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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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『紫陽花の日々』・4(了)




 堂々と言い切った吉隠は、にこにこと、傍目に映る表情はいかにも楽しんでいるといった風情だ。

 

「は? まともにやらないって……つまりどういうこった?」


 井槌にはそれが分からない。

 はっきりと言ってしまえば、吉隠は然程強くない。

 勿論ある程度は戦えるし、握り鉄砲を使って見事逃げおおせたように、鬼喰らいの鬼を出し抜くだけの技術はある。

 だとしても“これだ”という一手が無い。

 吉隠もまた高位の鬼だが、曰く「<力>は殺さないことに特化している」。

 偽久の<力>、井槌のガトリング砲のような、戦局を一発で決定づけるだけのものもない。

 だというのに、自分よりも強い相手がいると知り、尚も余裕の態度を崩さない。

 そこが井槌には酷く奇妙に感じられた。


「教える訳ないじゃないか。あのね、作戦っていうのは、誰にも知られてないから価値があるの」

「いや、そうかもしれねえけどよ」

「じゃ、少しだけね。実は今、下準備の為にキネマ館に通ったり、こないだ見つけた骨董屋さんにも足を運んでるよ」

「遊び歩いてるだけじゃねーか」


 気が抜けて、がっくりと肩を落す。

 余裕の態度はなんだったのか。つまり吉隠は、いつも通りの吉隠だった。


「……だから気に食わねえんだ、てめぇは」


 そのふざけた振る舞いに苛立ったのか、偽久は冷たい目で睨みつけている。

 気持ちは井槌にも理解できる。少し真面目な話をしていたかと思えば、すぐさまこれだ。舐めていると思うのも仕方ないだろう。


「ボクも嫌いだなぁ。偽久の、そういう潔癖症なところ。趣味みたいに人を殺すヤツが気取るなよ」


 張り付いたような作り笑いで吉隠は偽久を見る。

 室内の空気がぴんと張りつめ、身動きをすれば何かが切れてしまいそうだ。

 しばらく二匹の鬼は視線を交わらせ、しかし偽久の舌打ちで緊張は一気に弛緩する。


「胸糞悪い」


 そう吐き捨て、偽久は再び<力>を使い井槌の部屋から姿を消した。

 妙な雰囲気が消えてほっと井槌は肩をなでおろすも、吉隠の方はあからさまに不満気だ。


「胸糞悪いのはこっちだよ。あー、やだやだ。何も考えず人を殺せる奴って、ほんとキライ」


 べーっと舌を出して悪態をつく。

 子供っぽい仕草に、どこか演技じみた立ち振る舞い。しかし偽久に対して悪感情を持っていることは間違いない。

 仕方ないと、井槌はむくれている吉隠を窘める。


「あんま喧嘩すんなって。しかしよ、お前、鬼にしちゃ妙なことを言うよな」

「そう? 別に普通のことだと思うよ? 一応言っとくけど、不殺って訳じゃないからね? ただ最低限物は大切にしたいし、無駄に殺すのもごめんで、復讐とかそういうねっとりしたのも好きじゃないってだけ」

「お前からそんなまともな言葉が出てくるたぁなぁ……」


 甘いとは思う。

 しかし性格的には、決して嫌いではないと井槌は思う。反対に、「強い鬼」を取り戻したくて叡善の下についた偽久と相性が悪いのも分かる。


「まあそういう理由で、偽久のことも鬼喰らいもあんまり好きじゃないんだよね。あ、井槌は別ね。キミは愛すべき馬鹿野郎だと思うよ。井槌で遊ぶのは好きだし」

「そこは“で”じゃなくて“と”と言え」


 呆れたように溜息を吐き、一転快活に笑う。

 吉隠は相変わらず張り付いたような笑顔。一見すれば和やかな遣り取りだった。


「しかし、だったら何でお前は叡善の爺様の下に付いたんだ?」


 沸いた疑問をすぐさまぶつける。

 井槌と偽久は願う、鬼は鬼として強く在りたいと。

 だが目の前のこの奇妙な鬼の考えは、今まで一度も聞いたことが無かった。 


「え?」

「だから、戦う理由ってヤツだよ。どうも、お前は俺らとは違う考えで動いているような気がするんだよな」

「理由……かぁ」


 人差し指を唇に当てて、何度か小首を傾げ、吉隠は笑顔で答える。


「八つ当たり、かな。変わることの出来なかったものから、変わっていくものに対する」

「なんだそりゃ。お前の嫌いな復讐とおんなじじゃねえか」

「そうだよ? 正当性なんてない、はた迷惑な癇癪さ。ただ、復讐と呼ぶほど強い気持ちでもないからね。八つ当たりくらいの方がしっくりくるんだよね」


 変わっていくものが、気に食わないと吉隠は言う。

 ただ悲しいかな、井槌はあまり頭がよくなかった。

 言葉の裏を探るような真似は彼には出来なかった。






 ◆



 


