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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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134/216

余談『夏雲の唄』・3




 留まることなく歳月は流れ、尚も忘れ得ぬ景色がある。

 例えば夕凪の空の下、手を繋いで二人歩く京の町。


『じゃあね、私が父様の母様になってあげる』

『父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの』


 触れた掌から伝わる暖かさ。

 見慣れた筈の町並みが何故か優しく見えて。

 無邪気に笑う幼い娘、つられるように笑みは零れた。


『私は父様ほど長くは生きられないから……いつか、あなたを置いて行ってしまうけど』『これからも、家族でいてくれますか?』

 

 例えば長く伸びた重なる影。

 幼い頃よく訪れた神社、夕日に映し出された想い。

 歳月は流れ、大人になって。それでも家族でありたいと願ってくれた。


『や、だよ』

『忘れたく、ないよぉ……』


 ……留まることなく歳月は流れ、尚も忘れ得ぬ景色がある。

 例えば、遠い雨の夜。

 本当に大切で、何よりも守りたくて。

 なのに、どうしようもなく零れ落ちていった幸福を、今も時折思い返す。

 もはや間遠の夢、手の届かぬ水泡の日々だ。


宇津木うつぎ野茉莉のまりと申します」


 野茉莉は静々と丁寧にお辞儀をする。

 初対面の青年に対する挨拶。そこに親愛の情など在る筈もなく、紡がれた言葉の穏やかさに甚夜は意識を取り戻した。


「これはご丁寧に。私は葛野甚夜。今日は平吉殿の代わりに、貴女を迎えに参りました」


 彼もまた初対面の老淑女に対し、礼儀正しい態度で応じる。

 そこには一分の乱れもない。

 長くを生き、表情を取り繕うのにも随分と慣れた。この程度で動揺を外に出すようなことはない。

 止まった心臓が動き出す。

 流れる懐かしい景色も塞き止めて、気付かれぬよう深く息を吸えば、荒れた胸中も落ち着いた。

 落ち着いてしまったことが、平静でいられる自分が少しだけ悲しかった。


「はい、事前に夫から聞き及んでおります」

「……そうでしたか。ああ、これを。平吉殿から預かったものです」


 懐より便箋を取り出し、野茉莉に差し出す。

 ありがとうございます。丁寧にお辞儀して受け取った彼女は、中から手紙を取り出し、書き連ねられた文字を視線で辿った。

 読み終えると、たおやかな───記憶を揺り起こす───微笑みが浮かぶ。


「お待たせしました。では葛野様、申し訳ありませんが、今日はよろしくお願いします」


 彼女はもう一度礼をして、ゆっくりとそう言った。

 意味が分からず返答に困っていると、同じように野茉莉も不思議そうな顔でこちらを見ている。


「すみません。先程の手紙、見せて頂いても?」

「ええ、構いませんが」


 了承を取り手紙の内容を確認させて貰う

 雑に書かれた文字の羅列を見て、思わず甚夜は眉を顰めた。



『済まない。待ち合わせの時間に行けなくなってしまった。

 夕方頃には駅に着くが、慣れない東京で一人待つのは不安だろう。

 俺が着くまでの間は、目の前の仏頂面に東京案内でもしてもらうといい。

 なに、迷惑だなと思う必要はない。この提案は彼からしてきたものだ。

 彼は俺に恩義を感じており、こういった機会に少しでも返したいと言っている。

 ここは彼の為にも、素直に応じてやってはくれないか』



 これが手紙に記されていた文章である。

 ……やられた。

 染吾郎は端からこうするつもりだったのだ。

 甚夜と野茉莉を引き合わせ、話す機会を作る。

 それで何が変わる訳でもない。いつかの記憶が蘇ることはなく、歳月は既に流れ去り、二人はもはや家族には戻れない。

 しかし野茉莉のことは甚夜の傷だ。それを慮ったのだろう。逃げずにけじめをつけろと染吾郎は、宇津木平吉はそう言っている。


「失礼しました……そこに記されている通り、夕方まで観光がてら私が案内をさせていただきます。なにか、ご希望はありますか?」


 平然とそう言ってのけたのは平吉の気遣いへ報いる為。

 言えたのは流れた歳月と、報われた今がある為だ。

 失ってばかりではなかった。充知や志乃と過ごした、彼等の娘である希美子を見守ってきた。溜那との出会い、過ごした毎日。なにを失ったとしても道行きの途中、大切なものは増えていく。

