『君を想う』・4
雨が強くなった。
本堂に漂っていた血の匂いは雨の香りに流され、今はその名残さえ感じさせない。
時刻は八つ時に差し掛かる辺り。
手立てはない。東菊を殺し喰らったというのに、解決策を得ることは叶わなかった。
計り知れないほどの失望と焦燥を覚え、しかし立ち止まっていられるほどの余裕はない。寝転がっている平吉を抱え上げ、廃寺を後にした甚夜は鬼そばへと戻った。
どうすればいいのかは分からないが、何もせずにはいられなかった。
「あ、ああっ!?」
店の前にまで辿り着くと、雨に打たれたまま傘も差さず、取り乱し辺りを見回す豊繁の姿があった。
近付けば視線が合い、途端に慌てて駆け寄ってくる。
「ああ、よかった! すまねえ!」
「三橋殿。まずは下ろさせてくれ」
「お、おお」
平吉はまだ意識を失っていた為、横たわっていた彼を両腕で持ち上げ抱き抱えてきた。所謂横抱きである。女性に対してなら兎も角、男同士ではひどく違和があったらしく、道行く人は奇異なものを見るような目だった。
取り敢えずは店の奥、自身の寝室に寝かせる。布団は引いておらず畳で雑魚寝させる形になってしまったが仕方ない。なるべくゆっくりと平吉の体を畳の上に下す。
終えてからもう一度豊繁と向かい合えば、思い出したように彼は捲し立てる。
「って、大変なんだ! 少し目を離した隙に野茉莉ちゃんが!」
瞬間、背筋が粟立った。冷たい何かが全身を一気に駆け抜ける。
気付けば言葉を最後まで聞くことなく走り出し、野茉莉の寝室の障子を乱暴に開いていた。
「野茉莉っ!」
ばんっ、と大きな音が響いた。
しかし寝室からは何の反応もない。というよりも、そこにあるのは乱雑に放置された布団だけ。
野茉莉は、何処にもいなかった。
「すまねぇ。留守を任されてたのに」
寝間着が脱ぎ散らかされている。いつもつけているリボンも見当たらない。
ちゃんと着替えている辺り、攫われたという訳ではあるまい。おそらくは隙を見て抜け出したのだろう。
「すまねぇ、すまねぇ……」
豊繁はくしゃくしゃに顔を歪めている。
留守を任された。なのに、野茉莉はいなくなった。原因は自分の迂闊さだと、彼は慙愧の念にこうべを垂れていた。
「気にするな。野茉莉を探してくる」
それを受けた甚夜はひどく冷静だった。
愛娘がいなくなった。もっと動揺してもおかしくはないし、原因となった者に恨み言の一つや二つあってしかるべきだ。だというのに心は落ち着いている。そのことに違和感さえ覚えなかった。
意外さに目を見開き、豊繁は甚夜を見た。すると何故か、彼は落とすような、疲れたような笑みを浮かべている。
「何故かな。ひどく落ち着いているんだ」
零れたのは、悲しげな、寂しげな頼りない声。
普段の鉄の固さは感じられない。それくらいに弱々しかった。
「え……?」
「自分でも意外だ。いや、或いは。こうなると心の何処かで思っていたのかもしれない」
部屋は荒らされておらず、着替えもきちんと済ませている所を見るに自らの意思で外へ出たのは間違いない。
しかし布団はそのまま、寝間着も脱ぎ散らかしている。普段なら片付けているが、今は出来ていない。その余裕がないからだ。
外に出たのも精神的に追い詰められたが故の、衝動的な行動なのだろう。
同時に、そこまであの娘が追い詰められているというのなら。
おそらくもう殆ど記憶は残っていない。
───既に手遅れということだ。
もはや野茉莉を救う手立てなど在りはしない。
東菊を喰ったことで、これから先どうなるかも知った。
記憶が完全に消去された後、野茉莉の記憶は改変されるよう設定してある。父がいない、甚夜の記憶も覚えていない、それを矛盾なく受け入れられるように。
そうなってしまえば野茉莉にとって甚夜は完全な異物となる。
記憶を失くした娘ともう一度やり直すことも出来ない。