「爺やは、なんで私達のことを守ってくれるんですか?」

「……ん」


 あれから数日。敵からの襲撃もなく、甚夜達は平穏な日々を過ごしていた。

 何も無ければ当然甚夜には仕事がある。庭師として赤瀬の庭園の紫陽花を一つ一つ丁寧に確認して、虫よけの霧吹きをかけ、余計な葉や枝を少しずつ剪定していく。

 それを傍らで眺めているのは希美子と溜那である。

 カフェーをきっかけに多少は仲良くなれたらしい。お互い屋敷からはあまり出られない身、案外と相性も良く、今では二人して行動することも少なくない。


 溜那には使用人が寝泊まりしている離れの一室が与えられた。

甚夜の親戚で、身寄りを失くした為彼を頼った。ならばと充知が部屋を用意した。そういうことになっている。

 赤瀬誠一郎は大して気にしていない様子だ。そこから考えるに、彼は溜那についてまるで知らない。つまり彼の役目は希美子を育てる環境を整え、叡善に捧げるまで。何のことはない、体よく利用されていただけなのだろう。

 結果、別段問題もなく溜那は赤瀬の敷地に住まうこととなった。

 無論、誠一郎は関係なく、叡善はその事実を既に知っているかもしれない。

それでも南雲叡善と甚夜、互いの妥協によって現状は平穏が保たれている。嵐の前の静けさとはいえ、得難い日常ではあった。


「なんで、とは?」

「私達のことを見捨てても、誰に責められる訳でもないでしょう? なのに、なんで態々危ない目あってまでってに、って思ったんです。あ、爺やがいらないとか、そういう話ではないですよ? ただどうしてかなって」

「充知……様との約束です。それに、僭越ながらお嬢様のことは幼い頃から知っています。一度関わった以上、投げ出す気もありません」

「それだけ、ですか?」

「他の理由ですか。……強いて挙げれば、紫陽花の世話もありますので」


 苦笑する甚夜の言い方はそれこそ孫娘に語り掛けるような柔らかさだ。 

 最後の冗談で少しは気が晴れたのか、希美子の不満げの顔は何処かに消えていた。


「細かいですね」

「はい?」

「いえ、あまり意識していなかったのですが、紫陽花のお手入れって結構手間なんだなと思って」


 甚夜の手際を眺めながら、ほーっと感心したように口を空けている。

分かっているの分かっていないのか、その隣では溜那も希美子の表情を真似ていた。


「命には金と手間暇がかかるものです。花も草木も、勿論人も」


 言いながらぱちん、と余計な株を斬り落とす。

 甚夜は穏やかに、視線は紫陽花に向けたまま。その横顔は普段自分達に向けている表情とはまた違い、なんとなく不思議な気分だ。

 外見には似合わない、どこか老練した仕種を希美子と溜那はぼんやりと眺める。

 穏やかな午後、葉擦れの音に、時折ぱちんっと音が響く。気持ちのいい、ゆったりとした時間だ。


「やっぱり、毎日剪定しないと綺麗な花にならないんですか?」

「いえ、紫陽花はそもそも剪定する必要があまりない花です。極論放っておいても毎年花をつけますから」

「んー……?」


 その返答が意外だったのか、溜那は不思議そうに小首を傾げている。

 それは希美子も同じだったらしく、似たような表情で疑問符を浮かべている。


「え? それなら何でそんなに細かく手入れを?」

「放っておくと紫陽花は年々大きくなり、花の咲く位置も高くなります。当然、今の景観は壊れる。そうならないよう、株の大きさを一定に維持する為に剪定します。つまり紫陽花の剪定は、今年綺麗な花を咲かせる為ではなく、十年後に今と変わらぬ花を咲かせる為のものです」


