『終焉の夜』・4
歴史を感じさせる和風の邸宅は、今では見る影もない。
橙色の焔と黒煙に巻かれ、屋敷は轟音を立てながら瓦解し始めていた。
もう長くは持つまい。
思いながらも甚夜は未だ燃え盛る屋敷に留まっていた。
南雲叡善の完全な死を確認し、これでようやく充知との約束は果たした。
後はもう一つ、ごく個人的な目的が残っている。
<鬼哭>の妖刀、夜刀守兼臣の奪取。
封じられた鬼の<力>が欲しい訳ではない。単なる感傷ではあるが、あの刀を取り返さねばならない。そもそもは、その為に叡善と事を構えたのだ。
奥座敷へと戻れば先程の戦いの名残りさえ炎に呑み込まれてしまっている。
見回した座敷の片隅、どうにか燃え尽きず残った痕跡を見つけた。しかし床に転がるそれを眺める甚夜の目は険しい。
戦いの最中、叡善の腕ごと夜刀守兼臣を斬り飛ばした。幾ら異形の業を身に着けようとあれは人間、斬り飛ばした腕は炭化しているが一応そこに転がっている。
にも拘らず、<鬼哭>の妖刀は何処にも見当たらなかった。
「いったい、何処へ」
十中八九誰かが持ち去ったのだろう。
だとしても何の為に。揺らめく焔、その向こうの虚空を睨み付け静かに呟く。
それすら掻き消す火勢。いよいよ限界が近付いてきた。妖刀の行方は気になるが此処で棒立ちしている訳にもいかない。
屋台骨まで溶け落ちる景色に背を向け、甚夜は奥座敷を後にした。
ほんの少し胸を過った不安だけは、燃え尽きることはなかった。
◆
僅かに時間を遡る。
甚夜と叡善が刃を交え始めた頃、希美子らは屋敷を抜け出す為、燃え盛る廊下をひたすらに走っていた。
向日葵には直接的な戦闘力など欠片もなく、井槌にしてもガトリング砲を失った。
残ったところで足手まといになるとよく理解しており、だからこそ振り返ることなく、屋敷からの脱出だけに専心する。
「ちっくしょう、すぐ庭に出られると思ったのによ!」
井槌は往く手を阻む叡善配下の鬼を薙ぎ払いながら、盛大に悪態をつく。
古い武家屋敷のような造りだ、態々玄関に向かわなくても適当なところから庭へ出ればいいと思っていた。
しかしどうやら叡善には希美子らを逃がすつもりはないらしい。行きには出逢わなかった下位の鬼達がわらわらと襲いかかってくる。
「此処が彼等の根城ならこの数も当然だとは思いますが……井槌さんは、知らなかったのですか?」
「手駒がこんなにいるなんざ今知った所だよ!」
「そうですか。結局、南雲叡善は誰も信用していなかったんですね……」
それが寂しいのか、悲しいのか。どこか切なげに向日葵は呟く。
しかし同情の余地はなく、死んでやるつもりもない。マガツメから預かった配下の鬼達を宛がい、守りの薄い方へと突き進む。奇しくもそれは屋敷の玄関口だった。
「希美子さん、もうちょっとですよ!」
「は、はいっ」
時折屋敷を抜け出していたとはいえ、希美子は基本的に箱入り娘。肺さえも焦がす程の熱気の中で走り続けるのは随分と辛そうだ。
芳彦は心配そうに後ろの様子を気にしながら、手をしっかりと握っている。
それが希美子には、こんな状況でも少しだけ恥ずかしかった。芳彦は年下だし背丈も殆ど変らないが、手は大きく強く、やはり男の子なのだと感じた。
「みなさんもう少しです、頑張りましょう」
「おう。……そういう科白は俺の肩から降りてくれりゃ、もうちっと決まるとは思うんだがな」
「仕方ないじゃないですか。母から預かった鬼はみんな使ってしまったんですから」
向日葵の鼓舞に井槌は若干眉を顰めた。
というのも、彼は溜那を抱きかかえたまま、肩には向日葵を乗せるという非常に器用な真似をしていた。
溜那は薬を飲んだ、しばらくは目を覚まさない。
向日葵に関しても仕方がない。彼女が連れてきた鬼は、追ってきた叡善配下の鬼共を足止めしてくれている。そうなれば向日葵は本当にただの女童。走るのも遅く井槌が足代わりとなっていた。
