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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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『古椿の宴』・2




「人の命を喰らい内に溜め込む<力>。溜那さんを、ただの人間を、魔を産む毒婦へと変える技。そんなもの、刀で伸し上がった退魔の家に伝わっている訳がないじゃないですか」


 幼げな容貌からは想像もつかない、吐き捨てるような響き。

 嫌悪に表情を歪め、しかし向日葵の視線はまっすぐ妹へと向けられている。そこには後悔とも哀切ともつかぬ感情が揺れていた。


「心を造り、任意の<力>を発現させる。人を鬼へと変える。みんな、母が造り上げたものです。南雲叡善は古椿を攫って、弄って……母の技を盗んだばかりか、あの娘を別物に造り変えました。もはや自我はありません、ただ叡善の命じるままに古椿は動きます」


 古椿。

 マガツメの娘、つまりはマガツメの切り捨てた心の一部である。

 本来ならば彼女もまた甚夜と対峙していた。どこまで行ってもマガツメの心は兄にしか注がれない。故に、彼女の敵は甚夜以外に存在しない筈だった。

 しかし古椿は在り方を歪められ、その<力>は叡善の為に使われている。

 それをこそ向日葵は認められなかった。


「私達は伝わらなかった想い、叶わなかった願い。本当に大切だったのに、切り捨てるしかなかった心の欠片。だから私は古椿を、そして南雲叡善を討たねばなりません。母の心を守る為……これ以上、汚させないために」


 それが甚夜と同盟を組んでまで、南雲叡善を討とうとした理由。

 染吾郎はようやく納得できた。母を愚弄し、妹を利用する外道。それを討つのに論理的な思考や損得勘定なんぞある筈もない。

 彼女の内にあるのは純粋な敵意。大切な場所を踏み躙る叡善へ対する正当な怒りであり、捻じ曲げられ遠く隔たってしまった心へのけじめだった。


「……あー、向日葵」


 だから、染吾郎は始めてまともに向日葵の名を呼んだ。


「疑って悪かった。相手は家族に手ぇ出した上に、こっちの大切なとこに土足で入り込むよな糞野郎や。ぶちのめすんに、人とか鬼とか、正しいとか間違っとるとか。そんなもん関係ないわな」


 マガツメを認めることは決してない。

 あれは現世を滅ぼす災厄であり、なにより師の仇だ。如何な理由があったとて許せる筈もない。

 だがこの娘のことは目を瞑ろう。マガツメの眷属であっても、大切なものの為に怒れる奴は嫌いではなかった。


「んで、どうする? あいつ、助けたいんか」

「もう、あの娘は元に戻れません。どうしようもないくらい弄られてます。本当を言えば、おじさまに“食べて”もらいたかったのですが……叶わないのならば」


 せめて楽にしてあげたい。

 口にしなかった言葉を悟り、それを言わせないよう一歩前へ出る。積極的に賛成はしないが妹の死を向日葵は認めている。認めているからこそ、叡善と敵対し甚夜の側に付いた。

 ならばこれ以上の詮索は余計だ。


「ほか。そんなら、遠慮はせんでええな」


 染吾郎は操られた人々に囲まれた状態で、古椿から視線を逸らさない。

 やると決めたからには他事に気を取られていてはいけない。腕には念珠、いつでも付喪神を繰り出せるように構えた。


 それがきっかけとなったのか。

 呻き声を上げながら、意識の宿らぬ目で人々は津波のように襲い掛かる。

 あまりにも遅すぎる。数多の鬼を討ち果たして染吾郎にとっては、なんの力も持たぬ一般人など相手にもならない。

 同時に、だからこそ躊躇いがあった。

 彼等は本当に操られているだけ、身体強化といった付加はない。つまり狂骨を使えば簡単に薙ぎ払うことができ、つまりそうすれば彼等は死ぬ。

 付喪神での迎撃は出来ない。しかしそれで手詰まりになるようであれば、稀代の退魔の称号はなかった。

 迫り来る輩の動きに合わせ、右足一歩、前へ踏み込む。

 力はいらない、距離を空けられれば十分。腰を落し、鳩尾は敢えて外し、左肩からぶつかる当て身。随分と昔、蕎麦屋の店主が教えてくれた体術だ。全霊ならば鬼でも怯ませる一手、手加減しても相手は容易く吹き飛んだ。

