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小説についてのエッセイ

「てにをは」だけで書ける小説(初心者向け)〜文章のリズムと発想法について〜

作者: napier

途中の議論が分かりにくいと思うのでよろしければ最後だけご覧ください。

声に出して読んでみて耳に心地よい文章を書くにはどうすればよいだろう?


言文一致を極端に押し進めてしまうラノベに顕著な方向とは別で、その可能性を小説の歴史を振り返りながら探るとともに、持続的に良い文章が思いつかなくていらいらしている、そんな君のために、日本語の基本的な特性に合わせて、超簡単に実践できる発想法てにをはを伝授するのが本稿である。


詩ではなくても文章は第一に音であって、目より想像より前に、声にならない声で黙読をされているのは知っての通り。


目と想像。


たとえばこうやって短い言葉で畳み掛ける方法には視覚的効果が期待できる。


目の前に次々と物体が迫ってくるようで、実に歯切れ良く、リアルな世界を描写できる。


それでも多用し過ぎれば、視覚のリアルさと引き換えに、思考の生々しさを失うことになるだろう。


そこで想像力にも目を転じてみる。


事物の描写ではなくて独自に感情と思考を述べる文章、抽象概念の妙があって読者に意味の解釈を求める文章、鬱蒼と茂る森のように入り組んだ世界観と謎多きキャラクターで読者をはぐらかすように展開される文章。


こうしたもので想像力のリアリティが与えられる。


しかし実際の文章では、それらが互いに絡まり合って、ひとつの作品を為す場合がほとんどだ。

また視覚によって想像力が喚起され、想像によって(心の)視覚が開かれる点でも両者の絡み合いを指摘できる。


そのことを承知でなお以下で大雑把に分類を行うなら、小説の伝統の上では、主観に重きを置いたロマン主義と、その反動として客観に重きを置いた自然主義を、それぞれ想像力と視覚に対応させて考えたい。


だがここでは、空想より現実を重視して自然主義に類すると考えられてきたリアリズムについての考え方を改めたいと思う。

たしかにリアリズムは写実主義とも言われて、視覚の客観性に、現代で小説が生き残るための突破口を見出した運動だと言ってよい。

けれども相対主義の極まれる現代においては、その視覚にも既に潜んでいる隠れた主観性があばかれて、もはや誰も客観的な正しさを自称することはできない。

リアリズムは現実らしさを名乗ることによって、かえってより強烈な空想とされるようになってしまった。


それでは主観的な想像力と、客観を僭称せんしょうしながら、その実は主観的とされた視覚が共に死んで、小説には後に何が残ったか?


ここで叙述上における小説の三要素を考えていただきたい。


どうだろうか?


想像による主観的な心理描写があって、視覚による自然・人物・状況等の客観的な描写がある。


あとひとつ加えるとしたら?


聴覚によるセリフ・会話文を挙げるのが妥当だろう。


もちろん嗅覚、味覚、触覚による自然・人物描写もありだが、優先度は格段に落ちる。


いまセリフを聴覚と対応させたが、それが刺激するのは聴覚だけではない。

①言葉そのものが関与しうるのは想像力と五感(直接的な知覚ではなく、過去に知覚した記憶だが)のすべてである。


②また心理描写と自然・人物描写が物語の語り手や作中の主人公の主観に基づいて行われるのに対して、作中でセリフが発せられ、会話が交わされたことだけはほとんど唯一のリアルであり得る。(あくまで物語の次元ではあるが)


この二つの驚くべき事実は読者によってよくよく内省されたい。


このことは現代のリアリズムでセリフを最重要の要素とするのに十分ではないだろうか?




小説の歴史に絡めて長々と考察してきて、ここでやっと本題に戻って、読みやすい文章と発想法とが、日本語に即して密接に関わることを説明できるようになった。


とは言っても、結論はひとつではないし、十分に説明できるものでもない。


ここで提示する結論は、かつて小説が生まれるまでうたであった言葉には魂が宿っていた、というものだ。


それは、小説によって語りが主観と客観に分かれ、事物の冷静な観察者が生まれるまで、言霊の帝国が存在したを示している。


その帝国で声に出して読んで耳に心地よい詩歌のみが日本語として堆積され、ついには美しさと記憶されやすさを兼ね揃えた文法が現代に残るに至っているのである。


だからわれわれは日本語の見えない底力を信頼しなければならない。


だがしかしそもそも現代日本語と過去の日本語は、数百年規模で様変わりしてきているのに、いったい何を信頼するのかと賢明な読者は疑問に思われたことだろう。


だけど心配は無用である。


ずっと変わらないもの、あるいは変わることの少なかったものを答えとして用意してある。


それは助詞の用法である。


らしてきた割にこのことはよく知られている答えだと思う。


そして助詞のなかでも発想法として、ここに改めて提案をするのが「てにをは」だ。


「てにをは」のそれぞれの母音は「て」E「に」I「を」O「は」Aで、Uの音は動詞の語尾で必出するので、これらの頻出助詞を定期的に文中に忍ばせるよう意識をすると、少なくとも文章の平板さは免れられるだろう。

たとえば以下の文章ではその要件は満たされていた。(が、お気付きのようにあまり良いリズムでなく、発想法として役に立ったのみだ)


「声に出して読んでみ「て」耳「に」心地よい文章「を」書くに「は」どうすればよいだろ「う」?」


一定の形式にのっとって和歌・俳句みたいに文章をつむぐのも面白い経験である。

形式なき自由はときに「自由からの逃走」としての不自由を帰結するし、たとえば若くして自由に詩を書き、後に定型詩の面白さに目覚めた荻原朔太郎などの例は少なくない。

変則はかなり多いもののここでも半分以上の文章で実はそれが意識されている。


書きたい文章が頭に浮かばなく「て」、もやもやした時間を過ごしている折「に」、この方法「を」試すなら「ば」、きっと良いトレーニングになるだろ「う」。

あと一文のなかで文頭ほど意味の塊を長く、文末ほど意味の塊を短くすると読みやすいので、一度書いてから並べ替えてみる習慣を付けるのも有効です。


「声に出して読んでみ「て」耳「に」心地よい文章「を」書くに「は」どうすればよいだろ「う」?」


この文章のまどろっこさは主に文末の「どうすればよいだろう」に由来すると思われないでしょうか?


だから文末を短いものにするためにまずこう書き換えてみます。


「どうすれば声に出して読んでみ「て」耳「に」心地よい文章「を」書けるだろう?」


これを読んでみて文法的には正しくても「を」の音が気にならないでしょうか?


この「を」を「が」に換えた方が締まりが出ます。


「どうすれば声に出して読んでみ「て」耳「に」心地よい文章「が」書けるだろう?」


これには発声上の理由が付けられて、発声に要する口の大きさがAEでは大きく、IOUでは小さいので別グループに分けられます。

上記の文章では、発声されやすい「て」Eと「が」A(しかも濁音)が、音声上の区切りを作るとともに、意味上の区切りにもなるので、リズムの良い文章になるわけです。(IOUをひとまとめにしましたが、IはOUともちょっと違って、一応区切りを作ることは出来ます。ですが「読み」I「読んでみ」Iよりも、「読んで」E「読んでみて」Eの方が区切る力が強いのは明らかです。)

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