『君と星空を』・1
その3 ほたるのかつての恋人 梶井匠について
* * *
ずっと探していた。
もう一度会いたいと。
次に会えたなら、今度こそ、伝えようと決めていた言葉があって。
◆
花に囲まれた庭、夕涼み。
心地よい風に吹かれ髪を遊ばせる彼女は、不意に空を見上げる。
視線を追えば、橙色は藍へと流れ、ぽつりぽつりと星が瞬き始めていた。
夜というには少しばかり早く、薄い藍の空に瞬く星も煌びやかと呼べる程ではない。
しかし慎ましやかに漏れる嫋やかな光は、どこか彼女を思わせる。隣に座り、星に見惚れる横顔、その優しげな色に見惚れてしまう。
「……たくみ、さん?」
そんな匠に気付き、彼女は不思議そうにこちらを覗き込む。
大きな潤んだ瞳に鼓動が跳ねる。八つも年下の娘相手に、余裕をもって接することもできないのだから情けない話だ。
「どうかしましかたか?」
「いや、君に見惚れていたんだ」
「ふふ、冗談ばかり」
口元を隠して静かに微笑む彼女は、とても清楚で。
その姿に、また見惚れ。
本当は、恋をしていたのは私だけだったのかもしれないと、匠はかつての景色を思い出しながら考える。
終戦から二年、物資は少なく、日本は貧しさに喘いでいた。
そんな中で匠らがこうやって穏やかに夕涼みなどをしていられるのは、彼の実家が被害の少なかった山形にある、裕福な医院だったからだろう。
戦時中親を亡くした彼女は、両親が交流を持っていた梶井の家に引き取られた。養子ではない、いずれ結婚という形で家族になろうと思っていた。
梶井の家に助けられたという経緯から彼女は匠に大層感謝し、それを抜きにしても二人は良好な間柄だった。
幼い頃からこの少女を大切に想ってきた。
向こうも心から慕ってくれているという自負はある。
けれどそれは、家族や友人に対する好きで、恋というには少しばかり足らなかったのだろう。
結局最後まで、彼女はこちらの望む答えを返してはくれなかった。
「そうだ、お土産があるんだ」
「これは?」
「星の砂。夜空を眺めるのが好きな君には似合うと思った。少し安直すぎたかな」
それでもよかった。
匠は間違いなく彼女が好きで、彼女も形は違えど好いていてくれて。
ならば時間を重ねれば愛は育めると信じていた。
「……いいえ、ありがとうございます。大切に、しますね」
だからこそ結婚を申し出て。
そこで終わり。
別れの言葉もないままに、二人は離れてしまった。
君がいなくなってから、ずっと探していた。
もう一度会いたいと。
次に会えたなら、今度こそ、伝えようと決めていた言葉があって。
今も、私は、君を。
◆
手の中でもてあそぶ小瓶には、星の砂が入っている。
大して高価ではないが、いつかあの人がお土産にと買ってきてくれたものだ。
星型の小さな粒は砂と名付けられているが、実際は小さな生物の死骸、残った殻だと聞いた。
折角の贈り物、星型の砂なんてロマンチックなのに、わざわざ夢を壊すような解説をする辺りあの人らしいと言えばあの人らしい。
掌に収まるほどの大きさの小瓶を、握りしめたり、眺めたり。それだけでなんとなしに心は落ち着く。
一緒に見上げた星空、照れたような彼の微笑み。
懐かしい思い出が、星の砂には刻まれている。
いろんなものを捨ててきたけれど、この小瓶だけは終ぞ手放せなかった。
「ほたるちゃあん、お客さんよ」
「はい」
星の砂の小瓶を懐にしまい、静かに微笑む。
今日もまた名も知らぬ男に抱かれる。躊躇いなどある筈もない、もう慣れ切ってしまった。
通り過ぎたカウンター、横目で見れば近頃よく店に訪れる青年の姿があった。と言っても彼の目当てはお酒と、店長と交わす雑談だ。
ほたるのことは気に入ってくれているようだが、どうやら買うまではいかないらしい。
それもいいかと思う。幾らか年下ではあるが、青年は察しがよく、打てば響くので会話していて心地よい。ただ話す分にはよい相手だった。
