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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編

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幕間『復讐の果てに』・3(了)




【少年と鬼の話】




 子供のままできることって何だろう。

 そう考えて、やっぱり答えなんて出る筈もなく。

 けれど軽くなった心はたくさんの言葉を紡いでくれる。


「お、啓人くん最近よく会うっすね」

「どうもです。前の話の続きしにきました」

「ふふ、こりないっすねー、君も」

「そりゃもうしつこさと粘り強さが俺の売りですから」

「納豆みたいっすよ、それ」


 朝の神社、少年と憧れの人は楽しげに語り合う。

 なにができるかなんて少しくらい大きくなったところで分からない。

 だからいつかの問いに答えを。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。的外れな答えでも、彼女が笑ってくれると嬉しかった。


「やよっちゃん、いこー。あとけーちんも」

「はいっ」

「俺はおまけか」


 昼の神社、仲良し三人組でお出かけ。

 男子高校生と女子中学生と女子小学生。見事に年齢が違うけれど三人は友達だ。

 むせ返るような緑の匂い。炎天の下で駆け回る。

 ただ一緒にいるだけで楽しい。日が落ちるまで皆で燥いで、それだけでよかった。


『今日は随分と元気だな』

「うふふ、そうですか?」

『ああ、何いいことでもあったか?』

「はいっ」


 夕方の神社、妖刀と少女は楽しげに語り合う。

 なにができるかなんて小さな子供には分からない。だからたくさんお喋りをする。

 昼にあった楽しいことを、刀は黙って聞いてくれる。何も解決しないかもしないけれど、少しくらい笑ってくれるといいな、なんて思う。


 今年の夏休みは、いつにも増して楽しい。

 それは少年にとっても、少女たちにとっても。

 けれど、悲しいかな。楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう

 気付けばもう、やよいが帰る前日になっていた。




 * * *




 それは最後の夜の事だった。

 陽が落ちてからいきなり高森家へと尋ねてきた七緒は、啓人が出るなりいきなり掴みかかる。


「けーちん、やよっちゃん来てない!?」

「いや来てないけど、ってうわっ、と。あぶねぇ。なにそんなに慌ててんだよ」


 なんとか七緒を抱き留め、支えながら問う。

 けれど彼女は余裕のない様子で、呼吸も整わないまま一気にまくしたてる。


「やよっちゃん、いないの!」

「はぁ?」

「だから私達と別れてから家に帰っていないんだって! どうしようぅ……」

「まじかよ。と、とりあえず落ち着けって」


 今日も昼間は三人一緒に遊んだ。

 しかし解散してからやよいは家に帰っていないらしく、両親と亀井のおじさんが方々を探しているそうだ。

 時計の針は既に十時をさしている。小さな女の子が、こんな時間にまだ帰らない。いやな想像をしてしまうのも仕方ないだろう。


「七緒、とりあえずお前は家に帰れ」

「でもっ!」

「いいから! お前だって女の子なんだから、こんな時間にうろついたら危ないだろ? 俺もやよいちゃん探すから、待っててくれよ」

「……うん、お願い」


 しぶしぶといったところだが、どうやら納得はしてくれたようだ。

 やよいが心配なのは啓人も同じ。準備もそこそこに家を飛び出す。


「やよいちゃん……」


 まずは一緒に遊んだところを回ってみよう。

 無事でいてほしい。焦る心を無理矢理押さえつけ、祈るように啓人は夜の街を走り始めた。 




 ◆




『帰らなくていいのか?』

「……いいんです」


 姫川やよいは、神社の社の片隅で息を顰めていた。

 夜刀守兼臣を抱きしめたまま、壁に背を預けている。

 当然ながら両親も神社へ探しに来た。しかし灯のない社の中までは気付かなかったらしい。しばらく探した後、泣き叫ぶようにやよいの名を呼びながら走って行った。


『両親も心配しているだろう』

「……多分」


 普段は礼儀正しくしっかりしているやよいがいなくなったのだ。両親はきっと今頃大慌てだ。

 それは分かっている。でも帰りたくなかった。


「刀さんは、帰った方が、いいと思います?」

『難しいところだ』


 当然だ、とでも返ってくると思っていた。

 彼は真面目で固い性格をしている。特にやよいがいけないことをしようとすると、怒りはしないがやんわりと叱り止めてくれる。

 そういう刀さんだから、怒られるまではないにしても、「それはいけない」「帰りなさい」と言われるくらいは覚悟していた。


『君は幼いが、物の道理が分からない娘ではない。にも拘らず、こうしているのだ。頭ごなしに帰れとは言えないな』


 けれど予想外に穏やかな様子だ。

 子供の我儘だと自分でも思う。しかしこの刀は、ちゃんと理由があるのだろうと言ってくれる。

 それが嬉しいような、申し訳ないような。やよいは俯いたまま、ぽつりぽつりと呟いていく。


「楽しかったんです。すっごく」


 だから亀井のおじさんの家に戻りたくなかった。

 だって戻れば、明日には浅草を離れることになる。

 七緒や啓人、この不思議な刀。折角のお友達とお別れしなきゃいけない。

 今年の夏休みは楽しかった。

 七緒ちゃんといっぱい遊んで、啓人さんは優しくて、刀さんは嫌がらずにお話を聞いてくれた。

 でも帰ったらもう会えなくなってしまう。そんなの嫌だ。

 こうやって今日の夜を過ごせれば、もう少し浅草にいられるかもしれない。

 子供の発想だ。けれどそんな幼い願望に縋るほど、彼女はこの夏が大好きだったのだ。


『そうか。しかしその友人とは手紙のやりとりをしているのだろう?』

「手紙じゃ顔は見えないです。声も聞こえません。おにいさんとも会えなくなるし、刀さんとだって」

『私のことまで含めてもらえるとは、どうにもこそばゆいな』


 笑みを落とす音が聞こえる。

 お父さんよりも優しくてあったかい声。神主で躾に厳しいから、余計にそう思う。以前それを口にしたら彼は困った様子だった。


“そう言ってやるな。父親が厳しいのは、私よりも君のことを大事しているからだ。”