 失ったものがどれだけ多くても、それに遠慮して下を向く必要はないと、積み重ねた年月が教えてくれた。

 野茉莉と過ごした日々が変え難き幸福であったように、充知等との出会いもまた掛け替えのないもの。

 だから胸中は複雑ではあるが、比較的冷静に接することができた。


「いいえ。何分東京は不慣れで。行き先は葛野様に任せてしまっても宜しいでしょうか?」

「分かりました。では」


 その分、上滑りをするような会話だとも思う。

 何も知らぬ彼女の前で、知らぬふりをする。かつては家族を演じ、今度は他人を演じるのだ。茶番狂言にしても出来が悪い。

 しかし何処かでけじめは付けなければいけない。

 これが茶番狂言だというのなら、オチはどうすればいいのだろうか。

 何も見えないまま流されるように、甚夜は野茉莉と共に歩き始めた。






 ◆






 同時刻、希美子はいつになく緊張し、暦座の前で立ち尽くしていた。

 あまりの緊張から爺やについてきて貰おうと思っていたのだが、「それは流石に」と断られてしまった。 

 考えてみれば今回の目的は芳彦への好意を明確にすること。それに他の男を連れていくというのは、確かによろしくない。実年齢百歳とはいえ、外見上は十八かそこらにしか見えないのだから余計だ。

 希美子は素直に頷き、こうして一人で暦座へと訪れた。


「溜那さん、隠れられてませんよ?」

「ん……」


 違う。一人、ではなかった。

 物陰から溜那が応援してくれている。隠れているつもりらしいが、体が半分くらい見えているし呆れた様子の向日葵が傍らにいる。当然希美子も気付いており、苦笑いを浮かべていた。

 向日葵は護衛目的だが、溜那は事の顛末を見届ける為ついてきたのだろう。

 つまりは純粋に心配してのこと。今迄同年代の友達なんていなかった。そういう心遣いは初めてで、なんとなくむず痒く、とても嬉しかった。


「……行きます」


 別に恋人に為ろうという訳ではない。そもそも好意はあってもそれが友愛か恋慕かは彼女自身よく分からなかった。

 ただ自分の心だから、はっきりさせたいだけだ。

 きっと想いは手から伝わる。

 だから手を握って、真っ直ぐに目を見て、沢山のありがとうと沢山の大好きを伝えよう。

 希美子の年齢から考えれば拙い、童女のような機微。それでも彼女にとっては初めての、大切な想いだ。


「あ、でも、やっぱり今日は日が悪いですし、また今度に……」


 とはいえ、初めてだからこそ中々一歩を踏み出せずにいる。

 有体に言えばとてつもなく恥ずかしかった。

 殿方に面と向かって好きと伝える。それはもう告白なのでは? と今更ながら思ってしまい、顔を真っ赤に染め暦座の前をうろうろとしている。傍目には完全な不審者だった。


「きみこ……」

「初々しいですね。というか、いつ入るんでしょう」


 生暖かい目で見ている少女達のことは完全に頭の外だ。

 よし、そろそろ。いや、でも。既に四、五回はそれを繰り返している。


「いえ、女は度胸です。……あ、でももっとお洒落をしてきた方がよかったかもしれませんし、やっぱり日を改めて」

「おーい、嬢ちゃん。入んねえのか?」

「ひゃい!?」


 咄嗟に出てしまった小さな悲鳴。

 いきなり呼び止められ、希美子は驚きに体を震わせる。慌てたまま声の方に向き直れば、そこには暦座の新しい清掃員である井槌がいた。いつまで経っても入ろうとしない少女を訝しんで、一応様子を見に来たらしい。


