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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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135/216

余談『夏雲の唄』・4(了)




 大正時代のキネマの中でも『夏雲の唄』は特に評価が高かった。

 これは大正三年(1914年)に発表された短編映画で、作中で使われた同名の楽曲『夏雲の唄』は大正初期の流行歌として持て囃された。

 楽曲の作詞は本田風月、作曲は新田晋平。往年の歌姫である金城さおりが歌唱し、翌年の大正四年に発売されたレコードは一万六千枚を超える大ヒットとなった。

 八年経った今でも愛好するものは多く、暦座の館長もその一人で、時折思い出したように『夏雲の唄』を上映する。

 名作とはいえやはり八年前の作品。今見ると技術的な点では古臭く、物語の主題も「少年少女の甘酸っぱい恋」と決して目新しいものではない。

 それでも王道を丁寧に描いた映像と、場面場面を盛り上げる劇中曲、そして件の『夏雲の唄』など長らく愛されている作品である。

 




 弁士は語る。

 とある山村で生まれた少年と少女。

 幼い頃から仲睦まじく、二人はいつだって一緒だった。

 夏の盛り、嬉々の隙間から漏れる光。眩しげに目を細め、二人は駆け回る。

 娯楽のない村だ、遊ぶ場所など殆どない。けれど二人でいられればそれでよかった。

 見上げれば重々しい空。

 手を繋いで眺めた夏雲を、忘れることはないだろう。


 しかし少女の家は貧しく、食っていくのも難しい。

 悩む父、自分の食事を少女に与える母。

 十五になった少女は決意する。お父さんとお母さんの為に、私がお金をしっかり稼いで楽をさせてあげよう。

 少女は東京へ働きに出ると決めた。

 少年は付いていけない。彼は彼で家族を守らねばならなかった。

 彼の家は農家。腰を痛めた父の代わりに農作業をするのは少年だ。追い縋ることは家族を捨てること。そんな道を選べる筈がない。

 幼い頃を思い出す。いつか結婚しようね、なんて約束を交わした。

 そして別れ際に、再び約束を。


“またいつか、あの日のように、一緒に夏雲を見上げよう”


 でも思う。

 二つの約束が叶うことはきっとないのだろう。

 去っていく少女の背中に声を掛けられなかった時、少年はそれを静かに理解した。




 ───ああ、嫌な話だ。




 甚夜はほんの少しだけ眉を顰めた。

 想い合いながら離れる二人。どこかで聞いた話じゃないか。

 心から愛した女も、何よりも守りたいと願った娘も。傍にいたいと願いながら、そう在ることは出来なかった。

 静かな旋律と共に流れる映像。隣にいる野茉莉は、初めて見る活動写真に見入っている。

 年老いても横顔にはあの頃の面影があって。けれどその眼には、甚夜の姿なぞ映っていない。

 当たり前だ、もう家族ではない。

 如何に未練があろうとも。 


「二人は傍にいられず、そうして日々は過ぎていくのです」


 そう、弁士は物憂げに語った。

 物語は続き、日々は過ぎゆく。

 製糸工場へと入った少女はなれない寮生活に戸惑いながらも懸命に働いた。

 数か月に一度実家へまとまった金を、一か月に何度も少年へ手紙を送る。


“元気ですか?”

“私は元気にやっています”

“寂しい、会いたいです”

“東京の空はどこか暗くて、あなたと見上げた夏の空を恋しく思います”


 けれど毎日は忙しい。

 仕事に追われ、今の生活にも馴染んで。少しずつだけど友達が出来て。

 悩みを聞いてくれる誰かが傍にいてくれるから。

 次第に手紙の数は減っていった。


“大きくなったら、僕と結婚してくれる?”

“うん、もちろん!”


