『終焉の夜』・5(了)
終焉の夜から数日が過ぎた清々しい朝のこと。
紫陽花屋敷の庭で、自身が育てた花を眺めながら甚夜は紅茶を啜っていた。
備え付けられたテーブルを共に囲んでいるのは充知と志乃だ。元々希美子に紅茶の淹れ方を教えたのは志乃である。その所作は実に典雅だった。
「いや、よくやってくれた甚夜。いつかの約束、ちゃんと果たしてくれたね」
本当はもっと早く礼を伝えたかったのだが、飲まされた薬の影響で赤瀬の家の者はしばらく臥せっていた。
罪悪感もあったのだろう、その間に彼等の看病だ世話だと奔走していたのは希美子本人だ。
甲斐もあってか皆ようやく復調した。そうなれば充知ら夫婦は娘の無事を喜び、約束を果たしてくれた甚夜に礼を言う為こういった場を設けた。
「言った通りだっただろう?」
「ああ、そうだな」
素っ気ない返しに嬉しくなる。
特に充知は付き合いも長い。大切なものを何一つ守れなかったと嘆いていた甚夜が、その手で希美子を守ってくれた。それが感慨深く、自然と口元が緩んでしまう。
「ああ…でも、その。兼臣のことは、残念だったけど」
思い直して充知は俯いた。
長らく傍にいたのだ、喋る刀のことは知っている。長らく道行きを共にした、連れ合いともいうべき存在を失ったのだ。彼からしてみれば、全てを守ったとは言い難いのかもしれない。
「気にするな」
「そうは言ってもね」
「安心しろ。ちゃんと、此処にいる」
とんとんと、人差し指で自身の胸を指す。
彼女は此処にいると、表情も変えず甚夜はそう言った。ならばこれ以上は何も言うまい。充知は無言で頷いて、もう一度穏やかに笑ってみせた。
「それで、誠一郎はどうなった」
「うちの爺様は随分気落ちしているよ。なにせ、これだから」
甚夜の問いに充知は読んでいた新聞を見せた。
とは言っても今日のものではなく、数日前の新聞。つまりは終焉の夜の翌日に届いたものである。
数枚をめくれば、『男爵家・南雲ノ邸宅 火災ニ見舞ワレル』という記事があった。
大正時代における華族の動向はそれだけでニュースだ。叡善の死亡はすぐに報じられた。
誠一郎もこれを読んだのだろう。永遠の命を求めたのに、与えてくれる筈の者が死に絶えた。結局はそんなもの嘘っぱちに過ぎなかったのだと思い知らされ、悲嘆にくれているらしい。
「案外このまま本当の意味での隠居じゃないかな。そうしたら名実ともに私が赤瀬の当主、まさに万々歳だ」
「それも少々、複雑ではありますが」
志乃の声は僅かに暗い。彼女にとっては実の父親だ、やはり思う所があるのだろう。
しかし誠一郎は希美子を軟禁し、生贄に捧げようとした。それを許せるはずもなく、甚夜への感謝に間違いはない。
だから心の内を素直に伝える。
こういう所はやはり母子似るものなのか。こういう時、志乃は希美子に負けず劣らず真っ直ぐだ。
「爺や、ありがとうね。貴方はいつだって、私のことを助けてくれる」
少しだけ幼い物言いがくすぐったい。
﨟長けた淑女の柔らかな表情に、かつてのお転婆な少女の笑顔が重なる。懐かしいような、けれど優しく垂れ下がった瞳はあの頃にはなかったもので。
「どうにもこそばゆいな」
「もしかして照れてます?」
「そこは流してくれると有難い」
甚夜は静かに笑みを落す。
見つめる彼女の目は母のそれで。ああ、志乃は良い歳の取り方が出来たのだと、その成長を見守ってきた一人としては感じ入るものがあった。
「なんだかんだ、君は志乃に弱いよね」
「言えた口ではないだろうに」
「はは、確かに。お互いさまだ」
昔から充知も甚夜も、志乃に振り回されていた。
今だって彼女の笑顔一つでこうまで振り回されるのだから、力関係はあまり変わっていないのだろう。
それを悪くないと思ってしまう辺り、多分勝てる日は来ないなと男二人目を合わせ苦笑した。
