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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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『手を繋いで、君と一緒に』・1




 吉岡よしおか麻衣まいが戻川高校を受験したのは、友人である富島とみしまやなぎに誘われてのことだった。

 中学の頃、彼とは一度も同じクラスにはならなかった。

 交友の始まりは中学二年の頃。

 一人で本を読んでいる所に、彼が話しかけてくれたのがきっかけだ。

 クラスも性別も趣味嗜好も、なにからなにまで違う二人だったが、それなりに馬が合ったらしい。

 何気ない一言から始まった友人関係は、思っていた以上に長く続いた。


 戻川高校に入学してからも、麻衣は中学の頃と同じように暇さえあれば図書室で本を読んでいる。

 放課後、オレンジの景色。静謐とした空気。淀んだまま流れる時間。校舎の二階にある図書室からはグラウンドがよく見える。

 不意に窓の向こうを見れば、部活動に勤しむ生徒の姿があった。きっと同じクラスの人も何人かいるのだろう。


「それ、何読んでるんだ?」

「古い説話集……怪談とか、色々載ってるんだ」

「へぇ、麻衣は相変わらず守備範囲広いなぁ」


 隣に座っている柳が読んでいるのは、図書室に置いてある歴史系漫画。元々じっとしているより体を動かしている方がいいと言う人だ、固い本は好きではなかった。

 けれど柳はこうやって時々ではあるが読書に付き合ってくれる。最近の理由はニュースで流れる女子中学生殺人事件。本に熱中すると時間を忘れてしまう麻衣を心配して、態々放課後に残ってくれているのだ。

 それが嬉しくて、本で隠しながらほんの僅か口元を緩ませたことには、多分彼も気づいていないだろう。


 ページをめくると紙がこすれあって音が鳴る。

 ゆったりと流れる時間に染み渡る響きが心地良い。

 小さな頃から体が弱かった。運動はできなくて、遊び回るのも難しい。そんなだから友達なんて殆どいなかった。

 子供の頃の思い出を振り返れば、一人で本を読んでいたことに行き当たる。

 ひとりぼっちだったから、暇さえあれば本を読んで過ごしていた。寂しさを紛らわしてくれた唯一の友達が本だった。

 

 本を閉じて、ほぅと息を吐く。

 読み終われば目を閉じて、物語の余韻に触れる。

 今日読んだのは江戸時代の後期に書かれた『大和流魂記』という説話集だ。まだ東京が江戸と呼ばれていた頃にあった怪異譚を綴ったもので、有名無名に関わらず様々な説話が収録されている。

 最後に読んだのは『姫と青鬼』という話。

 古い説話と当時の世相を照らし合わせると、その話が成立し得る背景が透けて見えて面白い。夢がない話かもしれないけれど普段は説話をそうやって楽しんでいる。

 けれどこの話を読んだ後はいつもと少しだけ違った。

 物語に特筆すべきところはない。ありきたりな、鬼と人を描いた説話。目新しい題材でもないのに気になったのは、自分が生まれた土地の話だからだろうか。


「お、読み終わった? ならそろそろ帰るか」

「ごめんね、やなぎくん。待っててもらって」

「いーよ。正直一人で帰らせるの不安だし」


 柳はいつも麻衣をぽんこつ扱いする。

 不服ではあるが、自覚もある為強い反論はできなかった。

 つらつらと思考を巡らせていると、早く行こうと柳が促す。

 気付けばオレンジは藍色に変わろうとしている。そろそろ図書室も閉まる時間だ。

 既に受付の係以外は誰もいない。確かにこれ以上遅くなるのはよくない。

 席を離れ受付の人に軽く挨拶、柳の後ろをとことこ付いていく。

 扉の辺りで何気なく振り返り、無音の響く図書室を眺めれば、夕暮れの感傷にふと過る。




 人から鬼へと堕ちた青年の物語。

 想い人を守れず、大切な家族を斬り捨てた。

 何一つ報われることなく故郷を離れた青鬼は、一体どこへ行ったのだろう。






 鬼人幻燈抄『手を繋いで、君と一緒に』






 2009年 5月



「うむ、うまい」


 昼休み、葛野甚夜は学食でコロッケ定食を食べていた。

 当然ソースはだぼだぼにかける。これだとコロッケ一つで飯が二杯食えるため、彼にとってはこの食べ方が正道である。


 兵庫県立戻川高校は、進学校でも部活動で有名という訳でもないが、県下の高校の中では設備が充実している。

 校舎はAからCの三棟に特別棟の計四棟あり、A棟一階にある学生食堂もかなり規模がある。白を基調とした壁面と日の差し込む大きな窓が特徴的な清潔感ある学食は、昼休みともなれば生徒がこぞって訪れ大層な賑わいだった。