 彼の言葉はあまり実感できなくて、その時は口を尖らせて拗ねてしまった。

 やっぱり今も彼の方が優しいと思ってしまうのは、もう少し浅草にいたいと言ったのに「我儘を言うな」と一蹴されてしまったからだろう。


「もうちょっとだけ、いたいって言ったのに。お父さんは我儘だって」

『父親には仕事の都合もあるのだろう』

「じゃあ、私よりもそっちの方が大切ってことじゃないですか」


 気分が沈んでいるせいか、いじけた考えが後から後から湧き上がってきてしまう。

 そんなやよいへ「仕方がないな」とでもいうように、刀は穏やかな調子で語り掛ける。


『君は、そうだな。二人の友人、どちらが好きだ?』

「え?」

『後は、折角だから私も含めてもらおうか。両親と、学校のクラスメイト。他には学校での生活や、放課後、夏休みや給食の時間も含めるか。なにが一番好きで、なにが一番嫌いだ?』

「そ、そんなの考えたこともない、です」

『それが普通だ。順番なんてつけられないだろう? けれど、大人になるとそうもいかない。好き嫌いを別に、順番をつけなければならないこともあるさ』


 いきなりよく分からない話をされて、やよいは戸惑っている。

 けれどその動揺は初めから織り込み済みだったのだろう、特に気にした様子もなく話を続けていく。


『働きたくなくても、家族を思えば金は必要になる。憎まれても、それは駄目だと教えなければいけない時だって。好きなことのみをして生きていけるのはごく一部の人間だと思うぞ? 君には厳しい親に見えるかもしれない。けれどそれは君が嫌いなわけではなく、ほんの少し、優先順位が違うだけだ』

「ゆうせん、じゅんい?」

『ああ。君が一番大切でも、大切だからこそ君よりも上の順番に置かなければいけないものもある。仕事だったり躾だったり。……我儘を言えばそれが通ると、思わせないことだったりな』

「お父さんが厳しいのも、そうだってことですか?」

『ああ君が“今の楽しい”を上の順番に置いているのと同じく、大抵の親は“未来の楽”を上に置く。君がこれから苦労しないように、ちゃんとした人間に育てよう。伝わりにくいかもしれないが、それだって彼らの愛情なんだ。耳触りのいい言葉だけを、優しさや暖かさだと思ってはいけない』


 この刀の言うことは、時々すごく難しい。

 多分今の自分では、話してくれたことの半分も理解できていないだろう。それでも伝わるものもある。

 彼の語る父親の愛情を実感できたことはないけれど。いつか大人になった時、分かる日も来るのだろうか。そんなことを、ふと考える。

 けれど、やっぱり今は分からなくて。


「でも、お父さんには価値がなく見えても。私には、この夏休みは大切だったんです」


 だからこそ、分かっている心を大切にしたいと思う。


「私、やっぱり帰りません。我儘で、迷惑かけてるかもしれないけど。ここで帰ったら、なんか、すっごく駄目なんです」


 胸中を上手く言葉にできないけれど、その意を刀は間違えない。

 この夏休みは楽しかった。帰りたくなくなるくらいに。

 そう思ったから父に反発して家を飛び出した。なのにここで帰ったら、楽しかったと言いながらも諦められる、その程度でしかなかったと自分で証明することになる。大切だという想いまで、嘘になってしまう。

