『妖刀夜話~鬼哭~』・2
どうということのない、昔話である。
とある山間のタタラ場で起こった、ありふれた悲劇。
集落を襲う鬼と守り人の戦い。
それだけだった筈の、遠い過去の記憶だ。
産鉄の集落“葛野”。
そこで古くから信仰される土着神“マヒルさま”に祈りを捧げる巫女は、いつきひめと呼ばれ崇められていた。
いつきひめは神聖にて不可侵。あらゆる害意から巫女を守る為、巫女守は傍に控え御身を守護する。
甚夜に剣を教えてくれた義父、元治もまた巫女守としていつきひめに仕えていた。
当時の火女の名は夜風、元治の妻でもある。
元治は巫女守としていつきひめを、妻を命懸けで守ってきた。
本人に伝えることは出来なかったが。
甚夜───甚太にとって、元治は憧れだった。
誰よりも強く、大切な人を己が刀で守る義父の姿は、子供だった彼にとってはそれこそ物語の中の英雄そのもの。
いつかはああなりたいと、素直に思っていた。
『夜風……お前はいつも言ってたよな』
しかし子供はいずれ大人になる。
そうすれば自然、小さな頃は分からなかった何かに気付く日も来るだろう。
だから幼い甚太では知り得なかったことも、今なら分かる。
『俺を巫女守に選ぶべきではなかったと。そう思わせてしまった時点で、俺は巫女守としてもお前の夫としても相応しくなかったのかもしれん』
記憶の中、微かに残る景色。
社を突如襲い、夜風を喰らったという鬼。
そして強大な鬼を前に立ち塞がる義父の姿。
それを幼い甚太は、勝ち目のない敵に立ち向かう勇敢な背中としか見ていなかった。
『だがよ、後悔はしちゃいないんだ。お前と会って俺は変わった。それが良かったのか悪かったのかは今でも分からん。巫女守として生きることを苦しいと思わなかった訳じゃない。だがお前と共に在れた。そんなに悪い人生じゃなかったさ。……お前はどう思ってたんだろうなぁ。結局、最後まで聞けなかったが』
けれど違った。
元治の言葉は独白ではなく、醜い鬼へと向けられていた。醜い鬼へ堕ちてしまった妻への手向けだったのだ。
いつきひめの家系は、鬼と人の混血、その末裔である。
巫女守はいつきひめを守る役ではなく、かの鬼が暴走した時処断する為に在った。
つまり夜風を喰ったのは、自身の内に潜む鬼。
だから元治が立ち上がった。鬼へ堕ち集落に仇なす存在となったいつきひめを、巫女守として斬る為に。
いつきひめは“斎の火女”にして“居付きの緋目”。
ならば巫女守は“水籠り”。
古語において、水籠りとは水に隠れること。転じて「心に秘める」の意。
古くは本心を隠し火女/緋目の傍に仕える者を、巫女守/水籠りと呼んだのだろう。
『お前はこうなるなよ』
だからきっと、いつも笑っていた元治も、本心を隠していた。
『結局、変わらないものなんてないんだ。どんなに大切な想いだって、いつかは形を変える。もっと大切なものに変わるかもしれねぇし、見たくもない程醜いものになることだってあるだろう。だが、俺にはそれを認めることが出来なかった。……その結末が、これだ』
元治は、初めは夜風が嫌いだったと言っていた。
けれど心は変わり、確かに愛は生まれて。
嫌いだった筈の夜風を守りたいと思うようになった。……それさえ、いつの間にか変わった。
夜風を愛した。だから夜風の愛したものを、葛野を守りたいと願った。
葛野を守ると誓った彼が知ったのは巫女守の真実。
集落の為に鬼へ堕ちたいつきひめを斬る。手にした刀の意味を、知ってしまった。
自身の想いと、背負ったもの。間に挟まれて動けなくなって。
愛した人を斬る役目を負った元治は、結局身動きが取れないまま刀を振るうことになる。
『だから甚太。お前は、憎しみを大切にできる男になれ』
その言葉の意味だけは、結局分からなかったけれど。
息子に遺言を残し、集落の守り人は命を散らす。
元治は一体どんな気持ちで妻に刃を向けたのだろう。
夜風は薄れゆく意識の中何を思ったのだろう。
彼等の慟哭は誰にも伝わることはなく、鬼哭の妖刀の物語はここに幕を下ろす。
そうして最後には、使い手を失った刀と一つの説話だけが残る。