「そだねー。メニューも色々あるし、やっぱり高校になると違うや」


 彼らが陣取っているのは窓際にある四人掛けのテーブル。同席しているのは、同じクラスの梓屋薫だ。

 頼んだミートソースのスパゲティも彼女の満足そうな笑顔からするに中々の味らしい。

 いつもは姫川みやかも一緒に昼食をとるのだが、今日は教員に用があるらしく甚夜と薫の二人だけ。

 都市伝説と戦う怪しげな男相手でも薫はあまり気にしておらず、素直に食事を楽しんでいた。


「姫川は職員室だったか」

「うん。なんか先生に聞きたいことがあるんだって。あ、事件とかじゃないよ? ふつーに勉強のこと」

「案外真面目なんだな」

「そうだよ? 見た目でいろいろ言う人いるけど、ほんとは照れ屋さんなだけで真面目だしすっごい優しいの」


 色素が薄いために光の加減で茶色がかって見える長い髪。不愛想で変化の薄い表情に、冷静で抑揚の少ない物言い。

 この辺りの印象で、みやかは周りからクールだの不愛想だのと評価されているが、薫からしてみればまったくの見当外れだ。

 髪は単に地毛だし、感情表現が苦手だから無表情に見えるだけ。落ち着いているのは間違いないが、クールではなく穏やかという方がぴったりくる。

 勿論本人に聞けばまた違う意見がかえってくるだろうが、少なくとも薫にとっては、みやかは穏やかで優しい女の子だ。


「部活とかはしないの? 野球とかサッカーとか、葛野君なら絶対すぐレギュラーなのに」

「あまり興味はない。態々目立つのもな」

「えー、なんかもったいない」

「そういう朝が……梓屋は?」

「私は運動苦手だし、帰りに遊びたいし。というかそろそろ名前覚えようよ……」

「いや、覚えているぞ? ただ、梓屋を見ていると、どうしてもいつかの天女を思い出してしまう」

「もう、またそういうこと言うー」


 食事中の歓談は弾む。

 あの先生は厳しい、趣味はどうとか、次の寄り道はどうしよう、部活はやらないのか。

 喋るのは殆ど薫の方で、甚夜は聞き役に回っていたが、二人の空気は和やかだ。

 出会い方こそ少々奇妙だったが、もうそんなことは気にもならない。まるでただのクラスメイトのように会話を続ける。


「でさ、それで……」

「…やっぱり、あの……」

「うちの中学なんだよね、その話……」


 しかし通りすがる女生徒の話が偶然聞こえてきて、薫の口はぴたりと止まった。

 先程の明るさは鳴りを潜め、悲しみか罪悪感か、少女は自分でも処理しきれない感情に顔を伏せてしまう。


「気になるか」

「あ、うん。えへへ、やっぱりね」


 誤魔化しの微笑みもぎこちない。

 彼女の表情を曇らせている原因は先程の女生徒たちの話題……連日報道されているニュースにある。


“失踪した二人の女中学生が惨殺死体になって発見された”


