表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

145/216

『花街夢灯籠』・2(了)




 雨が、降っていた。

 朦朧とした意識。考えが纏まらない。気分が悪い。まるで脳が撹拌されているような錯覚。

 路上の片隅に腰を下ろし、カフェー風の娼館の壁を背もたれにして、ようやく座位を保つ。そうでなければすぐさま倒れ込んでしまうだろう。


『う、ああ……』


 葛野甚夜は言葉にならぬ呻きを上げる。

 傷はない。血も流れていない。痛みはなく、にも拘らず頭が働いてくれない。

 雨に打たれ体温が下がっているせいか筋肉は縮こまり、意識はゆらゆらと揺れて、今にも途切れそうだ。

 体が動かないのではなく、心が追い付いてくれない。

 糸の切れた人形のようにうなだれ、ただ雨に濡れる。

 どれだけの時間が経ったのか。

 一分、或いは一刻。

 体は芯まで冷え切り、それでも立ち上がることはできず。

 けれど雨が止んだ。

 いや、違う。雨音は途切れない。止んだと勘違いしたのは、身を打つ滴がなくなったから。


『お兄さん、風邪ひくっすよ?』


 最後の力を振り絞り、見上げたその先には、差し出された傘。

 そして、まだ幼さを残す少女の微笑みがあった。






 それが見習いですらない娼婦、青葉との出会い。

 見も知らぬ男のため、自分が濡れてまで傘を差し出す優しい女の子だった。

 浮かべた笑みは本当に無邪気で。

 なのにどうしてだろう。

 この娘が、泣いているように見えたのは。






 ◆






 事の起こりは一週間ほど前。

 戦時中は暫く人里を離れていた甚夜だが、終戦後には東京・渋谷、暦座キネマ館に再び身を寄せていた。

 昔取った杵柄で溜那と共に庭師の真似事をしたり、家事をこなし映画館を手伝い、希美子の孫の相手と毎日忙しなく動いている。

 本業の方も忘れてはいないが、なにせ近頃は鬼の噂も少ない。

 日本が荒れていた戦争の最中は奇怪な事件も多く、色々と首を突っ込んでいたが最近は平穏だ。

 不可解ではあるがマガツメからの横槍もなく、甚夜は比較的平穏な日々を過ごしていた。


『じいちゃん、いる?』


 そんなある日、不思議な話を耳にする。

 持ち込んだのは藤堂芳彦、希美子夫妻の長男で、名を甚悟じんごという。

 止めておけと言ったにも拘らず夫妻の強い希望で「甚」の一字を名付けられた彼は、甚夜を「じいちゃん」と呼び慕ってくれていた。


『おお、どうした甚悟』

『あー、いや。一つは、磯部餅焼いたから一緒に食わない? ってお誘い。もう一つは、ちょいと面白い話を聞いてさ』 

『有難い。どちらも好物、遠慮なくいただこう』


 今年で29になる甚悟には息子が一人、更に嫁の朝子は今妊娠をしている。

 かつてのやんちゃな子供はすくすくと成長し、いまや立派な人の親だが、芳彦夫妻の息子であれば甚夜にとっては可愛い孫も同然。

 甚悟の方も大人になった今でもよく懐いており、時折こうして息抜きがてら部屋を訪れ、二人で茶を飲むのが恒例となっていた。


『そいつはよかった。てか、ホントに餅好きだよな?』

『江戸の頃は、餅なんぞ滅多に食えなくてな。偶に出るとはしゃいだものだよ」

『前も聞いたけど、今じゃ信じられない話だなぁ。まずじいちゃんがはしゃいでる姿が想像できねえ』


 祖父と慕う相手は百年以上生きた鬼、出てくる話は耳慣れぬものばかりだ。

 幕末の動乱、明治の文明開化、大正の流行。

 あやかしが綴る、実際にあった不思議で切ない物語。

 今は昔と語られる説話の時代や日本の転換期をその目で見てきた祖父の話は非常に興味深く、それを聞くのが幼いころから甚悟の楽しみの一つだった。


『で、面白い話というのは』


 餅を食べ終え、茶を一口啜り、甚夜が話を切り出す。

 甚悟も詳細を把握している訳ではないが、マガツメという鬼のこと、祖父の目的などもおおよそではあるが知っていた。