 幼い頃に交わした約束は宙ぶらりんのまま、ただ歳月だけが流れていく。

 それを寂しく思いながらも、少年は仕方ないと思った。

 だって既に六年が過ぎた。本当はもう少年なんていない。

 背は高くなり、声は低くなり。彼女のいない生活にも慣れて、あの夏の空を思い出すことも少なくなった。

 同じように、おそらく少女もいないのだろう。

 手紙は年に一度送られてくる。色々な言葉が綴られているけれど、会いたいという文字は何年も前に消えた。

 だから悟った。


 夏雲を一緒に見ることはきっともうない。

 いつか、結婚を約束した彼女は、既に何処にもいないのだ。


 或いは最初からいなかったのか。 

 きっと少女は、一緒に夏雲を眺めた少年へ手紙を送っていた。

 きっと少年は、あの時のままの少女へ思いを寄せていた。

 お互いがお互いに夢を見ていた。でも二人はいつの間にか大人になって、夢はいつか覚めるものだと知った。


“村には彼を想ってくれる女性がいた。

 そろそろ良い歳だ、結婚も視野に入れなければいけない。

 もうここらが潮時なのかもしれない。”


“東京で知り合った男性が、彼女に結婚を申し出た。

 お世話になってきた相手が、後家と呼べる年齢になってしまった彼女を妻にと求めてくれた。

 もうここらが潮時なのかもしれない。”


 数えきれないくらいの歳月が過ぎ。

 そろそろ、あの日の夏に決着をつける時が来たんだろう。

 風の冷たさに体を震わせる。

 季節は冬。

 見上げた空はやけに遠かった。


「……悲しいですね」


 誰にも聞こえないよう老淑女は言葉を舌の上で転がす。

 それでも何となく、野茉莉が何を言おうとしたのか分かった。

 けれどその意までは汲み取れない。離れていた時間が長すぎたのだ。希美子のことは見透かせても、もはや野茉莉の内心を察してはやれない。

 活動写真に合わせて流れる楽曲は、切なげな曲調に変化した。見慣れない横顔から逃れるように、甚夜も夏雲の唄に没頭する。

 物語は終盤へと差し掛かっていた。


「そうして、彼は東京へと向かったのです」と弁士が力強く言った。


 最後の未練があった。

 いつかの少年は冬のある日、東京へと向かった。

 もう離れてから何年も経つ。華やかな帝都で過ごした彼女は、とっくに自分のことを忘れているかもしれない。

 だけど一目彼女を見たかった。

 それで諦められるような気がした。

 だから、ただ一つだけを願い、彼は呟いた。


 いつかの少女は冬のある日、通りを歩いていた。

 もう離れてから何年も経つ。故郷の彼はどうしているだろう。

 離れて初めて知った。自分がどれだけ彼に頼っていたのか。自覚した今、手紙は送れなくなってしまった。彼の負担になりたくなかった。

 冬の風は身を切るようで、彼女は肩を震わせた。

 でもやっぱり、どんなに強がっても彼女はいつかの少女のままで。

 だから、ただ一つだけを願い、彼女は呟いた。




“会いたい”