「ごご、御機嫌よう、井槌さん」

「おう、お嬢様って感じな挨拶だなぁ。いや、いいなそういうの」


 妙なところで感心して、井槌は豪快に笑う。

 しかし希美子の傍らに誰もいないのを確認すると、少しだけ顔を顰めた。


「しかしよ、一人で出歩いてると危ねえんじゃねえか?」

「え? で、ですが、叡善様の件はもう終わりましたよ?」

「世の中には妖怪爺よりももっとおっかないのがいるんだよ」


 例えば女なら何でもいい軟派な学生、或いは身代金目当ての誘拐しでかすような奴。

 井槌から見ても希美子は人目を引く容姿であり、身だしなみも整っている。子爵令嬢という付加価値まである。素行の悪い男達からすれば、かなり“おいしそう”な娘だ。

 そういう意味で危ないと言ったのだが、当の本人はよく分かっていないらしく、こてんと首を傾げて不思議そうにしていた。


「ま、お目付け役がいるみたいだからいいけどよ」


 無頓着な希美子が多少心配だったが、ちらりと横目で見れば二人の少女がこちらの様子を窺っている。井槌の位置からもその姿が確認できるのだから、まったくもって隠れられてはいなかった。

 とはいえ、見た目多少頼りないが、あれでも向日葵は高位の鬼。チンピラ程度ならどうにかする。

ならば過度な心配も必要ないだろう。早々に話題を切り上げ、今度は暦座の従業員として接する。


「そんで結局入んねえのか? もう上映始まってんぜ」


 井槌としては別段妙な発言をしたつもりはなかった。

 しかし何故か希美子はびくりと体を震わせ、頭のてっぺんから爪先まで金属の棒でも通したかのように固まっていた。


「いえ、今日はあの。その、ですね。芳彦さんに用事が……」


 なんとか絞り出した声も非常にぎこちない。

 そこは年頃の少女、流石に胸の内を知られるのは恥ずかしく、頬を染めて言葉を濁す。

 けれど取り敢えずの用件は伝えられた。これで彼を呼び出してもらえると思ったのだが、井槌は少し申し訳なさそうに片目を瞑った。


「ああ、すまねえ。芳彦先輩ならいねえんだ」

「え?」

「館長になんか頼まれたらしく、秋津の四代目んとこまでお使いだよ。んで、それが終わったら今日は休みだ。ま、病み上がりだしな。館長も、無茶しねえように適当な理由付けて仕事から遠ざけたんだろ」


 それを聞いて一気に脱力する。

 緊張していたのが馬鹿みたいだ。とはいえ、それなら仕方ない。

 ここは一度帰って、準備を整えてからまた芳彦の所へ。


「では行きましょうか、希美子さん。道案内ならば私にお任せあれ」


 そう思っていたのに、いつの間にか向日葵が傍にいた。

 なんで、と困惑する希美子の手をしっかりと握り、引きずるように歩き始める。


「ひ、向日葵さん? あの、でも芳彦さんがいないので」

「大丈夫です。私の<力>は<向日葵>、その本質は設定した対象への遠隔視。芳彦君がどこにいても把握できます」


 向日葵の表情はにっこりと柔らかいものの、目は笑っていなかった。

 先程からうろうろとしている希美子を眺めていたのだ、苛立ちというほどではないが若干焦れていた。

 このままでは話が進まない。もう無理矢理にでも引き合わせよう、という考えである。


「そうでなくて、やはり出直した方が」

「いいえ、駄目です。今のを見ていて分かりました。このままだとずっとぐるぐる回ってますよ絶対」


 にべもない。その上容姿は九歳くらいの幼い娘だというのに、流石鬼とでもいうべきか、意外と力が強く振り解けない。

 向日葵は案外この件に乗り気なのか、どんどんと進んでいく。当然希美子も引っ張られ小走りになってしまう。

 これはいけない。まだ心の準備ができていないといのに。慌ててもう一人に助けを求める。 


「溜那さん、た、助け」

「きみこ、がんばれ」


 しかし溜那は溜那でぐっと両の拳を握り、心からの激励を贈ってくれた。

 嬉しいのに有難くない。最近はよく喋るようになったとはいえ、まだ一般の感覚は備わっていないのか。好きな人の前で尻込みしてしまう乙女心は彼女には理解してもらえないらしい。


