そのとき。(3)
メールの着信に気づいたのは、カラオケから帰ってきて少し遅くなった夕飯と風呂を済ませ、まだ湿ったままの髪で自室のベッドに倒れ込んだ時だった。
ディスプレイに表示されるのは、『着信 2件』の文字。
『がっきー先輩!土曜にOB戦やりますよ!来ますよね!?』
「その呼び方はやめろっつの」
色鮮やかでよく動くハイテンションな1通目は、バスケ部の後輩、笹本だった。掲げた画面の文に意味のないツッコミをいれる。
『次の土曜日、お昼からどこか遊びに行きませんか?』
丁寧な文体の、色のない2通目は小里だった。
予定が被ったと唸っていると、続けに後輩からメールが送られてきた。
『先輩ごめん!詳細です!OB戦は午前中で その後みんなで飯行って解散です 明日白沢が予約いれてくれるって言うんでなるべく今日中に返事ください 昼は藤瑞センターの横の丸の内です』
つまり、午前はOB戦に出て、バスケ部と昼を食べた後で小里と合流すれば、なんの問題もないだろう。
後輩には短い快諾を送り、小里にはOB戦の後でという旨を伝える。
『午前中はOB戦があって、その後丸の内でバスケ部と昼食べるから、できるなら藤瑞センターの南ホールで会おう その後は小里の希望に沿うよ』
藤瑞センターというのは、僕が通っていた栂原中から歩いて20分ほどの所にある大きなショッピングセンターのことだ。所在の藤瑞という地名とセンターをひっつけて、本来の横文字並ぶおしゃれな名前からは遠く離れた親しみある愛称で呼ばれる。
丸の内は、その藤瑞センターの隣、センターができる以前からあったお好み焼き屋だ。栂原中バスケ部には、馴染みの店である。
『終わるのは何時頃?あと、藤瑞センターだったら、南ホールじゃなくて2階の本屋でもいい?』
『終わりはだいたい、2時くらいかな それなら、2時過ぎに本屋で』
そこから何通か遣り取りをし、『おやすみ』と打ったメールを送信する。『sending』の文字が画面の中でくるくる回り、消えたのを見届けて携帯を閉じ、毛布をかぶる。
『それじゃあ、土曜に。おやすみ』と小里から返事が返ってきたのを見届け、僕は眠った。
◇
土曜日の朝は晴れでも雨でもなく、空一面を白い雲が覆っていた。どんよりとはしていないが晴天の清々しさも全くなく、いい天気と悪い天気のまさに中間とも言えそうな空模様だった。
「お久しぶりです。宇垣先輩」
既にドリブルの音がしているアリーナの、その正面扉の前。
「鹿川でしたっけ。合格おめでとうございます」
「久しぶり。ああ、ありがとう」
淡い色のタオルを首からぶら下げる、赤いバスケットシューズと短い髪の少女は、白沢瞳という。
溌剌として可愛らしい容姿も然る事ながら、成績優秀で人格者。教員、友人、ご近所さんとどれをとっても好評価でクラス委員等もよく任され、果てはこうして栂原中学女子バスケ部の新部長を務めることとなった。
「ずいぶんおしゃれですけど、この後デートでもするんですか?」
スニーカーの靴紐を解く僕の背中を冷たい言葉がなぞる。触れるどころか爪すら掠らない距離で、触診されて腹の内を暴き出されそうな調子で。
「いや、別にそんなんじゃない」
ただ、人と会うだけだと、そう付け加える。会うだけだ、と。
「それに、いつもこんな感じだったはずなんだけど」
パーカーに、カーゴパンツ、スニーカー。2年にあがる寸前に買ったチームジャージに去年の今頃膝に大きな穴を空けてしまって以来、遠征や大会の時には何度となく用いた組み合わせだ。
「部活の時には見たことのないパーカーですけどね」
「この前買ったばっかりなんだよ」
挑発するような口調の白沢だったが、それ以上は何も言わなかった。なぜか責められている気がする。
靴を下駄箱に入れて向き直っても彼女は口を開かない。僕からやや目を逸らしたまま、そこに突っ立っている。
「うおお!先輩きたーー!」
代わりにアリーナの扉を勢いよく開け放って、小柄で騒がしい少年が現れる。笹本だ。
「遅いっすよがっきー先輩!」
「その呼び方はやめ──」
白沢と僕を遮るように、白沢から僕を引き離すように、笹本は僕の腕を掴んで更衣室の方へと引っ張る。
そのまままっすぐ廊下を進み威勢良く開かれた白い開き戸から更衣室に転がり込んで、やっと笹本は止まった。
「先輩、アップ終わったら一対一やりましょ!」
いや、止まってはいなかったようだ。
落ちていたボールでハンドリングを始めながら、笹本は僕に着替えを急かす。
