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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
大正編

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110/216

『コドクノカゴ』・7(了)




 コドクノカゴ。

 その正体は犯され魔を産む、人造の妖異。

 母という言葉を使わず籠と名付ける辺り、南雲叡善は完全に溜那を物としか見ていない。


「けったくそ悪い話やな」

「ああ。だが幸いなのは、まだ溜那はそこまで弄られていないという点だな。本来ならば昨夜、彼女は“完成”するはずだった」


 その為の夜会。

 退魔の者やそれに類する力を持たない希美子が集められた目的こそが、コドクノカゴの完成だった。

 染吾郎は軽く舌打ちをした。聞かずとも下衆の所業であることは容易に想像がついた。


「蠱毒と言っても人間同士で殺し合いをさせる訳ではない。この娘も南雲叡善と同じ、人を喰らい命を溜め込む。集めた者達は全て溜那の餌だ。無理矢理にでも人を食わせ、最後に夜刀守兼臣を使うことでコドクノカゴは完成する。生まれるのは人でありながら妖異を身に宿す毒婦……この娘もまた、鬼神となるのだ」


 視線が集まり、しかしその意図を理解できず溜那は不思議そうな顔をした。

 鬼神の定義が「現世を滅ぼす災厄」ならば、彼女もまた鬼神と呼ぶにふさわしい存在だろう。

 ただマガツメと違うのは、溜那は初めから倒される為の鬼神であるという点だ。

 男に犯され、魔を産み、現世に災厄を振り撒き。

 人を喰らい、人を殺し、人からの憎しみを一身に受け。

 その果てに、妖刀使いの南雲に討ち取られ命を落とす。

 生まれた瞬間から“悪役”を演じると決められた娘。

 故に彼女の名は溜那という。

 命、憎悪、魔。

 あらゆるものを内に溜め込む、肥溜の如き女だ。


「…ん……?」


 それを理解しているのかしていないのか。散々語って聞かされて尚、溜那はぼんやりと視線をさ迷わせている。

 昨夜のやり取りで意思の疎通は出来ている。溜那は言葉が分からないのではない。

 喋ることが出来ないのではなく、喋らないだけ。その胸中は知る由もない。

 ただ溜那は、彼女について語られていても、随分と退屈そうにしている。まるで自分自身に興味が無いような、そういう投げやりな表情だった。


「この娘が、なぁ……。つまり、あんたはそれを止めたいってことか」

「それが一つ。後は、赤瀬あかせ充知みちとも……父親に頼まれているからな。希美子の身の安全を確保したい。最後に、夜刀守兼臣を手に入れる。大まかにはこの三つだ」


 甚夜の言葉に染吾郎は口の端を釣り上げた。

 そうさせたのは純粋な喜びだった。


「人の命を喰らう化け物。あ、いや、すまん。あー、とにかくこの嬢ちゃんをどうにかすること。そんで浮世の義理に、性質の悪い鬼を封じた刀の処理。その為には南雲叡善を潰すのが早い……安心したわ。あんたは、人の敵になった訳やなかった」


