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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編
133/216

余談『夏雲の唄』・2




「……甚夜、大変だ。南雲の爺の一件に肩を並べる大事件だよ」


 紫陽花屋敷の書斎。

 椅子に深く腰掛け、重苦しい面持ちで充知は口を開いた。

 南雲叡善の一件が片付き、義父である誠一郎も隠居状態。名実ともに赤瀬家の当主となった彼は、しかし新たな悩みに頭を痛めていた。


「物騒な話だな」


 視線を合わせないままに言葉を返す。

 甚夜は書斎の床に胡坐をかき、秋津染吾郎と向かい合って座っている。

 手元ではちゃっ、ちゃっ、と規則的に音が鳴り、妙に緊迫した空気を纏っていた。


「まったくだ。なんと、希美子が芳彦とかいう男に誑かされているらしい」

「ああ、私も聞いた。まだまだ子供だと思っていたが、あの娘もそういう歳頃になったのだな」


 あんなに小さかった希美子が恋をする。

 女の子の成長は早いな、と感慨深げに息を吐いた。

 誠一郎に命じられ、彼女はずっと籠の鳥だった。

 甚夜もそれを止めなかった。南雲叡善を討つ為だ。彼には、少なからず負い目がある。

 だから誰かを好きになれた今が嬉しいと心から思う。

 とはいえ実の親からすると、そう物の分かりよくはなれないらしい


「いや、早すぎる。あの娘はずっと屋敷から出ずに過ごしてきた。まだまだ世間というものを知らない、男がどんなに危険な存在かもね。ということで甚夜、ちょっと芳彦とかいう下衆野郎を斬ってきてくれないかい? 希美子を守るためだ」