 この惨たらしい事件を引き起こした犯人は未だ捕まっておらず、警察は懸命に捜査を続けているそうだ。


「気にしててもしょうがないって思うんだけど。でも、あー、どう言えばいいのか分かんないや」

「仕方のないこと、で割り切れるものでもないさ」

「……うん、そうだね」


 凄惨な事件に心を痛めているのではない。

 未だ捕まらぬ犯人に不安を覚えたのでもない。

 そもそも正確に言えば事件はもう解決しているのだ。それを知っているからこそ、薫の表情は暗かった。


 一月程前、赤マントによって引き起こされた事件は、甚夜が怪異を打ち倒したことにより取り敢えずの終幕を迎えた。

 だからと言って全てが元通りとはいかない。

 先日、赤マントにさらわれた二人の女子中学生が惨殺死体となって見つかった。

 世間は都市伝説の怪人の存在など知らず、この件は「女子中学生連続誘拐殺人」として取り扱われている。

 警察は必死に犯人の行方を追っているが、肝心の赤マントは既に打倒された後。当然見つかる筈もなく、事件は解決されぬまま迷宮入りとなる。


「私にできるのは怪異を討つまで。それが引き起こした現象を元通りに出来る訳ではない、情けないがな」

「葛野君を責めてるんじゃないよ。口裂け女から助けてくれたし、赤マントの時も私達の我儘聞いて頑張ってくれたんだもん。……でもやっぱり、やりきれないなぁって」


 赤マントを倒しても殺された二人の少女は帰ってこない。

 最初から分かっていた筈なのに、それを今更思い知って沈んでいるのだ、薫は自分の馬鹿さ加減に眩暈を覚える。

 なにより彼女を苛むのは、都市伝説によって引き起こされる怪異を軽く見ていた迂闊さだろう。


「私ね、ちょっとワクワクしてたんだー。だって葛野君、マンガに出てくる人みたいだもん。そういうのが現実にあって、実際に体験して。なんだか冒険気分だったの……でもマンガとは違って、本当に人が死んじゃうんだよね」


 怪異を倒す退魔師。

 まるで漫画の登場人物のような彼の存在、助けられた自分。ヒロインのような立ち位置を、少しだけ楽しんでいた。

 けれど刺激的だった事件もも、一皮剥ければこんなもの。

 もしもほんの僅かでもズレがあったのなら、惨殺された女子二人というのは、みやかと薫であってもおかしくはなかったのだ。


「葛野君が私達にいろいろ教えてくれたのも、勘違いしてた。首を突っ込んで邪魔しないように、じゃなくて、私達が危なくないように話してくれたんでしょ?」

「まあ、な。傍にいる時は盾代わりにもなれる。だが君達の危機にいつでも駆けつけられるような都合のいい幸運はない。……どんなに走っても、間に合わないことの方が多いんだ」


