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そのとき。(7)

 お帰り、と彼女は言った。

 ただいま、と僕は言った。


 フードコートへと戻る間、なんでこうなったんだという混乱と、気持ちを改めた所へ邪魔をされたという我が儘な苛立ちがあった。

 最近新装したフードコートの、清潔感のあるシンプルなイスに腰掛け、愛用のブックカバーをかけた小説を彼女は読んでいた。当たり前だが、僕が席を立つまでと変わらぬ場所にいた。

 ブックカバーには黒い猫のシルエットが描かれている。可愛らしいが、大人っぽくて落ち着いた色合いの物だ。派手さのない落ち着いた小里の雰囲気をよく顕している。


「待たせてごめん」


「うん、いいよ」


 言い訳などなくただ謝った僕を、目線を手許から上げた彼女はただ許した。理由を問うことはなかった。


「『お前はいつだってそうだからな』」


 ふと思いついたようにして、小里は声音を変えて続けた。普段の素直な調子の声とは違った、繕った低さの声だ。

 彼女の言葉の意味はすぐに分かった。彼女のそれは、台詞の引用で、恐らく今彼女が読んでいる小説の、主人公のものだ。

 それに返す台詞は、意外とすんなり浮かび上がった。彼女への返答は、主人公の親友の台詞だ。


「『理解のいい友人を持って、嬉しく思うよ』」


 彼女と目が合って、互いにニヤリと笑う。望み通りのものが返せたようで安心感を覚える。


「ちなみに、なっちゃんがよそで油を売っている最中にカルヴァンは死んでしまいました」


 油を売っていた、と言われて、心拍があがる。

 白沢との一部始終を見透かされていたのかと思い違った。

 しかし、そんな僕の心配には目もくれず、閉じた小説を見せつけながら、彼女は言った。前の巻との繋がりが全く分からないネタバレだった。なぜそんな展開になったのか。

 さておきこの小里、実は結構怒っているようだ。


「どういう事だよ、詳しく……聞けないや」


 でもめちゃくちゃ気になる。そのカルヴァンという名の登場人物が死ぬような状況が全く想像できない。

 席につくと、向かいの彼女は満足げに笑った。


「まあまだ私も全部読んでないけどね。だから詳しいことは分かんないよ」


 ちょうど、僕が戻ったタイミングで彼は死んでしまったらしい。


「ならいいや、とはならないけど。それ、つまりかなり序盤の話ってことじゃん」


「あ、分かった?さすがなっちゃん」


「前の巻からして相当なネタバレなんですけど、それ」


「うん。そうだね」


 やはり相当怒っている。しかし、そんな風に“仕返し”をされていることも、悪い気はせずむしろ楽しかった。普段通りな調子で話せることが、動揺からの救いでもあった。

 話の中心がその物語に移り、僕らはどれくらいかその話題で盛り上がっていた。


「ね、今からどうする?どこ行こうか」


 どこかで話が落ち着いたときに、全く普段通りの調子で彼女がそう訪ねるものだから、僕はまるで何もかもが許されたような気分になる。


「言っても行けるところなんて限られてるんだよな。小里はどこかないの?」


 悩む間を置いて、結局聞き返してしまう。


「うーん」


 僕が唸ったように彼女も唸る。田舎の町などとなると、本当に行けることができる場所は少ない。ゲームセンターのような場所ならあるけれど、僕らはそういう場所が好きではなかった。本屋なら2人で行くことがあるが、今日はもう行った後だ。行くことができる場所は、本当に限られている。


「なら、海に行こう」


 思いもしない回答が帰ってきて僕は驚く。


「いいよ、行こう」


 何でまた、とは思ったが、ここから海はそう遠くない。歩いて半時間も要らない。その程度を歩くことは日常的なことで、僕は彼女に同意した。






 ◇






 雨を降らすことはないだろうただ空を覆い尽くすばかりの高層雲の下、三月の乗ってきていた自転車に二人乗りして、海岸へ向かう緩い坂道を降っていく、そんな風景も思い浮かべたが、僕らはそんなタチではなかったし、関係でもなかった。そもそも小里自身も自転車に乗ってきていた。

 ショッピングセンターを後にして、僕らは時折強い風の吹く国道沿いを歩いた。休日の夕方で、車通りはそこそこ。小説や漫画の話や、ペットの様子のような他愛のない話を、車の走っていく音を背景に続けた。

 二人とも自転車を押していた。乗れば海までへは半分より短い時間で着けることを彼女も知っていたはずだったが、僕らは自然と自転車を押して歩くことを選んでいた。

 国道を渡る横断歩道の、点滅する信号の下を駆け抜けて僕らは喧噪から遠ざかる。古めな家が並ぶ細い静かな路地に入ると、僕らはほとんど二人っきりだった。

 寒い風の吹く三月の昼下がりに、わざわざ出歩き海へ行くようなのは、物好きのすることなのかも知れない。誰も居ないねと彼女が呟いたので、僕はそんな事を返した。

 自然とそうやって話ができることはいつでも当たり前のようにあって、それは心地よく楽しい。そして今までずっとこうして喋ることが当然のことであった。

 進学すれば、四月からは、この景色は当然のものとは言えなくなってしまう。僕の合格した高校と彼女の合格した高校は、電車でふた駅ほどの距離があった。

 この先僕らの間に入り込んでくるであろう物理的な距離を、僕は恐れていた。『こうやって貸し借りするのも、できなくなっちゃうね』と言った彼女の言葉がずっと引っかかっていたことに、僕はそのときようやく気付いた。

