『夢の終わり』・1
白い壁の目立つ簡素な部屋。
流れる春の風が柔らかに肌を撫でている。
差し込む陽光に微睡みながら、椅子に深く腰掛けたまま、私は窓の外を眺めていた。
浅い眠りに、ゆらゆらと揺れて。
私は今もまだ、あの人を、待っている────
鬼人幻燈抄『夢の終わり』
思い返すのは、体を重ねた夜のこと。
恩義と妥協で生まれた心の伴わない逢瀬ではあったが、ほたるにとっては、忘れられない夜だった。
「私は、閨で数多の男性に愛を囁きました」
ほたるの言葉を、青年はただ黙って聞いてくれている。
梶井匠を救ってくれた名も知らぬ彼は、武骨な印象はあるが不思議と話しやすい。
バルコニーで火照った体を休めながら二人空を眺める。
今宵の風は生温く、過ごしやすいとは言い難い。
それでも見上げた先にはたくさんの星が瞬いて、肺に籠った熱をゆっくりと吐き出せば、自然と穏やかな心地になれた。
「そうやって客をとる私が、他の女給達は気に食わなかったようです。心の伴わない愛の言葉を、『男に媚びている』と鼻で嗤いました。浅ましい嘘を吐いてまで客が欲しいのかと」
星空は、遠い恋の記憶に繋がっている。
だからだろう。バルコニーのあるこの部屋は、仕事の為に宛がわれたものとはいえ、案外と気に入っていた。
桜庭ミルクホールでの生活は悪くなかった。娼婦という職も、性に合っていたらしい。
男が高い金を払って買うのは、女の体ではなく一夜の夢。ならば夢足りえる女であるのは娼婦となった以上義務。
ほたるにとってそれは誇りではなく、当然の在り方。古臭い夜の女であろうとする彼女を揶揄する女給も多かったが、所詮は雑音だ。
結局は最後の最後、病で命を落とすその時まで、ほたるが在り方を変えることはなかった。
「けれど、娼婦の言葉は嘘でいいと思うのです」
だからこれは、ちょっとしたルール違反だ。
既に失われた命、存在しない街。本来ならば有り得ぬ筈だった邂逅。
この武骨な青年との逢瀬は、幾重もの偶然によって生まれた幻でしかない。
ならば、ほんの一瞬。バルコニーで星空を眺めながら、火照った体を冷ますこの時くらいは、在り方を曲げても許されるだろう。
娼婦として抱かれても、今は素直に。
いつかの少女を救ってくれた二人目の男性に、本音を曝け出したかった。
「心からの愛では重すぎる。口先だけの、一夜を越すだけの情があればそれでいい。……きっと誰もが辛い現実を抱えているから。ほんのひととき痛みを忘れて眠れるよう、瞬きの間に消える恋があってもいいじゃないですか」
“本当”はいつだって重く冷たいから、娼婦は軽薄な嘘で男を騙す。
所詮は上辺だけの恋。嘘で出来た温もりは、目が覚める頃には消えて、何一つ残りはしないけれど。
眠れない夜の傍らに、そんな恋が、せめてもの慰みがあってもいいと思う。
だから娼婦の言葉は嘘でいい。
夜眠れば、当たり前のように朝がやってくる。そう信じられないほたるだからこそ、安らかな夢を見させてやれる女でありたかった。
「……なんて、少し気取りすぎですね」
「なに、立派な心意気だ」
「いいえ、手遊びでしょう。本当はただ、自分を慰めたかっただけ。……そういう女であれば、誰かの腕に抱かれながら感じる冷たさも、少しは和らいでくれるような気がしたんです」
我ながら馬鹿だったと思う。
梶井匠の手を自ずから振り払ったというのに、誰かの暖かさを求めていた。
殊更に夜の女であろうとした。娼婦である自分にも、金で女を買う男にも嫌悪など抱かなかった。
彼女は誰かの暖かさを求めていた。それ以上に、求められることに飢えていたのだ。
けれど結局、得られるものなどある筈もなく。
ほたるはなんの価値もないまま、愚かな女として病に没した。
「正しいことを正しく行うことが、必ずしも正しいとは限らないさ」
それでも、ちゃんと救いはあった。
「始まりを間違えたかもしれない。けれど君の言う手遊びに救われた者もいるだろう。一夜の恋は夢に消えても、残るものはきっとある。私は、そう思うよ」
死んで花実が咲くものか、と人は言う。
しかし生きていた時には触れられなかった暖かさとこの街で出会えた。
奇跡と呼ぶには、あまりにも小さい。それでもほたるにとっては、存在しない鳩の街で起こった出来事も、数少ない本当で。