 だから、そうならないように彼は多少の事情を明かし、軽率な行動は控えてほしいと窘めてくれた。

 それを「すごい、実は裏ではそんなことが!」なんて軽く聞き流していた薫は、ひどい自己嫌悪に陥っていた。

 恥ずかしいやら情けないやらで顔を上げられない。しかし、そんな薫のオデコを甚夜は指先で軽く弾く。


「わっ!?」

「そう落ち込むこともない。身近なところにも危機はあると知ってくれたならそれで十分だ」

「……う、うん」

「後は、信頼しろとまでは言わないが、多少は当てにしてもらえれば嬉しい。何もかもを救える訳ではなくとも、荒事には君達より慣れている」


 そう言って小さな笑みを落とし、「冷めるぞ」と一声かけてから甚夜は再び食事に戻る。

 いつの間にか昼休みも残り僅かになっていた。薫も慌ててパスタを口の中に放り込んでいく。

 急いだせいで、多少雑な食べ方になってしまった。皿が空になる頃には、薫の口の周りはミートソースで思い切り汚れていた。


「これ、年頃の少女がはしたない」と穏やかに窘めながら、甚夜がティッシュを差し出す。

「あ、ありがと。って、さっきの話といいなんかすっごい子供扱いされてる気がする……」


 受け取ってソースをふき取るも、なんとなく納得がいかない。

 不満という程ではないし、親友に比べて幼いところがあるのも自覚しているが、それにしたって子供扱いが過ぎるだろう。

 半目になって薫は訴えるが、甚夜は気にした素振りもない。寧ろ微笑ましいとでも言わんばかりの穏やかな雰囲気だった。


「それは仕方がないと思ってくれ。なにせ私はとうに百歳を越えているからな。実際、君達は孫娘のようなものだよ」

「え? それって」

「さて、授業に遅れる。そろそろ教室へ戻ろう」

「え、えっ? ちょ、ちょっと待って!?」


 さらりととんでもないことを言われたような。

 あんぐりと口を開けて呆けている薫に苦笑し、甚夜は席を立った。

 数瞬経って薫は意識を取り戻し、けれど彼の言葉の意味は今一つ理解できないまま。

 え、百歳? 冗談、だとは思うがそんなことを言うキャラにも見えないし、などと考え込んでいる間に彼は食器を片付けて出口辺りで待っていた。

 慌てて薫もそれに倣い、追いついてほっと一息。なんだかんだ待ってくれている辺り、彼は大概お人好しだ。


「ごめんね、お待たせ」

「ああ、では行くか」


 二人一緒に学食を出て、心持ち早足で教室へ戻る。

 学食があるのはA棟一階、1-Cの教室はB棟の四階。食堂は綺麗で料理もおいしいが、距離が遠いのだけは難点だ。

 それでも雑談を交わしつつならば苦にはならないと、薫の表情は明るい。

 先程途切れてしまった益体もない話の続きをしながら廊下を歩き、しばらくして彼女は不意に足を止めた。


「どうした?」

「あれって……」


 釣られて横目で見れば、廊下には三人組の女子生徒。覚えのない顔、多分違うクラスだろう。

 彼女らの視線の先にはクラスメイトの、確か名前は吉岡麻衣、だったか。一応のこと名前と顔は一致しているが、甚夜は殆ど喋ったことのない相手だった。


 何かを拾い集めている吉岡を指さしながら、三人の女子はくすくすと笑っている。どう見ても好意的なものではない。嘲るような見下すような、卑しい笑みだ。

 薫は顔を顰め、ただ三人組をじっと見つめている。

 それに気付いた彼女らは不愉快そうな顔で睨み返してきたが、傍に立つ少年の姿を確認すると、気まずそうに目を逸らす。

 童顔の薫だけならともかく甚夜の方は筋肉質な強面の男だ、因縁を付けられたくないとでも思ったのだろう。毒づきながらもすごすごと去っていった。


「あーゆうの、ヤな感じ。あ、ちょっと行ってくるね!」


 言葉通り怒りに満ちた声音で薫は呟き、グラウンドへ向かって走り出す。

 真っ直ぐというかなんというか、彼女は思考と行動がほぼ同時だ。

 もっともそれが悪いとは思わない。苦笑しながらも追従すれば、ひどく辛そうな顔で腰をかがめている吉岡が、彼女の拾っていたものが目に入った。

 乱雑に捨てられていたのは教科書や筆箱。鞄ごと中身をぶちまけられていたらしく、砂まみれになってしまっている。


「大丈夫―?」

「ひっ、あっ、あの」


 声をかけると、吉岡は必要以上に怯え身を竦めた。

 その反応は織り込み済みだったのか、返答は聞かず、すぐさまグラウンドに捨てられている教科書などを拾い始める。

 甚夜もそれを手伝い、全て集まると薫は警戒を解きほぐすように無邪気な笑みで教科書類を渡した。


「はいっ」

「あ……」


 それでもまだ怯えは消えない。

 何も言えず固まったままの少女は、今にも泣き出しそうだ。

 流石にここまで固い反応を返されると、どうすればいいのか分からないらしく、薫の方も戸惑っている。

 少女二人でお見合い状態がしばらく続き、けれど全く意識していない方向から飛んできた声にようやく空気が動く。


「おい、麻衣。大丈夫かっ!?」


 グラウンドに響いたのは、殆ど叫びに近い荒々しさだった。

 声の主は物凄い勢いで駆け付け、吉岡の下へ辿り着くと薫との間に割り込み、庇うように背中へ隠した。

 現れた少年も同じクラスの生徒で、富島柳とみしま・やなぎという。

 おそらく彼は、薫こそが吉岡の鞄をグラウンドに捨てた張本人だとでも思っているのだろう。

 睨み付ける眼光は、少女に向けるものとは思えないほど鋭い。何か悪いことをした訳でもないが、剣呑な少年に気圧されて薫はおろおろとしていた。


「梓屋は、落ちていた荷物を拾ってやっただけだ。そう殺気立たないでやってくれ」


 善意の結果がこれではちと可哀そうだ。

 甚夜が窘めると、富島は背後に庇った少女へ視線で確認を取る。こくり、と頷きの答えを受け取り、訝しげに薫ら二人を交互に見て、ようやく納得したのか彼は肩から力を抜いた。


