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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編

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148/216

『迷い道の彼等』・3(了)



 何故、と問われれば答えに窮するが。

 敢えて言うのなら、多分、迷ったからだろう。




 ◆




 戦時中、殆どの成人男子は徴兵を受け、学生も学徒動員という形で戦争に参加した。

 しかし男は幼い頃の病気のせいで足が動かない。とはいえ座って仕事ができるほどの学もない。

 いくら人手が足りないとはいえ、そんな役立たずに用はなかったらしい。

 幸運にも徴兵を免れ、さりとてそのまま家で厄介になっていられるほど面の皮は厚くない。食い扶持減らしにはちょうどいいだろうと父母に言い、彼は逃げるように家を出た。

 男には学がなく、しかし頭はそれなりに回った。だから自分のような者でも使ってくれそうな場所へと転がり込む。

 彼が玉ノ井の”いかがわしいお店”の下働きになったのは、そういった経緯だ。

 判断は間違いっていなかった。

 このご時世でも、寧ろだからこそと言うべきか、玉ノ井は花の盛りと色付く。戦争が続く不安から逃れるように、男達は一夜の夢を求めた。

 下働きの男は懸命に働く。そもそも何の役にも立たなかったお荷物。世間的に見ればいかがわしい職だろうが、煌びやかな夢の一端を担えるのは素直に嬉しかった。

 雇い主や劇場の踊り子も男を買っていた。

 機敏な動きは期待できないが、徴兵に取られない働き手。

 なにより真面目で卒がなく、足が動かないという劣等感から謙虚で決して手を抜かない。腐らずに下働きをこなす彼は有難い存在だった。

 精一杯働いて、それが誰かに認められる。

 いつも友人の背中ばかり見ていた子供時代。成長しても役立たずのまま。

 情けないと自分を卑下ばかりしていた男は、花街の小汚い路地で、今まで感じたことのない充足を覚えた。


 なのに、毎日毎日疲れ果てるまで働いて、ふと一息吐いた時。

 言いようのない不安に襲われる。

 それが何のか、何故こうも焦燥を感じるのか。

 彼には、分からなかった。




 そうして昭和二十年三月九日、東京大空襲当夜。

 大規模の焼夷弾爆撃により、玉ノ井は一夜にして消える。結果五百近い娼館、千人を越える娼妓が焼け出された。

 花の盛りと咲き誇った大私娼街は、今では見る影もない。

 燃え尽きたかつての居場所。茫然とする男に雇い主は提案する。


“玉ノ井の業者が共同で、少し離れたところにある住宅街を買い取る。そこで店を構えてみないか”


 選択肢はあった。

 玉ノ井に残り、この花街を再建するか。

 それとも新しい場所に流れるか。

 どちらも一から始めるのは同じ。ならば、と彼は玉ノ井と向島花街の間に位置する住宅地───後の鳩の街へと移ると決めた。

 選んだ理由は彼にもよく分からなかった。

 苦労するのが同じなら新しいことをしてみようと思ったのかもしれないし、今迄の働きぶりを評価して、店を任せると言ってもらえたことが嬉しかったような気もする。

 けれど頭で考えた理由はどうにも言い訳じみていて、今一つしっくりと来ない。

 結局はっきりした答えを持たないまま彼は鳩の街へ移り、桜庭ミルクホールの店長へと納まった。

 だからと言って何かが変わる訳でもない。ミルクホールの店長となってからも彼は真面目に懸命に働き、ふとした瞬間襲い来る不安もやはり消えないままだった。

 それでも、どうにかこうにか日々を積み上げて来たからこそ、気付くこともある。

 

 鳩の街へ移ると決めた理由。

 あの時から、答えは見つからないままで。それでも、敢えて“らしい”言葉で飾るのならば。


「……結局のところ、迷ってたのよね」


 桜庭ミルクホールの店長は、諦めにも似た頼りない呟きを零した。

 青年は帰り、女給達は皆“仕事”にかかり、店のホールには誰もいない。

 時計の音が聞こえるくらいに静かで、呟きもよく通る。

 染み渡る静けさは、余計なことを思い起こさせる。こういう時脳裏に浮かぶのは、決まって遠くなる背中だった。

 小さな頃、いつも見ていた友人の背中。追い縋ることのできない、情けない自分。

 歳を取って、少しは落ち着いて。彼はようやく思い知る。

 何故この街に移ったのか。


「私は……」






 ◆






「あら、お帰りですか?」


 桜庭ミルクホールを出ると、玄関の外でぼんやりと夜空を見上げる女給と出くわす。

 見知った顔。ほたるは楚々と頭を下げ、ゆるりと微笑んで見せた。

 上気した肌を夜風が撫でる。そっと髪をかき上げる仕草は嫌味なく艶めかしい。年は二十三、四か。鳩の街の娼婦にしては少し年齢を重ねているが、それだけに慎ましやかな佇まいは堂に入っていた。


