『去りてより此の方、いつかの庭』・2
はっきり言えば充知は蚊帳の外だった。
二刀を構えた男──葛野甚夜は斬り殺した老翁から目を逸らそうとはしない。
「やれやれ」
それも当然だろう。
老翁はまだ動いている。首は切り落とされたまま、胴体から離れた頭部が言の葉を紡ぐ。
化け物を斬ったと思った。
斬ったのは事実、しかし相手は真実化け物だ。切り落とされた首を拾い、切り口を繋げる。
それだけ。たったそれだけで、離れた首と胴体は本当にくっついてしまった。
「ひぃ……」
なんだあれは。首が、首を斬られているのに。
当たり前のことだが、大抵の生き物は首を落されれば死ぬ。だというのにあの老人はそれでも生きている。違う、死んだのに生きているのだ。
非現実的なおぞましい光景に充知は怯え、顔色は真っ青になる。
対して甚夜は一切の動揺なく、平然とそれを観察していた。
「再生……いや、違うな。蘇生、か? なんにせよ、食いでのありそうな鬼だ」
理外の異形なぞとうの昔に見飽きている。
充知にとってある意味で幸運だったのは、甚夜が貪欲だったことだろう。
逃げる気な微塵もない。もとより介入は助ける為ではなく目前の化生が理由だ。
葛野甚夜は十年の間に、鬼喰らいという悪名を得ていた。
野茉莉を失い、染吾郎を殺され、京を離れた。
間違いではないと夜鷹に諭されても、己が無力を痛感していた。
だからこそ喰った。鬼を喰らい、<力>を求めた。
それを止める者はいない。彼の隣には誰もおらず、兼臣もまた止めはしなかった。
甚夜にとって目の前の老翁は討つべき怪異ではなく、単なる捕食対象に過ぎないのだ。
「鬼に鬼呼ばわりされるとは……儂は人ぞ」
「人を名乗るにはちと外れ過ぎていると見えるが」
「おぞましいことを……貴様らと一緒にしてくれるな。それよりも」
目が鋭さを増した。なのに空気の粘度が高まった。
今更怯みはしない。南雲叡善が纏うのは甚夜にとって慣れ親しんだ感情だ。
「何故、それを手にしている」
苛烈で、しかしどろりと淀む、粘つくような憎悪が老翁の目には宿っている。
殺されたことよりも甚夜が手にしているもの、それを己が物と振るうことにこそ憎しみは注がれる。
「夜刀守兼臣……<御影>の妖刀は儂が和紗に贈ったもの。何故貴様がそれを構えるか」
鬼に愛娘を奪われ、贈った筈の刀を鬼が振るう。
南雲叡善にはそれが許せなかった。
人喰いに堕ちた彼の憎しみは、人らしい真っ当で純粋なものだった。
「兼臣」
『……旦那様の想像の通りです。あの方は、南雲叡善様。和紗様の実父にあらせられます』
「そう、か。なんとも奇縁だな」
遠い遠い昔の話だ。
古くより続く退魔の名家。父を尊敬する娘。そんな娘を想い、一振りの刀を贈った父。
刀など似合わぬ少女。だからこそ、意思を持つ刀は力になりたいと思った。
しかし平穏は崩れ去る。
マガツメの娘によって南雲和紗は殺され、彼女に贈った妖刀・夜刀守兼臣は秋津染吾郎の手によって“刀一本で鬼を討つ”と謳われる男の下へ辿り着く。
甚夜からすれば既に終わった話。百鬼夜行に至る途中で知った兼臣の経緯に過ぎない。
「<御影>の妖刀よ。何故、鬼に従っておる。そやつらは和紗の命を奪った仇敵ぞ」
『それは違います、叡善様。彼は和紗様の魂を救ってくれたのです』
「魂……だと?」
ただしそれは兼臣の物語であり、南雲叡善にとっては違う。
兼臣は刀として在れなかった。だから叡善には何も告げず地縛を追ってしまった。
これも因果がというものか。
南雲和紗は鬼に殺された。
秋津染吾郎が付いていればそうならなかっただろうに、あの男は見通しの甘さから和紗の傍を離れた。
刀は何者かに持ち去られ、何処へ行ったかも分からなくなった。
大切なものを失くし、無情なまでに時代は流れる。
明治の世に刀を禁ぜられ、鬼も退魔も必要とされなくなった。
人の為に生き刀を振るい続けた妖刀使いの南雲は、他ならぬ人に退魔としての己を否定された。
鬼に愛した娘を奪われ、人に退魔としての誇りを奪われ、時代に積み上げたかつてを奪われ。
その末路が、南雲叡善という男である。
「ならば問おうぞ。鬼よ、和紗をどうした」
「直接の面識はないが、彼女を取り込んだ鬼は私が斬った」
「ほう、取り込んだ? 成程、和紗を討ったのはマガツメの手の者か」
思いもよらないところで意外な名前が出てくるものだ。
仇敵の名を口にする老翁。甚夜の目は知らず細められた。
「何故、その名を」
「鬼を産む鬼の名、知らぬはずがなかろうて。目的ははっきりとせぬが、あれは人の世に災いをもたらすあやかし。ならば我ら南雲の敵よ」
少しだけ痛んだ胸には気付かないふりをする。
あれはマガツメ。鈴音とは別個の化け物だ。だから誰に何を言われようと胸が痛むはずがない。そう自身に言い聞かせた。
「無論、貴様もな」
そうして駈け出す。
手には小太刀、振るう腕は鞭に等しい。
剣術の基本を押さえた動きではなく、滑らかな筋肉を最大限に利用した斬り下し。
恐るべきは齢を重ね年老い、それでも柔らかさを失わぬ体。練磨に練磨を重ね、衰え始めて尚も動き続けたが故の一太刀。僅かな挙動でさえ叡善がた弛まぬ努力の末に今へ至ったのだと知れる。
「鬼は討たねばならぬ。儂が南雲である以上、鬼は敵。まあ、多分に八つ当たりが込められているのは、仕方なしと思ってもらおうかのう」
『叡善様、それは』
「黙れ、鬼に与する者の戯言なぞ聞くに値せぬわ」
しかし悲しいかな、老いた彼では甚夜には届かない。
未だ十八の頃の若さを保ち、八十年近い練磨によって磨かれた鬼の体躯と剣の技だ。
叡善の一太刀は甚夜に容易に防がれ、鍔迫り合いの形になった。
『ですが、和紗様を討ったのは!』
「兼臣、いい」
反論しようとする兼臣を、ゆっくりとした口調で甚夜は止めた
苛烈な一刀を、八つ当たりにも等しい叡善の暴挙を受けながら、その所作は寛いだ雰囲気さえ纏っている。