改変された記憶だけを消すような細かな能力の運用も不可能。
完全に詰みだ。どうにもならないのだと、理解してしまった。
「……三橋殿、もう一度頼む。“野茉莉を任せる”。借りは、それで帳消しだ」
豊繁の答えは聞かない。
一方的に言葉を投げつけ、背を向ける。
会話はこれまで。野茉莉を救う手立てはないが、まだ自分には最後の役目が残っている。きっと、あの娘は雨の中で独り怯えている。
だから、早く会いに行かないと。
そうして傘も差さず、甚夜は雨の京へと消えていった。
甚夜は酷く冷静だった。
自分でも意外に思う反面、そういうものかと納得もする。
結局は、こうなると心の何処かで思っていたのだろう。
遠い昔、誰かが言っていた。
変わらないものなんてない。
だから、本当は知っていたのだ。
────いつか、幸福の日々は終わると。
「おっと、ごめんね!」
通りで女性とぶつかりそうになった。
おろおろと落ち着かない様子、雨に濡れた髪。豊繁の妻である朔は、普段からは考えられないほどに動転している。
おそらくは彼女も野茉莉を探してくれていたのだろう。落胆と憔悴が顔に出ていた。
「あ、ああ。そうだ、あんた女の子を見なかったかい? 野茉莉ちゃんっていって、二十くらいの、桜色のリボンをした女の子で」
だから、問い詰めることはしたくなかった。
もう覚えていないのかなんて。愛娘を必死に探してくれたのだ、余計な負担を強いるような真似は避けたい。
「いえ、すみませんが」
甚夜は一言だけ残して頭を下げ、振り返ることなく去っていく。
彼女もそれを引き留めない。既に何度もそういった対応をされた。無関係な人間にとってはどうでもいいこと。ならば責めるのはお門違いだし、まだ野茉莉は見つかっておらず、ここで体力を使いたくもなかった。
だから二人は当然のようにすれ違い、朔は鬼そばへと戻ってくる。
店先には項垂れる夫が。彼の方も見つからなかったのだろう、その表情は暗かった。
「あんた!」
「お、おお」
「そっちも?」
「見つからなかった。俺も少し足を延ばすよ」
豊繁は鬼そば近辺を、朔は思い当たる場所へと野茉莉を探しに行った。
夫が店の周辺を担当したのは、行き違いにならないように。彼が帰ってきた時、事情を説明できる豊繁が残った。
だが見つからない以上、いつまでも此処でグダグダしているよりも他の場所へ行った方がいい。
「そうだね、お願いできるかい?」
「ああ、頼まれたしな。“野茉莉を任せる”って」
そう、頼まれた。
野茉莉を心配しているのは事実。だけどそれ以上に、あの子を想う人がいて。
そいつから頼まれた以上、早く見つけて安心させてやらなきゃ。
「……頼まれたって、誰に?」
朔は怪訝そうに眉を顰める。
野茉莉は隣に住む女性で、夫婦はこの娘のことを小さなころから知っている。
“両親がおらず天涯孤独で”、だから子供のいない豊繁らは大層可愛がってきた。
そういう娘だから夫の発言はよく分からない。一体誰が、「野茉莉を任せる」と言ったのか。
「なに言ってんだお前。そりゃ……誰、だった、けな」
そんなもの、いつだって野茉莉に甘い、あいつしかいないだろうと。
そう思うのに名前も顔も浮かんでこない。
でも頼まれたんだ。
真面目で堅物で、頑固で無愛想で。
不器用で、誰よりもあの子を愛した、誰かに。
「ちょいと、ど忘れしちまったけどよ。とにかく探してくるわ」
豊繁はがしがしと頭を掻いて、よく思い出せない記憶から目を背けた。
思い出せないなら、それでもいいじゃないか。
今は野茉莉を探さないといけない。
そうすればきっと、誰かだって安心してくれる筈だろう。
◆
それは何でもない日のことだった。
蕎麦屋喜兵衛での昼食時。
父様と、並んでおそばを食べる。
にこにこ笑っている、蕎麦屋のおじさん。
『おう、嬢ちゃん。うまいか?』
『んーと、ふつう』
