『花の心』・1
その4 マガツメの娘 七緒について
***
ほたるは青年に感謝している。同時に申し訳なくも思っていた。
かつての恋人との諍いを収めてくれたのは彼。その為に安くない金を支払わせてしまった。
そんなものそちらの勝手だと言えばそれまでだが、開き直れる程ほたるの面の皮は厚くない。
だから、せめて支払った金の分くらいはと体を預け、それで気が済むのならばと青年も受け入れた。
つまりは恩義と配慮、妥協の産物だった。
付随する感情が何だったのかは、彼女にも彼にも分からなかった。
「君の肌は、冷たいのだと思っていた」
桜庭ミルクホール二階、バルコニーを有した部屋はほたるの自室兼仕事場だ。幾夜を重ね体を重ね、娼婦として積み上げた日々が此処にはある。
薄暗がりの中、ランプの灯だけが揺れる室内。サイドテーブルに置かれた水で喉を潤してから、青年は少し意外そうに言った。
ほたるは一瞬何を言われたのか分からなかったが、よくよく考えてみれば青年は彼女のことを大凡把握している。
死人に体温はない。既に終わったこの身ならば、冷たいと思うのが自然かもしれない。
「と、流石に失礼だったな」
「いいえ、お気になさらず。そういう感想が出るなら、少しは暖かいと感じていただけたのでしょう?」
「ああ」
「なら、よかった」
シーツに包まったまま、ほたるは微笑みで返す。
彼が馬鹿にするつもりで言ったのではないと分かっている。そういう底意地の悪い男ならば、そもそもこんな奇妙な女に近付こうとは考えない。
零れたのは失言ではなく単純な感想で、零した理由は彼女なら間違えた捉え方はしないという信用だ。それを考えれば苛立ちなどある筈もない。
もっとも、彼の信用の大部分は夜の女であるほたるに対して。そこにほんの少しの引っ掛かりを覚えるのは、心境の変化があったからだろう。
「私も、暖かった」
ほぅ、とゆったり息を吐き、ほたるは俯いたまま呟いた。
誰かの腕に抱かれても、冷たいと感じる夜の方が多かった。けれど今は、彼を暖かいと感じられる。
彼と今までの客が、目に見えて違うという話ではない。変わったのは他でもない自分自身だ。胸にあった未練が解け、素直に誰かの暖かさを信じることができた。
「もしも私を暖かいと感じてくださったのなら、それはきっと貴方の温度です」
漏れた言葉はひどく素直なものだ。垣間見えた何者でもないただの女の表情に、青年も小さく口元を緩めた。
貴方様、と以前は呼んだ。様を付けなかったのは、ほんの少しの親愛を示す為。
所詮は金で買われる女。どれだけ飾り立てても、囁く愛など一夜の夢に過ぎない。示した親愛も夜が明ける頃には消え失せる。
「なんともこそばゆいな」
それでよかった。瞬きの間に消えるからこそ美しいものもある。そうほたるは思う。
青年も嘘と知って騙されてくれる男だ。だから二人の間に特別な感情はなかったが、多分、この一瞬だけは確かに恋だった。
「さて、ここいらで失礼させてもらう」
閨を共にし、明け方が近づくと青年は身支度を整え始めた。
日はまだ昇っておらず、空は夜とも朝ともつかぬ薄く青白い色合いをしている。鳩の街では吉原などと違い、昼頃まで寝ていても問題はない。
けれど彼は日が昇る前には此処を出るつもりらしく、寝起きの気怠さや疲れなど一切見せず、早々に準備を終えてしまった。
「……もう、行かれるのですか?」
「ああ。楽しませてもらった」
落とすような笑みに、世辞でないと分かる。名残惜しいと思わないではないが、引き止めるのはルール違反だろう。
では、お見送りを。ほたるも手早く洋服に着替え、寄り添いながら桜庭ミルクホールの玄関へ。手はそっと離れ、一夜の恋はここで終わり。ただのすれ違いに二人は戻る。
「それでは、ありがとうございました」
楚々とした立ち振る舞いで頭を下げ、青年の出立を見送る。
そこにいるのは一分の隙もない娼婦としてほたるだ。そうやって他の誰かであろうとする彼女に懐かしい景色が重なった。
「どうか、されましたか?」
夜の女の嗜みなのか、夜鷹もそうだったが、ほたるも随分と目敏い。
勿論、彼女は青年の過去を知らない。何を考えたかまでは分からぬものの、ほんの僅か強張った横顔にふと過った郷愁を察したらしい。
けれど“君に似た人を知っている”とは言わなかった。一夜とはいえ恋のお相手、別の女の名を出すのは礼儀に悖る。