「御免こうむる。充知、取り乱し過ぎだ」


 甚夜とて赤ん坊の頃から面倒を見ていたのだ、希美子が可愛いのは分かる。

 分かるが、充知のそれは親の愛情で片付けていいものではない。娘の好きな相手を斬れというのは流石に行き過ぎだ。

 しかし当の「父の愛は山よりも高い」は本当のようで、充知は甚夜の態度こそ不満だと言いたげである。


「君はもうちょっと慌てるべきだろう? 生まれた時から面倒見てきた可愛い可愛い希美子が、何処の馬の骨とも分からない小僧に奪われようとしているんだよ?」

「そうは言うがな。芳彦君は今時の若者には珍しく、気骨のあるいい男だぞ。こいこい、だ」


 なにせ希美子を守る為に自身の命を捨て、策を練って叡善に立ち向かったのだ。

 更に吉隠の放った凶弾から身を挺して守った。その理由も惚れた腫れたの浮ついたものではなく、意地を通したかったから。

 仕事には真面目、素直で優しい。いざという時は我を張るだけの強さもある。昨今あれだけ肝が据わった男はなかなかいないだろう。


「えらい買っとるなぁ」


 秋津染吾郎はからからと楽しそうだ。

 ゆったりとした動作で山札から一枚引き、それを見てにやりと笑い、勢いよく床へ叩き付ける。


「ま、ええ子ってのは俺も否定せんけどっ、と。勝負……カス、タネ、合わせて二文な」

「……ぬ、欲を出し過ぎたか」

「はっはっ、三光で勝負しとくべきやったな」


 斬った張ったは甚夜の方が上、しかし花札では染吾郎に軍配が上がった。ここまで全戦全敗、見事にやられている。

 逆転の一手とばかりに大物手を狙ってみたが、それも流される始末。にやりと口の端を釣り上げ、染吾郎は己が勝利を誇っていた。

 歴戦の鬼と稀代の退魔がこいこいで対決。なんとも平和な話である。


「あのね、ちょっとは真面目に話聞いてくれないか? というか、わざわざ書斎で花札とかやめてほしいんだけど」


 南雲叡善との戦いも無事に終わり気が抜けたのか、二人は花札なんぞに興じている。それを見て呆れたように充知は溜息を吐いた。

 彼にしてみれば娘の一大事。過激すぎる発言も心配するが故なのだろう。

 そう考えると確かに応対がぞんざいだった。流石にばつが悪くなったのか、二人は顔を見合わせ、片付けを始める。


「切りもええし、ここいらで止めにしとくか?」

「そうしよう。逆転は出来そうもない、こちらの負けだな」

「ほな、罰はあんたってことで」

「……約束だ、仕方あるまい」


 今回の花札では金を賭けていない。代わりに染吾郎の提案で、「負けた方が何でも言うことを聞く」というベタな罰を受けることになっている。

 結果は確認するまでもなく甚夜の負け。無茶な命令はしてこないとは思うが、中々に気が重い。

 とはいえそれも後の話。今は充知の話を聞いてやろうと、二人して佇まいを直す。


「で、なんや? 恋愛の達人たる俺が上手くいくよう相談に乗ったるわ」

「いやね、秋津さん……だったかな? 上手くいったら困るんだよ。希美子の結婚相手は、しかるべき時に私が決める。だから、どうにかぶち壊す方向で話をだね。」


 その発言は決して無茶ではない。

 大正時代、華族の結婚は殆どの場合政略で、娘の相手を見つくろうのは父親の仕事だった。

 事実、充知と志乃もあからさまな政略結婚だ。お互いの相性がよく仲の良い夫婦に為れたのは単なる幸運でしかない。

 故に希美子の結婚相手を充知が決めたところで非難される謂れはない。


「いやいや、そないなことしたらお前さん、嬢ちゃんに嫌われんちゃうか?」

「うっ」


 しかし染吾郎の指摘もまた事実だ。

 明治から大正にかけて西洋からの文化が流入し、日本という国は急激に発展した。

資本主義の浸透、発達する科学技術、新たな大衆娯楽。環境が変わればそこにいる人々の在り方もまた変わる。

 後に大正ロマンと評されるこの時代は、西洋の思想が文化人を中心に知れ渡り、人々の意識もまた大きく変化した。

 その一つが結婚観だろう。

 そもそも日本では結婚相手は親が決めるものであり、恋愛結婚は珍しい。しかし大正時代には、西洋文化の影響により、恋愛結婚が理想的なものとの認識が広まった。

 この認識は活動写真などを通じ大衆へと伝わり、恋愛結婚に憧れる若い男女と保守的な親との間で諍いが起こることさえあった。


「しかしね……」

「まあ実際、華族様の一人娘の婿がキネマ館のモギリってのはよろしくないんやろうけどな」


 本人はあまり意識していないだろうが希美子は子爵令嬢。普通に考えれば、お相手にも相応の身分が必要となってくる。

 そう思ったが故の染吾郎の言葉を充知は鼻で笑う。


「馬鹿を言ってはいけないよ。私が赤瀬の家に拘ったのは妻と娘を路頭に迷わせない為。

どうせ子爵の地位なんて貰い物だからね、希美子の幸せの為なら私の代で終わったとしても惜しくはないさ。ただ、そこいらの男では相応しくないと言っているんだ」


 娘の為なら家を捨てても惜しくはない。

 仮にも爵位を持つ者、普通はなかなか言えない科白である。染吾郎はしきりに感心し、ただ付き合いの長い甚夜はその胸中をある程度把握しているのか、確認するように問うた。


「一応聞くが、その相応しい男とやらが現れたなら認めるのか?」

「そんな訳ないだろう、希美子に恋人なんて早い!」


 まあ充知のことだ。

 そんなところだろうとは思っていたが、的中すると非常に微妙な気分であった。


「……なんや、単に子離れできんだけかい」


 感心も束の間、言っていることは無茶苦茶だ。

 彼等も子供を持ったことがある身、気持ちは分からないでもない。興奮して叫ぶ充知を責める気にはなれなかった。

 しかし甚夜とて娘を心底愛した親。だからこそ、もう少しだけ落ち着いてほしいとも思う。


「……応援してやれ、とは言わん。家柄を抜きにしても、親ならば娘を心配するのは当然。奪いに来る男が憎いのも分からんではないさ」

「だろう?」

「だがあの娘の人生だ」


 きっぱりと、ではなく窘めるような穏やかさで語り掛ける。

 一瞬たじろいだのは、充知も本当は分かっているからだろう。強い拒否はなく、所在なさげにではあるが耳を傾けてくれていた。


「希美子が、ようやく自分で何かを選ぼうとしている……それが許される状況となった。ならば私は、あの娘の味方でいてやりたい。悪いな、充知。この件に関しては従ってやれない」