 尚も彼等は止まらない、途切れなく襲い掛かってくる。

 染吾郎は向日葵の前に立ち、体術のみで応戦する。殺す気はないが、無傷での制圧は難しい。多少の傷は申し訳ないが、と相手を打ち倒していく。

 とはいえ殺せないのだ。一度退けても相手は再び立ち上がる。操られているというのなら体の痛みや限界など関係なく動き続けるだろう

 体力にも限りがあり、現状が続けばこちらが不利。

 故に早期決着が望ましい。


「“かみつばめ”」


 隙を縫って懐から取り出したのは、師も使っていた紙燕の付喪神。かみつばめは高速で飛び、刃に等しい鋭利さで敵を斬る。

 人の波、その間を狙って放つ。かみつばめの飛ぶ先には古椿が。


「ちぃ、やっぱか」


 しかし切り裂くことは叶わない。

 軽い舌打ちと共に染吾郎はかみつばめの軌道を捻じ曲げた。予想通りとでもいうべきか、彼の敵を切り裂くよりも早く、操られた人間が割り込んできたからだ。

 苛立ちはあるが動揺はない。人を盾にする、そのくらいのことは織り込み済み。それでも染吾郎の表情は不快そうに歪んでいた。 


「しっかし人を操る<力>……お前の妹えげつないなぁ」

「むぅ、そう言わないでください。私の<力>も、<古椿>も、母の叶わなかった願いなんですから」


 鬼の<力>は才能ではなく願望。

 心からそれを望みながら、尚も今一歩届かぬ理想の成就。

 ならばあれはマガツメの望んだ<力>ではあるのだろう。やはり向日葵のことは認めても、母親の方は好きにはなれそうもない。 


「それに、そもそも<古椿>はあんなことをする為の<力>じゃありません。おじさまを操ってでも、仮初の逢瀬を楽しみたいという望みが形になったものです」

「それはそれでえげつないな」

「かもしれません。でも、やっぱり願いはかないませんでした。私たち鬼は、結局無い物ねだりをしているだけなんでしょうね」


 幼い容貌には似合わぬ、諦観に似た空気を纏う。声は穏やかなのに、何処か泣いているように思えた。

 染吾郎は向日葵から視線を外した。今の彼女を見ていると、マガツメ一派と敵対し辛くなる。


「んで、それを利用するのが叡善と。タチの悪い……どっちがあやかしか分からんようなるわ」


 話を逸らす為の言葉は、同時に染吾郎の本心だった。

 現世を滅ぼす災厄、鬼神の眷属を踏み躙って利用する退魔。

 害意のない鬼は討たぬが信条の秋津だ。人が正義、鬼が悪だなどと言うつもりは毛頭ない。

 そういう彼の在り方を余所においても、南雲叡善の行いは人の道を外れすぎている。傍から見ていてもはらわたが煮え返る程だ。


「っとぉ」


 こちらの話を遮るように、操られた人々が殴りかかってくる。武器になるものはそこらに落ちていた角材程度。そもそも戦力として集められたのではない、おそらく彼等はこのまま叡善の餌となるのだろう。

 放っておけば多くの人間の命が失われる。

 それを考えればこの場で古椿は討っておきたいが、取れる手はあまり多くない。 

 距離をあけたままでは“かみづばめ”だろうが狂骨だろうが人を盾にされるだけ。

 ならば狂骨を使いすべての人間を抑え、距離を詰めて改めて古椿を狙う?

 却下、それはできない。“この先の展開”を想像するに、こちらの最大戦力を早々と出すのはあきらかな失策。

 囲みを狭めてくる人々を蹴散らし古椿の元へ向かう?

 いや無理だ。流石に多すぎる。古椿の前には五人十人と操られた男女が壁のように群がっている。若い時ならいざ知らず、年老いた今の体力では古椿の元へたどり着くまでに動けなくなる。

 或いは、現在操られている者達には「尊い犠牲」となってもらい、彼等を皆殺しにしてでも古椿を討つ?

