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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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128/216

『終焉の夜』・2




 纏わりつく黒煙が肌を焼く。息を吸えば肺が焦げる。

 勢いを増す炎に呑み込まれ、奥座敷は橙色に染まっていた。

 器物が爆ぜる音。床も壁も燃え渡る。熱せられた空気に目の前が歪んだ。

 火のまわりは異常なほどに速い。芳彦の仕込みの成果だ、このままでは四半刻も持たずに屋敷は焼け落ちるだろう。

 しかし何も問題はない。屋敷が完全に燃え尽きるより早く南雲叡善の命を削り切るのみ。


「向日葵、済まないが希美子達を頼む」


 流石に叡善を相手取りながら、吉隠や雑魚の鬼を抑えることは出来ない。

 すぐにでも焼け落ちそうな屋敷だ、早々に脱出するべきだろう。意識を逸らさぬまま向日葵に指示するが答えたのは予想外の声だった。


「そいつは俺に任せてくんねえか、鬼喰らい」


 遅れて姿を現したのは、つい先達て斬った大鬼。

 傷が痛むのか他の理由か、井槌は苦虫を噛み潰したような顔で、それでもずいと一歩前に歩み出た。


「井槌……何故ここに」

「いや、向日葵の嬢ちゃんに誘われてよ。生き恥晒したついでだ、もうちっと恥をかくのも悪くねえって思ってな」


 頬を掻きながら誤魔化すが、そこに仄暗いものは感じられなかった。

 真意の程は定かではないが、案外罪滅ぼしだったのかもしれない。

 己の弱さを認められず、南雲叡善に付き、年端もいかぬ少女達の犠牲を容認した。ならばこそ弱さを受け入れた今、もはや奴らの所業を良しとは出来なかったのだろう。


「あれ、井槌。生きてたんだ」

「まあ、なんとかな」


 仲間の生還を知り、しかし反応はあまりに軽い。

 叡善はなんの興味も示さず、吉隠の態度も喜びを感じさせるものではなく、心底どうでもいいといった様子だ。


「というか、生き残ったんならこっちに戻ってくるのが筋じゃない? なんでそっちにいるの?」

「……俺が弱いって、分かったからさ」


 絞り出した言葉の意味が、吉隠には分からない。

 分からなくていいと井槌は思った。

 だからそれ以上問答は続かない。追及する気もないらしく、吉隠は面倒くさそうに小さく肩を竦めた。


「ふむ、そこな大鬼が子守をするならば、儂は雑魚をもらうとしようかの」


 言いながら貴一は吉隠に、叡善の周囲にいた数匹の鬼へ目を向ける。


「……岡田貴一」

「かっ、かかっ。案ずるな、ぬしの矜持を濁らせるような真似はせぬ。手出しはせん、出すとしてもぬしが死んでからよ」


 手出しはしない、代わりに手助けもしない。その上で甚夜が死ねば南雲叡善は斬る。

 岡田貴一はそう言っている。この手の状況に限れば、なんとも頼りになる男だ。その濁りのない在り方は、かつて憧れた姿のままだった。


「有難い……が、済まないな。お前の出番はない」

「鬼風情が大層な口を利くものよ」


 下劣な化生の戯言に叡善は歯噛みする。

 澱となった感情は嫌悪か憤怒か、目は暗く、ひどく濁っていた。

 甚夜はだらりと両手を下げ、隙だらけの構えで怨敵と相対する。

 両者は摺足で間合いを調整しながらも睨み合う。

 話している最中に奴が攻め入ろうとしなかったのは、甚夜も貴一も隙を見せなかったからだ。ここで与し易しと攻めてくれれば儲けものだったが、頭に血が上っていてもそこまで迂闊ではないらしい。