「ああ。そちらは見送りか?」

「星を見ていました……なんて、少し気取りすぎでしょうか?」


 見送りで正解だが、他の男の存在を消すようにほたるは微笑む。

 こういうのも職業病というべきか、彼女は娼婦の顔を崩さない。それだけ夜の女としての在り方が染みついている証拠だ。演技も嘘も慣れたもの、胸中を見せない立ち振る舞いが癖になっている。


「済まない、男二人して気を遣わせたな」


 だから、隠した本音を言い当てた彼に、ほたるは少しだけ戸惑った。

 彼の言う通り、先程まで相手していた客を見送った後もホールに戻らなかったのは、どこか寂しげに語り合う店長とこの青年の邪魔をしたくなかったから。こうやって星を眺めていたのは、単なる時間潰しだ。

 看破されたなら取り繕う方がみっともない。微かな戸惑いなどおくびにも見せず、楚々とした態度のままにほたるは答える。


「いいえ。どんな顔でいればいいのか、分からなかっただけですから」


 酒を呑みながらの愚痴だ。聞かれて困るような話ではないと分かっている。

 それでも、昔語りをする店長など初めてだったし、然して親しくもない男の過去に立ち入るのも忍びない。

 他の女給は気にしていない様子だったが、どうにも居た堪れなくて、すぐにホールへ戻るのは躊躇われた。


「聞かれたくないなら、そもそもこんな場所では話さない。それは彼も同じだろう」

「そう、言っていただければ」


 十七、八にしか見えぬ青年。余裕のある立ち振る舞いは、見た目に反して老練した印象を受ける。

 どうにも意図はばれていたらしい。曲がりなりにも夜の女を気取っていたが、見透かされるようではまだまだと、ほたるは自身を諌める。

 とはいえ見透かされても嫌な気分にはならなかった。きっと青年の纏う空気がひどく穏やかだったからだろう。


「貴女は、この店は長いのか?」

「はい。娼婦になりたての頃から、ずっと。店長にはお世話になってばかりです」

「なら去年の春もこの街で?」

「ええ。家に帰れる身ではありませんので。春夏秋冬、変わらずに」

「そうか……。ああ、そういえば、今年は昭和の何年だったかな」


 唐突な、あからさますぎる話題の転換だった。

 三十四年ですよ、とほたるはくすり小さく笑う。不器用な気遣いだと彼女は受け取った。

 ありがとう、短く返すが、彼女の想像と甚夜の意図は少しばかりずれている。気遣いなどではなく、探りを入れてみただけ。結果は、予想通りと言えば予想通り。彼女もまた、昭和三十四年の鳩の街に対して、何ら違和感を持っていなかった。


