序章『逢う日遥けし』(了)
そうして歳月は、あまりにも早く流れ往き。
◆
2009年 2月
「みやかちゃん、一緒に帰ろー」
「じゃあ今日もうちでね」
「うんっ、あと一息頑張るよ」
中学生活も残すところあと僅か。
名残を惜しむ気持ちもあるがもう二月、あまりのんびりはしていられない。
なにせ三月になれば高校入試が待ち構えている。この時期に遊び呆けていられる中学三年生はなかなかいないだろう。
御多分に漏れず姫川みやかと梓屋薫も、三月四日にある兵庫県立戻川高校の入学試験へと向けて、最後の追い込みをかけていた。放課後になれば二人でみやかの家に行き、夕暮れまで勉強が最近の日課だった。
落ち着いた印象を受ける反面少し取っつき難そうなみやかと、年齢よりも幼げで明るい薫。出会ったのは中学に上がってからだが、今では二人は大の仲良しで、お互い一番の親友同士である。
高校も同じところを選び、万が一にも落ちないようにと一緒に勉強……正確に言えば、若干成績のよろしくない薫の面倒をみやかが見ている。
といっても別に嫌ではない。普段は恥ずかしいから口にしないが、二人一緒に高校へ行きたいと思っているのは彼女も同じだ。勉強を見るくらい、苦労でもなんでもなかった。
「……みやかちゃん、どう?」
「59問中48問正解。成果出てきたね」
「よ、よかったぁー……こんなにやって全然だめだったらどうしようかと思ったよ」
「絶対大丈夫、とは言えないけど。一応合格ラインは越えてるかな」
「そっか、ふふ。やった、よくやった私ーっ!」
今日も今日とてみやかの部屋で、参考書を広げて悪戦苦闘。一日の締め括りとして薫は予想問題集についていた模擬テストに取り組んだ。
結果は八割正解。まだまだ甘いところはあるが、とりあえずは満足のいくものだった。
達成感から薫は倒れ込むようにごろんと寝転がる。いつもなら“はしたない”と諌めるが、今日ばかりは見逃してあげよう。
今までにないほどの高得点。平静を装っているけれど、友人の努力が実を結んだのだ。みやかも喜びに頬が緩んでいた。
「へへー、これなら一緒の高校に行けそうだねっ」
「そうね。でも、油断はしちゃ駄目」
「分かってるよー。ちゃんと家に帰ったら復習します」
ぐでーっと体の力を抜いたまま答える薫に小さく微笑む。
厳しいことを言うのは、この娘と一緒の高校に行きたいと思うから。それが分かっているから返す薫の表情も明るいものだった。
「そうだ、みやかちゃん。明日高校の下見に行かない? 折角休みなんだし、そのあとちょっとだけ遊ぼーよ。具体的にはクレープとか食べたいなーって」
明日は土曜日。学校は休みだし、気合を入れ直す意味でも受験する高校の下見は悪くないかもしれない。
みやかの学力なら滅多なことがない限り落ちる心配はなく、薫もここにきてぐんと成績を伸ばしてきた。多少の息抜きくらいなら問題はないだろう。
「ん……まあ、いいかな。それなりに成果は出てきたし」
「へへ、やった」
「でも、少し遊んで息抜きしたらちゃんと勉強もね?」
「分かってるよー」
へにゃりと笑う薫は、なんというか、年齢よりも幾分幼く見える。そのせいか、この子は甘え上手なところがあった。
ああ、いや。単にみやかが弱いだけか。結局いつものように薫の提案を受け入れ、それも悪い気分じゃないと思ってしまう自分に少しだけ苦笑が零れた。
◆
兵庫県立戻川高校のすぐ傍には、その名の通り戻川という大きな川が流れている。
元々川が氾濫した時の避難場所である高台に学校を建造したという経緯からか、市やこの土地の古い名家からの援助が多く、学問でもスポーツでも然程有名ではない県立校でありながら戻川高校の設備は近隣の高校に比べ随分と充実していた。