「さあさ、行きましょう希美子さん」

「ん」

「すみません、待って! 待ってくださいぃ……」


 あれである、もはや乙女心とか言っている場合ではない。

 希美子の目が潤んでいるのも仕方ないことだろう。人攫いに連れて行かれるような悲しい声を漏らしながら、三人の女達は暦座の前から立ち去る。


「……なんだありゃ?」


 残された井槌は、呆然と呟くしか出来なかった。






 ◆






 藤堂芳彦は目の前の奇妙な光景に目を丸くしていた。

 以前のように染吾郎へ弁当を届けたその帰り。休みが貰えたこともあり、散策がてら寄り道をしていると、見知った顔をカフェーに見つけた。


「夫とは、どのような?」

「以前、京に住んでいたことがあります。その際、お世話になりました」

「そうなのですか。その時に顔を合わせたことは、ありませんよね?」

「はい、残念ながら」


 道に沿って並べられたテーブルの一つ、老淑女と向かい合ってコーヒーを啜る年若い男は、実に寛いだ様子で話をしている。

 それ自体は別に不思議ではない。一見すれば祖母と孫の会話だ。しかしその男は芳彦の知る、御年百歳になる鬼なのだから混乱するのも無理からん話だろう。


「爺やさん……?」


 あれ、本物?

 あんぐりと口を開けて眺めていた芳彦は、咄嗟に隠れてその様子を伺う。

 普段ならば希美子や溜那と一緒にいるか、庭師の仕事に従事している彼が、見知らぬ老婆と和やかに話をしている。

 芳彦は甚夜と特別親しい訳ではなく、知っていることも然程多くない。

 百歳になる鬼で、剣一本で鬼を討つ剣豪で、向日葵と溜那の叔父で、生まれた時から貴美子の世話をしている庭師の“爺や”。

 話してみた印象は、十八かそこらにしか見えない容姿とは裏腹に随分と落ち着いた男性。普段無表情で喋り方も固く明るい性格ではない。しかしなんだかんだ希美子や溜那には甘く、芳彦のことも気にかけてくれている“いい人”である。