『うん、この子、間違いなく旦那の娘ですね』
なんかひどいこと言われた気がする。でも父様の娘だと言って貰えたからちょっと嬉しい。
笑顔で蕎麦を食べるけど、箸がうまく使えなくて口元についてしまう。
『ほら、野茉莉。口元』
自分で拭わないのは父様がやってくれるって知ってるから。
嬉しくて笑う。
私は、小さな頃から父様が、大好きで。
ざ、ざざ。
消える。
ざ、ざざ。
頭の中の雑音に、心が撹拌される。
断続的な痛みが過ぎる度、何かがなくなっていく。
それが怖くて、私は部屋を抜け出していた。
もう沢山のものを失くしてしまった。何を失くしたのかさえ思い出せない。
でも、大切なものだった。大切なものの筈なのだ。
だから私は雨の町を、ふらふらと覚束ない足取りで進む。
大切なものを拾い集めるように。失くしてしまわないように。忘れないように。
そうすれば零れ落ちていく何かを、少しでも繋ぎ留められるような気がして、縋るような想いで歩いていく。
辿り着いたのは、呉服屋。
ああ、懐かしい。
思い出せなかった筈の記憶が蘇る。
『あのね……リボンが欲しいの。父様に、買ってほしいなって』
今髪を結んでいるリボンは、父様が買ってくれたもの。
我儘なんて、殆ど言ったことないけど、これだけは聞いてほしかった。
『どれがいい』
『父様に選んでもらいたいの。駄目?』
楽しかった。
店員さんに恋人と勘違いされたのは恥ずかしかったけど、親娘としての買い物ができた。
それが嬉しくて……。
ざざ、ざ。
けど消える。
「あ、あぁ」
懐かしい。
懐かしいと思うのに、なぜ懐かしいと思うのかが分からない。昔、この呉服屋で大切なことがあった。
忘れてはいけなかったのに。
思い出せない。
「いやぁ……」
濡れが頬は雨か、それとも別の何かのせいだったのか。
私は逃げるように呉服屋を後にした。
雨の中でも人の多い三条通。傘も差していない私を皆奇異の目で見るけど、そんなものに構っている余裕はない。
脳裏に映るのは、やはり懐かしい景色。
この道を、父様と一緒に何度も歩いた。
『そうだ、明日も一緒に散歩にいこ? 刀を差さなくてもいいなら手が空くでしょ。一緒に手を繋いで歩けるね!』
確か随分前。廃刀令が決まって、刀を差せなくなった頃の話だ。
父様は刀を捨てた。違う、捨てた訳じゃない。でも外で刀を差すのは止めた。
それが寂しそうに見えて、私はそう言った。
言葉通り手を繋いで、二人でこの道を歩いて。
ざ、ざざ。
消える。
ようやく私は理解する。
失われていく何かは、記憶だ。父様との思い出が、消えていっている。
きっと私は色々なものを忘れている。なのに、忘れたことにさえ気付いていないのだろう。
「いや、だよ」
それが怖い。
まるで自分が自分じゃなくなるような錯覚。違う、錯覚じゃない。
父様と過ごした日々が今の私を形作った。なら、記憶を失うことは私が私でなくなるのと同じ。
消えてしまえば。
私を愛し大切に育ててくれた人を、大切に想えなくなってしまう。
所詮は拾われた子供だ。
明確な繋がりなどある筈もない。
ただ積み重ねてきた思い出が、過ごしてきた時間が二人を家族にしてくれた。
だから記憶を失くしてしまえば、もう家族ではいられない。
いつか恐れていた時が、目の前に差し迫っている。
私が全てを忘れた時、二人は他人になるのだ。
「違う……まだ、覚えている」
それだけは認められない。
歯を食い縛って、私は歩く。何処に向かっているかは自分でも分からない。
でも足は止められない。この道の先に何かを求めて、私はふらふらと、今にも倒れそうになりながらも前へ進む。
「牛鍋屋さんで、皆でご飯食べて」
譫言のように思い出を数える。
ざざ、ざざ。
でも消える。
「あんぱん、味見したり」
苦しそうに頬張る父様を見て笑った。
ざ、ざざぁ。
消える。