 とはいえ、そろそろ頃合だろう。


「井槌、任せるぞ」

「へ、へへっ。おう!」


 任せるという言葉が嬉しかったのか、力強く答えてくれた。

 芳彦の代わりに溜那を抱え、奥座敷からすぐに立ち去ろうとする。

 有難い。ここからはちと刺激が強くなる。井槌や向日葵は兎も角、年若い希美子達に見せるのは酷だ。


「……あ、あの、爺やさん!」


 出ていく前に、鉄のような背中へと芳彦は声を投げかけた。


「どうした」と、甚夜は短い返事を返す。

「……えと、ですね。僕の代わりにそのお爺さん、一発殴っといてもらっていいですか?」


 予想外に乱暴な科白だ。

 そんなことを言うようには見えなかったのだが。井槌は純粋に驚き、少年の態度が面白くて快活に笑った。


「言うじゃねえか、おい」

「あはは、僕じゃできそうにないですし。でも、結構怒ってるんですよ」


 希美子さんにひどいことをしたんですから。

 言外に籠めた意味を間違えない。甚夜はそう思ってくれる芳彦に感謝し、「任せておけ」と振り返らずに返した。


「爺や……」


 井槌が先導し芳彦もそれに続いたが、希美子だけは足を止めていた。

 燃え盛る屋敷に残ろうとする甚夜を、心配そうに見つめている。


「お嬢様、先に戻っていてください」


 甚夜はほんの少しだけ表情を硬くした。

 そういう目には、ちょっと弱い。野茉莉も、鈴音も。戦いに赴く彼を送り出す時、そんな目をしていた。


「……できれば、もう一度紅茶を」

「え?」

「祝杯を上げようにも、未成年が多いですから。酒の代わりに紅茶を振る舞っていただければ皆喜びます。……もちろん、私も」


 だからだろう、らしくないことを口にした。

 どうせ勝つのだから、その後の祝宴のことでも考えていてくれ。

 無論、そう言い切れるほど余裕がある訳ではない。それでも大見得を切った。

 置いてきぼりにされて、寂しさに耐えるような。彼女にそんな目をしてほしくはなかった。


「はいっ。……ですからちゃんと、帰ってきてくださいね」


 瞳を潤ませながら、それでも気丈に笑う。

 さあ、行きましょう。後ろ髪を引かれながらも、向日葵に促され希美子は動き始めた。


「吉隠よ」

「はぁい」


 叡善の命令に従い、吉隠もまた姿を消した。

 希美子達を追ったのか、それとも別の目論見か。次の行動は読めないが、後は井槌らを信じるしかあるまい。

 そうして奥座敷に残されたのは甚夜と叡善、貴一と数匹の鬼だけ。



 ───もはや語ることもない。此処に決着をつけよう。



 奥座敷に沈黙が訪れ、在るのは荒れた海を思わせる炎の呻きだけ。

 南雲叡善は微動だにしない。炎さえも凌駕する苛烈な敵意は、甚夜のみに向けられていた。

 張り詰めた空気さえ燃やし尽くす熱気。ぱんっ、と焼けた器物が音をたてて爆ぜる。

 叡善が動いたのはそれと同時だった。

 声もなく音もなく、老翁は忍び寄る。真正面から距離を詰めたというのに、その挙動は“忍び寄る”としか表現できない程に静かで無駄がなかった。


「しゃぁ……!」


 手には<鬼哭>の夜刀守兼臣。鞭を思わせる、しなやかな一太刀。炎を受けて橙色に輝く刃は、正確に首を狙っている。

 兼臣でそれを受け、力任せに払う。返す刀、夜来を袈裟掛けに振るう。

 しかし叡善の方が早い。甚夜の一刀は空しく空を切った。

 止まらない、更に追撃をかける。それでも叡善が一枚上手。捌き、防ぎ、合間をぬった反撃の刃が皮膚を容易に裂く。


「どうした、鬼喰らい。随分とのろくなったのう」


 叡善は攻め手を止めない。 

<鬼哭>の妖刀より立ち昇る黒い瘴気。

 夜刀守兼臣に封ぜられた鬼の力を無理矢理に引き出しているのだ。瘴気は刀身にまとわりつき、一回りも二回りも刃を大きく変える。

