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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編
156/216

『花の心』・3(了)




 次が最後だと七緒は言った。

 それに相応しい贈り物をすれば、マガツメの<力>と最終目標を話すと。

 勿論、知れるというのならば知っておきたい。しかし困ったことに相応しい贈り物とやらが思いつかない。

 その理由は、マガツメの心を知り、少しだけ気後れしているからかもしれなかった。


「あら、いらっしゃいませ」


 どうにもうまく頭が回らず、アルコールでも入れておこうと桜庭ミルクホールを訪ねる。

 店長と共に迎えてくれたのは、楚々とした振る舞いで丁寧にお辞儀をするほたるだった。

 浮かべた笑みは相変わらず娼婦然としたもので、しかしふとした瞬間青年にだけはゆったりとした微笑みを見せる。

 梶井匠の件が片付いた為だろう、ほたるの所作には丁寧さだけではない何かが混じるようになった。


「ん、ああ」

「浮かない顔ですね」

「そうか?」

「ええ、一目で見て取れるくらいに」


 ほたるは察しがいい。それを差し引いても青年はひどい顔をしているのだろう。

 心当たりがありすぎて、誤魔化す気にもならない。落とすように小さく笑えば、ほたるはしばし逡巡し、そっと彼の手を取った。


「すみません、店長。少し出たいのですが」

「いいわよぉ、行ってらっしゃい。お得意様には報いるものがなくっちゃね」


 こちらの意見など聞くこともせず、無理矢理に外へと引っ張られる。

 所詮は女性の力、鬼である青年が抵抗すれば、されるがままになりはしない。それでも大人しくいほたるに付いていったのは。彼女へ相応の信用を抱いていたからだろう。

 連れて来られたのは隅田川のほとり。

 星空のよく見える、以前も訪れた場所だった。


「強引だったな」

「抵抗できたのにしないのだから、合意でしょう?」

「成程、違いない」


 短い会話、それもすぐに途切れる。

 普段の青年とは違うと察するには十分過ぎた。


「あの、ですね」


 こうやって連れ出したのは、以前の礼のつもりだった。

 大切な人を、彼女自身を救ってくれた。

 だから彼が悩んでいるなら恩返しがしたいと思い、けれど連れてきたはいいが、どうやって悩みを聞き出せばいいのかほたるは分からなくなってしまった。

 彼が悩んでいるなら、ほたるとしてではなく、彼に助けてもらったいつかの少女としてだろう。

 そう思い、意識してしまうと、どうにもうまく喋れない。

 娼婦のほたるは軽妙に喋る。なのにそこから外れ、ただの自分として話そうとすると、言葉は途端に出てこなくなる。

 それでも何とか伝えようとして、けれどやっぱりうまくいかず。

 あの、その、と何度も繰り返していると、青年はいつの間にか面白そうに笑っていた。


「……私がうまく喋れないのは、おかしいですか?」

「いや、微笑ましいと思う」

「二十歳を超えてその評価はあまり嬉しくありません」


 むっとすれば、余計に青年の空気は和らぐ。

 ちょっと納得はいかないが、それで彼が少しは安らいだというならよしとしよう。

 一度呼吸を整えて広がる夜を見上げれば、彼もそれに倣った。星空は遠い恋の記憶に繋がっている。ほたる達にとって、星をちりばめた夜空は今も特別な景色だった。


「すまない、心配をかけた」

「いえ。……聞いても、よろしいでしょうか?」

「なに、自分の情けなさを再認識したというだけだ」


 そうして口を噤む。

 多分、問うても答えてはくれないだろう。彼女の心持がどうであれ、青年にとってほたるは懐かしい夜の女。それ以上でも以下でもなく、踏み込んだところで返ってくるものはない。