 彼女はどんどんと遠ざかってしまう。


「なっちゃん、歩くの早くない?」


 困ったように彼女が言った。

 気付けば数歩分くらいの距離ができていた。その時には何となく会話もなく、二人して無言で歩いていた。


「あ……ごめん、気をつけるよ」


「気をつけると言っても、着いちゃったけどね」


 彼女の少し棘を含んだ言い方に、自分の迂闊さを呪う。

 そんな僕を追い抜いて彼女は、堤防の上の道への短い坂を駆け上がった。小里はそこで、やっとこちらを振り返った。小走りで彼女の居る場所に追いつく。あと数歩のところで、軽快にクラクションが鳴った。

 二人が道の両端へ分かれ、その間を車が走り抜けていった。風に髪を揺らしながら、彼女は海の方へと向き直る。

 唐突な話だが、小里琴子という少女は派手な顔立ちではない。整ってはいるが目立ちはしない。彼女自身の纏う落ち着いた雰囲気も合わさってのことでもある。

 この唐突は、堤防の上で、寒い風に泡立つ海を背にした彼女の儚げな雰囲気の所為であった。どこか不安げで、不満げで、悲しそうにも不機嫌そうにも伏せられた睫毛と、それにかかる前髪。そして僅か上向きに引き結ばれた唇。

 落ち着いていても普段は朗らかな彼女の、そういう危うげ表情にも惹かれたのだろう。逆に、そういう表情ができるのに穏やかで朗らかな所を好いたのかもしれない。


「最近さぁ、なっちゃんが上の空ばっかりで寂しいなぁ」


 そう曰って彼女は、道路から少し高くなった海側の天端を歩き始める。


「……ごめん」


「もー、さっきから謝るの何回目?」


 隣を歩く、少し高いところから、呆れ笑いが聞こえた。


「十回くらい謝ってるよね、今日」


「いや、そんなには言ってないと思う……」


「ずいぶんと弱気なことっ」


 僕が自信なくそう言ったのを、彼女は変わらず笑って聞いていた。伺い見た彼女は、海から吹く風に目を細める。

 それから幾らか歩いた頃、僕らが波の音を存分に堪能して、ちょうど車が一台と自転車に二人乗りをするカップルが一組通り過ぎた辺りで、小里が居心地悪そうに話し出した。


「なっちゃんがなっちゃんらしからぬ様子で、私は少し心配しています」


 立ち止まり返り見ると、困り気な笑顔がこちらを見ていた。振り返った事で、僕は彼女のほんの少し前を歩いていた事を知った。


「私の知っているいつもの夏生君ではないようで、調子も狂うし不安にもなります」


 何かあったのなら、少しくらい言ってくれたっていいのにと彼女は口を尖らせていた。一方で僕は、「夏生君」といういつもと違う呼ばれ方にどきりとさせられていた。


「……ほら、友達なんだからさ。やっぱり、悩んでるんなら力になりたいと思う訳ですよ」


 友達、というフレーズに先とは別の意味で胸が苦しくなる。その言葉は確実な線引きで、僕らの関係性を明白にするもので、僕の希望を軽く捻り潰すものであった。彼女がいったいどれくらいの気持ちをその単語に込めたのかは分からないが、そんな事をも推し量る余裕はすでに持ち合わせてはいなかった。


「ねぇ、小里」


「なに?」


「僕らはやっぱり友達なのかな」


 どんよりとした空はそのままで、しかし西の山際の雲間から薄く染まり始めた空が僅かに覗いていた。


「今まで友達じゃなかったんだったら、私結構ショックなんだけどなぁ。というか私の友達って概念が大変なことになるよ」


 小里は驚いていた。 そして、今日何度目かも分からない困った風の笑顔を僕に向けていた。

 友達でいられると嬉しいな、と松木は井土に言ったそうだ。井土が踏み込んだところで、彼らはそれ以上に進めなかった。

 僕らはどうなのだろうか。僕らも友達以上にはなれないのだろうか。


「僕らも友達で終わるのかな」


「それは、どういう意味?」


 風は相変わらず吹いていて、彼女の髪を乱し、しかめさせ、僕の問いからその表情を匿う。絶え間なく波の音だけが聞こえていた。


「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれた方が嬉しいかな」


 言い淀んだ自分がいて、その態度を訝しむ彼女がいた。

 しかし、我が儘に振る舞う髪を撫で付ける姿に垣間見えた小里は、はにかむようにして笑みを浮かべていた。僕の思い違いでなければ。その声音は決して、ただの怪訝なものではなかった。そう感じ取ったがゆえに、僕は切り出した。まとまったばかりの思考を、理解したばかりの感情を。


「……な、僕ら、付き合わない?」


 上ずりもせず、噛みもせず、その言葉は何気ない会話のように発せられて、至って普通に転がりでた。

 しかし、「好きだ」という言葉は伝えられなかった。



 僕と彼女のそのときは、思い返せば実に無様であった。

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