 勿論、完全に納得した訳ではない。

 語り口には所どころ違和感があった。おそらく甚夜は幾つかの情報を意図的に隠しているのだろう。その状態で無条件に信用できるほど染吾郎は若くなかった。 

 それでも、隠し事はしていても彼が嘘を言っていないことくらいは分かる。

 ならば最低限、この男が人間と敵対するような事態にはなるまい。だから染吾郎は深く安堵の息を吐いた。


「ところで、夜刀守兼臣を“使う”ってのはどうゆう意味や? あれも兼臣なら<力>はあるんやろ」


 甚夜は質問に一瞬だけ口ごもった。

染吾郎でさえ悟れぬ程度の一瞬。気付かれなかったのは幸い、刹那の躊躇いを隠し、平然といった風情で答える。


「あれが内に宿すは<鬼哭>……鬼を刀身に封ずる<力>。僅かでも斬ればそれでよし、如何な鬼でも封印できる、高位の鬼封じだ」


 なんともベタな、というのが染吾郎の感想である。

 魔を封じる器物というのは意外に多い。壷や鏡、箱に刀、様々な説話に登場する。

 だからそれ自体は決して特別なものではなかった。気になるのは、何故夜刀守兼臣があんな力を発したかということだ。


「そやけど、昨日見た時は黒い瘴気を操っとった。俺はてっきりあれが<力>なんかと」

「正確に言えば、瘴気は封ぜられた鬼の<力>だ。私自身、その全貌は把握していない。だが叡善はその一端を行使できるようだ」


 夜刀守兼臣自体の<力>はあくまでも鬼を封ずるのみ。

 封ぜられた鬼の<力>を扱うのは叡善自身の技だ。

 腐っても退魔の名跡、妖刀使いの南雲。妖刀を操る技術は流石に抜きん出ている。


「コドクノカゴは、夜刀守兼臣に封ぜられた鬼をその身に降ろすことで完成する」


 蠱毒の受け皿は、規格外の鬼を受け入れることで狐毒となる。

 そこまでいけばもはや人とは呼べず、さりとて鬼と呼ぶには規格外すぎるものが生まれるのだと甚夜は言う。


「そうして彼女は狐毒の籠……玉藻前の如く、国を滅ぼしうる毒婦となる」

「そんだけのもんが封じられとるってことか」

「ああ。だからこそ、兼臣を取り戻したかったのだが。……そう上手くは行かんな」


 何処か疲れたような、寂しそうな響きがあった。

 怪訝な目を染吾郎が向ければ、まるで邪魔するかのように向日葵が口を開く。


「南雲叡善を止めたいのは私達も同じ。ですから私はおじさまと手を組みました」


 幼げな容貌だがその表情は真剣。

 何処か冷たく、彼女が鬼女なのだと否応なく理解させる。


「ほぉ。マガツメの娘がなぁ」


 しかしその唐突な言葉は、なんとなくだが、甚夜を気遣ってのものに思えた。

 だから逸らされた話に染吾郎は乗った。少しだけ、この小さな鬼女を信じてもいいような気がした。


「別に正義とか人の為とか、そういう理由じゃないですよ? 私の目的は一つ。お母様を守ることですから」

「は? どういうことやそれ」

「そのままの意味です。秋津さんも昨日の夜、見ましたよね。人の命を喰らい貯蓄する力は、コドクノカゴを作る過程で得られたもの。未完成の副産物でさえもあれです。だとすれば完成したコドクノカゴは、もしかしたら母に届き得るかもしれません」


 南雲が退魔である以上、鬼神たるマガツメを見逃しはしないだろう。

 母と比肩する可能性のある溜那がいる以上、南雲は十分に脅威足りえる。今放置しては、或いは最悪の展開が待っているかもしれない。

 というのが、向日葵の言だ。

 少しは信用したが、勿論鵜呑みにはしない。染吾郎とて分かっている。鬼は嘘を吐かない、しかし隠し事はする。この幼げな娘が、なにか致命的なことを隠していないとは言い切れないのだ。