 そのため少しでも祖父の力になればと、時折奇怪な話を仕入れてくる。

 今回もそういった経緯で、眉唾物の、噂にもならない一つの与太話が持ち込まれた。


『うん。あのさ、じいちゃん鳩の街って知ってる?』

『一応は。新興のカフェー街、だったか』

『そう、その鳩の街に、なんでも花の名を持つ娼婦が─────』


 曰く、鳩の街には奇妙な娼婦がいる。

 花の名を持つ彼女は大層素晴らしい女性で、男なら誰でも夢見心地になれるくらい不思議な雰囲気を纏っているという。


『……そいつは、確かに面白そうな話だ』


 マガツメの娘は全て花の名を冠していた。甚悟もそういう理由でこの話を持ってきたのだろう。

 とはいえ源氏名に花を使う娼婦は多い。それを考えれば、別段気にするようなことでもない。

 しかし『鳩の街にいる』というくだりが引っ掛かった。


『溜那、すまないが後は頼む』

『ん、まかせて』


 聞き終えた甚夜は芳彦らに成り行きを伝え、溜那に暦座の守りを任せ鳩の街へ赴いた。

 戦後に登場した花街でも最も人気を集めたのが『鳩の街』と呼ばれる新興のカフェー街だ。

 空襲で焼け出された玉ノ井の業者が、無事だった住宅地を丸ごと買い取り移転したのが始まりだといわれている。

 元々経営のノウハウを持つ多くの業者が戦略的に作り上げた鳩の街は、終戦の頃には数十軒からなる花街へと発展した。

 マスコミにも取り上げられたこの花街は、反面歴史が浅く怪異譚とは縁遠い場所でもある。

 そういう街にいるという“奇妙な娼婦”。

 件の女が単なる娼婦ならばよし。もしもマガツメの娘ならば、相応の対処をせねばなるまい。

 まずはこれが与太話か、それとも真実か探る為に甚夜は向島へと足を運び。






 その途中、意識は途切れる。






 目を覚ませば、彼は『鳩の街』にいた。

 朦朧とした意識では、どうやって其処まで辿り着いたかも分からない。

 耳を劈く大雨の中、立ち上がることもできず、娼館の壁に背を預け項垂れていた。

 酩酊し、混濁する。真面な思考が保てない。無理に考えようとすれば、軋むような痛みに襲われた。

 甚夜は歯を食いしばり、役立たずの頭を必死になって働かせる。

 何故、此処にいるのだろう。

 花の名を持つ娼婦。鳩の街。奇妙な噂。探さないと、いけない。

 霞がかった記憶を覗こうとすれば、頭蓋が軋む。

 それでも拾い集める断片。

 しばらくして、雨は強くなった。

 甚夜は変わらず動けないまま。

 体温は低下し、朦朧とした意識は今にも途切れそうだ。

 もはや考えるのも億劫になり、ただ項垂れ雨に打たれる。


『お兄さん、風邪ひくっすよ?』


 そんな時に声をかけてきたのが青葉だ。

 無邪気に微笑む、花街には似合わぬ幼げな娘だった。

 年の頃は15、6といったところだろうか。ブラウスに丈の短いスカート、纏う衣装も軽く、夜の女というには些か以上の違和感がある。

 甚夜が雨に濡れぬよう傘をかける少女。

 どうにか顔を上げれば、夜雨を背景に浮かび上がる子供のような明るい笑み。

 なのに何故だろう。

 それを、泣いているようだと思ったのは。

 差し込んだ疑問に再び頭蓋が痛む。 

 意識があったのはそこまで。

 視界は暗転。座位を保つことも難しくなり、ずり落ちるように甚夜はそのまま路上へと倒れ込んだ。




 ◆




 強張った体が震え、重たい意識はゆっくりと覚醒する。

 瞼越しに目を刺す光が呼び水となり、急速に頭は冴えていく。


「う、あ……」


 息を吐くと同時に漏れる呻き。

 瞼を開いた甚夜は、緩慢な動作で上半身を起こした。

 雨の夜道に倒れたところまでは覚えている。しかし気づけば、彼は見知らぬ木張りの部屋で寝かされていた。

 掛布団をどかし、固まった筋肉を軽く伸ばしてから改めて周囲を見回す。

 甚夜が寝ていたベッド以外は、小さな木製のクローゼットと鏡台。後は箪笥とその上に置かれた花瓶くらいか。簡素だが小奇麗な外観と特有の匂いに、部屋の主が女性だと知れた。

