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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編
152/216

『君と星空を』・2




 誰かに抱かれて眠る夜はひどく寒い。

 ベッドで折り重なったまま眠る男女。既に日は真上にまで上り、明るい昼の光が窓から差し込めば、その眩しさに男の意識はようやくはっきりしてきた。 

 女は既に起きており、男が目覚めるのを待っていたらしい。起き抜けに視線が合えば、熱っぽい微笑みを浮かべて胸元にしな垂れかかる。

 甘えるような仕草に男は心を擽られ、殆ど衝動的に唇を奪っていた。

 

 吉原では昔からの習わし通り朝八時になれば叩き起こしてでも客を帰すが、鳩の街はのんびりとしたものだ。

 新しいが故にその手の規律はゆるく、昼頃まで寝てから帰る客も多い。

 ほたるの昨夜の客もゆっくりとした朝を迎え、送り出す頃には昼食時を幾らか過ぎていた。


「ふぅ……」


 桜庭ミルクホールの前の通り。客が満足げに帰ったのを確認してから、ほたるは小さく息を吐いた。

 夜通しの客は中々に体力を使うが、男の前では疲れたところなど見せられない。その背中を見送って、ようやく一心地である。

 娼婦という仕事が嫌だと思ったことはない。一夜の夢足る女であろうとほたるは努力をしてきた。

 けれど誰かに抱かれて眠る夜はひどく寒い。 

 だから暖を求めるように、手は自然と洋服のポケットに入れた小瓶へと向かう。

 取り出そうとして、しかしやはり疲れが残っていたらしい。うまくつかめず小瓶は地面へと落ちて、ころころ転がっていってしまった。

 失敗したが、割れなかったのは幸いだ。転がって行った小瓶を追い、けれどそれは目の前で他の人に拾われた。


「……これは、君のか?」


 拾ったのは、近頃桜庭ミルクホールへ酒を呑みに来る武骨な青年だった。

 無表情のまま小瓶を拾い上げた彼は、一瞬それに目をやった後、無造作にほたるへ手渡した。

 手元に戻った星の砂、握りしめたガラスの手触りに安堵の息を吐く。ほたるは感謝から、娼婦の顔を作るのも忘れて素直な微笑みで礼を言う。


「ありがとうございます。お手を煩わせてしまいました」

「いや。……その小瓶。星の砂、だったかな?」

「はい。昔、お土産にと頂いたものです」


 浮かんだのは、やはり心からの笑み。

 随分と昔、匠がくれた星の砂。彼にとっては単なるお土産だったかもしれない。

 けれど嬉しかった。今でも握りしめれば胸が暖かくなるくらいに、星の砂は心を満たしてくれる。

 大切なものをいくつも捨ててきたけれど、これだけは最後の最後まで捨てられなかった。


「瓶のくすみを見るに、随分と古いもののようだが」

「頂いたのは、もう何年も前になります」

「随分と大切にしているんだな」

「……ええ。様々なものを捨ててきた身ですが、これだけは手放せませんでした」


 無防備に漏れた微かな本音。娼婦の本分からはかけ離れた態度だ。

 昼だからと気を抜き過ぎたらしい、自身を諌めほたるは嫋やかに微笑んで見せる。


「いけませんね、夜の女が浮世を引きずるなど」

「なにを。誰であれ、捨て切れないものはあるさ」


 勿論、私にも。

 胸の内を察したから、追及はせず深々と頭を下げる。

 ほたるはこの青年を気に入っているが、それはあくまで弁えた客として。逆に青年も、ほたるの夜の女としての立ち振る舞いを評価しているに過ぎない。

 だから心を許し、ほんの少しの本音は見せても、互いに深くは踏み込まず入らせない。

 それが暗黙の了解というもの。相手もそこは十分理解している。


「君も、梶井匠のことを捨て切れないからこそ、そいつに拘るのだろう?」


 理解していると思っていたから、突き付けられた鋭利な言葉に、心臓を抉り取られたような気がした。

 油断、していた。その分痛みは際立って感じられる。

 何故、彼のことを。あなたは何を言っているのか。渦巻く感情は形にならず霧散していく。


「在りし日の面影を宿す小瓶……未練だな」


 決して馬鹿にした訳ではない。

 彼の目はひどく穏やかで、子供を窘めるような優しい声音で。なのに抉り取られた心臓が騒がしい。

 見たくないものを見せつけられている。これは、そういう痛みだ。


「今日は、随分と意地悪なのですね」


 ようやっと絞り出せたのは、その程度。

 微笑んで見せたつもりでも表情はぎこちない。


「すまない。だが目の前で他の男からの贈り物が大切だと言われれば、嫉妬の一つもするだろうよ」


 青年は軽い謝罪を口にしながら肩を竦めてみせた。

 嫉妬などと言いながらも、彼の本音がそこにないのは、悠然とほたるの反応を観察しているところからも明らかだ。


「……昨夜は梶井某と偶然にも会ってな。どうやら彼の情念に引きずられたようだ」


 だからそれも、反応を確かめるため口にしたのだろう。

 分かっているのに、ほたるは僅かに体を震わせた。

 彼と会った? それは、どういう。

 揺れた瞳は青年を見る。けれど彼はそれ以上何も言わなかった。

 ほたるの様子を確認した青年は、「では、これで」と簡素な挨拶を残し、僅かな名残さえ見せず去っていく。

 聞きたいこと言いたいことはあった、呼び止めようともした。

 けれど結局口にはできず、ほたるは小さくなるその背中を、追い縋れないままにただ眺めていた。













“君は、あの時の”

“あの娘とはどういう関係だ”

“どこにいるか言え”

“彼女はこんなところにいていい人じゃないんだ”

“今度こそ、幸せにする。ずっと一緒にいる。もう絶対に離しはしない”

“だから、頼む。彼女を、どうか”