「……そんなこと分かってるよ。だけどね、あー、希美子ぉ」


 それでも理解と納得は別。

 娘につく悪い虫、男親の永遠の悩みだ。机に突っ伏し項垂れる充知に、思わず笑いが漏れる。

しばらくの間、二人はお父さんの愚痴を聞く羽目になるのだった。




 ◆




「そやけど、ひどい狼狽ぶりやったなぁ」


 一頻り話し終え、甚夜の部屋で茶を啜りながら染吾郎はからからと笑う。

 愚痴につきあった礼なのか、充知の気遣いで冷やした茶を準備して貰えた。夏の盛りだ、喉を通る冷たさが心地好い。

 からん、と湯呑の中で溶けた氷が音を立てた。涼やかな響きに少しだけ甚夜は視線を落とす。


「仕方あるまい、親の悩みなど何処も似たようなものだろうよ」

「ま、そらそやな……どないした?」


 湯呑の中の氷をじっと眺めている甚夜は、何故か曖昧な表情を浮かべている。

 その理由が染吾郎には分からない。

 当然だろう。明治十六年(1883年)に機械製氷事業が始まった。そういう時代を生きた染吾郎にとって、氷は買う必要こそあったが然程珍しいものでもなかった。


「いや、なんとも贅沢な時代になったと思ってな」


 しかし文政の生まれである甚夜には違う。

 まだ東京が江戸と呼ばれていた頃、「夏場の氷」といえばごく一部の特権階級しか享受できない贅沢品だった。天皇に献上する制度があったことからも、その貴重さが伺える。

 それが今では子供の小遣い程度で買えてしまう。江戸、明治、大正。全ての時代を生きてきた甚夜にとって、当たり前のようにある氷が、ひどく奇妙に思えてならなかった。


「ほーん? いや、よう分からんけど」

「気にするな、ただの感傷だ。それより今日はどうした?」


 先程までは花札に興じていたが、そもそも染吾郎は「少し話がある」と甚夜を訪ねてきたのだ。

 後回しになってしまったが、茶を飲んで少し落ち着き、ようやくの本題となった。


「あー、そやな」


 染吾郎は話しにくそうに乾いた笑みを見せた。

 しばらく唸っていたが、思い直して一呼吸。


「俺、そろそろ京に帰るわ」


 少しだけ名残惜しそうに彼はそう言った。

 忘れていたが、染吾郎は京都に住んでいる。用件がなくなれば帰るのは当たり前の話だった。


「南雲の爺の件が片付いて、残党もこの二か月目立った動きは見せとらん。流石に、これ以上家を空けとくのもあれやしなぁ」

「……そうか、寂しくなるな」


 掛け値のない本心だ。

 偶然とはいえ懐かしい顔に会い、以前のように接していたから勘違いしていた。彼には彼の生活がある。昔とはもう違うのだと、今更ながらに思い知らされた。


「はは、あんがとさん。んで、あー、罰の話や」


 花札で負けた甚夜は命令を一つ聞かなければならない。

 その為に、染吾郎はこいこい勝負なんぞを吹っ掛けたのだ。

 言いながら懐から一枚の便箋を取り出し、何処か力ない仕種でそれを見せつける


「実は明日、人と会う約束やったんやけど、どうにも外せん用事が出来てもてなぁ。代わりに迎えに行ってもらえんか? んで、この手紙を渡してくれ」


 罰というには案外まともな内容だった。

 ぴらぴらと見せつけるように便箋を振って見せる染吾郎は、どことなく緊張しているように見えた。それを誤魔化すように、一気にまくしたてる。


「先方は京都におる知り合いでな、今日の夜のうちに東京つくらしい。一晩休んで、明日駅で待ち合わせ……って感じになる筈やったんやけど、こっちの都合がつかんかった。頼まれてくれるか?」


