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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編

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146/216

『迷い道の彼等』・1




 その1 桜庭ミルクホール店長について






 *  *  *






 どこかで道を間違えたような気がする。




 ◆




 玉ノ井はもともと低湿地で、道路が整備されるよりも早く各々勝手に家を建てた為、入り組んだ迷路のような路地になってしまった。

 このことが整然と区割りされた他の遊廓とは異なる雰囲気を作り、後に玉ノ井は大私娼街として大いに栄えた。

 それも終わりを迎える。 

 昭和二十年三月九日、東京大空襲当夜。

 大規模の焼夷弾爆撃により、玉ノ井は一夜にして消える。結果五百近い娼館、千人を越える娼妓が焼け出された。

 花の盛りと咲き誇った大私娼街は、今では見る影もない。

 燃え尽きたかつての居場所を眺め彼は逡巡する。

 選択肢はあった。

 玉ノ井に残り再建するか。

 新しい場所に流れるか。

 どちらも一から始めるのは同じ。ならば、と彼は玉ノ井と向島花街の間に位置する住宅地───後の鳩の街へと移った。

 何故、と問われれば答えに窮するが。

 敢えて言うのなら、多分、迷ったからだろう。






 鬼人幻燈抄『迷い道の彼等』






 そんなこんなで当時玉ノ井の”いかがわしいお店”で働いていた青年は、ミルクホールの店長となった。

 桜庭ミルクホールと名付けたカフェー風の店。桜の庭、響きが心地良いから付けただけで特に意味はない。

 立派かどうかは分からないが、流れ着いた先で得た一城だ。店にはそれなり愛着もあった。


「なに呑む?」

「シングルモルトがあるなら指二本で。銘柄は任せる」


 注がれる琥珀色に溶かされて、ロックグラスの氷がカランと音を立てる。

 鈴の音のように心地よい音が好きだった。そう伝えれば、カウンターに寄りかかる青年は、何故か居心地悪げに顔を顰めた。


「……足か?」

「ああ、これ? ちっちゃな頃にちょっとね」


 小さな頃かかった病気のせいで右足はうまく動かない。

 どうやらカウンター越しの小さな動作を見ただけで、足の悪さを察したらしい。この男は随分と目敏い。

 客は見た目十七、八ほどの青年。以前訪れた時に酒を出すと約束した相手だ。

 花街には似合わぬ武骨で厳めしい面をした若人だが、纏う空気は老練といった風情。

 酒の呑み方も堂に入ったもので、若さに明かした乱雑さはなく、余計なことも聞かずにゆったりグラスを傾ける。


「時代、というものかな」


 薫香を楽しみ、喉へ流し込み、青年は落とすように小さく笑った。

 純国産ウィスキー。大正の頃はほとんど売れなかった日本製の洋酒は、今ではそこそこ市民権を得ている。

 成程、確かに時代というものだろう。

 日本産のウィスキーも、それが受け入れられた今も、昔からは考えられない。ついこの間までは敵性だなんだと騒いでいたにも拘らず、今では洋酒を楽しんでいるのだから、奇妙と言えば奇妙だった。


