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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
昭和編

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144/216

『花街夢灯籠』・1




 白い壁の目立つ簡素な部屋。

 流れる春の風が柔らかに肌を撫でている。

 差し込む陽光に微睡みながら、椅子に深く腰掛けたまま、私は窓の外を眺めていた。

 浅い眠りに、ゆらゆらと揺れて。

 私は今もまだ、あの人を、待っている────






 鬼人幻燈抄『花街夢灯籠』









 花街には時折、不思議な客が訪れる。




 ◆




 昭和三十四年 四月。 


 夜霧にぼやけた街路灯の光。

 たかる蛾が、じじっ、と音を立てて焼け死んだ。

 物の哀れを誘うには些か見慣れ過ぎた風景だ。

 眩しい光に誘われて、虫は命を落とす。そういう生き方が似合う町を歩くのだから、感慨は少しだけ身につまされた。


 東京は玉の井から1キロほど離れた所に「鳩の街」はある。

 もともと玉の井は古くから続く遊郭を多く抱え、戦前は花街(性風俗を主とした区域)として栄えていた。

 女を金で買い、一夜の夢に微睡む夜の街。

 関東大震災以後から昭和にかけて玉ノ井はそれこそ花の盛りが如く大いに繁栄していく。

 しかしこの娼婦街は戦時中に空襲で焼き払われ、長い歴史を終わらせることとなる。

 とはいえ生き方を選べない者はいつの時代もいるもので。

 難を逃れた店のいくつかは向島へ流れ、一つの町に寄り集まり娼館を開業。それが鳩の街の原型である。


“カフェー街”だとか“特飲街”などと呼ばれた鳩の街は、進駐軍が出入りしていた時代からいわゆる赤線地帯(公的に性風俗が認められた地域)へと変遷。

 今では戦後登場した中でも指折りの花街となり、昼夜を問わず特有の生々しい匂いを漂わせている。

 見回して目に映る小洒落た建物は大抵が娼館だ。

 ピンク色に塗られたモルタルの建物、模造タイルや飾り窓。独特の艶やかさを醸し出す町並み、反面道幅狭く雑多で路地裏のような印象も受けた。




“ほたる”と名乗る、二十四になる女性もまた、そういう町に流れ着いた娼婦だった。

 姓も名もとうに捨てた。

 幼い頃に父母を失い、親戚中をたらい回しにされ。終戦後は両親の友人の家に引き取られたが、そこも飛び出して。流れ流れて、結局は鳩の街に落ち着いた。

 金で体を開く女だ。見知らぬ男を受け入れるのも慣れ、今更あさましいと思うこともない。

 けれど客を取るでもなく、一人雑多な通りを歩く時は、ほんの少しだけ考える。

 色に群がる男、それにたかる女。果たして蛾はどちらだろうか。

 街路灯の熱に焼かれ死んだ蛾を見る。

 物の哀れを誘うには些か見慣れ過ぎた光景だが、身につまされもする。

 焦げた虫の死骸に、己が末路を幻視した。


「ほたるちゃぁん、お帰りぃ」


 しゃなりとした立ち振る舞いの男性の、気怠く間延びした声。

 バルコニーを有した、タイル張りのモダンな佇まい。二階建ての小さなカフェー調の建物、『桜庭ミルクホール』がほたるの仕事場である。

 常に二、三人の女給が働くミルクホールは、当然ながら軽食や飲み物を提供するだけの場所ではない。