そういえば彼には贔屓の女給がいた気もする。けれど誰かに話しかける様子はなく、毎日のように食事へ出かけることもなく、つまりは単なる思い違いでしかない。
見回せば、客も女給も随分数を減らしたような。それも、多分気のせいだろう。
「やぁ、ほたる。また来させてもらったよ」
「ふふ、ありがとうございます。……さ、どうぞこちらへ」
今夜の客は既に幾度もほたるを買い、幾夜も肌を重ねてきた。
それだけ気に入られれば嬉しくはある。相手も慣れたもの、淀みなく二階への階段を上がりバルコニーのある部屋へ。
僅かに言葉を交わすも、それ以上は無粋。服を脱ぎ、ベッドに横たわれば、そこにいるのはただの男と女だ。
そっと手に触れ、するり懐へ。寄り添えば吐息も体温も感じられる。
ああ、寒い。
触れる肌が暖かければ暖かいほど、どこか大切な部分が冷えていく。それでも体は濡れて乱れる。
幾夜を重ね、幾度も男に抱かれてきた。
それを嫌悪したことはない。名前をなくし、ほたるとなった。娼婦であるというならば、一夜の恋を演じて、泡沫の夢こその己だろう。
だから彼女は名も知らぬ男に身を任せる。
浮かべた笑みも熱っぽい喘ぎも、いつかの娘がすでにいないのならば、間違いなく真実。
男はほたるに恋をし、ほたるもまた彼を慈しむ。
絡み合う指、触れる吐息、重ねた体。籠る熱に浮かされ、心まで夜に溶け込むようで。
けれどこの街の夜は長くて、時々息ができず、溺れそうになる。
どこか他人事のように、彼女はそう思った。
「……それは本当か?」
「ええ。いろんな娼館で“こういう女はいないかって”聞きまわってる男がいるそうよ。特徴からすると、多分探してるのは、ほたるちゃんのことだと思うんだけど」
あなたのお仲間ね、などと茶化すように桜庭ミルクホールの店長は言う。
ほたるが心配なのか、何か引っかかることがあるのか、青年は黙りこくって何事かを逡巡していた。
しかし数瞬の後には表情から強張りは消え、普段と変わらぬ空気で再び酒を呑み始める。
「ありがとう、面白い話を聞かせてもらった」
「どういたしまして……にしても、貴方も妙な人よね」
店長はいかにも分からないと言った風に顔を顰め、青年を凝視していた。
青年のことを妙と言うが、四十前後の男でありながら女言葉がいやにはまっている辺り、彼も対外奇妙な人物ではある。
なにがだ? 視線で問えば、一つ頷き疑問を口にする。
「ほたるちゃんのこと。随分と気に入っているみたいだけど、買う気はないんでしょう?」
「魅力を感じない訳ではないが、今のところはな」
傍目に見てもこの青年はほたるを“懐かしい夜の女”とかなり高く評価している。
そこそこに気を許しており、しかし娼婦として買うつもりはないらしく、お気に入りの娘が他の男に抱かれても嫉妬めいた反応も示さない。
今一つ感情は計り切れず、けれど間違いなく、彼はほたるに固執している。
それが店長には妙だと感じられた。
「ついでに言えば、気に入っているのは事実だが、彼女に拘る理由はそこにない」
口にしなかった疑問を察したのだろう。ウイスキィで喉を潤してから青年はそう言った。
照れ隠しとは思えない。声は、僅かにだが低く重く変わっていた。
「なら理由って?」
「単に、昔の仕事の癖だよ」
以前ほたるが男に絡まれていた時、割って入った理由もほとんどが昔の仕事の癖だ。
だからこそほたるを見過すことはできなかったし、一度関わったからには最後まで面倒を見るのが筋だろう。
だから娼婦としての評価は別にして彼女に拘った。
あの男、ああいった手合いは必ずまた来る。
桜庭ミルクホールに足繁く通い、夜の街での探索を続ける理由の何割かは件の男にあった。
「あの手合いは必ずまた来る。……依頼を受けた訳ではないが、捨て置いては寝覚めが悪くてな」
江戸や明治の頃はそうやって生きていた。
あやかしが引き起こす怪異を相手取るのは、巫女守の役目だろう。
鬼人幻燈抄『君と星空を』
後日。