「言い訳するだけ無駄だろう……どのみち、斬って捨てるのだ」
鍔迫り合いから相手の刀をかち上げ、腕を畳み、踏込と同時に肘を支点に小さく刀を振るう。
夜来で胸元を切り裂き、もう一刀で左の胸を突く。
ずぶり、肉に切っ先が食い込み、心臓を貫く感覚が掌に伝わる。その状態から手首を返し、心臓を抉りしっかりと潰す。
引き抜けば、叡善の胸には小さな穴が出来ている。
確実に殺した。
殺した、筈だった。
しかし老翁は哂う。
「その程度で、か?」
血を流したままの追撃。首を斬っても死ななかった化生だ、この程度で終わるとも思っていない。
刀でいなし、腰を落とし、左肩で鳩尾を穿つ全霊の当身。
幾ら鍛えているとしても老人だ。骨は脆く、衝撃だけで死に至る。
なのに、それでも死なない。
吹き飛ばされ、しかし叡善は平然と立ち上がり、にたにたとした嘲笑を崩さない。
「三つ……くくっ、やりよるわ。だがまだ儂の命には届かぬな」
再生ではなく、蘇生。
三つ、と数えたからには回数制限がある。しかも、おそらくは“積立式”の自動蘇生だ。
甚夜は静かに叡善を睨み付ける。
優位を確信しているからであろう、無遠慮なまでの軽快さで叡善は間合いを侵す。
二刀を構え、甚夜は右足を前に一歩。呼応するように老翁は身を沈め、前傾姿勢から地を這うように一気に駈け出した。
距離を潰し、ぐっと右足で地面を蹴り、バネ仕掛けを思わせる勢いで切り上げる。流石に妖刀使いの南雲、その鋭さは目を見張るものがある。
甚夜は半歩分身を引き、切り上げの一刀をすかすと同時に唐竹一閃、頭蓋を叩き割る。
だが止まらない。
頭を、顔を、首を、胸元を切り裂かれながら叡善は哂う。
そして刀が肉に食い込み、身動きが取れなくなった瞬間を狙い澄まし、刺突を繰り出す。
<不抜>。いや、間に合わない。それほどに奴の突きは早い。
一呼吸の間に刃は甚夜の肩の肉を貫いた。
体を逸らした程度では避けきれなかったが、狙われていたのはお返しのように心臓。痛手に変わりはないがいくらかマシだ。
鬼と言えども首を斬られるか、心臓を貫かれるか。或いは頭を潰されれば絶命する。
退魔の名家は伊達ではない、鬼との戦いに随分と慣れているようだ。
痛みを押して、殆ど無理矢理刀を引き、どうにか距離を取る。
流石にあの傷で追撃は出来ないようだが、今の一合はしてやられた。叡善は両断された顔面で気色の悪い笑みを浮かべている。
「人の力、侮るでないわ」
頭から胸元まで真っ二つに切り裂かれたままで勝ち誇る。
直視し難い程のおぞましさ。鬼であってもあそこまでいけば死ぬ。それだけの傷を負いながら哂い続ける南雲叡善は明らかに異常だ。
僅か数秒足らずで完全なる蘇生を果たした奴は、もはや人とは呼べない。
「その姿で人の力を語るか。冗談にもならんな」
「なにを言うか。これぞまさしく人の力、魂の力。なにせ、幾つもの命がこの身には宿っておるのだからな。貴様も先程見た筈であろう」
思い浮かんだ光景は、首根っこを掴まれた少年が叡善に取り込まれる瞬間だ。
ちょうど甚夜が<力>を使い、鬼を喰らう時によく似た……そこまで考えて表情は険しくなる。
「これも研究の成果というもの。マガツメの娘は役に立ってくれたわ」
マガツメの眷属を捕え、どういった手段で情報を得たのかは分からない。しかしおよそ真っ当な方法ではないだろう。
結果得られたのがあの蘇生。
奴の<力>の本質を唐突に理解する。
あれはつまり、おなじもの。
甚夜が鬼を喰らうように、
「<力>の名は<同化>。人を喰らい、その命を我がものとする異形の業よ」
南雲叡善は人を貪り喰う。
命を喰らい、己が内に溜め込み永らえる。
人でありながら人を喰うもの。
妖異より尚もおぞましき、唯一の同種が其処にいた。
「人喰い、という訳か」
責めるつもりはなかった。
共食いならば甚夜とて同じ。今まで多くの命を切り捨て踏み躙ってきたのだ。南雲叡善を嫌悪する資格などありはしない。
ただ因果なものだとは思った。
奴がマガツメの娘から得た<力>。それが<同化>であることは、勿論ただの偶然だろう。
甚夜の<同化>は鬼を喰らい、その<力>を我がものとする。そもそもの性質が違い、人を喰ったところで命は溜め込めない。
しかし同種の<力>であることには変わらない。だから少しだけ考えてしまった。
───例えば、人を喰って命を得られるのなら、私はどうするのか。
散々命を踏み躙ってきた、鬼を喰らってきた。
ならば答えはそういうことなのだろう。
所詮は同じ穴の貉だ。南雲叡善の醜悪さが己を映す鏡に思えてしまった。
「人を化け物のように言うてくれるな。儂は退魔、民草のために命を張ってきた。ならば民草が儂のために命を懸けるのは当然であろうて」
「そう、か」
一呼吸。夜の空気で肺を満たし、一気に熱を吐く。
心は平静に、落ち着いて前を見据える。
<疾駆>。
人ならざる速度で叡善に迫り、八相から袈裟掛け。一瞬にして老翁の体躯は切り裂かれていた。
驚いた。叡善ではなく甚夜が、である。
今まで散々奪ってきた、喰らってきた。葛野甚夜と南雲叡善は、己が目的のために共食いをしてきた、同種の存在だ。
だというのに、いやに不愉快だ。
或いは同族嫌悪だったのかもしれない。
だが、あれは斬らねばならない。
「……喰うつもりだったが、止めだ。ここで死ね」
「おお、死のう。しかし貴様に儂を殺し切れるか」
彼等は殺し合い、しかし決着はつかなかった。
葛野甚夜と南雲叡善。
戦いの理由もなんてことはない。ある夜、一人の少年が“人喰い”に襲われた。
そこをたまたま居合わせた甚夜が人喰いを相手取った。それだけの話だ。
「ふむ、儂では勝てんか。致し方ない、ここは退くとしよう」
「逃げるか」
「これ以上無駄に命を散らせるのも忍びないのでな。その刀は、いずれ返してもらうが」
甚夜には怒りがあったが、本人にも納得できない感情だ。