 脳裏を過るのは、叩き付けられたむき出しの感情。

 男として気持ちは分からないでもないし、心情的には彼の味方ではある。とはいえその行いを肯定することもできず、どうにも胸中は複雑だった。


「……迷って出る訳だ」


 十分に距離を取ってから、人混みの中で甚夜は独り言ちた。

 昨夜、梶井匠に少しばかり話を聞いた。初めて会った時の遣り取りから、執着しているのはあちらばかりかと思っていたが、なんのことはない彼女の方も相当らしい。

 だから、きっと、迷って出たのだ。

 互いが互いに未練を持ち、鳩の街はそれを受け入れてしまった。

 その結果が今の彼ら。なんとも奇妙な話ではあるが、よくよく考えればいい機会ではある。

 本当は分かっている筈だ。

 どこかでけじめをつけないといけない。

 いつまでも立ち止まってはいられないと、彼ら自身分かっていて。

 それでも一歩目を踏み出せなかったから、存在しない筈の街に彼らはいるのだろう。


「似合わぬお節介ではあるが」


 ならば、ほんの少しだけ背中を押しても罰は当たるまい。

 亡くしたものに魅かれた心が、ちゃんと明日を見られるように。

 偶には道化を演じてみるのも悪くないと、甚夜はそう思った。






 ◆






 昭和二十二年。敗戦から二年が経ち、日本がまだ貧困に喘いでいた時代のことである。

 戦時中東京は度重なる空襲を受け、建物は焼け落ち、多くの人が命を落とした。

 冬の終わり十三歳になったばかりの少女の両親も、その中に含まれている。彼女は一人生き残り、けれど一人では生きていけず、親戚の家に引き取られた。

 しかし助かったとは言い難かった。

 戦後は物資が不足し、どこの家にも余裕はない。役立たずに食わせる飯はないと、毎日くたくたになるまで雑用を押し付けられ、それでも与えられる食事は僅かばかり。

 その家の子供には“親なし”と小突かれいじめられ、死んでしまった両親を想い。理由はその時々で違ったが、いつも泣いていたような気がする。

 お父さんとお母さんが死んだことも、お腹がすいているのも、家事だのなんだのと働かされるのも、お前なんてどっか行けといじめられたことも。

 みんなみんな辛かった。それ以上に息苦しかった。

 誰にも必要とされず、ただ邪魔者として他人の家に居座る自分が、たまらなく情けなくて。

 ただただ続いていく毎日に上手く呼吸ができなくて、窒息してしまいそうだと彼女は嘆いた。 


 それも長くは続かない。

 苦難が終わったのではなく、数か月ほど経った後、やはりうちでは無理だと他の家に宛がわれた。

 新しい家でも扱いに大した差はない。そこでも彼女は邪魔者も扱い、親戚の家をたらい回しにされる。

 つまり彼女は“いらないもの”だった。

 何かの間違いで残ってしまっただけ、本当は捨てられるのが正しかったのだろう。

 だからきっと、あの夜お父さんとお母さんと一緒に死んでしまうのが正しくて。

 生き残ったのは、何かの間違いでしかない。少なくとも彼女にはそう思えた。


 次第に居候先での生活にも慣れ、反面何かに期待することはなくなり、少女は惰性で毎日を続ける。

 けれど更に二年が経ち、少女が十五になったとき転機が訪れる。


「───ちゃん。ごめんね、来るのが遅くなって」


 梶井かじいたくみ

 互いの親が友人同士で、かつては家族ぐるみの付き合いをしていた、八歳年上のお兄さん。

 山形から上京し一人暮らしをしていた彼は、親を亡くし親戚の家に預けられた少女を心配して、何度か顔を見せてくれていた。

 それも少女が東京を離れてからはなくなってしまったが、どこで話を聞いたのか、新しい居候先まで訪ねてきてくれたのだ。