校門へと続く歩道にはガードレールがなく、件の市の援助で植えられた銀杏の木がその代わりを成している。
秋になれば散り往く葉が憂愁の風情を醸し出し見ごたえもあるのだろうが、生憎とこの季節だ。長々と続く並木通りは灰色で、どうにも物悲しい雰囲気を醸し出している。
「はえー、案外綺麗だね。おっきいし」
それに反して見えてきた建物は、明るい白色の映える小奇麗な外観である。
開校三十周年を迎えている戻川高校であるが、数年前に工事の手が入り、校舎は新設校と変わらぬ真新しさだった。
「進学校って訳じゃないけど、結構施設は充実してるみたいだから」
「自販機とかもいっぱい。すごいよ、カップラーメンのやつもある! うちの中学だと考えられないよね」
初めに目を付けたがそれってどうなんだろう、と思わなくもないが、薫らしいといえば薫らしい。
土曜日、みやか達は戻川高校の見学に出かけた。
事務局で許可を取れば後は好きに見て回っていいとのこと。ちょっと不用心に思えるけれど有難い、校舎をきょろきょろと視線をさ迷わせつつ歩き、やたら広い食堂や図書室など、グラウンドに武道場なども一通り見て回る。
「すっごいね、やっぱり。中学とは規模が違うよ」
「うん、ほんと。あ、ベンチあるしちょっと休む?」
「さんせー、流石に疲れちゃったや」
そうして最後に裏庭へ訪れた少女たちは、途中自販機で買ったジュース片手に、設置されたベンチで一休み。
結構歩いたから足が疲れた。喉を潤しつつ、立ち並ぶ木々を眺める。
裏庭には桜の木。きっと春になれば、満開の桜と暖かな日差しで心地よい空間になるのだろう。出来ればその頃には、この学校の生徒として、ここへ来たいと思う。
下見は正解だったらしい。みやかも薫も、勉強頑張ろうと気持ちを新たにしたようだ。
「ねね、そういえばさ、なんでこの高校にするって決めたの?」
「え、今更その質問? 薫もここの入試受けるのに?」
「あはは、私はみやかちゃんと同じ高校に行きたいってだけだったし」
しばらく雑談を交わしていると、思い出したように薫は問うた。
もともと戻川高校を希望していたのはみやかで、薫は友達と同じ高校に行きたいと決めただけ。
だから薫にはこの学校自体に拘る理由はなく、しかしみやかは成績を考えればもう少し上のランクも狙えたはずなのに、敢えて戻川高校を選んだ。
いい学校だとは思うが、一番の親友が何故此処を選んだのか、純粋に不思議だった。
「……昔話、かな」
返ってきた答えに、薫は小首を傾げてしまう。
まったく意味が分からない。そういう反応は予想済みだったのだろう、小さく微笑むみやかは視線を空に向け言葉を続ける。
「うちの神社、昔……江戸の頃はここに在ったんだって」
「え、そうなの?」
「うん。ほら、この高校高台にあるでしょ? 戻川が氾濫しても被害が少ないから、葛野市がまだタタラ場だった頃はここに神社があったそうよ。昔の集落だと神社とか神職って、下手したら村長よりも権力があったってお母さんが言ってた」
実のところみやかは、そういった古い話や歴史にはあまり興味がない。
一応甚太神社の名前の謂れくらいは知っているが、何故巫女のことを“いつきひめ”と呼ぶのか、娘には“夜”の文字をつけなければならないのか、自分の家に伝わる内容さえ覚束なかった。
ただ以前、志望校の話をしていると、母親がそう言えばと語って聞かせてくれた。
だから戻川高校のある高台に、かつていつきひめの社があった、ということくらいは知っていた。
「へぇ、じゃあもしかして、この高校ってみやかちゃんの家の土地だったりするの?」
「まさか。集落の神社は皆のもの、だからね」
「なんだ、残念。でも、なんで移動しちゃったの?」