 零れた声が重なって、二人は振り返った。

 青年と女性は見つめ合った。あの頃よりも大きくなって、けれど確かに、彼だと彼女だと分かって。

 働いて働いて、ぼろぼろになった手が恥ずかしくて女性は逃げ去ろうとする。

 それを引き留めようと青年はその手を握った。

 あかぎれだらけの彼女の手が、とても愛おしく。

 青年は───いつかの少年は、あの頃のままの無邪気な笑みを零した。

 横たわる歳月、けれど二人は再会した。

 見上げれば高く遠い冬の空。

 凍えるような風に吹かれて、吐息は白く。

 此処にいつかの約束は形を変えて果たされる。


「まるで、夏雲のようだね」


 重なり合った白い息を見て、二人はもう一度笑った。

 流れる『夏雲の唄』。余韻を残し、物語は幕を下ろす。

 これから先の話は、誰にも分からない。

 しかし冬の夏雲を見る二人は、あの日の少年と少女のままで。

 だからきっと、これからもあの頃と同じように二人は在るでしょう。

 そう弁士が締め括れば、これにて夏雲の唄は終わり。

 劇場は響く喝采はしばらくの間続いていた。 






 ◆






「あぁ、やっぱりキネマは素晴らしいです」


 映像も音楽も途切れ、もうほとんどの客が外に出た。

 しかしうっとりとした様子で希美子は余韻に浸っている。

 もっとも、それは毎度のこと。相変わらずだな、と芳彦は笑っていた。


「希美子さんは、恋愛ものが好きですよね」

「それは勿論。わたしだって女の子ですから、憧れますもの。いつか私もあのような恋愛を……恋愛、を?」


 熱く語る希美子は、自然に芳彦との距離が近くなり、それに気付いて顔を真っ赤にした。

すぐさま飛び退くように距離を離し、わたわたと視線をさ迷わせる。


「ご、ごめんなさいっ!」

「……先程は手を握っていたのだから、今更だと思いますよ?」

「向日葵さん何を!?」


 そういえば、先程は爺やの方ばかりに集中していて意識していなかったが、芳彦の手を引いてここまで来たのだった。

 思い出し今更ながら照れてしまい、真っ直ぐ目を見られず俯いてしまう。


「あの……僕、何かしました?」


 今日の希美子は挙動不審だ、しかも芳彦と接するときに限って。

 もしかして自分が何かしてしまったのだろうかと、不安そうな顔で彼は覗き込んでいる。

 違う、と大声で言いたかった。けれど恥ずかしくて、それさえもうまく言えずにあうあうと呻くのみ。自分の情けなさに希美子は項垂れてしまっている。


「溜那、向日葵」

「はいっ」

「……ん」


 もう周りに客は一人もいない。

 溜那も向日葵も声を掛けられて、甚夜の方へ走っていく。希美子には軽く手を上げて、「先に出ている」と短く一言。しっかりな、と付け加えて返答も聞かず劇場を出て行った。

 希美子ははっとなって去っていく背中を見た。奇しくも先程とは逆の状況。今度は爺やが、二人きりになれるよう取り計らってくれた。井槌がいつまで経っても掃除をしに来ないのは、そういうことだろう。