「おにいちゃん……?」

「久しぶり。……ちょっと、痩せちゃったね」


 悲しそうに、そっと頭を撫でてくれる。

 優しい手つき。誰かの暖かさに触れるのは久しぶりだった。

 二人は空白の期間を埋めるように話し合う。

 匠は医学部卒業後インターンを経て、晴れて試験に合格。医師免許を得て、山形に帰るらしい。

 それを機に、彼女にも山形へ来てほしいと言う。


「……え?」

「分かりにくかったかな。僕は君が好きだ……恋人になってほしいってこと」


 困ったような笑みを浮かべる匠は、どこか子供っぽく見える。

 ずっと君が好きだった。

 いずれ結婚する相手として両親に紹介する。

 ご両親にはお世話になったから、受けた恩を返す機会が欲しい。

 好きと言ってくれたのはちょっとだけ嬉しくて、頬が熱くなった。

 同時に頭からは信じられず、少女は戸惑った。同然だろう。八歳も年上のお兄さん、彼のような大人が自分を恋人になどと望むわけがない。

 ましてや好きになるなんて、いらないものとして過ごしてきた彼女には、そんな都合のいい話をそのまま受け入れられる筈がなかった

 結局少女はそれを断り、にも拘らず翌日から匠は何度も会いに来た。

 内容は同じ。一緒に山形へ来てほしい、恋人になってほしい。いくら断られても彼は諦めなかった。

 何故彼はそこまでするのか、少女には分からない。

 だけど、彼が優しい人だと知っている。妹のようなものかもしれないけれど、大切に思ってくれていることも。


 だから彼女は静かに理解した。

 恋人というのは単なるお題目で。

 つまり彼は、親戚の家をたらい回しにされている女の子を憐れんで、助けようとしてくれているのだと。


 そう考えれば筋が通る。

 なんだ、そっか。好きと言われてちょっとだけときめいたことが、途端に恥ずかしくなった。

 優しいお兄ちゃんならそうする。恋人として、結婚相手として、という言い訳を使って私を梶井の家に連れていく。初めからそれが目的だったのだろう。

 気付いたから、やはり断ろうと思った。

 優しいお兄ちゃんだからこそ、そこまで迷惑はかけられない。

 しかし何度も何度も匠は会いに来る。君を幸せにしたい、いずれは妻となってほしい。彼の意図を知ってしまった以上、もう心には響かないけれど。

 彼の優しさは、“いらないもの”として放置され続けた少女の心を溶かすには十分だったようだ。


「君を、幸せにしたい」


 その言葉は、彼が自分を憐れな娘として見ている証拠で。それでも彼の優しさに嘘はなく。

 根負けしたのだろう。最後には、少女も微笑みと共に彼の手を取った。

 笑顔の理由は嬉しかったからではない。いらないものを、それでも助けてくれようとした彼の優しさに報いたかった。

 少女の胸にあった気持ちは、男女のそれではなかったかもしれない。

 だけど彼への想いは、何かの間違いで生き残ってしまった彼女にとって、唯一の“本当”だった。




 ◆




 青年との会話から数日経ったが、胸にはまだしこりが残っていた。

 しかし胸中がどうあれ、仕事というものは毎日ある。

 だからいつまでも引きずってはいられない。彼の言葉を今は忘れて、ほたるは女給として今日もホールに出る。 


「……私を、探している人ですか?」


 客待ちの間、手持無沙汰の彼女に桜庭ミルクホールの店長は声をかけた。

 聞かされたのは、なんともタイミングのいい内容で、ほたるは僅かに表情を硬くする。


「ええ、なんか他の娼館でね。こんな女はいないかって探し回ってる男の人がいるらしいのよ。それが、どうもほたるちゃんのことみたいでね。……ほたるちゃん、なにか変なことに巻き込まれてない?」