 だから帰れない。我儘でも迷惑でも、意地は最後まで通したいのだと、やよいは言っている。


『案外頑固だな』

「いけないと、思いますか?」

『いいや、君がそうすると決めたなら譲ることはない。しばらくは帰らなくていいぞ』


 先程散々語った本人が、父の意に逆らってもいいとお墨付きをくれた。

 なんというか、漫才のオチみたいな感じだ。肩の力が抜けて、やよいの表情も幾分穏やかになった。さっきまでの陰鬱な雰囲気は和らぎ、自然と笑みが浮かんでいる。


『だいたい君のことを大切に想っての行動だとしても、その意が伝わらないのは親の怠慢だ。私の意見としては、罰として精々心配をかけてやれ、だな』


 本当は、家に帰ってほしい。常識的な考えを持つこの刀は、幼い娘が夜に出歩くのは反対だった。

 しかし子供であっても、自分の意思で決めたのだ。それを無理矢理曲げさせる気にはならなかった。

 どのみち放っておいても迎えは来る。ならそれまでは、好きにさせてやろうと思った。


「……ありがとう、ございます。刀さん」


 やよいはほっと息を吐く。

 なんだか、安心した。

 自分の馬鹿な行動を認め貰えたような気がして。安心すると、少しだけ眠くなる。

 けれど、なんだかもったいないような気がして、寝てしまわないようにやよいはお喋りを続ける。


「私、この夏休みが一番楽しかったです。七緒ちゃんや啓人さん、刀さんとも一緒に入れて。すっごく楽しかった」

『そうか。印象深いことはあるか?』

「なん、でしょう。皆で花火したこととか、神社でラムネ飲んだり。あ、でも。一番びっくりしたのは刀が喋ったことだと思います。そんなの初めてでしたから」

『……まあ、普通ではないのは確かだな』

「ですよね」

『そういえば、啓人くんだったか? 以前言っていたお兄さんみたいな人というのは』

「はい。すっごく優しくて、頼りになる人なんです」

『折角だ、彼とも手紙のやり取りをしてみては? また来年会うのが楽しみになるだろう』

「あ、それも、いいです。なんだか男の人と文通って、マンガみたいでドキドキ、します。刀さんは……手紙、無理ですね」

『残念ながら。今のところ手はない』

「不便、ですよね」

『やることがあるでもなし、特に問題もないがな。あるとすれば、磯部餅を食べれないくらいか』

「ふふ、じゃあ。自由になったら、お母さんに頼んで沢山お餅焼いてもらいます」

『そいつは楽しみだ。あとは……やよい、やよい?』


 話は長く続いた。

 けれど次第に耐えられなくなって、うつらうつらとしていたやよいは、とうとう眠り込んでしまった。

 その寝息はとても安らかだ。けれど夏とはいえ、布団をかけてやらねば。風邪でも引いては大変だ。

 こういう時は、手を差し伸べてやれない己がもどかしい。

 しかし悩む必要はなくなった。

 社の木の格子が、ぎぎっ、と音を立てて開いたからだ。


「……やよいちゃん」


 入ってきたのは高校生くらいの少年。

 やよいの話に幾度も出てきた、優しいお兄ちゃん。高森啓人である。

 辺りを探して走り回っていたのだろう、汗でぐっしょりとシャツは濡れて、しかしそれに反して呼吸は乱れていない。

 啓人は社の片隅で眠るやよいの姿にほっと一息、心からの安堵を顔に浮かべる。

 起こさないように、ゆっくりと静かに社の中へ。近付いてみても怪我などはなく、寝顔も可愛らしい。誘拐だの事件に巻き込まれたわけではなかったようだ。

 心配した分、彼女の無事に全身の力が抜けてそのまま座り込む。

 そして、ずっと気になっていたもの。やよいが抱きしめている鉄鞘に収められた太刀、夜刀守兼臣へと手を伸ばした。


「あのー、もしもし?」


 取り上げるような真似は気が引ける。しかし刀を抱いたまま寝るというのはどう考えても危ない。

 起こさないよう細心の注意を払い、どうにか彼女から刀を引き離す。

 見た目は普通の刀。けれど何を思ったのか、啓人は刀に向かって語り掛けた。


『ああ、こんばんは』

「うおぉぉっ、ホントに喋っ……む、む」


 叫び声をあげそうになるが、ぎりぎりで自分の手で口を塞ぎ、何とかこらえる。

 もしかしたら、という思いがあった。だからこそ話しかけたのだが、実際に刀から言葉が返ってくるとその驚愕は尋常ではなかった。


『物陰から聞いていたんだ。私が喋るのは分かっていた筈だろう?』

「あ、気付てたのね。こえー、妖刀こえー。いや、違うか。あんた、封印された鬼ってやつ?」

『そういうことだ』。


 そう、汗をかいているのに息があれていなかったのは、落ち着くだけの時間があったから。

 啓人はやよいが眠ってしまう少し前に到着しており、彼女が刀に向かって話しかけているのをしっかりと確認していたのだ。

 独り言かとも思ったがそんな様子もない。

 なにより彼もまた、ここに安置されている刀が普通ではないと知っている。

 だからまさかと思って話しかけてみたのだが、想像は見事に的中。やよいはこの刀とずっと喋っていたらしかった。


「んじゃ、あんたが昔暴れてたっていう鬼喰らいの鬼?」

『ああ。そういう君は、啓人くん、でいいのかな?』

「お、おう。俺のこと知ってんだな」

『やよいが自慢してくれたよ。お兄ちゃんみたいで、優しく、頼りになる人、だそうだ』

「いやあ、はは。あれだな。恥ずかしいな」


 顔を赤くして、ぽりぽりと頭をかく。

 驚きも今ではすっかり消え、初めから恐怖の色はない。刀と話すなどという異常な状況にすぐさま順応してしまう辺り、やはり啓人は少しばかりずれていた。


「俺も実はあんたのこと知ってるんだ。考えても分からないことを考えてるって、あんたのことだろ」

『やよいから?』

「ああ。悩んでたんだぜ? なにかしてあげたいってな」

『そいつは悪いことをした。しかし、優しい娘だな』

「ホントに。いい子だよ、やよいちゃんは」


 寝ているやよいの頭をくしゃりと撫でる。

 それだけで笑みは零れて、しかし一転、啓人は申し訳なさそうに眉を顰めた。


「無事でよかったけど、自分でここに来たんだよな?」

『ああ、帰ると君たちと会えなくなる。それが嫌だったらしい』

「そっか。そんな風に思っててくれたんだなぁ。礼儀正しいし、しっかりしてるし。なんだかんだ大人っぽかったからさ、我儘言ったり、こんなことするなんて思ってなかった」

『なまじ強いから痛みに耐えられてしまう。だから周りは大丈夫だと思うが、耐えられるだけで痛みが消える訳ではない。溜まり溜まればいつかは派手に倒れるさ』

「反省してます。俺、やよいちゃんのこと分かってなかったみたいだ」


 やっぱり俺、まだ子供だな。

 啓人は情けなさに俯いてしまう。呟きは音のない社ではよく通る。悔やむのような声色に、しかし答える刀は実に軽い調子だ。


『いいことじゃないか』

「へ?」

『子供なんだ、まだ時間は沢山ある。とりあえずは来年の夏休みも一緒に遊び、今年よりも多くを知ればいい。この娘も、きっと喜ぶ』

「……ああ、そう、だな。そうだよな」


 それが許されるのが子供なのだ。

 後悔はまだ少しあるけれど、挽回する機会だってちゃんとある。案外とお節介な悪鬼に感謝して、啓人は顔を上げた。

 じっとりとした夏の暑さが籠った社は、それでもなんだか心地よく思えた。


「ありがとな、えーと」

『やよいはずっと刀さんと呼んでいた』

「あ、そうなの。じゃ刀さんで。ありがと、刀さん。なんかやよいちゃんが世話になったみたいで。それに、俺も」

『なに、こちらも楽しませてもらった。……それに、いいきっかけとなったよ。ありがとう、啓人くん』


 いきなりお礼を言われても反応に困る。

 啓人は意味がよく分からず疑問符を浮かべていた。それが面白く感じられたのかもしれない。刀に封じられた鬼の表情なんて分かる筈もないのに、何故だか穏やかなに笑ったような気がした。


『いけないな、年寄りは頭が固くて。難しく、複雑に考えれば正しい答えなのだと勘違いしていたよ』


 幼い頃、大人は何でも知っていると思っていた。

 けれど大きくなれば、身につけた知識が邪魔をして見えなくなるものも出てくる。

 きっといくら考えても分からなかったのは、まっすぐに見ることを忘れていたから。


『年を取って知識が増えて、難しいことを考えられるようになった。その分考えすぎて、動けなくなっていた。君たちのように嫌なら嫌と逃げて、心配なら考えるより早く走り出して。そういう、素直な気持ちを忘れていた』