「さあ、それはよく分からないけど。昔話だと、鬼に社が襲われて、それから今の甚太神社って名前にすると同時に場所を変えたんだって」
鬼、といっても別に鬼が実在したという訳ではないのだろう、とみやかは考える。
鬼というのは何かの寓意で、事故とか災害などが降りかかり、ここでは縁起が悪いというような理由で移転した、くらいが妥当か。
案外「学校作るから場所を開けてくれ」と国に言われたとか、そんな理由かもしれない。地震や河川の氾濫があると、学校はいい避難場所になる。それにこの高台が適していたから無理矢理移動させられた、というのは結構イイ線いるような気がする。
「じゃあこの高校選んだのって、それが理由?」
「うん。お母さんに聞いてから、ちょっと興味はあったんだ。昔、私のご先祖様がいた場所。縁があるって言えばそうだし、通ってみたいなぁって思ったの。学力そこそこの割に設備もいいしね」
「……そこそこって言っても私にとってはかなり上だよぉ」
真面目な話を続けていたが、薫の気の抜けるような声でいい感じに肩の力が抜けた。
二人の少女は顔を見合わせて笑い合う。
「じゃ、休憩も済んだしそろそろいこっか?」
「そだね、あ! 私、部活とかもちょっと覗いてみたい!」
「そっか、じゃあ……」
みやか達は再び見学へと戻る。
その頃には、先程語った古い話などきれいさっぱり忘れていた。
当然か。十五歳の女の子たちには、過ぎ去った過去など少しばかり退屈だろう。
大切なのはこれからのこと。しっかりと勉強をして、今度は入試に合格してここへ来るのだ。
決意を新たに、けれど今はちょっと心浮かれて。次はどこへ行こうなんて、はしゃぎながら歩く。
浮かぶ笑顔は明るい。入学試験まであと少し、多少の不安はあれど、少女たちの目は希望に満ちていた。
◆
そして入れ違いに、少年は裏庭へ訪れる。
彼の目的も同じ。葛野市に移り住んでからまだ日数は経っていないが、いずれ自身が通うであろう高校は見ておきたかった。
ただ少女達と少年は決定的に異なる。
未来を夢見る少女とは違い、彼は過去から歩いてきた。
静かな足取り。立ち並ぶ花も葉もない桜の木、その一番隅にある木の下へ行き、懐かしむようにそっと触れる。
「ここも、随分変わってしまった」
呟きは十七、八といった少年のものとは思えぬ程に寂しげだ。
“時の流れは残酷だ。百年の後、ここはお主の知っている場所ではなくなっているだろう。人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない”
かつて集落の長はそう言っていた。
今更ながらにその意味を思い知る。
百七十年近い歳月が過ぎ、しかし帰ってきた故郷には、あの頃の面影は欠片もない。
東京などと比べればまだ木々は多く残っており、都会とは言い難い。それでもコンクリートの建物を見て、アスファルトで舗装された道を踏みしめる度に物悲しくなった。
自身がこれから通うことになる高校を目指し高台へと訪れれば、余計に表情は暗くなる。
そこには、いつきひめの社が在った筈だった。
葛野に繁栄を齎す女神マヒル様を祀った社、いつきひめが代々守ってきた神おわすところ。
なのに、ここには学校がある。そのことを誰も疑問には思わない。
葛野甚夜は一人取り残されたような気持ちで。いや、ようなもなにも、事実一人取り残されてしまった。
ここには誰もいない。
白雪も、ちとせも、集落の民も、清正や長も……憎々しくも愛しいあれも。誰一人、いやしない。
当たり前だ。人は長く生きられない。そんなこと初めから分かっていた筈なのに、それを思うと胸が締め付けられる。
「……少し、寂しいな」
