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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
江戸編
14/216

『鬼の娘』・3(了)



 怖い話。

 

 魑魅魍魎。

 柳の下の幽霊。

 皿屋敷。

 鬼。

 牛の首。

 説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話がある。 




 物心がつく前に両親が死んで、引き取ってくれたのがお父様。

 仕事に関しては厳しいし、怖い顔をしてることも多くて、でもいつだって私には優しかった。

 言葉は少ないけれど、私のことを気遣ってくれた。

 血の繋がりなんて関係ない。

 両親の顔なんて私は知らないから、あの人が私にとって本当のお父様で。

 だけど、聞いてしまう。



『旦那様、本当は辛いんだろうなぁ』

『奥方様は鬼に殺されて、息子だって鬼女に拐わかされて……跡取りはどうするのかね』

『旦那様は息子さんがまだ帰ってくると思ってるんじゃないか、多分? だから男じゃなくて女を養子にしたんだろ』



 お父様には妻がいて、本当の息子がいて。

 けれど鬼のせいで全部亡くした。お父様はひどく鬼を嫌っている。



『……不味い』



 一人位牌を眺めながらお酒を呑んでいるお父様は、いつも悲しそうな顔をしていて。

 だから分かる。

 お父様はまだ亡くした家族を思っているのだと。

 小僧達が話していたように、今も息子が帰ってくるのを待っているのだと。

 私にとってはお父様が本当の家族でも、お父様にとっては鬼に奪われた家族こそが本物なのだ。

 それを否応なく思い知らされる。

 