遠い恋の話が終わった後、もしも未練があると言うのなら。
それは多分この暖かさなのだろうと、胸中を隠すように微笑みを浮かべた。
「……その言葉。どのような女性に教わったのですか?」
「分かるか」
「ええ。だって、今の貴方はとても優しい顔をしていました」
感謝をそのまま伝えるのはなにか癪で、そんな風におどけてみせる。
自分でも気づいていなかったのだろう。ほんの少しだけ口元を緩めた青年は、指摘されて困ったように頬をかいた。
「昔通っていた蕎麦屋の看板娘にだ」
「恋人でしょうか」
「その手の艶っぽさはなかった。友人のような、姉のような。どうにも上手い言葉が見つからない……けれど大切な女性だった」
緩やかに息を吐き、寛いだ様子で彼は星空を眺める。
優しげに他の女性を語るその瞳には、隠し切れない親愛が滲んでいて、けれど不思議と悔しいとは思わない。寧ろほのかな喜びさえ感じた。
彼が穏やかに笑える、そういう過去があると知れた。それだけで胸が暖かくなる。
ただ少し、本当にちょっとだけ、羨ましくはあった。
「少し羨ましいです」
意識せずに零れて落ちる小さな嫉妬。
表情は変わらないが、僅かに青年の眉が動いた。
どういう意味だと目で問う彼に、ほたるはそっと微笑みで返す。
「そうやって、遠い思い出を迷いなく大切だと言える貴方が」
羨ましいのは想われている女性ではなく、そうと想える彼の方。
語り口から察するに、件の彼女とはもう随分会っていないのだろう。けれど青年の目には寂寞は感じられず、あるのは慈しむような暖かな色だけだ。
失くして、振り払って。ほたるには、もう大切なものなんていくつも残っていない。
それを嘆くしかできなかった彼女だからこそ、すり抜けていった幸福な過去を、嘆くことなく大切だと言える彼が羨ましかった。
「私は、失くした物を嘆くばかりで、過去を大切に想うことはできませんでしたから」
「……成程、私は恵まれている」
青年は噛み締めるようにそう呟いた。
こちらの胸中は察しているだろうに、青年は何も聞かないでいてくれる。その気遣いが有難く、もう少し踏み込んでくれてもと思わないでもない。
それは贅沢か、とほたるは微かに口元を緩め、再び他愛のない話に興じる。
しばらく話をしていると、ふと青年は小さな笑みを落とす。
「しかし、なんとも色気がないな」
確かに彼の言う通りだ。
蕎麦屋の看板娘の話が終われば、続くのは何気ない話題ばかり。
以前の仕事、どんな酒が好きか。ほたるの普段の生活や、おすすめの食堂。
楽しくはあるが星空の下の男女、しかも情事の後だというのに、語らいには艶っぽさの欠片もなかった。
「ええ、本当に。けれど、そんな夜もいいでしょう」
男女のそれとは程遠いけれど、悪くない。
激しい情動はなく、ゆっくりと染み渡るように、暖かい夜は更けていく。
時にはそんな夜もいいだろうと、素直に思う。
「違いない」
どこか吹っ切れたように笑みを落とす青年。
彼もこの時間を快く感じてくれている。そうと知れたことが嬉しい。
不意に覗き見た彼の横顔は、初めて会った時よりも穏やかに感じられる。
きっと彼もこの街で、いつかの未練と向き合えたのだろう。
そして、未練がなくなったというのなら。
“もう、お別れですね”
言おうとして、ほたるは口を噤んだ。
近付く終わりを予見しながら、それに気付かないふりをする。素直に話そうと思いながらも、その振る舞いは娼婦として培ったものだ。
ああ、結局ただの女ではいられなかったか。
ほたるは小さく苦笑を洩らし、再び夜空を見上げる。
星は相変わらず、知らん顔で瞬いて。
二人は決定的な言葉を口にせず、何事もなく夜は過ぎていく。
思い返す、夜がある。
どれだけ素直になろうとも、最後の一歩は踏み込めなかった。
でも、それでよかったのだと思う。
言えなかった言葉や伝えたかった心は、雪のように溶けて、いつかは消えてしまうけれど。
夢のままに終わるからこそ、美しいものもあるだろう。
◆
目覚めはいつになく穏やかなものだった。
まだ夢の名残が心を誘う。ゆるやかに浅い眠りを揺蕩う意識、心地よくて、もう一度眠りにつきたいとさえ思ってしまう。
娼婦の家に転がり込んで主夫の真似事をする自堕落な生活。褒められたものではないが、案外と気に入っていたのだと思う。