 高々と刀を掲げ、刃が霞むほどの速度で振り下す。力任せの、芸のない斬撃だ。


「……っ!」


 なのに、一太刀が、重い。

 老いて衰えた体から繰り出される、規格外の一刀。避けきれず防がされ、それでも止めきれない。瘴気の刃が肉を裂き、血飛沫が舞う。

 裂けたのは皮膚と肉、骨までは達していない。刀身自体は止めたのに、瘴気が届き彼を斬ったのだ。

 幾つもの命を溜め込む叡善ではあるが、純粋な力量で言えば甚夜の方が上。故に二者は拮抗していた。


「く、はは。そうか、何故あの薬を飲んで動けるのかと考えておったが……ちごうたか」


 しかしここに至り拮抗は崩れ、甚夜は劣勢に立たされていた。

 叡善は哂う。

 鬼喰らいの無様な動きに違和を覚え、それは数合の斬り合いの後確信に変わる。


「鬼喰らいよ、貴様……動けておらぬな?」


 ──世の中に、都合のいい話は幾つも転がっていない。


 葛野甚夜はそれを経験則で知っている。

 勝利を誓い、守るべき者の為に刀を振るい、背中に多くの人の願いを背負ったとしても。

 幾ら想いを積み重ねたところで、その全てを真っ向からねじ伏せる暴威というものは存在する。

 事実彼は大切だと思えるものを積み重ね、力以外の強さの価値を知りながら、“ただ強い”だけの相手───マガツメに敗北を喫した。

 甚夜自身様々なものを積み重ねてきた身だ。その価値は疑いようもなく、心から大切だとも思う。

 それでも、心意気では覆せないものもある。

 例えば現状もまたその一つ。

 南雲叡善の指摘する通りだ。

 有体に言えば、甚夜の体は今も薬効により痺れ、指一本動かないままだった。


『旦那様……』

「……そう心配するな」


 兼臣は心配そうに声を掛けた。

 思った以上に早く種が割れたな、と甚夜は苦笑する。

 当たり前のことだ。精神力だけで体が動くようになるならば苦労はない。

 実際問題として、戦っている最中さえ頭の中は酩酊しており、気を抜けば思考が途切れてしまいそうになる。

 それでも昏倒せずに済んでいるのは、自ら刃で腹を裂き、痛みで意識を繋ぎ止めているからだ。

 動けない筈の体での戦闘も<御影>……自身を傀儡とする<力>によって、未だ痺れたままの体を無理矢理動かしているに過ぎない。

 からくりを看破し、今の甚夜は脅威足りえぬと知ったためだろう、叡善は無遠慮なまでに攻め立てる。

 防戦一方、剣を辛うじて捌くも、傷が増えていく。

 圧倒的な不利。甚夜は当然の如く窮地へと追いやられていた。


「無様よのう。たらふく命を喰ろうてきたというのに、無駄になりそうじゃ」


 叡善の侮辱に、ふうと息を吐く。

 確かに状況は悪い。甚夜自身の戦力は通常時と比べれば半分以下だ。 

 それでも、その程度で屈するようであれば、とうの昔に死んでいる。そういう道を歩んできた。


「……そうか、それは結構」


 されるがままは性に合わない。

 体が上手く動かない以上、<剛力>や<疾駆>といった肉体に作用する<力>はあまり意味がない。

 それでも戦う術はある。

 こちらから距離を詰め、振るう白刃。掠めるも躱され、返す刀が首を狙う。

<地縛>。

 鎖で敵の刀を絡め取り、いや、できなかった。瘴気を纏った一刀は容易く<地縛>を砕く。とは言え僅かに切っ先は逸れ、その隙を狙って大きく踏み込み、刺突で喉を貫く。


「ぐぬぁ……!?」

「精々油断していろ。その内に幾らか命を貰っていくぞ」


 刀を引き抜くと同時に、甚夜は間合いを詰め、既に跳躍している。人体の構造上無理のある動きだ。それを可能とするのが<御影>、操られるままに体はあり得ぬ動きを為す。

 夜来で叡善の肩口を上から突き差し体を固定、勢いを殺さぬまま頭蓋を膝蹴りで叩き潰す。

