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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編

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『夢の終わり』・3(了)



 大正の頃の話である。


『あれ、どうしたの? 宗司君随分へこんでるね?』


 浅草にある骨董屋、古結堂に一人の客が訪れる。

 白の洋装、カンカン帽。スラックスに革靴。随分とハイカラな格好をした人物だ。

 気の利いた少年風の少女か、すらりとした少女風の少年か。

 今一つ判別のつかない中性的な容姿をしたその客は、近頃よく古結堂に足を運んでくれる新しい常連で、名を吉隠よなばりといった。


『……吉隠、さん』


 祖父に請われよく店番をしている本木宗司とも懇意で、吉隠は買い物がなくとも顔を出してくれる。

 どうせ客の少ない店だ。そんな時は宗司と、店の手伝いをしている三枝小尋の三人で雑談に興じるのが恒例となっていた。

 しかし折角来てくれたが宗司の顔は暗い。

 当然だ、いつもなら店にいる筈の小尋は、あの化け物に───


『今日は買い取ってほしいものがあったんだけど、どしたの?』

『いえ、すみま、せん。買取ですか?』

『そ。この刀、昔の刀匠が作った妖刀でね。なんと鬼を封じることのできる刀って話なんだ』


 古結堂はただの骨董屋ではない。本木はそもそも歳月を経てあやかしと化した器物や“いわく付き”の品々を扱う退魔の家系である。

 故に吉隠の話を荒唐無稽とは思わない。差し出された刀は確かに不思議な雰囲気を纏っていた。


『鬼、を……』


 鬼を封じるという謂れに、宗司の視線がぎらつく。

 例えば、これがあれば。あの鬼を封じることもできるのだろうか。

 過った思考に彼の動きが止まり、吉隠は心配そうに声をかけた。


『そういえば小尋ちゃんいなし、宗司くんもちょっと変だし。ねえ、もしかして何かあった? ボクでよかったら話聞くよ?』


 ……少なくとも宗司には、心配しているように見えた。

 安心させるように吉隠は微笑んで話しかける。その優しさに気が緩んだのだろう。


『あ、ああ……』


 宗司は零れる涙を止められなかった。

 そうしてぽつりぽつりと話していく。

 小尋が急にいなくなったこと。

 彼女を探して夜の街を歩いていたこと。

 火事に見舞われた地区を訪ねた時、ようやく見つけたこと。

 ……けれど、小尋は鬼に斬り殺され、死骸さえ喰われてしまったこと。


『あの鬼は、ひろを殺して、そのまま』


 俯いたまま、悲痛な声を絞り出す。

 あの鬼には以前会ったことがある。暦座というキネマ館で、モギリと仲良さげに話していた。

 人に化けて、市井で暮らし、人を喰らう。

 あれは、そういう化け物だったのだ。


『鬼喰らいの鬼、か』

『……え?』

『他者を喰らい己が力に変える暴食の悪鬼。……実は前に、ちょろっと聞いたことがあるんだ。なんでも百年を生きた鬼で、左腕から命を取り込むことができるって話』


 左腕から命を取り込む。

 吉隠の語る“鬼喰らいの鬼”とやらは、確かにあの鬼と一致している。

 そうやって噂になるほど悪行を積み重ねてきた鬼が恐ろしく、しかしどうしようもなく憎らしい。


『あんな化け物放置してたら、きっとまた悲しむ人が出てきちゃうだろうね』


 その光景は容易に想像できた。

 宗司は涙を流しながら、明確になった仇を思い浮かべ、強く奥歯を噛む。

 自分ではあれを討てないと理解している。けれど相手は大切な女性を奪った化け物、腹の奥から憎しみがせりあがってくる。

 放っておけば、あの鬼はまた人間を喰らう。

 小尋と同じような犠牲者がまた出てしまうのだ。

 力ないとはいえ彼もまた退魔の家に生まれた男。それを見過すなどできる筈がなかった。


『そう、だ。あんな化け物、放ってはおけない』

『宗司君、一応言っておくけど、君じゃあんな化け物には勝てないよ? 自分から死にに行くなんて絶対ダメ。命は大切にしなくちゃね』

『でも』

『小尋ちゃんのことはそりゃ残念だし、辛いのも分かる。でも復讐なんてくだらないよ。そんなものに君が囚われて不幸になるなんて、ボクは嫌だな』


 そう言ってくれるのは嬉しい。

 復讐なんて意味がないと分かっている。


『こういう言い方はなんだけどさ。忘れちゃった方がいいことって、あると思うよ?』


 吉隠の言はもっともだ。宗司だって本当は理解している。

 けれど首を縦に触れないのは、心が動かないから。頭では納得していても、心の方がついてきてくれない。

 復讐に意味はなく、あんな化け物に自分では勝てず。

 それでも憎い。小尋を殺し喰らったあの鬼が。


“まぁ、あれや。気になるんやったら早めに素直にならなあかんな”