「ところで、店長とは古いお知り合いですか?」

「いいや、知り合って一か月と経っていないが。どうしてそう思った?」

「いえ。……ああやって弱音を吐く姿は、初めてでしたので」


 ほたるの知る店長は、女言葉で話す奇妙な男性ではあるが、親のように女給達を見守ってくれる穏やかな人物だ。

 それに、花街の一角に店を構えるだけあって、あれで案外と抜け目がない。事実、ああやって素直に弱い部分を見せるようなことは今までなかった。


「弱音、というのかな。あれは」


 返ってきたのは、頼りない曖昧な響き。

 表情は変わらず、老練とした印象はそのまま。なのに、何故かその横顔は寂しそうに見えた。


「本当は、彼も分かっているんだ、ただ在り方を決めかねているだけで。出し切れない答えに惑うことを、意気地のない弱音とは思いたくないな」


 それは弱音ではなく産みの苦しみだ。

 出産には陣痛が伴う。新しい何かを得ようとすれば、痛みがあるのは当然。その痛みに喘ぐことを弱音とは言いたくなかった。


「答え、ですか」

「ああ。彼も、向き合おうとしているんだ。少しばかり、遅くなったかもしれないが」


 だからきっと、此処にいるのだと。寸でのところで口を紡ぐ。

 本当は、分かっている。それは甚夜も同じだろう。

 何処かで、向き合わなければいけないのは彼こそだ。もしかしたら、鳩の街は、その為にあるのかもしれない。くだらない感傷から浮かんだ考えは、すとんと胸に落ちた。


「貴方様には、随分と気を許しているのですね」

「ん?」

「いえ、店長のこと、よく理解されていますから。相応の信頼がなければ、懐は開けないものだと思います」

「さて。関わりがないから話せることもあるだろう」


 甚夜は肩を竦めてそう言った。けれどそれは違うとほたるは思う。

 店長は無責任な愚痴を吐けるような人ではない。旧知ではなく、しかし気を許しているように見えたのなら、きっと二人には通ずるものがあって。


「……ですが、きっと。貴方様も同じなのでしょう?」


 それは多分、同質の痛みなのだろう。

 同病相憐れむ。似たような、どうにもならない過去があるからこそ、彼らは分かり合えてしまう。二人の間に在るのは積み重ねた年月ではなく、同じ痛みを知るが故の共感だ。

 そうと察してしまったから、不意に言葉は零れた。失敗した、とほたるは口にしてから気付く。

 関わり薄く客でもない男、踏み入るには少しばかり距離が遠い。夜の女にあるまじき無粋だった。


「この歳だ、箪笥の角に足の小指をぶつけた記憶くらいはあるさ」


 小さな笑みを落とし、甚夜は曖昧に濁す。答えたのは礼儀、ぼかした物言いは彼なりの配慮だ。

 他人の痛みなど理解できるものではない。

 だとすれば誰それが語る悲劇も所詮はその程度。過去の傷がどれだけ痛くても、他人からすれば箪笥の角に足の小指をぶつけたのと然程変わらない。

 ならば気に病むことではない、と彼は言う。

 その意をほたるは間違えない。

 心遣いに感謝し、けれど磨りガラスのような優しさの向こうには、ぼやけた憂いの輪郭がうっすらと見えてしまった。


「小指……まだ、痛みますか?」

「時折、な」


 遠慮がちな問いは、ほたるではない、ただの女のものだ。 

 逃れるように視線を空へと移した彼女の横顔は、年相応に頼りなく見えた。

 声をかけるのは躊躇われ、甚夜も同じように夜空を見上げる。

 黒の天鵞絨、まばらに瞬く銀の欠片。

 夜の星は少なくなったと甚夜は思う。

 街灯にネオン。人口の光に照らされた鳩の街は、夜でもそれなりに明るい。

 反面星の光は目立たなくなった。見上げた先は、かつて白雪と見上げた美しい眩い夜空とは程遠い。


「星を、見るのが好きなんです」


 けれど、彼女にはまた違った見え方をするのだろう。

 夜空を仰ぎ、ほたるは郷愁を瞳に滲ませる。そうして短く長い沈黙の後、そっと呟く。


「家はあまり裕福でもなかったものですから。お金のかかる娯楽より、二人で星を見上げる方が好きでした」


 零れた声は風に散ってしまいそうなくらい頼りない。

 誰が、とは言わなかった。けれど、あの夜の男を指していることくらいは想像できた。


「此処に来たことを、後悔しているのか?」

「まさかでしょう。この街は、流れ着いた私を受け入れくれました。感謝こそすれ後悔などするはずもありません」


 けれど、ほんの少しの未練はいつだって付き纏う。

 梶井かじいたくみ。ほたるが娼婦となる前、結婚を約束した、かつての恋人だ。

 こんな街に来るような人ではなかった。なのに、追いかけて来てしまった。ほたるには、それがひどく寂しいと感じられた。


「後悔は、していないんです。でも本当は、あの人と向き合わないと、いけなかったんだと思います。なのにできませんでした。怖くて。寂しくて。……結局、今も、そのままで」


