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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
葛野編
1/216

『みなわのひび』


「行く所がないんなら、うちに来ないか?」


 降りしきる雨の中、男はそう言って手を差し出した。





 今も思い出す。

 五つの頃、父親の行いに耐えかねて、妹と一緒に江戸を出た。

 父は妹を虐待していた。こんな家に居てはいけないと思った。


「雨……強くなってきたな」

「うん……」


 雨が降る。並んで歩く夜の街道。先は暗くて何も見えない。

 傘もなくて、ずぶぬれになって。体は冷え切り、だんだんと重くなってきた。


「鈴音、ごめんな。何もできなくて」


 赤茶がかった髪をした幼い妹──鈴音は物憂げに俯いている。

 鈴音の右目を覆った包帯。それを見ると嫌な気分になってしまう。

 俺は妹を父から守ってやれなかった。必死になって頑張ったのに、結局家族という形を失くしてしまったのだ。

 辛くて、悔しくて。右目の包帯に自分の無力を見せつけられたような気がした。


「ううん、にいちゃんがいてくれるなら、それでいいの」


 どちらからともなく伸ばされた手。

 固く繋がれた手の柔らかさに胸が暖かくなる。

 そうして鈴音はゆっくりと、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。

 守るべきものを守れない無様な自分。雨に濡れながら笑う妹。その表情を見て俺は何を思ったのだろう。いろんな感情が混ざり合ってうまく言葉になってくれない。


 ただ俺は、鈴音の無邪気な笑顔に救われた。

 

 だから願った。この娘が何者だとしても、最後まで兄でありたいと。

 でも俺は子供で、家を出ても当てなんかなくて。

 取り敢えず江戸を離れたけれど、どうすればいいのか分からないまま街道で途方に暮れていた。

 雨が強くなった。前も見えないくらいだ。だけど何処にも行けない。帰るところなんてもうない。きっと俺達はこのまま死んでしまうんだろうな。


 そんなことを考えていた時に声をかけてきたのは、三度笠を被りだらしなく着物を着崩した二十半ばくらいの男だった。 


 男は俺達が家出してきたと知るや否や、いきなり「うちに来ないか」と言い出した。

 出会ってすぐそんなことを言う男など信用できる筈もない。鈴音を背に隠し、精一杯睨み付ける。だけど男は飄々とそれを受け流す。


「そう睨むな。怪しい奴だが悪い奴じゃないぞ、俺は」


 腰には刀を携えている。「武士なのか」と問えば「巫女守だ」と誇らしげに答えた。意味は分からなかったけれど、その表情があまりにも晴れやかだったから、きっと素晴らしいことなのだろうと子供心に思った。


「どうする? このまま此処に居ても野垂れ死ぬのが落ちだろう。なら俺に騙されてみるのも手じゃないか?」


 男の言葉は正論だった。

 後先考えず家を出たけど、俺達が二人だけで生きていくことなんてできない。情けないけれど、そんなこと自分が一番よく分かっていた。


「にいちゃん……」


 鈴音は怯えるように俺の着物の裾を掴む。左目は不安で揺れていた。

 妹は父に虐待をされていたから、大人の男が怖いのだろう。でも俺達は所詮子供。誰かに頼らないと、ただ生きることさえ出来ない。


「鈴音、行こう。大丈夫……俺も一緒だから」


 結局、俺達に選択肢などない。生きるためには男の手を取るしかないのだ。

 そんな俺達の内心を知ってか知らずか、男は呆れたように、けれど優しく眺めている。

 差し出された手を握る。潰れた豆の上に豆を作った硬い手だった。 


「俺は元治(もとはる)だ。坊主、名前は」


 硬い手は、きっとこの人がそれだけ努力を重ねてきた証。

 店を営んでいた父の手がいつもぼろぼろだったのを覚えている。

 だからだろう。武骨な手の感触に、この人は信じていいのだと思えた。


「……甚太(じんた)

「幾つになる」

「五つ」

「ほう、五つにしちゃしっかりしてら。そっちは妹か」

「鈴音。俺の一つ下」

「そうかぁ。いや、俺には娘がいてな。丁度お前の妹と同い年だ。仲良くしてやってくれ」


 男───元治さんに手を引かれ、俺が鈴音の手を引いて。傍から見れば奇妙な道中を元治さんはからから笑う。

 俺達は誘われるがままに彼の住む集落へと向かった。ごつごつとした掌が、鈴音の小さな手と同じくらい優しく感じられた夜だった。







「着いたぞ、此処が葛野(かどの)だ」


 辿り着いたのは山間にある集落だった。

 雨に視界を遮られたまま辺りを見回す。近くには川が流れていて、集落の奥は深い森が広がっている。妙に建物が乱立していてごみごみとした区域と、逆に民家がまばらに立っている区域があって、なんとなく乱雑な印象を受けた。