無理をしてまで殺し切る理由には成り得ず、逃げていく叡善を追うことはしなかった。無策のまま追うにはちと厄介な相手だった。
叡善もまた少年に固執する理由はなかった。
十四の命を消費するまで粘ったのは、娘に贈った筈の夜刀守兼臣を甚夜が持っていたから。できれば、殺して奪いたかった。
それも自身の“本当の命”を危機に晒す理由にはならなかったのか。劣勢を悟った叡善は簡単に退いた。
これが彼らの初見。挨拶程度の殺し合いであった。
「た、助かっ、た……?」
そして、ここからが充知との出会い。
長く続いていく腐れ縁の話である。
「って、ちょっと待ってくれ!」
充知に声もかけず甚夜は去って行こうとする。
勢いに任せて肩を掴み、こちらを振り向かせ、ようとしたが無理だった。
重い。足腰をよく鍛えてあるのだろう。若造の力ではピクリとも動かない。しかし前に進もうとしても一向に手を離さないので、甚夜は仕方なく振り返った。
「なにか用か」
「え? あ、いや、改めてそう言われると別に用がある訳じゃ」
「そうか、ならば行かせて貰う」
「ああ、そうじゃない! ちょっと待ってくれってば!?」
葛野甚夜という男は、充知にとってひどく奇妙な相手だった。
明治の世に帯刀をし、容易く化け物を斬ってしまう。
まるで読本の中の登場人物で、現実感というものがない。
ただ怖いとは思わなかった。人を喰うとあの爺が語った時、ほんの少しだけだが不快そうに眉を顰めた。
真っ当な怒りを抱ける男だと理解できたから、声をかけても殺されないと確信できた。
「手当くらいさせてくれ……それに聞きたいこともあるし」
助けたつもりはないと突っぱねたが、聞きたいことがあると言った充知の暗い表情に甚夜はしばし考え込む。
無視をしてもよかったが、縋るような目に耐えられなかった。
「取り敢えず、こんなもんでいいか?」
「ああ、助かる」
連れてこられたのは、日本橋にある充知の自宅である。成金というだけあって真新しい壁の和風建築は、周りの建物から頭一つ飛び抜けた豪奢さだ。
こっそりと家へ入り、家族や家内使用人に気付かれぬよう自室へと戻る。甚夜を部屋に押し込め、充知は取り敢えず手当に必要そうなものを片っ端から集めてきた。
「なあ、あんた何者なんだ?」
本当は手当てをしてやるつもりだったのだが、残念なことに充知は医学など修めてはいない。
結局甚夜に任せきりになり、乱雑に消毒液をぶちまけ、ガーゼと包帯で血止めをする様を見ているだけになってしまった。
傷は思った以上に深い。傷口から覗く肉、こびりついた血。見るだけでも痛々しくて、目を逸らしたくなる。
にも拘らず甚夜は痛みに顔を歪めることもなく、淡々と処置をしている。
年齢は然程変わらないだろうに、荒事に慣れ切った所作が充知には奇妙だと感じられた。
「あやかしがいれば討つ者もいる。それだけの話だ」
「……でも、そのさ」
あんた、あの化け物に鬼とか呼ばれてたけど。
濁した先を正確に汲み取り、小さく甚夜は頷く。
ああ、つまりこいつは化け物なんだ。
抱いた感想はその程度のものだった。
なんだかんだ助けて貰ったのだ、怖いとも気味が悪いとも思わない。事実確認がしたかっただけだ。
それよりも気になっていることがある。
「……あ、そうだ。なんか礼でもしなきゃな」
「そこまで気を使うこともない」
「そう言うなって。金も借りも早めに返すのが俺の信条なんだ。あんたがどういうつもりであれ、俺は助けられた。なら借りは返さなきゃな気持ちが悪い」
ここは俺の精神安定の為にも、礼を受けてくれ。
そう締め括れば甚夜は小さく溜息を吐いた。
本当に助けたつもりなどなかった。食うために鬼を襲った、その結果誰かが助かったに過ぎない。
しかしそれでは納得しないのだろう。案外と融通の利かない少年を見ながら、諦めたように呟く。
「ならば、酒を。それで帳消しにしよう」
「おっし、親父んとこからくすねてくる」
聞くや否や充知は走り出していた。
戻ってきた時には洋酒、ウィスキィのボトルを二本ばかり抱えて、どうだと言わんばかりの笑み。
有難く酒を受け取り、瓶のまま乱雑に煽る。喉を通る濃い熱さ、風味は日本酒とは違うがそう悪くもない。ふう、息を吐けばようやっと一心地がついた。
「すげえな」
歳は然程変わらないのに、随分と堂に入った呑みっぷりだ。
得体の知れぬ物騒な男を自室に招いたのは、意味もなく凶行に走るような輩ではないと知れたから。命を助けられたからで、礼をしたかったからだ。
それ以上に、聞きたいことがあったからこそ引き留めた。
しかし口にする機会を見出せず、無言で呑み続ける甚夜の様子を窺うのみ。
分かっているから、甚夜は黙って充知の言葉を待っていた。義理はないが酒代と思い、呑み終わるまでは付き合うつもりでいた。
「あの、さ」
どれくらい時間が経ったのか、充知は夜の町をさまよい歩いていた理由を語り始める。
みんなで遊び歩いていた帰り口の裂けた女に遭遇し、怪異の存在を知ったこと。
その夜に級友が失踪したこと。
翌日、消えた級友を探す為に町へ行き、南雲叡善に襲われたこと。
本当は答えなど聞くまでもなかったのかもしれない。一緒に探していた友人はあの老人に喰われた。ならば、昨夜消えたあいつも。それでも聞いたのは、嫌な想像を受け入れたくなかったのかもしれない。
「あれは餌を見逃すような輩ではあるまい」
けれど現実というのは、大抵が嫌な方向に傾くもので。
「そっ、か。じゃあ」
「おそらくお前の級友とやらもあの人喰い……南雲叡善に喰われたのだろう」
あのような人喰いがいたのだ、もはや生きてはいまい。
やっぱり、そうだよな。小さく零し項垂れる。涙は出なかった。悲しくない訳ではない。けれどあまりに突然で、非現実的過ぎて感情が追い付いてこない。ただ胸の奥はずっしりと重くなったような気がした。
「聞きたかったのはそれか」
「うん。……悪かった、変なこと聞いて」