 衣服はいつの間にか浴衣になっている。部屋の隅には革製の刀袋が立てかけてあった。

 手にとり中身を確認すれば、長い年月を共にした愛刀、夜来が収められたまま。

 特に奪われたものはなく、拘束の類も見られない。頭痛は消え、体も異常はない。

 とりあえず現状に問題はない。考えることと言えば、何故此処にいるかだ。


「あ、お兄さん。目ぇ覚めたっすか?」


 それを知っていそうな者がちょうどよく訪れた。

 部屋に入ってきたのは見覚えのある少女だ。

 雨の中、傘を差してくれた。状況を考えればこの娘が此処へ連れてきたのだろう。


「……君は」

青葉あおば。まあ、こういう街にいる女っす」


 少女は暗に娼婦だと語る。

 年の頃は十六くらいだろうか。 夜の女というには幼げだが、考えてみれば街娼をしていた江戸の頃の知人も同じような齢だった。

 この娘にも相応の理由というがあるのだろう。そう思えば踏み込んで詮索する気にもなれない。

 だからその言葉には何も返さず少女────青葉へと向き直った。


「覚えてます? 昨日のこと」

「一応は。……君が、此処まで?」

「あはは、流石にあの雨の中で放っておくわけにもいかないんで」

「そうか。ありがとう、おかげで命を拾ったようだ」


 無論そこまで大げさなものでもない。

 人ならばいざ知らずこの身は鬼。一晩雨に打たれた程度で野垂れ死ぬ筈もなし。

 しかし助けられたのは事実、甚夜は小さく頭を下げた。

 武骨な容貌は裏腹に、素直に礼を言う青年。

 それが意外だったのか、青葉は少しばかり目を見開き、けれどすぐに朗らかな笑みを浮かべてみせる。


「袖触れ合うも多生の縁っすよ、お気になさらずー。それより、体の方は? 昨日の晩はえらく辛そうだったっすけど」

「……いや、問題はない」


 既に確認している。自身の状態に問題はない。

 にも拘らず即答できなかったのは、多少の気掛かりがあったからだ。

 頭痛は消えた。朦朧としていた意識もはっきりしている。けれど纏わりつく違和感はまだ残っていた。


「にしてもお兄さん、あんな雨の中傘も差さずどうしたんすか? あ、もしかして馴染みの女の子に振られたりとか……」


 花街で項垂れる男、想像はどうしてもそちら側に傾く。

 的外れなことを遠慮がちに聞く青葉はなんとも微笑ましいが、甚夜の表情は硬かった。

 どうしたのか。その問いは寧ろ彼のものだ。

 気付けば鳩の街にいた。雨に打たれ動けず、何故路上で項垂れていたのか、そこまでの過程が飛んでいる。

 それでも最初の目的は忘れていない。


「人を、探していたんだ」


 迂闊だと分かっている。

 しかし自分でも想像していなかった程に言葉は容易く零れ出た。


「花の名を持つ娼婦、がいると、聞いた。だから、鳩の街に来た」


 向日葵、地縛、東菊、古椿。

 マガツメの娘は皆一様に花の名を冠していた。

 だとすれば件の娼婦の正体は。

 突飛に思える想像を切り捨てなかったのは、関連性を疑うだけの怪異がこの街にはあったから。

 甚夜は真実を確かめるべく鳩の街へと赴いた。

 そして実際に訪れ、確かにこの街が普通ではないと感じ取れた。


「青葉殿、だったか」

「いやー、殿って呼ばれるような人間では。というか恥ずかしいんで、呼び捨てでいいっすよ?」

「ならば青葉。今が何年か分かるか?」


 いきなりの問いに目を丸くするが、甚夜は至って大真面目。意図は読めないが、真剣さは伝わったらしい。青葉は快くとは言わないまでも、割合素直に答えてくれた。


「そりゃ、昭和三十四年……っすよね?」

「ああ。ならば、この街の名は」

「鳩の街。ピジョン・ストリートなんて気取った言い方する男の人もいるっす」

「君は、そういう街の女だと言ったな。それは娼婦という認識で間違いないか」


 最後の問いにも、こくりと頷いて返す。