暦座や古結堂の皆、偶然にも得られた幾らかの知己。失えど尚も支えてくれる大切な想い達。
分かっている、一人じゃない。
憎しみに囚われた道行き、その途中で拾って来たものは決して間違いではなく。今では自身を濁らせる余分さえ愛おしく思える。
だから一人ではないと、本当は分かっているのだ。
それでも寂しいと零してしまった。そんな己を恥じ、甚夜は余計な思考を追い出すように、首を幾度か横に振った。
見るべきものは見た。もうここにいる必要もないだろう。
そう自分に言い聞かせ裏庭を後にする。それを逃げるようだと感じたのは、多分気のせいではなかった。
鬼人幻燈抄 平成編序章『逢う日遥けし』
昔々のお話です。
ある村に一人のお姫様が住んでいました。
お姫様にはいつも護衛がついています。
護衛の青年は幼馴染で、二人はとても仲がよく、中々屋敷の外へは出られなかったけれど幸せな毎日を過ごしていました。
でもそんな二人を遠くから眺めている者がいます。
一人は村長の息子。
村長の息子はお姫様が好きでした。だから青年のことが憎く、いつもいつも辛く当たっていました。
もう一人は青年の妹。
妹にとってもお姫様は幼馴染でしたが、兄がお姫様のことを好きなのが分かるから、大好きな兄を取られたような気がして寂しい思いをしていました。
それでも表面上は何事もなく毎日は過ぎていきます。
ある日のことです。村を二匹の鬼が襲います。
鬼はお姫様を攫おうと考えていたようで、青年はお姫様を守るために鬼の根城へと向かいました。
森の奥にある住処には、一匹の鬼が待ち構えていました。どうやらもう一匹は村へ行ってしまったようです。
青年はなんとか鬼を打ち倒し、急いで村へと戻ります。
ただ不幸だったのは、青年の敵が鬼だけではなかったということでしょう。
「これは好機だ」
村長の息子は青年がいなくなったことを喜び、お姫様を自分のものにしようと動き始めました。
集落での地位を利用し、彼はお姫様に結婚を強いたのです。
お姫様はそれに逆らうことができません。
守ってくれるはずの青年も今はいない。村長の息子は、まんまとお姫様を手に入れたのです。
憤ったのは青年の妹でした。
ですがその怒りが向けられた先は村長の息子ではありません。
「なんでお兄様を裏切ったのですか」
大好きな兄を傷付けるお姫さまこそが悪いのだと妹は詰め寄ります。
それは妹の意思だけではなかったのかもしれません。妹の傍にはもう一匹の鬼がいました。鬼は妹がお姫様を憎むように仕向けたのです。
たとえ仕組まれたものだとしても妹の憎しみが治まることはありません。
嫉妬の心に焼かれた彼女は次第に姿を変え、なんと赤い鬼になってしまったのです。
彼女は憎しみのままにお姫様を殺してしまいます。
「妹よ、お前はなんてことをしてしまったのだ」
そこで運悪く帰ってきてしまったのが青年です。
自分の想い人が妹によって殺された。それを目の当たりにした青年には、妹が許せません。
妹を心から憎み、青年もまた青い鬼になってしまいました。
青鬼となった青年は、妹を誑かした鬼を討ち、赤鬼をも切り伏せます。
赤鬼は兄に憎まれてしまったことを悲しみ、彼の前から去っていきました。
「私は貴方を愛していました。だから貴方に憎まれたのなら、現世など必要ありません。私はいつかこの世を滅ぼすために戻ってきましょう」
最後に、不吉な呪いの言葉を残して。
そうして青鬼は愛した人を、家族を、自分自身さえ失くしてしまいました。
鬼になってしまった彼は「もう人とはいられない」と旅に出たそうです。
或いは、行方知れずの赤鬼を探しに行ったのかもしれません。
以後の青鬼の行方は誰も知りませんが、江戸には人を助ける剣鬼の逸話がごく僅かですが残されています。