 弁えた男性だからこそ、その線引きは明確だ。

 それに一抹の寂寞を感じながらも、せめて彼の恩に報いるよう、娼婦ではない女として言葉をかける。


「なら、よいのですが。もし何かあるのなら仰ってください。恩を受けてばかりでは、女がすたるというものですから」

「気持ちは、ありがたく受け取っておくよ」


 そう言ってはくれたが、彼が本当の意味でほたるを頼ることはないと分かる。

 けれど心は伝えらえた。

 青年はくつろいだ様子でいてくれる。それで十分だと、ほたるは静かに息を吐いた。


「折角だ、君の意見も聞きたいんだが」

「はい?」

「いや、馴染みの娼婦への贈り物を悩んでいてな。なにか、おすすめはないか?」


 案外と、彼はひどい男だと思った。

 他の娼婦への贈り物をきいてくるなんて、礼儀に悖るというものだろう。そう考えて、ほんの少し苛立ちを覚えたが、それはすぐさま霧散し消えていく。

 ああ、違う。礼儀に悖るのではないと気付く。

 青年は、ほたるを娼婦ではなく、ただのすれ違った女として扱っているのだ。

 だから過剰な気遣いも夜の街のルールも意識せず、素直に質問をした。つまりこれは、ただの女として悩みを聞いたほたるへの返礼だった。

 僅かな笑みが浮んだ。彼の心が分かったから怒ることはせず、ちゃんとただの女として応じる。


「馴染みの娼婦ですか。それはもしや、以前聞いた」

「ああ、姪っ子だ。食べ物だの櫛だのを贈ってみたが、喜んでくれたものの完全な正解ではないらしい」

「そうですか。仲は、よろしいので?」

「向こうが好いていてくれるのは間違いないとは思う」


 お手上げだ、とでも言いたげに青年は肩を竦める。

 彼は本気で困っているようだが、ほたるには大した問題であるとは思えなかった。


「なら、何でもいいと思いますが」


 自然返答はするりと出てくる。

 納得がいかないのか、青年は微妙な顔をしている。確かにこの物言いでは投げやりと思われても仕方ない。

 勿論適当に答えた訳ではない。ほたるは改めて自身の考えを付け加える。


「そこいらの娼婦ならともかく、姪御さんなら誰かに聞いたぴたりとくる物より、貴方が頭を悩ませてくれた時間の方が嬉しいと思います。好かれているのなら尚更でしょう」

「そういう、ものだろうか」

「少なくとも私は、そうでした」


 決して高くない星の砂。捨てられなかったのは、あの人の気遣いを感じられたから。

 贈り物の価値は値段や趣味に合うかではなく、込められた想い……などと考えるのは、金で抱かれる娼婦には似合わないような気がして、恥ずかしさもあり流石に言わなかった。

 けれど青年は、ほたると梶井匠との話を少なからず知っている。何が言いたいのかは理解してくれたようだ。


「成程。そういうもの、かもしれないな」

「お役に立てましたか?」

「勿論だ。本当に、助かった」


 その言葉に嘘はない。

 どうやら、まだまだ足りないとは思うが、僅かながら恩返しができたようだ。

 それが嬉しくて、ちょっと照れくさくて、ほたるは彼の視線から逃れるように再び星空を見上げた。

 青年はもう一度心の中で礼を言い、彼女の視線を追いように星を眺める。

 昔よりも随分と星の数は減った。けれど先程よりも明るくなったように思えるのだから、ネオンに満ちた花街の夜空も、悪くない風情ではあるのだろう。





 ◆




 

