白沢瞳のそのとき
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居辛かった。
彼は何も悪くない。しかし居辛かった。
白沢瞳はため息を吐く。
居辛かった。
笹本耕也は何も悪くない。しかし居辛かった。
年が明ける前までは何ともなかった。楽しい部活、仲のいい同期たちだった。
笹本耕也は悪くないが、それでも彼女は彼を呪わずにいられなかった。ある程度は理不尽だと分かっていても。
『でも、白沢が好きなんだ』
どうしようもできない、どうにもなれない。
お調子者で、部のムードメーカー。最近は成績も平均以上をキープし始めている。背はそれほどだが、人懐っこい童顔はませた女子らの母性をくすぐるらしい。部の内外問わず確かな人気がある。
そんな笹本耕也から、3学期が始まった頃に呼び出された。3階渡り廊下は、栂原中の告白スポットベスト3の一角を担っている。そこに呼び出された時点で見当は付いていた。
「白沢が夏生先輩を好きなのは知ってる。それを分かってる上で言ってる」
そして、この告白に対する答えは、最初から決まっていた。
「好きです。付き合ってください」
「私は、笹本くんとは付き合えません」
ごめんなさい、と視線は下がった。
笹本は笑ったと思う。
彼はお調子者だけど頼りがいがあって、皆の中心にいた。
“そういう話”が好きなお年頃の少年少女らが集まる場所にして、彼のこの話がこちらまでそれとなくとも伝わってこなかったのは、偏に彼が周囲に話をしなかったことだろう。彼の周りにいる人間を観れば、そんな話が漏れていてこちらまで伝わってこないことの方が難しい。何となくとは思っていたが、普段はふざけていても肝心なところでは笹本は真面目になろうとしていた。その肝心なところには、おそらく恋愛の諸々も含まれている。
彼の恋人になる女性は、恐らく幸せである。
高い評価と実際の関係はしかし必ずしも結びつかない。
「ダメかー」
笹本耕也は、そう笑った。
白沢瞳は、未だ宇垣夏生のことを見ていた。
彼女の居辛さは、単純に気まずさから来ていた。笹本耕也はやはり真面目なのだろう。そう言った類の話は一切漏らさなかった。漏れていれば、白沢瞳といえどもある程度目の敵にされることは免れ得ない。
それだけならまだ良かったのだが、ここにきて何故か、部内にて男女のバスケ部部長同士、笹本と白沢をくっつけようとさせるような空気が滲み出てきていた。とんだ節介者か、愉快犯がいたものだと白沢は顔を知る知らない誰かを呪った。
気付けば2人きりにされていることが多くなった。今日の席も、部長だからと隣同士で座らされた。迷惑甚だしくも、彼女はただ好奇心と偽善と自己満足の犠牲となった。笹本は、ごめんねと困惑の滲む笑顔を見せた。
そんな中で、宇垣夏生という男1人だけが、全く違う方向を見ていた。白沢には目もくれず、別の物を、というより別の人を見ていた。
遡れば去年のことだ。
4月か5月かちょうどクラス替えが終わった時期で、宇垣夏生に僅かな変化が顕れた。確信は8月に訪れた。異性など感じさせなかったただの中学生が、下手なりにも色めくような雰囲気をまとわせていた。そして確信は現実となる。8月も終わりの夏祭りで、彼は同じクラスの女子と歩いていた。2人とも私服姿ではあったが、今にも手を繋がんとするような距離感に、白沢は目を背けた。見ていて気分の良いものではなかった。
小里琴子という夏生の同級生の少女を知ったのは、それから1ヶ月ほど後のことであった。
髪の色はやや明るいが別に素行は悪くなく交友関係も地味そうでインドア系、遊び慣れてはいないと分かるような人だった。そして確か美術部に入っていた。笑顔よりも、真剣な顔が映えるタイプであるとも思った。大会帰りの電車で盗み聞いた夏生の好みのタイプとは、あまり当てはまらないタイプだと思ってもいた。