 そこまで聞いて、咀嚼しゆっくりと飲み込み、甚夜は僅かに俯き黙した。しばらくの逡巡の後、どこか硬い、鉄のように冷たい声を漏らす。


「……そうか、君は。それを疑問に思わないのだな」


 その呟きを、青葉は確かに聞いた。

 しかし何を言っているのか分からないと、怪訝な表情を浮かべる。

 それが決め手となった。

 初めは疑念程度だったが、どうやら“当たり”らしい。

 知らず甚夜の目つきは鋭くなっていた。






 ◆






 それが一週間前の話。

 この街には何かがある。確信した甚夜は鳩の街に留まり、花の名を持つ娼婦を探していた。

 つまりは当初の目的に落ち着いたのだが、予想外があったのも事実。

 一つはこの街についた経緯があやふやである点。 

 もう一つは。


「甚さん、こっちこっち。次は有名どころ、旅館木宮(きのみや)ってところっすよ」


 何故か、青葉がそのまま同道している点である。

 無論最初は断った。しかしこれまた予想外の強引さで、結局は押し切られてしまっている。

 なによりあの雨の夜以来、甚夜は青葉の部屋で寝泊まりしており、それを考えれば強く拒否するのも難しかった。


『甚さん、この街の人じゃないんすよね』

『人探しなんて一日二日じゃ終わらないっすよ。よかったらうちに泊まっていったらどうっすか?』

『街の案内くらいなら私でも力になれますし』


 彼女はそう言って甚夜へ宿を提供し、案内を買って出てくれた。

 怪しいと思わなかった訳ではない。若い娘が見も知らぬ男を家に引き入れ、寝床と飯まで準備するというのだ。

 こういう街では、娼婦のヒモとなり転がり込む男は確かにいる。 逆に『泊める代わりに自分を高く買え』という金目的の女も。

 ただ今回はどちらでもない。

 甚夜に青葉を買う気はなく、話を聞くにそもそも彼女はまだ客を取ったことのない、見習いにも満たぬ娼婦だという。

 つまるところこの提案は金銭的にも精神的にも、彼女には何の利点もない。

 それを純粋な善意と見るには、甚夜は些か歳を取り過ぎていた。


「どうしたんすか、甚さん?」

「……いや」


 しかし彼は青葉の提案を受け入れた。

 楽観しての判断ではない。この娘もまた夜の女。裏はあって当然、だが利用するつもりならそれもいいだろうと思った。

 企みがあったとしても一時の宿と慣れぬ土地での案内を得られるのは有難く、寝首をかかれて命を落とすならば端からその程度の男というだけのこと。

 マガツメの手のものだったとしても、それはそれで手間が省ける。

 最初から騙されていると思えば、青葉は存外付き合いやすい相手であり、現状は決して悪いものではなかった。


「どうでした?」

「此処もはずれだ」


 こうして今宵も連れ立って捜索へと向かう。

 有名な娼館だという旅館木宮で全ての娼婦を確認し、同時にこの街で流れている不可思議な事件の噂を集める。 

 結果としてはどちらも収穫なし。この一週間、有力な情報はいまだ得られずにいた。


「ありゃ、残念っすね。ま、そんなに簡単に見つかるなるもんじゃなし、次に行きましょうか」


 青葉は然して気にした様子もなく、朗らかに笑い次の場所へと先導する。

 殊更に軽く振る舞うのは気遣い故と分かる。しかし、やはりと言うべきか意図は計り切れなかった。

 ただ、この奇妙な娼婦から悪意は感じられない。

 そして不意にこちらを寂しそうな目で見る。

 その目が、まるで迷子のように頼りないから。問い詰めてまで彼女の裏を知ろうとは思えなかった。


「次は、ここっすかね」


 示された先には、二階建てのカフェー風の建築があった。

 表には『桜庭ミルクホール』と書かれた小さな看板が掛けられている。モダンな造りはいかにも新興の花街といった佇まいだった。


「それじゃ、私は表で待ってるんで」

「ああ、すまないな」