 いつか、稀代の退魔と謳われた四代目秋津染吾郎が口にした科白を思い出す。

 彼は言っていた。恥ずかしいのは分かるが、想いを伝えないと手遅れになると。

 勿論それは今の状況を予見してのことではない。他の男にかっさらわれるぞ、と冗談めかして笑っていただけに過ぎない。

 けれど此処に至って、単なる冗談が重くのしかかる。


 今更ながらに思う。

 多分、小尋のことが好きだったのだ。

 傍にいた時は照れて何も言えなかったけれど。彼女とはしゃいで過ごした毎日が彼はたまらなく好きで、できればいつまでも一緒に居たいと願っていた。

 そんな自分に、彼女を失って初めて気付いてしまった。


“誤魔化すことに慣れたらあかん。そういう奴はな、いざって時、本当に大切なもんを選べんくなる。そんで、なんもかんも終わってからこう言うんや。『仕方なかった』ってな。お前さん、一生自分を誤魔化し続けるつもりか?”


 染吾郎が教えてくれたことを反芻しながら、宗司はこれから続く日々を想像する。

 時間が過ぎれば心の痛みも薄れ、いつか誰かに恋をするだろう。

 結婚し、子が生まれ、忙しない毎日に追われて。

 そうすればきっと、小尋を失った痛みも胸にくすぶる憎悪も消えてくれる。

 だから吉隠の言葉は真実だ。忘れてしまった方がいい過去というのは間違いなく存在する。


 けれど、それでいいとは思えない。

小尋を忘れて、幸せな毎日を送るなどできない。

今ある感情に目を背けて、誤魔化して。

 無惨に殺された彼女のことを『仕方なかった』と投げ捨てるような自分なんぞ、認められる筈がなかった。


『なんか、ボクが何言っても無駄みたいだね』


 諦めるように吉隠は溜息を吐く。

 心が決まったからだろう。悲しみの代わりに、胸には重たく硬い何かがある。

 顔をあげた宗司の表情は冷たく、目には暗い光が灯っている。いつの間にか涙は枯れていた。


『すみません、吉隠さん』

『別にいいよ。代わりに、この刀ちょっと高値で買ってくれない? 斬ることで鬼を封ずる妖刀、銘は夜刀守兼臣って言うんだ』


 これからの君には必要でしょ?

 その申し出を有難いと思う。そろそろと宗司が刀を受け取れば、にっこりと笑って吉隠は言葉を続ける。


『ボクが知ってることでよかったら教えてあげる。鬼喰らいの鬼は、もともと人間だったそうだよ。そのせいかちょっと甘いところもある。例えば、仲良くなった誰かに刃を向けられたら、少しくらいは動揺するんじゃないかな?』

『あんな化け物がそれくらいで動揺するとは思えませんけど』

『はは、かもね。まあそんな話も合ったくらいに思っておいてくれればいいよ』


 他にもいろいろと教えてくれた。

 鬼喰らいの鬼の特徴。所有する<力>。

 人の世で暮らしているから騙すことに長けており、さも人の味方であるように演技しての騙し討ちを得意とする。

 最近の神隠しにもあれが関わっている可能性がある。

 宗司は一つたりとも聞き逃さぬよう、真剣に耳を傾ける。


『鬼喰らいの鬼は容赦がない。君みたいに、あからさまに敵意をぶつけてくる相手は、多分一瞬で殺されちゃうよ? 勿論どうするか決めるのは宗司君だから、君が命懸けであれと戦うんなら止められない。でも、覚えておいてほしいな。命は大切だって言っていたどこかの誰かのことを』