「少し昔を思い出しただけだ」
だから誤魔化すようにそう言って、別れの言葉の代わりに片手を挙げてその場から離れる。
確認しなくても分かる。ほたるはきっと姿が見えなくなるまでお辞儀をしたままだろう。律儀というよりは夜の女が染みついているのだ。
それがどうにも微笑ましく思えて、青年は小さく笑みを落とした。
そして、自身の言葉を思い返す。
“少し昔を思い出した”。
例え自分でいられなくなったとしても、他が為にと祈りをささげた少女。
彼女のことは今も心の片隅に残っている。
けれど思い出せば、どうしても、もう一人が頭を過った。
こうやって穏やかな遣り取りを交わしていても、それについて考えるだけで、どろりとした憎悪はすぐに胸を埋め尽くしてしまう。
遠い恋の話は、青年にとって大切な思い出ではあるが、未練ではない。
後悔など一つもない、彼女との恋を今でも誇れる。
だから、もしも彼に未練があるとすれば。
「……いつまでも、立ち止まったままではいられないか」
ざわりと騒いだ胸中を宥めるように青年は肺の空気を吐き出した。
多分偶然ではなかったのだろう。
彼が、仇敵の娘が、この街に辿り着いた理由はきっと────
鬼人幻燈抄『花の心』
夜の暗がりの中、ピンクのネオンに照らされ浮かび上がる娼婦の姿。
街灯に誘われた蛾の如く群がる男達。
花街特有の活気に満ちていた通りも、今では随分と静かになってしまった。
客引きの女や今夜のお相手を求めうろつく男達は目に見えて減り、しかし変わらずネオンに染まった煌びやか町並みは、だからこそ余計に寂しく見える。
日を追うごとに娼館の灯は消えていく。それはちょうど、売春防止法が施行され、次第に閑散としていった各地の花街の景観と同じだ。
寂れ廃れていく街には、隙間風が抜けていくような、一種独特の空気がある。だからだろう、近づく終わりの気配は肌で感じられた。
甚夜の尽力ではない。そもこの街は放っておいたところでいずれ終わりを迎える。所詮はは未練、歳月を重ねれば記憶に埋もれ、繰り返す日常に薄れ消えていくもの。
ならば未練で編まれたこの街もまた、いずれは消え去り忘れ去られるが道理だ。
「ああ、来てくれたのかい」
けれど、そうなる前に、やらなければいけないことがある。
数日後。夕暮れ時、客が入ってくる前に甚夜は娼館イチカワを訪ねた。女給達も慣れたもので、すんなりと目当ての女の下へ案内してくれる。
奥の部屋で待っていたのは、洋服を着崩し気怠そうな雰囲気を纏った女。
マガツメの娘、七緒である。
「座りなよ。そろそろ来るんじゃないかな、とは思ってた」
促されて甚夜が腰を下ろせば、七緒はくすりと口元を綻ばせる。悪戯っぽい笑みには、少しだけ違う何かが混じっている。
諦観。疲労。躊躇。寂寞。瞳に宿る色は様々な感情が綯い交ぜになって、どうにも表現しにくい。
けれどそれも一瞬で消えた。品定めでもするように甚夜の目を見て小さく頷くと、七緒は佇まいを直す。
腰を落ち着け向かい合う二人。その頃には、普段通りの娼婦然とした態度に戻っていた。
「で、今日はどうしたんだい? 私を買う気になったってんなら嬉しいねぇ」
「茶化すな。理由など言わずとも分かっているだろう。……君の思惑通り、此処に来たんだ」
「その言い方じゃ私ばっかり企みごとをしてるみたいじゃないか。思惑通りはそっちだって同じだろうに」
「成程、それもそうだ」
互いに目は逸らさない。
険悪ではなく、見つめ合うというほどの艶もない。穏やかというには少しばかり硬さが残る。
普段通りを演じながらも幾らかの緊張。奇妙な空気が二人の間には流れている。
けれど不快と感じないのは、目的がはっきりしているからだろう。
「皆、それぞれ前を向き始めた。私とて、いつまでも逃げている訳にはいかないさ」
「そりゃあ私の方もさ。やることはやっとかなきゃ終われないだろ?」
思惑など初めから透けている
甚夜は彼女のもとへ訪れ、七緒もそれを待っていた。互いに同じ認識を持っているからだ。
存在しない筈の鳩の街。その怪異を紐解いてほしい。
それが七緒の依頼だった。
彼女は、この街のからくりに気付いていながら解決に乗り出そうとはしなかった。多分どうでもよかったのだろう。
誰を取り込んだとて七緒はマガツメの娘、切り捨てられた鈴音の一部。故に良くも悪くも想いの向かう先は一つしかない。