「毎日、おべんとうつくってくれて」
消える。
「本当は起きてるのに、おこしてほしくて、ねたふりして」
消える。
「勉強しないと。おみせ、てつだわなきゃ」
消える。
気付けば私はいつの間にか泣いていた。
涙が、記憶と、大切な何かと一緒にぼろぼろと零れ落ちる。
怖くて、それ以上に悔しくて。後から後から湧き出てくる。
だけど耐えなきゃ。
私にはやらなければいけないことがある。
「私は、父様の母様になるの……父様が守ってくれたように、あの人を守るの」
幼い頃からずっと願っていた。
捨て子だった私を守ってくれた父様を、今度は私が守ってあげたいと。
それは子供だからこその発想だったけど、あの夜に願いは決意へと変わった。
『父様……?』
まだ覚えている。
その夜、父様はいつものように鬼退治へ出かけようとしていた。
『済まない、起こしたか』
『ううん……どこか、行くの?』
『こちらの用事だ。寝ていてくれ。すぐに帰ってくる』
『分かってる。……どうせ、私が何言っても行くんだよね?』
責めるような言葉を口にしたのは寂しかったから。
鬼との戦いだ、安全な訳がない。
もしかしたらこのまま帰ってこないのではないかと、いつだって不安だった。
『野茉莉……』
『ごめんなさい、私、ひどいこと言った』
俯く私に、父様は手を伸ばす。
頭を撫でて慰めようとしてくれて。
『あ……』
でも素直になれない私は、反射的にそれを拒んでしまった。
その時の父様の顔を忘れることはないだろう。
強いと思っていた父様の、傷付いた顔。
私は、あの人を傷つけてしまった。
誰よりも大切で、誰よりも大切にしてくれたのに。
「今まで、父様が頑張ってくれた。家族でいる為に、ずっと頑張ってきてくれた」
後悔はしない。
そうやって傷付いて傷付けて、あの頃より少しは大人になれたからこそ、分かることもある。
父様は強い。
鬼を簡単に倒して、剣の腕だって凄い。
辛いこと悲しいことを、いつだって乗り越えてきた。
父様は強いと、ずっと信じてきた。
馬鹿だったと思う。幼い私が見ていたのは表面だけだった。
力が強くても心が強くても、悩みや傷の痛みが消える訳じゃない。
私の知らないところで父様は沢山悩んで、沢山傷付いて。
それでも、いつだって私の父親であろうと頑張ってくれていた。そんな当然のことさえ、私には見えていなかった。
そうと気付いた時、幼い夢は決意に変わった。
母親になって、父様をいっぱい甘やかしてあげる。いつかの少女が口にした未来を現実に変えよう。
どんな形で在ろうと、あの人の家族でいる。
それが私に出来る精一杯の恩返し。娘として、妹として、姉として……最後には、あの人の母親として。
長い長い時間を生きる父様が少しでも寂しくないように、最後まで家族であろうと決めたのだ。
「今度は、私が守るの。父様のことを」
そう、決めた、はず、なのに。
頭には、雑音が響いて。
「だから、だか、ら……」
ざ、ざざ。
「お願いだから、消えていかないでよぉ……!」
他のことなんてどうでもよくなるくらい、強く願っても。
ずっと大切にしてきた想いが、こんなにも簡単に消えてしまう。
「あ、ああ、あ」
頭がぼーっとする。
なんでだろう。風邪でも引いたかな。でも、前に行かなきゃ。
あれ、なんで歩いてたんだっけ。
分からない。だけど足は勝手に進む。
三条通を抜け、鳥居を見つけ、辿り着いた石段、滑らないように一歩ずつ歩く。
ああ、そうだ。荒城稲荷神社。この神社に行こうとしてたんだ。なんでかは、覚えていないけど。一歩進む度に心が温かくなるから、間違いない。
登って登って、辿り着いた境内。
暗い。そろそろ、夕方かな? 雲がかかっててよく分からないけど、取り敢えず辿り着けてよかった。
境内は誰もいない。当たり前だ、こんな雨の中参拝客なんているはずない。