「それに彼は退魔としては至極まっとうです。だから私達にとっては凄く危険なんです」

「俺にはあれがまっとうとは思えんなぁ」

「やり方が悪辣ということなら、私も賛成しますけど。……でも、理には適っています。お母様を狙うことも含めて」


 妙な言い回しだった。

 向日葵の言葉では「いずれ南雲はマガツメを狙う」ではなく、「南雲はマガツメを現状で狙っている」ことになる。

 染吾郎は問い詰めようとしたが、途中で止めた。澄ました顔の向日葵は話す気が無いように見えたし、甚夜もさして疑問に思っているようではない。

 組んでいる以上彼がその辺りに注意を払っていない、というのも考えにくい。おそらく彼女の真意も織り込み済みなのだろう。

 ならば問題はあるまい。そもそも染吾郎の一番の懸念は南雲叡善の企みよりも甚夜の意図。

 かつて憧れた男が何故人と敵対するような真似をしたか、である。

 そこに正当性を見出せた今、他事には然程興味もなかった。


「いろいろ分からんことは有るけど、まあ外枠はだいたい把握したわ」


 南雲叡善の目的は、南雲の再興。

 その為の手段として、コドクノカゴを完成させたい。

 完成には溜那と夜刀守兼臣が必要。必然的に奪った甚夜と敵対。

 奴の勝利条件は溜那の奪還となる。


 甚夜はそれを止めたい。

 コドクノカゴが完成すれば、マガツメと同種の災厄と成り得るから。南雲が倒すとしても、その過程で生まれる犠牲を容認できない。

 だから溜那を奪った。

 彼女が手元にいる以上叡善は襲ってくるだろうし、夜刀守兼臣を手に入れたい甚夜は南雲叡善と敵対することになる。

 彼の勝利条件は、南雲叡善の殺害。

 夜刀守兼臣を奪い溜那を護り切っても、叡善が新しいコドクノカゴを作れないとも限らないからだ。


 そんな彼に協力しているのが向日葵。

 今一つ情報が不鮮明だが、目的としてはマガツメを守る、その一点に尽きる。

 その為にはコドクノカゴを完成させる訳にいかず、現状甚夜とは目的が重なる。

 真意は分からないし、首を突っ込んでくるには少しばかり理由が弱い。

 マガツメの娘だ、手放しに信頼できる相手でもない。もっともそこは甚夜の方がよく知っている。傍に置いているからには、彼にもまた考えはあるのだろう。


 南雲に手を貸している鬼は分からない。

 彼等が退魔の再興に手を貸す意味はない。しかし井槌の言葉から想像はできる。

 とはいえ推測を重ねて間違っていては話にもならない。今は保留しておく。


「……なあ、もっかい確認しとくけど。あんた、赤瀬の家におって大丈夫なんか? ここの爺は叡善と繋がっとんのやろ?」


 話を聞き終えた染吾郎が気になったのはその点だった。

 敵と繋がっている者の屋敷にいるなどまともな神経ではない。

 それを別にしても甚夜の性格、彼の過去を考えれば、溜那と共に身を隠しそうなものである。

 犠牲が出るかもしれない。なのに未だ赤瀬の家に留まり、周りに人を置いているのは少しばかり奇妙に思えた。


「しばらくは平気だろう。幸いにもあちらは無茶が出来ない」

「なんでそう言える?」

「南雲叡善にとっての最悪は、溜那の死。もっと言えば溜那を私に殺されることだからだ」


 語る内容は若干以上に物騒だ。

 しかしきっぱりと言い切った甚夜に気負いはなく、余裕さえ感じさせる。染吾郎の記憶にある鬼を討つ剣豪よりも、全体的に寛いだ印象を受けた。


「溜那は十四歳。最低でも、それくらいの年齢でなければコドクノカゴとしては意味がない」


 直接的なことは言わなかったが、なんとなしにその意味を察する。

 つまりはある程度齢を重ね、最低限生理が来ていないと困る。腹を幾ら弄ったとて、溜那自身に子供を産む機能が備わってなければいけないのだ。


「だから準備に十四年かかった。溜那が奪われた以上、新しい器を作ることも視野に入れている筈だ。だとしても一から造り始めては同じように最低でも十四年はかかる」

「まあ、そうなるわな」

「ならばこそ叡善は私を追い詰める真似は出来ない。あれが何よりも恐れているのは、逼迫した状況下で私が“苦し紛れに溜那を殺すこと”だ」


 例えば叡善の手によって甚夜が死にかけたとする。

 夜刀守兼臣を奪うことも、溜那を護り切ることも出来ない。

 コドクノカゴの完成は目の前。自分の命は風前の灯。

 どうしようもなくなった時、彼はこう考える。


『私はもう死ぬ。だが、コドクノカゴは完成させない』


 命が消える前に、最後の意地を通し溜那を殺害する。

 南雲叡善が恐れているのはそれだ。

 そうなればお仕舞。もう一度、初めからやり直さなければなくなる。


「故にこちらを追い詰めすぎることはあるまい。私の殺害と溜那の安全、同時に確保できる状況で、可能な限り迅速に決着をつける。劣勢を作らず、一手で出し抜くのが叡善の狙い。確実に勝てるまで奴は動かんだろう」


 軽く言う甚夜に、染吾郎は嫌な想像をしてしまった。

 もし今語ったことが真実ならば、殆どの問題は溜那が死ねば解決してしまうのだ。

 そして葛野甚夜という男を知っている。

 こいつは間違いなく“やる”。

 野茉莉を救う為、東菊を切り捨てたように。

 より重きの為ならば、大切なものさえ切り捨てる道を選んでしまえる。

 勿論悪辣を好む男ではないが、それでも他に無ければ手段が間違いなく溜那を殺すだろう。


「……ん?」


 思わず凝視してしまい、それを疑問に思ったのか溜那は小首を傾げた。

 南雲叡善に利用される為育てられた、年端もいかぬ娘。

 少しだけ染吾郎の表情が険しくなった。人としての良心が疼いたからだ。

 果たして、この男の下に溜那を置いておいていいものか。


「大丈夫ですよ」


 見透かしたように微笑んだのは向日葵だった。

 外見には見合わぬ大人びた笑みは絹のようで、その肌触りが優しいからこそやりにくい。どうにも感情を上手く整理できず、染吾郎は曖昧に表情を崩した。

 気にすることもなく、少女は落ち着いた調子で、まるで姉が弟を嗜めるような穏やかさだ。


「だって、今殺してしまったら、南雲叡善には私達を追う理由がなくなってしまう。そうしたら終わりです。逃げられて、また別の所で新しいコドクノカゴを作られたら今度は止めようがありません」