 匠さんだ。

 ほたるには、件の男が誰かすぐに分かってしまった。

 梶井匠は、まだ“ほたる”でなかった頃、鳩の街へ流れ着く以前に恋人だった男性である。

 傍から見れば仲のいい恋人だったろう。匠もほたるを想っており、その理由はどうあれ、結婚を申し出るくらいには好いてくれていた。

 彼女もまた、この男性のことが決して嫌いではなかった。寧ろ素晴らしい人だと思っていた。

 だから二人は間違いなく恋人同士で、けれど二人は結ばれることなく、少女は花街へと流れ“ほたる”となった。

 そこで途切れる筈だったのに、彼はこんなところまで追いかけてきてしまった。


「大丈夫ですよ」


 心配そうな店長を安心させるように、ゆるりと、嫋やかな微笑みでほたるは答える。

 手は自然とブラウスの胸ポケットに入れてある小瓶へ伸びる。服の上から押さえつけるだけでも、暖かく感じられた。

 星の砂は、あの人がくれたもの。本当は、途切れさせたくなかったのは、彼だけではないのかもしれない。


「ほたるちゃん」

「店長が教えてくれました。金も色も男も女も、受け入れてこその花街だと。私はもうほたるですから」


 それでも、もうあの人の隣には戻れない。二人の道は既に分かたれてしまった。

 だから彼が来るのなら受け入れようと思う。

 ただしそれは、いつかの少女ではなく、ほたるとしてだ。


「……なら、いいけど。何かあったときは頼ってね」

「はい、お願いします」


 しとしとと濡れた、艶のある笑み。その奥に隠れた決意を察したのか、店長はそれ以上追及してこなかった。

 思うところはあるだろうに、ほたるの意思を尊重してくれる。もしも何かあった時には、率先して矢面に立ってくれるところまで容易く想像ができた。

 それを嬉しいと思う。鳩の街へ流れ着いてから今日まで、店長にはお世話になりっ放しだ。

 幼い頃失くした両親の記憶は既に朧げで、もう父の顔も思い出せないけれど。店長の姿は、父親というものを強く意識させた。


「ああ、そうそう。お客さんからご指名、入ってるわよ」


 すぐさま客を斡旋する辺り、父はさすがに言い過ぎか。

 思わず漏れた苦笑はひどく優しいものだった。








 悪いわね、いつもの部屋にもう案内しちゃってるの。

 客はほたるが席を外しているうちにきたらしく、部屋へ先に通したとのこと。

 随分と珍しい。ちゃんと手順を踏まないやり方は、店長の嫌うところだ。いつもなら多少客を待たせてでもきっちりと挨拶から始めるのだが。

 不思議に思いつつも、言われた通り二階の部屋へと向かう。

 ぎしりぎしりと鳴る廊下。冷たい金属製のドアノブを回し、扉を潜った瞬間にほたるは思わず固まった。

 光源はランプだけ、照らし出されて影はゆらゆらと揺れる。

 待っていたのは、既に顔を知ってはいるが、意外な人物だった。


「すまないな、待たせてもらっている」


 最近、桜庭ミルクホールへ毎夜のように酒を呑みに来る、見た目十八くらいの青年。

 名も知らぬ彼は、幾たびも行為を重ねたことですえた匂いの染みついてしまった部屋で、相も変らぬ仏頂面のままベッドに座っている。

 正直に言えば意外だった。

 武骨な印象を受ける彼が、娼婦を買ったことも。先日のような遣り取りの後、平然と姿を現したことも。

 しかし多少の動揺はあれど、表情に出すほどでもない。

 嫌悪感がある訳でもなし、客と見れば彼が弁えた良い殿方であるのは事実。抱かれるのに何の抵抗もなかった。

 普段通りの嫋やかな笑み、楚々とした立ち振る舞いで、ほたるは丁寧に頭を下げる。


「いいえ、お待たせしてしまい、こちらこそ申し訳ありません。……ほたるにございます」


 名乗りはするが客の名は聞かない。

 呼んでほしければ自分から名乗るし、黙するなら語りたくない過去があるのだろう。

 彼は短く「ああ」とだけ答えた。ならばそれ以上聞く必要もない。隣に座り、しな垂れ掛かりながら彼の胸元に手を伸ばそうとして、しかし他ならぬ青年にそれを止められた。