 嫌な想像が頭を過る。

 もしかしたら家族だと思っていたのは私だけで、私は単に『代わり』だったのではないだろうか。

 もしも私の思った通りなら。

 いつか、本当の息子が帰ってきた時、私は捨てられるんだろうか。


 それを認められるほど強くはなれなくて。

 聞きたくて、聞きたくなくて。

 私はいつも何も言えないでいる。




 怖い話。


 魑魅魍魎。

 柳の下の幽霊。

 皿屋敷。

 鬼。

 牛の首。

 説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話がある。 




 作り物の怪談なんて怖くない。

 怖いのは、いつだって作り話じゃなくて、掛け値のない本当のこと。




 ◆




 日が落ちて店を閉じ、家屋へ戻った重蔵と奈津は夕餉をとっていた。

 無言のまま箸を進める。厳格な重蔵は食事の際に話をするのはあまり好まないが、この日は彼の方から言葉を発した。


「奈津」

「えっ、あっ、はい」


 滅多にないことの為思わずどもってしまった。

 恥ずかしさに少しだけ頬が熱くなる。


「護衛についた男、問題はないか」

「うん。浪人って言ってたけど、そんなに悪い奴じゃないみたい。それにお父様が選んだ人だし」

「そうか」

「ありがとう、心配、してくれて」

「当然だろう。娘を心配せん親なぞおらん」


 殆ど表情は変わらない。

 でも嬉しい。重蔵が自分を心配してくれていると分かり、奈津は満足げに口元を綻ばせた。

 天涯孤独だった自分を引き取ってくれた父は奈津にとって唯一の家族だ。

 善二を兄のように思っているのは事実だが、重蔵はやはり特別だった。 


「ねぇ、お父様。なんであの男を雇ったの?」


 父は酒が好きで毎晩夕食時にはお銚子をつける。

 手酌で注いだ酒を呑み干し、一度ゆったりと息を吐く。

 人心地ついたのを見計らって、奈津は重蔵に問うた。

 不満がある訳ではない、純粋な疑問だ。

 確かに信頼できる男だったが、それは結果論だ。何故父は浪人なんかを護衛にしたのか。

 ふむ、と僅かに考え込んだ重蔵は、手の中で杯を遊ばせながら答える。


「馴染みの客に聞いた噂だ。近頃江戸には鬼が出るという噂が流れている。しかし同時に刀一本で鬼を討つ男もいるらしい」

「それが、あの浪人?」

「ああ。金さえ払えば如何な鬼でも討つ……腕も確かなようだ」


 奈津は安堵に頬を緩ませた。

 彼は、鬼を討つと噂される男だという。

 つまり父は、『鬼が出る』という話が嘘だと思ったから適当な浪人を付けたのではない。

 鬼の存在を真実と受け止めた上で、対応策を考えていてくれたのだ。


「なによりあれは信頼できる。お前の護衛には相応しかろう」


 小さな笑みを落とし、再び杯を傾けた。

 重蔵は珍しく、随分と機嫌よくお酒を楽しんでいる。

 最後の一口を呑み干し、満足げに息を吐く。

 空になった杯を、穏やかな目で眺める父。

 そこに何を映しているのかは、奈津には分からなかった。




 ◆




「では任せる」


 夜になり、須賀屋を訪れた甚夜に重蔵はそう声を掛け自室へと戻った。

 奈津の部屋の前には甚夜と善二が構え、昨夜と同じように庭を睨み付けている。

 縁側に陣取る二人を、奈津は訝しげな目で見つめていた。

 件の浪人はいい。なにせ鬼を討つ噂の男で、父に雇われた護衛なのだから。

 問題は剣の嗜みなどないもう一人の方である。


「……なんで、善二がいるの?」

「いや、昨日の失態を挽回しておこうかなーなんて、はは」


 奈津は自室から顔を出し、半目で善二を見る。

 鬼が出るなんて信じていなかったくせに。言葉にしなかったが、言いたいことは何故かはっきりと伝わってくる。

 昨日の発言が尾を引いているのだろう。奈津の態度はひどく冷たい。

 自分の失態だと分かっているから、善二の方も強くは出れない。

 善二は二十歳、奈津よりもかなり年上だが立場は随分と下のようだった。


「ふうん。別にどうでもいいけど」

「冷てぇ……許して下さいよ御嬢さん」

「……なら、今度何処か連れてってよ。それで勘弁してあげる」

「勿論、そんなことでいいんでしたら幾らでも!」


 沈んだ表情から一転、人懐っこい笑顔が浮かぶ。

 ほっとしたのは多分二人共だろう。

 拗ねていただけで元々そんなに怒ってはいない。だから適当なところで許そうとは思っていた。

 恥ずかしいから口にはしないけれど、早めにそういう機会が回ってきてよかったと思う。

 善二はもとより、奈津も安堵に小さく息を吐いた。


「そう言えば、あんた。お父様と知り合いだったの?」と、今度は甚夜に声を掛ける。

「随分と昔に、少しな」

「お父様はなんかあんたを買ってるみたいだったけど」


 ああ、それは確かに。

 思い当たる節があったらしく、善二もこくこくと頷いている。


「でしょう? 浪人に依頼するってだけでもおかしいのに、朝だってあんな失礼な態度とっても怒らないし。あんた、お父様とどういう関係?」

「なんか夫の浮気相手を問い詰める妻みたいな言い方ですね」

「善二はほんとにいちいち五月蠅いわね。で、なんで?」


 責めるような問い詰め方でも、甚夜は然して気にした風ではなく、庭から視線を移しもしない。

 警戒は解かぬまま、体勢を崩さず答える。


「さて、そこまで信頼される理由は私にも分からん。私はただ借りを返すつもりでこの依頼を受けただけだからな」

「借り……? まあいいわ。お父様が信頼してるみたいだから、私も取り敢えずは信用する。少なくとも剣の腕が確かっていうのは事実みたいだしね」


 奈津にとって重蔵の存在は何よりも重い。

 父が信頼している。それだけで、どこの馬の骨とも知れぬ浪人を信じてしまえるくらいに。

 それが不思議に思えるのか、彼女の物言いに甚夜は小さく反応を示した。


「重蔵殿が信頼しているから、か。奈津殿は随分とあの人を慕っているのだな」

「当たり前でしょう。お父様は血の繋がらない私をここまで育ててくれたんだから。感謝しない訳ないじゃない」


 弾んだ声音に、この娘は本当に父を慕っているのだと知る。

 負い目ではなく純粋な愛情。奈津と重蔵は、仲の良い家族であってくれている。

 ならよかった、と甚夜は独りごちた。

 呟きは小さすぎて聞こえなかっただろうが、それでよかった。


「成程、仲のいい親子だ。重蔵殿も随分と気にかけているようだしな」

「そう、かしら?」

「そりゃあそうでしょう。考えてみれば鬼が出るってお嬢様が話したらすぐに護衛連れてきましたし。はっきり言って過保護だと思いますよ?」


 二人の意見に首を傾げるも、その表情の端々に歓喜が見て取れる。

 こういうところはまだまだ子供だ。にまにまと口元は緩み、内心を全く隠せていない。

 鬼が今夜も現れるかもしれぬというのに奈津は随分と嬉しそうで、恐怖など微塵も感じさせなかった。


「……案外と、善二殿が正しかったのかもしれん」

「え?」

「いや」


 舞い上がっていたせいか、呟いた言葉は聞こえなかったらしい。奈津は不思議そうな顔をしていた。

 その様を見て、すっと甚夜の目が細められる。そして一瞬何かを逡巡するように眉を潜め、徐に口を開いた。


「……ああ、そういえば少し耳に挟んだのだが。重蔵殿には息子が」

「知らない」


 言い切る前に、不機嫌さを隠そうともしない声に遮られた。

 表情からも先程の喜びは消えている。

 見るからに刺々しい態度。奈津は苛立ちのままに言葉を吐き捨てる。


「出て行った息子のことなんか知らないわよ。変なこと聞かないで」

「そう、か。それは済まなかった」


 質問を遮られ乱雑な受け答えをされて、しかし甚夜に腹を立てた様子はない。

 寧ろ納得がいったとでも言うように小さく頷いた。

 それから一刻弱。

 初めの内はまだ会話も続いていたが、夜が深くなるにつれ口数は減っていく。疲れたのか、恐怖が蘇ったのか、奈津は陰鬱な顔をしていた。


「寝ないのか」

「眠れないのよ」


 自室から出て縁側に座り込む奈津は、不安からか声が少し強張っていた。

 しばらくはまた無言のままだったが、意を決したように口を開く。


「ねぇ……鬼と人の間に子供って生まれるの?」

 