 十年後。

 その時は、二十六歳。今の希美子からすれば随分と先の話で、正直なところ想像がつかない。

 ただ爺やの話には今一つ納得できなかった。

 これだけ毎日働いても結果が出るのは十年後。その上、今よりきれいになる訳ではない。

 労働と対価が見合っているとは思えず、どうにも理不尽めいたものを感じてしまう。


「それは、その。なにか、勿体無いというか」

「無駄な努力と思いますか?」

「いえ、そういう訳ではありませんけど!」


 思わず大声で返答するも、本音は甚夜に言い当てられてしまった、

 これだけ手をかけているのだ。今よりも綺麗な花が咲いてほしいと思うのは、間違いではないだろう。

 やはり努力は報われてしかるべき、しかしそう口にすれば今の爺やの作業を無駄だと断じることになる。どう言えばいいのか分からず、希美子はわたわたとまごついていた。


「変わる努力があれば、変わらない努力もあるということです。どちらが正しいではなく、どう在りたいかでしょう」


 しかし肝心の爺やはただ穏やかに笑みを落す。

 外見は十八の青年だがその表情は老成していて、彼が積み重ねてきた歳月を感じさせた。


「この紫陽花は、お嬢様のご両親がご結婚なされた頃と変わらない花を咲かせます。誰が見ても驚くような、派手な美しさはありません。ですが今も変わらぬ紫陽花は、私の誇りの一つです」

「ですけど、これだけ毎日手をかけているのに変わらないのは、少し悲しいです」


 伝えたいことはあっても上手く言えない

 甚夜はその姿を穏やかに、それこそ孫娘を見つめるような優しさで見詰めている。その優しい目に、希美子はそれ以上何も言えなくなった。

 そうして、もう一度紫陽花の枝ぶりを見る。六月も終わりに近付き、少しずつ花も終わりを迎えようとしていた。


「……そうですね、例えばお嬢様が誰かと結ばれ、子を為したとします」

「こっ、子供ですか!?」

「例えです。子を為し、育み、大きくなった子供とこの庭で遊んだ時、ふと紫陽花に目をやる」


 花の終わりを慈しむように、そっと甚夜は触れる。

 しっとりと濡れるような花弁の手触りに、僅かながら頬が緩む。


「その時にはきっと、今と変わらぬこの花は、今以上に美しく映る。私が何を言いたかったのか、分かる日も来るでしょう」

「……爺やは時々、難しいことを言います」

「年寄りという奴は説教くさいものです」


 変わらないものなんてない。

 遠い昔、そう言った男がいた。

 長くを生きたからこそ、その言葉は重くのしかかる。

 同時に変わり往くことの価値も、変わらずにあることの尊さも知ることが出来た。

 やはり元治さんには敵わない。甚夜は希美子達に気付かれぬよう、ほんの僅かだけ口の端を釣り上げた。


「あら、希美子。爺や……それに、溜那ちゃん?」


 紫陽花の手入れが一段落ついた辺りで、見計らったように声を掛けたのは希美子の母、志乃である。

 ろうたけたという表現がよく似合う女性だ。楚々と庭を歩く姿も様になっていた。


「お母様」

「ん……」


 同じタイミングで振り返り、同じように声を上げる。

 何とも仲良くなったものだと、志乃は深くゆったりと微笑む。


「これは、志乃様」

「ですから、そのような喋り方でなくていいと言っているでしょう?」

「そうだったな。済まない志乃」


 肩の力を抜き、以前のような砕けた口調に戻す。

 それが嬉しかったのか、志乃は小さく頷く。

 彼女のことは子供の頃から知っている。だからこそ淑女然とした佇まいはなんとも心が和む。

 子供の頃の志乃は、決して淑やかな娘ではなかった。希美子に輪をかけてお転婆で、それに充知が振り舞わされて、甚夜も仕方なく着いて行って。それが充知と志乃と甚夜の関係だった。

 二人には心から感謝している。野茉莉を、染吾郎を、京で過ごした日々を失くして、尚も安寧を感じられるのは間違いなく彼等のおかげだろう。


「…ぅ……」

「爺や……お母様の情夫(愛人)という話、ただの噂ですよね?」


 なにやら二人の娘が半目で甚夜を見る。

 睨み付けているつもりなのかもしれないが、どうにも迫力が足らない。もっとも、だからこそ視線は痛くもあるのだが。


「希美子、失礼なことを言ってはいけませんよ」

「うー、ですけど」

「爺やはずっと私の面倒を見てくれていたのだけど、昔はこんな喋り方ではなかったから、慣れなくて」


 そう言えば、爺やは元々母の世話役みたいな立ち位置だったことを希美子は思い出す。 

 母にとっては、ああいった砕けた爺やが慣れ親しんだ姿なのかもしれない。

 そう考えると何やら不思議な心地になる。

 当然ながら、かつての母と甚夜がどういった遣り取りをしていたかなんて知りようもない。

 情夫というのは勿論冗談だが、二人の関係は一体どのようなものだったのか。


「元々爺やは、充知様が連れてきた使用人だったの。婚約した時は、私は十一歳だったかしら。まだまだ子供で、よく爺やに遊んでもらったわ。貴女達みたいに、外へ連れて行って貰ってたりもしたのよ」