憎しみに急き立てられて生きてきた。
守れなかったと嘆き、失くしたくないとしがみ付いて。
歯を食いしばって歩んできた道程に後悔はないけれど。それでも、安穏と流れる時間というのはそんなに悪いものでもなかった。
しかしいつまでも立ち止まってはいられない。
まどろみに落ちそうな意識を、無理矢理に引き上げて体を起こす。
軽く体をほぐし、ぐっと表情を引き締める。
「さて、と」
また朝が始まる。
ゆっくりと、終わりへ向かって。
◆
「ごちそうさまでした。いやー、やっぱ甚さんのごはんは美味しいっすね」
朝から食欲旺盛な青葉は、二杯目のご飯を平らげ、満足げに食後のお茶をすすっている。
健啖なのはいいことだ。見ていて気持ちがいいし、こちらとしても作り甲斐がある。
お粗末様、と一声をかけ甚夜は台所で洗い物。片付けを終えれば部屋に戻り、いつものように青葉と軽い雑談を交わす。
娼婦のヒモのような生活も随分と慣れた。外聞の悪い現状ではあるが、それも終わるとなれば少しばかり寂しくはある。
「今日はどうするんすか?」
「……そう、だな」
いつか出せなかった答えを得て彼の未練は果たされた。
既に多くの者がこの街を去り、放っておいても怪異は自然と終わりを迎えるだろう。
もはや留まる意味もない。茶をすすり、一拍子置いて甚夜は静かに答えた。
「そろそろ、この街を出ようと思う」
朗らかに微笑む青葉の表情が一瞬固まる。
僅かに震える唇。予想していなかったのか、演技ではない、明らかな動揺が見て取れた。
「えと、甚さん。帰っちゃうん、すか?」
「ああ。目的は粗方達した。一応帰りを待ってくれる者がいる。これ以上長居をするのもな」
希美子や芳彦、その子や孫たち。溜那に、一応のこと井槌。
長らく暦座キネマ館を離れてしまった。彼ら彼女らに心配をかけるのは本意ではなし、そろそろ戻らないとまずいだろう。
「そう、っすか」
「君には随分と世話になった。……ありがとう、青葉。改めて礼を言わせてもらうよ」
存在しない筈の鳩の街、本来ならば有り得なかった出会い。
怪異に巻き込まれ辿り着いた場所ではあるが、そんなに悪いものではなかった。家事をやるだけの毎日も、青葉とのやりとりも。それなりに楽しいと感じていた。
あの雨の夜、彼女は得体の知れない男を受け入れてくれた。
そこになんらかの企みがあることは疑いようもなく、彼女の隠し事は結局最後まで分からないままだ。
けれど甚夜は感謝していた。
例えどんな理由であれ、青葉に助けられたのは間違いなく、彼女と一緒だから楽しかったこともまた事実だった。
「あ、はは。残念ですけど、仕方ないっすよね。それじゃ今日は」
「幾つか挨拶をしておきたいところがある。街を離れるのはそれからだな」
言いながら、刀袋に入った夜来へ手を伸ばす。鳩の街にはもう殆ど人がおらず、持ち歩いても問題ないだろう。
寄るところは桜庭ミルクホールくらいだ。店長と、ほたる。最後になるのだから、この二人とは会っておきたい。問題は殆ど片付いている、彼らと会うのも別れの挨拶をしたい程度のものである。
「戻って、来ますよね?」
けれど気負いのない甚夜とは裏腹に、青葉の声は頼りなく、まるで置いてきぼりにされた子供のようだ。
夜来を携えたことで、すぐにでも出ていくつもりだと思ったのかもしれない。
ちゃんと戻ってくるか。それを問う彼女は今までにないほど真剣で、一瞬戸惑ってしまう。
彼の反応に気付いたらしく、青葉は「あはは」と殊更軽く笑った。そして自身の失態を誤魔化すようにまくしたてる。
「いや、そりゃあ、甚さんがこの街を離れるっていうなら止められませんけど。出かけてそのまま行っちゃうとかは嫌っすよ?」
「一応戻ってくるつもりだ。今日は挨拶に使って、出立は明日にしようと思う。済まないがもう一晩泊めてもらえるか?」
「勿論っす」
青葉はおどけて敬礼をしながら元気よく答えてみせる。
無邪気に笑う姿には、先程の動揺など欠片もない。問い詰めても答えは返ってこないだろう。そう確信できるほどに今の彼女は普段通りだった。
「では、行ってくる」
「はーい、いってらっしゃい。あんまり遅くなっちゃ駄目っすよ」
作り笑いに見送られて、振り返ることなく甚夜はアパートを出る。