おそらくこれは旅に出た青年が江戸に立ち寄った時のことなのでしょう。
一説には、旅をする青鬼の隣にはいつもお姫様の魂が寄り添っていたそうです。
これが葛野の地(現在の兵庫県葛野市)に伝わる姫と青鬼のお話です。
河野出版社 大和流魂記『姫と青鬼』より
◆
昔話に語られた時代から遠く離れ、現代。
葛野甚夜は故郷である兵庫県葛野市へと戻った。もっとも、彼が生まれた頃にはまだ兵庫県はなく、葛野もタタラ場として栄えていた。
しかし今では砂鉄が取れなくなり、包丁などの鋳造技術の優れた、のんびりした雰囲気の地方都市といったところ。以前の熱は欠片も感じられない。
それでも彼は帰ってきた。
気が遠くなるくらいの歳月を積み重ね、始まりの場所へと。
「あと一年……」
<遠見>の鬼に予言された鬼神降臨の年はすぐそこにまで差し迫っている。
葛野を旅立つ時には遠いと思われた、鈴音……マガツメとの再会の時が訪れようとしているのだ。
結局、百七十年という歳月をかけても胸にある憎しみは消えてくれなかった。
だとしても答えは得た。
後はあの娘と対峙するのみ。もはや迷いなどない。
だから甚夜は葛野市へと住居を移し、おそらくは鈴音が現れるだろういつきひめの社。現在の戻川高校への入学準備を進めていた。
少し卑怯な気はしないでもないが、華族であった赤瀬のコネで既に入学は決定している。制服も準備しており、あとは四月を待つばかりという状態だった。
昨日見学した時は多少気落ちしたが、いつまでも引きずってはいられない。
今日は日曜日、試しということで制服に袖を通し、周囲を散策し土地勘を養っておくつもりだ。
もう一つ、目的がある。
今も少なからず交流を持つ古結堂から、姫川やよいと高森啓人。昭和の頃に出会った子供達が結婚し葛野市で暮らしていると聞き、久しぶりに顔を覗きに行こうと考えていた。
「あの二人がな……」
不思議な気もするが、ある意味当然の成り行きかとも思う。
なにせやよいは兄として慕っていたし、啓人の方も憎からずといった様子だった。あのまま成長したのならば互いに恋慕を抱くのは自然の流れかもしれない。
高森啓人……婿養子に入ったと聞いたから、今は姫川啓人か。
七緒が言うには「今でもやよっちゃん大好きで、ことあるごとに惚気まくってくるのがウザいのでちょっとシメといてください」とのこと。なんと言おう、やはりあの娘は青葉の娘である。
シメるかどうかはともかく、結局封印を解かれた時から会ったのは数える程度。最後にあってからは、十七、八年は経っているだろう。
鬼となった甚夜の感覚では然程だが、人間にしてみれば相当長い年月だ。流石に不義理だと反省し、七緒の手描き地図を片手に町を歩く。
古い知人を訪ねる。甚夜にしてみればその程度、気軽な用事だった。
けれど彼にとって予想外だったのは。
やよいらの話を教えてくれた七緒は、柚原青葉の血を引くだけに、少しばかり悪戯っぽい性格をしていたということだろう。
今回の件にも、ちょっとした悪戯が仕込まれていた。
◆
「ここが……」
地図に描かれた場所へと辿り着き、甚夜は目を見開く。
この十数年、古結堂の面々との交流は多少あったが、実のところやよいらに関しては殆ど知らなかった。
そもそも古結堂との窓口は青葉であり、その子供である七緒や孫娘の琴とはそれなりに話すようにもなったが、やよいらとは疎遠だった。
毎年夏休みになればやよい達は浅草へ訪れる。その機会に幾度か顔を合わせたが、高森啓人が進学し葛野市へ移り住んだ後はそういったことも減っていった。
甚夜とていつでも暦座にいる訳ではなく、啓人らが結婚してからはとんとご無沙汰。
なにより一番の理由として。