「甚夜も疲れただろう? しばらくゆっくりするといい」
「いや、そうもいかない。午後は希美子の外出に付き合う予定だ」
充知は少し顔を顰めた。
甚夜もだが、自分達の世話に奔走していた希美子はもっと休んでいてほしかった。
「あの娘もまだ疲れているんじゃないかな。何処へ行くんだい」
その問いに甚夜は少しだけつまった。
一瞬の逡巡、小さく溜息を吐く。
「正直気は進まないが」
そう前置きして、苦々しく口元を歪め。
「少し、活動写真でも見に」
甚夜は静かに答えた。
◆
ぐっと背伸びをする。
気兼ねなく外へ出られる日が来るなんて思ってもみなかった。鼻歌を歌いながら、今にもスキップをし始めそうな軽やかな足取りで希美子は町を行く。
隣には甚夜と溜那がいる。
心なしか溜那も浮かれているようで、当たり前のように甚夜と手を繋いでいる。
少し羨ましい気もするが、だからといって自分もとは言えない。
昔はよく爺やに手を引いてもらったけれど、今はちょっと恥ずかしいかな。希美子はそんなことを思った。
「んっ」
「溜那、ちゃんと前を見ないと危ないぞ」
時折体を寄せたり、後ろ歩きになってみたりと、無邪気な溜那は甚夜を困らせている。
それでも力付くで止めようとしないのは、そうやって素直に甘える彼女が嬉しいからだろう。
初めて会った時、溜那の目には感情の色が無かった。
期待も不安も、怯えも動揺も彼女にはなく。
ただ昏い牢獄の中で死んでいくことを是としていた少女。
それがこうも素直に感情を見せてくれる。
甘えられるのが、ではなく。甘えられるようになったことが甚夜には嬉しかった。
「溜那さん、明るくなりましたね」
「はい。いい傾向です」
溜那の無邪気な様子は希美子にとっても微笑ましい。
しかし甚夜の返しが少しばかり引っかかった。
「あの、今更なのですが。お母様にも溜那さんにも砕けて接しているのに、なんで私だけ敬語なんです?」
今まではずっとそうだったから気にしなかった。
しかし父や母には敬語を使わず、溜那に対しても砕けた態度で接している。
それを考えれば何故自分だけ、と若干の不満がある。
軽く頬を膨らませて突き付けた問い、甚夜はなんの気負いもなく答える。
「私が無礼な態度を取れば、お嬢様が軽く見られますから」
実際充知や志乃に対しても、他の使用人の目がある時は相応の態度を取っている。
甚夜にとっては希美子への態度は雇われの身として当然だった。
「ですが、お父様にはああいう態度ではありませんか」
「他の者がいない時だけです」
「それなら……周りに誰もいなければ、私にも?」
食い下がる希美子に、甚夜は顔色一つ変えない。
本当は使用人風情が馴れ馴れしく接するのはよろしくない。とはいえそれも今更だろう。
「それを、希美子が望めば」
小声でそう言えば、にっこりと笑って希美子は頷いた。
「でしたら、お願いします。ふふ、もっと早くに言えばよかったですね」
「気になるものか?」
「なりますよ。今は、爺やともっと仲良くなれた気がします」
足取りは少し軽くなった。
目に見えて機嫌がよくなり、甚夜の前を鼻歌交じりに歩いて行く。
辿る道は慣れ親しんだもの。帝都東京は渋谷にある小さなキネマ館『暦座』が、往く先に見えてきた。
「さ、行きましょう爺や」
先導するのは希美子だ。暦座には彼女が一番通い慣れている。
小さなキネマ館の玄関口でチケットを購入。少し進めば劇場への入り口、その前には受付台があり、暦座のモギリが待っている。
何度も暦座へ訪れた。今更手順で戸惑うことはない。
しかしモギリの姿を見た瞬間、ほんの少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「おう、鬼喰らいに嬢ちゃんらじゃねえか」
迎えたのはやはり、見慣れた少年ではなくて。