 焦燥が口をついて出た。

 父の話が事実なら、この浪人は今までも鬼を相手取って来た筈だ。ならばそういうことも知っているかもしれない。

 だから聞いた。もしかしたら、自分が望む答えを返してくれるかもしれない。


「生まれる。その姿が鬼に似るか人に似るかは個体で変わるがな」

「そう……」


 そんな淡い期待は斬って捨てられた。

 声は頼りなく、少女の肩は悲しみに震える。

 ああ、やっぱり。『娘ヲ返セ』。あの言葉の通り、私は本当に。


「御嬢さん、大丈夫ですよ。そんなことあるわけ」

「でも私はお父様と血が繋がってないし、本当の親なんて知らないし! もしかしたら、もしかしたら本当に……」


 善二が慰めようとするが。破裂したように奈津は大声で叫ぶ。

 そうだ、本当の親など顔も知らない。

 だからもしかして、『娘を返せ』というのは正しい訴えで。あの鬼こそが、私の親なのではないだろうか。


「いいや、あの鬼はお前の親などではない」


 感情の乗らない、金属のように冷たい声だった。

 あまりにも優しさの無い慰め。それを聞いて奈津は激昂と呼んで差支えがない程に興奮する。


「なんであんたにそんなことがっ!」

「分かる。私はあの鬼を知っているからだ」


 けれど次いで放たれた言葉に、一気に頭が冷えた。


「……え? 」

「少なからず因縁があってな。だから分かる。あの鬼はお前の親ではない。間違いなく、な」

「本当、に?」

「嘘は吐かん」


 視線は庭から逸らさないまま、きっぱりと言い切る。

 慰めも気遣いも感じさせない、簡素な態度。それが逆にその言葉を真実だと思わせる。

 

「だから不安に思うことはない」

「そ、そうですよ! ほら、鬼の専門家がこういってるんですし! あんな鬼なんざ俺らが追い返してやりますよ!」

「……あんたはどうせ見てるだけでしょ」

「ぐぅ、なんかいちいち棘がある……」


 大げさに肩を落して見せるも、善二は内心安堵していた。

 奈津も多少は落ち着いて、いつもの調子が戻ってきたようだ。辛辣な物言いも今は心地よかった。


「はぁ。話してたらなんだか眠くなってきたわ」


 あからさまに演技の欠伸をして、横目でちらりと甚夜を見る。

 彼は庭を睨みつけたまま。こちらを見ていないのは幸いだ。奈津は覚悟を決めてこくんと小さく頷き、それでも若干躊躇いがちに甚夜へ問うた。


「ね、ねぇ、あんた名前は?」

「……甚夜だ」

「ふぅん。甚夜、ね。なら、そう呼ばせてもらうわ」


 そんなことを言って、直ぐにそっぽ向いてしまう。

 善二は口元に手を当てた。くくっ、と漏れた息。笑いを堪えているのだろう。

 素直に感謝の言葉を言えない奈津が面白くて、笑いが止められなかった。

 肩を震わせ一頻り笑い終えた後、表情を引き締め甚夜の耳元で小さく言った。


「甚夜、すまん。奈津御嬢さんのことを気遣ってあんな嘘を吐いてくれたんだろ?」

「なんのことだ?」

「惚けなくてもいいだろうに、お前も素直じゃないな」


 急な謝罪に甚夜は眉を潜めるが、善二の方は実に楽しそうである。

 その態度を照れ隠しだと思ったらしく、やれやれ、とでも言わんばかりに肩を竦めていた。


「ちょっと……目の前でひそひそ話しないでよ」

「おっと、これはすいません」


 奈津にきっと睨まれ、善二はおどけて軽く笑う。

 おそらく普段から二人はこうなのだろう。険悪な雰囲気にはならず、寧ろ流れる空気は穏やかでさえあった。

 そんな中で甚夜はすくりと立ち上がる。


「……鬼はどうやって生まれてくると思う?」


 そして話の流れも和やかさも断ち切って、まるで鉄のように冷たい声を発した。


「なんだいきなり?」


 意味の分からない質問。疑問を口にしても返ってきたのは沈黙だけ。

 だから善二は戸惑いながらも先程の問いに答える。


「どうって……そりゃあ、なぁ。普通は親からだと思うが。実際どうなんだ?」

「鬼の生まれ方は様々だ。鬼同士が番いとなり子を為す場合もあれば、戯れに人を犯しその結果として生まれてくることもある。稀に人と恋仲になる鬼もいる。中には無から生ずる鬼もいてな」