だけど、此処は私にとって大切な場所で。
お祭りにいった───消える。
此処で、父様と話した──消える。
大切だった筈なのに、眺める景色に心を動かすことはなく。
さ迷うように歩く私は、疲れからか崩れるように倒れ込んだ。
「ぅ、あ」
何とか手をついて、顔から突っ込むのだけは防いだ。
けれどそのせいで、まるで土下座するような格好になってしまった。
「あ、あ」
立ち上がらなかった。何故かそんな気にはなれなかった。寧ろこうべを垂れる今の状態が、私には相応しいと思えてしまう。
自分が情けなくて、無性に謝りたくなって。
「あ、ああ、ああああああああ……っ!」
私は、声を上げて泣いた。
怖い。それ以上に悲しい。
多分私は、大切な何かを失くしてしまった。もう、取り返しがつかない。
なにより悲しいのは、その失くしてしまった“なにか”が、思い出せないことだ。
なんで忘れてしまったんだろう。それを私は心から願っていた筈なのに。
雨に打たれて体は冷えて、なのに動こうという気にはなれない。私は覚えてもいない“何か”を想い、ただ謝罪を続けている。
それからどれだけ時間が経ったろう。
気が遠くなるくらい、或いは一瞬だったのか。
「最後には、此処を選ぶような気がしていた」
突然、雨の音に紛れて、誰かの声が聞こえた。
懐かしい、聞き覚えのない、声だった。
誘われるように顔を上げると、そこには六尺近い、大きな男の人がいた。
どくん、と心臓がはねた。呆然と見上げる私を余所に、彼はゆっくり口を開く。
「子供の頃、何度も祭りに来たからか。それとも家族であると誓った場所だからか。その理由は、私には知りようもないが」
まっすぐに見つめるその人を、私は知らない。
知らないのに、余計に泣きたくなる。
怖い。男の人が、じゃなくて。彼がそこにいるのが、今の自分を見られるのがたまらなく怖かった。
「あ、あ……」
上手く喋れない私と、私から目を逸らさない見知らぬ男の人。
境内で二人佇む姿はとても奇異で、現状に頭が追い付いてこない
「それでも、最後にお前が選ぶのは、此処だと思っていた」
なのに、泣きたくなるのは何故だろう。
意味もなく二人は見つめ合い。
雨は強くなったような気がした。
「私にとっても思い出深い場所だ。染吾郎がいて、兼臣がいて、宇津木がいて。ちとせが見守る中、お前の手を引いて祭りを回る。口にこそしなかったが、楽しかった。一瞬、本当に一瞬だが。胸にある憎しみを忘れられる程に」
男の人がゆっくりと一歩を踏み出す。
近くて遠い距離が少しずつ縮まっていく。
「そして夕凪の空を覚えている。家族でいる為に努力するとお前が言ってくれた。それが、どれだけ嬉しかったことか。本当は、私の方こそ、ずっとお前に救われてきたんだ」
私の知らない思い出を語るその人は、とても冷たい顔をしている。
無理矢理に感情を抑え付けた、仮面みたいな。いや、違う。仮面なんて軽さではない。微動だにしない完全な無表情は、まるで硬い鉄を思わせた。
「なのに、済まない。守ってやれなかった」
抑揚のない、鉄のように冷たい言葉はどこか悔いるような響きを持っている。
「誰よりも大切だったのに、お前には泣いてほしくなかったのに、結局泣かせてしまったな」
近付いてくる知らない男の人。乱暴をするような人には見えないけれど、とても怖い。
それが何処から来る感情なのか、私には分からなかった。
「い、や」
でも分かっていることがある。
逃げないと、逃げないと大変なことになる。
そう思っているのに体が動かない。気付けば怯えに満ちた言葉が零れていた。
「お願い、来ないで……」
泣きながら懇願しても、僅かに表情がぴくりと動いただけ。
男の人は止まらない。ゆっくりと、一歩ずつ距離を詰めてくる。
「記憶の崩壊も、一度消え去った記憶も、治す手立てはない。私はお前に何もしてやれない……出来ることがあるとすれば、その恐怖を消し去ることだけ」