それとなく青葉に止められていたせいで、七緒がやよいらについて詳しく語ることはなく。
つい最近まで、甚夜はやよいの家が神社で在ることは知っていても、啓人が婿養子になり神主となったとは知らなかった。
同時に、神社の名も。その由来も。巫女であるやよいが、古くからの習わしによりなんと呼ばれていたかも、また知らず。
復讐の一環か、単なる悪戯か。青葉の仕業により、甚夜は何も知らぬままここへ訪れたのだ。
長く続く石段をゆっくりと踏み締め昇っていく。
辿り着いた境内は桜の木が立ち並び、石畳も綺麗に清掃され、清廉とした印象を受ける心地良い場所だった。
観光スポットになるような大社と比べれば地味ではあるが、邸宅が隣接し神職が常駐する、それなりの規模の神社である。
境内では随分と若い、というよりも幼い娘が竹箒を手に掃き掃除をしている。
巫女装束を身に纏っている辺り、この神社の関係者だろう。色素が薄く茶に見える長い髪。巫女と言えば黒髪だと思っていたから、少し意外に感じて少女を見詰めれば、その顔立ちに僅かながら目を細める。
可愛らしい十五歳くらいの女の子。横顔には幼いやよいの面影がある。
もしかすると、あれは彼女の娘か。
そう気付いた甚夜は、何気なく少女へと声をかける。
「貴女は、ここの巫女ですか? 少し聞きたいことが在るのですが」
甚夜が声をかけると、顔をあげた少女は少しだけ不思議そうに眼を見開いた。
その表情はやはり幼いやよいに重なる。懐かしく、穏やかな心地。自然小さく笑みは落ち、しかし返ってきた言葉に心臓を掴まれた。
「いえ、巫女じゃなくて、いつきひめです」
……つまるところ、偶然の出会いではなかった。
吉隠は本木宗司に知る限りの鬼喰らいの情報を与えた。
故に本木宗司は、復讐の為に子や孫に語って聞かせた。
だから多分甚夜が思う以上に、柚原青葉は彼のことをよく知っている。
よく知っているから、彼を喜ばせてあげたいと思う。
そうして彼女はサプライズを仕掛けようと考え、得られた情報を隠していた。
隠し事をしていると気付きながら、彼女のことだから理由があると、甚夜は敢えて聞かなかった。
その気遣い故に、悪戯は成功する。
「いつき、ひめ?」
動揺する心を無理矢理動かし、どうにか声を絞り出す。
少女の方は甚夜の態度になんの疑問も抱いていないようだ。寧ろ、慣れているといった様子なのは、「いつきひめってなに?」と聞かれることが多いせいだろう。
巫女をいつきひめと呼ぶ。おそらくこの神社へ訪れるものの殆どは、それを知らない。
「この神社では巫女のことをそう呼びます」
だから説明は慣れている。少女は淀みなく、微笑みながら答える。
けれど覚えていた。
巫女を、いつきひめと呼ぶのは。
その理由を、彼が忘れる筈はなかった。
「そう、ですか」
葛野において巫女が姫と呼ばれるのは身分としての意味ではない。
正確に言うならば『いつきひめ』とは『斎の火女』、即ち火の神に奉仕する未婚の少女を指す言葉であった。
時代が下るに連れその意味は薄れ、いつきひめは単純に、火の神に祈りを捧げる神職という意味へと変化した。
それも終わりを迎える。
突如社を襲撃した鬼にいつきひめ……白雪は殺された。
火女の血筋は絶え。
けれど甚夜が葛野を出た後、ちとせが次のいつきひめに任命され、新しい神社に勤めることとなる。
「済みません……この神社は、なんと、いうのですか?」
固い声で問いかけながら、脳裏に浮かぶのはかつての光景。
甚夜が旅立つ際、集落の宝刀である夜来を託した長は、確かに言っていた。
“そうだな、お主が長い年月の果てに葛野へ戻ってくると言うのなら、神社の一つでも建てようか”
“神社、ですか?”