厳めしい面をした大男。以前は南雲叡善に従っていた鬼、井槌だった。
「客足はどうだ」
「盛況も盛況、毎日引っ切り無しだよ」
甚夜が雑談を振れば、井槌は豪快に笑う。
終焉の夜から数日、彼は暦座で厄介になっていた。
キネマは大衆娯楽の王様、暦座も他の劇場と同じく連日満席となる人気ぶりである。
その分仕事は忙しい。特に暦座は、以前いたモギリの少年が働けなくなってしまった為、人手が足りなかった。
そこで従業員を募集していたのだが、このキネマ館で働きたいと名乗りを上げたのが井槌だった。
「しかしお前がモギリとはな」
「似合わねえってか? お前の庭師だって相当だろうが」
「違いない」
視線を交わし、互いに苦々しく口の端を釣り上げる。
今までは南雲叡善に養われていたようなもの、これからの生活には金が要る。どうせ働くならばと最初に思いついたのが暦座だ。
似合わないことなど分かっている。それでも此処で働きたいと思った。
理由は単なる感傷に過ぎず、あの少年の代わりが務まるとも思えない。しかし井槌は、自分にはない強さを持った少年の在り方に、少しでも報いたかった。
「あ……おじさま、こんにちは。偶然ですね。あと、他の皆さんも」
雑談をしているとまた一人客が。
甚夜にとってはいい加減付き合いも長くなった姪御。マガツメの娘、向日葵である。
会ったのは偶然ではない。目的は同じだろう。彼等が此処にこだわる理由。そんなものは一つしかない。
藤堂芳彦。
暦座でモギリとして働いている少年である。
彼はただの少年だった。
なんの因縁もなく、関わりさえ希薄で。しかしほんの偶然で芳彦は一連の騒動に巻き込まれた。
希美子に対する人質として吉隠に目をつけられた彼は、腹をずたずたに裂かれ、<戯具>により無理矢理生かされた。
そして全てが終わり、<力>を解かれた後───
「あ、いらっしゃいませ。暦座へようこそ!」
────今もこうして、普通に生きていたりする。
「芳彦さん、休んでいないといけません!」
左腕を包帯で固定したまま、片手に箒を持った芳彦が玄関にやってきた。
掃き掃除でもしようというのだろうが、とんでもないと希美子が食って掛かる。
「大丈夫ですって希美子さん。ちょっと手伝うくらい」
「いいえ、聞きません。さあ早くお部屋に戻ってください。撃たれた傷も治っていないでしょうに」
「でも、もうあんまり痛くないし」
「だ、め、です!」
肩の銃創はまだ治り切っていない。
だというのに部屋を抜け出してくる芳彦を思い切り叱りつける。
勿論彼を心配してのこと、それが分かっているからこそ強く反論は出来ない。
南雲叡善に見せた気概は何処へ行ったのか。控えめに抵抗をしようとしてもすぐさま希美子の剣幕に押され、言葉を詰まらせてしまっている。
「ふふーん、どうやら元気みたいですね、芳彦君」
二人のやり取りを眺める向日葵は、勝ち誇ったような顔をしていた。
それも当然だろう。この光景の為に尽力したのは、甚夜ではなく彼女だった。
「おい、鬼喰らい。こいつのドヤ顔すげーむかつくんだが」
「そう言うな。実際此度の殊勲者は向日葵だ。誇るのは当然だろう」
若干イラついたような井槌を、相変わらずの無表情で甚夜が窘める。
擁護されたのが嬉しかったらしく、向日葵は更に満面の笑みを浮かべていた。
「うふふ、流石おじさま。もっと褒めてくださっていいんですよ? 何なら頭を撫でてもかまいません」
言いながら向日葵は撫でやすいよう頭を差し出す。
そんな彼女に対し、腕にしがみ付いたまま溜那は「きしゃー!」と野良猫のように威嚇していた。
「こら、やめなさい」
「ん……」
不服そうに口を尖らせている溜那を嗜め、甚夜はぽんぽんと向日葵の頭を軽めに叩いた。それだけでも嬉しいらしく、少女はにこにことご満悦。
彼にとっては仇敵の娘だ。とはいえ、今回ばかりは目を瞑ろう。