それ自体は何の問題もない。井槌とて鬼、幼い娘子二人抱えたところで負担にはならない。
ならないのだが、向日葵にうまいこと使われているようで何となく引っ掛かる。
「なんつーか、俺って結局こういう立ち位置なんだな……」
「縁の下の力持ち、ってことですか?」
「……ありがとよ」
芳彦が少しばかり良い表現をしてくれたので、多少は気が晴れたらしい。井槌は軽く笑う。
気合を入れ直し、全員が一心不乱に燃え盛る屋敷を駆け抜け、ようやく玄関に辿り着いた。
「うっしゃ、とっととずらかんぞ!」
最後の一歩、力強く踏み出して、勢いのまま外へ。
取り敢えずこれで火に巻かれる心配はなくなった。鬼も屋敷の外まではまだ来ていない。皆、安堵から表情が緩んでいる。
井槌もほっと一息、大きく深呼吸をしてから振り返り、皆の様子を確認する。
向日葵や溜那は当然無事。希美子は息が荒れている以外は大した怪我もなく、芳彦も問題なし。どうやら誰一人欠けることなく屋敷から抜け出せたようだ。
「どうにか助かった、か?」
「ええ、追手が来ないのは不思議ですが」
そういえば、途中から叡善の従える鬼達の数が目に見えて減った。
しかしこうやって無事に出られ、後は甚夜達を待つばかり。井槌は肩の力を抜いて、ほんの少し表情を柔らかくした。
「爺や、無事でしょうか……」
希美子の心配はやはりそこらしい。
殆ど動かない体で戦いに臨んだ彼の安否が気にかかるのだろう。燃え盛る炎を食い入るように見つめていた。
向日葵はそんな彼女を微笑ましげに見つめ、優しく窘める。
「希美子さん、信じて待ちましょう。すぐ帰ってきますから」
「でも」
「ふふ、大丈夫です。希美子さんが心配するのは、祝杯代わりの紅茶を上手く淹れられるかだけで十分ですよ」
くすりと笑ってちょっとおどけて見せる。
幼げな容姿も相まって、悪戯好きな少女といった印象だ。
勿論向日葵も甚夜を心配している。
しかし「負けない、絶対に勝つ」。そうは言わない。
南雲叡善程度、何を恐れることがあるのか。勝利は既に確定条件。態々言う必要もない。
向日葵の心配は怪我の程度、彼の傷や痛みに対する憂慮である。
「そうですよ、爺やさん。ちゃんと言ってたじゃないですか、紅茶淹れてくれって。負けませんよ絶対」
芳彦も向日葵に倣い付け加える。
それで少しは安心できたのか。そうですね、と不安に揺れる瞳のまま希美子はほんの少しだけ微笑んでみせた。
「ま、ぐだぐだ言ってても仕方ねーだろ。取り敢えずもうしばらく待つしか」
締め括るように井槌が希美子らへ声をかけ、
そして青ざめた。
たんっ、と軽い音が響いた。
火薬の爆ぜる音。井槌はそれが何の音か知っていた。
そいつは、待ち構えていたのだ。
燃え盛る屋敷。必死に走り何とか助かって、安堵し弛緩した空気。
揺らめく炎の向こうには、にこやかに笑う鬼が一匹。
そして手には拳銃。
吉隠は希美子の頭部に狙いをつけ、何のためらいもなく銃弾を放っていた。
「吉隠、てめええええええぇぇぇっ!?」
そもそも叡善配下の鬼達は忠義を抱いていた訳ではなく、己が目的のため取り敢えず従っていたに過ぎない。
それは吉隠も同じだ。
叡善が討たれた今もはや命令に従う義理も義務もなく、希美子や溜那の生存にもはや意義を見出していなかった。
故に軽い気持ちで引き鉄は引かれ、放たれた凶弾。
溜那を抱えた状態だ。気付いても井槌は動けない。今からでは間に合わない。
だから弾丸が肉を貫く瞬間を、何もできず眺めるしかなかった。
銃弾は無慈悲に突き刺さり、体が揺れた。炎の橙色の中、尚も赤々とした血が飛び散る。
井槌は、吉隠も、その光景を驚愕の目で見ていた。
「痛っ、いたい。へへ、痛い。すっごく、痛い」
芳彦の肩口から血が滴っている。
苦悶の表情。骨まで達しているだろうに、激痛の中それでもどこか嬉しそうだった。
本来なら銃弾を受ける筈だった希美子は、地面に転がっていた。芳彦が咄嗟に突き飛ばしたのだ。
凶弾に唯一反応できたのは、井槌でも向日葵でもなく。