 悔いるような言葉は誰かに向けられたものではなく、独白に近い。

 ほたるのことを何も知らない甚夜では、浮かべた希薄な笑みの奥にある感情までは読み取れない。

 それでも、彼女の昔語りの意味を受け止め、同情も慰めも口にしなかった。

 その意図に気付いたほたるは、ふっと息を抜いて、もう一度娼婦としての顔を作って見せる。


「すみません、つまらない話をしました」


 ほたるにはもう頼りない女の面影は残っていない。

 あからさまに変わった語調は、ここが区切りと示す為。問われてもいない過去を語ったのは、不用意に踏み入ったことへの謝罪だろう。

 本当に、彼女は懐かしい夜の女だ。古臭いほたるの在り方が甚夜には心地良いと思える。


「義理堅いな」

「娼婦を渡世とする身ですから」


 僅かなやり取りも軽やかに。

 二人はただのすれ違いに戻り、此処にいる理由もなくなった。ちょうどよく区切りもつき、いい頃合いだ。


「さて、そろそろ失礼しよう」

「そうですか。長々と付き合わせてしまい申し訳ありません」

「なに、こちらとしても得るものはあった」


 得るものはあった。

 奇妙な返答にほたるはどう応じればいいのか分からなかった。しかしその反応を見届けた甚夜は、どこか満足げに小さな笑みを落とし店先を離れる。


「花街の女にかける言葉ではないが、夜は気を付けるといい」

「……ありがとうございます。どうぞ、またおいでください」


 結局、その意図を知れぬまま、ほたるは彼の背中を見送った。

 自分よりいくらか年下に見える青年だが、なんと奇妙な雰囲気を纏う人物である。

 しかし花街には時折不思議な客が訪れるもの。

 ならば取り立て気にするようなことでもないと、彼の姿がなくなるのを待ってからほたるは店へ戻った。




 得るものはあった。

 彼女は、今が昭和三十四年と理解しながらも、鳩の街が存在していることに疑問を抱かなかった。

 青葉もそうだったが、彼女らは怪異に気付いてすらいない。

 ミルクホールの店長は、僅かながらに違和を感じてはいた。

 店長やほたるの感じる迷い、その意味。

 向き合わなければいけなかったと語る彼女。

 そして。


「……七緒のやつめ」


 甚夜は、珍しく悪態をついて見せた。

 若干の苛立ちから足早に、夜の街を歩く。やけに目を突くネオンが今は煩わしく感じられた。






 ◆






「おや、また来てくれたのかい」


 翌日、夕日が落ち夜に差し掛かる頃合い、甚夜は再びイチカワを訪れた。

 扉を潜り、目があった娼婦に声をかけ名乗れば、含み笑いで奥の部屋へ案内される。七緒から甚夜のことを聞いてはいるのだろう。どのような内容かは知りようもないし、どうでもいい。