「希美子さん……」


 そして目の前には少し悲しそうな芳彦がいる。

 ここまでお膳立てをしてもらったのだ。少しの勇気くらい絞り出さないと、申し訳が立たない。

 やはり恥ずかしいし、今も心臓はとくんとくんと脈打っていて、顔は熱くなりすぎてそのまま倒れてしまいそうだ。

 でも伝えなきゃいけないとは、ちゃんと伝えないといけないんだと思う。

 希美子はそっと彼の手を握り締めた。


「え、あ……」

「芳彦さん、今日はごめんなさい。変な態度を取ってしまいました」


 心はきっと手から伝わる。

 触れ合った暖かさから、胸の内にある熱まで伝わってしまうだろうか。

 そうだとしたらとても恥ずかしいけれど、その想像に鼓動は高鳴る。


「今日は、芳彦さんにお礼を言いたくて」

「お礼、ですか?」

「今までいっぱい助けてくださいましたから。叡善様の時だけではありません。声をかけてくれて、とても嬉しかった」


 屋敷に閉じ込められて、逃げだして。

 好奇心から訪れたキネマ館で、あなたが声をかけてくれた。

 それがどれだけ嬉しかったかなんて、きっと誰にも分からない。 

 ああ、なんだ。

 希美子はようやく理解した。

 彼のことを好きになったんだと思っていた。でも本当は違う。最初から、彼女の想いは何も変わっていない。

 ただちょっと大人になって、周りを見回す余裕が出来たから気付いただけ。


「ありがとうございます。私は、あなたに沢山のありがとうを伝えたかったんです」


 叡善の事件に巻き込まれ学んだこと。

 飾りはいらない、心から溢れ出た暖かさはそのまま形にするものだ。

 ありがとうが、まっすぐ貴方へ届くように、精一杯の笑顔を浮かべる。

 “大好き”までは言えなかったけれど、もう迷うことはない。


 ───ああ、私はちゃんと、この人が好きなんだ。


 真っ直ぐな心に芳彦も顔を赤くして、希美子も真っ赤なまま。言葉は一つもなく、見つめ合うだけで流れる時間。

 動けずにいる二人がおかしくて、どちらからともなく笑みが零れる。

 ああ、こんな状況にこそ憧れていた。きっとこういう状況を言うのだろう。


「まるで、キネマみたい」


 お互いの声が重なって、それが嬉しくて、二人はもう一度笑う。

 希美子にとっての夏雲の唄はそういう話。

 一人の少女がちょっと大人になろうとしている、それだけの話である。






 ◆






 そしてここからは、もう家族には戻れない、彼等の話。

 暦座から出ると空の色が変わっていた。

 陽が傾き始め、そろそろ夕暮れが訪れる。風も雲もない。橙色に染まり切れば、夕凪の空となるだろう。


「初めて見ましたが、よいものですね」


 ふう、と穏やかに息を吐く。

 初めての活動写真に感動したのか、野茉莉は微かに目を潤ませていた。


「楽しんでいただけたようで何よりです」

「思わず魅入ってしまいました。私と夫も幼馴染同士でしたから、余計に」

「ええ、知っています。彼は大層な愛妻家ですから、よく話を聞かされました」

「まあ、あの人ったら」


 幼馴染同士だなんて今更だ。ずっと見てきた、知らない訳がなかった。

 記憶を失くした野茉莉との会話にも少し慣れたのか、胸はあまり痛まない。

 けれど留まることなく歳月は流れ、尚も忘れ得ぬ景色がある。

 あの別れから幾星霜。多くのものを失って、けれどこの手には小さな何かが残って。そんなことを繰り返して辿り着いた今は、決して不幸などではない。

 充知や志乃の我儘に振り回されて笑った。

 希美子が生まれた時は心から嬉しいと思った。

 溜那や芳彦との出会いも、大切だったと胸を張って言える。

 だから歩んできた道程に後悔なぞある筈もなく。

 それでも、野茉莉と過ごした日々は今も色褪せず胸に在る。


「……いい時間ですね」

「ええ、そろそろでしょうか」

「はい。では」


 駅へ戻りましょうか。何の感慨も見せず甚夜はそう言った。

 夕暮の頃には、彼女は染吾郎と共に東京を去る。

 最初からそういう話だ。甚夜は彼女の父ではなく、今日初めて会った案内役。別れを惜しむ理由はなく、野茉莉は微笑みながら頷いた。


「でしたら、おじさま。私達は先に戻っていますね。野茉莉さんと、最後まで一緒にいてあげてください」

「……ん」


 向日葵はどこか曖昧な表情を滲ませ、それを隠すように背を向け歩き始めた。

 甚夜への気遣いか、それとも野茉莉への罪悪感か。彼女にとっても過去の出来事は、小さな傷として残っているのだろう。だから「ああ」と短く返し、深く追求することはしなかった。