 可能かつ現実的、一番楽で効率の良い選択肢。しかし論外だ。有り得ない。

 

「おい、向日葵。お前鬼を何匹か使役しとったやろ。あれ、今できるか?」


 だから染吾郎は操られた人々をいなし、向日葵に近付けぬよう気遣いながら声を掛けた。

 折角の借りられる手だ、借りておかなければ勿体無い。


「三匹程ならすぐにでも」


 打診は向日葵にとっても想定内だったのだろう。

 穏やかに、平静に、当然のことと受け取る。どこから現れたのか、既に彼女の後ろには三匹の鬼が控えていた。


「上等ぉ。俺の道を拓け。操られとる奴ら、殺すなや」

「分かっています。必要ならしますが、意味もなく殺したらおじさまに嫌われちゃいますから」


 物騒な内容、子供っぽい言い分。彼女はマガツメの娘、だというのに甚夜のことを好きすぎる。

 マガツメの詳細を知らない染吾郎にはそれが意外に感じられた。


「なんつーか、お前の世界ってあいつ中心にまわっとんのな?」

「違いますよ。おじさまが世界の中心なんじゃありません。私達にとっては、おじさまが世界なんです」


 それは比喩ではなくどうしようもないくらいの本当だ。 

 だからマガツメは……鈴音は全てを憎むしかなかった。

 彼に捨てられるのは世界に捨てられると同義だから。

 無論、そんな心の機微など染吾郎には分かりようもない。向日葵のそれは茶化した返しにしか思えず、意味もなく笑いが込み上げて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 それも一瞬、射抜くような苛烈さで古椿を睨み付ける。

 年老いた体に鞭を打ち、ぐっと腰を下げ、足に力を溜める。


「そらごちそうさん。色ボケて仕損じなや」

「ボケが来るのは秋津さんの方が早いと思いますよ?」

「ゆうてくれるなぁ」


 軽い言葉と共に大地を蹴る。

 それより早く鬼達は動き出している。意思のない下位の鬼、目に光はなく対した膂力も速度もない。だが染吾郎の道を切り開く、その為に邪魔な人間を抑え付けるくらいならできる。

