幕間『りゅうなのはなし』・(了)
『ここで死ぬか、付いてくるか選べ』
わたしの前に現れたその人は言った。
なんでだろう。
ここにくる人は、わたしをいじめるか、むりやりごはんを食べさせるか、体をいじる人。
みんなひどいことをする人ばかり
わたしに手を差し伸べたのは、この人がはじめてだった。
でも、どうでもよかった。
生きていても、死んでいても、なにかの間違いで、ここから離れられたとしても
わたしはきっと、暗い場所から逃げられない。
そのために作り変えられたんだから、そうなるって最初から決まっている。
『よし、ならば行こう』
だと思っているのに、手はいつの間にかその人の手を握っていた
差しのべられた手を取った理由は、今もわからない。
ただ、ごつごつとした手が、なんだかとても安心できたのを覚えている。
───たぶんそれが、私の原初の風景。
積み重ねた歳月の中、尚も消え去ることなく残った、大切なもの。
鬼人幻燈抄 大正編 幕間『りゅうなのはなし』
「ああ、おはよう、溜那」
朝起きて、一番に顔を合わせるのはいつもこの人。
この人が、わたしを牢から連れ出した。
かどのじんや、というらしい。周りの人は爺やと呼んでいるから、わたしも爺やと呼んでいる。
知ってることはあんまりない。でも、嫌いな人じゃない。
だってこの人は鬼。わたしと同じ、ばけもの。だから、嫌いじゃない。
「いただきます」
おやしきで働いている人たちと、厨房であさごはん。
わたしは、爺やの姪らしい。なんでか知らないけれど、そういうことになっていた。
よく分からないけど、誰も何も言わないし、だったらそれでいいんだろうとごはんを食べる。
おはしをを使うのは苦手。今までは口に無理矢理入れられて呑み込むだけの作業だったから。
「溜那、持ち方が違う。それでは使い難いだろう」
しばらくいっしょに過ごして分かったのは、爺やは妙に真面目な人だということ。
朝の「おはよう」、昼の「こんにちは」、夜の「こんばんは」「おやすみなさい」。
そういう挨拶を欠かしたところを見たことがないし、おはしの持ち方もこうやって直される。
爺やのことをじっと見ていると、おやしきの人が「溜那ちゃんは大切にされてる」と言った。意味はよく分からなかった。
『しかし、寂しくはありますね。仕方ないと分かってはいますが』
「刀を差して歩いたら、おじさまが捕まってしまいますしね」
しゃべる刀と、ちいさな女の子。
かねおみと、ひまわり。爺やの周りには、変なのがたくさんいる。爺やが仕事をしているあいだは、かねおみとひまわりがわたしの“ごえい”らしい。
ときどき会う爺やの“むかしの知り合い”は、あんまり好きじゃない。なんというか、見ているとすごく気分が悪い。爺やのことはよく分かってるみたいな態度が嫌い。だから、この人たちがごえいの方がいい。
「安心してくださいね。ちゃんと周りには私の鬼達が潜んでますから。何かあっても絶対大丈夫です」
ひまわりは、わたしのことをよく気遣ってくれる。
言葉にはせず、こくんと頷いて返す。
しゃべれない訳じゃない。ただ、しゃべるのが苦手なだけ。
なにかを口にすることは、自分を伝えること。
だから苦手。伝える自分に自信が無いから。
子宮を弄られてつくりかえられた。
誰に犯されても、化け物しか産めないわたしはとても汚い。
汚い中身を知られるのが怖いから、わたしはなにも言わない。
結局わたしは、外に出ても、あの暗い場所にいる。
「溜那、疲れてはいないか」
「ん」
爺やが働いている時は、にもつ持ちをする。
することがないし、おてつだいくらいはしないと、居心地が悪い。
持つのはハサミか霧吹きくらいのものだけど、爺やは嫌がらずわたしに持たせてくれる。おやしきの人に「かるがもの親子」と言われた。やっぱり意味は分からなかった。
お花の世話をする時、爺やはすごく真剣で、でもすごく穏やかだ。
この人はやっぱりおじいさんなんだなぁと感じる。
時々思い出したようにわたしの頭をぽんぽんと撫でる。
ごつごつした手が気持ちよかった。