 俺が江戸以外の場所を知らないせいかもしれないけど、正直に言って奇妙なところというのが最初の印象だった。


「なんか変なとこ……」


 鈴音も同じような感想だったらしく、辺りをきょろきょろ見回している。


「変なとこねぇ。ま、そうだろな。葛野は踏鞴場(たたらば)だ。江戸と違って大した娯楽もない」

「たたらば?」


 聞き慣れぬ言葉に俺は首を傾げた。


「鉄を造る場所のことだ。そういうのは追々教えるさ。付いてきな、こっちだ」

そうして案内されたのは、屋敷というほどではないが周りと比べれば十分立派な木造の家だった。どうやらここが元治さんの家らしい。

「さ、入れ」


 促され、元治さんの後を追い玄関へ足を踏み入れる。

 すると家の中から小走りで、小さな女の子が姿を現した。


「お父さんお帰りなさい!」


 元治さんの姿を見た瞬間、少女は勢いよく飛び出し、そのまま抱き着く。

 驚きに鈴音が強張り、庇うように俺は一歩前へ出る。

 でも危ないことなんてない。女の子は、心から嬉しそうに笑っている。


「おう、ただいま白雪。いい子にしてたか」

「もちろん」

「そうかそうか」


 言いながら元治さんは鈴音よりも少し小さな、色の白い少女の頭を撫でた。

 心地好いらしく少女は目を細めている。傍目から見ても仲睦まじい親子だった。


「ぅ……」


 鈴音がその暖かな光景に目を伏せる。

 仲の良い父娘。鈴音が手に入れられなかったものが此処にあった。

 悲しそうに、寂しそうに、鈴音は瞳を潤ませる。だから俺は小さな手を強く握り締めた。


「にいちゃん……?」

「大丈夫」


 何が大丈夫なのか、自分で言っていて分からない。

 でも握った手は離さなかった。


「大丈夫だから」

「……うん、大丈夫」


 安らいだ声。握り返す手。柔らかな暖かさ。

 くすぐったくなるような感覚に二人して小さく笑みを零す。


「あれ?」 


 一頻り元治さんと話して、少女はようやく俺達に気付いたらしい。

 こちらを見て、不思議そうな顔をしている。


「あの子たち、だれ?」

「道で拾った」


 事実ではある。しかし元治さんの返答はあまりに簡潔過ぎて寧ろ分かり難かった。

 少女も同じことを思ったようで、しきりに首を傾げている。


「今日から一緒に暮らすことになる」


 唐突すぎる発言に少女は面食らっていた。それはそうだ。いきなり見知らぬ相手と一緒に暮らせと言われて戸惑うなという方が無理だし、普通は嫌がる筈だ。


「ここで、暮らす?」

「ああ、こいつらをうちで引き取ろうと思う。いいか?」

「……うんっ!」


 嫌がる筈、そう思った。

 なのに少女は寧ろ嬉しそうに笑った。正直に言えば、俺の方こそ戸惑っている。元治さんといい、この少女といい、何故俺達を受け入れようとするのかが分からない。 


「あ、あの」


 戸惑い口ごもる俺の前に少女はてとてと歩いてきた。

 そして真っ直ぐに俺の目を見る。

 

「私の名前は白雪。あなたは?」

「じ、甚太……」


 同年代の可愛らしい女の子に見つめられて、妙に気恥ずかしくて、俺の顔はきっと赤くなっている。

 鈴音が俺の腕にしがみ付く。人見知りの激しい妹のことだ。白雪の態度に気後れしているのだろう。怯えるような震えが掌から伝わった。


「こんばんわ。あなたのお名前も教えて欲しいな」

「……鈴音」


 ぽつりと一言だけ返す。ちゃんとあいさつは出来ていないけれど、白雪はにこにこと笑っている。

 彼女は本当に俺達を歓迎してくれているのだ。


「これからよろしくね」


 差し出された手。やはり父娘は似るものなのか。

 その姿が雨の中で自分達に手を差し伸べてくれた元治さんに重なって、俺は少し吹き出した。


「どうしたの?」

「ははっ、ごめん、何でもないんだ。よろしく。白、雪…ちゃん……」

「ちゃんはいらないよ。だって……」


 たどたどしく名を呼べば少女は微かに頬を緩め、首を振ってそれを否定する。

 そして白雪は、幼い娘には似合わぬ優しげな笑みで言った。


「私達、これから家族になるんだから」


 多分俺は、その笑顔に見惚れていた。


 