つまり七緒の思惑は最初から甚夜にある。
奇しくもそれはこちらの思惑とも重なっていた。
もしもここが未練で出来た街だと言うのならば、彼にとって、彼女にとって、未練というのは。
取りも直さず、向かい合う互いに他ならない。
「私は、七緒を喰らってこの街に潜り込んだ。目的があった訳じゃなくて、単なる偶然。母さんに捨てられて流れついたのがこの街だっただけ。ま、それなりに満足できる生活だったよ。……でも、やっぱり私も、母さんの娘らしいね」
茶化したような軽さだが、その目は揺らがず、まっすぐに甚夜を見ている。
彼もまた逸らすことはなかった。向き合わなければならないのは七緒だけではない。ここで逃げればしこりを残すと知っていた。
「私の未練はあんた。今更母さんの為に、なんて思わないけどね。それでも私は母さんの切れ端、随分と昔にあんたを慕っていた、鈴音の心の一部だから。いつかは、向き合わなきゃいけない時が来るって知ってた」
彼女はマガツメの娘。だからこそ甚夜も此処へ訪れた。
思い出すのは長く短い歳月、歯を食いしばって歩いてきた百年の記憶。
その途中で拾って来た大切な欠片達、それでも捨て切れなかった憎悪。
“鈴音……いや、マガツメよ”
“確かに私は、様々なもの切り捨てて来た。だが足りなかったようだ。捨てる覚悟が、足りなかった”
“様々な余分を積み重ね今の私がある。失ったとて、重ねてきた日々を間違いとは思わない。だが、まだ捨てなければならないものがあったんだな”
あれは、明治の頃だったか。
白雪を殺され、憎しみに身を委ねた。
おふう達と出会い、野茉莉と共に暮らし、力ではない強さを知った。
始まりを間違えたかもしれない。だとしても、積み重ねてきた日々は決して無駄ではなかった。
そう心から信じて。
“許せるかもしれない。そんな淡い希望、初めから捨てておくべきだった……!”
なのに、その価値を示せなかった。
惚れた女との望まぬ再会を果たし、愛しい娘の記憶を奪われ。
甚夜はマガツメに戦いを挑み───結果、何一つ守れず地に伏した。
「私も、同じだよ。お前達といつかは向き合わないといけない。そう思っていた」
零れた声は普段からは考えられないほど弱々しい。
かつて口にした悪意は紛れもない本心。あの時甚夜は、鬼の体ではなく、彼自身の心で妹を憎んだ。
いつかは許せるかもしれないと答えを先延ばしにした結末がこれだ。無様にもほどがある。
「あの娘が憎い。大切に想いながら、百年を生きて尚、胸を焦がす憎悪は捨てられなかった。そして、あれは真実マガツメとなった。おそらく、私達はもはやどうしようもない局面にまで差し掛かっている」
彼の未練は“それでもどうにかなるのではないか”という、心の片隅にあった甘え。
兄妹は憎しみ合いながらも、最後には許し、あの娘も思い直して。
許せなかったとしても、何の躊躇いもなく斬り捨てることができて。
迷い続け答えも出せないでいる癖に、そんな都合のいい未来を想像し、幸福な結末を諦めきれていなかった。
けれど、あの娘は確かにマガツメとなり、甚夜は憎しみを捨てられず。
おそらく兄妹は予言された通りの未来へ辿り着く。
「……だからこそ今、あの娘と。かつてあの娘の中にあった筈の想いと、向き合わなければならない」
ならば葛野甚夜は今こそ答えを出さねばならない。
本当なら故郷を旅立ったその日に決めておかねばならなかった。答えを先延ばしにしてきた、そのツケが巡り巡って回ってきただけのこと。
鬼神となったあの娘をどうせねばならないか、ではない。
道行の果て、自身がどうしたいのか。
迷い続けてきた心の在り方を決定する。そういう日が、ついに訪れたのだ。
「それはつまり、私達。切り捨てられた母さんの心を知った上で、殺すか生かすかを選ぶってことかい?」
馬鹿だねぇ、斬るつもりなら何も知らないでいた方が楽だろうに。
七緒は言いながら悪戯っぽく笑う。彼女の言う通りだと甚夜も思う。しかし楽という理由でそんな真似をする気にはなれなかった。
「斬り捨てるなら、あの娘の想いごと。受け入れるならば、憎しみごとだ。向き合うとはそういうことだろう」
「随分と面倒くさい男だねぇ」
「悪いな、性分だ」
呆れたように溜息を吐きながらも、七緒の表情はどこか晴れやかだ。
少なくとも、母を問答無用で討つような男ではない。そうと知れたからか、空気は僅かに弛緩した。
