうしたの、これ?」
「行きしなに、その、貰ったの。で、昨日なんだか変な感じだったし、薫にあげようと思って」
「え?」
「……気分転換になるかなぁ、と」
「えへへ、ありがとうね、みやかちゃん!」
「わっ、ちょっと薫」
花に負けないくらい鮮やかな笑顔が咲く。
通学路であっても気にせず薫は大好きな親友へ抱き付く。驚きはしたみたいだけれど、みやかも拒否はしない。
ちゃんと心配して、気遣ってくれる。
憂いはもう欠片も残っていない。やっぱり彼女は親友で、学校だって大好き。
雲一つない晴天、一片の曇りなく晴れやかな心地。
夏の日差し、セミの声は降り注ぐ。
一日の始まりは透き通る青のような涼やかさだった。
「おっはよー!」
元気よく教室に入れば、甚夜と夏樹は既に登校しており、クラスメイトと雑談を交わしていた。
近づいていくと「う、うん」「おはよう、梓屋さん姫川さん」と男子達はなんだかそわそわした様子で、そそくさと離れて行ってしまった。
まあ会話の内容が「夏休みなのに彼女がいない、欲しい」「童貞卒業したい」「お前らはいいよな、女子と仲良くて」だのと非常に後ろ暗いものだったので、居た堪れない気持ちはよく分かる。
幸いみやか達には聞こえてなかったようだ。彼らの名誉の為にも話題に関しては伏せておこう、甚夜と夏樹は小さく頷き合った。
ついでにじいちゃんのそういう遍歴についても黙っておいた方がいいだろう。
みやかに甚夜の過去を聞かれたなら、以前の約束もあるし、夏樹はちゃんと答える気でいた。
それはそれとして、赤線区域でのあれこれや昭和の頃出会ったという末来視の少女の話は、みやかや萌には伝えないよう人知れず固く心に誓った。
「あれ、もしかして邪魔しちゃった?」
きょとんとしている薫に、甚夜は穏やかに応じる。
「いいや、そんなことはない。おはよう、梓屋。昨日はよく眠れたか?」
「うん、ぐっすり! 心配かけちゃってごめんね?」
「なに、君が元気なら私はそれだけで嬉しいよ」
相変わらずのだだ甘発言である。
言葉面だけを捉えれば完全に口説き文句だが、勿論甚夜にその手の下心はない。というか、夏樹に対してもだいたいこんな態度。つまるところ単なるお爺ちゃん目線だ。
元気な薫の様子に安堵し、すっと目を細める。
そして軽く視線を動かし、彼女の手にある小さな花を見て、甚夜は少しだけ表情を固くした。
「それは……」
「きれいでしょ。みやかちゃんがくれたんだー。えーと、なんていう花だったっけ?」
「……沈丁花だ」
問いかけにみやかが反応するより早く、妙に平坦な声で甚夜が答えた。
彼はじっと手元の花を凝視する。無表情でその内心を読み取りにくいのは相変わらず、しかし一点を見つめ続け全く動かないのだ。何か思うところがあるくらい、みやかにも想像は付いた。
「みやか、この花はどこで?」
「え、と。昨日、花屋さんで」
「あれ? これ貰ったって言ってなかった?」
「……花屋さんで、貰ったの」
元気のない薫が心配だったから、昨日のみやかはなにか元気づけられるものはないかと悩んでいた。
そんな時通りがかった萌に教えてもらった花屋で、「小花はどうでしょう?」と勧められたのがこの花だった。
花は心を癒してくれる、と花屋の店長の弁。
落ち着いた感じの女性で、その言葉がやけに真実味を帯びていたから、みやかはそれもいいかもしれないと勧められた花を手に取った
つまるところ本当は買ったものなのだが、今更言うのは恥ずかしいので無理矢理にでも貰ったもので通す。
不思議そうにしている薫から目を逸らし、誤魔化しもかねて甚夜に問うた。
「ど、どうかしたの? 何か気になることでもあった?」
「沈丁花は室町の頃に渡来した中国原産の花。庭木や生け垣などに植えられることが多いな。可憐な佇まいとは裏腹に、金木犀のように香りが強いことでも有名だ」
「ずいぶん、詳しいね」
「昔、少しな。もう一つ言えば、春先に咲く為、沈丁花の芳香は春の訪れを告げる香りとして古くから愛されてきた……つまり、今の季節“咲く筈のない花”、ということだ」
有り得ない筈の花が、ここにある。
普通ならば驚く場面だが、良い悪いは別にして、この場にいる全員が異常な事態には慣れている。
多少の動揺はあっても騒ぎ立てる程ではなく、みやかは一段声を低くして、続けて彼に聞き返す。
「それって、やっぱり、“そういう話”?」
「さて、詳しくはまだ分からないが……その花屋というのは」
「萌の行きつけのお店なんだって。住宅街にある、三浦花店ってところなんだけど」
もしかしたら、また恐ろしい都市伝説が潜んでいるのかも。
その想像がみやかの表情を翳らせ、しかし店名を聞いた甚夜は、意表を突かれたのか、ぽかんと呆けたように口を開けている。
「み、うら?」
「うん、そう」
「花屋?」
「う、うん」
「季節外れの沈丁花……店主は、もしかして女か?」
「よく分かったね。歳は四十超えてるって言ってたけど、正直中学生くらいに見える女の人だったよ」
「ああ……」
三浦、花、季節外れの沈丁花に、十五前後の女店主。
ヒントというか、殆ど答えである。確かに怪異の一環ではあるが、危険なことは何もない。
季節外れの花と縁がある女性。甚夜には心当たりがあった。
「……いや、済まない。今回の件に危険は何もない。安心してくれ」
「そう、なの?」
「間違いなく。警戒したのが馬鹿らしくなるくらいだ」
四十を超えている店主。多分彼女の年齢は、四十どころか三百歳を軽く超えている。
気が抜けたように甚夜は小さく息を吐き、普段からは考えられないくらい穏やかに微笑んで見せた。
「悪いが、今日は早退させてもらうよ」
あからさまに溜息を付いたかと思えば、甚夜は鞄を置いたまま立ち上がった。
この流れでの発言だ、季節外れの花について調べる為だと想像は付く。みやかは歩き出した彼に、少しでも情報を伝えておこうと呼び止める。
「花屋の場所教えようか?」
「いや、いい。それはルール違反だろう」
しかし肝心の彼は必要ないと、軽く受け流した。
調査なのに、ルール違反?
よく分からない返しに、みやかは小首を傾げる。
「え、でも。今から、花屋に行くんだよね?」
「ああ」
「調査、じゃないの?」
「いいや、違うよ」
意外過ぎる答えに、言葉を失う。
戸惑ったままのみやかに小さな笑みを落とし、甚夜は背を向けた。
じゃあ、何をしに?
口にできなかった問いを察したのか、暖かな言葉が零れ落ちる。
「少し、花を巡りに」
そう言った時にはもう歩き始めていたから、彼の表情は見えない。
なのに何故かその後ろ姿は、どこか楽しそうに感じられた。
梓屋薫の憂いは、林檎飴の天女に続く話。これ以上此処で語ることではない。
この先はいつかを共に過ごした、彼と彼女の物語。
巡る季節の中で咲いては散り咲いては散り。
何れ散り往く定めと知りながら、生きた証を咲き誇る。
そういう、路上の片隅に咲いた、花巡りの想いの話。