 だからありがとう。

 小難しいことで悩むより、まずはぶつかっていかなければならない時もある。

 それを君に、やよいに改めて教わった。

 口にしたのは紛れもない本心、心からの感謝だった。


「いまいち感謝されてる理由がわからないんだけど」

『そうか? まあ、君達を見ていて気づいたことがある、くらいに思っておいてくれればいい。それより、やよいを連れて帰ってくれるんだろう?』

「ああ、そりゃ、勿論」

『ならば悪いが刀はそこの刀掛けに置いておいてくれないか。ついでに鞘から抜いておいてくれると嬉しい』

「え、あ、はい」


 言われるままに啓人は行動をしてしまう。

 よくよく考えれば妖しいことを言っているのに逆らおうとしなかったのは、なんとなくだがこの鬼は言うほど悪いやつじゃないと思ったから。

 まあ多分変なことにはならないだろう。それくらいの感じで、よく考えずに鞘から刀を抜き、壊してしまわないよう刀掛けへ慎重にかける。


『助かった。では、な。その娘のことは任せる』

「うん、じゃあな刀さん、ほんとに感謝してる。礼の一つくらいしたいんだけど」

『そうか。なら、やよいに文通の誘いでもしてやってくれ』

「へ、そんなんでいいの?」

『ああ、十分だ』


 それで終わり。手を離すと声は聞こえなくなった。

 途端夜の神社が不気味に思えて、ちょっと怖くなった。さっさと帰ろうと、やよいを起こさないようにゆっくり抱き上げる。

 軽い。特に鍛えていない啓人でも簡単に持ち上がってしまうくらいだった。

 家出までして、一緒にと思ってくれた少女。

 やよいがかわいいのは元々だが、なんだか以前よりも更に可愛らしく見える。


「いや、俺の好みは綺麗なお姉さんなんだけどなぁ」


 自身に言い聞かせるよう呟いた時点で答えは出ているような気はしないでもないが、まだまだ認める訳にはいかない。流石に小学生だし。

 けれど足取りが軽く鼻歌混じりの帰り道は、つまりそういうことなんだろう。

 まあ、それは追々考えればいい。

 今は亀井のおじさんの家にやよいを送り届けないといけない。

 そして、怒られるだろうからちょっとくらいは庇ってやらないと。

 あんまり嬉しくない状況ではあるが、何故だか気分はいい。

 本当は「何故」の理由も知っているけれど、しばらくはこの子の為にも気づかないふりでいようと思う。

 見上げればべったりとした夏の夜空に、いくつも星が瞬いて。

 こんなに綺麗な星空は初めてだと、啓人は穏やかに溜息を吐いた。






【お別れの話】




 昨夜の騒動はそれほど大きくならなかった。

 やよいが怒られるのではないかとも思ったけれど、亀井の家に戻れば両親は黙って抱きしめるだけ。

 言葉も何もなかったが、だからこそ心配していたのがよく伝わったらしく、「ごめんなさい」とやよいが泣きながら謝ってそれで終わりになった。


「刀さんが言ってた通りでした」


 その意味はよく分からなかったが、やよいが満足そうなので多分いいことなのだろう。

 騒ぎの翌日だ。朝から帰るのは少し辛いだろうと、父親は夕方に帰るよう時間を変更したらしい。

 結局今日帰るのは変わらないが、おかげでゆっくりとお別れの挨拶ができるのは有難かった。


「それじゃ七緒ちゃん」

「うん、ばいばい。またお手紙書くからね」

「はい、私もです」


 最後の挨拶は、やっぱり浅草にある小さな神社がいい。

 ぎゅーっと抱き合う二人の少女。

 うん、素晴らしい光景だ。勿論邪念はない。彼女らの挨拶が終われば今度は啓人の番、昨日の夜に用意しておいたメモをやよいに渡す。


「やよいちゃん、元気でな」

「はい、啓人さんにもいっぱいお世話になっちゃいました。あの、これは?」

「うちの住所。いや、俺もやよいちゃんと文通出来たらなって。来年くる時までに、もっと仲良くなっておきたいしさ。いやかな?」

「そんなことないです、嬉しいですっ」


 満面の笑みで答えてくれる。

 よかった、これで「それはちょっと……」みたいなこと言われたら流石の啓人も心が折れる。

 今年の夏休みは本当に楽しかった。

 だから、来年はもっと楽しくしたい。

 そう思えるのは、あのお節介な鬼の何気ない一言があったからだろう。


「ああ、もう帰るのか」


 そんなこんなで別れを惜しむ三人に、鉄を思わせる固い声が投げかけられる 。

 そちらを見れば、高校生くらいの男が一人。身長は180センチといったところか、えらくガタイのいい、なんというかちょっと怖めの外見の兄ちゃんだった。

 帰るのか、というからにはやよいの知り合いかと思えば、彼女も誰だろうと首を傾げている。


「あー、すんません。どちらさん、ですか?」


 どれだけ考えても、やっぱり知らない顔だ。

 三人を代表して啓人が聞けば、意外そうに少年は目を見開く。


「なんだ、冷たいな。昨夜のことだというのに、もう忘れたのか?」

「昨夜……?」


 昨日の夜、こんな奴と会っただろうか。

 なにせやよいを探す為に走り回っていたから、途中で会った者がいたとしてもあまり覚えていない。

 しかしこの声には、聞き覚えがあるような。


「あの、すみません」


 話の途中で、おずおずとやよいが手を挙げる。

 何か思い当たることでもあったのか、半信半疑と言った様子で男に声をかける。


「どうした、やよい?」

「もしかして、ですけど。あの、ですね……その声、刀さん?」

「もしかしても何も、その通りだが」


 刀さん?