何か言っているけど、耳には入っても頭に入ってこない。
でも、きっとあの男の人は、私が一番嫌だと思うことをしようとしている。
「記憶を戻すことは出来ない。だが、“今すぐ完全に消し去る”ことならできる。終わりを少しばかり早めるだけだが、楽にはなるだろう」
だから逃げなきゃ。
あの人は、私が大切にしてきたものを、全部奪っていってしまう。
「何も出来なかった私の、自己満足だ。それでも泣いているお前は見たくないんだ」
男の人は、寂しそうな顔で私を見た。
それも気のせいだと思ってしまうくらいの一瞬で消えた。
まばたきの後には感情の色もなくなり、鉄の固さだけが残っている。
「野茉莉」
何故名前を知っているのか、疑問に思う暇もなかった。もう男の人は私の目の前にいる。
彼は膝を落とし、動けない私を正面からすっと抱き締めた。
「あ……」
振り払うことは出来たかもしれない。けれど、しなかった。
出来なかったのではなく、したくなかった。
私の中にほんの少しだけ残っている“何か”がそれを躊躇わせる。
湧き上がる感情に心を震わせる。恐怖ではなく、じんわりと染み渡る暖かさが其処には在った。
「あぁ、あな、あな、たは……」
私の失ってしまった“何か”を知っているの?
聞きたいのに、嗚咽に掻き消されて言葉が出てこない。
ごつごつした、タコの上にタコを作った無骨な手が頭を撫でてくれている。
知らない人に抱き締められているのに嫌悪感はない。それがすごく不思議で、当たり前のような気もして。自分の感情さえあやふやで、どうすればいいのか分からない。
ああ、涙が溢れる。
重なり合う鼓動が響いて。
表情は見えないけれど、微かに優しくなった空気に知る。
きっと彼は静かに、穏やかに、微笑んでくれたのだと。
こうして、一つの家族は終わりを迎える。
甚夜は野茉莉の髪を愛おしげに手櫛で梳いた。
震える体は嫌悪か、恐怖故か。
しかし手は離さなかった。これが最後になるのなら、単なる我儘だとしても、もう少しだけ温もりを感じていたかった。
「大きく、なったなぁ。お前を腕に抱いていた頃が嘘のようだ」
記憶の中の赤子と今の彼女を見比べて、落とすように笑う。
重ねた身体から伝わる鼓動が、彼女は此処にいると教えてくれている。
例え記憶が失われ、触れ合えた今が消え去ってしまうとしても。
この瞬間は決して嘘ではないと信じさせてくれた。
「おしめを換えるのに四苦八苦して、毎朝学校に送り出して。ああ、洗濯を嫌がられたこともあったか。当時は思い悩みもしたが、今ではいい思い出だ。……それも消えてしまうんだな」
ああ、胸が締め付けられる。
この一時が過ぎれば彼女は他人になってしまう。
本当は、ずっと傍にいたかった。
父親として、家族として、この娘の道行きを見届けたかった。
いてやりたかった、ではなく。甚夜自身が、野茉莉と家族でありたいと願っていた。
そう思えるだけのものを積み重ねてきた。
しかし叶わぬ夢だ。
必死になって積み重ねて、だというのに、崩れるのはあまりに早すぎて。
追いつかない心を置き去りに、別れの時が訪れてしまった。
「や、だよ」
か細い、雨に負けてしまいそうな呟きに胸を締め付けられる。
縋りつくように甚夜の胸元に顔を埋める様は、まるで幼い頃に戻ってしまったかのようだ。
「忘れたく、ないよぉ……」
殆ど記憶が失われた状態で紡いだ言葉だ。口にした本人も意味は理解できていないだろう。
後悔が胸に刺さり。けれど、ほんの少しだけ嬉しかった。
彼女が過ごしてきた歳月を大切に想ってくれているのだと信じられたから。
それで十分だ。この勘違いだけで積み重ねた今までは報われた。
心残りは、これからのことだけ。
「……済まない。私は、お前を傷付けてばかりだった」