“神社の名は……”
「はい。甚太神社と言います」
少女が口にするその名称を、彼は多分、ずっと前から知っていた。
「そう、か」
その言葉をかみしめるように甚夜は目を瞑り、静かに一筋の涙を零す。
ああ、そうか。だから、“姫川”なのか。
……姫川とは、長野県北部、白馬岳東麓に源とする河川である。
古事記には、姫川の下流、高志の国に奴奈川姫という大層賢く美しい姫がおり、その噂を聞いた大国主命がわざわざ出雲の国から求婚に来た、という神話が記されている。
このように歴史の古い河川である姫川は、洪水が多いことでも有名であり、江戸時代には幕府指定の水防普請箇所にも選ばれていた。
もう一つ特徴としてあげるのならば、やはり姫川源流だろう。
白馬村・小谷村を流れ、日本海に注ぐ姫川。
その源である姫川源流一帯は、古くから絶景としても名高い。
フクジュソウ、ミズバショウ、カタクリ、キクザキイチゲ、バイカモ。
長い冬が終わり、春が訪れる頃。清澄に流れる姫川と一斉に芽吹く可憐な花々は、春の息吹を感じさせる、まさしく絶景と呼ぶべき見事な眺めだ。
そして、姫川源流に咲く花々は。
白馬岳の雪解け水が育て上げるのである。
水芭蕉や福寿草は雪解け水が流れ込む湿地帯に咲く花であり、即ち姫川の絶景は、解けた白馬岳の雪が生んだ景色と言えるだろう。
溶けた雪が、咲かせた、景色。
……それが誰の悪戯かなんて、考えるまでもなかった。
「ありがとうございます、長……」
恋い慕う雪が溶けて消えても、今ここに春の花が咲く。
姫川とは、そういう意味だ。
あの日失くした物が還ることはなくとも、長い長い歳月の果てに、あの頃の想いが美しい景色を作り出す。
「貴方は、本当に私の帰る場所を守り抜いてくださったのですね……」
“時の流れは残酷だ。百年の後、ここはお主の知っている場所ではなくなっているだろう。人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない”
旅立つ際の、長の言葉を思い出す。
あの頃は意味が分からなかった。
目の前のことさえ覚束ないのだ。百年先など想像もできなかった。
“だが瞬きの命とて残せるものもある。せめてもの侘びだ。いつか再び訪れた時、涙の一つも零させてやろう。楽しみにしているがいい”
けれど長にはこれが見えていたのだろう。
違う、見ていたのではなく、これを作ろうと歳月を重ねてきた。
自身が死んだならば子供に、そして孫に。想いを繋いで、この美しい景色を紡いできてくれた。
それがどうしようもなく嬉しい。
誰もいないと思っていた。
一人取り残されたと感じていた。
でも、違った。
ちゃんとあった。帰る場所も、帰りを待っていてくれる人も。
あの頃の想いは、今も此処にあってくれたのだ。
「ありがとうございました。では失礼します」
沈黙から一転、柔らかな物言いで別れを告げた。
暖かな想いを忘れぬよう、失くさぬように、甚夜はそっと自身の胸に手を当てる。
とくんと、脈を打つ。
人とは違う時間を刻む心臓は、しかしあの頃と変わらぬ熱を帯びていた。
「え? 聞きたいことがあったんじゃ」
困惑する少女をじっと見つめる。
巫女装束を纏った、幼さの残る少女。その立ち姿はまるで花のよう。
彼女は、姫川の娘。
遠い日の雪が咲かせた、可憐な一輪の花だ。
「もう聞けました。貴女は、私が聞きたかった言葉を運んできてくれた」
穏やかに笑みを落とし、甚夜は姫川の娘に背を向けた。
名残惜しいがいつまでも眺めている訳にもいくまい。そのまま振り返ることなく境内を後にする。
昨日感じた寂寞は完全に消え去り、足取りにも迷いはない。
本当はやよい達に会うつもりだったが、泣き顔ではちと恥ずかしい。また会えるのだ、楽しみは次の機会にとっておこう。
なにより、今は胸に灯った暖かさを、もう少しだけ感じていたかった。
そうして歳月は、あまりにも早く流れ往き。
始まりから遠く離れ、原初の想いは朧に揺らめき、水泡の日々は弾けて消えた。
変わらないものなど何処にもなくて。
けれど小さな小さな欠片が残る。
逢ふ日遥けし。
遥かに遠き未来、巡り合えた優しさに限りない感謝を。
気が遠くなるくらいの歳月を踏み越えて。
偶然ではなく、運命ではなく。
折り重なった想い故に、二人は出会い。
いつかの想いは今も変わらず。
花のように、降り積もる。
『逢う日遥けし』・了