「かもねぇ。まあ、いいことじゃないかしら。お酒がおいしいのは」


 ミルクホールの店長は間延びした口調で、緩やかに息を吐いた。

 年の頃は三十後半、或いは四十初めといったところ。

 年輪のように刻まれた皺、それなりの年齢の男が使う女言葉には些か以上の違和感を覚え、初めは顔を顰める客が殆ど。

 しかし青年は、実に寛いだ様子で酒を呑む。大して興味もないのか、気遣い故か。今一つ判別はつかないが、彼の呑み方は嫌いではなかった。


「違いない」


 短く答える彼はやはり年齢通りには思えない。

 花街には時折不思議な客が訪れる。

 過去も今も問わぬが作法。金も欲も男も女も、あらゆるものを受け入れてこその花街。

 そういう街だから、時に思いも寄らぬ何かが紛れ込むこともある。

 外見には見合わぬほど老練した青年もまたその類なのだろう。

 だから彼が何者であろうと問うことはなく、そもそもこういった古い匂いのする男はなかなかいない。

 女言葉で喋るとて別段そういう趣味ではないが、店長はこの青年のことが案外気に入っていた。


「お客さん、呑んでばっかりじゃなくてこっちもどぉ?」


 緩やかに流れる時間は、ねっとりと甘い女の声に途切れた。

 グラスを傾けてばかりの彼に、ホールの女給が自分を売り込みに来た。年若い娘だが、既に一端の娼婦。容姿には自信があり、女を見せつけるようにしな垂れ掛かる。

 青年は一瞥し、「済まないが」と穏やかに返した。

 店長とは旧知の仲、互いの和やかな様子にそう見えたのだろう。若いがよさそうな客だと判断し、女給は諦めずに食い下がる。


「いいのよ、あけみちゃん。この人、私のお客さんだから」


 流石にこれ以上は、と店長が止めに入った。

 青年の目的は分かっている。もともと女を買いに来た訳ではなく、探しものをしているだけ。

 しかしそんな事情を女給は知らず、打てど響かぬ青年を見る目は冷たいものへ変わる。


「文無し? ああ、それとも、もしかしてそっちの趣味?」

「よく分かったな、実はそうなんだ」


 バカにしたような女給の物言いに、間を置かず、ひどく優しげな表情で青年は答える。

 呆気にとられたのだろう。女は動揺をうまく飲み込めず、口を開けて固まっていた。

 遅れて見せつけるようにグラスを鳴らせば、琥珀色の液体が揺れる。

 まさかそんな返答をするとは思っていなかった。案外と茶目っ気のある青年がおかしくて、店長は笑いをかみ殺し切れず、くすくすと声を上げる。


「……っ!」

 