青白い月がやけに映える、金属質の夜のこと。
「うん、美味しいっす。打ちたての蕎麦なんてお店でもなかなか食べられないっすよ」
鳩の街、娼館の多い通りを一本跨いだところに位置するアパートが甚夜の居候先だ。
屋根を借りる代わりに家事を担当するのが最初の約束。傍から見ればヒモ同然だが、長らく保護者的な立ち位置を請け負っていたものだから、こういった気楽な現状を案外楽しんでいた。
家主である青葉の希望で今晩の夕食はきつね蕎麦、明治の頃営んでいた店での看板メニューである。
東京のそばつゆは濃い。出汁メインの薄いつゆに初めは驚いていた彼女だが、意外と舌に合ったのか満足そうに蕎麦をすすっている。
「気に入ってもらえたようで何よりだ」
「最初はつゆが薄すぎるからびっくりでしたけど、食べてみたらいい感じでした。にしても、甚さんって何気に料理手馴れてるっすよね?」
どう見ても無骨な男、家事とは縁遠く見えるのに、甚夜は炊事掃除洗濯と一通りそつなくこなす。
今夜の蕎麦などは乾麺を使わず一から打つ程の拘りよう。趣味の範疇では片づけられない手際が青葉には不思議らしい。
しかし甚夜からすれば別段大したことではない。明治の頃は店を営んでいた為、毎日蕎麦を打っていた。手際が良いのは当然と言えば当然だった。
「以前は蕎麦屋をやっていたからな」
「むむ、やっぱり経験ってことっすか」
いやに真剣なのは、今一つ料理に自信がないからだろう。
一人暮らしをしていただけに青葉も一応料理はできる。できるが、彼女の作るものは、まとめて炒めるかまとめて煮るかの大雑把で潔い料理ばかり。女としてのプライドが刺激されたのか、食べ終わったどんぶりをしげしげと眺めている。
随分簡単に納得するものだ、と甚夜は苦笑を零す。
見た目十八ほどの青年が「以前は蕎麦屋をやっていた」。違和感を覚えて当然だろうに、青葉はなんの反応も見せなかった。
彼女に嘘があるのは確定的、とは言え企みがあるのは最初から分かっていたことだ。今更問い詰めはせず、食後のお茶を準備してから軽い雑談がてらに話をきり出す。
「なぁ、青葉。何故、娼婦になろうと思ったんだ?」
「お? 珍しいっすね。甚さんがそういうこと聞くの」
鎌かけの類ではない。しばらく一緒に暮し、多少なりとも親しみを感じるようになった。だからこその、なんの裏もない、ちょっとした興味からの問いだった。
答えず誤魔化すならそれもいい。所詮は茶飲み話だ。無理に聞き出すつもりはなく、黙したとて気分を害するようなこともない。
頭のいい娘だ、その辺りは察しているだろう。話すかどうかの判断は任せ、のんびりと茶を啜る。
「……あーと、その、ですね。家業継ぐのが嫌だったからっす」
少しの間逡巡し、青葉は疲れたような、諦めるような微笑みを零した。
溜息交じりの声に力はなく、だからこそ素直な心情の吐露だと分かる。いつもの明るさは鳴りを潜め、年相応の弱々しい少女がそこにいた。
「うちは、なんというか。いわゆる古くから続く家業がありまして。お爺ちゃんは、すっごい厳しくて。お前も家業を継ぐんだって、その為に生きるんだって、そういう人でした。それで、そんなんやってられるかーって家出したっす」
「それはまた豪気だな」
「あはは、豪気というか勢い任せというか。でもやっぱり女一人で生きてくのって難しいんすよね。それで、雑誌で読んだんすけど、鳩の街の娼婦って若い子ばっかりで、その上すっごい人気あるらしいじゃないっすか。おお、ご飯お腹いっぱい食べられる、これしかない! と思ってここに来ました」
我ながら馬鹿っすよねー、と明るく言う彼女は、しかしどこか寂しそうにも見える。
軽い調子を崩さないが、年端もいかぬ少女が家を出るのだ。おそらく相応の決意があったのだろう。
女が就ける仕事は少ない。彼女が鳩の街に流れ着いたのは自然な流れだったのかもしれない。