「……わかったよ」
この底抜けに明るい後輩は、僕にやたらとかまいたがる。もともと人懐っこいから誰にだってひっついていくのだけど、傍から見れば宇垣と笹本でセット扱いという印象が強いとの声が多く聞かれた。松木のかけ算のネタにもされたっけか。
嬉々として、爛々と眼を輝かせて、やたらと早口に語った松木を思いだし、寒気が背中を駆け抜ける。
「どうかしました?」
「大丈夫、何もない」
着替えの仕上げにバッシュの紐を結んで立ち上がった。
「ついでだからアップにもつき合えよ」
笹本の元気すぎる快諾を背に、卒業式以来の体育館へと足を踏み入れる。
バラバラと続く足音、シューズとフロアが擦れ合う音、ドリブル音、あと笑い声や呼び合う声。半年、それ以上振りの音が、広いアリーナに溢れかえっていた。
「おはようございます!」
コート脇で休憩していた2年生らから、挨拶が連鎖していく。手前と奥の2コートある内の、奥のコートを使っていた僕の同期達にもそれは広がっていった。
「うーっす」
「久しぶりぃ」
「もう笹本に見つかってたのか」
それぞれストレッチをしていたり、1on1を始めていたり。男女どちらも6人だった僕らの世代だが、来ているのはまだ男女とも半数ほどのようだ。あとはひとつやふたつ上の先輩がちらほらと。
「村野は下宿の準備、木島はデートだってさ」
だから来ないと投げやりな調子で教えてくれたのは、男子の元部長の勢多。1on1の途中だったようだ。
「いーよなー、デートだってさ!デートだってさ!」
言いながら、嘆きながら、重いパワードリブル。ディフェンスをしていたのは僕らのひとつ上の、安田先輩。170を越える身長の勢多に、150半ばの背の安田先輩はゴール下へぐいっと押し込まれる。というか吹っ飛ばされている。そして転けた。
「勢多、それは、しない約束……」
「安田先輩の彼女の写真思い出したら、つい」
座り込んだままげんなりとしている先輩に、悪びれもせず笑顔の勢多。
「せっちゃん先輩、がっきー先輩の今日の私服、いつもよりオシャレでしたよ」
隣で後輩が油を注ぐと、勢多の顔が勝手に全てを悟ったようなものになった。なんで笹本もそれを言うんだ。
「宇垣、やるか?」
「十分足りてる」
付きまとおうとする勢多を無視して、ストレッチを始める。早々に諦めた勢多は、手持ち無沙汰そうな何人かを捕まえて今度は2on2をしだした。
「半年振りだから、ちょっとは手加減してほしいんだけど」
「がんばります」
隣でハンドリングを続けていた笹本は、へらへらっと笑ってみせた。
サイドラインを軽く走って、ようやくボールを手にする。久々の感触だ。
「ぜんぜん調子落ちてないじゃないですか」
「そんな訳あるか」
試しに誰も使っていないゴールに向けてシュートを打つ。
姿勢は意外と、思い通りのものとなる。そして滑らかな軌跡を描いたボールは、そのまま綺麗にゴールを通り抜けた。
「やっぱり」
「どう考えてもマグレだ」
またまたー、とリズムよく赤い球を弾ませながら笹本は笑う。
「ほら、じゃあやりましょうよ」
まずは先輩から、とボールが投げて寄越された。同時に笹本のディフェンスが迫る。
左へのドライヴは潰され、数歩下がってから右に左にと振り回す。しばらく履いていなかったシューズはしっかりとフロアに食らいついてくれている。しかし目の前のディフェンスも、僕に食らいついて離れない。
結局、無理矢理気味にドライヴしていこうとしたところでドリブルを攫われた。
攻守を交替し、ディフェンスにまわる。
何度かの読み合いは辛うじて押さえれたものの、フェイントを食らって抜き去られた。足がついていけていない辺り、ブランクが効いているようだ。
「あれ、抜けちゃった」
拍子抜けした風な笹本の表情。
「落ちた体力は取り戻せないからな」
転がってきたボールを拾い上げ、笹本に投げる。
3本、4本と交替しながら続く1on1。
左右に振って、交わして、緩急をつけて、笹本に隙を作り、ゴールを狙う。
数本繰り返して、結果は五分といったところだった。受験勉強でほとんど動いていなかった分、体力の上限はいくらか下がっているようだ。それでも体を動かし始めれば、多少なりと覚えているものだった。
「三年も温まったかー?そろそろ始めんぞー」
よく通る顧問の声が、体育館に響きわたった。彼は今年は2年生の担任と英語のクラスを任されていたから、それは夏以来聞いていなかった、とても懐かしい声だった。