 そこでようやく今の発言が「女よりも酒が趣味だ」という意味なのだと気付く。

 誘いをからかいで返され、女給は怒りに顔を赤くした。

 相手にされず、皮肉もうまいこと躱され、いたく女のプライドを傷つけられたようだ。わざとらしく足音を立てて去っていく。


「あんまりウチの子、からかわないでちょうだいな。なんて、迷惑をかけたのはこちらね、ごめんなさい」

「いや」


 青年は再びグラスを傾ける。

 表情は変わらず、けれど彼の目はほんの少しだけ細められた。その気持ちが少しだけ分かる。胸中を悟ったのは店長にも同じ想いがあったからだ。 


「いい子なんだけどね。惚れられる女だから、あけみちゃん」

「惚れさせる、ではなく?」

「ええ。流行りじゃないのよ、そういうの」


 戦後社会現象になった鳩の街は、アプレ派の紅燈街である。

 アプレ派とは、アプレゲールを語源とする言葉で、戦後派といった意味で使われる。

 元々は文学、芸術上の新傾向のことだが、第二次大戦後の日本においては、従来の思想・道徳に拘束されずに行動する若い人々を指す。

 鳩の街は新興の花街であり、戦後娼婦になった若い女、いわゆるアプレ派の娘が主流だった。

 吉原などの歴史ある遊廓とは異なり、花街の作法を弁えた昔ながらの夜の女は少なく、反面そういう商売っ気のなさや素人っぽさが受けて鳩の街は客足を集めた。

 それが悪いという話ではない。ただ、少し寂しくはある。

 もともと花街は、夢を夢足らしめる女と、嘘と知りながら騙される男の暗黙の了解の上に成り立っていた。

 しかし鳩の街の娼婦は若い体を売るのであって、夢を売るのではない。

 結局のところ一夜の夢だとか泡沫の恋などは流行りではないのだろう。


「なんとも味気ないな」

「普通は、お金で買う夢こそ味気ないと思うものだけど」

「様式は楽しむものだろう?」

「あいや暫く、って? 男の子ねぇ」


 花街に集まる男達は、皆嘘と知っていて夢を見る。

 言ってみれば歌舞伎十八番、打ち首の寸前に現れる鎌倉権五郎景政。

 絶対の危機にぎりぎりで間に合い見栄を切る。それが暗黙の了解、様式美である。

 泡沫の恋? 金で買っただけだと嗤うのは、騙される男にも騙す女にも無粋。

 活劇の見せ場に「そんな上手くいくものか」と文句を言うようなものだ。


「にしても、もうちょっと反応見せてあげないと可哀そうよ? 女の子は、男の視線に敏感なんだから」


 ああも興味無げに振る舞っては、お前に魅力はないと言ったも同じ。

 失礼だったのは女給の方、責めるつもりはない。無表情を貫く青年へのからかいの言葉だ。


「……昔、知人に街娼がいた」


 青年は懐かしむように笑みを落とした。

 カラン。溶けた氷が音を立てて、琥珀の液体が揺らいで滲む。


「心の機微に聡い女だった。多分、あれが私にとっての夜の女なのだろう……だから、評価はちと辛い」


 やはり娼婦と聞いて思い浮かぶのは夜鷹だった。最下級の街娼だ、絶世の美女という訳ではなかった。

 それでも彼女以上に夜の女という表現が似合う誰かを彼は知らなかった。


「惚れてた?」

「残念ながら、そこまで艶っぽい間柄でもなかったよ」


 最後の一口を喉の奥へ流し込み、グラスをカウンターにそっと置く。

 青年は厳めしい面とは裏腹に、随分と穏やかに息を吐いた。


「中々楽しい酒を呑ませてもらった」

「それは何より、こちらも楽しかったわ。時々女の子も買ってくれたら、もっといいお客さんよ」


 店長は値踏みするように青年の目を覗き込む。

 しかし相手は微塵の動揺も見せず、相も変らぬ無表情で答える。


「確約はできない」

「いい子、いなかった?」

「どうだろう。この店で一番興味をそそられたのは貴方だが」

「あら嬉しい。一つ言っておくけど、男色の気はないわよ?」

「気が合うな、私もだ」


 軽い調子に紛れて、互いに距離を測り合う。

 興味をそそられたという言葉は本当だろう。勿論、そういう趣味ではない。

 青年は考えている、おそらくは最初にミルクホールを訪れた時から。

 この街の真実に一番近いものが、ここに在るのだと。

 それでも踏み込むことはしなかった。

 今は意味がないと判断したのか、他に理由があるのか。


「いいのかしら。聞きたいことがあったんじゃない?」

「酒に肴には少しばかり重そうだ。飲み込めると思った時に改めて聞くさ」


 本当に古臭い男だ。

 多分それが嬉しかったのだろう、店長はくつくつと笑う。


「ああ、私からも一つ。どうせなら、“あいや暫く”よりも“月よりの使者、正義の味方”がよかったな」


 青年もまたこの関係が気に入ったらしく、僅かに口の端を釣り上げた。

 今一つ意図が掴めず眉間に皺を寄せれば、青年はどこか自慢げに、勝ち誇るように言った。


「今の時代、ヒーローは鎌倉権五郎よりも月光仮面らしいぞ?」


 呆気にとられて思わず目を丸くする。