 疾走し、襲い掛かる人々をどうにか捌き、手が回らない相手は鬼が抑える。

 単純な繰り返しで距離は近付いていく。零にする必要はない、ある程度距離を詰めて、人を盾にするだけの余裕がなくなればいい。


「もうちっと、ジジイは労わってほしいもんやけどなっ、とぉ!」


 近付いた人間の顎に一発。体が揺れたその刹那、通り抜けて置き去りにする。しかし相手も数だけは多い、直ぐに次が雪崩れ込む。

 強くはないが面倒くさい。迎撃を、と腕を突き出す前に向日葵の使役する鬼が人々を取り押さえる。


「お、助かるわ」


 おかげで楽が出来た。

 それに、辿り着くまでの道が見えた。

 ここまでくれば十分、手には紙燕がある。

 ひとたび放たれれば刃となる一匹の燕。この距離なら外しようがない。

 悪いがお前の妹の命、此処で断たせて貰う。

 そうして染吾郎は右手を翳し、


「かみつ───がっ」


 だが放つことはできなかった。

 ごっ、と短く鈍い音が響き、視界が揺れる。

 顎に痛みが走る。殴られた? 脳を揺らされて意識がぐるぐると廻る。なにが、起こったか、わからない。ただ体が上手く動かず、敵の前で無様にもたたらを踏む。 

 顎を、打ち抜かれたのだ。

 それに気付いたのは、たっぷり数秒は経ってから。打撃で見事に顎を打ち抜かれ、脳を揺らされた。そのせいで平衡感覚を失い、足元が覚束ない。


「なに、が」


 正直に言えば予想はしていた。

 古椿は噂になる程人間を操り集めていた。そいつは南雲叡善の餌の確保であり、同時に彼を追う退魔をおびき出す為の罠だった。

 だとすれば次の一手がある。

 噂に誘い出されたものを始末する為の一手がある筈だと染吾郎は予想しており、だからこそ不用意に狂骨を使わなかった。いつ奇襲があったとしても対応できるようにだ。

 しかし予想しながらも、こうして奇襲を喰らってしまった。

 揺れる視界の中に収めた無貌の鬼、古椿。

 その陰からゆらりと何かが出てくる。空気が歪んだように見えたのは、意識が朦朧としているからか。

 現れたのは小柄で細身ながら相反して筋骨隆々とした黒い鬼。鋭い牙と、それ以上に鋭い目がいやに印象的だった。


『くだらねぇな、やっと与えられた仕事がお守かよ』


 名を偽久いきゅう

 南雲叡善に与する四匹の鬼、そのうちの一匹である。


「おま」


 なんだ、お前は。

 問うことも出来ない。上手く口が回らない。方法は分からないが、あの鬼が何かをしたのだということは分かる。脳を揺らされたせいで意識がはっきりとしない。

 やばい、このままじゃやられる。

 定まらない視点、しかし呆けてはいられない。


「……“狂骨”っ」


 無理矢理に体を動かし、繰り出す付喪神は狂骨。左腕の腕輪念珠に宿る骸骨の付喪神である。

 既に鍾馗の短刀を息子に譲り渡した今、染吾郎に使役できる付喪神の中では最大の戦力。

 狂骨を前面に配置し、まずは距離を取らねば。


 そう思い後ろに下がろうとして、それも出来なかった。

 ぎしりと骨が鳴き、足に痛み。

 足首が何者かに掴まれている。異形の腕が空間から生えて、染吾郎の足を掴みしっかり固定していた。

 先程現れた鬼に視線を向ければ、そいつには左腕が無い。腕の先の空間が歪んでいる。それを見せられれば、流石に気付く。


「腕の先、だけの瞬間移動……っ?」


 空間と空間を繋げる<力>とでもいうべきか。

 前腕から拳のみを短距離転移させ、攻撃するのがあの鬼の<力>。先程顎を打ち抜いたのは、瞬間移動させた拳。

 だとすれば、やばい。

 こうやって狂骨を立て並べた所で意味がない。


「あがぅ……!」


 転移した拳、染吾郎は避けることも防ぐことも出来なかった。

 腹へ一発、体が“く”の字に曲がる程の衝撃が走る。

 その程度で済んだのは、福良雀の守りのおかげ。師が造り、紆余曲折を経て染吾郎の妻の元へたどり着いた福良雀。どうかこれをお守り代わりにと差し出してくれた妻の優しさが、染吾郎の命を繋いだ。