「酒代だ。とっておけ」
話したのは酒代、お前が気にすることはない。そう言いながら酒を煽る。
なんだがひどく疲れた。動く気にはなれず、先程と同じように甚夜が呑む様を何の気なしに眺める。
相変わらず甚夜は無表情で、どんどんと呑む割に大して旨そうでもない。
「……もしかして、それ不味い?」
「ん?」
「あんまり旨そうじゃないなって」
何気なく聞けば手が止まった。
表情こそ変わらないが、固い鉄の声はほんの少しだけ力を失くした。
「どうだろうな。昔はもう少し旨かったような気もするが」
月夜の晩に呑んだ。親友と酌み交わした。時には娘が酌をしてくれた。
甚夜の酒はそういうもの。それに慣れてしまったからだろう、一人で呑む酒の味がよく分からなくなってしまった。
「なんだそれ?」
「さて、私にもよく分からん」
残った酒を一気に喉へと流し、傷の処置の為にはだけた衣服を整える。
家人には内密で入ったのだ、まさか玄関から出ていく訳にもいくまい。幸いにも部屋は一階、窓から出ていくことにした。
「もう行くのか」
「ああ。馳走になった、これに懲りたら夜遊びは控えることだ」
「親みたいなこと言うなぁ……ま、俺だって命は惜しいし気を付けるよ」
友人が二人も食われた。手放しで喜べはしないが、それでも助けられたことには感謝している。
折角知り合えたのにこれでお別れは残念だな。
そう思いながら、あまり重くならないよう、冗談めかした調子で充知は言う。
「そうだ。なんなら、あんた俺んちで用心棒でもしないか? それなら夜も安心だし」
「やめてくれ。その手の仕事には向いていない」
「あんだけ強くてそれはないだろ?」
謙遜にしか聞こえないそれは、紛れもなく甚夜の本心だった。
充知からすれば目の前の男は「刀で化け物を討つ、古い物語に登場する英傑」にしか見えなかった。
けれど違うのだと、ほんの僅か、寂しげな笑みを零す。
「私は、今まで大切なものを守れたためしがない。……護衛に付けたところで、役には立たんさ」
流れるような言葉と共に夜へ消えていく。
後には名残さえなく、彼の存在を示すものは空になった一本の酒瓶のみ。
「なんだ、折角やったんだから持っていけばいいのに」
残されたまだ封の空けられていないウィスキィを見つめながら、充知はつまらなそうにぼやいた。
◆
それから二年の月日が経ち、充知は十九になった。
高等学校を卒業後は父の紹介もあり銀行に勤め、金勘定の毎日。二年前は案外と遊び歩いていたが、忙しさにかまけ友人とも疎遠になった。
二年という期間は短いようで長い。
学生気分の抜けなかった充知がそれなりの立ち振る舞いを身に着けるには十分だったようだ。
いつしか“俺”は“私”に変わり、いい年頃になり、見合い話がくる程度には彼も大人になっていた。
「やれやれ、気が重いね」
溜息を吐き、もう一度見合い写真を見る。
小柄で可愛らしい、楚々とした佇まいの女性。彼女は華族、なんでも子爵令嬢らしく、写真からでも品の良さが伝わってくるようだ。
ただ充知はこの見合いにあまり乗り気ではなかった。
「まったく、十歳はないだろうに」
なにせ、どんなに可愛らしくとも相手は年端もいかぬ少女。江戸の頃ならともかく明治も半ばにこれはないだろう。まったくふざけた縁談だと、持ってきた父親を恨んだ。
なんとも分かり易い政略結婚だ。
相手の娘の父親、赤瀬誠一郎とは面識がある。父の知り合いらしく何度か家に来たこともあった。
誠一郎に息子はおらず、婿養子を取って爵位を譲りたいらしい。しかし赤瀬の家は華族、あからさまに資産目当てで近付いてくる輩が多い。そんな中、真面目でそつのない充知を誠一郎は大層気に入ったらしく、娘の婿にと向こうから言い出したのだ。
父親も華族の親類に為れると乗り気で、とんとん拍子で進んでいく。来年には婚約し、赤瀬の家に移り住むという話まで出てきていた。
充知としても気乗りはしないが嫌という程でもない。
成金の息子を評価してくれた誠一郎は嫌いではなく、華族と親類になれれば父親も喜ぶ。爵位を得られるというのなら、それは有難いことだ。
問題は、自分の意思など関係なしに十近く離れた男の元へ嫁がされる、赤瀬志乃という娘の心境くらいか。
「まあでも、そんなものなんだろうね。華族様というのは」
とは言え、断ったとしてもまた新しい男を宛がわれるのは目に見えている。
結局充知は流れに身を任せた。見合いも政略もさして珍しいものではない。何が悪いという話でもなく、強いて言うなら充知は君塚に生まれ志乃は赤瀬に生まれたというだけのこと。
成金と華族、金があって餓える心配のない家柄だ。その分の不自由くらいは付いて回る。今回の見合いもその程度の話だろう。
「おお誠一郎さん。壮健そうでなによりです」
「いや、そちらこそ」
一か月後、赤瀬志乃との初顔合わせの日がやってきた。
下ろし立てスーツを着て訪れた赤瀬の家。白塗りの壁の洋館は、成金ものの君塚の家よりも品がよく見えた。
「充知君もよく来てくれた。志乃を呼んでこよう」
思えばこの頃は、まだ誠一郎とも普通に話していた。道を間違えなければ、今も仲の良い義理の親子だったかもしれない。
誠一郎が目配せをし、それを合図に家内使用人たちが仕事へうつる。しばらく赤瀬の家の応接間で待っていると、こんこんと遠慮がちなノックの音が響いた。
「入りなさい」
「はいっ、失礼します」
誠一郎の言葉に扉が開く。
そこにいたのは可愛らしい女の子だ。
背が低く線は細く、艶やかな黒髪は腰の辺りで綺麗に揃えられており、精巧な人形を思わせた。
しかし容姿に反して子爵令嬢とは思えぬ快活な笑顔を見せてくれる。写真の印象とは随分と違う娘だった。
「……えーと、この娘が?」
「はーい。初めまして、赤瀬志乃です!」
所作自体は丁寧で、しつけが行き届いているのが分かる。
充知様、どうぞよろしくお願いします。どうしたのですが?