 それが最初。

 柔らかく笑みを落す少女。家族になると言ってくれたことがどうしようもなく嬉しかった。

 その笑顔にどれだけ救われたことか、彼女はきっと知らないだろう。

 今も思い出す懐かしい景色。

 いつか、二人の少女の笑顔に救われた。

 何もかもを失って、小さなものを手に入れた、遠い雨の夜のこと。




 こうして俺達は元治さんの家で暮らすようになった。

 なんでも元治さんの奥さん……夜風さんは葛野の「おえらいさん」らしく、集落の長に俺達が葛野で生活できるよう取り計らってくれたらしい。

 でも俺はまだ会ったことがない。何故一緒に住んでいないのかと聞くと、元治さんは「あいつは仕事で社に住んでいる」と苦笑いしていた。本当はもう少し聞きたかったけど、白雪が悲しそうな顔をするから聞くのは止めた。

 

 ともかく江戸を離れた俺達は葛野で新しい生活を始めた。

 最初はおどおどしていた鈴音だが四年も経てば流石に慣れてきたようで、今では俺や白雪以外と一緒に遊んでいることもある。

 ちとせという、四歳か五歳くらいの女の子だ。鈴音はもう八歳になるけど見た目は幼いから、二人でいても全く違和感がなかった。

 そして俺はというと、


「くそっ」

「かっかっ、振り回すだけじゃ当たらねえぞ」


 がむしゃらに木刀を振るうが、元治さんは小さな動きでそれをいなしていく。


「甚太、がんばれっ」


 白雪は楽しそうに俺と元治さんの打ち合いを観戦している。いつも通り。ここで暮らすようになってから、毎日のように見られる光景だった。

 俺は葛野に来てから、元治さんに剣の稽古をつけて貰っていた。

 雨の夜、何もできなかった自分がいた。

 雨の夜、大切なものを手に入れた。

 いざという時に鈴音を、そして白雪を守ってやれる男になりたいと思った。我ながら子供じみた発想だ。だけど元治さんは笑ったりしなかった。それどころか毎朝俺の相手をしてくれている。


「ほら、しっかり!」


 白雪の声が聞こえる。朝が早いため鈴音はまだ寝ているが、白雪は毎日この稽古を眺め応援してくれていた。

 稽古とはいえ格好悪いところは見せたくない。気合を入れて打ち込んでいくが、元治さんは余裕の表情を崩さない。横薙ぎ、弾かれる。突き、体を捌く。袈裟掛け、半歩下がって避けられた。