そうして彼女はゆったりと頷き微笑んで見せる。
「あんたとしちゃ、なんだかんだいって敵同士、殺し合うことになる。それでもちゃんと分かり合っておきたい……で、いいのかい?」
「多少乱暴だが、概ね間違いはない」
「私の目的は、あんたと向き合うこと。ま、分かりやすく言や母さんの想いを少しくらい知っておいてほしいってところかね。嬉しいねぇ、いい感じに通じ合ってるじゃないか」
感慨深げに息を吐くが今更だとは思う。通じ合っているというのならば、初対面の時点でだ。
いずれ終わると知りながら、七緒が鳩の街の怪異を解き明かしてほしいと依頼したのは、つまり「お互いに納得のいく形で終わらせましょう」というアピール。
甚夜が依頼を受けたのは了承の意を示す為。
直接的な言い方を避けただけ。多少回りくどくはあったが、そもそも最初から、こうやって向き合うことこそが彼らの望みだった。その認識はお互いのものである。
「なら早速腹割って話そうじゃないか……と、言いたいとこだけど、ただ喋るのも芸がないだろう?」
そう思っていたから、彼女の態度に表情を硬くした。
一気に本題へ入るつもりだったが流れを止められ、肩透かしを食らったような気分になる。
思惑は一致していた筈だった。にも拘らず、ここにきて意図が読めなくなり、甚夜は怪訝に眉を顰める。
「ってことで、私を喜ばせる贈り物を準備してくれたら、あんたが知りたそうな話を一個ずつしてあげようじゃないか」
「贈り物?」
「そ、女の口を割らせるんだ。ちょっとしたプレゼントくらいあってもいいだろ?」
「……五つの難題のつもりか?」
「あはは、お姫様なんて柄じゃないよ。姪っ子のお遊びに付き合っておくれ、程度のもんさ」
今更そんなことを言い出す七緒に、苛立ちがなかったとは言わない。
望むところは同じ。だというのに何故そんなしち面倒くさい真似をするのか疑問もある。
しかし冷めた目で見据えても七緒は悪びれずけらけらと笑うだけ。
態度こそ軽薄だがあれも一個の鬼。問い詰めて撤回する程度なら、そもそもこのような提案はしないだろう。
「いいだろう」と諦め混じりに答えれば、言い出したのはそちらだというに七緒は目を丸くした。
「おや、案外簡単に納得するじゃないか。ま、そこで“なんならお前を斬り殺しても構わんのだぞ”……なんて脅しをかけない辺り、あんたも大概頑固だね」
了承するのは知っていたが、こうも話が早いとは思っていなかった、というところか。
ここで“甘い”と言わず“頑固”と表現する辺り、七緒はよく見ている。
今まで散々斬り捨ててきた。今更斬るに躊躇いはなく、しかし彼女に刃を向ける気は確かにない。
向き合うと言った以上、そこを曲げるつもりはなかった。
「言った筈だ、向き合うと。……それに、ここまで来て意味のない戯れに興じる女でもないだろう」
「あはは、嬉しい評価をしてくれるね。勿論、意味ならちゃんとあるさ」
意図はまだ見えてこないが、それを聞けただけでも良しとしておこう。
また来る。そう短く言って甚夜は立ち上がり、七緒の視線を感じながらも振り返らずに部屋を出る。
随分と長く話し込んでいたらしく、娼館イチカワの玄関をくぐると、夕暮れは既に藍色の空へ移り変わっていた。
随分と人の数を減らした通り、奇妙な寂寞を一瞥し帰路へつく。
取り敢えず、まずは一歩目を踏み出した。とはいえ手放しに喜べる状況でもない。
七緒は、「私を喜ばせる贈り物を準備してくれたら、あんたが知りたそうな話を一個ずつしてあげよう」と言った。
つまり気に入らなかったら話さない、ということ。どうにも厄介な話になった。
「五つの難題よりは幾らかましか」
ぽつりと零した冗談はそっと夜に消えていく。
竹取物語において、かぐや姫は自身を求める五人の男へ、結婚の条件として五つの宝を求めたという。
仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の裘、龍の首の珠、燕の産んだ子安貝。
元より有り得ぬ神宝、当然ながら誰一人として持ち帰ることはできなかった。
それに比べれば、気に入るものを持って来いというのはまだ常識的だ。
多少引っ掛かる点もあるが、こうなったからには相手の要求を受け入れる他あるまい。
思いながらもすっきりしない心持で、甚夜は小さく溜息を吐いた。