一般人である芳彦だった。
「え……?」
一拍子、二拍子。思考が止まり、動き出し、ようやく希美子は現状を理解する。
芳彦が咄嗟に庇ってくれたこと、そのせいで彼が撃たれたこと。
まるで活動写真のように劇的な1シーン。一瞬そんな考えが過ってしまうほどに、眼前の光景には現実感がなく。しかし苦痛に歪む少年の顔が、これは現実なのだと如実に語る。
「芳彦さん、血。血が……」
「あは、はは。大丈夫ですよ、希美子さん。これくらいなんでもないですから」
痛みを必死にこらえ、希美子を安心させるように、にっこりと笑ってみせる。
事実当たったのは肩、死に至るような傷ではない。そも心臓に当たろうが脳に当たろうが、<戯具>がある以上芳彦は死なない。盾になるくらい今の彼には言葉通りなんでもなかった。
「うわぁ、無茶するなぁ。芳彦君」
演技染みた大げさな所作で感想を漏らし、目を大きく見開く。
反応するのならば井槌か向日葵だと思っていた。一般人である芳彦がいの一番に動いたのは、吉隠にとっても予想外である。
「無茶じゃないですよ、だって僕死なないんでしょ? それなら希美子さんのことを見捨てるなんて、そっちの方がよっぽど無茶です」
しかし芳彦にとっては反応出来て当たり前。
なにせ彼はある意味で井槌以上に吉隠のことを理解している。だから逃げる最中もずっと考えていた。
“吉隠さんは来る。お爺さんの命令だからじゃない。僕達が助かって、喜んで安心している瞬間に、僕たちのことを失意のどん底へ叩き落とす為に”
絶対に、何か仕掛けてくる。
読んだのは吉隠の考えではなく性格。
理ではなく、利ではなく。単なる嫌がらせの為に事を起こす。
そういう鬼だと、芳彦は初めから警戒していた。
「そっかあ、男の子だね」
奇襲を読み切られたが、吉隠は何処となく楽しそう、というよりも面白がっているように見えた。
にこにこと頬を緩ませる。お気に入りの玩具で遊ぶ子供のような無邪気さだった。
「それに引き替え、あーあ、冴えないなぁボク。結局最後まで芳彦君に上手く出し抜かれちゃったや」
これ見よがしに肩を落とし、あからさまな溜息を吐く。
言動は演技染みていて本心が何処にあるのかは読めない。
たんたん、とステップを踏むように吉隠は立ち位置を変える。おどけているのか踊っているのか、その立ち振る舞いも加わり本当に劇でも演じているかのようだ。
「まあいっか。結構楽しかったし、目的のものも手に入れたしね」
にっこりと笑う。
これこそが南雲叡善に従った理由だと吉隠は言う。
掲げて見せたのは、無骨な鉄鞘に納まった太刀。
甚夜の持つ夜刀守兼臣と全く同じ拵えをしたそれは、叡善が手にしていた<鬼哭>の妖刀である。
「何故、あなたがそれを」
問い詰めようとした向日葵を無視して、吉隠はひらりと屋敷の玄関口から距離を空けた。
熱せられ揺らめく空気の向こうに映った人影を一瞥する。
「ちょっと長居が過ぎたかな、怖いのが来ちゃったや。ごめんだけどボクもう行くね」
目的は達した。希美子は殺せなかったが、所詮ただの嫌がらせ。大して残念そうでもなく、どうでもいいといった様子で吉隠は話を切り上げる。
屋敷からは悠々というべきか、ふてぶてしいというのか。ひどく緩慢な歩みで人影が現れる。
“怖いの”が来た。
おそらくは、彼こそが叡善の手下どもが屋敷の外へ出られなかった理由だろう。手にした刀は血に濡れ、てらてらと妖しく輝いている。
岡田貴一は、ぎょろりとした目で吉隠を睨めつけていた。
「そう言うてくれるな。どうだ、少し斬りおうてから帰らぬか?」
「あはは、絶対イヤ」
偽久でも勝てなかった相手だ、結末など分かり切っている。
逃げると決めてからの行動は早かった。すぐさま離脱し、姿は一瞬にして見えなくなる。貴一も興味を失ったのか、追うことはしなかった。
しかし井槌は逃げていく吉隠を強く睨み付けていた。
「あんのやろ……!」
「井槌さん、駄目ですよ追っては」