「溜那さんの髪、綺麗ですね」
へやによばれてお茶を飲んだ後、きみこはわたしの髪を好き勝手編んでいる。
三つ編み、一つに纏めたり、梳いたり、おもちゃにされる。でも、わたしを本当におもちゃにしてた人がいる。だから怖くないし嫌いじゃない。
「そうだ、この前買ってもらった服も合わせてみませんか? 少し待っててくださいね!」
うるさいけど、やわらかくて、おもしろいひと。
嫌いじゃない。でも、少しだけ、やな気持ちになる。
この人は、わたしとちがう人。生まれた時から恵まれていて、まっすぐに育った、きれいな人。
明るい場所にいる人。
そう思うことが辛くて、わたしはやっぱりなにも言えない。
「あら、溜那ちゃん。どうしたの」
もとの服に着がえて、離れに戻る途中で呼び止められる。
きみこのお母さん、しのさんのことは好き。
この人は人間で、わたしとは違う。でも、あったかい。
『心配しないで。おばさんね、奇妙なことには慣れてるの』
初めて会った時、なにも言わないわたしにそう言った。
たぶんこの人はわたしの隠していることに気付いている。なのに、わたしをまっすぐにみて、わたしの頭を撫でてくれた。
それで、手を握ってくれた。
爺やとしのさんは、わたしのことを知っているのに手を握ってくれた。
だからとくべつ。
「やぁ、溜那ちゃんも遊びに来たのかい」
仕事が終わると、よく爺やはおっさんの書斎に行って本を読んでいる。
おっさんの名前はみちとも。でもおっさんで十分。この人は、どこかなぐものじじいに似てる。だから好きじゃない。
「あ、はは。反応を返してくれると嬉しいんだけどなぁ」
「仕方あるまい。それだけお前の風体が怪しいんだろう」
「君、雇い主に対してもうちょっと言い方ってないの?」
でもおやしきの中で爺やと一番仲がいいのはおっさん。すごくふしぎ。どう見ても上っ面だけで笑っているような人なのに。
「で、今は何を読んでるんだい?」
「風姿花伝……だな」
「世阿弥か。花は散るから美しい、ってやつだね」
「知り合いに二人静という謡曲を教えて貰ってな。世阿弥には前から興味があった。もっとも、花は散るから美しい、とは私は思わんが」
「ならどう思うんだい?」
なにかよく分からない話をしている。つまらない。
退屈だからはやく帰ろうと爺やの服の袖をひっぱる。
「ん、ああ。済まない、そろそろ離れに戻るか。充知、借りてもいいか?」
「ちゃんと返してくれればね。しかし、君は案外と面倒見がいいねぇ」
「散々世話を焼かせたお前が言うか」
落とすように笑う。
爺やの笑顔はとても小さくて、見落としそうになる。それくらい静かな笑い方で。でもなんとなくほっとする。
「あはは、それもそうだ。でも言わせて貰えば、大概は志乃が発端だったと思うんだけど」
「あのお転婆がああも落ち着くのだから、母というものは偉大だな」
そういうことを言う爺やの顔はすごく優しい。
だからわたしといっしょ。爺やもしのさんが大好き。
「さて、部屋に戻るか」
爺やといっしょに離れに戻る。
わたしのおへやにはお花がおいてある。爺がかざってくれたもの。
ぶっちょうづらでいつもむっつりとしているのに、顔に似合わないけど爺やはお花が大好きだ。
名前を教えてくれたけど、あんまりおぼえていない。わたしには向いてないのだと思う。
「おやすみ、溜那」
「……ん」
こうして一日が終わる。
牢の中とは違い過ぎる毎日に、わたしは戸惑っている。
もしかして夜眠って、朝起きたら、わたしはまた牢の中にいるんじゃないだろうか。
そんなことをかんがえてしまうから、夜は怖い。
わたしが何も言わないのは、自分が汚いと思うから。
そして、なにか口にすれば壊れてしまいそうだから
目を瞑る。布団をかぶる、頬を伝うなにか。
音のない夜が怖くて、ひっしに布団にしがみ付いて。
わたしは、いつの間にか眠りについた。
今もあの時、手を取った理由は分からない。
わからないまま。
だからきっと、わたしはまだ、あの暗い場所にいる。
幕間「りゅうなのはなし」(了)