 本当の商品はほたる達。気に入った女を指名し、二階の個室で楽しむ。提供されるミルクは選ぶまでのつなぎに過ぎなかった。


「店長……遅くなりました」

「いいのよぉ、頼んだのはこっちなんだし。幸いお客さんも少ないしねぇ」


 女言葉で喋る三十代半ばの彼がこの店の店長だ。

 娼婦たちの元締めという位置にいるが、雰囲気の穏やかな男性で、ほたるも随分と世話になっている。

 店長に頼まれて買って来た品物を袋ごと渡し、柔らかく微笑み小さく会釈。

 そのまま二階に上がり、給仕服へと着替える。

 服は動きやすいものではなく、慎ましやかなドレス調の洋服。あしらい程度にフリルのついた純白の衣装は、“働きやすい”という意味では間違いなく給仕服だろう。

 ホールに戻れば同じ女給と、カウンターでミルクを飲みながらちらちらと視線を送る客がいる。

 はたと目が合って、ゆったりと丁寧に頭を下げる、

 小奇麗なドレス調の洋服を纏う蛍は、凛とした容姿に折り目の付いた所作も相まって、こういった場であるにも拘らず清楚な女性として映る。

 しかし彼女も娼婦、粛々とした女とは程遠い。楚々とした立ち振る舞いも男に“うける”自分を演出した結果だ。


『男に媚びている』


 他の女給達は哂うが、ほたるはどこ吹く風と受け流す。

 指名数の多い彼女への嫉妬が多分に含まれているし、なにより媚びているつもりなど毛頭なかった。

 男が高い金を払って買うのは、女の体ではなく一夜の夢。

 ならば夢足りえる女であることは、娼婦となった以上義務だろう。

 誇りではなく、当然の在り方。当たり前をこなしている筈なのに、とかく雑音は多い。

 煩わしいとは思うがそれにも慣れ、今では気にも留めなくなった。

 雑音には耳を傾けず、無感情に微笑みを湛えて。そうすればお客様からお声がかかる。

 十分だ。娼婦としての役割を全うする。今の彼女にとっては、それでよかった。


「ほたるちゃぁん、いい?」

「……はい」


 夜も深まる頃合い、聞きなれた声に顔を上げれば、店長が手招きをしている。

 彼の傍らには恰幅の良い四十代ほどの男性。脂ぎって、いかにも助平そうだ。

 この男が今宵の相手ということだろう。

 にやけた表情、下卑た目つき。ほたるの容姿はどうやら合格だったらしく、すぐに視線は下へ。豊かな胸を、ほっそりとした腰つきを嘗め回す。


「お初にお目にかかります、ほたると申します」


 値踏みされるのも慣れている。

 淑やかな振る舞い、しかし蠱惑的な微笑み。

 何気ない所作も手管のうち。男も喜んでくれたようで、目に見えて表情が変わった。


「おお、これは……」 


 生唾をごくりと飲み込む。 興奮はこの後を期待してのものだ。

 性的な欲望を隠そうともしない男だったが、嫌悪感は然程なかった。

 所詮は娼婦と見下す金持ち、道具としてしか女を抱けぬ輩。ひどい客などいくらでもいる。

 それに比べれば、女への欲望を隠そうともしない彼はよほど真っ当だ。


「さあ、どうぞこちらへ」


 そっと手を取り、二階へ先導する。

 階段を上り奥の部屋、バルコニーのある個室がほたるに与えられた仕事場。

 綺麗に整えられたベッド、サイドテーブル。ランプが置かれているのはほたるの要望だ。

 マッチに火をつけ、緩やかな所作でランプに火を灯す。薄暗い部屋で揺れる火はどこか頼りなく朧げで、だからこそちょうどいい。一夜の夢ならば輪郭をはっきりとさせるのは無粋だろう。