 一頻り話し終えると、吉隠は表情を伺うようにじっと宗司を見た。

 多分、できれば手を引いてほしいと思っているのだろう。

 吉隠の心遣いが嬉しく、しかしそれを無碍にしてしまうことが申し訳ない。

 固まったままいる宗司に、もはや何を言っても無駄だと察したのか。

 最後にいいことを教えてあげる、と吉隠はにっこりと笑う。


『一度だけしか使えないけどね。鬼喰らいの鬼を誘き寄せる、とっておきの手段があるんだ───』






 ◆






 憎しみは募り、けれど己が力では仇には届かない。

 歳月を重ねそう悟った宗司は、自身の手で鬼喰らいの鬼を討つことは諦めた。

 それは復讐をやめることと同義ではない。

 自分ではあの鬼を討てない。だから、次の世代に任せる。

 数年の後、宗司は一人の女性を娶った。

 従妹である彼女とはそれなりに親しくしており、向こうも憎からず思っていたのか、割合すんなりと二人は夫婦となる。

 ……ほんの少しの後悔と、罪悪感はあった。

 彼女を妻にと求めたのは好意や愛情が理由ではなく、かつて小尋と親しくしていたからだった。


 あの鬼には甘いところがある。

 敵には容赦しない。


 吉隠に教えられたことはちゃんと覚えている。

 だから宗司は自分の子供に願いを託す。

 生まれた子を精一杯愛し、大切な父となるよう努め、幼い頃から語って聞かせるのだ。


『昔、恋人を鬼に殺された。その憎しみは今も晴れない。どうか、お前の手で鬼喰らいの鬼を討ってくれ』


 愛した子供は父の願いを受け、しかし鬼喰らいの鬼には何の恨みもない。

 甘いところがあるというのなら、明確な敵でなければ鬼も油断するかもしれない。

 妻も子供も、無垢な刺客を作り上げるための過程。藁にも縋る思いで絞り出した、復讐の一手だ。

 できれば、子供は女がいい。

 あの鬼には猫可愛がりする娘のような存在がいると聞いた。ならば刺客は女である方が望ましかった。 

 しかし残念ながら妻との間にできた三人の子供はいずれも男児。

 子供達を精一杯愛しはしたが、積極的に復讐へは加担してくれなかった。


“決して無謀な真似はせぬように、お前達が親の憎しみを継ぐことはない”