「あ……それもそやな」


 十四年という歳月をかけ、新しい器を育てる。甚夜から溜那を奪い返す。

 比べれば後者の方が圧倒的に労力は少ない。

 だからこそ南雲叡善は奪還の為に動く。

 しかし現状で溜那が死ねば新しい器を準備せざるを得ない。

 叡善としては避けたい事態だが、もしそうなればすぐさま姿を隠すだろう。手間はかかるが、もう一度コドクノカゴを作り直す。それで済む話だ。

 莫大な時間と労力が必要になる反面、態々危険を冒してまで甚夜達と敵対する理由はなくなる。

 ならば今度は見つからぬよう潜伏し、襲撃を警戒し、可能な限りの安全策を取るだろう。

 甚夜にしてみればそちらの方がまずい。

 故に溜那は殺せない。

 甚夜自身、心情的には殺したくないだろうし、それを正当化する理由もある。とりあえず現状が維持されるならば、極端な手を選ぶこともあるまい。


「あちらにしてみれば、一から造り直すよりも奪い返す方が楽。おじさまにしてみても、殺して一時の平穏を得るよりは、相手からの接触が見込める現状は好ましい。すごく不安定ですけど、今はお互いの妥協で平穏が保たれています。しばらくはこのままが続くと思いますよ」


 どちらかが決定的な何かを掴むまでは、と最後に付け加える。

 それを聞いて染吾郎は安堵に全身から力を抜いた。


「と、いうことだ。昨夜は助かったが今のところは現状維持。お前の手を煩わせることもないだろう。一応、一つ二つ切り札はある」


 心配事は杞憂に終わった。甚夜も然程気負った様子はない。

 難儀ではあるが勝算も十分といったところか、その立ち振る舞いには随分と余裕があった。


「そら助かる。俺も現役引退しとるからな、あんま無茶はできん。そろそろ京に戻らなあかんし……んで、あんたはこれからどうする? 溜那ちゃん、いつまでも使用人の離れで隠しながら、って訳にもいかんやろ。それに、仕事中とかな」


 ちらりと溜那の方を見る。

 少しばかり特別な事情はあるが女の子。狭い部屋で甚夜と一緒に暮らすのは、安全だろうが辛いものはあるだろう。それなりに広い家を準備してやらねば可哀想だ。

 もっと言えば甚夜は赤瀬の家にいる以上、家内使用人として働くこととなる。まさか働いている時もずっと一緒という訳にもいかない。その隙に浚われましたでは笑い話にもならない。