 娼館に余所の娼婦を連れていくのはよろしくない。用件を済ませるまで青葉は表で待ってくれている。

 それを自分から提案する辺り、軽い態度とは裏腹に、気の回るいい娘ではあるのだ。

 だから疑いはあれど甚夜も辛辣な態度はとらない。

 穏やかに答え、桜庭ミルクホールの玄関、斜めに通した真鍮製の二重取っ手が印象的なドアへ手をかける。

 ぎいぃ、と古びた音。

 耳障りな軋むドアに違和を覚え、しかしすぐに流される。

 その向こう、カフェー風のカウンターを有したホールには数人の女中。どこか気怠げにこちらを見ている。

 実年齢はともかく、甚夜の容姿は十八歳程度。顔つきも女遊びとは程遠い、武骨な印象を受ける青年だ。女中の視線には僅かばかり怪訝そうな色が混じっていた。

 カウンターの店主はちらりと横目で見るも、特に何を言うでもない。

 真面な大人ならば止めるところだが、此処には此処のルールがある。過去も今も問わぬが花街の作法。最低限の礼儀を弁え金さえ払ってくれれば等しく客だ。


「いらっしゃぁい」


 だから店主は間延びした声で客を迎え入れる。

 新興であっても昔から変わらない、正しい花街の在り方だった。


「失礼、酒……いや、ミルクを貰えるか」

「はぁい」


 すれ違いざまに女中の顔を確認しながらカウンターに寄りかかり、とりあえずは注文する。

 軽く店内を見回せば、どことなく懐かしい雰囲気が漂っている。

 ミルクホールの全盛は大正期。関東大震災以後はいわゆる喫茶店に取って代わられ、今では数も少なくなってしまった。

 これも時代の流れかと甚夜は小さく息を吐き、ちょうど店主が運んできてくれたミルクを手に取る。


「ありがとう……少し聞きたいことがあるのだが」

「なぁに? おすすめの子かしら」


 女中に運ばせなかったところを見るに、初めから質問を予期していたのだろう。

 男性でありながら間延びした女言葉の店主は、ゆったりとした態度で構わないと答える。

 ミルクを注文したのは、女は買わないが、これを飲み終わるまでは邪魔させてもらうという意思表示。

 それを汲んだ店主は、ミルク一杯分ならと応じた。

 流石に花街の店屋だ、話が早くて助かる。

 言葉のないやり取りを経て、ガラスのコップに満たされたミルクを一口、少しばかり喉を潤してから甚夜は問う。 


「ここに、花の名の娼婦はいるか」


 この一週間幾度となく口にしてきた。

 返答も、幾度となく聞いてきた。


「んー、残念。うちにはいないわぁ。でも、いい子いっぱいいるわよ?」

「ならば、奇妙な噂を聞いたことは」

「漠然としてるわねぇ。新興とはいえ花街だもの、怪談話くらいはあるでしょうけど」


 どちらも知らないと肩を竦める。

 結局ここでも収穫なし。とはいえ気落ちすることはなかった。

 もともと容易に見つかるとは思っていないし、大手を振っての捜索は相手の反応を見るためのもの。

 マガツメの娘がなにやら企んでいるのなら、弊害になりそうな男が現れたならば、それなりの手は打つだろう。だから無意味というわけでもなかった。

 取り敢えず用向きは済んだ。

 やはりウィスキーにするべきだったか、などと思いながら、残ったミルクを片付けようと口につける。

 何の気なしにホールを眺めていると、階段から一人の女中が客であろう男と腕を組んで降りてくるのが見えた。

 その顔には、見覚えがあった。

 あれは、確か昨夜の。


「あの娘は?」

「あぁ、ほたるちゃん? うちでも人気の子よぉ」


 女の方も気づいたらしく横目でちらりと甚夜を捉えた。しかし澄ました顔ですぐさま視線を切り、男の方へ身を寄せ、緩やかに微笑んでみせる。

 一夜妻が余所見では買った男も報われない。彼女はそういう心遣いができる、古いタイプの娼婦らしい。

 カフェー街には似合わない、懐かしい夜の女。

 それが甚夜の抱いた印象だった。