 腰をおろし、相変わらず気怠げな雰囲気を纏う七緒と向き合う。


「初回限定だ、安くしとくよ。どうだい、一晩」

「ごめんだな。……昨日の、依頼の件だ」


 すげなく断ってもきゃらきゃらと笑うだけ。

 元々本気ではない、冗談というよりもからかいの類だ。然して気分を害した様子もなかった。


「色々と、聞きたいことがある」

「おや、真面目な話みたいだね」


 依頼の話を出しても佇まいは直さない。のっそりと緩慢な所作、しかし耳はちゃんと傾けてくれている。

 七緒は無防備で、だらけた態度ではあるが、甚夜のことをおざなりには扱わなかった。

 曲がりなりにも鈴音の一部だからか、それが彼女の気質なのかは今一つ判別がつかない。

 ただこの女がマガツメの娘の中でも一際奇妙なのは間違いだろう。


「お前の依頼は、この街を覆う怪異の解決、だったな。そして自身は怪異に関わっておらず、巻き込まれた側だと」

「ああ、そうだね」


 彼女の依頼は、鳩の街を覆う怪異の解決。それを為してくれれば、命をくれてやるとまで言ってのけた。

 マガツメとは既に袂を分かち、今更助力をする気はない。

 この怪異に七緒自身は関わっておらず巻き込まれた側である。

 彼女の言い分は大方そのようなものだった。


「七緒……嘘を吐いているだろう?」


 しかしそれでは理屈に合わない。

 ほたるや青葉はそもそも現状になんら疑問を抱いていなかった。

 桜庭ミルクホールの店長も、多少の引っ掛かりは覚えているだろうが、当たり前のように店を営業していた。

 あけみら女給達も普通に仕事をこなしながら過ごしている。

 つまり、この怪異に巻き込まれた者は、巻き込まれたこと自体認識していない筈なのだ。


「いや、嘘は言い過ぎか。だが隠し事が随分と多いな」

「隠し事、ねえ」

「君は最初からこの街を覆う怪異の外側にいた。……そして、既に大よそ真相を掴んでいると見たが」


 だが推測は的外れではないだろう。七緒が怪異に“巻き込まれた側”と言ったのは、この街の異変に気付き、現状をかなり正確に把握している証明。

 にも拘らず態々依頼したのならば、裏はあってしかるべきである。


「あらまぁ、ばれるの早いねえ」


 指摘されても大して動揺もしない。

 悪びれないのは、実際彼女が何もしていないからだろう。

 七緒はこの街を覆う怪異のからくりには気付いていても原因ではない。巻き込まれたというのも事実ではあった。

 つまり彼女の立ち位置は「分かっているけど解決する気はない。だから人に投げ渡す」というもの。

 それとは別の思惑があり、それが甚夜に害するものではないのも間違いない。

 そして彼女の思惑が甚夜の想像する通りならば、避けて通ることはできない。


「ということは、話ってのは依頼を断るってことかい?」

「いや、受ける」


 騙されていたと知って憤慨でもするかと思った。冷静な甚夜の対応は、七緒には意外だった。


「へえ、意外だね。断られると思ったけど」

「今は踊らされてやるさ。君に原因がないのは事実……なにより、どうせ放っておいても終わる怪異だ。報酬がある以上、受けた方が得だろう」

「あらま、案外ちゃっかりしてるじゃないか」


 軽い言葉を交し合い、そういうことかと納得する。

 放っておいても終わる怪異。ああ、つまり。彼もまたこの怪異のからくりに気付いており、同じ思惑を持ってくれているのだ。

 言外の言葉を受け取り、七緒は満足げな笑みを浮かべる。


「ありがとうね。また、来てくれるんだろう?」

「ああ。折が来れば、必ず」


 日は完全に落ち、夜は深まる。

 薄暗い室内に光源はランプ一つ。揺らめくような灯に照らされ、甚夜は力強く頷いた。

 はっきりと言えば、怪異に関しては粗方目途がついている。

 寧ろ問題となるのは七緒の“もう一つの思惑”の方だ。こちらは逃げる訳にはいかない。

 ちゃんと、向き合わねばならない。

 そういう時が、ついにきたのだろう。




 ◆




 空襲で玉ノ井が焼けた時、命からがら助かったのに、彼はそれを素直に喜ぶことができなかった。

 その理由は、なんだったろうか。

 分からないまま、与えられた選択肢

 玉ノ井の再建か、鳩の街に移るか迷った。

 選んだのではない。迷ったから、此処に来たのだ。 

 齢を重ね落ち着いた今だからこそ分かる。ふと息を吐いた時に襲ってくる、言いようのない不安の正体。


「結局、私は迷ってたのよねぇ」


 始まりは、少年時代。

 動かない足と、自分を置いて走っていく友達。

 追いつこうとは思わなかった。出来ないと知っていた。

 待って、置いて行かないでとは言えなかった。言ってしまえば友達ではなくなるような気がした。

 物分かりの良い、諦めの早い子供だった。同時にそれでも何とかやっていける程度には、頭が回り気も効いた。

 だから少年時代の友達とは、ちゃんと友達のままいることができた。

 けれど成長し、友人達は戦地へと行った。

 追いつこうとは思わなかった。出来ないと知っていた。

 待って、置いて行かないでとは言えなかった。足の動かない、お国のために働けない無様な男にそれを言う資格はないと思った。

 そうして見送り、彼は一人になる。

 歳月ばかりを重ねて、無駄に歳を食って。

 けれど何の成長もない、迷子の少年だけが此処に残った。


 故に彼の後悔は、友人達が死に往く中、一緒に死ねなかったことではない。

 足が動かないからと言い訳し、資格がないと躊躇って、何も言えなかったことこそ彼は後悔していた。

 本当は、選択肢を突き付けられる度に迷っていた。

 僕だって一緒に走りたいと、置いてかないでと我儘を言いたかった。 

 死地へ赴く友人へ行くなと、俺も一緒にと叫びたかった

 友達の最後に、「死なないでくれ」と涙さえ流せなかった。


 それをするには、彼は物分かりがよすぎて、相応に頭が回った。

 頭が回り要領もいいから、自分がやりたいことを言うのではなく、やれることだけを選んできた。

 足が動かないから一緒に走るのではなく、他の方法で友達であり続けた。

 まともには働けないから、こんな自分でも働かせてくれる場所へ流れた。 

 それが悪いという話ではない。

 ただ結局のところ彼は、此処まで流されるままに生きてきた。

 出来る限りうまくはやってきたけれど。今まで一度も、困難に打ち勝ったことがなく。


“玉ノ井の業者が共同で、少し離れたところにある住宅街を買い取る。そこで店を構えてみないか”