 その態度になにかを感じ取ったのか、溜那も素直について行く。

 そうして甚夜と野茉莉の二人だけが残され、どちらからともなく促し、東京駅への道を辿る。


「希美子とは生まれた時からの付き合いで、そのせいでしょう爺やと呼ぶのは」

「京都に来たときは声をかけてください。今度は私が案内をしますから」

「紫陽花の季節は終わりましたから。何か新しい花に手を出すのも」

「夫は、お酒がまったく飲めなくて」


 話題は尽きない。朗らかに会話は弾む。

 本当は、途切れるのが怖かったのかもしれない。

 多分これが最後になる。所詮は他人、今日が終われば、もう野茉莉とこうやって街を歩く機会などなくなってしまう。

 そう思うことが怖かった。だから少しでも長く続けようと言葉を重ね、意識してゆっくりと歩き、けれど無情に時間は過ぎて。

 彼等は再び、東京駅へと辿り着いた。

 見回したが、まだ染吾郎の姿はない。とはいえ既に夕暮。橙色の空は少しずつ藍に変わろうとしている。

 もう時間はない。

 これで、お別れだ。


「葛野様。本当に、今日はありがとうございました。お陰様で楽しい時間が過ごせました」


 深々と頭を下げる野茉莉に、終わりを強く意識する。


「そんな、こちらこそ。貴女と町を歩けてよかった」


 紛れもない本心だ。

 最初こそ驚かされたが、またこうやって野茉莉と町を歩けた。それが素直に嬉しかった。

 けれどお世辞とでもとったのか、「あらあら、お婆ちゃんをあまりからかわないでください」と流した。

 仕方ないことだ。きっと彼女には、甚夜が十八かそこらの若者に見えている。

 ふと振り返り、赤レンガ造りの東京駅を眺めた野茉莉は頬を綻ばせた。その表情はどこか悪戯っぽく、幼かった頃の彼女を思わせた。


「あの活動写真を見た後だと、駅が不思議に思えますね」


 夏雲の唄の少女は機関車に乗って故郷を離れ、東京へとやってきた。

 そういうキネマを見ていた自分が今度は機関車に乗って故郷へと戻る。それを奇妙に感じたのだろう、楽しそうに野茉莉は微笑んでいる。

 夕暮の下、彼女は今も無邪気で。




 ────これからも、家族でいてくれますか?