きょとんと不思議そうにしている、如何にも可愛らしい少女。会話をしてみてもやはり年相応で、しかし折り目がついた物言いからは彼女の聡明さが伺えた。
「充知様は、いずれこの屋敷に住まわれるのですよね?」
「まあ、そうなるかな」
「よろしくお願いします。いろいろお話聞かせてくださいねっ」
後は若い二人に任せて、ではないが父と誠一郎は話があるらしく応接室を出て行った。
残された充知はどうすればいいか分からず、志乃に誘われてそのまま庭へと出た。
手を繋ぎ、散歩がてらに庭を見て回る。いずれ妻になるとはいえ相手はまだ子供。艶っぽい雰囲気にはならず、どちらかと言えば保護者のような気分になってくる。
「……君は、結婚に反対はしないのかい?」
「はい、私は赤瀬の娘ですから! 昔は私くらいの年齢での結婚は珍しくなかったらしいですし」
強がりではなく素直に。快活な少女のまま笑顔で答える。
貴方と破談になっても新しい相手が出来るだけですから。そう付け加えた志乃は、朗らかな笑みを浮かべているのに、随分と大人びて見えた。
「そっか。君は強いね」
「え? 強い、ですか?」
「うん、すごく。一応褒めてるんだよ」
「ありがとうございます、えへへ」
華族として生まれ、心ならずも政略結婚に利用される悲哀の子爵令嬢などではない。
志乃は明るく元気で、幼いながらに自身の境遇を理解し、それを果たそうとする責任感の強い女の子だった。
「私は、いずれ君の夫になる。初対面でこんなことを言っても信じられないかもしれないけど、君の強さに見合うだけの男であれるように努力しよう。志乃さん、私のことを伴侶として受け入れてくれるかい?」
「……はい、勿論です!」
志乃がどういうつもりで答えたのかは分からない。
ただ充知の方は、案外一目ぼれだったのかもしれない
見合い話、しかも年端もいかぬ少女。だというのに結婚しようと思ったのは、きっと相手が志乃だったからだ。
故に見合いには何の問題もなかった。
問題があったとすれば。
「ふむ、随分と盛り上がっておる。微笑ましいのう」
そこに、いてはならない男がいたことくらいだろう。
「なっ……!?」
驚愕に声が上ずる。
近付いてきた老翁の顔を見れば、脂汗が流れぶるりと体は震えた。
「あ、叡善様? お久しぶりです」
志乃は平然と老翁に話しかける。
瞬間、充知は庇うように一歩前へ出た。震えは止まらない。本音を言えばすぐさま逃げ出していくらいに怖い。それでも精一杯の勇気を振り絞る。
「いやいや、誠一郎の娘に婿が出来ると聞いたのでなぁ。思わず覗いてしもうた。許せ、邪魔をする気はなかったのだが」
二年が経った今でも忘れる筈がない。
忘れられる訳がない。あれは、友人を喰った人喰い。幾ら殺しても死なぬ化け物。
「おお、挨拶が遅れたな。赤瀬はそもそもが南雲の分家でな、今もそれなりの付き合いがあるのだ」
そいつは、にたりと凄惨な笑みを見せつける。
「儂は南雲叡善という。よろしく頼むぞ、赤瀬の婿殿」
それがまるで首元に刃を押し付けられたようで。
充知は、目の前が真っ暗になったのを感じた。
◆
その日から充知は夜の町へ再び繰り出すようになった。
夜はあやかしの時間だと知っている。にも拘らず態々新聞や噂を調べ、不可解な事件の情報を得てその現場へ向かった。
恐ろしいという気持ちはあるが、彼にはそれくらいしか取れる手段がなかった。
しかしそう簡単に目当ての人物が見つかる訳もなく、仕方ないと充知は最後の手段に出る。
往来には幾つも立て看板。あの男にだけ伝わるよう、看板にはこう書かれている。
『いつか忘れていった酒、うちへ取りに来い馬鹿鬼。用心棒よりは簡単だろう』
それから数日は経ったが、あいつは姿を現さなかった。
窓は開けっぱなしに、自室の机にはいつか父親からくすねたウィスキィが置かれている。だが今夜もあの男は来ない。
南雲叡善と再び遭遇した時、充知はいつかの夜を思い出した。
人喰い相手に自分では何もできない。けれど、あの男ならば力になってくれるかもしれない。藁にも縋る想いでこちらから呼びかけたのだ。
「ああ、やっぱり無理かなぁ……」
南雲叡善。
赤瀬はそもそも南雲の分家だったらしい。由緒正しい家柄だが南雲は次第に衰退し、反面赤瀬は明治に至り隆盛を誇る家となったそうだ。
調べて分かったのはその程度。だが南雲叡善という男の存在がある以上、南雲が真っ当な華族とは思えない。
誠一郎に志乃に近付き、まるで人のような立ち振る舞いを見せる叡善に、充知は言いようのない不安を感じていた。
けれど見合いを放り投げる気にもなれなかった。
理由は、分からない。ただ活発な可愛らしい女の子が南雲叡善の犠牲になるのは見たくなかった。
とは言え、あの男が来る義理はなく、無視される可能性の方が高い。まだ東京にいるのかも分からない。完全に相手の良心まかせの呼びかけだ。
だけど、どうか。
祈るように想いで窓の外を眺める。
「しばらくぶりだな。言われた通り、忘れ物を取りに来させてもらった」
どうやら祈りが通じたようだ。
充知は安堵から、思わず泣き笑いながら情けない声を上げてしまった。
「では充知様、これからよろしくお願いします!」
「うん、志乃さん。こちらこそ」
「あー、駄目ですよっ。私は妻になるんですから。し・の、志乃です。呼び捨ててください」
翌年、つつがなく二人は婚約。誠一郎の要望もあり、充知は赤瀬の家に住まうこととなった。