葛野から流れ、どこかの小さな神社に奉納された刀には注釈がつけられた。
“昔々、夜風という鬼が集落を襲いました。
守り人である元治は、この刀を使って鬼を退治したそうです“
かつて確かにあった筈の想いは、歳月に埋もれ。
今ではそんな短い文章だけが鬼哭の妖刀の全て。
時代の片隅で忘れ去られた想いの成れの果て、つまりはどうということのない昔話である。
◆
「いつきひめ……?」
苦渋の表情で絞り出された言葉に、井槌は疑問符を浮かべている。
彼は葛野のこと、いつきひめや巫女守も、甚夜にまつわる因縁など何一つ知らない。だから分からなくて当然だ。
「とある集落の巫女を指す。巫女の正体は実は鬼、それを集落の守り人が封じた……ありきたりな説話が事実だったというだけの話だ」
詳しく教えるつもりもない。
義父母の物語は現状には関係なく、想いに殉じた彼等のことを他言する気にはなれなかった。
「おお、成程。つまりその守り人が懇意にしてた奴ってことか?」
要所をぼかした説明でも十分納得したらしく、井槌は何度も頷く。
少しの安堵、しかし甚夜は息を漏らさず、表情も変えない。ああ、と短く返し、何事もなかったかのように言葉を続ける。
「私が知っているのはその程度。故に、鬼の<力>が如何なるものかは分からない。その本質を理解していたのは」
「叡善の爺様だけ。いや……吉隠もそれを知っていて利用しようとしてるって訳だ」
「おそらく」
南雲叡善が操った黒い瘴気はあくまで漏れ出したもの。その本質は別にある。
夜風の<力>を知り、それを手にした吉隠が如何な企みを抱いているのかは、正直想像もつかない。
しかし大正の世を敵と謳う鬼が引き起こす事態なぞおよそ真っ当なものではないだろう。
それが甚夜には耐えられない。
元治の刀を、封じられた夜風の<力>を。
そこに籠められた想いをくだらない企みで汚されるなど、認められる筈がなかった。
「なんにせよ、私は鬼哭の妖刀を奪い返す。……手段を選ぶつもりはない」
呟いた言葉は独白ではなく、井槌に向けられたものだ。
吉隠はかつて南雲叡善の配下として肩を並べた相手。交流もあっただろう。
だとしても一切考慮はしない。立ち合い、相容れぬと分かったなら誰であれ斬り捨てると甚夜は言っている。
「……分かってらぁ」
井槌には止められない。
大正の世は敵。八つ当たりが目的。軽い口調で語った吉隠だが、その眼は狂気に濁っていた。
あれはいけない。南雲叡善と同じく、道理道徳を排し、如何な手段でも取れてしまう奴の目だ。
放っておけばどんなことになるか分からない。
だから、止められない。例え一緒に呑んだ酒の味を忘れていなかったとしても、甚夜の言葉に頷くしかなかった。
胸に在った感情が何かは、最後まで分からなかった。
「……じいや?」
その夜のこと。
自室で考え込む甚夜を心配したのだろう、溜那は遠慮がちに彼の表情を覗き込む。
なんでもない、と示すように二度三度頭を撫でてやれば、心地好さげに目を細めた。
溜那は以前よりも表情豊かになった。素直に甘えることも覚え、今夜も一緒に寝ると言って自分から甚夜を訪ねてくる程だ。
こういった成長が嬉しい反面、年頃の娘の所作としてはよろしくないとも思える。
しかし彼女の半生を考えれば拒否も出来ず、仕方がないと受け入れる場合が殆どだった。
備え付けられたベッドに寝転んで、足をぱたぱたと動かし楽しそうに笑う少女。見た目の年齢より幼い仕種に目尻が下がった。
とはいえ流石にこれは淑女の行動ではない。なるべく怒っていると思われないよう、ゆっくりとした穏やかな口調で窘める。
「これ、はしたないからやめなさい」
「ん……?」
はしたない、という意味がよく分からないのか、不思議そうに首を傾げている。
意味は分からなくとも従う辺りいい子なのだが、淑女らしい慎みを持たせるにはもうしばらく時間がかかりそうだ。
ベッドの端に腰掛ければ、溜那が寝転がりながら手を伸ばし、甚夜はそれを優しく握った。そんな些細な触れ合いでさえ嬉しそうに微笑むものだから、自然こちらの頬も緩む。
「あのひと、ウソツキ」