 横顔に、あの日の面影が重なる。

 いつか離れる手だと知っていた。

 親娘でいられなくなると分かっていた

 もう戻れないと、十分に理解していて。

 だからこそ思う。

 これが最後だというのなら、ちゃんとけじめをつけなければならないのだろう。

 染吾郎も、希美子も、向日葵も。その為の機会をくれた。

 希美子が誰かを好きになって、少しだけ大人へと成長したように。

 先程のキネマのようには上手くいかないだろうけど、いつまでも立ち止まってはいられない。

 小さく息を吸う。夏の熱気で肺を満たし、一気に吐き出す。

 甚夜は決意と共に、真っ直ぐ野茉莉を見た。


「……野茉莉さん、貴女に聞きたかったことがあるのです。しばしの時間、よろしいでしょうか?」


 低くなった声。何気なく紡がれた、今までとは色合いの違う言葉に、野茉莉は少しだけ驚いた。

 けれど甚夜の目は今日初めて見るくらいに真剣で、だから茶化すようなことは出来なかった。


「はい、かまいませんよ」

「ありがとうございます」


 落とすような笑みが漏れる。

 横たわる歳月を乗り越えるように。

 甚夜は、多分、ずっと聞きたかったことを問う。


「貴女は……今、幸せですか?」


 記憶を奪われた彼女が、あの日からどんな道を歩いてきたのかは分からない。

 だけど、その果てに辿り着いた今が、貴女にとって幸せと呼べるものだったのか。

 もう家族には戻れないと誰よりも理解しているからこそ。 

 それだけが、知りたかった。


「はい、幸せです。平吉さんと結ばれ、子にも孫にも恵まれ。こんなに幸せでいいのかと思ってしまうくらいに」


 迷いはなかった。

 心を取り出すような穏やかさで、彼女は微笑む。

 そう言った彼女は、本当に嬉しそうで。

 父を亡くした野茉莉の人生が、一片の曇りもなかったのだと信じられた。


「ああ、そうか……」


 嬉しくて涙が零れそうだ。

 心からの安堵に甚夜は深く息を吐く。

 普段の無表情からは考えられない、泣き笑うような頼りない表情で、彼は胸の奥底にある想いを曝け出す。


「それだけが、心残りだったんだ。だけど、逢えて……貴女が幸せだと知れてよかった」


 君の幸せな今が、何よりも嬉しく。

 それを、己が手で為し得なかったことが、少し切なく。

 だけど彼女の今を素直に喜んでやれる、そんな自分が誇らしい。もう家族には戻れないけれど、ちゃんと父親として在れたのだと自惚れられた。

 だからもう十分だ。

 彼女が幸せだというならば、それでよかった。


「葛野、様?」

「すみません、妙なことを聞いてしまって。ああ、ちょうどあいつも来ました。ではこれで。……貴女に会えて、本当に嬉しかった」

「え、あ……?」


 訳が分からないと言った様子の野茉莉。けれど説明はしない。

 貴女の人生に、こんな無様な男は存在してはいけない。今が幸せだというのなら尚更だ。

 揺らぎなく一歩を踏み出し、彼女の横を、かつての景色を通り過ぎる。前方からはのんびりとした歩みで染吾郎が近付いてきていた。


「おう、どうやった」

「どうだろうな。ただ、けじめはつけられたと思っている」

「そか、そんならええわ」


 それだけで十分。

 別れの言葉はいらない。そのまま二人はすれ違い、染吾郎は野茉莉の傍へ。甚夜は足を止めず、互いの距離は遠くなっていく。

 野茉莉はそれを見つめていた。

 遠く、離れていく背中。

 何故だろう。

 ひどく寂しいと思えて。でも、その理由が分からなくて。

 おろおろとしながら、何か言わなきゃ、でもなんて言えばいいのか。

 貴女が幸せだと知れてよかった。その優しい響きが、耳に残っているから。

 だから野茉莉は、まとまらない考えのまま叫んでいた。


「仁哉……です。息子の名前、じんやって言うんです!」


 甚夜は足を止め振り返った。

 叫び声を上げた彼女は、怯えるように体を震わせながら、それでも真っ直ぐに前を見ている。

 目には夕暮れの日を受けて橙色に光る輝きが。

 いつの間にか、彼女の瞳からは涙が溢れていた。

<東菊>は記憶を消去する<力>。一度消えれば蘇ることはない。

 だというのに、何故彼女は泣いているのか。

 その理由は分からない。けれど胸の内にあるなにかを叩き付けるように、彼女は声を絞り出す。


「娘が生まれたら“ゆうなぎ”、息子が生まれたなら“じんや”。そうしようと、決めていたんです。私が、息子の名前は私が。貴方に。あなたには、伝えないと、いけないと思って。だから……っ」