それは充知にとっても望むところ。なにせ志乃の傍にいつもいることができるのだ。
勿論、誠一郎に従い仕事をせねばならない身、日中はどうしたって離れざるを得ない。
だがその辺りも抜かりはない。
「じゃあ、志乃。実は君塚の家から家内使用人を一人連れてきたんだ。庭師としての腕は確かだから役には立つと思う。誠一郎様には許可を得たし、君にも紹介しておきたいんだけどいいかな?」
にっこり、勝ち誇るような強い笑みで言う。
はいっ、と素直に志乃は頷き、連れてこられた身長の高い十七、八の青年を見る。
「葛野甚夜と申します、志乃お嬢様」
こうして葛野甚夜は赤瀬家の庭師になった。
奇しくも充知と甚夜の利害は一致していた。
如何なる企みかは分からないが、充知は何も知らぬ志乃が犠牲になるのを見たくなかった。
甚夜もまたあの夜から南雲叡善の足取りを追っていた。
『南雲叡善はマガツメの娘を捕縛し、その知識を得た。それによって奴らは鬼を“造って”いる』
『そんなこと出来るのかい?』
『ああ、少なくともマガツメは出来た。奴の持つ<同化>も同質の技術に寄ったもの、ならばその程度は出来て当然だ。……そして、おそらくそれだけではない』
『それって、どういう』
『妖刀使いの南雲は当主を退いた筈の叡善によって私物化されている。ヤツが、マガツメの娘から得た知識で何をしようとしているのかは分からない。だが、およそ真っ当な目論見ではないだろう』
『そうか……だから君は来てくれたんだね。私が赤瀬の娘と関わりを持ったから』
『知ったのは、偶然だがな。済まないが、力を貸してくれ。赤瀬に潜り込み、南雲の出方を見る』
『何を言っているんだい、力を貸しては私の方だ。私では、南雲叡善をどうにもできない』
あの夜再会した二人には南雲叡善という共通の敵がいた。
だからこそ手を取り合った。充知は志乃を守る為、甚夜は人喰いの企みを暴き<鬼哭>の夜刀守兼臣を奪う為に。
「えっと、じいや、さん?」
「いいえ、じんや。甚夜です」
そうして甚夜と志乃もまた出会う。
この時志乃が間違えた“爺や”という名称は今後どころか娘の代まで使用されることになる。
勿論、そんなことは当時の甚夜には分かりようもないのだが。
「あはは、いいじゃないか。爺や、如何にも使用人ぽくって」
「……五月蠅いぞ、充知」
「おいおい、一応私は君の雇い主なんだけど」
「なにを言っている、これからは赤瀬が私の雇い主だろう」
「いや、それはそうなんだけど掌返し早くない?」
共通の敵を前に、ある意味彼らは仲間となった。そのせいか多少は固さもとれた。
言い争いというよりもじゃれ合うような二人のやり取りが楽しくて、志乃はくすくすと笑っている。
「そうですよ、すっごくいいです。これからお願いしますね、爺や」
悪気がないものだから頭ごなしに否定も出来ず、甚夜は僅かに戸惑っていた。
幾つもの偶然が重なり、再び甚夜は定住の場を得た。何一つ守れなかった。その後悔は未だ拭い去れてはいない。
それでも無邪気に笑う少女、そしてそんな少女のため虎口に残った青年の心意気は好ましい。素直に、そう思えた。
そこから続く毎日は、また別のお話である。
「爺や、大変です! 最近巷には“ぎゅうどん”なる食べ物が流行っているそうなんです!」
「ぎゅうどん……ああ、吉田屋の牛丼ですか。私も以前食べました」
「そうなんですか? なら行きましょう! 爺や、ごーです、ごー!」
「すみません志乃お嬢様、まだ仕事中なので背中から降りて貰えると」
仕事中に志乃がちょっかいを出してくるのは当然だった。
「甚夜はあまり本を読まないのかい」
「ああ、然程興味もなかったしな」
「ならこの機会に読んでみるといい。案外楽しいよ?」
書斎では充知の勧める本を幾つも読んだ。
暇だから私を構ってくださいと志乃が突撃してくるまでがいつもの流れだ。
「九段坂の浮世絵……奇妙なものがあるんだね。甚夜、もしかしてあの時の姿は」
「多分、想像通りだろう」
「そうか、ちょっと楽しみではあるかな。……あれ、志乃どうしたんだい?」
「うう、今は声をかけないでくださいぃ……恥ずかし過ぎるぅ」
九段坂の浮世絵の件では、少しばかり恥ずかしい思いをした。主に志乃が。
「すごい、紫陽花の花がいっぱいです」
「志乃の好きな花だろう?」
「はい、ありがとう爺やっ」
志乃が嫌がるから敬語は止めた。庭の紫陽花は彼女の好きな花だった。
いつかこの紫陽花を充知と志乃。彼等の子共たちが一緒に眺められるよう、毎日丁寧に世話をした。
「んー、やっぱり私はお酒が苦手だね。紅茶の方がいいかな」
「そうか、残念だ」
生憎と充知は酒には付き合ってくれなかった。
しかし一人酒も以前より旨くなった。
「……納得がいかない」
「なにがだ?」
「なにがです?」
「いや、それがだよ!? 婚約者の前で他の男に肩車して貰ってるってどう考えてもおかしいだろう!?」
志乃は甚夜に大層懐いていた。
だからといって折角の休みの日くらい婚約者との時間を大切にしてもらいたいというのが充知の弁。
どうせ最後には「なら三人で遊びましょう!」と言う志乃の笑顔に押し切られるのは分かり切った結末である。
「どうだい、初めてにしてはいい出来だろう?」
「充知様、お料理もお上手なんですね」
「はは、甚夜に習ったたんだけどね。案外面白いなぁ蕎麦打ちって。どうです、お師匠様?」