 動かぬ息子達の裏に、妻の言葉添えがあったと宗司は最後まで知らない。

 そんなことに気が回らぬ程、彼の目は憎しみで濁っていた。


『お前は古結堂を継ぎ、我らが仇敵を討つために生きるのだ』


 だから孫娘が生まれた時、彼はやり方を変えた。

 今まで以上に厳しく、ほとんど無理矢理引き取った孫娘───青葉を躾ける。

 鬼喰らいの鬼を討つ、その為に生きろ。孫を愛してはいたが、憎悪はそれに勝った。

 老齢となった彼の憎しみは凝り固まり、もはや解きほぐすことはできない。

 青葉は生まれながらにして鬼喰らいの鬼を討つ為の刺客となるよう強制された。

 それでも彼女がまっすぐに育ったのは、祖母の存在があったからだろう。

 憎しみを継ぐ必要はない。昔はお爺ちゃんもああではなかった。

 祖母は青葉の為に心を砕き、そのおかげで彼女は爛漫な明るい娘へと育った。

 ただ人当たりの良さとは裏腹に少しばかり我が強くなってしまったらしく。

 強制される人生に反発して家を飛び出してしまうほど、考えなしにもなってしまった訳ではあるが。







 けれど少女は恐ろしく短い間に成長をする。

 鳩の街に流れ着いた彼女は七緒の下で多くと触れ合い、机に向き合う勉強では知りようもない沢山のものを得る。

 あの頃よりは大きくなって、祖父の想いについて、ほんの少し考えるようにもなった。

 だから次会った時には、もうちょっと話を聞いてあげられるような気がして。

 しかし届く突然の訃報と、お前が継ぐ筈だったものだと送られてきた一振りの刀。

 ちゃんと話せば、もしかしたら分かり合えるかもしれない。

 そんな些細な希望は途切れ、だからこそ“お爺ちゃんの為に、なにかしてあげたかった”という未練は強く残り。

 青葉は存在しない筈の鳩の街へと迷い込んでしまった。




 ◆





 くらりと頭が揺れなのは、見せつけられた事実のせいばかりでもない。

 夜刀守兼臣、宿す<力>は<鬼哭>。鬼封じの妖刀である。

 かすった程度でも効果はあるのか、手足に上手く力が入らない。

 成程、確かにあれは鬼泣かせの刀だ。

 酷い脱力感と纏まらない意識。重くなった体が、どれだけ人の世に馴染もうとも、お前は既に人間ではないのだと囁いているようだ。


本木もとき青葉あおば。お爺ちゃんの……本木宗司の無念、今ここで晴らさせていただきます」


 祖父から孫に願いは託され、辿り着いた現在。

 幼い頃から聞かされてきた仇敵に、青葉は手にした妖刀の切っ先を向ける。

 やはり敵意は感じられない。

 当たり前だ。彼女は祖父を想い、彼の今までを無駄にしたくないと願っただけ。

 もとより鬼喰らいの鬼への憎しみなど持ち合わせておらず、けれど必ず討つと心に決めた。

 本木宗司が願った通りの無垢な刺客として、甚夜の眼前に立ち塞がっていた。


「……何にも言わないんすね」

「なにも、とは?」

「だから、誤解だとか。やめてくれ、とか。話を聞いてくれとか。そういうのっす」


 おそらく本木宗司は古椿を喰らった時、何処かから見ていたのだろう。

 だから三枝小尋を殺したのが甚夜だと勘違いしている。

 そう考えて、思わず鼻で嗤う。

 それがなんの理由になる。

 三枝小尋を知っていた。マガツメの娘に喰われたと理解していた。

 しかし犠牲になった少女を哀れと思いながらも自身の都合で古椿を斬り捨て喰らった。

 所詮はその程度の男だ。仇と言われても、憎まれても、弁明などある筈もない。

 なにより、ここで仇敵を取り上げられたなら、青葉が背負って来た想いは何処へ行けばいいというのか。


「言ってどうなる。三枝小尋のことは概ね間違いない。鬼だろうが人だろうが、必要ならば斬って捨ててきた。今更弁明などする意味を感じないな」


 だから甚夜はそう返した。

 彼には眼前の少女が歩んできた道のりや、彼女の祖父の心は分からない。 

 それでも長くを生き、数え切れないほどの想いを積み重ねてきた身だ。

 今はいない誰かの想いに報いようとする青葉から、仇を───受け継いだ願いを奪うような真似は出来なかった。


「迷って、ました。鬼喰らいの鬼を誘き寄せるために“花の名を持つ女が鳩の街にいる”って噂流したけど、やってきたのが甚さんだったっすから」


 手は微かに震えている。

 体はそれなりに鍛えているようだが、あくまでも少女としてはだ。剣に慣れ親しんだ様子もなく、妖刀の力で本調子でないとはいえ、甚夜の敵にはなりえない。


「……本当は、その小尋さんって人がすっごい悪人だったんじゃないかなって思ってました。お爺ちゃんには恋人でも、私には会ったこともない人っすから。甚さん優しかったし、理由もなくひどいことするような人には見えなくて。だから、悪いのはその人の方だったんじゃないかって」