向日葵は希美子を守るため散々協力してくれた。
そして芳彦が今生きているのも、この娘のおかげなのだから。
藤堂芳彦は吉隠に腹を裂かれ臓器を抉られ、<戯具>によって死ぬことさえできなくなった。
故に<戯具>が解かれた時点で死に体へと戻り、そのまま命を落とす───その筈だった。
だというのに、約束された結末に逆らい今も芳彦は生きている。
例えば江戸時代ならばこの結末はあり得ない。
しかし今は大正。故に、これは奇跡でもなんでもなかった。
1902年(明治三十五年)、ウィーンの外科医ウルマンの行った実験が世界に衝撃を与える。
その内容は、「イヌの腎臓を摘出し、同じイヌの首に移植する」というものであった。
結果として実験は成功。移植された腎臓は正常に機能し、これが学会で報告されると大きな反響を巻き起こした。
三年後。フランスの医師・カレルによる心臓移植・腎臓移植などの動物実験が行われ、別個の個体による移植の際起こる拒絶反応を発見した。
カレルは1912年、血管縫合および臓器の移植に関する研究でノーベル生理学・医学賞も受賞している。
こういった流れは日本にも波及し、明治四十三年には山内半作が臓器移植の実験を行い、外科学会にてこれを発表した。
その後、大正時代に入り医療分野は更に発展。同時に諸外国の技術・知識も多く流入されることとなる。
即ち、明治後期から大正にかけては『臓器移植』という概念が生まれた時代である。
「実際、マガツメの技術ってのはすげえな」
「大したことはありません。人を鬼へと変える。死骸から鬼を産む。身が望む形の鬼をデザインする。母はこれらを明治の頃には確立しています。代わりの臓器を作るくらい片手間で出来ますから」
井槌の言葉に向日葵は堂々と言い切る。
下位の鬼を幾つも生んだ。ゆきのなごり、百鬼夜行。死にかけた直次を鬼へと変えたこともある。
心を造る為の研究、それに付随する肉体を望み通りにデザインする術。
つまるところ藤堂芳彦は、マガツメの培養した臓器と、海外から流入した臓器移植の知識によって命を繋いだのだ。
甚夜にとっては幾度も己を阻んだ障害、それらで培った技術こそが芳彦の命を救うのだから、禍福は糾える縄の如しとはまさにこのことだろう。
「壊された臓器の代わりを埋め込み、血管を繋げる。江戸の頃からは考えられないな」
「ですがおじさま。新しい臓器を造ったのは私ですが、技術自体は人の持つ医学の応用です。今はこれくらい、驚くようなものでもないんですよ?」
そうなった大正の世にこそ、甚夜は驚愕している。時代の流れとはまこと恐ろしいものだ。
もっとも明治や大正の臓器移植技術は拙く、まだ動物実験の段階である。それも成功例より失敗の方が遥かに多い。
しかし今回に限っては失敗するはずがない。
マガツメの技術ならば望みどおりに命をデザインできる。
死骸から鬼を造り上げることができるなら、壊された芳彦の臓器から新しいものを作ることくらい容易。
初めから芳彦に適合するよう造られた臓器だ。拒絶反応なぞ起こる訳もない。
なにより吉隠の<戯具>がある。
解かれるまでは、死なない。つまり術中、或いは術後に芳彦が死ぬことはない。
ずたずたに切り裂かれた臓器は向日葵によって一新され、<戯具>が解かれた時、彼は五体満足に戻っている。
こうして藤堂芳彦は、今も生きている。
それも甚夜の<力>ではなく、マガツメの技術だけでなく。
人が繰り返した実験によって、そこから得られた技術を持って、その命を繋いだ。
故にこれは奇跡ではなく、単なる予定調和。
また一つ鬼が時代に負けた、ただそれだけの話だ。
「これでも医者の真似事が出来る程度には、心得もありますし。人であれ鬼であれ、肉を弄るのは私達の専売特許です」
おじさまもよく知っているでしょう?