失われた記憶を戻す術はないし、彼女に関わる術もなくなった。
或いは、必要もなくなってしまったのかもしれない。
野茉莉は大人になった。
幼い頃とは違う。今では手を引いてやらなくても、一人で歩けていける。歩いて、いかなければならない。
マガツメの干渉があってもなくても同じ。子供ではなくなったというのなら、彼女はこれから続く人生を、自分の力で切り開いていくことになる。
それが最後の心残りだ。
父親というのは難儀なものだ。既に手を離れた娘であっても心配してしまう。
何かあった時、手を差し伸べてやれない自分がひどく歯がゆい。
「だけど祈っているよ。鬼に堕ちた私の祈りでは、神も仏も受け入れてはくれないだろうが……ああ、そうだな。マヒルさまに祈ろうか。こんな私にも奇跡をくれた心の広い女神だ。少しくらいの無理なら、きっと聞いてくれる」
出来ることは何もない。
もう手助けはしてやれないが、せめて想いだけは預けていこう。
共に過ごし、笑い合った。上手くいかず、思い悩んだ。
そうやって積み重ねてきた歳月の分、この娘を好きになれた。
「お前は私を救ってくれた。だから今度は、お前が救われることを願う。好いた男と契りを交わし、子を産み育て、緩やかに年老いていく。私には、得ることも与えることも出来なかったが。だからこそ、そんな当たり前の幸福を生きてほしいと思う」
だから、紡ぐ言葉に精一杯の願いを込める。
例え忘れ去られるとしても、何も心に残ることはないとしても。
無駄ではなかったと。野茉莉と過ごした幸福の日々は、確かに意味があったと伝えられるように。
「そしてどうか、いつまでも幸せでありますように」
心から祈る。
大丈夫。きっとこの娘が歩く先は、沢山の光に満ちた、陽だまりのように暖かい場所だ。
私の母になり、守ると言ってくれた。そんな優しい彼女が、幸せになれない筈がないのだ。
「家族でいてくれてありがとう。野茉莉……私は、お前を愛していた」
そして、もう一度笑ってほしい。
例えそれを見ることが叶わないとしても。
その笑顔にこそ、私はずっと救われてきたのだから。
「だから、これでさよならだ」
そろそろ時間だ。
名残は尽きない。しかしふと浮かんだ、小さな頃から知っている青年の顔に思い直す。
自分がいなくなっても、この娘の笑顔を大切に想ってくれる人がいる。
少しばかり頼りない所はあるが、信頼に足る男だ。後のことは彼に任せよう。
甚夜は、静かな。普段とはかけ離れた、柔らかな笑みを浮かべた。
最後に一度、優しく野茉莉の頭を撫でて。
「<東菊>」
これでおしまい。
偶然が重なって出会った二人は、日々を重ねて家族となり。
けれど雨は全てを流し。
また、他人に戻った。
◆
虚ろと現の間で心がぷかぷかと浮いている。
まるで浅い眠りで見る夢のよう。
私は、心に最後まで残った、懐かしい景色を眺めていた。
今も覚えている、あなたと過ごした日々のこと。
『ねぇ父様』
『ん』
透明な朝、騒がしい昼、夕凪の空。
沈む陽、見上げれば、星に変わり
『父様にも、母様がいなかったの?』
『ああ』
いつものように、手を繋いで、二人家路を辿る。
暖かさがくすぐったくて、子供みたいだねと、私は笑う。
『じゃあね、私が父様の母様になってあげる』
『なんだそれは』
懐かしさに心浮かれて、けれど近付いた道の終わりに、知らず景色は滲んで。
『父様は私の父様になってくれたから、大きくなったら私が父様の母様になって、いっぱい甘やかしてあげるの』
玉響の日々。名残を惜しむように、私は、あなたを想う。
『そうか、ならば楽しみにしている』
『うんっ』
懐かしい記憶。
あなたの母親に為ろうと決めた、私の始まりの風景。
ああ、でも、もう思い出せない。
────あなたって、誰だったのだろう?
こうして私の中の大切な何かは。
雪のように、溶けて消えた。