お互いに隠し事があり、仲良くはするが懐までは踏み込まない。それが二人の距離感だった。
親身になるような間柄ではない。けれど長くを共に過ごしたからか、やはり気にはなってしまう。
青葉は最後までこの街に残った。
取りも直さず、彼女は未練と向き合わず此処まで来てしまったのだ。
あのような年若い娘が、わだかまりを捨てられず立ち止まっている。その姿に何も思わずいられるほど冷たくはなれなかった。
しかし、歯がゆくはあるが、甚夜では手を差し伸べてやれない。
何故なら、おそらく彼女が抱えているのは───
「……いや、詮のないことか」
浮かんだ考えを振り払い、甚夜は通りを歩く。
考えても仕方のないことだ。その時が来るまでは、ただの同居人として在るべきだろう。
彼女が決断をすれば、否が応にも向き合わねばならなくなる。だから、それまでは黙って待っていようと思う。
「一雨、きそうだな」
小さく溜息を吐き、不意に空を見上げる。
視界の先には、まるで彼女の心を表すような曇り空。
いやな天気だ、と甚夜は僅かに表情を歪めた。
◆
幾度か立ち寄った食堂や蕎麦屋。
通りに面した写真館。街の中心にある銭湯、娼館イチカワ。
辺りを見回しても、何処を覗いても、誰もいない。
灯の消えた娼館の立ち並ぶ通り、昼ではピンク色のネオンも灯ってはおらず、鳩の街は既に廃墟の様相を醸し出している。
残るのは、街灯の下に転がる蛾の死骸くらいか。
閑散とした街並みに物悲しさを感じないではないが、名残を惜しむのも違うと思う。
初めから存在しない街。しがみ付いて最後を汚してしまうよりは、夢は夢として綺麗に終わらせる方が正しい在り方だろう。
だから、綺麗な終りを迎えるために、彼は桜庭ミルクホールへ足を踏み入れた。
感傷ではなく、ちゃんとけじめを付けておきたかった。
「あら、いらっしゃい」
斜めに通した真鍮製の二重取っ手が印象的なドアを開ければ、昼を過ぎてまだ夕方にもならない時間ではあったが、カウンターには店長の姿があった。
客も女給もいない。何もすることがないのか、グラスを磨いていた店長は、青年に気付くと手を止めて人懐っこい笑みでその来訪を歓迎した。
「シングルモルトがあるなら、指二本で。銘柄は任せる」
「そうねぇ、常連さんだし、とっておきを出そうかしら」
「なあ、一杯付き合わないか?」
「いいわね。私もいただくわ」
カウンターには二つのグラス。琥珀色の酒が注がれ、中の氷が音を立てた。
そういえば以前、鈴の音のように心地よいその響きが好きだと店長は言っていた。
鈴の音という表現が今一つ受け付けなくて同意はしてやれなかった。しかし改めて聞けば確かにいいものだ。
どちらからともなくグラスを合わせ、そのままウイスキィに口をつける。
やはり、旨い。
こうも旨い酒を呑める場所は中々ない。未練はないが、この店で呑めなくなるのは残念だ。
その考えも酒と一緒に呑み込んだ。こんなにも旨いのだ、余計な肴は必要なかった。
「だぁれも、いなくなっちゃったわねぇ」
ゆっくり無言で酒を呑んでいると、機を見計らって店長はそう言った。
連日盛況だった桜庭ミルクホールだが、今では見る影もない。
娼婦たちが一夜の夢を見せるならば、ここは夢の跡といったところだろうか。
華やかな夢を魅せたホールに、男二人差し向かいで酒を呑む。色気はないが、味気ないとは思わない。悪くない気分だった。
「寂しいか?」
「まさか。みんな、納得したからいなくなったの。なら喜んであげなくちゃ」
ぐっとグラスを煽り、店長は穏やかに笑みを浮かべた。
そこに迷いはない。言葉の通り、掛値のない喜びが滲んでいる。
「昔は、見送るだけの自分が辛かったわ。置き去りにされたような気がして」
彼がずっと抱えてきた未練。
昔から何一つ変わらない。動かない足を理由に、我儘を言わず決断を躊躇い、波風の立たない選択だけを繰り返してきた。
そうやって迷いを積み重ねてきた辿り着いた袋小路。
傍から見れば要領のいい、抜け目のない男が抱き続ける劣等感。
迷って迷って、流されて。
“いつか出来ず、そのままにしてしまった決断”───幼い頃から彼を苛む不安の正体だ。
「でも、今は違う。皆行っちゃったけど、寂しくはないの。だって私は此処に残りたいと思って。最後の最後まで、この店を見届けた」