「君は綺麗だな」

「ふふ、ありがとうございます」


 灯りに照らされ、橙色に染まる女の顔は見惚れるほどに艶めかしく、我慢できないとばかりに男は手を伸ばす。

 ほたるはその手の甲に自身の手のひらを重ね、ゆっくりと誘導し、纏うドレスへと触れさせた。


「どうぞ、貴方様の御手で」


 しっとりとした雰囲気に飲まれたのか、男の手つきも幾らか優しくなり、壊れ物を扱うように一枚一枚脱がせていく。

 露わになった裸体は、息を飲むほどだ。均整のとれた体は若さに胡坐をかいただらしない娼婦のものではない。

 胸にある豊満な隆起とは裏腹にくびれた腰つき。柔らかな骨盤のライン。

 最後の一枚がするりと床へ落ちた時、ふうわりと甘い香りが男の鼻腔をくすぐった。

 花の蜜のような甘さは、香水。それとも彼女のものだったのか。


「……君のような子がこんな街にいるとは」


 なぜ君のような娘が、こんな街にいるのか。

 問おうとしたことが分かったから、男の言葉を遮り、 唇を奪う。

 荒々しさや雑さはない。啄むような軽い口付けから、深く舌を絡め合わせる。ぴちゃりと淫ら水音を響かせて、そっと離れれば唾液が糸を引く

 白く細い指が男の首元に触れる。指先で産毛を撫ぜ、流れるように男の唇へ。


「せっかくの夜に野暮なお話はやめましょう?」


 重なり合うようにベッドへと倒れ込む。

 密着する肌と肌から伝わる体温。興奮しているせいもあるのだろう、男の体は随分と熱を持っている。

 反して、ほたるは自分のどこかが冷えていくのを自覚した。

 金で体を売り、男に抱かれる。数え切れないほど行為を繰り返し、夜毎違う男の腕で眠った。

 慣れれば余裕も出てくるし、情がなくても女の部分は満たされる。

 愛など感じていなくても誰かの腕は暖かくて。

 なのに、どうしてこうも寒いと感じるのだろう。

 女は甘えたような嬌声を上げながら、心だけをどこかに置き忘れてきたような、浅い夢と戯れるような、奇妙な浮遊感に揺蕩っていた。




 ◆




 ことを終えて、気怠げにベッドへ横たわる男女。

 ほたるは縋り付くように男へ身を寄せた。まるで恋人のような甘やかさ。これが一夜の夢ならば、今この時、確かに二人は恋人なのだろう。

 男は金を払った。女はそれに応えた。しかし鳩の街はアプレ派娘が主流の花街で、自分が「相手をしてやっている」と上から見る娼婦も多い。

 その中でほたるのような女は珍しく、男は心地良い疲れに浸っていた。


「……ほたるちゃん、だったかな」


 そっと男の胸板に手を添え、上目使いに見ることで答えの代わりとする。

 激しい行為の後だ、ほたるには疲労があるのだろう。儚げというより希薄な微笑みだった。


「いやいや、楽しませてもらった。……これからも贔屓にさせてもらうよ」

「ありがとう、ございます」


 乱雑に服を着て、シーツにくるまって肌を隠すほたるへ差し出されたのは一万円。今宵の花代である。