 その顔こそが見ものだったと、青年は小さく笑みを落とした。




 ◆




「お帰りですか?」


 会計を済ませ外へ出ると、楚々とした振る舞いで女給が声をかける。

 振り返れば、娼婦でありながらどこか清楚さを残す娘が態々見送りに追いかけてきてくれていた。

 確か、ほたる、だったか。懐かしい匂いを漂わせる夜の女だ。


「ああ。済まない、今日は酒を呑みに来ただけでな」

「そうでしたか。では、またお越しください。お酒だけでも、それ以外でも」


 ああ、と短く答える青年へほたるはそっと身を寄せた。

 そうして触れるか触れないか。かすめるように口付けて、蠱惑の笑みを滲ませる。

 鼻腔を擽ったのは香水? 或いは彼女の香りだったのか。

 成程、やはり巧い女だ。“惚れさせる”娼婦の仕草に、甚夜は素直に感心していた。


「……こういう手管はお好みではありませんか?」


 対してほたるは、少しだけ不思議そうに眼を見開く。

 年若く見える男、もう少し反応があるかと思えば、彼が浮かべた表情は実に落ち着いている。それが彼女には意外だと感じられた。


「いいや。思わず騙されてやりたくなる程度には魅力的だ」

「よかった、少しほっとしました」

「ただ、今の私は娼婦のヒモのような身の上、乗ってやれなくて申し訳ない」

「重ね重ね残念です。そのような男性を引っ掛けては仁義に悖りますね」


 苦笑し肩を落として見せれば、それに応じくすりとほたるは笑う。

 予定調和の遣り取りだ。かっちり決めてくれる辺り、頭のいい娘で助かる。

 礼という訳ではないが、合わせてくれた分くらいは話に付き合おうと甚夜は表情を引き締め直した。


「あの男のことか?」


 図星を刺されたせいだろう。

 一瞬娼婦としての表情が崩れ、茫然とした、無防備な女の顔を覗かせる。

 どうにか取り繕い平静を装うが、僅かに瞳は揺れていた。


「……はい」

「以前も言ったが、あの手合いはまた来るぞ。間違いなくな」


 怯えか、他の感情か。ほたるの肩が小さく震えた。

 あれとどういった関係だったのかは、甚夜には知る余地もない。彼女にも踏み込ませる気はないだろう。


「言い切りますね」

「言い切るさ。一人の夜は気を付けることだ」


 せめてもの忠告だった。

 けれどほたるは苦笑いを浮かべ、ぼやくように、諦めるように息を零す。


「それは、難しい、ですね……。誰かに抱かれても、一人じゃなかった夜はありませんでしたから」


 触れる肌から伝わる熱に、心は冷えて。

 いつだって、誰かと一緒に一人寝の夜を過ごしていた。

 だからほたるは思う。

 怖くはないけれど。あの人が来るのが、とても寂しい。




 ◆




 昭和三十四年、四月。既に鳩の街は存在していない筈だった。

 にも拘らず、此処は花街として在り続ける。

 雑多な町並み。行き交う人々は何の疑問も抱いていないように見える。だからこそ甚夜は桜庭ミルクホールを訪ねた。

 店長は女言葉で喋る奇妙な男だったが、その反応には幾らか引っ掛かるところがあった。

 彼は多分なにかを知っている。

 単なる推測だがそれほど的外れでもないだろう。

とはいえ、今は踏み込み過ぎる気もなかった。

 この状態で下手を打って、折角の取っ掛かりを失うのは避けたいし、なにより旨い酒が呑める場所は貴重だ。

 未だ花の名を持つ娼婦は見つかっておらず、分からないことも多い。

 まずは様子見。踏み込むのは足場を固めてからだ。


「あ、お帰りなさい甚さん」


 帰り道の途中、青葉と鉢合わせた。

 態々出迎えに来たのだろう。小さく手を振りながら、こちらへと小走りで近寄ってくる。

 知っている店だ、案内は必要ない。そう言って今夜は青葉には遠慮してもらった。

 置いて行かれた上に、酒の匂いを漂わせているのだ。文句の一つも言いたくなるだろうに、彼女は笑顔で迎えてくれる。

 その理由を考えるのは、今はやめておくことにした。


「別に、逃げんぞ?」

「あはは、やだなぁ。そんなつもりじゃないっすよ」


 軽いやり取り、並んで帰路を辿る。二人歩く夜道はそれなりに楽しい。

 しばらくすると青葉の家が見えてきた。

 カフェーのある通りと並行する商店街、その中程に彼女の住むアパートがある。

 十五、六の娘。娼婦と言いながらもまだ客を取ったことのない見習い以下の彼女は、娼館には間借りせずアパートで独り暮らしをしている。

 一応そういう店で下働きをしているのだが、そこの店長の伝手で、この部屋を格安で借りているそうだ。

 部屋に戻ればもう結構な時間だ。

 後は寝るくらい、勿論そこに艶っぽい意味は含まれていない。

 今の甚夜は完全な居候、花街らしく言えば娼婦のヒモだ。

 流石に気後れするため、生活上の細々としたことは甚夜が請け負っている。


「そら」

「あ、ども」


 寝る前に暖かい茶を一杯、小さなちゃぶ台で顔を突き合わせて啜る。


“少し、話さないか?”

“いいっすね”