 ごしゃりと潰れた頭部、脳漿が飛び散った。

 確実に命を奪った。並みの相手ならここで終わる。


「……ふぅむ、確かにこれは迂闊であった。厄介なのは変わらぬか」


 しかし南雲叡善は自身が殺されている隙に攻勢へ転じる。

 老翁の嘲りと共に、黒い瘴気は凝固し槍の形となった。降り注ぐそれは一つ一つが<不抜>でさえ防げぬ一撃。

 手数が足りない。<犬神>、己以外の手を借りて叡善の剣戟を、黒い瘴気を防ぐ。

 一匹二匹、三匹目。<犬神>は盾となり槍に貫かれ、その隙に<御影>で体を無理矢理動かし体を捌く。

 が、あまりに数が多すぎた。


「ちぃ」


 二本、防げなかった。

 左足を腹を貫く黒の槍。焼ける。痛みの質は裂傷よりも火傷に近い。腹には自分でつけた傷もあり、結構な量の出血だ。

 しかしこちらもやられるだけでは終わらない。

 槍による猛攻、その合間を縫うように一太刀。鋭い刃は既に叡善の腹を裂いていた。


「手癖の悪い鬼よ」

「お前が鈍いだけだろう」


 幸いにも<御影>によって動く体、痛みで立ち止まることはない。

 一挙手一投足の間合い。更に攻める。右足を軸に体を回し、二刀連撃。夜来は老翁の肺へと食い込み、残念ながら兼臣は止められた。

 声には出さない、表情も変えない。しかし甚夜は少なからず驚愕した。

 南雲叡善は、兼臣による横薙ぎの一刀を防いだ───素手で、刃を掴んでいた。


「温いぞ、鬼喰らい」


 それだけならいい。元々幾つもある命、多少の怪我など奴は気にしない。

 けれどこの攻防は違った。素手で刃を掴み、だというのに皮膚を斬れていない。

 南雲叡善の腕は、黒く変色していた。

 力任せに刀を払われる。堪えることも出来ず、一緒になって甚夜は投げ飛ばされた。それは既に八十を超える老翁の膂力ではなかった。


「……変質、いや浸食か」


 黒い瘴気は<鬼哭>の妖刀、其処に封じられた鬼の<力>。

 それを使い続けたことで、体が“馴染んだ”のだろう。

 つまり、南雲叡善は化け物に近付いているのだ。

 鬼を嫌う男だ、意図したものではない。だとしてもこれはまずい。ただでさえ命を貯蓄する理外の存在、このまま肉体が化生となり強度を上げれば勝ち目はなくなる。


 ならば決着は迅速に付けねばなるまい。

 着地すると同時に再度間合いを詰め、隙を狙って叡善の左腕を夜来で斬り落とす。

 しかし止まらない。傷を負いながらも放ったのは先程の瘴気の槍だ。

 甚夜は冷静に迫りくる槍を睨み付け、同時に<地縛>を、


「く、かか」


 ぞくりと、背筋が冷たくなった。

 愉悦に満ちた笑み、その薄気味悪さに凍り付く。先程の気迫とは打って変わった平静さ。目はこちらを値踏みするよう、見下すようだ。

 槍も叡善もまとめて<地縛>で打ち据える筈だった。

 しかし此処に来て、<鬼哭> の妖刀は今まで以上に唸りを上げる。黒い瘴気が一気に噴き出す様はまるで間欠泉だ。

 一太刀で終わらせる、そう言わんばかりの力が満ちている。受けるどころか掠ることさえ許されない。

 甚夜はすぐさま攻撃を取りやめた。瘴気の槍を夜刀守兼臣で薙ぎ払い、後ろへ飛び退く。地に足が付いた瞬間腰を落とし、すぐさま動き出せるよう身構えた。

 それが一手の遅れ。

 あちらは退魔の名跡。鬼を討つ術など十分すぎる程理解している。

 頭か首、或いは心臓。狙うならば一点で急所を突いてくるだろう。



 その考え自体が、二手目の遅れとなった。



 南雲叡善が間合いを詰める。

 振るわれた一刀は急所を狙ったものではなかった。体からも微妙にずれた見当違いの一撃、速度もない。しかし掠るだけでも致命傷となる。甚夜は体を捌き、更に距離を開けようとする。