「ああ、実際中々のものだ。さて、折角の茹でたてだ、頂こう」
「はいっ」
日々は騒がしく過ぎていく。
志乃が女性用下着を買うのに充知と甚夜を連れて行ったり、縁日に行きたいと言い出し<隠行>を使ってまで屋敷を抜け出しもした。
そう言えば、志乃との距離が近すぎて「もしかしてあの家内使用人は愛人では?」なんて噂が流れたこともある。
大抵の騒ぎは志乃が中心で、しかしそれも悪くない。男連中は巻き込まれながらも楽しんでいた。
それでも胸にはしこりが残っている。
失くした日々の眩しさが、穏やかな今にほんの少しの影を落とす。
けれど日々というのは本当に早く流れて。
いつしか志乃は少女から女へ、優しい母となり、彼等の若かりし頃は終わる。
そして希美子が生まれた。
◆
『この力、欲しくはないか?』
南雲叡善は赤瀬誠一郎にそう言った。
人を喰らい命を溜め込む異形の業。そのうちの蘇生の特性だけを晒し、さも永遠の命のように見せかけた。
かつて多くの権力者が挑み破れていった命題。それが己のものとなる。
誠一郎は一も二もなく飛び付いた。
『ならば贄を用意せい。そうだな、もしも赤瀬の家に女子が生まれたなら大切に育てよ。それを捧げれば、力を分け与えてやらんこともない』
それが現在より二十一年前のこと。
充知と志乃が初めて出逢ってから二年が経過した頃の話だ。
当然ながら二人には子供がいなかった。希美子が生まれたのは、叡善からの頼みを受けた五年後である。
それもしかたない、当時の志乃は十一二歳だった。
もともとが赤瀬の家を安定させる為の政略。爵位はないがそれなりに裕福な成金、その中でも優秀な男を婿に迎えただけ。つまりは赤瀬の家を第一に考える、誠一郎の為の結婚だ。
見合いとは言えお互いに気に入ったようで、つつがなく二人は結婚。しかも第一子が女子ときた。
偶然が折り重なった結果ではあるが、誠一郎には自身に永遠の命を与える為の天の采配に思えてならなかった。
名は叡善に授けて貰った。
希美子。
希少な贄を意味する、捧げられる為の女。
誠一郎にとっても南雲叡善とっても、希美子が非常に重要な存在であることは疑いようがなかった。
「やあ、甚夜」
希美子が生まれその名をつけられた夜、離れの裏で甚夜が剣の鍛錬をしていると、充知が陰鬱な表情で近付いてきた。
普段の軽い調子は鳴りを潜め、声にも力がない。
「どうした」
「分かっているだろう、希美子のことだよ。まったく、あからさま過ぎて気分が悪い。もっと気分が悪いのは、それでも逆らえない弱い立場の私自身なんだけどね」
“美”という漢字は羊の全形を表す。生贄に捧げられる羊が“美”の字源である。
即ち希美子とは希少な生贄。叡善と誠一郎にとって希美子がどういう存在なのかは、いっそ清々しいくらいに分かり易かった。
「結局、南雲叡善は志乃には手を出してこなかった。準備が必要だったからろうね」
「ああ。しかし<鬼哭>の妖刀……そして、希美子。奴の企みは着実に進行している」
本当は、早々と南雲叡善を葬りたかった。
しかし甚夜が赤瀬の庭師になってから叡善は屋敷に来なくなった。誠一郎とは幾度も顔を合わせているようだが、決してこちらには隙を見せない。
そもそも殺せるかも分からない相手、甚夜達は後手に回らざるを得なかった。
「でも、ここにきてようやく尻尾を見せたんだ。お義父さんが零した言葉を聞いたよ。希美子が十六になった時……って。それ以上は分からなかったけど、ね」
「まだ時間はあるが、安心は出来そうにないな」
「そうだね。志乃の時とは違い、彼等が希美子に手を出すのは明白。……私も親になったってことなのかな。生まれたばかりの娘だけど、こんなに頭に来たのは生まれて初めてだよ」
甚夜にも、血こそ繋がらないが、心から愛した娘がいた。
だから充知の怒りには覚えがあった。
「なあ甚夜、頼みがある」
典行はぐっと歯を食いしばり、強い決意を感じさせる目で甚夜を見据える。
「希美子を守ってやってほしいんだ。私には力がない。でも君になら出来るだろう」
即答は出来なかった。
守るなどと、どの口で言えるのか。
だから甚夜は弱々しく、頼りない声で返す。
「前にも言った。私はな、今まで大切なものを守れた“ためし”がない。お前の望みを叶えてやれるかどうか」
たった一人の妹。
遠い日に恋をした人。
両親や友人。
もしかしたら妹になったかもしれない少女。
共に肩を並べた知己も。
心から愛した娘さえ。
葛野甚夜という男は、散々強さを求めて来たくせに、今まで何一つ守ることが出来なかった。
「甚夜は、時々ひどいことを言うね」
それを充知は鼻で笑う。
くだらないと、それはお前の勘違いだと、一笑に伏した。
「もしも君が大切なものを何一つ守れなかったというのなら、私は、志乃は。君にとって“大切なもの”じゃなかったのかい?」
そんな訳がない。
言わなくても充知には通じている。
だから何の心配もいらないと、それくらいに赤瀬充知は信じていた。
「ならそれが全てじゃないか。私は、志乃は。ずっと君に守られてきたんだ」
ほんの僅かな時間言葉を交わした馬鹿なガキの為に、今まで体を張ってきてくれた男のことを、おそらくは当の本人以上に信頼していたのだ。
「過去に何があったかは知らない。だけど、君に守られてきた私達がここにいる。それで充分だろう? 君の手は、君が思っている以上に多くのものを守れるよ、きっとね」