「分かってら、畜生が」
向日葵に諌められ臍を噛む。
当然だろう、この中で吉隠と一番付き合いが長いのは井槌である。
だからこそ好き勝手振る舞い逃げていく姿に、多少ならず怒りが沸いてくる。とはいえこちらも命辛々逃げだしたところだ、実際追うだけの余裕はなかった。
「芳彦さん、て、手当てしないと、ああ、でもどうすれば」
しばらくして場が落ち着き、頭が動くようになった希美子の第一声は、何よりもまず芳彦の心配だった。
しかしお嬢様である彼女が応急処置のやり方など知っているはずもなく、おろおろとするしかない。
反面、芳彦は落ち着いている。
本当ならば死んだ筈の身だ、今更この程度の傷で慌てることはなかった。
「本当に、大丈夫ですから」
「ですけど、その傷は私を庇って……」
「へへ、僕だって男の子ですから。いざって時はね」
あまり気にしないでもいいように、殊更明るく振る舞う。
強がりだ、命に別状はないとしてもひどく傷むのだろう。分かっているからこそ井槌も快活な態度を崩さず、からかうような調子で声をかけた。
「お前さん、なかなか根性座ってるよ。男だから女を庇うのは当然ってか?」
しかし首を横に振り、芳彦は穏やかに否定した。
「違いますよ。男だから、譲れないことってあるでしょ? ……多分、命なんかより守らなきゃいけないものってあるんですよ」
例えば、男の子の意地とか。
そう付け加えた芳彦の顔付きは、今までと変わらない、素直な少年のままだ。しかしどこか大人びても見える、そういう穏やかな笑みだった。
別に男だから女を守った訳ではない。希美子に惚れているから格好つけたのでもない。
ただ、一度死んだ身だからこそ、意地だけは守りたかった。
“お前らなんかの思い通りになってやるもんか”
そんな、ただの意地っ張り。
それがたまたま希美子を守るという形だっただけのこと。
吉隠の<戯具>によって生かされた芳彦には、他人に握られた命よりもちっぽけな意地の方が余程大切だと思えた。
「……いや、なんつーか、すげえよお前」
からかったつもりが、打ちのめされた。
井槌は、芳彦という少年の認識を改めた。
最初は単なるキネマ館のモギリ。次は吉隠の手にかかった哀れな少年。その程度にしか見ていなかった。
それがどうだ、実際にはこんなにも強い。或いは、自分なんかよりも遥かに強い在り方だと井槌には思えた。
芳彦の言葉を聞き終えて、希美子はそっと手を伸ばした。
小さな手で彼の手を取り、俯いたまま今にも泣き出しそうな顔をしている。
「希美子さん?」
暖かい感触が彼の手を包み込む。
先程は慌てていたこともあり、然程気にはしていなかった。
けれど彼女の手は柔らかく、指はほっそりとしていて、今更ながらに女の子なのだと強く意識させられた。
「……ごめんなさい。私、芳彦さんに助けられてばかりで。本当に…ごめん、なさい……」
口を突いて出たのは心からの謝罪。
悔いるような響きが胸を締め付ける。芳彦は何故希美子がそんなことを言うのか分からなかった。
「そんな、謝らないでください」
そも謝られる謂れなどない。
芳彦は吉隠に命を握られていた。だからこそ希美子は甚夜達に薬を飲ませ、南雲の屋敷に足を運ばなくてはならなくなった。
そうなれば、今まで隠れていた元凶も姿を現すだろう。
その状況を利用して、南雲叡善を討つというのが芳彦の考え。つまりは希美子を囮にしたのだ。
たとえそれが彼女の為であったとしても、利用したのは事実。
自分のくだらない意地に巻き込んだ。謝罪も礼も受ける筋合いはなく、寧ろ責められると思っていた。
だから「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続ける希美子に、芳彦はどうすればいいか分からず、ただ立ち尽くしていた。
「僕はただ、意地を張っただけで」
「……やめておけ」
零れだした懺悔を遮り、鉄のように硬い声が響いた。