 公務員の初任給が一万前後の時代、夢の値段にしては随分と高い。

 それでも満足げな男の顔を見るに、金を払うに足る夢は見せられたということ。一夜妻としての役割は果たせたようだ。

 ほたるもドレスを纏い、待たせたことを謝り共に部屋を出て、周りに誰もいないと確認してから口付ける。

 腕を組んだまま階段を降り、ホールから玄関口まで案内すればこの夢も終わり。

 後に残るのは気怠さと幾らかの金。日に三、四人の相手はするのだ。見送りまでの流れは慣れたものだった。

 夜も深く、四月とはいえ風は冷たい。

 小さく肩を震わせ、夜空を見上げれば朧月。薄雲に遮られた月の光は街路灯に負けてしまいそうなくらい頼りなかった。

 とはいえ然程の感慨もない。早々に視線を切ってふと目に入ったのは、街路灯にたかる蛾だ。

 娼婦は夜の蝶だと人は言う。

 それが真実だとしても、自分は蝶よりも蛾だろうとほたるは思った。

 似ているだけで、華々しく舞えない。眩しいものに憧れて焼け死ぬ蛾がせいぜいだ。


「蛍に蛾にと忙しいこと……」


 溜息混じりの呟きを零せば、先程までの微笑みも消える。

 とうに名を捨てたのならば、もはや”ほたる”以外の何者でもない。娼婦としての立ち振る舞いといえど、それこそが彼女だろう。

 息苦しいと思ったことはない。

 生きる術などなく、流れ着いた先で娼婦に身を落した。体を売る女、世間様から見ればあさましいかもしれない。

 彼女自身、決して誇れるような生き方ではないと知っている。

 けれど、この街の居心地はそんなに悪くなかった。

 性に合っていた。つまりは初めからそういう女だったのだと、ほたるは自嘲の息を落とした。


「ほたるちゃん、お疲れ様ぁ」

「店長、お疲れ様です。あの、少し外に出ますね」

「あら、そぉ? 夜道には気を付けてねぇ」


 桜庭ミルクホールへと戻った彼女は、店長に仕事終わりの旨を伝え、ドレスよりも幾分地味な洋服へと着替えた。

 二階の部屋は仕事場兼自室。鳩の街の娼婦はこうやって娼館で間借りしている場合がほとんど、御多分に漏れずほたるもこのミルクホールで寝泊まりをしている。

 けれどいつも同じ場所では息が詰まる。

 朝までの客がいない日は、仕事終わりに夜道を歩くのがほたるの僅かな楽しみだった。

 今宵はいつもよりも遠回り。余計な考えが脳裏をよぎる夜は、雑多な小道を歩くのがいい。

 すえたドブのような臭いと、雑然とした空気。洋風の家の入口に垂れ下ったピンクの布やハート形のネオン。

 鳩の街は、昔ながら花街とは随分と趣が違う。町並みだけではなく、人も同じくだ。

 娼婦といってもアプレ派の素人が主流で、商売けが少ない反面、相応のもてなしをと考えるほたるのような女は稀だった。

 もともと生活を苦にして流れ着いた彼女だ。本質的には真面目で、物事を重く考えるたちである。そういう娼婦らしからぬ性格が珍しくて受けるのだろうと、店長に笑われたこともあった。