「そんでおっかなびっくりイチカワの門を叩いて最初に会ったのが七緒さん。本当はそのまま娼婦になるつもりだったんすけど、初めて会った時に言われました」
“あんたみたいな娘が娼婦になんてなるもんじゃないよ”
“それでもなりたいってんなら、まずは私たちを見てからにしな”
“娼婦って生き方がどんなもんか知って、それでも構わないって思えるならなればいいさ”
覚悟を決めた娼館へ訪れた青葉には、「娼婦なんざ碌なもんじゃない」と公言してはばからない七緒が意外だったと言う。
それが、年端もいかぬ小娘を気遣ってのことだと分からぬ程青葉は幼くない。
鳩の街に住むことを選んだのは、きっと初めて会った娼婦が七緒だったからだ。
夜の街はもっと暗い場所だと思っていた。けれど暗いながらに暖かさはちゃんとあって、だから娼婦になることへの抵抗は、余計になくなった。
寧ろ七緒のように、世間様に背を向けても、正しいと思える何かを見詰められる女性でありたいと願った。
「七緒さんは私が娼婦になるのは反対みたいで。けど面倒な子供を見捨てないで、このアパートと雑用の仕事を用意してくれたんすよ」
こうして彼女は“客を取ったこともない見習い以下の娼婦”という、珍しい肩書に落ち着いた。
七緒はまだ年若い青葉が娼婦になるのを良しとせず、青葉はそんな七緒を慕い娼婦に憧れる。
上手く噛み合わない奇妙な関係は、それでも彼女にとっては心地良いものだったらしい。言葉の端々、何気ない所作からも七緒への敬愛が確かに感じ取れた。
「そういう訳で、あんまり大層な理由はないっす。お爺ちゃんへの反発でここまできちゃいましたから。あ、恥ずかしいので家業に関しては内緒で」
「……家に帰ろうとは思えなかったのか?」
少なくとも、七緒はいずれ帰れるようにと青葉を売春から遠ざけた筈だ。
けれど結局、売春防止法が完全施行され、鳩の街が終わりを迎えるその時まで動こうとはしなかった。
だからこそ今もこの街にいる。無邪気に笑っていても、彼女もまた捨てきれぬ未練に足を止めてしまった一人なのだ。
「あはは、一人娘なもんですから。家に帰るのは家を継ぐのと同じ意味ですし。それに、やっぱり合わせる顔ないっすよ」
「そう思わせない為の気遣いだったろうに」
「ですね。七緒さんが私に客を取らせなかったのは、結局そういうことなんだと思います。でも……」
“お爺ちゃん、死んじゃったんで”
何の感慨も見せず、あまりにも簡素で気負いなく、投げ捨てるような適当さで青葉は言った。
逸らされた視線。彼女と目を合わせられず、その胸中を図ることもできなかった。
「お爺ちゃん、私が此処にいるの知ってたみたいっす。お父さんから、死んじゃったって手紙がきました。結局。帰りませんでしたけど」
嫌いだったからではない。
でも祖父に家を継げと言われるのが嫌で出ていった。
それが祖父をどれだけ傷つけたのかは想像するしかないけれど。
後継をなくし、無念のうちに亡くなった祖父。そんな死に様を与えたのは、間違いなく自分なのだ。
祖父の期待を裏切り逃げて、安らかな死を奪った輩が、どうしておめおめと帰れるのか。
「それで、今になって思うんすよね。せめて死んじゃう前に、お爺ちゃんがやってきたことを継いだ私を見せてあげられたなら……死に際に“無念”なんて言わせず済んだのかなって。今頃はちゃんと家に帰れたのかなぁって、ちょっとだけ考えたりもします」
流れ着いた花街は存外に居心地よく、しかし帰る家をなくした自分を割り切れるほど大人にはなれず。
帰りたいと、帰れないと、あちらこちらを行ったり来たり。
結局はその場で足踏み。今も青葉は、鳩の街から動けないでいる。
「なぁんて、悲劇のヒロイン気取ってみました」
茶化すような物言いで青葉は朗らかに笑う。
一変した空気、いつも通りとまではいかないまでも、先程の寂寞の佇まいは消えてなくなった。
喋りすぎたから冗談にしてくれ。言外の意図を間違えることはない。
甚夜は何気なく、普段の雑談と変わらぬ態度で呟く。