 なのに、痛い。

 彼女の言葉の方が、刀よりよほど切れ味がいい。

 本当は、信じたくなかった。それは甚夜だけでなく、青葉もだったらしい。俯いた彼女に普段の爛漫さはなく、年相応の脆さが滲んでいる。


「私は、鬼だ。答えはそれでいいだろう」

「そう、っすね。話だけじゃ信じられなかったけど。今はもう、甚さんがそういう鬼だってのは分かってるっす」


 顔をあげた青葉は、泣き笑うような、諦めたような得も言われぬ表情で甚夜を見た。

 涼やかな、やけにはっきりとした高い声で彼女は言う。


「七緒さんとのこと、見てたっすから」


 刀が心臓を貫く、そんな光景を幻視する。

 彼女の一言はそれほどに衝撃的だった。


「あの場に、いたのか」

「はい。話は聞こえなかったけど、七緒さんの首を掴んで。そこからのことは、全部見てました」

「そう、か」


 三枝小尋の件とは違う。こちらは言い訳のしようもない。

 甚夜の意思で、喰らった。

 初めは祖父の敵でしかなかったかもしれない。しかしここに至り、青葉本人にとっても甚夜は仇となっていた。


「そっちに関しての言い訳は、聞かせてもらえるんすか? 七緒さん、甚さんの姪っ子さんだったんすよね?」

「……ないな。強いて言えば、必要だったから喰った」


 殊更無感情に、突き放すように告げれば、沈黙が室内に重くのしかかる。

 偽悪的に振る舞うなど馬鹿なことだと自身でも思う。青葉は頭のいい娘だ。ちゃんと話し合えば納得してことを収められるという確信があった。

 しかし、それをして何になる。

 彼女は大切な人を奪われた。どれだけ言葉を弄しても、その事実が覆ることはない。

 ならば百の弁を重ねたとて、青葉にとってはそれが真実。甚夜と七緒の遣り取りなど、何の意味も為さない。


「……そ、っすか。残念だけど、ほっとしました」


 言いながら、深く息を吐く。

 ぴたりと手の震えが止まり、目はまっすぐに甚夜を射抜く。

 迷いはなくなった。変化した気配にそれを悟る。


「迷ってました。お爺ちゃんの為に、甚さんを討つのかって。料理上手だし、厳めしい顔の割に優しいし。だからずっと、最後まで、迷ってて。……でも、もう迷わないでいいって思ったら、なんだか安心したっす」