「それにしても折角のお休み、付き合わせてしまって申し訳ありませんねぇ。こんなお婆ちゃんが相手ではつまらないでしょう?」

「なにを。貴女との逢瀬に文句などある筈もない」

「あらいやだ、お世辞ばかり」


 そう、いい人なのだ。

 芳彦の中の爺やは、間違ってもあんな軽い口説き文句みたいなのをさらりと言う男ではない。しかも相手はお婆さん。なんだこれ、と割合本気で頭を抱えてしまう。


「えー、なにこれ……」

「おじさま……用があると言っていたのは、このことだったんですね」

「へ?」


 その時、背後からいきなり聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。

 驚いて振り返れば、品の良い着物を纏った九歳くらいの幼げな娘。向日葵が目を細め、甚夜の前に座っている老淑女をじっと見つめている。


「ひ、向日葵ちゃん? い、いつの間に……」

「わたしも」

「溜那ちゃんまで」


 溜那に至っては、爺やに近付く見知らぬ女を「泥棒猫め」とでも言いたげな険しい表情で睨み付けている。

 艶やかな黒髪を編み込み、白のワンピースを纏った美しい少女は、夜叉もかくやという形相だった。

 この二人がいるということは、とその背後を見ればやはりと言うべきか、希美子の姿もある。

 こちらは何故か泣きそうな顔で俯いて、そわそわとどうにも落ち着かない。


「希美子さん……どうかしましたか?」

「は、はい!? え、ええ、よいお日柄ですね!」

「え?」

「……すみません、ちょっと混乱してました。御機嫌よう、芳彦さん」


 裏返った甲高い声で生返事する希美子。本当にどうしたのだろう。

 更には「きみこ、しぃー」と溜那がそれを嗜める。随分と珍しい光景だ。

 そんな中で向日葵だけが冷静。周りの空気が冷たくなる程の張り詰めた様子でカフェーの方を凝視している。


「皆さん静かに。おじさまに気付かれます」

「は、はい。ごめんなさい。……あれ、僕なんで謝ったの?」


 別に気付かれたら気付かれたでよくない?

 そう思ったが、向日葵のあまりの真剣さに口を挟めなかった。それくらい彼女は張り詰めていた。

 幼げな容姿には似合わぬ硬さ。突けば壊れてしまいそうなほどだ。


「野茉莉さん……」

「あれ、向日葵ちゃん、あの人のこと知ってるの?」

「詳しくは話せませんが、一応は」


 芳彦は不思議そうにしているが、これに関しては話せない。

 なにせ野茉莉の記憶を奪ったのは東菊、向日葵の妹である。

 彼女自身も、その件には一枚噛んでいる。本当ならば、甚夜に恨まれても仕方のないくらいのことをしているのだ。

 向日葵は言葉にせず、心の中で呟く。

 あなたたちが大好きな爺やの娘の記憶を消し親友を殺し、居場所を幸福を奪ったのは私達なんです。

 そんなことを言えるほど厚顔ではない。

 言い様のない複雑な心境に、知らず唇を噛んでいた。


「……もしかしたら、あの人」

「希美子さんも、知ってるんですか?」


 少しは落ち着いたらしく、希美子も芳彦から少し距離を取った位置で甚夜のことを見つめている。

 そこで何かに気付いたのか。目を見開き、頬を緩ませ、どこか楽しげに言う。


「いえ、そうではありません。ですがカフェーでデイトをして、爺やもあんなに楽しそうですし……もしかしたらあの女性、爺やの初恋の人なのかもしれません!」


 出てきた意見は突飛過ぎて付いていけないものだった。


「えーっと、初恋、ですか?」

「はい! 爺やは今年で百歳ですし、お相手があの方でもおかしくないでしょう?」

「確かに、年齢的には」

「それに、幼馴染、だったでしょうか。昔結婚の約束をした人がいると言っていました。ですが上手くいかなかったとも。ええ、きっとそうです。爺やは鬼、幼馴染さんは人。結婚できなかったのはそのせいなんです、きっと!」