 そう言われた時も、玉ノ井の再建という目に見えた困難を乗り越えるより、何もないところから始める道を選んだのだ。

 玉ノ井に残り、再建するか。

 新しい場所に流れるか。

 どちらも一から始めるのは同じ。ならば、と彼は玉ノ井と向島花街の間に位置する住宅地───後の、鳩の街へと移った。

 何故、と問われれば答えに窮するが。

 敢えて言うのなら、迷ったからだろう。

 やり直すよりは、新しく作る方が楽に思えた。

 彼の選択はいつだって“決断”ではなく“迷い”、踏み込めなかったが故の妥協。

 そうやって迷いを積み重ねてきた先だ、迷い道となにも変わらない。

 傍から見れば要領のいい、抜け目のない男が抱き続ける劣等感。

 迷って迷って、流されて。

“いつか出来ず、そのままにしてしまった決断”───幼い頃から彼を苛む不安の正体だ。


「でも分かってもいたのよ。いつか、向き合わなきゃいけないって。……分かってたのに、先延ばしにして。こんな歳になっちゃったわ」


 諦観を思わせる自嘲の笑み。店長は琥珀色の液体で満たされたグラスをぐっと煽った。

 店の人間が酒を呑むのは褒められた行いではないが、こんなこと酒でも飲まねば吐き出せなかった。

 黙って耳を傾けていた青年は、頷きの代わりにグラスを傾ける。

 姪に会ったその足で訪れた桜庭ミルクホール。胸につっかえていたものが多少はマシになったせいか、喉を通るウィスキィは昨日より幾分か旨い。


「だからね、この街に来た時、一つだけ決めたことがあるの。『最後の最後まで、この店の店長で在り続ける』。流されるまま得たのだとしても、私のお城ですもの。女の子たちもお客さんのことも、最後まで面倒を見るつもり」


 それが迷い道の果てに辿り着いた、初めての決断。

 だから彼は、桜庭ミルクホールはここに在る。鳩の街が続く限り、彼は此処で店長として在り続けるのだろう。


「なんて、格好つけてみたのはいいけれど。つまりは未練よね」


 感慨深げに零した店長の表情は随分と安らかだ。

 自身の迷いを受け入れ、少しずつでも前に進もうする。そういう男だから、怪異とは縁遠そうに見える彼が、誰よりも早くこの街の違和感に気付いた。


「だから貴方は、此処に店を構えているんだな」

「そうね。言ったでしょう。みぃんな、なにかしら捨てきれなかったのよ、多分ね」


 捨てきれなかったから、鳩の街は今も残り続けている。

 時代が流れ法が変わり、花街の存在が認められなくなって。

 けれど誰もが捨てきれないものを抱え、それを飲み込むこともできず、結局この街から離れられなかった。

 此処はどこにも存在しない、誰かの未練で出来た街。

 故に、本当は解決する必要などない。

 所詮は心残りが形になった場所、歳月が過ぎればいつか忘れ去られるだけ。

 その時にはきっと、この場所も終わりを告げる。

 放っておいてもいずれは覚める、一夜の夢に過ぎないのだ。


「それで、貴方はどうするの?」


 此処は未練で出来た街。

 ならば、この街にいる者は皆捨てきれない未練を抱え、向き合わなければいけない現実がある。

 訪れた青年も、それは変わらない。


「私も、向き合わねばならないのだろうな」


 なにがとは言わず、店長は問わない。それで十分だった。

 なにか思いついたのか、急に店長の顔が近所の悪ガキのような意地の悪いものに変わる。

 そうしてからかい混じりに彼は言う。


「今日のお酒は美味しくない?」


 前回と同じ問いだが、問うた内容は全くの別。

 向き合わなければいけないという青年へ、“ちゃんとできるの?”とどこかおどけた調子で店長は聞く。

 正直なところ分からない。

 胸を焦がす憎しみは今も消えず、この手は血に塗れすぎた。

 それでも此処が未練で出来た街ならば、ちゃんと向き合わなければいけないだろう。

 だから青年はグラスにウィスキィを呑み干し、落とすように小さく笑った。


「昨日より、随分と旨いよ」


 きっと昨日よりは、前を向けている。

 ならば、いつか抱えた憎しみと、もう一度向き合おう。

 此処は、そういう街なのだから。 


 



『迷い道の彼等』・了




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