「おう、中々鋭くなってきた」


 踏み込んで、渾身の振り下し。

 しかし木刀で俺の一撃の軌道をほんの少しだけ逸らし、


「だが振りが大きい」

「ぎゃっ!」


 返す刀で頭を叩かれる。手加減はしてくれたのだろうが、結構な衝撃が走った。

 思わず木刀を落し殴られた所に手を当てる。触った感じ、しっかりこぶになっていた。

 この通り、気合を入れた所で結果は同じ。今日も俺は敗戦の記録を更新したのだった。


「ふふ、残念だったね」


 白雪は満面の笑顔で近付いてくる。俺は落した木刀を拾い上げ、少し顔を背けた。

 いいところを見せようと気合入れたくせに、いとも簡単にやられたことが何となく気恥ずかしかった。


「やめろよ」

「いいからいいから」


 仏頂面で座り込む俺の頭を白雪が撫でる。

 俺の考えなんてお見通しらしい。白雪は強がりを見透かしてにやにやと笑っていた。


「大丈夫、お姉ちゃんが慰めてあげるからね」と、そんなことを言う彼女の口調は完全にからかいのそれである。

「何がお姉ちゃんだよ。俺より年下の癖に」

「私の方がしっかりしてるからお姉ちゃんなのっ」


 満面の笑みでそんなことを言われてはどう返していいのか分からなかった。

 溜息を吐きながらも黙って頭を撫でられる。気恥ずかしいのは変わらない、でも嬉しいと思った時点で俺の負けなんだろう。


「かっかっ、まだまだだな」


 その光景をいかにも微笑ましいといった表情で眺めながら元治さんが言った。


「元治さんが強すぎるんだよ」

「たりめぇだ。年季が違わぁな」


 涙目で睨み付けても木刀の峯で肩を叩きながら笑うだけ。この人は普段の態度からは想像もつかないが、葛野一の剣の使い手らしい。人は見かけによらないというやつである。


「そんな落ち込むな。ま、精進するこった」

「分かってるよ。……でもさ、俺、鍛錬を初めても全然変わらないし」


 強くなれない、ではなく変わらない。

 守れるように強くなりたいと思っても、現実には俺は何も変わらなくて。時々、自分は何をしているんだろうと考えてしまう。

 俺の内心の不安を悟ったのか、元治さんは普段は見せないような優しげな表情で言う。


「いいか、甚太。変わらないものなんてない。自分じゃそんな風には思えねぇかもしれんが、お前だって少しずつ変わってるんだ。だから腐るな。お前は強くなれる、俺が保証してやらぁ」

「……うん」 


 言われたからって何が変わる訳でもない、やっぱり何かが変わったようには思えない。

 でも少しだけ心は軽くなった気がした。


「と、そろそろ仕事に行かにゃならん。悪いがここまでだ」


 木刀を持ったまま俺達に背を向ける。

 稽古は元治さんが仕事に行くまでの間という約束。無理に引き留めることはできない。


「分かった。元治さん、今日もありがと」

「気にすんな。俺が好きでやってることだ」

「お父さん、いってらっしゃいっ」

「おーう、いい子にしてるんだぞ」


 そう言って振り返りもせず歩いていく元治さんは汗一つかいていない。俺程度じゃあの人を疲れさせることさえできていないということだ。

 左手は知らず知らずのうちに木刀を強く握り締めていた。実力に差があるのは分かっているけどやっぱり悔しいことには変わらない。


「なあ」

「なーに?」

「元治さんって何やってんの?」


 そう言えばあの人は葛野……製鉄の集落に住んでいるが、他の男達に交じってタタラ製鉄の作業をしている所なんて見たことがない。純粋に元治さんの職業が何なのか気になった。


「いつきひめの巫女守だよ」


 以前も聞いた言葉だった。

 しかしそれが何を意味するのかは全く分からない。


「お母さんはいつきひめなの」

「お母さんって、夜風さん……だったっけ?」

「うん、そう。お母さんは『マヒルさま』の巫女様なんだ」


 実際に会ったことはない。以前名前を聞いたことがあるだけだ。

 マヒルさまの巫女。その意味は聞いているけど、そっちもあんまりよく分かっていない。

 ただ、お母さんのことを口にした白雪は、遠くを眺めている。視線の先は集落の北側、小高い丘に建てられた社の方だ。


「あの社にいるのか?」

「……うん。いつきひめと会えるのは集落の長と巫女守だけなの。『いつきひめはそのしんせいさを保つためにぞくじんと交わってはならない』んだって。お父さんは巫女守だから毎日会えるけど、私はもう何年も会ってないなぁ」