「無から?」

「想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる」


 それは予兆を捉えていたからこその問いだったのかもしれない。

 善二は目を見開いた。

 庭に生暖かい風が吹く。甚夜の言葉に呼応するかのように、目の前の空気が歪んでいく。

 黒い霧のようなものが立ち込め、次第にそれは集まっていく。淀み、凝り固まり、一つの形を成す。それは今し方語って聞かされた内容と完全に一致している。

 つまり、


「無から生ずる鬼とは即ち、肉を持った想念だ」



 鬼が生まれようとしているのだ。



 甚夜は軽やかに庭へと踊り出る。

 まだ斬り掛からない。抜刀さえせず、鬼が完全に生まれるのを待っている。

 次第に靄は凝固し、四肢をもつ異形へと姿を変える。

 昨夜も見た、爛れたような皮膚。あまりにも醜い鬼がそこには立っていた。


「名を聞かせてもらう」


 再び鬼の名を問うが、返答は昨夜と変わらない。

『娘ヲ…返セ……』と、呻きを上げるのみ。

 知能が高くないのか、甚夜を敵とみなした鬼は無警戒に飛びかかる。

 だが遅い。体を捌き半歩下がる。距離が詰まった瞬間、潜り込むように懐へ入り当て身を喰らわせる。

 思った以上に軽い。鬼は容易く吹き飛ばされ、受け身も取れず庭を転がった。


「名乗る程の知能はない……残念だな」


 かつて名も知らぬままに鬼を斬り、ひどく後悔したことがあった。

 それからは、せめて己が切り捨てるものくらいは覚えていようと、戦いの前には名を聞くと決めていた。

 しかし答えは返ってこない。この鬼の名前は、心底知りたかったのだが。

 甚夜の逡巡など構わず、体を起こし四つん這いになった鬼は、唸り声を上げながら再度突進する。

 抜刀はしない。鞘に納めたまま刀を振るい、柄で顎をかちあげる。そのまま鞘で打ち据えれば、鬼は耐え切れずまたも地面に伏した。

 鞘での打撃では致命傷には程遠く、鬼は体を起こそうと動き始める。

 それを悠然と眺めながら、甚夜は小さく溜息を吐いた。


「って、お前何やってんだ!? そんな悠長なことやってないで……」

「斬っていいのか?」


 意外、とでも言いたげな調子で聞き返す。

 無駄な遣り取りをしている間に、またも鬼は立ち上がった。この状況でも甚夜は動かない。

 本当に何をやっているんだ、あの男は。

 完全に立て直した今でさえ追撃をしようともしない甚夜に痺れを切らし、善二は叫び声を上げる。

 

「当たり前だろうが! さっさと」

「私は奈津殿に聞いている」


 一際強くなった鉄の声に、続く言葉を止められた。

 何故ここでお嬢さんの名前が出てくる。そう思い奈津の方を向いて、瞬間、頭が真っ白になった。


「なに、を」


 明らかに奈津は動揺していた。

 わなわなと唇を震わせ、視線をあちらこちらにさ迷わせ、答えることが出来ずにいる。

 甚夜はそれをじっと見つめていた。

 視線は彼女を見透かすかのように。

 いや、違う。見透かすでは生温い。まるで斬り裂くように鋭く冷たかった。


「鬼に襲われ、『本当の家族のように』父から心配してもらう。奈津殿の望んだ通りだ。さて、もう一度聞こう。本当に斬っていいのか?」


 淡々とした語り口は、多分奈津の真実を言い当てていた。

 怖い。あまりに怖くて何も言えず、怯えに全身が竦んでしまっている。

 怖いのは鬼でも、鬼が親である可能性でもない。

 武骨な浪人に見せつけられた、ずっと隠してきた弱さに。

 少女はどうしようもないくらい怯えていた。




 怖い話がある。 


 物心がつく前に両親が死んで、引き取ってくれたのがお父様。

 本当の親がいないと悲しんだことはない。

 私にとって、あの人こそが本当のお父様だったから。

 けれど聞いてしまった。

 重蔵には、今は出て行ってしまったが息子がいたと。


 でも鬼のせいで全部亡くした。お父様はひどく鬼を嫌っている。


 お父様はまだ亡くした家族を思っている。

 小僧達が話していたようにまだ息子が帰ってくるのを待っている。

 私にとってはお父様が本当の家族でも、お父様にとっては鬼の奪われた家族こそが本物なのだ。


 だから思う。

 もしかしたら私は、本当の子供の代用品なのではないか。

 あの人は、私が想うほどには想っていてくれないのでは。

 不安が消えることはない。




 ああ、いっそのこと───私も鬼に襲われれば、あの人は大切に想ってくれるだろうか。




「善二殿の言は正鵠を射ていた。これは奈津殿の狂言。ただ、本人が気付いていなかっただけの話だ」


 幾度となく鬼は立ち上がり、幾度となく甚夜に襲い掛かる。

 その度にいなし叩き伏せるが、それでも鬼は諦めることをしない。奈津ではなく、甚夜へと向かう。

 きっと、聞きたくないと思ったから。

 醜悪な鬼はこれ以上弱さを暴き立てられないよう、敵わないと知りながらも只管に攻め立てる。


「例え此処で斬り捨てたとしても、鬼はまた現れるだろうな」

「なん、で」


 なんで、そんなことが分かるの?

 奈津の言葉にならない問い。そも、する必要もない。

 だって本当は分かっている。言われなくても、自分のことなのだから、誰よりもよく理解している。


「当然だ、この鬼は奈津殿の想いなのだから」


 だから言わなくていい。

 なのに、彼は無慈悲なまでにきっぱりと答えた。


「君の願いに応え現れ、適度に騒ぎを起こし、大好きな父や善二殿の関心を引く。聞きたくない言葉を垂れ流す輩に襲い掛かる。なんとも都合のいい話じゃないか。本当は、それを願っていたんだろう?」