 繋いだのなら次は此方の番だ。

 守りを固めても意味がない、そう気付いた時には染吾郎は動いていた。狂骨は既に攻撃へと転じている。

 だが、通用しない。

 踏み込み、体を捌き、肘を支点に放つ右の裏拳。鬼でありながらその体術はひどく滑らかだ。たった一つの挙動に重ねてきた練磨の質を知る。

 一撃では狂骨は砕けない。ならばとすぐさま腰を落し、裏軒から肘打ちに繋げる。まだ止まらない、右足を軸に全身の筋肉をしならせ一気に突き出す左掌底。


「おいおい、勘弁せーや……」


 ようやくまともになってきた頭が痛くなる。

 特別な<力>ではない。井槌のように重火器も使わない。純粋な体術を持って偽久は狂骨を粉砕して見せたのだ。


『まさか反撃してくるとは。年寄りの割に気骨があるな、秋津の四代目』


 鼻で嗤い、どこか楽しげに口の端を釣り上げる。

 染吾郎は強く奥歯を噛んだ。確かに全盛期から考えれば彼は衰えている。

 それでも稀代の退魔と謳われるのは、衰えた今でさえ数多の退魔が敵わぬほどの力を有しているから。

 故に染吾郎には相応の自負というものがあった。

 並大抵のあやかしには劣らぬと自分でも思っていた。

 だというのに、まさか大正の世にこれほどの鬼が潜んでいるとは。


『稀代の退魔の称号は伊達じゃない……が、惜しい。もう少し若けりゃ、楽しめただろうに』

「別に、お前楽しませる為に、退魔やっとるわけちゃうわ」

『そらそうだ。とはいえお守に、餌集め。くだらない仕事かと思えば、中々に歯ごたえがありそうだ』


 反論する染吾郎に、偽久は寧ろ嬉しそうだ。

 こういった手合いは過去に何度かやり合ったことがある。戦うこと自体に重きを置く、闘争に酔う古い鬼。有体に言えば「戦えれば何でもいい」と考える輩である。

 ああ、だからこいつは南雲叡善に付いたのか。思想ではなく、単純に戦いを求めて。

 その意味で偽久は悪辣ではないが、厄介なことには変わりない。結果として叡善の目的が果たされてしまうのならば、偽久自身の性質がどうであれ関係ないのだ。


『俺の名は偽久……秋津の四代目、手合せ願おうか』

「ごめんやな」

『いいのか? 古椿を止めねえとこの人間どもはクソジジイの餌になるぞ』


 それは、見逃せない。

 人として、秋津染吾郎を継いだ者として、あやかしの犠牲となる人々を見捨てるなど出来る筈がない。

 だが染吾郎には既に予測が立っていた。

 人間を操る古椿。名前も知らぬ鬼。同時に戦えばやられるのはこちら。いや、この男だけでも分が悪い。

 あの鬼──偽久は準備もなく打倒できるような相手ではない。

 つまり感情のまま戦えば犬死。若い時分ならともかく、年老いて冷静さを身に着けてしまった彼では、義憤に駆られ飛び出すような真似は出来なかった。


「秋津さん」

「分かっとる」


 ともかくここは逃げる。

 二人の意見は完全に一致していた。

 目の前で犠牲になる人間を見捨てる。なんと無様なことか、己の無能さに染吾郎は歯噛みする。


『おい、退魔が人を見捨てて逃げんのか』

「いやらしいこと言ってくれるなぁ。すまんが、退かせてもらうわ」


 屈辱ではあるが退却を決めてからの行動は早かった。

 一体、二体三体、四体五体六体七体。

 狂骨を次から次へ産み出して偽久へと向かわせる。

 対する偽久は丁寧に、狂骨一体一体を砕いてく。己が鍛え上げた付喪神が見るも無残に打ち倒される姿は多少引っ掛かるものもある。

 それも仕方ない。今は逃げることだけを考える。

 向日葵の使役する鬼が染吾郎を引っさらい、一気に距離を離していく。それを偽久は確かに見ており、だというのに追撃の一手はない。

 去り際に見た彼の鬼の目は、心底つまらなそうだった









「追う気は、なしと」


 十二分に距離を取ってから、染吾郎はぽつりと呟いた。


「あの鬼は、噂を聞いて古椿に辿り着いた者を始末するのが役目だと思ったのですが。なんか、心から南雲叡善に従っている者はいなさそうですね」

「そりゃそやろ、あんなクソジジイ。……ま、追わんかった理由は違いそうやけどな」


 単純なこと、追う価値もないと思われただけだ。 

 秋津を継いだ者がこの体たらく。なんという屈辱。

 しかしへこたれている場合でもない。


「取り敢えず、あいつんとこ行くか」

「あいつって、おじさまですか?」

「おお。思った以上に叡善が動くのは早いかもしれん」


 古椿が以前からああやって人を集めていたとすれば、既に南雲叡善は相当数の命を溜め込んでいるだろう。

 だとすれば溜那を奪還する為の手筈はかなり進んでいる筈。

 染吾郎は予感に肩を震わせ、ぐっと拳に力を込める。 

 妥協による平穏は早々に崩れようとしていた。







 染吾郎たちが逃げ去った後のことである。

 全ての狂骨を砕き偽久は立ち尽くす。

 心ここに非ずといった様相で、染吾郎の去っていた先を眺める彼は寂しそうに呟いた。


『つまんねぇなあ……』


 零れる声は沈むように消える

 まるで迷子の泣き声のような、頼りない響きだった。







 ◆





 その翌日。

 藤堂芳彦は今日も今日とてモギリに精を出していた。相変わらず暦座は連日盛況でモギリに清掃にと芳彦の仕事も引っ切り無しである。

 相変わらずと言えばやはり今日も赤瀬のお嬢様、希美子はキネマを見に来ている。いつもと違う所と言えば、連れがいることだろうか。


「ああ、やっぱりキネマは素晴らしいですわ。そう思いませんか、溜那さん?」

「……ん」


 話しかけた相手は希美子より少し年下であろう。

小柄で色白、長い黒髪を三つ編みにした綺麗な少女だった。

 一目見た瞬間、芳彦の心臓がとくんと脈打つくらいには魅力的だ。外見は幼げだというのに、髪を弄る仕種や僅かな所作に妙な色香があって、芳彦は僅かに顔を赤くした。

 