 紙で贈り物を包む行為は『折形おりがた』と呼ばれる。

 江戸の頃、貴重だった紙を折る行為は儀礼と祈りの象徴だった。

 紙を折るのは心を込める行為に等しい。贈りものは一過性のものだが、そこには贈る側の心遣いがある。その心遣いを表すのが折形である。

 古い時代に生まれた甚夜はそれをよく知っており、しかし今回準備した贈り物は包装されておらず剥き出しのまま。

 心を込めなかったのではない。飾らないから、伝わるものもあると知っただけだ。


「それが、今日のかい?」

「ああ」


 悪びれずに答えれば七緒はどこか楽しそうだ。

 彼の手には小さな花がある。来る途中道端で見つけた蒲公英。黄色の花が好きだと聞いていたので、ちょうどいいと思った。


「来る途中に咲いてたんだ。黄色い花が好きなのだろう?」

「うん、合ってる。ありがとう、ほんと嬉しい。大正解だよ」


 差し出された蒲公英を、彼女は壊れ物を扱うような繊細な手つきで受け取った。

 高級な菓子、つげ櫛ときて、最後に道端の花。大抵のものは馬鹿にしていると思うだろう。けれど七緒は、心からの喜びに頬を緩ませていた。

 それが、妙齢の女性だというのに、いつか見た幼い笑顔と重なる。

 そういえば随分と昔、かつては妹だったあの娘も、あんな風に笑っていたような。


「まあ、正解って言ったら今までの贈り物もそうだけどね。というか、はずれなんて最初からないんだ。私は母さんの心だから。あんたからの贈り物なら、何でも嬉しいに決まってるだろう?」


 成程、確かにこれは五つの難題ではない。

 なにを贈っても正解なら問題であるかも疑わしかった。

 贈られたものが重要なのではなく、贈る為に使ってくれた時間が嬉しい。だから人に聞いて選んだ櫛や菓子より、ふと目についた花の方が心に届いたのだろう。


“そしてそれは、多分。マガツメも、あの娘も同じだった”。


 口には出さなかった言葉を、七緒はちゃんと聞いたらしい。

 滲んだ笑みは勝ち誇るような、安堵するような、満ち足りたものだった。


「ちゃんと、分かってくれたみたいだね」

「一応はな。君の言う通り、この難題もどきにも意味はあった。ここ数日贈り物に頭を悩ませて、最後の最後でようやく思い出せたよ」


 マガツメも……鈴音も、甚太のちょっとした贈り物を喜んでくれた。

 子供の頃は金もなく、河原の綺麗な石や道端の花くらいしか渡せなかった。

 けれど、あの娘はそんなものをまるで宝物のように思ってくれていた。

 にいちゃんがくれたなら、なんだって大切と。

 そんな、何気ない幸せな景色が、かつては確かに在った筈で。

 七緒はきっと、それをこそ伝えたかったのだろう。


「なら十分。捨てられたとはいえ、やっぱり私は母さんの娘だからさ。親孝行はしておきたかったんだ」


 此処に七緒の未練は果たされた。

 彼女の未練はいうなれば“母の為に何もできなかった自分”。捨てられたとはいえ元は同じもの。助けてやれなかったと後悔していたに違いない。

 けれどようやく返せるものがあった。

 心のどこかにあったわだかまりは、母の想いを甚夜が知ったことで静かに消えていく。

 まるで春の陽気に溶けていく雪のよう。

 為すべきは為した。これでもう、思い残すことはない。


「それじゃあ、最後の話だ。母さんの<力>と最終目標。でも一つだけ約束してほしい。話を聞き終えたら、ちゃんと依頼の報酬を受け取ってくれるかい?」


“刀一本で鬼を討つ剣豪に依頼をしたいんだ。内容は存在しない鳩の街の解決。報酬は、そうだね。私の<力>、なんてどうだい?”