「玉ノ井の頃には、ああいう娘も多くいたんだけどねぇ」


 ほんの一瞬だけ、店主の目に憂いを垣間見る。

 しかし何も言わなかった。夜の街で過去を問うのなど野暮もいいところだろう。

 聞かないふりで残ったミルクを一気に飲み干し、懐から幾らかの金を取り出しカウンターへ置く。


「邪魔をした」

「いいわ、別に。礼儀を弁えた人は好きよ」


 過去も今も問わぬが花街の作法。

 甚夜の古臭い振る舞いが気に入ったのか、店主は口元を僅かに緩ませる。


「何分古い男でな……ああ、最後に一つ」


 かっ、と靴音を響かせて一歩。

 しかし聞き忘れたことを思い出し、首だけで振り返って表情もなく店主を見据える。


「貴方は、何故此処にいるのだろうな?」


 甚夜が突き付けた問いは少しばかり痛かったようだ。

 返す店主の笑みはどこか疲れて見える。


「さあ……未練じゃないかしら。みぃんな、なにかしら捨てきれなかったのよ、多分ね」


 結局はそういうことなのかもしれない。

 すとんと胸に落ちた店主の言葉が、自嘲となって滲んで浮かぶ。

 痛かったのはこちらも同じらしい。

 はたと合った目が合えば、隠したものを誤魔化すように、互いに口の端を釣り上げる。


「またいらっしゃい。今度はお酒でも、ね」

「ああ、折を見て寄らせてもらう」


 今度こそ完全に背を向けて、ホールを後にした。

 手にかけ開いた扉は、まるで長らく使われていなかったかのように、耳障りな軋んだ音を上げる。

 扉の向こう、夜の街並み。ピンクのネオンと街路灯の光。煌びやかなのに寂しげだと感じたのは、おそらく気のせいではないだろう。


「甚さんお帰りなさーい。どうでした?」


 桜庭ミルクホールを出ると、青葉がじゃれつく子犬のようにすぐさま寄ってくる。 

 その仕草はまだ幼く、やはりこういう街にはそぐわぬ少女だと思う。

 いや、隠し事をしたまま無邪気に振る舞えるというのは、寧ろ夜の女らしいというべきか。


「いなかった。だが、ある意味収穫はあった」

「お、よかったじゃないっすか」


 とはいえ此処が花街ならば騙すのも女の手管だろう。

 なにより気付きながらも表には出さないのだ、こちらに言えたことでもない。

 形だけで見れば騙す女と騙される男。しかし甚夜も青葉も目的とリスクを天秤にかけ、打算をもって接している。これはこれでバランスの取れた関係ではあった。


「まあ、な。今夜はこれで終いにしようと思う。遅くまで付き合わせて悪かった」

「むむ、子ども扱いはしないでください。これでも鳩の街の女っすからね。これくらい夜遅いなんて言わないっすよ」


 茶化したような物言いで青葉は少し怒ったふり。

 本心ではあるのだろうが、そこまで腹を立てるほどでもないといった具合だ。


「そう、だな」


 彼女の言葉に甚夜は口籠り、短く答えて雑多な通りを眺める。

 色か金か、群がる男と誘う女。

 生々しい欲望が透けて見える反面、花街は独特の活気で溢れている。

 新興のカフェー街である鳩の街でも変わらない。

 それこそが、此処に訪れてから付き纏い続けている違和感の正体だった。






 さて、ここで鳩の街について、もう少し詳しく触れておかなければなるまい。

 新興の花街の中でも特に人気を集め、マスコミにも取り上げられ社会現象にまで発展した鳩の街は、山の手の男も通うアプレ派娘の街として大層持て囃された。

 終戦直後は数軒だった娼館は、昭和二十年代後半には然程広くない敷地に百八軒がひしめき、娼婦の数は三百人を超えていたという。

 しかしながら、時代は変わる。

 長らく続いた赤線は、戦後急速に浸透した女性の人権意識、売春を良しとしない社会風潮に押され少しずつ衰退していく


“売春は人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗を乱すものである。”