「やめて……」

「斬ったところですぐに蘇る。君が満足するまで、何度でも……大本を断たぬ限り、この鬼が消えることはない」

「なによ、それ……私に死ねって、こと?」

「違う。ただ一言、こいつを『斬れ』と言えばいい」


 薄らと細められた、刃物のような視線が奈津を捉えている。

 斬れと言えば鬼は消える。

 甚夜が何を言いたいのか、分かってしまった。

 あの鬼が奈津の想いで出来ているのならば、斬れと言うことは想いを捨てるに等しい。

 彼は父が大切だと思うこの気持ちを、今此処で切り捨てろと言っている。


「そんな、こと」


 そんなこと、出来る訳がない。

 ようやく分かった。何故あの鬼があれ程まで醜い姿をしているのか。

 あれは、私だ。

 見たくないものに蓋をして、弱い自分を隠して、そのくせ誰かに愛されたくて。

 優しくしてくれた父に縋って、けれどこんな自分を愛してくれるなんて信じられなくて。

 既にいない妻や息子に嫉妬して。それを認めることさえ出来やしない。

 そうして見て見ぬふりをしてきた醜い“なにか”。

 あの爛れた容貌は、強気な態度の下に隠れた私そのものなのだ。


「いや……やだよぉ」


 怖い。自身の醜さを凝視するのは堪らなく怖かった。

 奈津は幼い子供のように泣いていた。

 その間にも鬼は甚夜へと襲い掛かり、その度に叩き伏せられる。

 殴られ蹴られ転がされる大切だった筈の想い。見たくないものを、見せつけられていた。

 本当はただ父と仲良くしたかっただけ。

 それだけだった筈の想いはいつの間にか捻じ曲がり、醜い異形を生み出してしまった。

 あんなものを内に孕んでいるのならば、例え両親が人であったとしても、この身は確かに鬼の娘なのだろう。

 きっと本当に斬られないといけないのは、私───


「違うでしょう、御嬢さん」


 でも、優しく。

 包み込むような声が聞こえた。


「ぜん、じ……?」

「あいつが斬れって言っているのは鬼だ。貴女じゃありません」


 違う。そうじゃない。あれは、あの鬼が私なんだ。

 目を背けたくなるくらい醜悪な、本当の私。

 なら斬られなくちゃいけないのも私で。

 なのに善二は、そっと優しく奈津の手を握りしめる。


「そうじゃない、そうじゃ、ないの」

「ねえ、御嬢さん。人当たりがいいなんて言われちゃいますがね、俺だって嫌いな相手くらいいますよ。正直朝起きんのがしんどくて仕事したくない日だってあるし、旦那様の無茶ぶりにかちんとくるのだってしょっちゅうです」


 内緒だったんですけどね。

 おどけたように肩を竦め、善二は軽く笑う。

 人懐っこい性格が幸いして、問屋や顧客の覚えもめでたい。そういう彼の零す何気ない愚痴が、奈津にはひどく意外に思えた。

 いくら辛辣な言葉をぶつけても、いつだって彼は適当に流していた。

 ちょっと情けないけど素直で、なんだかんだ働き者で、我儘をちゃんと聞いてくれる兄のような人。

 幼い奈津には、それが善二という男だった。

 彼がそんなことを考えているなんて知らなかったし、知ろうともしなかった。


「御嬢さんだけじゃない、皆そんなもんですって。……でも、それが全てじゃない。嫌いな相手よりも好きな奴は多くいて、上手くいきゃあ仕事は楽しい。かちんときても、俺を引き立ててくれた旦那様には感謝もしてます。どっちも俺の本音なんです。なら汚い部分ばっか見て、落ち込んでても仕方ないでしょう?」


 けど彼の下にも、醜い鬼はいて。

 だから、そんなに不安がらなくたっていいのだと、彼はまっすぐに奈津の目を見ながら言った。

 善二は奈津の葛藤をちゃんと理解している。

 あの醜い鬼は奈津なのだと認めた上で、大丈夫だと。醜悪な鬼のことを受け入れて、それでも向き合ってくれているのだ。


「あの鬼が御嬢さんの想いでも、それが全てじゃない。俺はちゃんと知ってますよ。そりゃ我儘で多少辛辣ですが、優しいところだってあって、旦那様が大好きな御嬢さんのこと」

「善二……」

「だから出てきちまう愚痴や不満なんて、否定しちまえばいいんです。そこで終わらなけりゃね。否定して、今度は誰に恥じることないくらい、真っ直ぐ旦那様と向き合えばいいじゃないですか。大丈夫、旦那様は絶対に御嬢さんのことを大切な家族だと思っていますから」