「なにか、お気に障りましたか?」

「いいや、そういう訳ではないが」


 言いながら青年は懐からきっちり一万円を取り出し、ベッド脇のサイドテーブルに置く。

 そしてほたるへ向き直った彼の表情は、花街の客とは思えない、浮ついた感情の全くない静かなものへと変わった。


「……そうだな、まずは謝らせてほしい」

「抱く気もないのに買ったことを、でしょうか」


 間を置かずほたるが返せば、青年は僅かに言葉を詰まらせた。

 初めから抱く気はなく、ただ少し込み入った話をしたかった。その為に、彼女の夜を買った。

 娼婦としての矜持を馬鹿にするような所業だ。

 だからまずは頭を下げて謝罪しようとしたのだが、どうにも青年の魂胆は初めから見透かされていたらしく、ほたるは嫋やかな微笑みを浮かべている。


「まいったな、謝ることが増えた」

「ふふ、お気になさらず。これでも夜の女を気取っていますので。多少は殿方の心を読んで見せねば面目が立ちません」


 青年の突飛に見える行動をちゃんと理解し、その上で乗って見せた。

 それが彼には意外だったのだろう。図らずとも意表を突けたことに、少しだけ胸がすっとした。数日前の諍いのしこりが溶けていくのをほたるは実感する。

 反して青年は、してやられたと苦笑している。

 どうやら少しばかり彼女を見縊っていたようだ。それを謝ろうとしてもやんわりと拒否され、代わりに彼女はまっすぐ青年の目を見る。


「買ってもらえるのは有難いと思います。けれど理由くらいは、聞かせてもらえるのでしょう?」

「理由、か」

「ええ。過去も今も問わぬが花町の作法とは言え、貴方のような若人が、安くない金を払い、抱きもしない女を買う。その意図を知りたいと思うのは自然なことかと」


 会社員の初任給に等しいだけの金をぽんと払い、それで抱かないと言う。

 流石にすんなりとは納得できないし、夜の女としての務めを果たさぬ以上相応の理由がなければ金をもらう訳にもいかない。

 その辺りを青年の方も理解しているのだろう。夜の女らしい頑固さに、どこか楽しげに彼は口の端を釣り上げる。


「君と星空を眺めたい。そして恋の話をしてみたい……では、少しばかり気取り過ぎているだろうか」


 口説き文句さえ熱を帯びず、あまりにも穏やか。

 それが嘘だと容易に分かるくらい、彼の目は優しかった。






 ◆





 大日本帝国の敗戦をもって、長らく続いた戦争は終戦を迎える。

 劣勢に追い込まれた戦争末期、多くの男が徴兵により戦地へ向かった。華族等の特別な身分以外の男子は基本的に全員徴兵の対象であったが、幸い大学生だった梶井匠はそれを免れた。戦時中、医師不足に対処するべく、医療を学ぶ学生は招集されずに済んだのだ。

 幸運ではあるが、匠にとっては些事に過ぎない。

 彼は医者になる為ひたすら勉学に勤しむ。

 おにいちゃん、と慕ってくれたあの娘は、空襲で両親を亡くし母方の親戚に引き取られたらしい。

 何もできなかったなんて言うほど自惚れてはいない。

 自分の手が届く範囲はよく分かっている。近くにいたところで彼女の両親を救えた筈はなく、傍にいてもきっと彼女を助けてやれない。

 心の支え、傍にいるだけでいい、などと人は簡単に言うけれど。それで腹は膨れないし、雨露はしのげない。戦後、貧困に喘ぐ日本で彼女を守る手段は、有体に言えば金だ。


 つまるところ彼が医師になろうと思ったのは、親の後を継ぐよりも、彼女に手を差し伸べられる自分で在りたかったから。

 恥ずかしい話ではあるが。

 匠は、八歳も年下の少女を相手に、それだけの下準備をしなければ会いに行くことすら憚られたのだ。

 優先順位をつけて、一つ一つ片付けていく。

 元来真面目な性格だ、今回もそういう道を選んだ。

 つまり彼女に相応しい男となり、大手を振って迎えに行く。それが彼の全てだった。


“おにいちゃん”