 一歩引いた瞬間、バネ仕掛けの玩具のように叡善の速度が跳ね上がった。


「……っ」


 黒い瘴気は刀身だけでなく、叡善の腕もまた覆っている。

 浸食が進んでいる。その影響か、動きは更に速くなっていた──甚夜の予想を大きく上回って。

 急激な速度の上昇、結果として真正面から意表を突く形になった。

 それでも警戒した急所への一撃ならば反応できたかもしれない。しかし叡善の意図は違った。

 だから、反応も遅れてしまった。


「遅いのう」


 動きよりも、気付くのが遅かった。

 南雲叡善は妖刀使い。そして元々の兼臣の所有者。ならば<御影>の妖刀の能力は知っていて然るべき。

 つまり奴の目的は首でも心臓でもなく。



────初めから、甚夜を操る夜刀守兼臣にあった。



 回避の為、崩れた構え。無防備となった兼臣を狙われた。

 まるでガラス細工のようだ、そんなことを思った。

 南雲叡善の一撃により、甲高い音をたて、粉々に砕け散る刀身。

 それで終わり。甚夜の体を操る<御影>の夜刀守兼臣は砕けた。瞬間、がくりと膝が落ちる。しかし倒れ込むことさえ許されない。


「消えよ。現世を蝕む害虫めが」


 追撃の一閃。咄嗟に動いたのは兼臣だった。残る最後の<力>で己を盾にし、せめて迫り来る瘴気の斬撃を甚夜から遠ざける。

 甚夜もまた諦めてはいない。意味がないと知りながらも<不抜>を使い、更に<地縛>。鎖を網のように編んで前面へ張る。

 どれだけ意味があったのか。鎖は粉々に砕け散り、そして直撃。今迄とは比べ物にならないほどの斬撃がその身を焼いた。

 甚夜の体は吹き飛ばされ、屋敷の壁に勢いよく衝突し、それを砕いて転がっていった。


「くか……かっ。くか、かかかか! 所詮は鬼よ、南雲の前に立ちはだかるなぞ思い上がりが過ぎるというもの!」


 散々手を煩わせてくれた鬼喰らいは、こちらの狙い通り地に伏した。

 これが笑わずにいられるかと、叡善は狂ったように叫び散らす。

 生死はまだ確認していない。しかし<御影>の妖刀を砕いた。もはや為す術は残されておらず、動けないあれの首を斬り落とすだけで決着がつく。

 だがすぐに止めは刺しに行けない。まだ敵が残っている。


「鬼喰らいも始末した。次は貴様か!」


 叡善は傍観を決め込んでいるもう一匹の鬼へと敵意を向けた。

 既に雑魚共を斬り伏せ、貴一は約束通り手出しせずに彼等の戦いを静観する。

 その目は興醒めだと言っている。力を出し切れぬ甚夜と、それでも尚殺し切れぬ叡善。貴一からすれば見世物としては下の下、退屈極まりないものだった。


「あれが死ぬまで手出しはせぬ。其処を違えるつもりはない」


 やるつもりならば先に甚夜を殺せ。

 表情も変えず貴一は言い放つ。


「助けぬのか」

「余計な横槍はあやつの矜持を濁らせるだけであろう」


 そのような無様を認められるならば、そもそも甚夜は此処には来なかった。

 だから貴一は助けない。死ねばそれまでの男だったというだけの話だ。

 半信半疑ながらも叡善は貴一から視線を切った。

 鬼の言うことだ。どこまで信用できるかは分からないが、少なくともあの鬼は加勢しようとはしなかった。助けるつもりがないのは事実だろう。

 ならば先に止めを。

 先程斬り落された腕を拾い、赤々とした断面を繋ぎ合わせれば、容易く腕は元に戻った。

 後は、害虫の首を落とすのみだ。






 * * *






 体が動かない

 心臓、肺など臓器は無事。皮膚と肉は抉られている。腕と肋骨、骨は少しばかりいかれた。

 幸いなのは痛みで意識がはっきりしている点だろうか。しかし動けないのでは意味がない。


『……ご無事ですか』

「辛うじて、生きてはいる」


 兼臣はこちらを心配し、震えるような声を絞り出す。

 無事かどうかというのならば、刀身の砕けた兼臣こそ無事でないだろう。

 兼臣は、刀だった。

 ならば刀が砕ければ、当然ながら彼女も。


『旦那様、やはり貴方の意思を受け、私が操るのでは南雲叡善には届きません。ですから、私に考えが』

「却下だ」


 提案は一切聞かずに斬り捨てる。

 いい加減付き合いも長い。彼女の言いそうなことなど分かっている。しかし認めない。認めたくはなかった。

 にべもなく拒絶する甚夜に対し、返ってきた言葉はひどく柔らかかった。


『ありがとうございます、旦那様。貴方は、本当に私を想ってくださった』


 刀として、一個の人格として、大切にしてくれた。

 それが兼臣には嬉しかった。嬉しかったから、素直に、彼の為に在りたいと願えた。


『どのみち、刀身が壊れた以上長くは持ちません。私を生かす為にも、どうか』