 あの醜い鬼は、確かに彼女自身の想いだ。

 そうと認められなかったから、化けて出てきたのだろう。

 でもきっと、それが全てじゃない。

 ならば斬るというのは、想いを捨てるのではなく、今までの間違いを正して新しく始めること。

 誰かを大切に想えばこそ嫉妬して、素直になれなくて。

 だけどそんな醜い心もひっくるめての“想い”だと認めて、その上で誇れる自分に変わっていこうという姿勢だ。


「親娘揃って言葉が足りないんですよ。もうそろそろ腹割って話して、ちゃんと家族をやりましょうや」



 ああ、それは

 きっと、私が本当に望んでいたことで。




「……斬って」


 甚夜の背中に声を投げかける。

 醜い鬼は自分自身の想い。そうと受け入れたからこそ、否定する。

 否定したところで消える訳ではない。

 本当のことはいつだって怖い。だからきっと、これからも醜い鬼は奈津に付き纏うだろう。

 それでも今ここで、怯えるだけだった自分は斬り捨てていこう。

 醜い鬼が消えることがなくとも、それを受け入れて。ほんの少しだけ、素直な自分で在れるように。


「斬って」

「いいんだな」

「うん。そいつは多分私の想い。本当のことが怖くて、いろんなものに蓋をしてきた今迄の私。だけど、これからは違うって。そうなるように、頑張るから」


 震える声で、しかし気丈に睨み付ける。

 それが感じられたから、甚夜は落すように笑った。 

 優しく、まるで家族を慈しむような暖かさ。

 奈津はその表情に一瞬目を奪われた。しかしそれは本当に一瞬。笑みは消え去り、眼光鋭く甚夜は鬼を見据える。


「そうだな。変わらないものなどない。だが鬼は変われない。だからこそこの鬼は生まれた。これは、立ち止まってしまった想いだ」


 だけど、いつまでも立ち止まったままではいられない。

 悲しみに足を止めることもあるだろう。過去の後悔はどうしようもなく付きまとう。


 それでも人は日々を生きていかねばならない。


 ようやく甚夜は抜刀し、脇構えを取った。

 そうして一気に踏み込み、腰の回転で刀を横一文字に振るう。


「今を生きる者達にお前は邪魔だ、失せろ」


 ひゅう、と風を裂いて終わり。

 一太刀の元に、鬼は両断された。




 ◆




「終わった、のか?」


 庭に伏せる鬼はもう動かない。

 その体躯から白い蒸気が立ち昇る。今度こそ鬼はその終わりを迎えようとしていた。


「ああ」

「また現れたりは」

「大丈夫だとは思うが。それは、これからの奈津殿に任せるしかないな」

「そりゃそうか」


 奈津は心労からか気を失い、今は善二の腕の中にいる。

 抱き留めた少女の体は驚くほどに軽い。

 この娘はこんなに軽かったのか。なのに、あれだけの想いを隠していたのか。

 複雑な心境で眠る奈津の顔を見れば、ふと善二の口元が緩む。

 憑き物が落ちたような、穏やかで安心しきった寝顔。

 結局あの鬼は、素直になれなかった奈津の感情の発露に過ぎなかった。

 ならばこれからを知るのもまた彼女のみ。けれどそんなに心配しないでもいいかもしれないと善二は思う。

 目覚めた時には、きっとほんの少しだけ素直になれるから、きっと大丈夫だ。


「しかし、なぁ。鬼ってのは、あの程度の想いで生まれるもんなんだな」

「それは違う」

「いや、だってよ」

「善二殿にとっては『あの程度』でも奈津殿にとっては違った。それだけの話だ」

「ああ……そっ、か」

 

 想いの重さは人によって変わる。当然のことだ。

 言うべきことはないのか、そこで会話は途切れた。途端に夜風が吹き、その冷たさに体が震える。


「うぉ、寒」

「夜は冷える。奈津殿を寝かせてやってくれ」

「ああ、そうだな。お前はどうする?」

「取り敢えず今夜は番をさせて貰う」

「そうしてくれると助かる。そんじゃ」


 奈津を抱き上げたまま善二は部屋へ行き、ゆっくりと布団の上に寝かせる。

 流石に眠くなったのか、軽く甚夜に挨拶をして彼も自室へと戻っていった。

 庭には甚夜と、鬼だけが残された。






 ……ところで、言葉というのは存外に難しい。


 確かに甚夜は「嘘は吐かん」と言った。

 しかし本当のことを全て話した訳ではない。

 此処から先は二人には見せたくなかったものだ。


『娘ヲ…返セェェ……』


 鬼が立ち上がる。

 蘇った訳ではない。今にも消えそうな体を無理矢理動かしているだけだ。

 それも予想のうちだったのか、甚夜は冷静に再び刀を構える。


「やはりな」


 もしこの鬼が奈津の想いから生まれたのならば、彼女が否定した時点でその存在意義を失う。

 にも拘らず、鬼は死屍累々とはいえ動くことができた。

 だから甚夜は自身の推測が正しいのだと確信した。


 想いから鬼が生まれるとしても、奈津の想いだけでは鬼になるには少し足らない。

 ならば、補填する何かがあって然るべき。

 甚夜は最初から、あの鬼にはもう一つ混ざった想いがあると考えていた。

 