 日本政府は昭和三十一年(1956年)、売春防止法を公布。

 売春を行う女性の補導および保護更生を名目に、カフェー街はその活動が禁じられる。

 そして昭和三十三年四月。

 売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業。多くの花街が灯を消した。

 それは戦後に発展した新興のカフェー街も例外ではなく。

 鳩の街も昭和三十三年、三月三十一日に営業を停止。最終日には「蛍の光」を流し、業者も娼婦も客も、花街の終わりを惜しみ過ごしたという。




 つまり昭和三十四年 四月現在。

 鳩の街は“既に存在していない”のである。




「どうしたんすか、甚さん?」


 歯切れの悪い返事を不思議に思い、青葉は小首を傾げる、

 しかし「どうした?」というのならば、寧ろ甚夜の方こそ問いたかった。

 青葉、何故君は此処にいるのか。

 自分を夜の女だと、娼婦だと語るのか。

 どうして鳩の街が存在しているのか。


「なあ、青葉。既にこの街は存在していないと言ったら、信じるか?」

「あはは、またそれっすか? 甚さんってば案外冗談が好きっすね」

「……ああ、かもしれないな」


 彼女は信じない。

 何を言っているんだ、ちゃんとここに在るだろうとただ笑うのみ。

 青葉は娼婦だと公言し憚らず、現状をおかしいとも思わないのだ。

 これがマガツメの娘の仕業なのか、他に要因があるのかは分からない。

 なんにせよ甚悟の持ってきた情報に間違いはなかった。

 久方ぶりに、“面白い話”に遭遇したようだ。


「あら、貴方は……」


 立ち止まったままの甚夜に、今気づいたとでもいうように女は声をかける。

 目を向ければ、男の見送りを終えたのだろう、戻ってきたほたるが淑やかに頭を下げた。


「昨夜は、お世話になりました。もうお帰りに?」

「ああ」

「そうですか、それは残念です。次はご縁があるとよいのですが」


 静々とした微笑み。成程、店主が人気の娘だと言ったのも頷ける。

 容姿が美しい、肉体が魅力的だという以上に“巧い女”だと思った。

 暗に今度は買ってくれと言いながらも、そつのない立ち振る舞いが楚々とした雰囲気を醸し出す。

 娼婦らしからぬ女、そう思わせるのが彼女の手管なのだろう。

 体を売って誑し込むのではなく、夢を売って溺れさせる。

 つまりほたるは、正しく花街の娼婦だった。


「機会があれば、是非に」


 落とすような笑みと、約束にもならぬ言葉。

 此処が花街であれば騙すは女の手管、騙されるは男の心意気というもの。懐かしい夜の女に敬意を表して、手を払うような真似はしなかった。

 活気ある街並みに違和を覚え、しかし溶け込むように、甚夜らは再び夜の通りへと戻っていく。

 そんな彼らを眺めるほたるが何を想ったかは分からない。


「ようこそ、鳩の街へ。一夜の夢……どうぞごゆるりと」


 けれど背中に投げかけられる言葉。

 雑踏に紛れ消え入りそうな声は、何故かやけにはっきりと聞こえた。









 昭和三十三年四月。

 戦後間もない時期から僅か十数年足らずで赤線は姿を消した。

 花の盛りも今は昔。

 売春禁止法以後、多くの娼館はアパートや下宿屋、普通の住宅として余生を送り。

 平成へと至った現在、半世紀経て流石に建物も風化し、かつての面影を見出すことも難しくなった。

 風景も、想いも、いつかの約束さえも歳月に流されて。



 ────けれど私は今も時折思い返す。

    存在しない筈の鳩の街で起こった、不思議な物語を。




『花街夢灯籠』・了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