「そう、なのか?」

「う、うん……」

「……そっか、ごめん。ちょっと過敏になってたみたいだ」


 ふう、と息を吐いた富島は、普段通りの気のいい少年に戻っていた。

 成程、女子に人気があるというのも頷ける。くつろいだ笑みは中々様になっていた。


「怖がらせちゃったな、ホントごめんな、梓屋さん」

「ううん、私の方こそっ。誤解させちゃったみたいだし」

「いやいや、悪いのはあきらかにこっちだし。葛野もすまん、俺、冷静じゃなかった」


 気にするな、と軽く手を振って応える。

 どうにか場が落ち着くと、耐えかねたのか吉岡がくいくいと富島の制服の袖を引っ張る。

 不安げに揺れる瞳は「早く行こう」と雄弁に訴えていた。


「あー、悪い。俺ら先に行くよ。荷物拾ってくれてサンキュな」

「そいつは梓屋に。私は手伝っただけだ」

「んじゃ、改めて。梓屋さん、ありがとう。ほら、麻衣もちゃんとお礼を言いなさい」


 あ、あの。あり、がとう、ございます……。

 促されて、ぼそぼそとではあるが、ようやくありがとうの言葉が出てきた。

 けれどそれが限界だったらしく、吉岡はすぐさま俯いてしまう。

 やれやれ、仕方がない。富島は少女の小さな手を取って、「悪いな」と一言残し、二人連れ立って去っていく。




 カチカチ、と奇妙な音が鳴った。




 甚夜は怪訝そうに目を細めた。

 少年と少女が手をつないで歩いて行った、ただそれだけ。なのに固く冷たい音が耳に届いた。

 今のは、いったい。

 確認しようにも二人は既にグラウンドを離れた後。もう音は聞こえず、同じ場所にいた薫はなんの反応も示していない。

 しかし気のせいにしては、あまりにもはっきりと聞こえた。


「ごめんね、葛野君。変なことに付き合わせて」


 答えは出ないまま、少女の呼びかけに思考を止められる。

 感謝の言葉もそこそこに、逃げ出すように去っていった吉岡らを見送っても、薫は特に不機嫌でもなかった。

 くるりと甚夜の方を向いた彼女は、不快というよりは遣り切れないといった様子だ。


「それは構わないが」

「高校生になったのに、まだあんな子供みたいなことする人がいるんだね。もー、ホントやな感じ」


 リボンで結んだ髪を揺らし、私怒ってますと薫は全身で訴える。

 グラウンドに捨てられた鞄。まさか自分でやった筈もなく、吉岡麻衣を疎む誰かの嫌がらせであることは容易に想像できた。


 そして少女の怯えた目は、これが一回だけのことではなく、日常的に行われているのだと如実に示している。

 甚夜は学校に通った経験など今迄ない為ぴんと来なかったが、あれが“いじめ”というやつなのだろうと、今更ながらに納得する。

 そこに思い至れば薫の怒りにも共感できる。

 真っ向勝負を神聖視するほど若くはないが、あの手のねちっこい真似も好きにはなれそうもなかった。


「都市伝説も怖いけど、ああいうのも怖いね」

「そうだな。怪異などよりも余程厄介だ」


 人同士の問題は斬って「ハイ終わり」とはいかない。

 だからといっていじめる側を諭したところで意味はなく、いじめられる側に強さを求めるのも難しい。

 所詮甚夜に出来るのは斬るくらい。吉岡を取り巻く問題など解決できそうもなかった。


「戻るか」

「そだね」


 二人は口数少なく教室へと戻る。

 嫌なものを見たせいで、食堂での楽しい気分はどこかへ行ってしまっていた。

 





 そして気になるのは、やはりあの音。

 カチカチと鳴ったあれは、どこかで聞き覚えがあったような。

 しばらく考え、不意に思い当たる。

 そう、あれはまるで。


「カッターの刃を出す時の音だ……」


 カチカチ、という独特の音。

 何故かあの音が、耳にこびりついて離れてくれなかった。



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