 きゃー、と興奮して歓声を上げる。

 どうやら女性の方が年老いているのを見て、若いままの甚夜、年老いた女性の種族違いの恋物語を想像しているらしい。

 顔を上気させて、自分の言葉にうんうんと頷いている。


「共に歳を取れない二人。傍にいられず、けれど恋慕は途切れず。すごいです、まるでキネマみたいです!」


 大層なはしゃぎっぷりである。

 そんなに大きな声を出すと気付かれますよ。そう言おうとしたが、横目でカフェーを見ると既に甚夜達の姿はなく。

 あれ? と思ったがそれも遅かった。


「……往来で騒ぐのは、止めた方がいいな」


 直ぐ近くで聞こえる鉄のような声。

 錆びた機械のようにぎしぎしと体を軋ませ、なんとか目を向ければそこには六尺近い大男。

 既に会計を済ませ、通りで騒いでいる芳彦達を見つけた甚夜は、四人の傍らで溜息を吐いていた。


「あは、ははは……」

「えーと、爺や。その、御機嫌よう?」


 覗き見をしていた全員の顔が引きつる。

 硬い表情を崩さない甚夜と、その傍らで希美子達の所作を楽しそうに見ている女性。

 彼等の逢瀬をネタに面白がって笑っていたのだ、ばつが悪いどころの話ではない。

 怒っていないようではあるが、甚夜はあからさまに疲れた顔をしている。

 心底呆れたと言わんばかりの表情は、下手に怒られるよりも精神的に辛い。


「ごめんなさい!」


 勢い良く頭を下げ、四人同時に謝罪する。

 謝ればそれ以上何も言うつもりはなかったのか、仕方のない子達だと甚夜は苦々しく眉間の皺を寄せるだけだった。

 野茉莉もその遣り取りを微笑ましく眺めている。

 けれどその光景を見ても、何かを思い出すことはなかった。






 ◆






 江戸は随分と様変わりをした。

 帝都と呼ばれるようになったこの町は、近代的なビルヂングと旧態然とした和式の建築物が混じり合い、雑多な印象を受ける。

 しかし古い建物は少しずつ壊されていく。

 そう言えば、瑞穂寺はまだ残っているだろうか。

 元々廃寺だった上に、江戸の頃に「人を喰う鬼が出る」と噂されていた。明治の廃仏毀釈もある。おそらくは既に取り壊されている。そう思うと少しだけ寂しくもあった。

 瑞穂寺で、夕凪と───野茉莉と出会った。

 他の者には薄気味悪い廃寺だったろうが、甚夜にとっては思い出深い場所だ。それも時代の流れに消えていく。

 かつて江戸と呼ばれた、野茉莉と共に過ごした町は、もう何処にもない。

 近代化する中、変わり往く町並み。

 けれど行き過ぎた発展は付随する心を顧みない。

 或いは、この景色をこそ南雲柳観は忌避していたのかもしれない。真新しい洋風の建物を見ていると、なんとなしにそう思えた。


「秋津さんの奥さん?」

「はい、野茉莉と申します」


 甚夜から軽い注意を受けた後は、揃って町を見て回ることになった。

 道すがらそれぞれ名乗りと一言二言挨拶をし、雑談を交わす。その途中で件の女性が秋津染吾郎の妻だと知り皆驚いた様子だ。