 目には何故か、縋るような色さえあった。

 そこに違和感を覚えないではないが、内容としてはお使い程度だ。受ける分には問題はない。


「それは構わんが、私でいいのか?」

「おう。相手の女にはあんたの容姿もちゃんと教えとる。すれ違いはない思うけど」

「……分かった」


 頷いた甚夜は素直に便箋を受け取った。

 ほっとした様子で染吾郎は息を吐く。そうして微かな笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。


「すまん、任せた。ほな、用事も済んだしそろそろホテル戻るわ」

「ああ、ではな」


 簡素な別れの挨拶を交わし、部屋を出ていく。

 その背中が、纏う空気が何処か優しげだった理由は、甚夜には分からなかった。








 四代目秋津染吾郎は、口にこそ出さないが甚夜に感謝をしていた。

 若かりし頃の彼は、宇津木平吉は生意気なガキだった。

 師匠の友人だという蕎麦屋の店主、その正体が鬼と知るや否や食って掛かった。

 けれど簡単にいなされ、それが余計に腹立たしく。

 だというのにあの男はいつだって気にかけてくれた。

 どれだけ暴言を吐こうとも怒らず、体術の訓練に付き合い、悩んでいる時は諭してくれた。


『励めよ、宇津木。私はお前以外が四代目を名乗るなど認めんぞ』


 生意気なガキのことを、あいつは心底認めてくれていた。

 染吾郎が一番尊敬する相手は師匠である三代目だが、二番目はと問われれば、間違いなく葛野甚夜の名前を出す。

 だからいつかは恩返しをしたいと、ずっとずっと思っていた。


「取り敢えずは、うまくいったか……」


 紫陽花屋敷を離れ、しばらく歩いてから、染吾郎は足を止めた。

 炎天の下、流れる額の汗をぐっと拭い、思い立ったように後ろへ振り返る。既に結構な距離を歩き、屋敷はもう見えない。


「俺があんたに出来ることなんて、こんくらいやしな」


 意識もせず声は零れた。

 恩返しというにはひどくささやか。けれど、どうかあの男の傷が少しでも癒えますように。

 届く訳もない呟きを残して、もう一度前を向く。

 じっとりと汗ばむ肌、肺が焦げ付くような気さえする。

 しかしその熱さも今は不快ではない。 

 夏の温度にふと思い出す、皆ではしゃぎ回った縁日。

 あれはいつのことだったか。染吾郎は懐かしさに頬を緩ませ、のんびりとホテルへの帰路へついた。











 時を同じくして、希美子の部屋。

 抱く好意は恋か友愛か、まだ彼女には判別がつかない。ただ芳彦のことが気になっているのは間違いない。ではどうすればいいのかと、顔を突き合わせて話し合っていた。

 希美子、向日葵、溜那。女三人寄れば姦しいとはいうが、どうあっても騒がしくなれない顔ぶれである。


「自分で言うのもなんですけど、あんまり役に立たないと思いますよ?」

「……ん」


 相談を持ちかけられた二人はどうにも戸惑っていた。

 殆ど喋らない溜那に、外見幼女中身老淑女でおじさま一筋の向日葵。共に恋愛経験なぞ在る筈もなく、相談相手としては微妙な選択肢である。


「……ですが私、他に相談できそうな相手、いないんです」


 希美子は暗い表情で俯く。返ってきた答えは更に微妙なものだった。

 今まで籠の鳥だった少女には当然ながら友人などいない。親しい同年代となれば芳彦くらい、だが本人にこんな話を持ちかける訳にもいかないだろう。

 父は話した瞬間物凄い形相になった。それをなだめる母にも相談は出来ず、となれば必然的にこの二人しか残っていない。


「じいやは?」と溜那は不思議そうに首を傾げた。

「あ、いえ、一応爺やにも相談したのですが」


 百歳という話だ、恋愛経験も相応にあるだろう。なにより彼ならどんな相談でも真剣に聞いてくれる。そう思ったからこそ、いの一番に爺やへと相談を持ちかけた。

 しかし今回に限ってはその選択は成功とは言い難い。

 なにせ彼の初恋と言えば白雪である。何も知らない希美子は普通に質問し、もう吹っ切れている為甚夜も割合素直に答えた。


『爺やの初恋の人ってどのような方でした?』

『私のか? 初恋……相手は、幼馴染だったな。小さな頃に結婚の約束をした』

『結婚の約束! すごいです、キネマ見たいです! それでそれで?』

『残念ながら、見て分かる通り独り身だ。あまり参考にならなくて済まない』


 とはいえ事の顛末を詳しく聞かせる訳にもいかず、言葉を濁し優しく希美子の頭を撫で、適当なところで話を終わらせた。

 結局そんな風に誤魔化されてしまったので、あまり参考にはならなかった。


「……男の人は恋の話が気恥ずかしいのかもしれませんね」

「ええ、きっとそうなのでしょう」


 少し硬い様子で向日葵が言い、成程と希美子も頷く。

 最終的にはやはりこのメンツとなり、女三人顔を合わせて恋の相談。微笑ましいと言えば微笑ましい光景ではあった。


「希美子さんはどうされたいのですか?」