 浮かべた疑問、問うより早く、懐かしむように志乃は小さく息を吐いた。

<隠行>は姿を消す<力>。

 以前ならば対象は自分だけだったが、それなりに経験を積んだためか、今は接触している間ならば任意の相手の姿も消すことが出来る。

 その<力>を使い、昔は家内使用人の目を欺き東京の町に繰り出した。若かりし頃の思い出が蘇ったらしく、志乃は遠くに想いを馳せている。


「お母様も?」

「ええ」


 かつての姿を知らぬ希美子は、驚きに目を見開く。

 落ち着いた立ち振る舞いの母は、淑女という表現がぴったりくる人だ。とてもではないが遊び回る姿など想像がつかなかった。


「そうそう、希美子、溜那ちゃん。お客様からショートケーキを頂いたの。よかったらお茶にしない?」

「あ、はい」

「…んっ……」


 急な話の転換に付いて行けず生返事になってしまう。

 反対に、溜那は力強く、こくこくと何度も頷いている。ケーキにそこまで反応するのは意外だった。


「溜那さん、ケーキ好きなんですか?」


 気になった希美子がそう聞けば、今度は首を横に振る。

 結局何が彼女の琴線に触れたのかは分からなかった。


「それじゃあお部屋に行きましょうか」

「はい。あ、お母様、よろしければお話を聞かせて頂けますか? 昔のこと、もっと聞きたいです」

「ええ、いいわよ」


 女三人、姦しくはないが、集まればそれなりに賑やかだ。

 楽しそうな娘達を見守る甚夜に、志乃は軽い調子で声を掛ける。


「爺やもどう?」

「いえ、私は」

「そう」


 短く遣り取り。断られることは志乃も予想していたのだろう、大して気にした様子もない。


「えー、爺やも行きましょう?」

「希美子、無理を言ってはいけませんよ」


 娘を柔らかく窘め、そろそろ行こうと志乃が促す。

 無論家の中にいるとて警戒は必要。向日葵に屋敷の周囲を見張らせている。先日の“腕”の件もあるが、幸いにも相手は理知的だ。あの襲撃はこちらの力量を探るに留まっている。今のところは危険もないだろう。


「どうぞ、お嬢様、溜那も。私にはお気遣いなく」

「……はい、分かりました」

「ん」


 残念そうではあるが、大人しく二人は志乃に着いて行く。

 その後ろ姿を眺めながら甚夜は穏やかに目じりを下げた。

 江戸、明治を経て、辿り着いた大正という時代。色々なものを失くしてきたけれど、だからこそ何でもない情景がひどく嬉しかった。


「さて、続けるとするか」


 そうしてまた紫陽花の世話を始める。

 梅雨時の風物詩である紫陽花は、甚夜の若かりし頃、江戸時代には然して人気のある花ではなかった。

 移り気、心変わり、裏切りの象徴として、寧ろ忌み嫌われていた。

 それがいつの間にか、庭で栽培されるようにまでなるのだから、歳月の流れとはまこと不可思議なものである。

 大正になり、多くのが変わる中、変わらずに花を咲かせる紫陽花。

 なにもかも失い、けれど何かを手に入れて、少しずつ変わる自分。

 それでも尚、曲げられぬもの。

 変わるものと変わるもの。その是非は今も分からないが、変わる町並みや人の在り方も、悪くないと思える。

 そう思える自分は決して嫌いではなかった。


「しかし、守る理由、か……」


 紫陽花の花は咲いている。

 充知や志乃が婚約した頃から、子を産み育み、希美子が大きくなった今でも、あの頃と同じままで。

 変わらぬ紫陽花の美しさを、大きくなった希美子にも知ってほしいと思う。

 年老いた両親と共に、この紫陽花を眺められるように。

 命を懸けるには少し足らぬかもしれないが、それが甚夜の理由。

 その為に、もう少しだけここにいよう。

 

 ぱちんと、っとハサミで余計な花を切り落とす。

 誰にも気付かれず、甚夜は静かに笑みを落した。




『紫陽花の日々』・了



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