 ああ、だから爺やとも知り合いなのかと向日葵以外は納得し頷く。希美子辺りは種族を越えた恋だなどと語っていたのが恥ずかしいのか、顔を赤くして俯いていた。

 しかし京都で野茉莉。その響きに聞き覚えがあった芳彦はうんうんと唸り、ようやく思い出してポンと手を叩いた。


「あ、思い出した。あんぱんだ」


 あんぱん、ですか? と希美子は少し離れた位置で問う。

 なぜか今日は微妙に距離が遠い。それを疑問に思いながらも芳彦は答えた。


「この前、秋津さんから京都のお土産って野茉莉あんぱんって言うのを貰ったんです」

「ああ、それは、恥ずかしながら私の名前を取ったお菓子なんです」

「あ、やっぱりですか?」


 野茉莉は照れながら表情を柔らかくした。

 遠くを眺め、懐かしむように目を細める。


「名前は、父が付けました」


 血は繋がっていませんが。

 そう付け加えた言葉に、甚夜は表情も変えない。歩みに乱れもない。ただどくんと鼓動が大きく跳ねた。

 その変化に誰も気付かない。皆野茉莉の話に集中している。

 彼自身も次の言葉を待っていた。


「私は元々捨て子で、三橋屋という菓子屋に拾われ育てられました。野茉莉あんぱんは義父の考案したお菓子で」

「ああ、だから娘さんの名前を?」

「はい、本当に豊繁さんは親馬鹿でしたから」


 彼女の中では、そういうことになっている。

 捨てられていた野茉莉を拾ったのは三橋豊繁。かつて甚夜が経営していた鬼そばの隣にあった和菓子屋、三橋屋の店主である。

 野茉莉は既に亡くなった豊繁を父として慕っていた。今まで世話をしてくれた恩義もある。染吾郎との結婚の際、色々と準備をしてくれたのも彼だった。

 東菊に記憶を消去・改変された野茉莉にとって、血の繋がらない父とは豊繁のこと。そこに誰かが入り込む余地はない。

 だから甚夜は野茉莉の前から姿を消した。

 傍にいたところで異物として見られるだけ。それに耐えられなかったから、彼は逃げたのだ。


「素敵です」と希美子が憧れに目を潤ませ微笑む。

「ふふ、ありがとう……あっ」


 話ながら歩いていたせいで、足元が疎かになっていた。

 野茉莉は道端の小石に蹴躓き体勢を崩す。そのまま転びそうになった瞬間、言葉もなく甚夜が近寄り、倒れ込むより早く痩せ細った身体を支えた。


「大丈夫ですか、野茉莉さん」

「え、ええ。すみません、葛野様」

「いえ、お怪我が無ければなによりです」


 表情も変えずに、さりげなく手助けをする。

 先程カフェーで話していた時とは違う、いつも通りの甚夜の姿だ。その様子に芳彦は、やっぱりこちらの方がしっくりくると笑みを浮かべた。

 向日葵は先程から無言。むっつりとした表情からは何も読み取れず、溜那も特に気にした様子はない。


「爺や……?」


 ただ希美子だけが、何故か不思議そうに甚夜を見ていた。

 今の態度に引っ掛かるところがあったのか、彼の行動に疑問符を浮かべている。

 しかし答えは見つからなかったようだ。其処からは次第に口数も少なくなり、いつの間にか会話をしているのは甚夜、野茉莉、芳彦の三人だけ。途中で溜那が相槌を打つ程度になってしまった。