 ───じゃあね、私が父様の母様になってあげる。


 懐かしい、舌足らずな声が耳を擽る。


 ───父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの。


 幼い彼女はそう言ってくれた。

 母親になる。子供が口にした、他愛のない約束。

 ああ、だけど。

 彼女はちゃんと約束を守ってくれた。

 記憶を消され、家族ではなくなり。

 それでも“じんや”の母になってくれたのだ。


「……ありがとう。お礼をしなくてはいけないな」


 小さな呟きと共に、有り得ない景色が広がる。

 雑然とした東京駅は消え去り、夕暮れの空の下に広がる草原。 


「<空言>……お前の母の<力>だ」


 燃える草に赤、黄色、白。色とりどりの小さな愛らしい花々。オシロイバナが、幻影の草原に咲いている。

 野茉莉は、オシロイバナの異称。

 だから、夕暮れは彼女の時間だった。


「これ、は……」


 突然の情景に混乱し、けれど咲く花の優しい色彩に胸が詰まる。

 野茉莉は瞳に溜まった涙を押し流すように一度目を瞑り。

 そうしてもう一度開いたその時には。

 オシロイバナの草原も、甚夜の姿も消え去っていた。






 * * *





 甚夜はゆったりと町を歩く。 

 別れの寂しさは確かに在って、けれど胸には暖かい何かが灯って。 

 溢れる熱が抑えきれない微笑となって零れ落ちる。悪くない気分だった。


「じいや」


 幼げな声に呼び止められる。

 目を向ければ、既に帰ったと思っていた溜那が、道の端で何処か不機嫌そうな顔をしていた。


「どうした、溜那」

「まってた」


 そう言うと、とてとて甚夜の傍まで近寄り抱き付くように腕を取る。

 そのまま彼を見上げ、頬を膨らませ、どこか拗ねた調子で問うた。


「さっきの人は?」

「もう帰った」

「どういう人? こいびと?」


 先程はあまり喋らなかったが、なんだかんだ気になってはいたらしい。

 その様子は随分と昔、兼臣との同居を嫌がって、拗ねた野茉莉を思い出させる。だから思わず苦笑して、軽く頭を撫でながら答えた。


「娘だよ」


 心が軽くなったせいだろう。

 躊躇うことなく娘だと言えた。


「むすめ?」

「ああ、本当に大切だった。久しぶりに会えたんだ、今夜はいい夢が見られそうだ」

「……ん」


 二人は腕を組んだまま、また歩き始める。

 溜那はやはりむくれた顔。困ったな、なんて言いながらも甚夜はどこか嬉しそうだった。

 失くしたもの、手に入れたもの。

 どちらも大切で、優劣などつけられない。

 けれどいつかの夕暮れから少しだけ前に進めた今なら。

 これから何を失くしたとしても、その先で見つけた大切なものを、ちゃんと大事にできるだろう。

 そしてかつての眩しさに目を焼かれ、今を見失うこともない。

 だからさようなら、野茉莉。

 忘れることはなくとも、もはや未練はない。

 見上げれば藍の空。

 瞬く星を眺めながら、甚夜はいつかの日々に別れを告げた。






 * * *






「ったく、派手なことしよって。ああ、そういやお師匠からの伝言、あいつに伝えんの忘れとった。……ま、ええか。俺から言ってもしゃあないし」


 ぶつぶつと文句を言いながらも染吾郎はどこか嬉しそうだ。

 ほな、野茉莉いこか? そう促すが妻は動こうとしない。

 寂しそうに、あの男が去っていった方を呆然と眺めている。


「平吉さん、彼は……誰だったのでしょうか?」


 野茉莉の記憶は戻らない。

ふとしたきっかけに甚夜を思い出す、そんな奇跡は起こり得ない。

 東菊と懇意だった染吾郎は、それをよく知っている。だからこそその問いに少しだけ躊躇った。

 あいつはお前の父だ。そんなことを言っても彼女は混乱するだけ、なによりあの男は喜ばない。

 不器用で、馬鹿が付くほど娘に甘い父親だった。思い悩む野茉莉なんて見たくもない筈だ。

 ならば、と染吾郎は肩の力を抜いたまま、ゆったりと笑った。


「さあな。そいつはいつか、本人に聞いてやれや」


 そう言いながらも思う。あいつはもう二度と、彼女に会おうとはしないだろう。

 それでもよかった。明確にしなければ、心残りとして野茉莉の中によく分からない青年の存在は残る。

 父親としては在れなくても。

 彼女は、小さな思い出として、あいつを覚えていてくれるだろう。


「そろそろ、汽車来んで。急がな」

「……あ、そうですね。行きましょうか、あなた」


 老夫婦は東京を去る。

 染吾郎の予想は正しく、二人はその後二度と甚夜に出逢うことはなかった。

 しかし時折思い出話として、不思議な青年が出てくる。


“そう言えば、昔皆で活動写真を見に行ったじゃないですか。ああ、その時には貴方はいませんでしたね”