しばしの戯れの最中、溜那は脈絡なくそう言った。
寝転んだままの少女、表情からは微笑みが消えている。感情の色のない呟きに眉を顰めれば、淡々と、静かに口を開く。
「よなばり。じいやが知りたがってるから」
こういうのも、女の子の成長は早い、と言うのだろうか。
どうやら溜那は、甚夜が吉隠を追っていると察したらしい。或いは井槌から話を聞いていたのか。ともかく部屋を訪ねてきたのは、話をする為だったようだ。
「溜那は、吉隠のことを知っているのか」
「ん。牢にいた時、よく来た。わたしを、なまえで呼んでたのは、あのひとだけ」
溜那は、そもそも肥溜となる為の存在として閉じ込められていた。
南雲叡善の手で体を造り変えられ、男に犯され魔を孕む毒婦となる筈だった少女。人として扱うものはいなかったのだろう。
暗い地下牢で過ごした彼女に人間としての名前はいらない。“これ”か“あれ”、或いは“コドクノカゴ”。呼び方はその程度で十分事足りた。
しかし吉隠だけは、南雲叡善の付けた良い意味のない名前ではあったが、ちゃんと溜那と呼んでいたらしい。
物ではなく造られた毒婦ではなく、溜那を一個人として扱った。
「前はへんなひととしか思わなかった。今は、あのひとがウソツキだって分かる。笑ってるけど、笑ってなかった」
それでも、溜那は吉隠を“いいひと”とは評さない。
そう表現することを躊躇わせるだけの何かが、あの鬼には在ったのだろう。
「でも、わたしのこと助けてくれた」
「助けた?」
「ん」
たどたどしく溜那は語る。
南雲の屋敷での夜会。溜那と希美子を奪取しようと地下牢に忍び込んだ向日葵は、吉隠に遭遇した。
しかし牢番をしていた筈の吉隠は、何故か抵抗もせず逃げ去ったという。それどころか溜那を助けてあげろ、とまで言ったらしい。
以前、向日葵からも聞いた話だ。溜那達を見逃したのは企みあってのことだと甚夜は考えていたが、溜那の視点からすると助けてくれたように見えたらしい。
助けた訳ではないだろう、そう口にしなかったのは溜那を慮ったため、そして僅かに引っかかる所があったからだ。
吉隠が溜那を助けた。そんな馬鹿なことが、とも思う。
だが言われてみれば、希美子や芳彦には危害を加えようとしたにも拘らず、吉隠は溜那に対して一切手出しをしてこなかった。
南雲叡善に従っていた、自身の目的があった。考えられる理由は幾つもあるが、少し引っ掛かる。
「……んぅ」
俯き思考を巡らせ、しかし明確な答えは出てこない。ふうと一息、顔を上げると溜那の瞼がとろんと下がってきていた。
夜も深い。この娘もそろそろ限界のようだ。纏まらない思考を切り捨て、溜那に布団をかける。
「ん……」
「そのままでいい。もう寝よう」
髪を手櫛で梳いてやれば、心地よさそうに頬を緩め、瞼は完全に落ちた。
すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。最後にもう一度頭を撫でてから手を離す。
立ち上がり、窓の外に目を向けても星は見えない。朧雲に月も隠れ、静まり返る夜は黒く塗り潰されている。
窓の隙間から這い込む風はいやに生暖かい。
予感なぞ信じる柄ではないが、いやに胸がざわめく。不愉快な風の肌触りに目を細める。甚夜は背筋を逆さに撫でられるような、奇妙な心地の悪さを感じていた。
◆
それから一、二週間は何事もなく過ぎ、八月も終わり。
夏の名残りを匂わせながらも陽射しは柔らかくなり、随分と過ごしやすくなった。
九月一日。雨は朝から続いていたが、少しずつ雲は薄くなり、空は明るくなってきている。この調子ならば昼前には雨も上がり、穏やかな秋晴れが見られることだろう。
井槌は受付から外をぼんやりと眺めていた。雨の中キネマを見に来るものも少ない。いつもの客足はなく、欠伸まで出てくる。
「くぁ……こら、午前中は期待できねえなぁ」
「そうですね。でも、いつも満員ですし偶にはいいですよ」
「違いねぇ」
芳彦は細々とポスタァの剥がれを直したり、館内の掃除をしている。それを見ていると、思わずにたにたとした笑いが零れてしまう。