 この部屋で寝泊まりするようになってから数日後、甚夜の方から切り出した語らいだった。 

 お互いに腹を探り合う目的だが、大した情報は得られず、最近では本当にただ語らうだけの時間となっていた。


「こうして兄を探していた簪は、ホトトギスとなって藤の花と共に空へ還ったという訳だ」

「……なんか、いいっすね、そういうの」


 青葉のお気に入りは、少しばかり奇妙で切ない話。

 幸いその手の怪異譚は持ち合わせが多い。かつて遭遇した奇妙な事件を脚色なく話せば、それだけで喜んでくれた。

 そういう時の彼女の笑顔は、年相応の無邪気さで。だから甚夜にとっても就寝前のこの語らいは決して嫌な時間ではなかった。


「さて、今日はこのくらいにしておこう」

「あ、そっすね。……そうだ、甚さん。明日はどうするんすか?」

「花の名の娼婦を探す。悪いが、また案内を頼めるか」


 それは勿論、と青葉は大きく頷く。

 彼女はいつだって甚夜の傍にいようとする。それが好意だけでないのは明白、しかし何を隠しているかまでは読み取れない。 

 分からないことばかりが積み重なっていく。まったく、儘ならないものだと小さく息を吐いた。


「でも、その前にちょっと付き合ってほしいんすけど」

「世話になっているのはこちらだ。構わないが」

「よかった。それなら、先にイチカワの方へ行きたいんすよ」


 イチカワ、というのは彼女が働いている店だと以前聞いた。

 娼婦としてではなく皿洗いやら掃除、雑務全般を請け負っているらしい。

 名前は知っていたが、花の名をした娼婦はいないという話なので、今まで訪れたことはなかった。


「実は、七緒さん……うちの店長みたいな娼婦さんなんすけど。甚さんのことを話したら、一度会ってみたいって」


 何が琴線に触れたのか、七緒ななおという女性は、甚夜に会いたいと望んでいる。

 一度相談してからにしようとも思ったが、このアパートを用意してくれたのも七緒らしく、世話になっている手前断り切れず約束してしまったらしい

 大して面白い男でもないが、と前置きし甚夜はそれを受け入れた。

 青葉には色々と迷惑をかけている。恩返しという訳ではないが、顔を立てるくらいはしようと思った。


「すいません、助かります」


 ほっとした様子で青葉は微笑む。

 珍しく分かりやすい。彼女は純粋にその七緒という女性を慕っているのだろう。がっかりさせなくてよかったと、屈託のない笑顔を浮かべていた。

 



 翌日。

 夕暮れの陽が広がり通りも橙一色に変わる頃、甚夜らは『イチカワ』と書かれた看板を掲げた、こじんまりとした家屋へと訪れた。

 店とはいってもミルクホールやカフェーとは違う。イチカワは本当に、女を抱く部屋を提供するだけの場所だ。

 一軒家の壁にタイルを張り、無理矢理モダンに飾った建築。数寄屋調の表がまえとはちぐはぐで、どうにもしっくりと来ない。


「ここっすよ。ささ、どうぞどうぞ」


 青葉に案内されるまま入ると、床張りの廊下が出迎える。

 ホールはない。一軒家を改装し、そのまま店として使っているようだった。

 狭い廊下の奥へと進み、木の扉の前で立ち止まる。どうやら此処に七緒という女性がいるらしい。

 どうぞ入ってください、と先導する青葉に促され、足を踏み入れる。

 木目調の家具で統一されたその部屋では、女性が待っていて。

 だから、甚夜の表情はほんの僅か、冷たくなった。


「あら、青葉ちゃん。そちらは?」

「こんにちわっす。約束の人連れてきたっすよ」

「ああ、じゃあ彼が。無理を言って悪かったわねぇ」

「そんなぁ、七緒さんにはいっつもお世話になってますし」


 朗らかな会話。青葉のまっすぐな好意が見て取れる。

 甚夜の目は、七緒に釘付けだった。

 肩口まである髪を綺麗に整えた、端正な顔立ちの娘。

 美しいのは間違いない。とはいえ、“絶世の”や“すこぶる”が枕につくような、とびぬけた美貌ではなかった。

 それでも視線をそらすことはできない。ここで会うとは思っていなかった。だから、思わず固まってしまった。


「成程、こういうこともあるか」


 呟きの意味は青葉には分からない。

 だが七緒には伝わったらしい。にぃ、と口の端を釣り上げた、厭味ったらしい笑みを見せつける。


「初めまして。甚さん、だったっけ? 青葉からよぉく聞いているよ」


 よくよく考えれば、こういう可能性だってあった。

 東菊は白雪の頭蓋を取り込むことで、白雪と瓜二つの容貌を得た。

 地縛は南雲和紗、古椿は三枝小尋。向日葵を除くマガツメの娘は、他者を取り込むことで自我と容姿を手にした。

 だから然して不思議ではない。

 容姿は同じ、声も同じ。記憶さえ奪えるならば、“成り代わる”のも容易だろう。

 此処で会ったのは偶然、しかしこの可能性は、甚夜が想像もしていなかっただけで、確かにあったのだ。


「おっと、自己紹介が遅れたねぇ。私は七緒、ここの娼婦で、一応管理者みたいなこともやってるんだ」


 何度も戦った経験か、それとも姉妹を喰らったからか、甚夜には分かってしまった。

 青葉の慕う娼婦はマガツメの娘。

 正確に言えば、マガツメの娘に喰われ、成り代わられたのだ。 






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