 それでも花街での暮らしは案外意気に言っているし、娼婦として働くのが嫌だとも思わない。

 その手の話ならば、寧ろこの街に来る以前の方が、彼女にとっては辛かった。


「……ようやく、見つけた」


 だから、懐かしい、かつて聞き慣れていた筈の声に呼び止められた時。

 ほたるは比喩でなく肩を震わせた。


「あぁ……」


 思わず漏れた声は、ひどくか細い。

 薄闇の向こう、街路灯に照らされた道の先。立ち塞がるように現れた男は、彼女のよく知っている顔だった。


「たくみ、さん」

「覚えていてくれたんだね。もうとっくに忘れているかと思ったよ」


 忘れる筈がない。

 梶井かじいたくみ

 ほたるが、まだほたるではなかった頃の話。鳩の街へ流れ着く以前、この男性と恋仲にあった。

 傍から見ても仲のいい恋人同士だったろう。匠もほたるを想っており、結婚を申し出るくらいには好いてくれていた。

 彼女もまた、彼のことが決して嫌いではなかった。寧ろ素晴らしい人だと思っていた。

 八つ上だった匠は戦後医師となり、梶井の家が代々営んでいた医院を継いだ立派な男性だ。

親のいないほたるを見下しも憐れみもしなかった。彼女個人に、しっかりと向き合ってくれた。

 そういう彼に、ほたるは間違いなく好意を抱き。

 しかし結局二人は別れ、ほたるは鳩の街の娼婦となった。

 浮気だとか喧嘩だとか、分かりやすい修羅場があった訳でもない。

 ただ彼の傍にいるのが辛かった。

 だから目の届かないところに逃げたかった。

 逃げて、逃げて。流れ着いた先が花街、そして娼婦の”ほたる”。

 もう彼の知っている女はどこにもいない。

 なのに、どうして探しに来てしまったのか。

 こんなの女のことなど、忘れていてほしかったのに。


「どうして、此処に」

「聞くまでもないだろう? さあ、帰ろう。僕と一緒に」


 言いながら匠は手を伸ばす。

 無造作な腕を、ほたるは怖いとは思わなかった。

寧ろ嬉しかった。彼が今も忘れずにいてくれるのが素直に嬉しい。

 だとしても素直に喜べもしなかった。

 ほたるには負い目がある。

 好きだった。尊敬もしていた。なのに受け入れられなかった。

 だから彼は、もうどこにもいない女を探して、こんな街にまで来てしまったのだ。


「帰りません。今の私は、ほたるですから」


 その想いがあるからこそ、殊更冷たく言い捨てる。

 もう戻れないと知っている。なら未練など残す意味もない。

 匠が妄執を捨て去れるよう、微塵も感情は見せなかった。


「なんでだ……僕は、君を」

「駄目、です。匠さん。私達はもう終わっているんです」

「……いいから。君はこんなところにいちゃいけないんだ」

「それは、貴方の方こそ」


 貴方こそ、こんなところにいる人ではないだろうに。

 花街の穢れた女なんぞに触れてはいけない。

 お願いだから、触れないで。

 表情は変えず身じろぎもせず、口にも出さず心の中で懇願する。

 逃げられなかったのではない。動かないのも喋らないのも、彼を二度も拒絶したくはなかったから。

 ほたるは乱暴に伸ばされる手を前に、目を閉じて。

 しかし、いつまでたっても触れることはなく。

 疑問に思い再び瞼を開ければ、彼の腕を止めるように、見知らぬ男がその手首を掴んでいた。


「そこいらで止めておけ」


 硬く重い、鉄のような声。

 割って入ったのは十七、八くらいの青年だった。

 花街には似合わぬ年頃。にも拘らずに堂々とした立ち振る舞いからは、どこか老練した印象を受ける。

 匠の腕はしっかりと固定され、伸ばすも引くもできなくなっていた。


「事情は知らん。男女の仲に横槍なぞ無粋と重々承知。しかし女を怯えさせるが本意でもなかろう」


 青年の握力は尋常ではない。

 掴んでいるだけだというのに、匠は苦悶を浮かべ呻きをあげている。

 その声にほたるは意識を取り戻し、どこか淡々と青年へ声をかける。


「どうか、そのくらいに」


 助けてもらった。

 けれど彼の苦しむ様に耐えられなかった。

 その願いをどう思ったのか。青年は僅かな間逡巡し、特に何を言うでもなく腕を払い除け、ほたるを背に庇う。

 青年が微動だにせず正対すれば、凄んだ訳でもないのに匠はたじろいだ。

 ただ静かに視線を送っただけ。しかし、まだ二十年も生きていないような小僧の目ではなかった。


「……また、来る」


 捨て台詞と共に離れ、再び路地の暗がりへと戻っていく。

 素直に諦めたのは青年の目よりも、悲しそうなほたるの視線のせいかもしれなかった。

 街路灯の下、残される二人。人影はなく、ネオンの微細な音だけが通りに響いていた。