 眩暈が強くなった。力が入らず、体はうまく動かない。

 だが甚夜にも目的がある。マガツメ、鈴音。為すと決めたことがある。

 無抵抗ではいられない。脱力した腕を無理矢理動かし、右掌の皮膚を自身で食い破る。

<血刀>、流れた血は一振りの刀へ。赤い刀を手にした鬼を見て、しかし青葉の目に恐怖はない。


「結末は分かり切っている。それでもやるか」

「当たり前っす。そりゃ甚さんには敵わないかもしれないけど。私は、お爺ちゃんの遺志を継いだんすから」


 どのような状況であれ彼我の戦力差が埋まることはない。

 青葉の腕では、甚夜を捉えることはできない。十二分に理解しながらも、少女は決して退かなかった。

 狭い部屋だ。お互いの吐息が聞こえる、間合いは既につまっている。

 奇妙な同居人はいなくなった。

 此処にいるのは鬼と退魔。古来より変わらぬ、正しい向かい合い方だ。


 一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女と視線が重なった。


 その意図を知ることはできないけれど。

 そこに寂寞や悲哀はない。なんと言おう、この場には不釣り合いだが、青葉の目は優しげに見えた。

 それも雨音にかき消され、一呼吸の後、対峙する二人の距離は詰まる。

 武技のぶつけ合いではなく、想いの計り合いだったのだと思う。

 積み重ねてきた道のり。その果てに、抱えた想いを見せ合って、望んだ結末を求めた。

 だからきっと、どちらが強いとか、そういう話ではなかった。


「……茶番、だな」


 手から刀は離れ、ごとりと無様に落ちる。

 甚夜は皮肉気に口の端を釣り上げた。

 結末は初めから分かり切っている。誰が予見してもこうなると最初から決まっていた。

 にも拘らず、戦いにもならぬ戦いに興じるのだ。これを茶番と言わずなんと言う。


「なん、で」


 青葉の声が震えている。

 信じられないと、呆けた顔で吐息のかかる距離にある甚夜の顔を見上げた。

 赤い刀が畳に転がり、形を維持できず血に戻り消える。

 歩法、重心移動、刀の握り方、体裁き。全てお話にならない、素人に毛が生えた程度だ。

 だというのに、少女の繰り出した突きは悪鬼の一刀を掻い潜り、易々と体躯を貫いていた。


「言っただろう、結末は分かり切っていると」


 ───人よ、何故刀を振るう。


 きっと、昔なら違った。

 遠い日に投げ掛けられた問いは今も耳に残っている。

 胸にくすぶる憎悪は消えず、力だけを求めた。

 強くなりたくて、それだけが全てで。

 強くなればきっと、振るう刀に疑いを持たずに在れると思った。


 けれどいつの間にか大切なものは増える。

 例えば、あの人斬りならば「濁っている」と蔑むだろう。

 なにもかもが無駄。全てと信じた生き方を濁らせる余分にすぎぬ、そう言って切り捨てるに違いない。

 しかし甚夜にはできなかった。

 間違えた道行きの途中に出会えた、小さな小さな欠片達。

 本当に大切だと胸を張って言える日々が、憎しみに囚われ、ただ強さだけを求めていた彼の在り方を濁らせる。

 濁った剣では切れ味は鈍る。当然のことだ。

 弱くなった、甚夜自身そう思う。

 事実、彼の刀は青葉を切り裂こうと振るわれ、しかし彼女の肌に触れようとした瞬間止まってしまった。



 そう、結末は分かり切っていた。

 迷いを振り払った少女と、終ぞ迷いを捨て切れなかった男。

 最初から、彼が彼女を斬れる筈などなかったのだ。



「ぐ、あ」


 膝から砕け、無様に座り込む。

 傷は騒ぐようなものではない。しかし全身から力が抜け、<力>の行使どころか指を動かすことさえできない。

 これが、<鬼哭>の妖刀。

 もはや抗う術はない。このまま彼は刀に封ぜられるのだろう。


「甚さん、な、んで……」


 少女は動けない甚夜を見下ろしている。

 あからさまな動揺、青葉自身この結末は予想していなかった。

 敵には容赦しないという話だった。だから暴食の悪鬼に殺されたとしても、意地だけは通す。そのつもりで挑んだ。

 なのに、どうして。

 何故こんな結末になったのか分からず、けれど小さく深呼吸。心を落ち着け、感情の乗らない声を発する。


「……なんでもなにもないっすね。退魔と鬼が争って、偶然の勝ちを拾った。そういうことで、いいんすよね?」

「ああ。こちらが下手を打ったというだけの話だ」

「そっすか。なら、それで。私は、本木宗司の無念を晴らせた。これ以上言うこともないっす」


 互いの思惑はどうあれ、それが全てだ。

 青葉はどこか釈然としないものを感じながらも、これでいいと自身に言い聞かせる。

 甚夜は死なない。ただ妖刀に封印されるだけ。だとしても、鬼を人を喰らう暴食の悪鬼を封じることができたのだ。

 なにより、祖父の願いをちゃんと果たすことができた。

 結末としては、最高の形だと言えるだろう


「なあ青葉、一つだけ聞かせてくれないか」


 息も絶え絶えと言った様子で甚夜は問う。

 もういくらも時間は残されていない。それでも一つだけ、ずっと疑問に思っていったことが一つだけあった。


「なん、すか? 私に答えられることなら」

「……あの雨の夜、声をかけてくれたのは。手を差し伸べてくれたのは、私のことを知っていたからか?」


 鬼喰らいの鬼だと知って、接触を試みたのか。

 或いは何も知らず、雨に打たれた男へと手を差し伸べてくれて、共に過ごす中でそいつが仇敵だと知ったのか。

 初めて会った時の優しさは、果たしてどちらだったのだろう。

 祈るような、縋るような問いだった。

 あの奇妙な共同生活は、初めから終わりまで嘘しかなかったのか。

 ほんの少しでも、彼女の本当があったのか。 

 最後の最後になってしまったからこそ、それだけが知りたかった。


「あ、はは。もう甚さんってば、ほんと馬鹿っすね」


 けれど返ってきたのは、泣いているような、頼りない笑顔。


「私みたいな美少女が、あんな風に雨の中蹲ってる怪しい男の人に声をかけるんすよ? 企みがあるに、決まってるじゃないっすか」


 ああ、そうか。

 呟きを返すことさえできなかった。

 雨音が響く、暗い部屋。そこには、最初からそうであったように、少女の姿しかない。

 誰もいない室内で、ただ畳の上に転がった刀を虚ろな目で眺めている。

 もうあの厳めしい面構えをした、そのくせ家事のうまい変な男はいない。

 自身の手で大願を為したというのに、まるで取り残されたような気分で、少女は一人佇んでいた。


「……そうっすよ。最初っから、全部嘘っこ。私は、分かってて声をかけた。そんなの、当たり前じゃないっすか」


 誰に聞かせるでもなく、しかし青葉は語り掛けるような優しい声音で呟く。


「全部嘘っす。まあでも、そんな嘘つきな私に気付きながら、それでもせがむたびに色んなお話を聞かせてくれた甚さんのことを……私が、どう想っていたかは、別っすけどね」


 最後の最後に零れた唯一の本当は、彼の耳には届かない。

 そしてそれでいいのだと思う。

 青葉は転がる刀を拾い上げ、鞘へと戻した。

 少しだけ重くなったように感じたのは何故だろうか。





 こうして未練は消え去り、少女は鳩の街を離れる。

 傍らには一振りの刀。

 交わした約束を置き去りに、存在しなかった筈の街は、正しく存在しなかったものとなる。

 

 結局夢は夢のまま。朝が訪れ浅い眠りも覚め、不思議な街は終わりを迎える。

 歳月が経てば誰もが忘れ去るだろう。

 交わした言葉も触れた温もりも。



 それこそ夢のように、消えてしまった。






『夢の終わり』・了





  


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