「その点は大丈夫だ。協力してくれる知人がいる」


 くっ、と小さく笑い、甚夜は口の端を釣り上げた。


「知人?」

「まだ帝都が江戸と呼ばれていた頃、深川の辺りに住んでいたことがある。その時の知人と偶然再会してな。身動きが取れない時はそいつに預ける手筈がついている」

「あー、勿論、鬼やんな?」


 こくりと頷くだけの返事。

 なんとなく不思議な気分だ。今更ながら彼が見た目通りの年齢ではないのだと思い知らされる。


「部屋に関しては、充知に頼むか」

「希美子ちゃんの親父さん、やっけか? つまりは赤瀬の家から離れる気はないんやな」

「今はな、元よりそういう約束だ」


 約束が何かは分からないが、口にした瞬間表情が寛いだ。

 だから詳しくは聞かなかった。大切なことなのだろうと思ったし、野茉莉と離れて過ごした日々の中、彼も暖かさを得られたのだと知れて嬉しかった。


「さっ、てと」


 話が一段落つき、部屋の中は静まり返る。

 希美子が特別扱いされていた理由、夜刀守兼臣の詳細。甚夜が話していないことは多い。

 しかし聞きたかったことは聞けた。そろそろ潮時だろうと、染吾郎はのっそりと椅子から腰を上げる。


「長々と説明させて悪かったな。一応は納得しとくわ。ま、俺もしばらくは東京におるし、手が欲しかったら呼んだってくれや」

「ああ、済まない」


 甚夜はそう答えたものの、多分協力を仰ぐようなことはないだろうな、と思った。

 かつて染吾郎の手を借りマガツメとの戦いに挑んだ。その結果を考えれば、彼が頼る姿は想像がつかなかった。

 頼りにならないのではなく、慮ってのこと。だとしても、いざという時の力になってやれないというのは少しだけ辛かった。


「それでは秋津さん」

「おう、マガツメの娘」

「むぅ、本当に失礼ですね。前の秋津さんはもっと優しかったです」


 殊更子供じみた表情に、染吾郎はからからと笑った。

 今度は溜那を見て、なるたけ優しく声を掛ける。


「ほなな、もしなんかあったら遠慮なくそこの若いおっさん頼れ。あれで結構面倒見がええし、仏頂面やけど優しいとこもあるしな」


 彼はそれをよく知っている。

 なにせ蕎麦屋の名物となる程に子煩悩だった男だ。情が移ればこの娘のことも大切にするだろう。

 だからそれほど心配はせず、冗談めかしてそう言った。返答は期待していなかった。


「……うん。じいや、優しい」


 だから返ってきた静かな笑顔に、上手く反応できず一瞬止まってしまった。

 初めて聞いた溜那の声は透き通る水のようで、玲瓏たるという表現がぴったりとくる。

 今まで喋らなかったこともあり、溜那の言葉が妙に嬉しくて、染吾郎はにまにまと口元を動かしていた。


「……希美子のが、うつったな」


 困ったような甚夜の呟き。

 耐え切れずに染吾郎は大声で笑った。






 ◆

 





 染吾郎が去って、部屋は随分と静かになった気がした。

 相変わらず溜那は大人しく座っている。しかし話を聞いているだけでも疲れたのか、しばらくするとうつらうつら舟をこぎ始め、途中でベッドに倒れ込んだ。

 目を瞑り気持ちよさそうに布団へ顔を押し付ける様は、年齢以上に幼く見えた。


「おじさま、よかったのですか?」


 それをすっと横目で眺め、向日葵は静かに甚夜の方へ向き直った。


「しっかりと頼めば全面的に協力してくれそうでしたよ。今の秋津さんは稀代の退魔と謳われる有名人ですし、彼の助力が得られればかなり楽になったと思いますけど」

「構わん、宇津木を巻き込むつもりはない。説明したのも情報を求め首を突っ込まれてはこちらが困るからだ」


 染吾郎は……平吉は、もう自分の幸せを生きている。

 ならばそれを邪魔するようなことはしたくない。

 ある程度情報は与えたのは、自ら調査に乗り出すことのないように。一応は納得してくれた、藪をつついて蛇を出すような真似はしないだろう。


「それに助けならお前がいるだろう」

「ふふ、そう言われると照れますね」


 言葉の通り嬉しそうに向日葵ははにかんでみせる。

 語る内容にも嘘はなく、しかし隠し事は幾つかある。

 それを知りながらも甚夜はこの協力体制を覆す気はなかった。

 隠し事があるのはこちらも同じ、目的に差異があるのも承知の上だ。

 しかし南雲叡善を倒すまでの間ならば手は組んでいられる。現状の平穏が叡善との妥協の結果ならば、向日葵との関係は打算の結果。なんとも無味乾燥だ、表情は変えず自嘲した。


『旦那様、私のことも忘れずにいて欲しいものです』


 少しだけ不満そうに、机の上に置かれた刀が“喋る”。

 甚夜の持つ妖刀、夜刀守兼臣。うちに宿す<力>は<御影>。意思を持ち、喋る刀である。


「勿論だ。正直、お前を使うのは心苦しくもあるが」

『お気になさらないでください。叡善様は変わってしまわれました。……或いは、それも私の罪かも知れませんが』


 悔いるような声だった。

 彼女はかつて南雲和紗を主と仰いだ妖刀。南雲に刃を向けねばならぬこと、向けねばならぬほど南雲が変わってしまったことに思うところはあるだろう。

 