皆一様に振り向けば、炎に呑み込まれ、轟音を立てて崩れ去る屋敷。
そして、それを背に堂々と立つ甚夜の姿があった。
「じい、や」
一番に反応をしたのは希美子だった。
けれど動けずにいる。自分を助けてくれた爺やの無事が嬉しくて、そんな彼を裏切ったことが辛くて。自分を庇った芳彦の傷が悲しくて、それでも笑う彼をどう思えばいいのか分らなくて。
溢れかえる感情を処理できず身動きが取れない。
そんな希美子の傍へゆっくりと歩き、甚夜はまるで子供をあやすように、ぽんぽんと二度三度優しく頭を撫でた。
「う、あぁ、あああ、ああ」
それで限界を超えた。
決壊したように零れる涙。その意味さえ分からなくて、希美子は顔を上げることも出来ず泣き続けた。
その様子に慌て芳彦は声をかけようとした。しかし甚夜は首を横に振り、口元に人差し指を持ってきて、何も言わなくていいと示してみせる。
「誰一人欠けることなく終わりを迎えた……ありがとう、芳彦君。君は確かに希美子を守ってくれた」
芳彦の憂いを察していたのだろう。
言葉を封じたのは希美子ではなく、芳彦の為。厳めしい顔の男だ、おどけた所作はあまり似合わない。
けれど彼は芳彦のことを認めてくれた。
お前のちっぽけな意地は確かに意味があったのだと。
その心遣いが嬉しくて、だから何も言わずただ頷いて返す。甚夜は答えるように口の端を釣り上げた。それで十分だった。
「おじさま、お疲れ様でした」
「お前もな、向日葵。色々と手を煩わせた」
「貴方の為なら。でも、ご褒美があると嬉しいです」
向日葵の幼げな笑顔は誰かを思い出させる。
表情には出さず、甚夜は短く「ああ」とだけ答えた。
「じいやぁ……」
「もう、駄目ですよ希美子さん。泣いてばかりじゃなくて、伝えなきゃいけないことがあるでしょう?」
いつまでも泣き続けている少女に向日葵は苦笑する。
幼い容姿をしているのに、まるで姉のような物言いだ。彼女の鈴の音のような声に希美子は、まだ甚夜に何も言っていないことを思い出した。
けれど、なんと伝えよう。
ごめんなさい? きっと、爺やは困るだろう。
私のせいで、なんて言ったら怒られる。
後悔ばかり先に立って、自分で自分が情けなくて。
言いたいことは沢山あるけど上手くは言えなく。
でも伝えなきゃいけない心は、いつだってシンプルに。
「爺や、あの、わたし」
「はい」
静かに頷く。ちゃんと話せるようになるまで、爺やは待ってくれている。
だから希美子は涙を流しながらも、精一杯の笑顔を贈る。
「……守ってくれて、ありがとう」
飾りはいらない、心から溢れ出た暖かさをそのまま形にする。
ありがとうが、まっすぐ貴方へ届くように。
「こちらこそ。守られてくれて、ありがとう」
甚夜は穏やかに笑みを落した。
返した言葉、そこに込められた意味に希美子が気付くことはないだろう。
けれどそれでいい。
本当に助けてくれたのは希美子だ。
今まで大切なものを守れたためしがなかった。そんな情けない男に守られ、助かってくれた。
それがどれだけ救いとなったことか、きっと彼女には分からない。
分からなくて、よかった。
泣きはらした笑顔がすぐ近くにある。
ひどく些細な戦果が、不思議なくらい心を満たしてくれる。
「ま、これで一件落着ってとこか?」
「しーっ、井槌さん。今は邪魔しちゃダメですって」
空気を読まない井槌とそれを嗜める芳彦。
何処か気の抜ける遣り取りさえも心地よい。
「さあ、お嬢様帰りましょう。祝杯代わりの紅茶を淹れてくれませんか」
「はいっ、腕によりをかけますね!」
多くのものを失くしてきた。遠き日々は今も色褪せることはなく。
それでも、この景色だって、確かに大切なのだと。
ちゃんとそう思えた。
南雲の屋敷を離れ、思い出したように吉隠は呟く。
「あ、忘れてたや。芳彦君の、ちゃんと解いとかないとね」
ぱちん、と指を鳴らした。
<戯具>はそれで解ける。
こうして、夜は終わった。