 須賀家にはもう一人、鬼に成り得る女がいた。

 殺された重蔵の妻。彼女こそが足りない想いを補っていた。あの鬼が何度も『娘を返せ』と繰り返していたのは、彼女の想いが混じっていたからだ。

 つまり鬼の娘とは重蔵の妻が生んだ子供のことだったのだろう。


「お久しぶりです。こんな形で会うことになるとは正直思ってもいませんでした」


 何故か鬼に向かって畏まった口調で話す甚夜は、ひどく沈んでいた。

 悔やむように奥歯を噛み締めながらも、切っ先は鬼を捉えている。


「最後に、貴女の名を聞かせてほしい」


 斬る前に名を聞くのは彼の流儀。斬って捨てる命を背負っていくと決めたから。

 けれど今の問いは違った。純粋にあの鬼の、彼女の名前が知りたかった。


『娘ヲ、返セ……!』


 それでも、返る答えは、やはり同じ。

 痛ましく歪む表情。ぎり、と奥歯が鳴った。

 仕方ないことだと自身に言い聞かせ、刀を上段に構え、甚夜は静かに告げる。


「済みません……不義理をお許しください。ですが、皆今を生きている。過去に足を止めてはいられないのです。だから」


 唐竹。

 鬼は断末魔の叫びさえないままに斬り伏せられ、それで終わり。

 死骸は溶けて白い蒸気となり、後には何も残らない。


「もう眠ってください」


 苦渋の声音。

 ぽつりと呟いた言葉だけが庭に残って、それさえも夜に紛れ何処かへ消え去った。





 ◆






「甚夜。今回は、本当に世話になったな」


 もしものことを考え一晩監視は続けたが、結局朝になっても何も起こらなかった。

 昨夜の奈津の様子を見るに、あの鬼が再び現れることはないだろう。

 夜が明けてから重蔵に解決した旨を報告し、護衛の報酬も貰った。

 これ以上留まる意味もない。そそくさと帰るつもりだったのだが、善二と奈津は見送ろうと待ち構えていたらしく、店の前で捉まってしまった。


「ほら、御嬢さんも」

「う、うん」

「そんなんじゃまた鬼が出ますよ」

「分かってるわよ。……その、ありがと」


 須賀屋の店先で二人は甚夜に礼を言う。

 奈津の表情は不貞腐れたようで、照れたような。初めて会った時よりも幾分か幼く見えた。

 きっと、少しはすっきりしたのだろう。


「もうちょっと、色々直してみるわ。すぐにはうまくいかないと思うけど」

「ああ、それがいい」


 甚夜が頷けば、恥ずかしかったのかそっぽを向いてしまう。

 胸のつかえがとれたのは事実、とはいえそう簡単に人は変われない。少女が素直になるまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。


「しっかし、案外面倒見がいいなぁ、お前さん。俺が帰れって言っても結局残ってくれたし」


 甚夜は最初の晩、帰れと言われたにも拘らず、庭に隠れてまで残り鬼を退けた。

 現れた鬼もただ斬るのではなく、奈津の為に色々と骨を折ってくれた。

 有難くはあるが、そうまでしてくれる理由が善二にはよく分からなかった。


「なんで、ここまでしてくれたんだ?」

「重蔵殿の願いだ。中途半端なことは出来んよ」

「旦那様の?」

「依頼だから受けたのではない。私は、借りを返しに来たんだ」


 奈津は昨夜のこと、そしてこの浪人と父の遣り取りを思い出す。

 借りを返す。甚夜は何度かそう口にしていたが、父との間に何があったのかを聞く機会はなかった。

 今更だが、二人の関係が気になって奈津は問う。


「借りって、一体なんだったの?」


 その問いに、甚夜はそっと目を閉じた。

 語ったところで彼の理由は理解してもらえない。

 そうと知りながら話そうと思ったのは、多分相手が奈津だったからだろう。


「長く生きれば大人になれるというものでもないが、それでも歳月を重ねた分気付くこともある」


 瞼の裏に映し出されるのは、未熟な己と守れなかった景色。

 幼い頃、葛野で暮らすようになるよりも前。

 妹と父と。三人で過ごした、在りし日の記憶だった。


「子供の頃は目に見えるものだけが全てだった。傷つけるのはいけないと、其処に隠れたものが在るのだと想像するには私は幼すぎた」


 古い話である。

 甚夜は──甚太は五歳の頃、妹と一緒に江戸を出た。

 父は妹を虐待していた。だからこんなところにいてはいけないと思った。

 虐待の理由は簡単だった。

 母は妹が生まれると共に死んだ。そして、妹の目は赤かった。

 妹──鈴音が鬼の娘であることは間違いなく、母が人である以上その父親が何者であるかなど容易に想像がつく。

 おそらくは鬼が戯れに人を犯し、結果生まれた娘だったのだろう。

 父は母を犯し殺した鬼を憎み、鈴音をもまた憎んだ。

 それに耐えきれず甚太は鈴音と共に家を出た。



 二人は元々江戸にある、それなりに裕福な商家の出だった。



「けれど色々なものを失くした今なら少しは理解してやれる。だから、あの時父を見捨てることしか出来なかった、己の未熟の借りを返したかった」


 自分たちのことしか考えられなかった。

 母を亡くし失意の淵に在った父が、子供まで失くし何を思うのか。そこまで慮ってやることが出来なかった。多分、それをずっと後悔していた。

 だけど今は安堵している。

 重蔵に娘がいること。奈津が父を慕っていること。

 二人が仲の良い家族であることに、心から安堵していた。


「ぜんぜん意味が分からないんだけど」


 甚夜の言葉の意図が読めず、奈津は少し怒った様子だ。 

 だがこれ以上説明する気はなかった。

 昔のことだ、彼女達が理解する必要はない。重蔵の子供は奈津だけ。それでよかった。


「まぁ、なんだ。親孝行はしておいた方がいい、という話だよ」


 穏やかに笑みを落とす。

 理解されないと分かっていた。奈津に聞かれたから話そうと思った。

 もしかしたら妹になったかもしれない少女。

 どんなに生意気な態度でも怒る気になれなかったのは、だからなのかもしれない。


「親孝行?」

「重蔵殿は奈津殿にとって親なのだろう?」

「そりゃ、そうよ」

 