『ならばこそ、どうか私を振るってください。叡善様は……いえ、南雲叡善は斬らねばならぬ手合いとなりました。せめてその終わりを与えるのは私でありたい』


 強く言い切った兼臣に迷いはない。

 ならば彼女の主として、その強さに答えねばなるまい。


「兼臣、力を貸してくれ」

『もとより私は貴方の刀。望んでくださるのならば、いつなりと』


 明治の頃、京を去ってからも兼臣とは離れずにいた。

 数十年を連れ添ったのだ。今では旦那様という呼び名にも違和感はなかった。

 兼臣は南雲叡善と敵対する意思を固めたようだ。彼女の迷いが晴れたことを嬉しく思う。

 微かに室内の空気が緩む。しかし向日葵の方を盗み見れば、幼げな容姿の娘は戸惑うように表情を歪めていた。


「その、南雲叡善の件なのですが、お耳に入れたいことが」


 戸惑いは声にも含まれている。

 確信とは程遠い。言うべきか言わぬべきか、そういう迷いが見て取れる。


「どうした」

「昨夜、叡善の配下であろう鬼と話しました。女中の格好をした」


 そいつならば一応だが甚夜も確認した。井槌と同じく叡善に従う、抜け目のない女だった

 手を組んだ理由も何となく分かる。退魔と同じく鬼も時代に取り残されていく存在だ。

 南雲が再興を望む様に、彼等は鬼の復権を願う。如何なる企みかまでは読めないが、その為の手段として南雲に付いたのだろう。


「私もおじさまとこうしているのですから、妥協点が見いだせたなら彼等が手を組んだとしても不思議ではありません」


 でも、と向日葵は確信を持てぬまま、頼りなく言葉を紡ぐ。


「あの鬼、吉隠よなばりは南雲叡善よりも遥かにタチが悪いように思えて」






 ◆






 同じ頃、今日も今日とて藤堂芳彦はモギリに精を出していた。

 小さなキネマ館ということを差し引いても、暦座は連日盛況。やはり大衆娯楽の王様は活動写真だな、と働く芳彦も気分がよかった。


「いらっしゃいませ……って、あれ?」


 十数人の客をさばいていると、最後尾に見覚えのある顔があった。

とは言っても知り合いではなく、何日か前に偶然ぶつかっただけの相手だ。


「やあ。君、前にも会ったよね?」


 そう言いながら軽く手を上げたのは、黒の上下に外套と帽子、典型的な学生服を身に纏う人物だった。

 着ている服装は男性用のものなのに、やはり性別は不詳。気の利いた少年風の少女か、可憐な少女のような少年か。

 中性的な顔立ちのその人も芳彦のことを覚えていたらしく、客がはけた後、にこにこと笑顔で近付いてきた。


「いらっしゃいませ。この前は済みませんでした、ぶつかっちゃって」

「いいよいいよ、気にしてないって」


 笑いながらそう言ってくれるから、安心してほっと息を吐いた。

 余裕が出てくると他事にも頭が回る。学生服を着ているのに真っ昼間から活動写真。学校を抜け出してきたのだろうか。

 勿論そういった質問はしない。不思議には思うが相手はお客様。事情に首を突っ込むのは野暮というものだ。


「はいこれ、チケットね」

「あ、はい。どうも」


 手早くチケットをもぎり、どうぞと手で示す。

 それを受け取り、変わらず浮かべている笑顔で返した。


「ありがと。いやー、活動写真なんて初めて見るよ」

「あれ、そうなんですか?」

「うん。あんまり興味なかったから。まあでも、今回は下見だからね」

「へー。あ、もしかして下見ってデイトのですか?」


 恋人との逢瀬にキネマ、カフェーでコーヒーなんて若者の憧れの一つである。

 そういう人達は時折見るので、この人もそうかな、なんて思ったが軽い笑みと共に一蹴される。


「だといいんだけどねー、残念ながら違うよ。実際は犯罪行為の下見。いや、上からは派手なことはするなって言われてるけど、やっぱりそれじゃつまらないしね」

「はい?」

「何にしようか、うーん。目の前に可愛い男の子がいるから、誘拐とか?」


 しなを作った流し目は妙に艶かしく、しかし一転表情は悪戯っぽく崩れる。

 だから芳彦はからかわれたのだとすぐに気付いた。そういうからかい方をしてくる辺り、やっぱり女の人なのだろうかと思いながら、照れ隠しに笑みを浮かべる。


「あはは、なんですかそれ」

「別に嘘じゃないんだけど……ま、いっか。じゃあね。さーて、楽しみだなぁ」


 そう言いながら館内に入って行くその人を芳彦は見送った。 

 初めて見る活動写真が随分と楽しみなようで、うきうきという表現がぴったりとくる明るい表情だ。

 それを見ると芳彦の方も楽しくなってくる。なんか面白い人だ、名前も知らない性別不詳のその人の印象はそれくらいのものだった。


「ほんと、楽しみ」


 だから、吉隠の薄暗い呟きを聞き逃した。




『コドクノカゴ』・了




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