初めて会った夜、まだ充知が十七の少年だった頃を思い出す。
あの時は恐怖に怯えるだけの子共だった。それが、いつの間に此処まで強くなったのか。不思議な感覚に甚夜は目を細めた。真っ直ぐに見るのが、眩しかったからなのかもしれない。
「ずっと思っていた。君は守るという言葉に強い拒否感を抱いているね」
「そう、だな。否定はしない」
「よし、ならこうしよう。“南雲叡善を潰すまでは、希美子を守る”。そんな風に約束してくれ。そして、それが出来たなら信じて欲しい。君は、誰かを守れるのだと。……そんなに後悔ばかり積み上げることもないさ」
想いは、巡るものだ。
かつて東京が江戸と呼ばれていた頃、充知と同じようなことを言ってくれた女がいた。
あなたは今迄もたくさんの者を守ってきた、それに気付かなかっただけだとおふうが教えてくれた。
そして今一度、充知は力強く言い切る。
「……失ったものがどれだけ多くても、それに遠慮して下を向く必要はないだろう?」
ああ、本当は。
誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
なにを失くしても、何を守れなくても。
今が幸せだと、認めたっていいのだと。
「……口が上手くなったな、充知」
「そうかい? どちらかと言えば君の扱いが上手くなったんじゃないかな」
「言ってくれる」
何一つ守れなかった。本当に、数えきれないくらい多くのものを失ってきた。
だけど手に入れたものだってあった。小さいけれど、大切なものが残った。
それを、彼はもう一度教えてくれた。
「ならばここで約束しよう。守れなかったなどと、過去を引き合いに出して弱さを誤魔化すのは止めだ」
守りたいものを守れないことが。そうやって大切なものを失くしてしまうのが、どうしようもなく怖かった。
守って、誰かの笑顔を見て。幸せな日々に浸かり、野茉莉たちと過ごした日々を、それを失くした痛みさえ忘れてしまうのが、なによりも怖かった。
しかしいつまでも立ち止まってはいられない。
「私は、希美子を守る。どれだけ無様でも構わない。足掻いてしがみ付いて、這いずり泥を啜ってでも、お前と志乃の娘をこの手で守ろう」
それが、こんな情けない男を信じてくれた充知に報いる唯一の方法だろう。
浮かべたのは泥臭い言葉とは裏腹に、穏やかな笑みを落とす。
見上げれば遠い月。しっとり月明かりに濡れる夜。
誓いを掲げるには良い風情だ。
葛野甚夜はようやく顔を上げ、前を向くことが出来た。
懐かしく、大切な思い出。
遠い遠い約束の夜のこと。
◆
──そうして時間は現在に戻る。
「爺や、爺や。なにがあったんですか?」
「ん、ん!」
「希美子、溜那ちゃんもそんなに興味持たないで、お願いだから……」
娘達の予想外の反応に、普段の淑女然とした表情を崩しおろおろとする志乃。
ああ、この庭は暖かい。
甚夜は静かに、けれど穏やかな笑みを零す。
「実はですね」
「爺や、本当に止めて」
遠い夜の約束は今も続いている。
この十六年、甚夜はただ希美子を守る為にあった。仇敵ともいえるマガツメの娘と手を組み、かつての知人の手も借りた。
“南雲叡善を潰すまでは、希美子を守る”。
その約束がどれほどの救いになったのかは、多分交わした充知も気付いてはいないだろう。
「済まない、志乃。少し苛めすぎたか」
「本当です」
「そうむくれないでくれ。お前にそんな顔をされると、困る」
志乃の頭をそっと撫でれば、少しは機嫌が直ったようで微かに頬は緩む。
彼らにしてみれば慣れた遣り取りだが、それを見る希美子は驚きなのか戸惑いなのか、なんとも微妙な表情をしていた
十八歳くらいの青年に母親が頭を撫でられている、しかも嬉しそうに。
実年齢は兎も角、容姿だけで判断すると非常に奇妙である。
「……なにか、凄く不思議な光景を見ているような気がします」
「希美子お嬢様にとっては母君、そう見えるかもしれませんね。ですが私には、幾つになっても可愛い志乃お嬢様ですから」
「もう、爺やったら……」
直接的な物言いに母がはにかんだ笑みを見せる。
それも希美子には見慣れない顔で、なんとなく爺やが母の情夫だと噂されていた理由も分かってしまう。
勿論実情はまったく違い、夫である充知も微笑ましく眺めている。彼にとってはこれが当たり前の景色。まるで昔に戻ったような、懐かしい心地を感じていた。
「目の前で二人がそういうことをしていると、何やら嫉妬めいてものが込み上げてくるな。どっちに対しても、ね」
「あなたまで、何を言っているんですか」
「まったくだ。お前も十分可愛い充知だよ」
「はは、それは流石に恥ずかしいからやめてくれよ」
両親と爺やの戯れに思わず希美子も笑顔になる。
ふと横目で見れば、溜那もほんの少しだけど笑っていた。
それは、あまりにも穏やかな午後の日のこと。
偶然が重なって出来上がった、紫陽花の庭の景色のこと。
眠たくなるくらいの暖かさに、揺蕩うように優しい空気。
いつか失くしたものがあった。でも手に入れたものも確かにあった。
訪れたひとときの平穏。
暖かな陽気に誘われて、陽だまりの午後は過ぎていく。
もしかしたらそれは、“幸せ”と呼んでもいいのかもしれなかった。
しかし一時の休息は終わる。
南雲叡善は、己が願いを叶える為に動き始めた。