 思い出にいる彼女は、いつも星空と繋がっている。

 戦時中、多くの人は空を怖がった。空襲が、爆撃が、空の向こうからやってくる米国の戦闘機に怯えていた。

 でもあの娘は、やっぱり星は綺麗だと。いつかみんなでゆっくり星を見れたらね、なんて笑った。

 だから星空は彼女と繋がっている。

 きっと、あの笑顔こそが匠の初恋だった。


 山形から離れ一人東京で暮らしていた自分を「おにいちゃん」と慕ってくれた、優しく可愛らしい女の子。 

 けれど両親を亡くし親戚の家に預けられ、辛い目にあっている。

 時々会いに行くけれど、今では笑みも無理をしたものばかりだ。

 彼女を助けられる自分で在りたい。

 そしてもう一度、あの頃のように仲良く、一緒に笑い合いたい。

 それだけが彼の原動力。

 誤魔化す気もない。梶井匠は彼女が好きだった。

 あの娘の笑顔の為なら、どんな苦難だって乗り越えていけると思った。





「───ちゃん。ごめんね、来るのが遅くなって」

「おにいちゃん……?」

「久しぶり。……ちょっと、痩せちゃったね」


 匠は医師になり、いの一番に彼女を訪ねた。

 そっと頭を撫でる。親戚の家をたらい回しにされた彼女は、随分と疲れているように見える。彼が会いに来ても笑わず、希望など欠片もない虚ろな目をしていた。

 悔しかった、力になれなかった昔が。

 けれど今は違う、彼女を支えられるだけのものを手に入れた。


「……え?」

「分かりにくかったかな。僕は君が好きだ……恋人になってほしいってこと」


 ずっと君が好きだった。

 いずれ結婚する相手として両親に紹介したい。

 少し照れて、「ご両親にはお世話になったから、受けた恩を返す機会が欲しい」なんて言い訳も入れてしまったけれど。

 とにかく精一杯の想いを、たくさんの好きを彼女へ贈る。

 当たり前といえば当たり前だが、彼女は戸惑っていた。きっと近所のお兄さんくらいにしか思っていなかった。断られても、それくらいは織り込み済みだ。

 何度でも好きを伝える。

 今まで放っておいたのは自分だ、信じてもらえなくて当然。それでも一縷の望みにかけて、「一緒に山形へ来てほしい、恋人になってほしい」と毎日のように彼女を訪ねた。

 けれど、何度想いを告げても答えは同じ。


「私じゃ、釣り合いませんよ」


 見込みなし、なのだろうか。

 落胆はしたが、支えになりたいという気持ちに変わりはない。

 だから心に決めた。

 これを最後の告白にしよう。

 盛大に降られたなら、友人として近所のお兄ちゃんとして彼女を助けよう。

 彼は悔いが残らないよう、必死になって想いを伝える。


「……なんで、そんなに」

「何度も言ったろう? 僕は君が好きなんだ……でも君を煩わせるのは本意じゃない。もしも、僕のことが嫌いなら今後は」

「そんな、こと、ないです。嫌いなんて、絶対に」


 いつの間にか、彼女は涙を浮かべていた。

 何か泣かせるようなことを言ってしまっただろうか。慌てる匠だが、その表情を見てそうではないと気付いた。

 泣いていた。でも、笑っていた。

 泣きながら彼女は、ようやく、久しぶりの笑顔を向けてくれたのだ。


「今まで散々断って今更かもしれませんが。あなたの、手を取ってもいいですか?」


 柔らかな声は、懐かしい、おにいちゃんと慕ってくれた頃の無邪気さだ。

 ようやく、通じた。

 匠は喜びに思わず彼女を抱きしめた。

 いきなり男に抱き付かれ、照れて慌てて、きょろきょろわたわた。

 愛しくて、もう逃がさないと腕に力を込める。

 それが恥ずかしくてまたも大慌て。そんなことを繰り返して笑い合う。

 人生最良の日は、と問われれば。

 間違いなく梶井匠はこの日を挙げる。

 彼女が笑顔になってくれた。

 ただそれだけで、幸せだったのだ。




 なのに───




 ◆




 華やかなタイルに彩られたカフェー風の店。かつて進駐軍が入り浸っていた時期の名残だろう、「オフ・リミット」と書かれた壁。歪なハート形のネオンが眩しい通りは、左右の店を冷かしながら歩いていけるようにか、道幅は少し狭めだ。