「悲劇のヒロインは結構だが、相手役がいないでは様にならんな」
「いやいや、甚さんがいますし。傷ついた少女を流れ着いた男が癒す……うん、いい感じじゃないっすか。ほらほら、きすみーきすみー」
にやけた顔で唇を突き出し、両手を前に“私を抱きしめてください”なんてポーズをとって見せる。
冗談九割、一割の寂しさ。誰かに慰めてほしいというのは真実だろう。
呆れ混じり、けれど優しい溜息を洩らし、甚夜はそっと手を伸ばす。
彼女のオデコを指で弾けば、演技じみた大げさな素振り、青葉の頭が大きく揺れた。
「あたっ」
「年頃の娘がそういう真似はやめなさい」
「いや、私一応娼婦なんすけど。うう、甚さん冷たい……」
泣き真似で顔を隠す青葉、怒った風の甚夜。
互いにへたくそな演技だと思いながらも茶番を続ける。
「なにを言うか。……と、ちょうど茶も切れた。今日はここらでお開きだな」
「あ、はーい。って湯呑くらい洗いますよ?」
「数少ない仕事を奪わんでくれ。寛いでいてもらえた方が有難い」
「なら、お言葉に甘えて……ありがとうございます」
こんなものだろう、と甚夜は湯呑を片付けに台所へ。
それを見送り、ぐでー、と口で言いながら青葉は手足を放り投げ寝転がる。
ありがとうは洗い物ではなく、馬鹿な演技に付き合ってくれたから。青葉もあれで案外と義理堅い、甚夜は思わず小さな笑みを落とした。
「さて、と。済まない、少し出る。先に寝ていてくれて構わない」
「……もしかして、気ぃ遣ってくれてます?」
「そこまで気の利く男でもない」
湯呑を片付け終え、青葉に一声かけておく。
先程の流れのせいか、気遣っていると思われたらしい。しかし残念ながら、理由は他にある。
軽く否定し、一応のこと皮の刀袋で外観を隠した夜来を携え外へと出る。
浮かぶ青白い月。触れる空気の硬い、金属質の夜。
こういう夜は、きっと何か良くないことが起こる。
◆
ずっと探していた。
もう一度会いたいと。
次に会えたなら、今度こそ、伝えようと決めていた言葉があって。
梶井匠はかつての恋人を追って鳩の街へ訪れた。
あの娘は花街で娼婦をやっている。
それを教えたのは匠の知人だ。学生時代から付き合いがあるその男を友人と呼ばないのは、そもそも親しい訳ではなく、そいつの言葉にはらわたが煮えくり返っているから。
“お前の恋人を鳩の街で見た”
“以前より成長し、随分といい女になった”
“胸も腰も男好きのする形だ”
“いい具合をしていた”
つまりは、金を払って彼女を抱いたのだという。
ふざけたことをぬかす知人、しかしそんな屑に構ってはいられなかった。
あの娘が、可憐で清楚だった彼女が、そんなところにいる筈がない。
それでも、もしかしたら。僅かな可能性に突き動かされ、半信半疑ながらも、匠の足は鳩の街へ向いていた。
頭の中では、壊れたように同じ考えだけが巡り続ける。
ずっと探していた。
もう一度会いたいと。
次に会えたなら、今度こそ、伝えようと決めていた言葉があって。
つまりは未練だ。
言えなかった想いに囚われて、匠は今も彼女を求め続ける。
会いたい。せめてもう一度。今度こそ、一緒に。いつまでも、君を。
三十半ばになり皺が目立ち始めた。長身ではあるが痩せこけた頬。顔色も悪く、覚束ない足取り。
今の彼はまるで幽鬼のようだ。
ふらふらと頼りなく、それでも彼女に会いたくて夜の街を進む。
「また会ったな」
けれど、夜の通りに浮かび上がる人影に、ぴたりと足を止めた。
鉄のように硬い声。見た目は十七、八といったところか。肩かけの刀袋に、服の上からでもよく鍛えられたと分かる体躯。
花街には似合わぬ武骨な印象を抱かせる青年は、立ち塞がるように匠の前へ姿を現した。
そいつの顔には、見覚えがあった。
確かあの時、彼女に伸ばした手を遮った……。
それを思い出したから、嫌な気分になる。
苛立たしいほどに悠然と立つ青年。匠は、ささくれだった心持ちで彼を睨み付けた。