「あ、そこが暦座です」


 そうしてしばらく歩き、芳彦が指差した先にはシックな洋風の建物。

 東京観光というのなら娯楽の王様を味合わなければ、というのが暦座の従業員としての提案だ。

 案内を頼まれたとはいえ甚夜も名所などに詳しい訳ではない。これは助かると同意し、野茉莉もキネマ館など初めてらしく乗り気で、午後の予定は活動写真観賞となった。


「おう、芳彦先輩お帰り……ってなんだぞろぞろと?」


 チケットを入り口で買い館内へと入れば、井槌が眉間に皺を寄せた。

 先程意味の分からない遣り取りを交わし去って行った希美子らが戻ってきた。しかも三人ほど人数を増やして。意味が分からないといった顔になるのも当然だろう。


「六人だ、よろしく頼む」

「おお、全員見てくのか。いやそりゃいいんだがな」


 チケットを受け取り、端っこをちぎって返す。

 その最中も井槌の視線は野茉莉に固定されている。


「染吾郎の細君だ」

「四代目の? ほう、そいつはまた」


 なにか問われるより早く井槌に耳打ちをしておく。

 納得したのか、ひらひらと手を振りそれ以上の挨拶はなかった。


「今日の演目は“夏雲の唄”です。活動写真最初期の作品で、今も愛され続けている名作ですよ」

「そうなのですか、楽しみです」


 キネマが初めてだという野茉莉に、芳彦は色々と語って聞かせている。

 受付を済ませた六人は劇場へと入った。やはり暦座は連日盛況、席もかなり埋まっている。座れるところを探していると、希美子がくいくいと甚夜の袖口を引っ張った。


「どうした?」

「あの、爺や。皆一緒には座れそうにないですから、ばらばらに座りましょう。私達はあちらにいきますから、爺やは野茉莉さんとそこの空いている席に」


 入り口から右奥の席は、少し詰めて貰えば六人全員で座れる。にも拘らず希美子は二手に別れようと提案した。

 その意を探るように目を見れば、返ってくる笑顔。どこか気遣わしげに微笑む少女は、いつもより大人びて見える。

 そのまま彼女は視線を逸らし、甚夜に何かを言われる前に芳彦の手を取った。


「さ、芳彦さん。あちらに」

「え? でも、あっちなら詰めてもらえば」

「早く行きましょう? 向日葵さん、溜那さんも」


 先程までは近付くだけで照れていたのに、希美子は手を繋いだまま席へ向かった。

 勿論意識していないからこそ取れた行動だ。思い出したらまた顔を真っ赤にしてしまうだろう。

 何故希美子が態々甚夜らと別の席に座ろうとしたのか、芳彦には分からない。けれど甚夜の過去を、野茉莉との関係を知っている向日葵には察しがついた。


「……そうですね。ではおじさま、また後で」

「ん」


 だから割合素直に希美子の提案に乗り、溜那も思うところがあるのかそれに倣った。

 結果として甚夜と野茉莉だけが残され、すぐ近くにちょうど二人並んで座れる席がある。


「ここで、構いませんか?」

「ええ」


 期せずして二人きりとなり、並んで席に着く。

 あからさまな希美子の態度に、気を遣わせたなと小さく苦笑が零れた。




 ◆




「ごめんなさい、芳彦さん。勝手をしてしまって」

「それはいいですけど……どうかしたんですか?」


 甚夜達から離れた席に座り、申し訳なさそうに貴希美子はぺこりと頭を下げた。

 別に気にしていないと芳彦は首を振るが、何故彼女があんな行動をとったのかはよく分からなかった。


「……爺やが前に言っていたたこと、分かったんです。長く生きたからではなくて、短くとも一緒に過ごしたからだって。きっと、こういうことだったんですね」


 返ってきた答えは余計に分からないものだ。

 けれど希美子は、普段の彼女とは違う、どこか大人びた微笑みで。だからこれ以上聞くのは躊躇われた。


『たかだか百年生きた程度で人の心を計れるなら、現世はもう少し生き易いでしょう。ただ見透かせなくとも、私はお嬢様のことを産まれた時から知っていますので。長く生きたからはなく、短い時間を過ごしたからと思っていただければ幸いです』


 希美子はいつか爺やが口にした言葉を思い出す。

 私の内心を見透かし過ぎている。

 そう言った時に返ってきた答え。あれはこういうことなのだろうと、ようやく彼女にも理解できた。

 表情はいつもと変わらない。なのに分かった

 何気ない仕種の一つ一つから、野茉莉を気遣っていると。

 微妙な距離の取り方から彼女に引け目を感じていると。

 あんな彼は初めてだった。

 他の誰かだったら分からない。けれど生まれてからずっと一緒にいた爺やだから、分かってしまった。

 きっとあの二人の間には大切な何かがある。

 そうと感じ取れたから、恋だのなんだのと邪推した自分が恥ずかしくなった。

 だから二人きりにしてあげないといけないと思った。


「皆々様、本日は暦座へのご来場まことにありがとうございます。お待たせいたしました。これより演目“夏雲の唄”の上映となります。弁士は私、立川みゆきが務めさせていただきます」


 希美子の心配を余所に、じゃあん、と大きな音が響く。

 大正時代初期の活動写真は無声で、効果音や劇中曲は楽団が演奏し、場面の説明を弁士が行うという形をとる。

 音もセリフもない大正時代の映画の面白さは、弁士の腕次第と言ってもいいほど重要な役割だ。暦座では、館長の娘であるみゆきがそれを勤めていた。

 女性の弁士は珍しいらしいが、希美子は暦座以外のキネマ館を知らない。寧ろみゆきの声は聞き慣れていて、安心さえ感じる。

 しかし今日ばかりは違った。


「爺や……」


 ぽつりと呟いた声は不安に揺れている。

 ちらりと甚夜の方を横目で見ても、暗い劇場では様子を伺うことも出来ない。そもそも 二人きりにしてどうなるかも、彼女では予想もつかなかった。

 それでも願う。

 どうかあの二人の結末が、彼にとって、幸せなものでありますように。



 そうして映し出される白黒の映像。

 夏雲の唄が、楽団の奏でる哀しげな音楽と共に流れ始めた。





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