 あはは、と軽く笑いながら、でも寂しげに目を伏せる。

 ちょっとした仕種に、なんで白雪が俺達を受け入れてくれたのか、分かった気がした。

 この四年間、白雪は一度も母と会っていない。きっと俺がこの家に来る前も同じなのだろう。

 巫女守というものがどういうものかは分からないが、父は仕事として母と毎日会い、自分だけが会えない。

 そんな日常に、白雪は仲間外れにされていると感じていたのかもしれない。

 そもそもまだ小さな女の子だ。母親に会えないことを寂しいと思わない訳がないのだ。

 だから家族が欲しかった。

 今になって初めて知る、俺を救ってくれた彼女の弱さ。


「あの、さ」


 気付いたら口はもう動いていた。


「俺は一緒だからな」

「え?」

「俺は、ずっと一緒にいるから」


 だから寂しくなんてない、とは言えなかった。母親と会えない寂しさを埋められる、そんなふうに思える程自惚れてはいない。

 でも傍にいたいと思った。出来ることなんてないけれど、せめて一緒に悲しんでやりたかった。


「なにそれ」


 くすりと笑う。

 馬鹿にした訳ではなく、思わず零れたといった様子だった。


「笑うなよ」

「だって」


 白雪はただ静かに笑っていた。顔が熱くなる。我ながら恥ずかしいことを言ってしまった。

 だけど撤回はしない。一度口にした言葉を嘘にするような真似は、もっと恥ずかしいと思った。


「甚太」


 ひとしきり笑い終えて、白雪が真っ直ぐに俺の目を見詰める。どきりと心臓が脈打つ。

 黒い透き通った瞳に心を見透かされたような気がした。


「ありがとね」


 軽い言葉、微かな笑み。儚げな白雪の佇まいは、揺らいで消えてしまいそうな淡い燈火を思わせた。

 普段は活発な印象を抱かせる白雪の見せた頼りない表情。何か言わないと。誘われるように俺は口を開き、


「なあ、白雪。俺……」

「にいちゃん?」

「うわっ!?」


 右目に包帯を巻いた、赤茶がかった髪をした少女。

 いつの間にか起きてきた鈴音に声を掛けられた。


「す、鈴音」

「おはよー、にいちゃん」


 にっこりと無邪気に笑う鈴音。

 危なかった。危うく妹の前で恥ずかしい台詞を吐くところだった。


「どうしたの?」


 白雪はにたにたと意地の悪い笑みを浮かべている。

 多分、俺が何を言おうとしていたのか分かっているのだろう。


「なんでもないっ!」


 恥ずかしさから語気が荒くなる。毎回毎回元治さんに負けている俺は、なんだかんだで白雪にも勝てないのだ。


「さ、すずちゃんも起きたし、ご飯食べたら遊びにいこっか?」


 こみ上げた笑いを殺しきれないまま白雪は鈴音に向き合った。

 にいちゃん、どうしたんだろ?

 顔を赤くして、ちょっと怒って。俺がなんでそんな表情をしているのか分からないみたいで、鈴音は人差し指を自分の唇に当てて考え込んでいる。

 その様子がおかしかったようで、白雪はますます笑っていた。


「いいからいいいから、まずはご飯食べよ」

「んー、うん!」

「食べたらみんなで遊ぼ?」

「どこか行くの?」

「今日は『いらずの森』まで行こっか?」


 わやわやと会話する二人は、容姿は似ていないが姉妹のように思えた。

 それが嬉しいようで、少し寂しくもある。寂しく思ったのがどちらの為かは分からないけれど。


「甚太もいいよね?」

「ちなみに駄目って言ったら?」

「え、連れてくよ?」


 端から俺の意見を聞く気はないらしい。

 まあ、いつものことだからいいけど。頷いて見せれば白雪と鈴音は示し合わせたように表情を綻ばせた。


「じゃ、行こ?」

「いこー」


 二人して手を差し出す。俺を救ってくれた二つの笑顔。伸ばされた二つの手。俺は木刀を持っているから片方の手しか取れなかった。

 だから自然と彼女の手を取る。握り締めた手は小さくて、暖かくて。

 離さないように、でも壊してしまわぬようほんの少しだけ力を込める。


「ああ、行こうか」


 俺も釣られて笑顔になって、三人で走る。

 いつもと何一つ変わらない、当たり前の朝だった。


 握った手の暖かさを知っていた。いつか離れると知らずにいた。

 まだ俺が甚太で、彼女が白雪で、鈴音が鈴音だった頃の話である。









 ……今も、思い出す。

 幼い頃、俺は元治さんに剣の稽古をつけて貰っていた。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかった。

 それを眺め、頑張れと応援する白雪。結局いつも俺が負けて、その度に慰めてくれた。

 稽古が終われば遊びに出かける。その頃には寝坊助な妹も起きて来て、今日は何して遊ぼうかなんて言いながら無邪気に駆け回る。

 俺達は、確かに本当の家族だった。


 けれど目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に消え去る。

 かつて当たり前に在った筈の日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。

 背は高くなり、声は低くなり、背負ったものが増えた分無邪気に駆け回ることも出来なくなって。

 いつまでも子供のままではいられないと、いつしか『俺』は『私』になった。

 しかし今も私は幼かった頃を、ぬるま湯に浸かるような幸福を時折、本当に時折だが思い出す。


 そして、ほんの少しだけ考えるのだ。


 差し出された二つの手、木刀を持ったままでは片方の手しか握れない。だから何も考えずに彼女の手を取った。選べる手は一つしかなかった。


 だが、もしもあの時に逆の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。


 或いは、もう少し違った今が在ったのではないか。

 不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き切って捨てる。

 選んだ道に後悔はあれど、今更生き方を曲げるなぞ認められぬ。

 ならばこそ夢想の答えに意味はなく、仮定は此処で棄却される。

 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残り。


 


 ぱちんと。

 みなわのひびははじけてきえた。




『みなわのひび』・了


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