 甚夜も本当は分かっていた。

 彼女の提案は正しい。それが、現状の打破につながるということも。そもそも他の手立てがないことも、十二分に理解していた。

 そうだ、動かない体を動かすに簡単な方法がある。

 彼女を喰えばいい。

 兼臣に体を操らせるのではなく、自分で自分の体を操る。

 自身の想定通りに体躯を動かせれば、先程のように遅れをとりはすまい。


 しかし甚夜はそれを素直に是とは出来なかった。

 理に沿った考えではない。咄嗟に出た否定は単なる感傷だ。

 だから兼臣は反感を抱くどころか穏やかな声になった。隠しきれない暖かな想いが滲んでいるようだ。


『かつて秋津様は仰っていました。私の収まり所は貴方だと。ええ、それは本当でした』


 器物が人の手に渡るのは偶然ではなくて、物自身がその人の下に行きたいと願うから。

 三代目秋津染吾郎はかつてそう言っていた。

 兼臣は思う。今ならその言葉を理解できる。

 思い出すのはかつてのこと。南雲和紗を、主を守れなかった刀が辿り着いた、“刀一本で鬼を討つ剣豪”。

 偶然の出会いを経て、いくつかの歳月を越えて、いつしか彼こそが主となった。

 和紗の代わりではない。兼臣自身が、彼の傍に在りたいと願ったからこそ、今も此処にいる。

 ならば、それはおそらく──


『おそらく……今日この時の為。貴方の力となる為に、私の今迄は在ったのでしょう』


 ───面映ゆくはあるが、運命というものではないのだろうか。


 万感の意を込めた告白に、深い想いを知る。

 甚夜もこれ以上拒否は出来なかった。すれば、彼女を汚すことになる。


「……分かった。ならば、力を貸してくれ。お前が必要だ」

『当然です、旦那様。私は貴方の妻ですから』


 茶化したような物言い、兼臣の声は弾んでいた。


「この状況で随分と嬉しそうだな」


 疑問をそのまま口に出せば、楽しそうに返ってくる。


『ええ、勿論です。なにしろ今まで旦那様が出逢ってきた女性の中で、私が一番と証明された訳ですから』


 何を、と問うよりも早く溢れ出る心。




『死が二人を別つまで……そう望まれるのは、女の誉れというものでしょう』




 比喩ではなく、これから二人は一つになる。

 生きる限り別たれることはなく、共に同じ死の床へ横たわる。

 それがこの上なく嬉しいのだと、兼臣は言う。 

 ああ、それで最後の躊躇いが消えた。

 甚夜は動かない左腕に、それでも力を籠め───






 ***






 燃え盛る炎。熱気に歪む空気の中、南雲叡善は一歩を踏み出す。

 何気ない動きだった。伏した相手に止めを刺すだけ。そもそも不意を突かれたとて然程問題はない。

 死ぬが、死なない。故に彼の所作は迂闊というよりも自負、自負以上の傲慢である。

 もはや確定した勝利を拾いに行くだけのこと。警戒なぞする筈もない。

 だから当たり前のように、彼は歩き。

 

「……がぁ!?」


 当たり前のように心臓を貫かれ、当たり前のように命を落とした。

 傲慢は確かにあった。さりとて腐っても退魔の名跡、生半な不意打ちなど受けぬ。傲慢が許されるだけの技を叡善は持っている。

 しかし避けられなかった。弾丸を思わせる速度で踏み込んできた甚夜は、僅かな躊躇いや動揺もなく一瞬で心臓を抉り取った。

 今迄見せていた、操られるが故のぎこちない動きではない。

 此処に至り、以前通りの“鬼喰らい”が戻ってきた。


 何故、と。叡善は視線で問うていた。

 夜刀守兼臣が砕けた今、甚夜を支える者はない。薬効で痺れ、それだけではなく骨も折れている筈だ。

 肉も抉れ大量の出血、そもそも薬など関係なく動ける状態ではない。

 だというのに、何故動けるのか。


「<御影>……己が体を傀儡と化し操る。例え骨が折れようと、肉が削げようと、臓器が潰れ腱が千切れ身動き一つとれなくなっても戦い続けることのできる<力>。これで、ようやくまともに戦える」


 そして気付かされる。

 この男は、不愉快ではあるが同種。南雲叡善が人の命を貪るように、葛野甚夜は鬼を喰らう。

 故に疑問など呈するまでもなく、これは当然の帰結だった。


「浅ましき鬼よ。<御影>の妖刀まで喰らったか」

「……ああ。元より退くつもりはないが、尚更負けられなくなった」 


 かつて憧れた、澄み切った強さとは程遠い。

 手にしたのは余分を背負い濁り切った太刀だ。

 刀身は重く、刃は鈍り。

 だからこそ負けられない。


「お前の命、この攻防にて削り切る」


 此処で、下らない因縁を終わらせよう。



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