 なんて、妻はからかい、夫は苦笑で返す。

 下らない雑談だ。けれどそれが染吾郎には嬉しかった。

 失くしてしまった、あの騒がしい蕎麦屋での毎日が、戻ってきたように思えた。










 平成において映画はありふれたものでしかない。

 しかし大正時代、活動写真は大衆娯楽の王様だった。

 ある人は活動写真を見て、大日本帝国の近代化を誇り。

 またある人は美しい映像に心を打たれ。

 紡がれる恋物語に自分を重ねたり、誰かと一緒に見て和やかに昔を振り返ったり。

 色々な想いを銀幕に写し、大衆はキネマを愛した。

 だから、もしかしたら。

 紛れ込んだ鬼が“夏雲の唄”を見て過去と向き合ったり、子爵令嬢が誰かへの恋を自覚したりなんてことも、あったのかもしれない。

 つまりこれは、そういう話。

 なんてことはない。

 大正の世、帝都では活動写真が大流行していた。

 ただ、それだけの話である。











 2009年 7月


 そうして時は戻り現代。

 甚夜は夏雲の唄のDVDを手に、過ぎ去った日々を思い返していた。


「……ねえってば」


 ただ少しばかりその時間が長かったらしい。

 隣にいるみやかは急に黙り込んで固まったままの甚夜の様子を心配そうに伺っていた。


「ああ、済まない。少し、懐かしくてな」

「ふうん。それ、面白いの?」

「いいや。物語としては陳腐だな。ただ大切な人と共に見た。だからだろう、映画と言うとこれを思い出す」


 キネマは大衆娯楽の王様だった。

 年若い少女には分かり難いだろうが、多くの者が銀幕に様々な想いを映し眺めた。

 甚夜もまたその一人。かつての熱情が過り、落とすような笑みは普段の表情からは想像できないくらい優しい。

 その横顔に、みやかは不覚にもドキッとしてしまった。 


「へえ……どうするの、買う?」

「そう、だな。買ってみるか」

「いいんじゃない? あれ、でもDVDプレイヤー持ってた?」

「ん? ビデオデッキならちゃんとあるが」

「……一応言っておくけど、DVDはビデオデッキじゃ見れないから。いや、そんな“何故だ?”みたいな顔されても」


 どうやらDVDとビデオの違いが分かっていなかったらしい。

 本当に、彼はこの手の機械関係には弱い。刀持っているとすごく頼りになるのに、こういうところは抜けている。


「なんだかなぁ……。あーもー、分かった。お昼食べたら電気屋に行こ? 安いプレイヤー見てあげるから」

「……世話になる」


 素直に頭を下げる甚夜が面白くて、みやかはくすくす笑っている。

 そうと決まれば腹ごしらえだ。適当にファーストフードでも探そう。


「じゃ、まずはご飯ね」

「ああ、詫びと言っては何だが、昼は奢ろう」

「ホント? じゃあ牛丼、ごぼうサラダ付きで。あ、吉田屋でいい?」


 吉田屋の牛丼。

 夏雲の唄のせいだろう、甚夜は懐かしい遣り取りを思い出していた。


『爺や、大変です! 最近巷には“ぎゅうどん”なる食べ物が流行っているそうなんです!』

『ぎゅうどん……ああ、吉田屋の牛丼ですか。私も以前食べました』

『そうなんですか? なら行きましょう! 爺や、ごーです、ごー!』

『すみません志乃お嬢様、まだ仕事中なので背中から降りて貰えると』


 大手牛丼チェーン吉田屋は、明治三十九年創業。

 一号店は東京の日本橋である。東京にしばらく住んでいた甚夜は、志乃にせがまれて何度か店に行ったことがあった。


「ああ、久しぶりに悪くない」

「そう? それなら決まりね」


 炎天の下、二人は軽やかに街を歩く。

 鼻歌交じりに前を歩くみやかは随分と楽しそうだ。

 その姿を眺めながら、落とすように微笑む。

 皆で一緒に活動写真を見た。そんな些細な思い出を、今も時折思い返す。

 変わるものは多いけれど、なくならないものは確かにあって。

 だからきっと、いつかこの瞬間を振り返り、大切な日々だと思う時が来るのだろう。

 夏休み前の、なんでもない日曜日。

 空は低く、青く晴れ渡っている。

 まだまだ暑くなりそうだと、甚夜は手で光を遮りながら空を仰いだ。















 後日。

 昼休みの教室で、みやかはお弁当を食べながら友人である梓屋薫にこの日のことを話した。


「……みやかちゃん。それって、ふつーにデートだよね?」

「はあ!?」


 そんな指摘を受けて、もう一騒動あったのはまた別のお話である。






余談「夏雲の唄」・了

       




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