「助けてくださって、ありがとうございます」


 振り返った青年に、丁寧に頭を下げる。

 暴漢に襲われた。或いは酔っ払いにでもからまれたと思ったのか。

 青年がほたる達の諍いをどう見たのかは分からないが、助かったのは事実。感謝は素直な気持ちだった。


「いや。それより、いいのか? あの手合いは本当にまた来るぞ」

「構いません。ここは花街ですから」


 青年は無表情のまま、しかし心配はしてくれているらしい。

 とはいえ気にするようなことではない。

 花街ならば時折不思議な客、奇妙な客が訪れるもの。彼もそういう類だと自身に言い聞かせ、娼婦としての蠱惑の微笑みを浮かべる。

 まだ青い年代であろうに、彼には動揺などまるでなく、顔色一つ変えない。

 じっとほたるの瞳を覗き込み、その奥に何かを見たのか、瞼を伏せる。


「ならば何も言わんが」


 言いながら一歩を踏み出し、こちらには目もくれず青年はその場を後にする。

 颯爽とした足取り、振り返ることもなく去る背中は何故か鉄のように感じられた。

 そうして夜に一人。

 ほたるは一層深くなった静寂に、少しだけ昔を思い出し俯いた。

 また来る、とあの人は言った。

 怖くはない。

 けれど、あの人が来てしまうことが、私はとても寂しいのかもしれない。

 なんとなしに、そう思った。






  ◆






「甚さん甚さん、ちょっと、は、速すぎるっす……」


 ほたると別れてからしばらく歩いていると、追いかけてきた少女の声に青年─────葛野甚夜は立ち止まった。

 必死になって走ってきたのか随分息が荒れている。

 彼女の名は青葉あおば、鳩の街で知り合った娼婦だ。といっても、まだ十六歳。客を取ったことのない、見習いでさえない娘である。

 小柄で細身、大きな目のせいで余計に幼く見える。服装は知人に揃えてもらったらしいが、短めのスカートにブラウスとこれまた娼婦らしくないものでだった。

 青葉は鳩の街での、最初の知人だ。ひょんなことから知り合い、それから彼女は甚夜の後を引っ付いて回っている。

 その理由は、訪れてからからの二か月、誤魔化され続けていた。

 正直少し引っ掛かるところはある。しかし案内人としては有能で、助かっていることは認めねばならないだろう。


「どうしたんすか、いきなり走り出して。置いてかれたかと思ったっすよ」

「済まない、ちと気になるものを見つけてな」


 どうせ放っておいてもついてくるのだ。今宵も彼女に町の案内を頼んだのだが、その途中暗がりの向こうに悶着を見つけ、甚夜は思わず駆け出していた。

 普通の痴話喧嘩ならともかく、見逃せるものでもなかったからだ。

 そのせいでおいて行かれた青葉はどことなく不満げだった。


「あ、もしかして例の探し人っすか?」

「いいや、残念ながら」


 そもそも顔も知らない相手を探しているのだ。そう簡単には見つからないと、首を横に振って否定する。

 先程の諍いは単なる寄り道、彼の目的とは何ら関係なかった。

 当然ながら甚夜が花街を訪れたのは、女を買う以外の目的があってのこと。とある人物を探して、彼はこの街に足を踏み入れた。

 もっとも、正確には“人物”ではないのだが。


「まあ、此処には三百人以上の娼婦がいて、入れ替わりもあるっすからね。花の名をした娼婦なんていくらでもいるし、顔も名前も知らないんじゃ甚さんの目当ての人も分からないし。ほんとに見つかるんすかね、その女の人」


 噂にもならない、一つの与太話である。

 鳩の街に奇妙な 娼婦がいる。

 花の名を持つ彼女は大層素晴らしい女性で、男なら誰でも夢見心地になれるくらい不思議な雰囲気を纏っている。

 そんな話を、耳にした。


「さて、な。見つからなければその方がいい」

「む、謎かけっすか?」

「素直な気持ちだ。だが」


 見つからなければ、見つけたとして噂通りの『普通の娼婦』であるならば、その方がいい。

 杞憂で済み、無駄足に終わればそちらの方が彼としては嬉しかった。

 しかし、そうはならないだろう。

 ざわつくような感覚が胸にある。こういう時の勘は決してはずれない。


「この街で起こることだ。そう上手くはいくまいよ」


 甚夜は僅かに顔をしかめ夜空を見上げる。

 朧月、零れ落ちる光がいやに冷たく感じられた。







アルカディア版からの変更点


登場人物の名前変更

梶田かじた和久かずひさ梶井かじいたくみ※明治編の登場人物「和紗かずさ」と名前が被っていたため変更。



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