先輩の仕事ぶりに、ではない。芳彦の隣に、ちょこまかと動く子爵令嬢の姿があるからだ。
「こちらのお掃除、終わりましたよ、芳彦さん」
「ありがとうございます。……なんか、すいません。いっつも手伝って貰っちゃって」
「いいえ、そんな」
芳彦は申し訳なさそうにしているが、にこにこと心底楽しそうに希美子は微笑んでいた。
最近はよく見かける光景だ。希美子が好意を抱いているのは明らかであり、芳彦の方も憎からず思っているらしい。実際ここ一年、二人はやけに仲良くなり、なにかと理由をつけては一緒にいる。
割りに決定的な言葉はお互い言えず“仲の良い二人”を一年以上続けている辺り、いじらしいというか、初々しいというか。
「両想いだろうになぁ……」
「え? 井槌さん、何か言いました」
「いえいえ、何でもありませんよ芳彦先輩」
いざと言う時は気骨に溢れた行動をとる芳彦だが、こういうところはやはり年相応だ。
おかげで客が少なくてもいい具合に暇は潰せるがな、と井槌はにやけ面で息を吐く。吉隠のことを考えれば不安もあるが、こういう時間は得難いものである。
「そういや、嬢ちゃん。鬼喰らいの奴はどうしたよ?」
「爺やなら後でこちらに寄るそうです。最近はいつも溜那さんと一緒なんですよ」
子爵令嬢とはいうが、希美子は案外と感情表現が豊かだ。
今も不満気に、微かに頬を膨らませている。溜那とは仲のいい友人同士だが、爺やを独り占めされるのは面白くないらしい。
そんな何処か幼げな様子を軽く笑い、しかしすぐに真面目な顔を作る。
「あの嬢ちゃんと一緒ねぇ……」
鬼喰らいが意味もなく贔屓染みた真似をするとは思えない。
ということは、なにかに気付いたのか。これは少し問い詰めないといけないだろう。
サッサと来い、そんなことを思いながら外を見れば空は既に明るい。
時刻ちょうど昼時。
雨雲は晴れ、穏やかな秋の陽射しが注いでいた。
「……なんだ?」
しかし心地好さを感じている暇はなかった。
井槌は肌に感じる違和感に呟いた。
かたかた、かたかた。館内でなにやら音が鳴っている。
かと思えば次の瞬間にはごうっ、という地鳴りと共に激しく揺れ始めた。
「え、わ。じ、地震……っ!?」
「よ、芳彦さん」
あまりの揺れに動けず立ち尽くすしかない芳彦と、怯えてそんな彼に身を寄せる希美子。
普段なら微笑ましいとでも思うのだろうが、今の井槌にその余裕はない。
これは、まずい。
考えるより先に体は動き、二人を無理矢理抱き抱えキネマ館の外へと飛び出す。
───1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒。
後に『関東大震災』と呼ばれる、首都圏を襲った未曾有の大災害である。
* * *
同じ時刻。
雨も上がり、溜那と共に暦座へ向かおうと街を歩いていた甚夜も、激しい揺れを感じていた。
けたたましい地鳴り、唸りを上げて歪む地面はまるで嵐の夜の海だ。
周囲の建物は次々と倒壊し、遠い空が秋晴れからオレンジに変わる。立ち昇る黒煙、どうやら火災があったらしい。
揺れはまだ続いている。溜那を抱きかかえ、建物が崩れても巻き込まれないよう大通りの中央へと出た。
「……んっ」
「大丈夫だ」
溜那は怯えて身を竦ませている。落ち着かせようと強く抱き寄せれば、しがみ付く手も震えていた。
通りの人々も右往左往しており、甲高い悲鳴と地鳴りが重なり合って、辺りはまさに地獄絵図といった混乱である。
「あれは……」
しかしその中で、地震など関係ないかのようにのんびりと歩いてくる人影を見つける。
立つことさえ難しい激しい揺れ。だというのにそいつは、何の気負いもなく平然としていた。
周囲の悲鳴すら心地好いと言わんばかりの穏やかさに、背筋が冷たくなる。
一目でそいつが真面ではないと分かった。
甚夜は溜那を抱きしめたまま、竹刀袋に入れ隠していた夜来を取り出し、切っ先を人影へ突き付ける。
それを見て、近付いてきたそいつは友人にするような気軽さで片手を挙げ。
「やあ、鬼喰らい。お久しぶりだね」
阿鼻叫喚の中。
吉隠は朗らかに、しかし冷たく甚夜を見下して笑った。