 夜はこれから、行き交う男達に店先で客寄せをする女。花街独特の活気を尻目に、男女はゆったりと通りを歩いていた。

 この喧噪で星見もないだろうと青年に連れ出されたほたるは、言葉もなく彼の後を付いていく。

 共に星空を眺めたい、その為に君の夜を買った。

 言葉通り青年はほたると夜空を眺める為に、少しでも静かな場所を求めて、商店街や娼館の密集した地区を避けて町のはずれへと向かっている。

 勿論そんな言い訳を信じる筈がない。けれど黙って従うのは、彼の誘いに思うところがあったからだろう


「この辺りなら、いいか」


 通りを抜け、隅田川へと突き当たる。

 喧噪は遠く、川縁は虫の音さえ聞こえない。響き渡るほどの静けさは、成程、星を眺めるにはいい風情だろう。

 どちらともなく二人は夜空を仰ぐ。幸いにも雲はない、ネオンから離れたせいだろうか、星の光がよく届く。

 いつかも、こうやって星空を見上げた。あの時は和久と一緒に。星の砂をもらった、肌を擽る風に笑みは零れて。

 きっと幸せとは、あの景色のことを言うのだろう。


「考え事か」

「はい……何故貴方は私を抱こうとしないのか、考えていました」


 青年の問いに、先程までの考えとはまるで違う答えを返す。

 む、と僅かに唸ったのは、嘘だと分かっているから。けれどほたるは、そんな彼に娼婦としての微笑みを向けた。


「金で体を開き、誰にでも愛を囁く女はお嫌いですか?」

「まさか。騙すのが女の業なら騙されるは男の心意気だろう。夢を夢と楽しめないなら、花街になど来んよ」


 青年はほたるを懐かしい夜の女と称するが、彼だって大概古い男だ。

 泡沫の恋など古臭いと笑われるご時世、一夜の恋を楽しみ、夢と分かって騙されてくれる客というのは中々いない。


「君は十分に魅力的だ。一夜の恋に溺れるのも悪くはない。……ただ、けじめはつけておきたいと思うだけだ」


 にも拘らず抱かないと言うのなら、何か理由がある。

 そして、それはおそらく。


「けじめ、ですか。何の話でしょう」


 少なからず青年の意図に気付き始めてながらも、ほたるはそこに触れようとしない。

 とぼけて、何も分からない馬鹿な女を演じて見せる。


「言っただろう? 恋の話だ」


 彼は小さな笑みを落として、もう一度空を見上げた。

 違う、その目はもっと遠く、ここではない何処かを眺めている。細められた目、懐かしむような横顔。とてもではないが十七、八の若者が出せる雰囲気ではなかった。


「昔は、もっと星がよく見えた。街灯が普及した頃からかな、少しだけ星の光は弱くなったような気がする」


 だから、彼の年齢には見合わぬ過去の話が、すとんと胸に落ちる。

 どれだけ荒唐無稽でも、そこに嘘はないのだと信じられた。


「まだ星が眩かった頃、私にも恋のお相手がいてな……いや、意外そうな顔をしないでくれ。私とて木石から生まれた訳ではなし、好きな女性の一人や二人、ちゃんといるさ。少年の時分なら尚更だ」

「あぁ、いえ、そうです、よね。すみません」

「……で、だ。私の初恋は、一つ年下の幼馴染でな。子供の頃は、大人になったら結婚しようなんて在り来たりな約束もした。今もふと思い返す時があるよ」


 集落から離れ、故郷を流れる川が一望できる小高い丘で、幼馴染の少女と星空を見上げた。

 川は星を映して流れ往く。

 たゆたうように水辺を舞う光は蛍か、それとも鬼火か。

 見上げた空、月明かり。

 二人並んで眺めれば、ほんの少しだけくすぐったかった。

 今もふと思い出す時がある。

 彼にとって星空は、遠い恋の記憶と繋がっている。


「彼女は故郷の集落では特別な家の娘で、巫女になることが決まっていた。だから私は彼女の護衛役になると約束した。なんのことはない、一緒に居たいが為だ」

「護衛役……」

「ああ、巫女守という。鬼だろうが何だろうが斬り伏せて、あらゆる苦難から彼女を守れる男でありたかった……あの頃、彼女は私の全てだった」


“いつきひめになる”