 刀さんって、昨日の喋る刀。鬼を封じた妖刀、夜刀守兼臣のことだろう。

 いや、しかしこの彼は見るからに刀じゃないし。ああ、違う。そもそも喋っていたのは、中に封印されていた鬼なわけで。

 つまり、目の前のこいつは。


「あんた、中の人っ。ってか中の鬼!?」

「ようやく気付いてくれたか」


 してやったりと言った様子で、鬼は口の端を釣り上げる。

 それは伝承に伝わる悪鬼の表情ではない。皮肉気な色はなく、どちらかというと、悪戯が成功して喜んでいるといった感じだ。

 やよいも刀さんの本体が出てきたと知ってひどく驚いている。詳細を知らない七緒だけが困惑顔で啓人たちを眺めていた。


「いや、啓人くんには世話になったな」

「世話になったって……あ!? 鞘から抜いて置いてって」

「そういうことだ。もっとも、封印自体が弱まっていた。放っておいたところで二、三年のうちに自力で出れただろうが」


 うわ、やっちまった。

 封印て刀よりもむしろ鞘の方が重要だったのかよ。ダメじゃん俺、悪鬼の封印解いちゃったよ。

 啓人の額から汗がダラダラと流れる。勿論夏の暑さのせいではなく、原因は知らされた事実の方だった。 


「やべぇ、あれっすか。今から虐殺とか大暴れみたいな」

「そういう趣味はない。自由になったんだ、身内のところに帰るつもりだ」

「あれ、そんなもんなの?」

「意味のない殺戮は苦手でな」


 なんというか、やっぱり悪鬼って感じではなかった。

 それは不幸中の幸いだろう、ほうと啓人は息を吐く。

 大慌ての彼とは違い、初めから悪鬼だと思っていなかったやよいは、満面の笑みで鬼を迎える。


「刀さんっ」

「ああ、やよい。昨日は怒られなかったか?」

「はいっ、刀さんの言う通りでした。お父さん、泣いて無事でよかったって」

「だろう? 娘の心配をしない父親がいるものか」


 妙に実感の籠った言葉と共にやよいの頭を優しく撫でる。

 なんというか、年齢的にはお兄さんなくらいなのに、お父さんっぽい。いや、寧ろ孫にだだ甘なお爺ちゃんのように見える。

 その姿に啓人は確信した。あ、こいつ大丈夫だ。野に放っても何の問題もないわ。

 封印を解いてしまった時は大慌てだったが、出てきたのが刀さんでよかったと、心から安堵する。


「ありがとう、やよい、啓人くん。君達には感謝している。おかげで、少しだけ吹っ切れた」

「吹っ切れた、ですか?」

「ああ。考えるよりも必要なことがあると思い出せたよ」


 細められた目。まるで眩しいものを見るようだ。

 さて、別れの時を邪魔してしまったな。

 そう言うと彼は、軽く手を挙げてさっさとこの場を離れようとする。

 やよいや啓人が止めようとするも「機会があればまた会えるだろう」と、取り付く島もなく去って行ってしまった。

 いきなり現れていきなりいなくなって。嵐のような鬼の所業に三人とも呆然としてしまっている。


「えーっと、なんだったの? あれ、あの片名さんとかいう人」

「いやー、なんだったんだろうね?」


 特にまったく知らない七緒は、本気で目を点にしていた。というかカタナは苗字じゃねー。

 取り敢えず気を取り直して、啓人はやよいに向かい合う。同じ考えだったらしく、少女もちょうどこちらの方を向いたところだった。


「刀さん、また会えると思います?」

「どうだろ? まぁ、本人が言ってたし、機会があれば会えるんじゃないかな」

「そうだと、嬉しいです」


 その目にはちょっとだけ寂しさが映り込むけれど、同時に期待を感じさせる輝きがあった。

 予想外の出来事に別れの挨拶は途切れてしまっていた。どこまで話したっけ、啓人は記憶を辿り、手紙の件を思い出しぽんと手を叩く。


「ああ、そうそう。さっきの続き。手紙、俺にもくれよ」

「あ、そうですね。はい、絶対送ります。私の住所は、七緒ちゃんに聞いてもらっていいですか? 実は調べるとすぐに分かっちゃうんですけど」

「へ? どういうこと?」

「うち、兵庫だと結構有名な神社なんです」

「ああ、そうなんだ。だったら調べりゃすぐだよな。ん、ていうことは、前に家の手伝いをしてるって言ってたけど……巫女さんってことか!?」


 なんと、小学生巫女。

 なんかあれだ、やよいちゃんの巫女装束とか絶対可愛い。期待の目でやよいを見るが、しかしすぐさま「違いますよ?」と否定される。

 畜生、そりゃそうか。

 ちょっと残念だが、年上としてその程度で落ち込む姿など見せられない。内心はともかく、表面上は平然とした様子の啓人に、どこか悪戯っぽくやよいは微笑みかける。


「えと、巫女さんの服は着るんですけど。私の家の神社では、巫女じゃないんです」

「そうなの?」

「はい、昔からの“ならわし”で。巫女のことを」




 ────いつきひめって、言うんですよ。




 そう言ったやよい……夜宵やよいは、とても誇らしげだった。






【そして、いつかの二人の話】




 東京は浅草。雷門のある通りからは外れた薄暗い小路には、小さな骨董屋・古結堂こげつどうがある。

 明治の中頃から浅草に店を構えたが、然程客足はよくない。建物の作り自体もかなり古く、古結堂はうらぶれたという表現がぴったりとくる店構えだ。

 陽は既に落ち始め、辺りは夕暮れの色に染まっている。店内には電灯の明かり、日の落ちかけた時間帯であってもそれなりに明るかった。

 レジには一人の女性。古結堂の店主、柚原青葉である。

 客足は少ないが特に気にした様子もない。彼女の旦那は会社員で、生活するには十分な給金を得てくれている。骨董屋は生活の為ではなく趣味のようなもので、客が少なくても然して問題はなかった。


「邪魔するぞ」


 その日は珍しく客が訪れた。

 武骨な、鉄のような声。

 どこかで聞いた、懐かしい響きだった。

 やってきたのは十七、八ばかりの青年。

 ああ、いつかは、こんな日が来ると思っていた。

 込み上げた感情は何だったろうか。胸の奥から湧き上がる暖かいものは体を巡り、微笑みとなって滲み出す。


「あれ、お久しぶりっす……甚さん」


 彼と会うのは本当に久しぶりだ。

 互いに思惑があったとはいえ、かつては一緒に暮らしたこともあった。

 懐かしい彼が訪ねてきてくれた。青葉には、それが素直に嬉しいと思えた。


「ああ、本当に久しぶりだ。二十年、か?」

「二十三年っすよ。やだなぁ、甚さんは全然変わってないのに、私はすっかりおばさんっす」


 言いながら自身の頬をぺたぺたと触る。

 その仕草にかつての青葉を思い浮かべ、変わらないなと甚夜は小さく苦笑を零した。

 鳩の街で共に過ごした頃から二十三年、ならば今は三十後半くらいか。

 傍目にはもっと若く見えるが、やはり妙齢の女性としては気になるところがあるらしい。


「驚かないんだな」


 かつて封じた鬼がこうも勝手に出歩き、自身の下を訪ねてきた。

 もう少し反応があるかと思えば、青葉は椅子から腰を上げることもなく、ただのお客を相手するようにゆったりとした様子だ。

 甚夜にはそれが不思議で、しかし返す青葉は懐かしむように目を細める。


「驚いてますよ? ……ただ、多分来てくれると思ってたっす。甚さんなら、自由になったらいの一番に私を訪ねるだろうなって。だから、驚いてもそんなに慌てはしませんでした」


 そもそも厳重に保管していた訳ではない。なんで封印が、とは思わない。

 それに逆恨みの報復なんてある筈がない。封印が解ければ、ただ顔を見る為だけに来てくれると。だから身構えることはないと、青葉はそう語る。

 彼女の言葉に甚夜は少しだけ肩の力を抜いた。 

 一緒に暮らしてはいたが、互いに隠し事だらけだった。それでも、その程度には信頼してもらえていた。信じられるだけのものを積み上げられたと知れて、甚夜は穏やかに息を吐く。