 話を聞き終えたなら、<同化>をもって<力>を喰え。

 約束を違えてくれるなと、彼女は微笑みながら念を押す。


「七緒」

「最初からそういう約束だろう? それを違えるってんなら、教えられないねぇ」

「……何故、そこまで」


 他者を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。甚夜の左腕はそういうものだ。

 しかし<力>だけを奪うような真似はできない。<力>を喰らうことは、命を喰らうと同義。

 彼女も知っているだろうに、何故こうも穏やかに殺してくれと言えるのか。


「決まってるだろう? 私が、母さんの娘で。それでもやっぱり私だからさ」


 それ以上の理由はいらないと、七緒はきっぱりと言い切る。

 その物言いがあまりに晴れやかだから、二の句は告げられず。

 彼女の想いが確かに伝わるから、甚夜はほんの僅かな躊躇こそ見せたが、ゆっくりと頷き了承の意を示した。


「ありがとね。約束してくれるのなら、全てを話すよ」


 そしてどうか、これから語ることに囚われず、正しいと思う選択をしてほしい。

 あんたの選ぶ未来なら、きっと母さんも納得してくれるからさ。


 まるで遺言を託すように、七緒は、あまりも優しい笑顔で最後の話を────








 ───マガツメの<力>を、目指すべき場所を知り、甚夜は言葉を失った。


 あの再生能力の意味、そこに込められた願い。

 痛々しいまでの想いは真綿の柔らかさで心を締め付ける。

 全てを知り、けれど、もう迷いはない。

 どれだけ辛い結末になろうと、彼は既に答えを決定したのだ。


「何度も繰り返すけど、最後の最後で母さんを止められるのは、あんたしかいない。それを忘れちゃ駄目だよ」

「ああ、分かっている」


 七緒の言葉に間違いはない。

 マガツメの<力>が彼女の語る通りなら、止められるのは能力的にも心情的にも甚夜以外に存在しない。

 もっとも、他に適格な誰かがいるとして、その役割を譲る気はさらさらなかった。


「さ、これで伝えたかったことは全部伝えた。あんたも満足かい?」


 ゆっくりと力強く頷く。

 マガツメの心と向き合い、その目的を知り、此処でいつか出せなかった答えを、在り方を決定した。

 もはや何の未練もないと、胸を張って言える。

 だからそろそろ、お別れになる。


「なら、よかった」


 約束を果たす時が来た

 七緒の目に怯えはなく、寧ろ穏やかで、幸福に満ちていた。

 彼女はマガツメの想いだから。

 彼の為に命を断てるなら、それすらも幸せなのだと何も言わずに語っている。


「気にしないでもいいさ。私が望んだことなんだから」


 七緒は体を寄せ、そっと甚夜の胸元に手を置いた。

 抱き合うでもなく、ただ傍に。伝わる体温を心地良いと思う。その程度には、彼女に気を許していた。


「お前は、それでいいのか」

「当然じゃないか。多少の疑問は、あんたの力になりたい、で納得してくれると嬉しいねぇ」


 茶化すような口調だが、全くの冗談でもない。

 今までマガツメの娘達が敵対していたのは母親に従っていたから。既に母の手から離れている七緒にとって、優先するべきは甚夜なのだろう。

 力になりたい。

 それは、彼女にとっては傍に居るよりも大事なことだ。

 多分、命なんて、簡単に投げ捨てられるくらい。


「女にここまで言わせたんだ。今更恥をかかせるような真似はしないでおくれよ?」

「そう言われると弱いな」


 夜の女らしい物言いに、ぎこちなく笑みを落とす。

 ほんの僅か弛緩した空気。その一瞬の隙を突いて、七緒は動いた。

 といっても危害を加える類のものではない。

 更に寄り添い、背伸びをして。僅かな油断を狙いすまして、甚夜の唇を奪う。

 情緒のない、押し付けるだけの口付け。それでも満足のいくものだったらしい。体を離した七緒は、うっすらと頬を染め、はにかんだように笑っていた。


「ごちそうさま。ふふん、母さんや向日葵姉さんを出し抜いてやったよ」


 ただそれだけで全ては報われたとでも言うように、彼女は甚夜の左手を取り、自身の首元に。

 もう言葉はいらない。何も言わず、ただ微笑んで静かに頷く。