長く続いた迷い道、そこから抜け出し辿り着いた場所。
売春防止法で娼館が認められなくなり、結局は中途半端に途切れてしまったけれど。
最後まで彼は此処にいた。
赤線が廃止され、存在しない筈の花街に迷い込み。
それでも、たった一つの決断だけは守り抜いたのだ。
「よかった……今度こそ、ちゃんと自分の選択を全う出来たわ」
そう在れたことが嬉しいと彼は語る。
傍から見ればささやかな誇りが、その胸にはちゃんと残っている。そうと知れたから青年は静かに頷いた。
貴方が報われてよかった。言葉にはしなかったが、店長には伝わったようだ。
互いに笑みを交わし、もう一口。喉を通る熱さが心地良かった。
「しかし結局、この街は何だったのだろうな」
一段落ついて、今度は青年が口を開いた。
この街はもう終わりを迎える。
だというのに、核となる怪異はこの街のどこを探しても見当たらない。
七緒の持つ<力>も、原因とは何ら関係なかった。
にも拘らず、存在しない筈の鳩の街は此処に在る。その理由に青年は最後まで辿り着くことができなかった。彼には、それがずっと引っかかっていた。
「夢を見ていたかったんじゃないかしら」
青年にはその謎は最後まで解き明かせなかった。
しかしなんの力もなく、怪異とは縁のない筈の店長は、考える素振りも見せずにすぐさま答える。
「夢?」
「だって、本当の花街はこんなに綺麗じゃないもの。女給達は客を取り合ってギスギスしてたし、娼婦だからって女の子を見下して道具扱いするお客だっていくらでもいた。親に売られた子もいたし、お金と女の子が行きかうんだもの。つけ込もうとする輩だって数え切れない。なのに、ここは楽しかったわ。まるで花街の華やかな部分だけを集めたみたい」
ああ、それは確かにと青年も頷く。
煌びやかな夜の街には裏がある。けれど此処はそんな裏の存在を匂わせもしなかった。
それこそ夢のように綺麗な、濁りのない美しい花街だった。
「だからきっと、これは夢なの。散々持て囃されて、なのに必要ないと捨てられた。この街が、それでもこうありたいと願った、浅い眠りに見た夢。……未練があったのは、まず初めにこの街だったのかもしれないわね」
かつては一世を風靡し、しかし時流に負けて廃れていった赤線。
けれど本当はもっと続いてほしいと願っていたのかもしれない。此処でしか生きられない女も、誘われた男も……もしかしたら、廃れていったこの街自身も。
だから街は夢を見た。
かつてのように華やかで、かつてのような後ろ暗さのない、幸せな場所。
ピンクのネオンに照らされた、煌びやかな泡沫の恋を夢に見た。
「捨てられた街の見た夢、か」
根拠に基づいた仮説ではない。呑みながら零れ出た雑談に過ぎず、真実かどうかなど確かめる手段はない。
けれど青年はそれが答えでいいような気がした。
本当のところは分からないが、なにもかもに理屈をつけてはつまらない。
街の見た夢に迷い込んで、そこで大切なものを見つけた。
結末を締め括る言葉はそれで十分だろう。
「成程、悪くないな」
「でしょう。夢で逢えるなんて、ロマンチックじゃない?」
にっ、と悪戯っぽく笑う、いい歳の男。
その乙女っぽい物言いがおかしくて、青年は珍しく声を上げて笑う。
「その相手が私じゃ盛り上がりに欠けるかしら?」
「いや、貴方のようないい男に会えたんだ。十分ロマンだよ」
「あら嬉しい。でも残念、私にそっちの趣味はないわ」
「奇遇だな、私もだ」
交わす言葉はまるで打ち合わせでもしたかのように噛み合っている。
青年につられた店長も大笑い、客も女給もいなくなったホールに、二人の笑い声だけが響いている。
ひとしきり笑い終えて、一呼吸を終えると店長は穏やかに目を細めた。
「ああ、おかしい……こんなに笑ったの久しぶりよ」
そうして彼は、もはや何の未練もないというようにゆっくりと頷き。
「ありがとね。あなた、いいお客さんだったわ」
それが最後。
からん、とグラスの氷が涼やかな音を立てて。
瞬きの合間に、名も知らぬ彼の姿はなくなっていた。
「ありがとう。おかげで、旨い酒が呑めた」
甚夜は残ったウイスキィを一気に煽る。
夢は夢のまま、得られた答えなどある筈もなく。
しかし喉を通る熱とは違う暖かさが、胸にはちゃんと残ってくれていた。