夏生がご執心なのは、白沢から見てそんな人だった。
逃げ出したも同然だった。それだけ耐えられなかった空気だったのだ。
なるべく真っ直ぐ帰ろうとして、しかし、見つけてしまった。昼食後、早々に姿を眩ませた宇垣夏生を、ショッピングセンターの中、エスカレーター脇にあった自販機の前に。
そもそもなぜ彼にだけ他と態度が違うのかという話は、しかし実のところ他にとる態度が彼にとる態度と違うという話である。白沢瞳という人格の真実は、無愛想で偏屈。今の白沢瞳は、大いに砕け、傷付いた上に在る。その過去を覆い隠し完璧に偽った自分を何気無く突き壊した男が、宇垣夏生だった。彼は、彼女のプライドを踏み荒らしておきながら、自分が何をやったのか気付いていない憐れな少年であった。くだらない一言を発端に容赦の無い敵意を向けられているくらいにしか、この関係性を考えていないだろう。
可愛げもなく人嫌いな本性を見透かされた恐怖と、暴かれて感じた羞恥心が彼女に宇垣夏生を焼き刻んだ。それはもう強烈に。そんなことが、彼女の歪な青春感情の始まりであった。
だから、彼の背中を見つけたときには吸い寄せられるように近付いていっても、振り向いた彼には素の自分が顕れてしまう。そして彼は、それが白沢瞳の真相であることを知らない。憐れなのは果たしてどちらなのだろうかと、白沢瞳は泣きたくなる。
「何の用?」
答えなかった。用があったわけではない。用がなければ受け入れてもらえないのか。私はそうなのだろう、知ってはいた。それだけ距離を置かれている。でもきっと、あの人なら用なんてなくても受け入れてもらえるんだろう。
呆れた声が尋ねた。
「そういえば、白沢もカラオケ行ったんじゃなかったのか」
答えられなかった。この人はすぐ消えてしまったから、その後のことは知らない。建前では「部長がいないと」と言った、心底残念そうにするお節介焼きをなんとか煙に巻いて出てきたのだ。なぜこういう時にばかり人は団結して積極的になるんだ。偽善どころではない、ただの迷惑だ。
「分かったよ」
呆れに怒りか苛立ちが滲んでいることは分かったが、そこから彼が続けた言葉はほとんど聞いていなかった。
何とか抜け出して、そしたら偶然見つけて、彼はこんなとこでいったい何をしているのだろうか。
「もう行くわ、人待たせてるから」
「小里さんですか」
薄々勘付いてはいた。
しかし口を開けば声は思ってもいない、しかし正しく自分を表した調子で発せられ、彼は顔をしかめる。自分で聞いてもよく分かる。それくらいに攻撃的だった。そのしかめた顔は、私だって自分に向けたいのだ。
そうじゃない、焦りと混乱が混ざって飛び出した質問は彼の逆鱗に触れたも同然のものだったと同時に、返ってきたものは彼が彼女と一緒にいるという、ほとんど証拠に等しい反応でもあった。
去ろうと過ぎる彼の腕を掴んでいた。太くはないが、男性らしさを感じさせる、思っていた以上にたくましい腕だった。
「は?だったら何?」
「デートですか」
「違うんじゃない?そもそも白沢には関係ないよ」
「デートじゃないなら私が今から着いていってもいいですよね」
「何でそうなる」
「私が先輩のことを好きだからです」
「ああそう、でもそれは関係ないよ」
部活を始めたばかりの頃、ボールを顔に受けたことがある。一つ上の先輩が投げたボールが、運悪く直撃したのだ。その時の感覚に近いものが、彼女にはあった。
顔を打たれたような感覚、痛みはすぐにこない。混乱で感覚が麻痺し、少し遅れて痛みがやってくる。
手が出なかったのは不思議であったが、しかし一刻も早くその場を去りたかったからだと考えれば納得もいく。
そのときが、恐らく白沢瞳の初恋の終わりだった。
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