 多分、彼女の心を真の意味では理解できていない。

 曲りなりにも敵、その無事を祈り、力になりたいと命を捨てる。

 その想いの深さを測るなどできないし、しようとすることさえおこがましいと思う。

 けれど七緒はこういう終わりを望んだ。

 ならば理解はできなくとも、想いに報いねばならないだろう。




 白く細い首、左腕に力が籠る。




 こうして鳩の街の不思議な娼婦についての話は、密やかに幕を下ろした。

 決して幸福な終りではなかった。

 それでも、彼女は最後の最後まで、嬉しそうに微笑んでいた。




 ◆




 七緒の部屋を出ると、変化した空気に甚夜は思わず足を止める。

 辺りは既に夜、そろそろ稼ぎ時だろうに、娼館は静まり返っていた。灯り一つない廊下、乾燥した空気。見回せど女給の姿はどこにもない。

 有体に言えば、此処は見た目こそ綺麗だが廃墟とさほど変わらない。人の手から離れた、死んだ家だった。

 残ったのは誰もいない建物だけ。あまりにも簡単に、娼館イチカワは終わりを迎えた。

 それも当然かと思う。此処を管理していたのは七緒、彼女が消えれば多くの娼婦達はしがみ付く理由を失くす。

 元より既に存在しない場所ならば、結末もこんなものだろう。

 寂寞を覚えないではないが、いつまでも立ち止まっているほどではない。最後に一度振り返り、かつて七緒がいた部屋を心に留める。弔いにもなりはしないが、それで十分な気もした。

 そうして娼館イチカワを後にする。

 夜は深く、しかし通りに花街特有の活気は見られない。売春防止法が施行された花街は、どこもこのように寂れた雰囲気を漂わせていた。

 近づく終わりが肌で感じられる。何かの間違いで残り続けたこの街も、もうすぐ正しい最後を迎えるのだろう。

 甚夜は誰もいない通りで独り、じっと自身の左手を眺める。

 七緒を喰らった。彼女もマガツメの娘、<同化>で取り込んでも殆ど彼女の記憶は得られなかった。

 けれど彼女の<力>を得て、その意味を知った。


「<水仙>……」


 それが七緒の、本当の名前。

 マガツメの娘は全員が花の名を冠し、名と同じ<力>を有し、自身を象徴する言葉を持つ。

 水仙の花言葉は「自己愛」。

 しかし七緒が好きだと言った、黄色の花の持つ意味は。

 彼女を象徴する言葉は。


「……“もう一度、愛して”」


 故にマガツメは七緒を捨てた。他の娘達とは違い、心底いらないものとして。

 兄を愛する気持ちは認めても、愛されたいという願いだけは受け入れられなかった。

 理由なぞ考えるまでもない。

 昔は気付かなかったが、七緒の話を聞き、あの娘が想いを知った今なら分かる。

 甚太が白雪を想っていたから、成長を止めてまで妹として傍にいた。

 妹でいるために、愛されたいとは願えなかった。

 そんな彼女にとって愛されたいという欲望は、七緒は忌むべき存在でしかなかった。

 そうまでして、あの娘は兄の幸せを願ってくれていたのだ。


 ああまで喰われたがった理由はそれか。

 初めから必要とされなかった想い。

 何処にも行き場のない彼女にとって、甚夜に喰われ彼の力となることは、たった一つの救いだった。

 それくらいしか、望めるものがなかった。


「寄る辺のない想いは、哀しいな」


 だから抱えて歩こうと思う。

 そっと左手を撫で、確かに感じた彼女の暖かさを忘れ得ぬよう心に刻む。


「ありがとう。君の想いは、ちゃんと受け取った」


 母を慕う心も、この身を案じてくれた優しさも。

 呟く声は夜に消えていくけれど、胸に残るものは確かに在って。

 いつかこの街が終わる時、儚い夢の記憶を失ったとしても。

 どうか胸に宿った暖かさくらいは残せますようにと、目を伏せて小さく祈る。


 そしてまた歩き始める。

 最後の答えと、ほんの少しの温もりを抱えて。

 静けさの響き渡る寂れた通り、夜の暗がりでは先を見通すことはできない。

 それでも彼女が燈籠のように道行を照らしてくれたから、今までよりも明るい場所に辿り着けるような気がした。






『花の心』・了

     


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