 漏れた息は多分安堵だった。あの短い共同生活は、決して意味のない物ではないのだと、そう思えた。


「そう、か……あれから、どうしてた?」

「そりゃあもう、甚さんへの恨みを抱えて復讐に生きる毎日っすよ。後は考え事、っすかね。考えても分からないことばかり、ずっと考えてたっす」


 茶化すような物言いだが、口にしたのはどうしようもないくらいの真実だ。

 青葉の二十三年は復讐と答えの出ない考え事に費やされていた。

 どれだけ考えても分からなかったこと。けれど今、こうして答えを知っている人が来てくれた。


「ねぇ甚さん。この二十三年、ずっと考えてたんです。なんで甚さんは、抵抗もせずに封印されてくれたんですか? もっと違う方法だってあった筈なのに」


 彼が敢えて、刃を受けた理由。

 ずっと知りたかった。

 もっと器用に終わらせることができた筈の彼は、何故二十三年という歳月を無駄にして、共に過ごした人たちと離れてまで、なんの抵抗もせずに封印されるという結末を受け入れたのだろう。

 彼が何を思っていたのか。

 騙して近づいた女の子をどう思っていたのか。

 それを、ずっと知りたかったのだ。


「動けなかっただけだ」

「嘘はやめてくださいよ。甚さんが私程度の動きを見切れない筈がないじゃないですか」


 なのに甚夜は軽く動けなかったという。

 そんなの信じられない。けれど彼は、それこそが真実なのだと語る。


「いや、本当に動けなかったんだ。私は君から大切なものを二度も奪った。……だが、君に返せるものがなかった」


 三枝小尋を、七緒を奪った。

 奪っておきながら、青葉が傷つかない道を探してしまった。

 その逡巡が一手の遅れとなり、彼の動きを鈍らせた。


「どうすればいいのか分からなかった。だから避けることも防ぐことも間に合わなかった。君は迷いを断ち切り、私は迷いを捨て切れなかった。……あの一合に思惑などない。掛値なく、君の勝利だった」


 真実なぞ、その程度のもの。

 敗因を語るなら、彼の濁りだろう。

 濁った剣では切れ味は鈍る。迷いで曇った刃が届く筈もない。

 それでも相手が見知らぬ誰かならば斬れた。 

 けれど、共に暮らした青葉ではそれができなかったというだけのこと。

 彼に、迷いながらも意地を貫こうとする優しい少女など、斬れる筈がなかったのだ。


「……ほんと、甚さんて大抵のこと器用にこなせるくせに変なところで不器用っすね。ていうか馬鹿っす。封印した刀になんやかんやしたら、甚さん死んでたかもしれないんすよ?」

「そうはならない」

「むむ、なんでそう言えるんすか?」

「そもそも、そんな無様な女なら気に病まず斬り捨てられた。以前言っただろう、結末は分かり切っていると。如何な道筋を辿ったとて、いつかはこうやってまた会えたさ」


 ああ、あれはそう意味だったのかと今更ながらに理解する。

 祖父の恋人に七緒。奪われたものはあっても、青葉は決して甚夜のことを憎んではいなかったし、祖父の件がなければ刃を向けることもなかった。

 つまり甚夜は最初から、青葉にできるのは「封印するが命は奪わない」という形がせいぜいだと知っていたのだ。

 そういう女だからこそ、彼は迷った。

 だから結末は分かり切っている。

 こうやって再会した時、互いに笑顔で話せることも含めて。

 彼には、ちゃんと見えていたのだろう。


「濁った剣では切れ味も鈍る。しかし、おかげで君を斬らずに済んだ。己の弱さに感謝したのは流石に初めてだよ」

「むー、なんか掌の上で転がされたような感じで癪っすね」


 言いながらも笑顔が浮かぶのは、彼の心を知れたから。

 然して特別な絆があった訳でもなく、せいぜいがしばらく一緒に暮らしたくらい。

 しかも騙して近づいて、不意を打って封印して。そんな小娘のことを、それでも大切に想っていてくれた。

 それが嬉しい。素直に嬉しいと思えたことが、たまらなく嬉しかった。


「別に君の人生をどうにかした訳ではないだろう。辿り着いた今は、全て君の選択の結果だ」

「そりゃそうなんすけど……まあいいっすよ。結局、あの時は私の勝ちで。この二十三年で私の復讐はちゃんと果たされたんすから、甚さんの一人負けには変わりないですし。やーい、負け犬」


 君の言う復讐とは。

 そう聞き返そうとした時、「ただいまー!」と元気な女の子の声が店へ飛び込んでくる。

 そちらに視線を向ければ、よく日焼けをした活発そうな少女。どことなく青葉の面影がある。


「あ、ごめんなさいお客さん? へへ、どうも。いらっしゃいませっすー……ってあれ、さっきの、えーと片名さん?」


 曖昧に笑って誤魔化そうとする姿を見て、甚夜は彼女が青葉の娘であると確信する。

 どう見たって似た者母娘だ。先程啓人とやよいとの三人でいた時はそこまで思わなかったが、こうやって青葉と並んでみると瓜二つだ。


「娘か。いや、歳月は不思議だな。あの幼かった君が、今では母とは」

「あはは、正直私もびっくりっす。おいで、七緒」


 手招きされて、七緒は「え、いいの?」と呟きながらおどおどした様子で青葉の下へと向かう。


「この人は、古い知人でして。ささ、ご挨拶を」

「うん。えーっとは柚原七緒です。よろしく、お願いします?」


 ぺこりと頭を下げるよく、日焼けした活発そうな少女。

 七緒。

 行き場のない青葉を受け入れた、鳩の街の娼婦。

 かつての彼女が大切に想っていた、甚夜が奪ってしまった人の名だった。


「ねえ、甚さん。所詮こんなもんっすよ、甚さんにできることなんて」


 甚夜の表情に陰りが見えるより早く、ぎゅぅと娘を抱きしめた青葉は、満ち足りた笑みで語り掛ける。


「小尋さんや七緒さんを奪ったのは事実かもしれない。でも今の私には愛しい旦那様が、可愛い娘がいてくれます。甚さんが何を奪ったって無意味っす。だって今私には、傍にいてくれる人がいますから。……鬼喰らいの鬼とか呼ばれても、甚さんに出来ることなんて所詮その程度。私を不幸にすることさえできない、駄目駄目な男っすよ」

「青葉、おまえ……」

「言ったじゃないっすか、私の歳月は、復讐の為にあったって。ね、いい復讐だと思いません? 甚さんが何やったところで、ぜーんぶ無意味。どんだけのものを奪ったって、私は今、さいっこーに幸せなんすから」


 お前が何を奪ったところで、人一人の人生さえ狂わせることはできない。

 所詮はその程度。お前は無意味で、無力で、無価値な男なのだと青葉は突き付ける。

 それが彼女の復讐だった。そう語っているのに。


“私は今幸せ。だからもう気に病まなくていいんですよ”