 向日葵が問えば思わず頭を抱える。

 この気持ちが本当に恋なのかは分からないけど、希美子は確かに芳彦が好きで。

 だから大好きですと伝えたいのだが、何分初めてのこと、どうすればいいのか分からない。

 いっぱい助けてくれたから、たくさんのありがとうを言いたくて、でも上手く伝えられるとも思えない。

 たどたどしく、しかし希美子は少しずつ自分の考えを語って聞かせる。


「ならかんたん、手をにぎるといい」


 聞き終えれば溜那は堂々とそう言い切る。

 意外なところから出てきた意見に希美子も向日葵も思わず目を丸くしていた。

 しかし当の本人はというと、ふんす、と鼻息も荒く、胸を張った姿は自信満々といった風情だ。


「手、ですか?」

「ん」


 こくこくと何度も頷き、その幼げな所作に反して、大人びた微笑みを湛える。

 溜那の脳裏に浮かぶのは原初の風景。

 彼女の日常だった、冷たい檻の中のことだ。


「暗いばしょにいたわたしの手をじいやが握ってくれた。なにも言ってくれなかったけど、ちゃんとあったかいって分かった」


 暗い場所に閉じ込められ、絶望さえ感じられない程に全てを諦めていた。

 けれど差し伸べられた手があった。

 愛だの恋だのとは無縁だった彼女だが、握り返した手の暖かさはちゃんと覚えている。

 死ぬか付いてくるか選べ。かけられた言葉には、優しさなんて欠片もなく。

 でもちゃんと心に触れてくれた。あの暖かさは確かに、彼がくれたものだ。

 だから溜那は確信を持って言うことができる。


「たぶん、こころは手から伝わる」


 理論として正しいかどうかではなく。

 彼女にとっては、それが真実だった。


「手……」


 無論そんな細やかな機微は希美子には伝わらない。圧倒的に足らない言葉の裏を察するには、少しばかり経験が足りなかった。

 だから彼女は単純に「手を握れば想いが伝わる」と溜那の言葉を解釈する。

 それは、無為な虚飾を重ねるよりも遥かにいいのかもしれないと思えた。


「……溜那さん、ありがとうございます! 私頑張ってみますね!」

「んっ」


 取るべき行動は決まった。

 芳彦の手を握って、うまく形になってくれない“好き”を伝えよう。

 迷いが消え去り、希美子は晴れやかな笑み。まずはこの胸にあるありがとうを伝えようと、しっかりと溜那の手を握り締めた。






 ◆






 こうして翌日、甚夜は東京駅へ、希美子は暦座へと向かった。

 まだ吉隠の件がある為、希美子の方にはこっそり向日葵がついているし、暦座には井槌もいる。滅多なことはないだろうと、東京駅についた甚夜はぼんやりと人の流れを眺めていた。

 赤レンガを積み上げた優美な洋風の外観。東京駅は出来てまだ十年も経っておらず、しかし昼前ともなれば人は多くなる。

 蒸気機関車に運ばれて、人々は東京へと訪れる。駅の風景を眺めていると日の本は随分狭くなったと思う。

 昔は京都から江戸など大層離れていたものだが、今では一日どころか数時間で辿り着けてしまう。

 近代化は結構なことだ。しかし便利になった反面、一里塚の槐の木陰で涼むこともなくなったのかと思えば少しばかり寂しくはある。

 それも年寄りの感傷か、と甚夜は小さく息を吐いた。 


「しかし、遅いな……」


 先方は昨日のうちに東京へ着いている。

 昼前には駅へ来る予定となっているのだが、もうすぐ太陽が真上に来てしまう。遅れているのか、と周囲を見回せば、ちょうど甚夜の方へ歩いてくる女性を見つけた。

 おそらくは件の客だろう。そう思い目を凝らし、相手の顔が判別できる距離にまで近づき。

 その瞬間、彼は息を飲んだ。


「あの、失礼ですが」


 品の良い薄い藍色の着物姿の老淑女。年老いた皺だらけの顔、それでも面影が見出せた。

 だから甚夜は固まった。

 心臓が何かに掴まれたような錯覚を覚える。


「葛野様、でしょうか?」


 傍らまで近づいた老淑女は緩やかに微笑む。

 はい、と甚夜は短く答える。それすらもようやくといった様子。ぎこちない態度を緊張と取ったのか、女の声は殊更柔らかくなる。


「よかった。平吉さんから容姿は聞いていたのですが、自信が無くて……すみません、遅くなってしまいましたね」


 脳裏を過る、ではまだ足らない。 

 大河のように溢れ出る記憶。しかし表情には出さず、静かに、何事もなかったかのように受け答えをする。

 みっともない所は見せたくない。くだらない意地がそうさせた。


「いえ、そんなことは」

「お気遣いありがとうございます。ああ、自己紹介が遅れました」


 その必要はない。

 分からない筈がない。

 どれだけ年老いたとしても、分かる。

 子を見間違える、親がいるものか。


宇津木うつぎ野茉莉のまりと申します」


 その響きに、今度こそ鼓動を止められた気がした。





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