「あら、芳彦さん。御機嫌よう」


 もう上映は終わりましたと告げに来た筈が、つい呆けてしまった。

 誤魔化すように笑って、いつものように希美子の方へと歩み寄る。


「あ、はは。えと、希美子さんもう清掃に入りますから」

「ごめんなさい、いつもいつも。溜那さん、行きましょうか」

「ん」


 当然のように手を繋ぐ二人。

 希美子は年上だが、なんとなく微笑ましいものを感じて思わず頬を緩めた。


「仲がいいんですね、えーっと、溜那ちゃんでしたっけ?」

「はい、爺やの姪っ子さんなんです」


 そう言えば、何度も話に出ているが爺やさんという人にはまだ顔を合わせていない。

 希美子自身随分と慕っているし、きっと気のいいお爺さんなんだろうなぁと想像を広げる。

 皺だらけの顔で柔和そうに笑う爺やさんが、希美子と溜那を眺めている。それは本当の祖父と孫娘のような関係で、きっとすごく暖かな景色なんだろう。


「あ、今日は爺やに付いてきてもらっているんですよ」

「あれ、そうなんですか?」

「はい、最近は物騒だからと。爺やは心配性ですから」


 言いながらも表情は柔らかく、本当に慕っているのだと分かる。

 しかし少しばかりおかしな話だ。彼女が来た時に連れていたのは溜那だけだ。件の爺やさんはいなかったと思うのだが。


「お嬢様」


 だというのに、いつの間に現れたのか。

 長身で筋肉質な男が希美子の傍には立っていた。


「爺や。待たせてしまって済みません」

「いえ、お気になさらず」

「ふふ、最近は外出にいつも付き合ってくれてうれしいです」


 当たり前のように会話しているが、間違いなく芳彦が入ってきた時にこの男はいなかった。

 それに爺や、などと呼んでいるが件の男はどうみても十八かそこらにしか見えない。

 しかし希美子が笑顔で接しているところを見るに、彼が爺やであることは明らか。

 現状が全く頭に入ってこず、二人のやり取りを戸惑いながら見ているしかできない。


「溜那も、楽しめたか?」

「ん」


 わしわしと溜那の頭を撫でながらの言葉は、希美子へ向けたものよりも遥かに乱雑だ。

 言葉こそ返さないが少女も随分と気持ちよさそうに目を細めている。それを少しだけ羨ましそうに眺める希美子は、普段よりも子供っぽく見えた。

 ひと段落ついて、爺やは芳彦の方に向き直り、すっと会釈をした。


「ご挨拶が遅れました。赤瀬家の家内使用人、葛野甚夜と申します。藤堂芳彦様ですね?」

「は、は、はい」


 様付けで呼ばれるなど生まれて初めての経験である。

 先程から考えがまとまらないまま。慌てていたせいで、引き攣ったような声になってしまった。


「お嬢様から聞き及んでおります。大層お世話になっているそうで」

「いえ! そんな……というか、あの、爺やさん、ですよね?」


 彼が爺やであると今一つ信じ切れず確認するように問う。

 質問されることは想定していたのか、甚夜は気を悪くした様子もなく、寧ろ穏やかに、落すような調子で答えてくれた。


「はい、お嬢様からはそう呼ばれております。志乃様……お嬢様の母君が私の名を“じいや”と間違えたのが最初です。いつの間にか、定着してしまいました」


 笑みというにはあまりにささやかで、見逃してしまいそうになる。

 けれど懐かしむような暖かさに、彼にとって大切な思い出がそこにあるのだと知れた。


「あ、じゃあ」

「甚夜が爺やになっただけで、呼び方に意味はありません」


 つまるところ最初から年齢は関係なかったらしい。どうにも勘違いしていたようだ。

「爺が若くて驚いたようでしたので」。そう付け加えた甚夜は無表情で、からかっているのか怒っているのか判別がつかない。