 慈しみに満ちた青葉の微笑みは、そう言ってくれているような気がした。


「成程、復讐か……」


 かつてすべてを奪われ、復讐に身を窶した。けれど彼女のような道は選べなかった。

 格の違いを見せつけられた、とでもいうべきか。胸中は、すがすがしいまでの敗北感に満たされている。

 ああ、確かにこれは復讐だ。

 岡田貴一に敗北した時も、マガツメに野茉莉を奪われた時も立ち上がった。

 けれど今回ばかりは完全敗北を認めよう。

 二十三年という歳月をかけ、青葉は甚夜を許し、自身の手で幸せを掴んで見せた。

 彼は間違いなく彼女の微笑みに、人としての強さに、陽だまりのような優しさに叩き伏せられたのだ。


「……負けたよ」

「ふふん、当然っす。古結堂は地味な退魔だったっすけど、これからはちょっと自慢できますね」

「ああ、誇るといい。鬼喰らいの鬼を完膚なきまでに叩き伏せた人間は……青葉、君だけだ」


 長い歳月を経て、勝者と敗者は明確になった。

 けれど憎しみなど欠片もなく、どちらも笑顔で。

 復讐の果てに、こんな結末が待っているなど想像もしていなかった。


「と、すまない。長居をしてしまったな」

「いやいや、そんな。上がっていきません? お茶とお菓子くらい出るっすよ」

「そこまで厚かましくはなれないさ。今日はここで失礼させてもらうよ」


 では、な。君に逢えてよかった。

 短い別れを残し、彼は背を向けた。

 振り返りも立ち止まりもせず、一瞬の躊躇いさえ見せないでに去っていく。

 彼女も止めはしなかった。

 お互いに心残りはあったかもしれない。けれどそれを上回る暖かさがあって、だから何をしても無粋に思えた。


「……お母さん、今のどういう人?」


 甚夜の背が完全に見えなくなり、耐えられなくなった七緒が母に問う。

 彼女が知っているのは啓二たちが言っていた片名かたなという苗字と、母と妙に親しいということだけ。疑問に思うのは当然だろう。

 とはいえ、どう説明すればいいのか。

 青葉は暫く悩み込み、何かを閃いたのか、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「実は、お母さんは昔あの人と暮らしてた時期があったっす。あ、お父さんには内緒ね?」