 奈津の言葉を嬉しいと思う。

 あの人にはもうちゃんと家族がいるのだと、一人ではないのだと知れたから。

 そして奈津の言葉を嬉しいと思えたことが、嬉しかった。

 不肖の息子だったが、少しは返せるものがあった。




 ただ一つ心残りがあるとすれば、あの鬼の名前を知りたかった。


 かつて名も知らぬままに鬼を斬り、ひどく後悔したことがあった。

 それからは、せめて己が切り捨てるものくらいは覚えていようと、戦いの前には名を聞くと決めていた。

 しかしそれとは別に甚夜は知りたかった。


 ───果たして、あの鬼の名前は何というのだろう。


 奈津の想いから生まれたのならば、鬼の名前も『奈津』になるのだろうか。

 父を慕うその気持ちが形になったというのならば、『愛情』とでも呼ぶべきか。


 だがもしも、あの鬼の中に、彼女の想い以外の何かがあるのなら。

 いなくなった娘の行方を探す母の想いがあったとしたのなら。


 鬼に無理矢理犯され孕み、その果てに生まれた娘。

 それでも『娘を返せ』と死して尚残り続けたその願いが、憎しみの最中に在った筈の母の想いが一体何という名前なのかを知りたかった。

 結局、それを聞くことは叶わなかったが。





「なら、仲良くな。ああ見えて打たれ弱い人だ。貴女が支えてやってくれ」

「あんたに言われなくたって」


 奈津の言葉に緩やかな笑みを落し、甚夜は踵を返した。


「では、な」 


 短い別れの言葉、そこには未練など欠片もない。

 見送る二人は感謝を背中に投げかけるが、須賀屋を後にした甚夜は、一度も振り返ることなく真っ直ぐに歩いていく。


「行ったか」


 背中は次第に小さくなり、人混みに紛れて見えなくなった。

 重蔵は甚夜がいなくなるのを見計らったように現れ、去っていった方角を眺める。当然ながらもはや彼の姿は見えない。


「はい。つーか旦那様も見送りゃあよかったでしょうに。世話んなったんだから」

「その必要はなかろう。あいつならば、必ず為してくれる。最初から分かっていたことだ」


 淡々とした口調。全くこの人と善二は内心溜息を吐く。

 娘を守ってもらいながら、金を渡しただけでまともな礼も言わない。

 礼儀に五月蠅い重蔵らしからぬ態度だが、悪びれる様子もない。

 かと言って甚夜を軽んじている訳でもなく、どうにもその意図は読み取れなかった。


「そういや旦那様はえらい甚夜のことを買ってますよね。なんか理由でもあるんですか?」


 いくら考えても分からず、善二は軽い調子で聞いてみる。

 すると重蔵は何故か、懐かしいものを見るような穏やかな目になった。


「馬鹿なことを聞くな」


 そうして笑う。




「……子を見間違える親がいるものか」



 

 落とすような、何処かの誰かに似た笑みだった。


「はい? 今なんか言いました?」

「いい天気だと言っただけだ」


 ぼそりと呟いた言葉は誰にも届かない。

 だから善二にも奈津にも、重蔵の胸中は分からないままだ。

 彼は甚夜を呼び止めず、見送ることさえしなかった。

 そうしたところで、きっと喜ばない。

 最早交わらぬ道行きを少し寂しくも思うが、それも仕方ない。

 あれは既に自分の意思で歩いている。

 ならばこそ、邪魔をするような真似はしたくなかった。


「はぁ……?」

「お前はさっさと仕事に戻れ。そうでなくば番頭が遠のくぞ」

「そいつは勘弁。ではお嬢さん俺はこれで」


 すたこらと逃げるように店へ向かう。

 それを眺める重蔵は鼻で笑い、しかしその表情はどこか優しい。


「あ、あの!」

「む……」

「お、お父様……私にも、なにか手伝えることある?」


 奈津が緊張した面持ちで重蔵の前に立つ。

 意外な申し出に眉を顰める。

 元よりよく慕ってくれる娘だが、自分に出来ることなどないと知っているからだろう、手伝いたいと言い出すことは今迄なかった。


「どうした急に」

「だって、お、親孝行はしておいた方がいいって」


 照れているのか、奈津の頬にはほんの少し赤みがさしている。

 親孝行はしておいた方がいい。それが誰に言われた言葉なのかは容易に想像がついた。

 まったく、下らないことを。重蔵は微かに笑った。

 

「お前はそんなことを気にする必要はない……子供はな、親より長生きするのが一番の孝行だろう」

「お父様……」

「私は、それだけで満足なのだ」


 誰かの影は遠く、零した呟きは届かない。

 けれどその言葉は、おそらく娘にだけ向けた訳ではなかったのだろう。

 ぽんと奈津の頭に手を置き、重蔵は踵を返し歩き始める。娘も父を追って店へと戻った。

 その光景は、確かに家族のそれだった。

 

 








 鬼が出る、という噂が流れ始めたのはいつの頃からか。


 乱れた世相に故か、夜毎魍魎どもは練り歩く。

 人の口に戸は立てられぬ。江戸では鬼が出るという噂が実しやかに囁かれていた。

 それに付随して、もう一つ噂があった。


 

 曰く。

 江戸には、鬼を斬る夜叉が出るという───






 鬼人幻燈抄『鬼の娘』・了

 




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