 どう反応すればいいか分からず、とりあえず芳彦は愛想笑いを浮かべた。


「あ、はは。すみません。年齢あんまり変わらなそうなのに爺やって変だな、とは思ったんですけどそういう理由だったんですね」

「一応、お嬢様とは一回り以上離れていますので、年寄りであることは事実です」


 ということは三十前後と言った所か。見た目十七、八にしか見えないが、案外と齢を重ねている。

 多少驚きつつもしばらく会話を続けていたが、爺やは表情こそあまり変わらないが折り目の付いた人物で、予想していたよりも話しやすかった。

 希美子に苦言を呈する場面もあるが、その端々には気遣いが見え隠れしている。だから彼は確かに慕われるだけの人物ではあるのだと納得できた。


「爺や、そろそろ行きましょう? 芳彦さんを困らせてはいけませんから」


 一頻り話し終え、希美子の一言に甚夜は佇まいを直す。


「そうですね。すみません、藤堂様。長話に付き合わせてしまって」

「そんな、こっちも楽しかったですから。あと爺やさん、敬語なんて使わなくていいですよ。僕の方がだいぶ年下なんですし」

「ですが」

「お願いします、緊張しちゃいますから」


 短い時間だったが希美子の仲立ちもあり話は弾んだ。

 甚夜のことも嫌いではなく、芳彦としてはもう少しばかり砕けてくれた方が有難い。というか、年上にここまでかしこまられると正直なところやり難かった。

 それでも自身の雇い主、その友人には砕けた態度はとりにくいのか甚夜は少しばかり逡巡する。

 しかし芳彦の真っ直ぐな視線に耐えかねたのか、降参するように言葉を返した。


「では、芳彦君……と」

「はい、それくらいの方がいいです」


 満足げな芳彦と「私にはずっと敬語なのに……」といじける希美子。対照的な二人がおかしくて、甚夜は落すように小さく笑った。








 結構長い時間話し込んでしまった。

 おかげで清掃の時間は短くなってしまったが、楽しかったからそれもいい。少しだけいい気分になった芳彦は、見送りがてら甚夜達と一緒に暦座の入り口まで向かった。


「お、あった。ここここ! やっぱり大衆娯楽の王様って言ったらキネマだよな」


 すると玄関の方から、上擦ったような男の声が聞こえてきた。

 見れば二人の男女がいる。

 釣り目がちな青年と小柄で活発そうな女の子。

 本木もとき宗司そうし三枝さえぐさ小尋さひろ、浅草は古結堂御一行である。


「私、実はキネマって初めてなんだよね。宗司は?」

「まあ俺は結構行ってるかな」

「へー、骨董屋の跡取りなのにねー」

「お前骨董屋馬鹿にしてんだろ?」


 染吾郎が古結堂を訪れた翌日に彼等がキネマ館を訪れたのは、勿論のこと宗司の提案だ。

 なにせあれだけ煽られたのだ、不安と焦燥で思わず衝動的に小尋を誘ってしまった。

 ここいらで少しばかり好印象を与えておかないと。その為に今日はキネマにでも出かけ、楽しんだ後はカフェーでお茶でもして、帰りに銀ブラなんてのも悪くない。

 そんなことを考えていた宗司だが、当然と言うべきか二人の会話に艶っぽさはなく、結局いつも通り悪友同士遊びに出かけたといった雰囲気であった。


「あ、すいませんお客さん。いま上映終わったばかりで、次の回は四十分後なんです」


 その上、キネマ館の関係者らしき少年、藤堂芳彦からそう言われ、思い切り出鼻をくじかれた。

 小尋に好印象を与える筈が、早くも暗雲が立ち込めている。


「あーそうっすか。しまったな……」

「そこはちゃんと調べとこうよ。ほんと、宗司だなー」

「なんだそれ。なんで俺の名前が悪口みたいになってんだよ」