 事実ではある。が、真実とはだいぶ違う印象を受ける言い回しだった。

 実際七緒は驚きに目をまん丸くしている。お父さん以外にそんな人がいたなんて、とちょっと照れた様子だった。


「え、えーっと。それって……昔の恋人、ってこと?」

「ううん、そういう色っぽい話じゃなかったっすね。同棲じゃなくて同居、って感じ」


 言いながらも青葉の視線は出入り口で固定されている。

 それはまるで、去っていく彼の背中を追うような、彼の行方を探すような。

 その心中を察することは幼い七緒にはできないけれど、それでも潤んだ瞳と浮かべた柔らかな微笑みに、あの彼が母にとっての特別であることくらいは理解できた。


「ねえ、お母さん」

「んー?」

「さっきの人のこと、好きだった?」


 投げかけられたのは、多分“考えても分からないこと”だ。

 あの時、一緒に暮らしていた彼を。騙されていると知りながら、それでも優しくしてくれた彼のことをどう思っていたかなんて、今の青葉には思い出せない。

 だから青菜は愛娘の髪を優しく梳きながら答える。


「さあ? ま、どっちにしろ一夜の夢っすよ」


 七緒はちゃんと答えてくれない母に少しだけ不満気。

 でも、それでいいのだと思う。

 言えなかった言葉はいくつもあったかもしれない。

 けれど、夢のままに終わるからこそ美しいものもあるだろう。

 偽りばかりの日々ではあったけど、楽しかったと胸を張って言えるから。

 彼とのことは、一夜の夢として取っておきたかった。









 そうして歳月は流れる。

 平成の世に会って、古臭い骨董屋は未だ浅草に居を構える。

 古結堂の店主である老婆は、時折昔を思い返す。




 昭和三十三年四月。

 戦後間もない時期から僅か十数年足らずで赤線は姿を消した。

 花の盛りも今は昔。

 売春禁止法以後、多くの娼館はアパートや下宿屋、普通の住宅として余生を送り。

 平成へと至った現在、半世紀経て流石に建物も風化し、かつての面影を見出すことも難しくなった。

 風景も、想いも、いつかの約束さえも歳月に流されて。




『甚さん甚さん、お腹減ったっす』

『今作るから、もう少し待ってろ』




 ────けれど私は今も時折思い返す。

    存在しない筈の鳩の街で起こった、不思議な物語を。








 幕間『復讐の果てに』・了













【余談・それからの話】




 2009年 4月 


「この刀は、夜刀守兼臣といってな」


 とある神社。

 神主の住まう邸宅、畳敷きの広間。

 男は手にした刀を、眼前で正座する少女に見せつける。

 鉄鞘に収められた武骨な太刀。

 戦国の刀匠・兼臣が鍛え上げた四口の刀は、人為的に作り上げられた妖刀だと語られる。

 男───啓人が手にした刀は。

 この夜刀守兼臣もまた、四口の妖刀のうちの一振り。古結堂店主、青葉から譲り受けた大切な刀だった。


「まあ、本物の妖刀ってやつだ。実際、俺もこの刀が喋っているのを見たことがある」

「か、刀が喋るんですか!?」

「ああ、詳しくはうちの嫁さんに聞くといい。なんせ、あいつは」


 と、調子よく喋っているところで物凄く冷たい言葉が響く。


「……なにしてるの? お父さん」


 声の主は啓人の一人娘である。

 高校生になり反抗期を迎えたのか、父に冷たい態度をとることも多くなったが、妻に似た可愛らしい娘だった。


「おう、お帰り。いやあ、折角お前の友達が来てくれたんだから、珍しいものを見せてあげようと思ってな」

「そういうのいいから、ホントに。というか女の子に刀見せてもあんまり喜ばないと思う」


 今日は日曜日。娘の友達が遊びに来たのだが、少し用事があって娘は出かけていた。

 なにやら友達は時間を勘違いしていたらしく、娘が帰ってくるまで待たなくては行けなくなった。

 ミスをしたのは友達の方ではあるが、放っておくのも気が引ける。

 ここは父親として娘の友達を退屈させないよう気遣うべきだろう。

 ということで啓人は古結堂の店主、青葉から譲ってもらった夜刀守兼臣を見せていたのだが、そこでちょうど娘が帰ってきてしまった。

 これが、冒頭の状況であった。


「えー、そんなことないけどなぁ。すごいんだよ、この刀喋るんだって!」

「いや、ないから。お父さん、私の友達からかわないでよ」


 娘の友達は同級生の少女。つまり高校一年生なのだが、かなり子供っぽい印象だ。

 喋る刀というのを疑いなく信じる辺り相当だった。

 とはいえ、啓人に嘘を吐いたつもりなど毛頭ない。

 実際、この刀は喋る。正確には喋ったのだ。

 もう必要なくなったし、啓人くん達に持っててほしいっす。

 そう言われ青葉から譲り受けた夜刀守兼臣を握り締め、在りし日の情景を思い返す。

 懐かしい、もう随分前の話だ。

 あの夏休みは今も鮮明に思い出せる。それくらい、楽しかった。


「あら、からかってなんかないわよ」


 今度は啓人の妻がやってきた。

 持ってきたお盆にはケーキと紅茶。娘達への差し入れらしい。

 長い黒髪。ほっそりとした体付き。もう三十半ばを過ぎたというのに、妻は驚くほどに魅力的だ。

 そんなことを臆面なく考えるくらい、啓人は彼女にべた惚れだ。

 初めて会ったのは彼が高校生の時、彼女が小学生の時。これで惚れたというとなにやら犯罪的だが、啓人にとっては運命の出会いだった。


「ね、啓人さん」

「ああ、勿論だ。なんせ、刀さんについてはお前の方がよく知ってるもんな……やよい」

「ええ。この刀はね、本当に昔喋っていたの」


 そう、あの夏は彼にとっても、彼女にとっても特別なものだ。

 楽しかった夏休みは、もう戻ってこない。

 代わりと言っては何だが、彼らのそれからについて少し触れよう。

 高森啓人と姫川やよいはあの夏休みから文通を始め、長い休みには一緒に遊び、順調に親交を深めていった。

 仲良くなって友達から親友に。やよいが高校生になると、二人の関係は更に変化する。


“啓人さん、好きです。付き合ってください!”


 やよいの一世一代の告白を経て、二人は恋人同士になった。

 その時啓人は21歳、大学生だった。彼もやよいのことは好きだったが、高校生の彼女に告白するのは……としり込みをしているうちに先を越されてしまう。

 恋人になれたとは言え、顛末を知った七緒に「情けない」「ヘタレ」と散々からかい倒されたのは、ある意味当然だろう。

 ともかく、二人は恋人同士になり、順調に交際を続ける。

 長く続けば当然結婚の話も出てくる訳で、しかしここで一つの問題が発生する。

 やよいは、江戸から続く由緒ある神社の一人娘だった。

 嫁に出す訳にはいかないと、彼女の父親は難色を示した。

 しかし啓人にとってはなんの問題もなかった。

 彼は付き合うと同時に通っていた大学を退学、すぐさま神職資格取得課程を有する大学を受験した。

 つまり彼はやよいが高校生の時点から結婚を見据えて下準備するという、最高に気持ち悪い行動をとったのだ。

 若干引きそうなものではあるが、やよいの父はそれを熱意と受け取ったらしい。

 こうして高森啓人は婿養子に入り、姫川啓人となった。

 いつきひめたるやよいと結婚し、彼は甚太神社の神主となったのである。


「ほらぁ、みやかちゃん。やよいおばさんだってそう言ってるし」

「うーん、お母さんが言うのなら、本当、なのかな?」


 と、ここまでくれば敢えて語るまでもないだろう。

 啓人とやよいの娘の名は、姫川みやか。

 その友人は梓屋あずさやかおるといった。


「ありゃ、意外だな。みやかはこういう話信じないと思ってたんだが」

「まぁ、なんというか……世の中不思議なこともあるから」

「うんうん、喋る刀くらいあっても不思議じゃないよねー」


 あはは、と朗らからに笑う薫と、何故か微妙な顔をしている愛娘みやか。

 刀が喋るなんて話真っ向から否定されると思っていたが、意外と二人とも受け入れてしまっている。

 やっぱり女の子はそういう夢見がちなところがあるのろうか、なんて的外れなことを啓人は考える。

 ……実際は高校生になって、喋る刀があってもおかしくないと思わせるようなオカルティックな事件に巻き込まれたせいなのだが、啓人ら夫婦がそれを知るのはもう少し後の話だ。


「でもさ、こういう話、葛野君好きそうだよね?」

「別に好きではないんじゃない? なんか“おしごと”とか言ってたし」


 葛野君、という単語に父親の眉がピクリとあがる。

 明らかに男、みやかにつく悪い虫か。追及しようと身を乗り出すが、寄り添うやよいにやんわりと止められてしまう。


「啓人さん、駄目ですよ」

「だがな、やよい。悪い虫が」

「そんなこと言わないであげてください。貴方にはそう思えても、きっとみやかちゃんにとっては違うんですから」

「……ああ、そうだよなぁ。俺達だって親には分からない大切なもんがいっぱいあった」


 一度溜息をついて、啓人は佇まいを直す。

 視界の先では仲良くじゃれあう娘達。それを夫婦は寄り添い合いながら眺めている。

 本当は言われないでも分かっているのだ。それでも心配してしまうのだから、男親というのは難儀なものである。

 そういえば昔は、大人は何でも知っていると思っていた。

 けれどあの頃より少しは大きくなって、知らなかったことを知って色んな事を覚えて。

 なのに、分からないことばかりが増えていく。

 娘の気持ちも、どういう接し方が正しいのかも。大人になっても相変わらず、分からないことの方が遥かに多い。


「でしょう? みやかちゃんも同じですよ」

「だけどさぁ」

「大丈夫、私とあなたの娘ですから。あの子が自分で大切なものを選べるように、ちゃんと見守ってあげましょう?」


 柔らかく微笑む愛しい妻に、遠い夏休み、初めて会った頃を思い出す。

 そして啓人は考える。

 あの頃から自分は、自分達はどれだけ成長できたのかと。

 答えはすぐに出てしまう。多分、あんまり変わっていないのだろう。

 大人になれば、分からないままにしてしまった沢山のものに、答えを出せる日も来ると思っていた。

 だけど子供の頃に分からなかったことは、やっぱり今も分からないままだ。 


「……ん、分かったよ。あー、なぁ、やよい」

「はい?」

「いや、お前が俺の嫁さんでよかったって思っただけ」

「そんなの、私も同じです」


 でも、それでいいのかもしれない。

 分からないことは沢山あって、いつだって不安や迷いは消えてくれないけれど。

 だからこそ触れる暖かさを大切だと感じられる。

 多分それを幸せというのだろう。そのくらいのことは、啓人にもちゃんと分かった。






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