にっこり笑顔で物騒なことを言う。しかしそのおかげで芳彦が助かったのだ、返答に困った甚夜は肩をすくめて曖昧に濁した。
「しかしよ、なんか複雑だな」
「どうした井槌」
「いや、よ。助かったのは素直に嬉しいんだ。嬉しいんだが。鬼の<力>も医学の発展には敵わなかったのかって思うと、なんともな」
井槌は時代に負けてきた鬼だ。鬼の<力>を人の技術で克服したことに少しの引っ掛かりがあった。
勿論芳彦が助からなければよかった、などとは思わない。
だがこの結末にはどうにも無力感がまとわりつく。
「でも今回の件は母の技術と、なにより“何があっても死なない”という<力>があってこそ。同じことをやれと言われても、多分次はできません」
向日葵が付け加えた言葉は、紛れもない本音だ。
今回の件は<戯具>によって絶対死なない状況があったからこそできた無茶。そもそも<戯具>が無ければ、臓器を裂かれた時点で芳彦は死んでいる。どのような状態からでも助けられる、そんな都合のいい話は存在しない。
「そりゃ分ってる。だけどよ……いつか、本当に負ける日がくるんじゃねえか? ガトリング砲が生まれたみてえに、鬼の<力>を嘲笑うような、そんな技術が」
しかし井槌の危惧は遠い未来に現実となる。
昭和に入り、臓器移植に関する技術は更なる発展を遂げていく。
腎臓、肝臓、心臓の移植成功。免疫抑制剤による拒絶反応の低下。臓器移植は世間の偏見と闘いながら、それでも医学界に確固たる地位を造り上げる。
マガツメの力なぞ借りなくとも、容易く鬼の<力>を踏み越えていく時代は、確かに訪れるのだ。
「かも、しれん」
その危惧は甚夜も抱いていた。
刀を奪われた。復讐を禁じられた。逢魔が時は照らされ、銃器に存在を貶められ。
今また発展した医学に<力>の意味を奪われようとしている。
そうやっていつか、鬼は存在する価値さえなくなってしまうのだろう。
「しかし悪くはないさ」
胸に在る僅かなしこりを吐き出すように、穏やかに息を零す。
視線の先には希美子と芳彦。言い争うというよりは戯れるように、「早く部屋に戻らないと」「ちょっとくらい手伝っても」と仲良く言葉を交わしている。
「私達はいつか、居場所を失う。鬼はその価値を失くし、人に虐げられる時が来るかもしれない。それでも……ここから見える景色は、そんなに悪いものでもないだろう?」
鬼はいつか昔話の中だけで語られる存在になる。
かつて<遠見> の鬼はそう嘆いた。
あの頃はまだ理解できていなかったが、明治大正を経て恐ろしいまでの勢いで発展していく人の世に、それが決して妄言ではないのだと理解してしまった。
しかし希美子は怒りながらも嬉しそうで、芳彦は困ったように苦笑いで。
彼等の無邪気な遣り取りを守ったのもまた、新しい時代だ。
ならばそんなに悪くないと思う。
少なくともここから見える景色は、嘆くようなものではない筈だ。
「ああ、そう、だな」
ぎこちなく、井槌は口の端を僅かに釣り上げた。
思う所は確かにある。それでも芳彦が今こうして生きているのは、素直に喜ぼう。小さく深呼吸して気持ちを入れ替える。
「さあさ、戻りますよ」
「はぁい……」
その頃には向こうも決着がついていた。
完全に言い負かされた芳彦は、監視役の希美子に手を引かれ住み込みの部屋へすごすごと帰っていく。若干顔が赤いのは、彼も少年だということだろう。
「ありゃ、芳彦先輩負けちまったな」
「善哉善哉。尻に敷かれてやるくらいが夫婦円満の秘訣だろう」
「お、言うねぇ」
がははと井槌は豪快に笑い、それを受けて甚夜も落すように笑う。
そんな彼等を余所に「一応言っておきますけど私が本物の姪ですからね?」などと牽制を仕掛ける向日葵。溜那の方も言葉少なく睨み付けている。
活動写真を見るという目的はお流れのようだが、それなりに穏やかな午後の日だ。
ようやっと訪れた平穏。
今はただこの日々に浸っていようと思う。
外を見れば青空の下、行き交う人々。喧噪さえも心地好く聞こえる。
ああ、本当に悪くない。
甚夜は小さく、誰にも聞こえないようにそう呟いた。
『終焉の夜』・(了)