 二人で言い争っているように見えて、小尋の口調に悪意はなく宗司のそれもじゃれ合う程度。

 芳彦にはその遣り取りが仲の良い兄妹のように見えて、なんだかほんわかとした気持ちになった。


「芳彦さん芳彦さん、青春です! 青春の甘酸っぱい香りがします!」

「希美子さん、しー」


 耳元で興奮気味に囁く希美子には、まったく別の関係に見えているらしい。

 きゃー、と嬉しそうに声を上げる様はやはり年上には見えなかった。


「ほら、あの初々しい反応。きっとあの女の子が好きなんです。多分初デイトですよ。 男の人はいいところを見せようと気合入れてデイトの計画を練って来たのに上手くいかなくて慌ててるんですね。ふふっ、まるでキネマか読本のようです」

「あはは、希美子さんって案外下世話ですね」

「……芳彦さん、ひどくありません?」


 笑顔で辛辣なことをいう芳彦に、希美子は思わず頬を膨らませる。

 とはいえお客様の深い事情には突っ込まないのが客商売の基本だ、邪推して怒らせてはこちらが困る。

 勿論この程度で彼女を煩わしく思うことなどないが、天真爛漫も状況に応じて欲しいというのが本音だった。


「ま、仕方ないか。どうもです。ちょっと時間つぶしてから来ます」


 そう言って甚夜の方をちらりと見て、二人は小さくこくりと会釈をした。

 意図を察した甚夜が、首を横に振って「構わない」と示せば、にっかりと笑顔が返ってくる。


「あ、いえ。申し訳ありません。よろしくお願いします」


 それを自分に向けられたものだと勘違いしたのか、芳彦は深々とお辞儀をして宗司たちを見送った。

 やいのやいのと雑談を交わしながら去っていく二人。その後ろ姿を眺めながら、希美子はなにか思い出したのか短く声を上げる。


「どうかしましたか、希美子さん」

「いえ、そういえば、あの二人どこかでお顔を拝見したような……」

「え、希美子さんの知り合いってことはあの人達も華族様ですか? 人は見かけによらないなぁ、ってこの言い方は失礼ですね」


 ほぉ、と感心したように息を吐く芳彦とは裏腹に、希美子の表情は先程の大騒ぎから一転実に真剣である。

 当然だろう。なにせ顔を見たといってもあまり嬉しくない場所でのこと、和やかに話すような内容ではない。


「本木宗司と三枝小尋。あの時、夜会にいた二人ですね」


 芳彦には聞こえぬよう、小さく甚夜が答える。どうやら自分の覚え違いでなかったようだ。

 あの二人は夜会の時、秋津染吾郎と話していた人達。

 彼らは南雲叡善の餌に選ばれた人間なのだ。


「やっぱりそうですよね。こちらのこと、気付かなかったんでしょうか」

「いえ、二人共私に一度視線を向けました。気付いていないということはないでしょう」


 彼等も退魔の者、どう見ても一般人である芳彦を前に血生臭い話題を出すのは憚られたのだろう。

 希美子は残念そうに息を吐いた。あの夜会に巻き込まれた者同士、少しくらい話してみたかったのだが。

 とはいえ芳彦の目がある以上、夜会について語る訳にもいかない。彼等のように、他人としてすれ違うのが正解だ。


「少し残念ですけど、ああやって無事な姿を見られてよかったです」

「ええ、本当に」


 そうして宗司達を見送る。

 楽しげに歩く様はやはりキネマのようで、希美子には二人の後ろ姿が嬉しかった。

 自分も溜那も、今の問題が片付けばああやって日常を過ごせるようになる。

 騒がしい彼等のやり取りに、そう信じることが出来た。




 ただ希美子が彼等に会うことは二度となかった。

 翌日、三枝小尋は古結堂から姿を消した。





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