 己が幸福を捨て、他が為に生きる。そう彼女は言った。

 父母を亡くし、自分であることさえできなくなって。それでも素直に誰かの幸せを祈れる。そんな彼女だから好きになった。

 今も時折思い返す、懐かしき“みなわのひび”。

 遠い恋の記憶は少しずつ色褪せていくけれど、彼女への恋慕は未練ではなく大切な思い出としてちゃんとこの胸に残っていた。


「その方とは……?」

「この通り。残念ながら、今も独り身だ」

「そう、ですか」


 つまりそれだけ想いながらも二人は結ばれず、約束は果たされなかったということ。

 ほたるは知らず、星の砂の小瓶を握りしめていた。此処にも一つ、報われぬ恋の話が。自身を顧みれば、他人事とはいえ切なさが胸を過る。

 しかし語る当の本人は、未練など微塵も感じさせない。


「けれど再び会った時彼女に言われたよ。貴方はこれからを生きていくのだから、いつまでも昔に拘っていては駄目だと。……言われるまで気付かなかったが、私はずっと引きずっていたんだ。過去を思い返し傷つくことで、失われたものと繋がっていられる。そう思っていた」


 まったく、我ながら情けないことだ。

 言葉とは裏腹に、落とすような穏やかな笑みが、悔いることなど何もないと伝えている。

 見落としてしまいそうなくらい細やかで、けれど暖かな表情。ほたるは僅かに一瞬、その横顔に目を奪われた。


「仕方のないことです。失くした物の代わりなど、どこにもありません。未練だとしても、繋がっていたいと思うのは当然でしょう」

「ああ、そうだな。代わりなどある筈がない」

「……なのに、何故貴方はそんな風に笑えるのですか?」


 少なくとも、私にはできない。

 あんなに暖かく、あんなに優しく、笑えない。

 嘆くような、縋るようなほたるの問いを正面から受け止め、まるで子供を諭すような柔らかさで青年は答える。


「いつか全てと信じた想いを忘れてしまっても、残るものだってきっとある。そう彼女が教えてくれたから、かな」


 人は夢の中では生きられないし、記憶はどうしようもなく薄れるものだ。

 けれど、あの頃の想いを忘れてしまっても、残るものだってきっとある。

 同時に、思い出の景色がどれだけ綺麗だったとしても。 

 これからを歩いていく為に、“終わらせなければいけないもの”もまた、確かにあるのだ。 


「未練に足を引かれながらここまでやって来た身だ。忘れろなどとは口が裂けても言えん。……が、区切りというのは何処かで付けないといけないのだと思う」

「だから……けじめ、ですか」

「ああ。そして、恋の話だ」


 不意に彼は視線を下げ、ちらりと横目で遠くを見た。

 何気なくその先を目で追えば、どきりと心臓が高鳴る。そこに見つけた人影に、ほたるは固まった。


 梶井匠。

 彼女の未練が、そこには立っていた。


 正直にいえば、予想はしていた。

 この青年は、会ったと言っていた。だから、こうなるのはある意味当然だった。

 それに、受け入れるつもりでもいた。

 いつかの少女ではなく、ほたるとして。彼に別れを告げようと思っていた。

 けれどいざ彼を前にすると体が強張って動かなくなる。

 白状しよう、怖いのだ。

 彼が、この街にまで来てしまったことが。


「私は、かつて巫女守としてあった」


 何故、彼を。

 言葉にしなかったほたるの問いに、青年は一切揺らがず、重々しく返す。


「巫女守には鬼斬役が与えられる。怪異を祓うのもまた、私の役目の一つだった」


 ああ、そうか。

 ここで話が繋がるのか、とほたるは納得してしまった。

 彼が何故、男女の仲に横槍など無粋と言いながら首を突っ込んできたのか、ようやく分かった。

 人ならざるものがそこにいたから、同じく報われぬ恋を経たから。

 彼は、けじめを付けさせる為にこんな真似をしたのだろう。

 彼女の、そしておそらくは、匠の為に。

 行き場をなくしてしまった想いに、決着の機会をくれたのだ。


「あやかしに惹かれた者の末路は無惨だ。だから、此処から先は君が選ぶといい」


 青年はまっすぐにほたるの目を見る。

 君なら、ちゃんと大切なものを選べる。

 殆ど交流のないほたるを、それでも信じるように、彼は何も言わずこの場から去っていく。

 隅田川の川縁には、ほたると匠だけが残された。

 見つめ合いながら、しかし二人は動けずにいた。


「……ちゃん」


 かすれた声。ああ、懐かしい。

 匠は、昔はほたるのことをちゃん付けで呼んでいた。

 近所のおにいさんで、恋人で。いつかは夫となる筈だった人。

 でも彼と一緒に居るのが辛くなって逃げてしまった。

 そのツケが巡り巡って辿り着いたと言うだけの話。

 なら、これ以上は逃げられない。

 彼の言う通りだ。

 けじめをつけて、終わらせないといけない。そういう時がついに来たのだろう。





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